押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第405話 もう帰りましょう

 

 買付帳を閉じると、澪は窓の外へ目を向けた。

 

 さっきまで橙色だったガラスが黒くなり、向こうの通りより、卓を囲む5人の顔の方がよく見える。

 

「食べに行きましょうか。今日も、あの酒場でいいですか?」

 

「いいニャ」

 

 レイニャはすぐに手琴を取り上げた。

 

 澪は受付で、今夜の部屋も改めて頼んだ。

 

 朝に返した鍵とは別に、昨夜と同じ3室の部屋割りを確認し、小サロンの荷を片付けてから外套を着る。

 

 玄関の扉を抜けると、首元へ冷たい空気が入った。

 

 日中に乾いた石畳も、溝のそばには水が残っている。

 

 ランプを映す低い所を避けると、レイニャも長靴の先を向け直した。

 

 酒場へ近づくにつれ、戸の隙間から人の声が漏れてきた。

 

 扉を開けた途端、焼いた肉の匂いと、暖炉の熱が顔へ届く。

 

 澪の後ろでニャニャミが戸を押さえ、理央が入る場所を空けた。

 

 入口近くまで席が埋まっていて、濡れた外套が椅子の背から何枚も下がっている。

 

 給仕が両手へ木杯を抱え、客の肩の間を通り抜けていった。

 

「昨日の猫の嬢ちゃんだ」

 

 まだ席を探す前に、暖炉の近くから声がした。

 

「猫じゃなくてケット・シーニャ」

 

 レイニャが返すと、別の卓でも客が顔を上げた。

 

「今日は歌わないのか?」

 

「ご飯を食べに来たニャ」

 

「昨日の、あの歌を頼むよ」

 

 手を振る人が増え、レイニャの耳が立った。

 

 澪はその横で、理央が外套を脱ぐのを手伝った。

 

 理央は椅子へ座ると息を吐き、昼間ずっと抱えていたノートを鞄へ入れる。

 

 真壁が5人分の食事を頼み、酒と、それを飲まない理央の水を分けて注文した。

 

 レイニャは手琴の紐を直して椅子へ座り、長靴の爪先をそろえた。

 

「……1曲だけニャ」

 

 澪は笑いそうになったが、声にはしなかった。

 

 手琴を抱く手の方が、返事より早かった。

 

 最初の弦が鳴ると、隣の卓の声が小さくなった。

 

 その向こうではまだ話していた客も、歌が始まってから杯を置く。

 

 暖炉の光が、短い三毛の毛並みを照らし、レイニャのひげの先へ細く光った。

 

 客の手拍子が加わると、彼女は弦を弾く速さを少し変えた。

 

 声を張っていた客まで、その拍子へ手を合わせ始める。

 

 1曲が終わると、拍手の中から次の曲を求める声が出た。

 

 店主が卓の脇を空け、そこなら給仕が通れると示す。

 

 レイニャは澪たちの席を一度見たが、次の声に耳を向けてから、その場所へ移った。

 

「ご飯、冷めちゃいますね」

 

 理央が運ばれてきた皿を見た。

 

「今、止まらないと思います」

 

 澪が答える間に、レイニャは2曲目を始めた。

 

 卓の端へ、客が銅貨を置いた。

 

 次の曲の前には銀貨も触れ、店主が小さな籠を出すと、その中へ硬貨が落ち始める。

 

 ニャニャミは最初の数枚へ目を留めたが、数えかける度に新しい硬貨が入った。

 

「終わってからにするニャ」

 

 白い手が籠から離れ、代わりにレイニャの食事へ布をかぶせた。

 

 戸が開き、外の冷気が一筋入る。

 

 歌を聞いて入ってきたらしい客が入口で立ち止まり、給仕に場所を尋ねた。

 

 曇った窓の向こうの明かりはぼやけていたが、店内では誰の目がどちらを向いているか、澪にもよく分かった。

 

 レイニャは3曲目の終わりに、まだ歌いたい顔で客を見渡した。

 

 澪は覆っておいた皿を見て、杯の縁に触れた指を離す。

 

 1曲だけ、と言った口で、彼女は次の歌の出だしを口ずさんでいた。

 

 

 

 レイニャが席へ戻った時には、籠の底は見えなくなっていた。

 

 店主が大きめの器へ移して持ってくると、硬貨が触れ合い、卓の上でもまだ音が続いた。

 

「こんなにニャ?」

 

 レイニャは手琴を置き、器の端へ白と茶の手を添えた。

 

 ニャニャミが数えるか尋ねたが、彼女は先に水の杯を取った。

 

 澪は食事の覆いを外し、皿をレイニャの前へ戻す。

 

「1曲、ずいぶん長かったですね」

 

「みんな、次のも知ってたニャ」

 

 返事の後も、レイニャの尻尾の先は、さっきの拍子で動いていた。

 

 店主は器を置いても、席を離れなかった。

 

 真壁の前へ身を寄せ、他の卓の声に埋もれないよう、少し声を低くする。

 

「昨日の酒だ。どうしても仕入れたい」

 

「どちらかね」

 

「両方だ」

 

 店主は手の指を開いて見せた。

 

「ジャガイモのウォッカを5樽。ライウイスキーも5樽欲しい」

 

 理央が水の杯を置いた。

 

 鞄へ入れたノートをまた取り出し、ニャニャミも、おひねりを数える頁とは別の所を開く。

 

「ずいぶん欲張るな」

 

「昨日飲んで、今日まで考えた。少しだけ買って、なくなってから悔やむ方が嫌だ」

 

 厨房で鍋の蓋が開く音がし、煮込みの匂いが近くなった。

 

 真壁は店主の言葉を聞いてから、酒の記録と原料在庫を確かめた。

 

 澪には彼の《鑑定》も収納の中も見えないので、ペンを置き、返事を待つ。

 

「5樽ずつなら、今の原料で対応できる。ライの方は、昨夜選んだ7年相当の物だ」

 

「それで頼む」

 

「樽は、君の店の規格を見せてもらいたい」

 

 主人は立ち上がり、通路を空けながら、店の奥の樽を示した。

 

 真壁も席を立って大きさと容量を調べ、澪は、壁に沿って並ぶ樽と今日の注文を見比べた。

 

 杯へ少しずつ出した試作品が、あれと同じ大きさで10樽になる。

 

 戻った真壁は、今日、酒卸で聞いた価格の控えを出した。

 

 店主は客へ1杯ずつ出す時の値と、仕入れに使える金を話した。

 

 澪は彼が見せた店の帳面へ目を落とし、ニャニャミの紙と並べる。

 

 極端に高い値で珍しい酒を1度買ってもらう話ではなく、売り切った後でまた仕入れられる値を探していた。

 

 真壁が示した初回の値に、主人は杯を動かして計算する場所を空けた。

 

「これなら、うちで出せる」

 

 清潔な同規格の樽を店側で用意する条件を決め、真壁は詰める前の確認も含めて受け持った。

 

 主人に空樽を渡してもらうと、通路を塞がない所で収納へ収める。

 

 ニャニャミは品目と5樽ずつの量、樽を含む費用、翌朝の受渡しとその場での支払いを、主人へ読み返した。

 

 主人が頷き、同じ内容の控えを持つ。

 

「明日の朝、荷受けで確かめてから渡そう。それ以上の分は、次の相談だ」

 

「まず、この10樽だな」

 

 真壁の前の杯へ、ランプの光が揺れた。

 

 主人は控えを持って厨房へ戻り、レイニャはようやく食事へ手を伸ばす。

 

「歌って帰ってきたら、お酒が10樽になってるニャ」

 

「私のノートも、また開いてます」

 

 理央が言うと、澪は自分も紙へ手を伸ばしていたことに気づいた。

 

 彼女はペンを置き、今度こそ皿を手元へ引いた。

 

 食事が済んでから、レイニャとニャニャミは硬貨を数えた。

 

 商会の売上の紙は閉じ、レイニャの前だけに、数え終わった銅貨と銀貨を分ける。

 

「全部、レイニャさんのお金ですからね」

 

「分かってるニャ。でも、袋が重いニャ」

 

 自分で口紐を結ぶ時にも、レイニャは笑っていた。

 

 

 

 酒場を出ると、澪は外套の襟を持ち上げた。

 

 手拍子の音が戸の向こうへ戻り、耳に残っていた歌の節だけが、しばらく歩調へ付いてくる。

 

 レイニャのおひねりを入れた袋も、歩くたび小さく鳴った。

 

 昼に水が流れていた石畳の端は、もう濡れたままではなかった。

 

 澪は靴を置く場所を選び、長く伸びるランプの影をまたいだ。

 

 ホテルの馬車寄せへ入ると、軒下の職員が扉を開けてくれた。

 

 厚い絨毯へ足を置いた途端、通りで聞いていた靴音が小さくなる。

 

 外套に付いた肉と薪の匂いが、乾いた室内でゆっくり薄れていった。

 

 酒場では人の声に隠れていた火の音が、ここではロビーの端まで届いている。

 

 磨かれた灯具の下で、支配人が帳場から出てきた。

 

「本日はずいぶん町を賑わせたようですね」

 

「仕立師さんをご紹介いただいて、ありがとうございました」

 

 澪が礼を述べると、理央も布包みを持つ手を下げて頭を下げた。

 

 何か試験の伝言が来たのだろうかと、澪は支配人の手元を見た。

 

「生地の話を聞きました。あの仕立師が、ぜひ扱いたいと言っておりまして。こちらでも制服用として検討したいのです」

 

 理央が顔を上げた。

 

 支配人の上着へ目が移り、それから包みを持ち直す。

 

「今日お預けした分を、仕立てて試してもらっています。まだ、幅をそろえて出す分は……」

 

「承知しております。まずは試験に使う分を購入できればと。補修用を追加する時にも、同じ色が出せるか伺いたい」

 

 昼間、袖を直す分までと言われたことが、別の口から出てきた。

 

 澪は理央のノートを出す場所を探したが、支配人は続けて真壁へ向いた。

 

「それと、ライウイスキーについても。客用と贈答用に、少量でも確保できませんか」

 

「酒卸から聞いたのかね」

 

「出入りする者の話にも上っております。良い酒は、こちらのお客様にも喜ばれますから」

 

 真壁は、今ある販売分と、酒場へ約束した分を分けてから返答すると伝えた。

 

 澪がニャニャミを見ると、彼女は帳面を出しかけていた。

 

「保存用の魚の容器についても、食品を扱う者から聞きました」

 

 その手が止まった。

 

 ニャニャミの耳が先に立ち、レイニャは支配人の顔へ目を向ける。

 

「……缶詰のことまで知ってるんですか?」

 

 澪の声が、自分でも少し小さくなった。

 

「食品を扱う者が、あれだけ珍しい品を見れば話題にもなります」

 

「誰から聞いたニャ?」

 

 レイニャが尋ねると、支配人は、食品卸だけでなく市場の荷を運ぶ人の間でも話が出ていると答えた。

 

 特定の誰かが知らせたというより、品物を見た人が、次の仕事先でも話しているらしい。

 

 澪は午後の乾物棚と、その前に置いた小さな缶を思い出した。

 

 あの缶は収納へ戻したのに、話の方は先にホテルまで来ていた。

 

「缶詰は保存確認が済んだ範囲でしか販売できません。今夜、結果を見て、明日の朝にお返事します」

 

「では、布と酒も、その時にお願いいたします」

 

 支配人は一度帳場へ戻った。

 

 ランプの下には、客室の鍵だけでなく、伝言札と封書が何枚も置かれている。

 

 彼がそれをまとめて持ってきたので、澪は差し出される手へ目を落とした。

 

 自分たち宛ての物は、1枚ではなかった。

 

 

 

 支配人に頼み、小サロンをもう少し使わせてもらうことになった。

 

 戻った卓には、夕方まで載っていた試料の代わりに、封書と伝言札が並ぶ。

 

 端へ置かれたおひねりの袋だけが、今夜の酒場から来た物だった。

 

 澪は上着を椅子へ掛け、最初の封書を開いた。

 

 厚い紙には、貴族家に仕える家令の肩書と、面会を求める文が記されている。

 

 服地について話を聞きたいという。

 

 隣の札は別の家の商務担当からで、酒と保存食品の取扱いについて尋ねたいとあった。

 

「……2日ですよね、私たち」

 

「2日ニャ」

 

 ニャニャミの返事は早かった。

 

 彼女の買付帳にも、まだそれだけの日付しかない。

 

 澪は頁を覗き、最初に買った羊毛と魚の欄へ指を添えた。

 

 毛布に向く羊毛があるか見て、魚も買って帰るつもりだった。

 

 その隣へ、今は家令の封書を置いている。

 

「私、貴族の方に着てもらう布を作るつもりでは……」

 

 理央は膝に載せていた包みを押さえた。

 

「私も、そのつもりで魚を缶に詰めたわけじゃないです」

 

「歌ってる間に、何があったニャ?」

 

 レイニャは椅子へ腰を落ち着ける前に、卓を一周見た。

 

 暖炉の薪は細く赤くなり、奥で小さく崩れた。

 

 通りを歩く足音はもう聞こえず、窓には卓を囲む5人が映っている。

 

「もう少しいたら、もっと増えそうですね」

 

「だから帰る」

 

 理央へ答えた真壁は、明日の面会を求める札を卓へ戻した。

 

 ニャニャミが予定を書き込もうとしていたペンを止める。

 

「会わなくていいんですか?」

 

「今はな。こちらは北方へ宮廷営業をしに来たのではない」

 

「でも、せっかく聞きに来てくださるなら……」

 

 澪は2枚目も読んだ。

 

 求められているのは、品を渡すだけでは済まない話だった。

 

 用途を聞き、仕様を相談し、それぞれの家へ届ける条件を決めるなら、朝に挨拶をして帰るわけにはいかない。

 

「これ全部入れたら、明後日もここにいるニャ」

 

 ニャニャミは空いた欄を指し、次の札をその下へ並べた。

 

「帰る日を決めないと、帳面が続くニャ」

 

「明日の朝、出ましょう」

 

 澪は新しい紙を取り、本店の所在地を書いた。

 

 ヴァルディス侯爵領都にある押入商会本店へ連絡をいただけるよう添え、今回は市場調査と買付の途中であること、翌朝に出立することを記す。

 

 次の訪問は1か月後の予定とし、面会に応じられないお詫びを加えた。

 

 書き終わった文を声に出して読み、真壁にも宛先と内容を確かめてもらう。

 

「こちらなら、お届けいただけます」

 

 呼んだ支配人が返事を預かり、澪は続けて朝の受渡しについて相談した。

 

 樽をロビーへ並べられないことは、言われる前から分かっている。

 

 支配人は荷受けに使える場所と時間を示し、各店へ案内を届ける手配も引き受けた。

 

 ニャニャミが店名を読み上げ、酒場の主人には、夜に決めた受渡し場所の案内を渡すよう付け足す。

 

 酒卸と仕立師、食品卸には、翌朝に販売できる初回分を見てもらう相談として伝えてもらった。

 

「まだ、何でも売れるわけではありませんので」

 

 澪が言うと、支配人は、受付へ届ける札にもその旨を添えてくれた。

 

 扉が閉まってから、真壁は卓の空いた側へ在庫の控えを広げる。

 

「さて、持ち帰る物と渡せる物を分けよう。基準品は残したまえ。次も同じ物を作るためだ」

 

 理央は包みを開き、小さな布片を一番先に自分の鞄へ戻した。

 

 ニャニャミは販売用の頁を開く。

 

 澪も椅子を寄せ、保存試験の記録をその横へ置いた。

 

 

 

 澪は収納から、保存試験へ回していた缶を出した。

 

 卓へ敷いた布の上に、鰊の油漬けと鱈の水煮が並ぶ。

 

 試験の段階ごとに置き場を分けてあった物を、記録の順に取り出した。

 

 加熱と冷却を終えた時の試料は、比較用に離して置く。

 

「ここまで時間を進めた分です。まず、外から見ます」

 

 真壁へ記録を渡し、澪は蓋と底、胴の合わせ目を《鑑定》した。

 

 膨らみや漏れの有無を口頭で伝えると、真壁も、自分で同じ缶を確かめる。

 

 理央は2人の結果を別々に書き、ニャニャミが試料番号へ対応させた。

 

 レイニャも袋から手を離し、卓へ顔を近づける。

 

「これ、今日開けたのと同じニャ?」

 

「同じ条件で作って、保存に回した分です。今日開けた物とは別ですよ」

 

 澪は最初の缶のタブへ指を掛けた。

 

 蓋が外れる音は、昼の食品卸で聞いた時より大きく響いた。

 

 暖炉から離したトレーへ置き、油の下の鰊を確かめる。

 

 時間を進める前の物と、色や臭いを比べ、内容物の状態も鑑定で調べた。

 

 空いた缶の内面には、真壁から受け取ったポリエステルの被膜が残っている。

 

 合わせ目の近くまで調べてから、澪は缶を真壁へ渡した。

 

「剥がれは見つかりません。こちらの記録と同じですか?」

 

「同じだ。内面と密閉部に差はない」

 

 次の段階、その次の段階と、鱈の缶も含めて順に開けていった。

 

 澪は、開けた蓋をそれぞれのトレーに残す。

 

 食べ物の見た目だけでなく、缶のどこを見て、どの段階で異常がなかったかを、後で辿れるようにした。

 

 ニャニャミは最も長く確認できた期間に印を付け、まだ先を調べる欄は空けたままにする。

 

「ここまでなら、売る時に書けるニャ?」

 

「はい。この条件で作った分に、この期間までです」

 

 澪は試験中の缶を別に戻し、販売へ回せる分だけを数えた。

 

 明日の箱へ付ける札には品名とロット、確認できた保存期間を記す。

 

 全部を書き終えたニャニャミが、札をもう一度読み返した。

 

 昼間、箱を欲しがる相手に渡せなかった缶へ、その札を添えられる。

 

 澪は缶の冷たい胴を握り、販売用の置き場へ移した。

 

 向かいでは、理央が服地の記録を開いていた。

 

 残す基準片と、仕立師に預けた布の条件を確かめ、収納内で同じ条件の追加分を作る。

 

 小さな比較用の布を先に出し、基準片の隣へ重ねた。

 

 灯りの真下へ持っていった後、暖炉に近い側でも色を見比べる。

 

「同じに見えます。でも、端だけじゃなくて、全体も確認します」

 

 理央は幅を広げた分の厚みと織り目を調べ、澪へ結果を説明した。

 

 販売する分は包める量に分け、端の小片と工程の記録は持ち帰る。

 

 制服にするにも、仕立てて着た後の試験はまだ必要だった。

 

「継ぎ足す布まで同じ色で出せるかは、次の時にも確認ですね」

 

「はい。今の分と、次の約束は分けます」

 

 理央はその注意も受渡しの紙へ書き添えた。

 

 真壁は酒場から預かった空樽を調べ、酒の製造記録と原料の残量を照合する。

 

 基準に残す物を分けた上で、ウォッカとライウイスキーを作った。

 

 酒場に渡すライは7年相当とし、昨夜選んだ物と比べてから、樽へ詰める。

 

「ウォッカ、5樽。ライ、5樽ニャ」

 

 ニャニャミは品目の紙を分け、その次に酒卸へ見せる初回分と、ホテルに渡せる少量分を書いた。

 

 樽を増やせるかという欄には、まだ何も書かない。

 

 澪はそれぞれの量を見てから、真壁へ尋ねた。

 

「原料は、これで使い切りますか?」

 

「いや。買った分には、まだ余裕がある。だが、今夜の受渡し準備はここまででよい」

 

 窓の中に映った卓は、紙と小さな見本で埋まっていた。

 

 外の町は寝静まっているのに、この卓の上だけ、明日の店が開いているようだった。

 

 レイニャは自分の袋と、商会の販売帳を交互に見た。

 

「おひねり、いっぱいだと思ったニャ」

 

「いっぱいでしたよ」

 

「でも、樽のお金は、書く場所が長いニャ」

 

 ニャニャミが帳面を少し寄せると、レイニャは自分の袋を両手で包んだ。

 

「これは歌った分ニャ」

 

「はい。混ぜません」

 

 澪が答え、レイニャは袋を旅装の内側へ大事に収めた。

 

 確認した物を収納へ戻し、卓の布を払うと、薪の音がまた聞こえる。

 

 真壁が時計を見て、理央の開いたノートへ目を向けた。

 

「続きは朝だ。朝食の後、ここで数量を確かめてから荷受けへ行こう」

 

 理央は頷き、最後の頁を閉じた。

 

 澪と一緒に部屋へ戻る時には、廊下のランプの数も少なくなっていた。

 

 厚い絨毯を踏む足から力が抜け、澪は、今度こそ布団で眠れることを確かめるように、部屋の鍵を握り直した。

 

 

 

 朝食を終えて数量を照合し、荷受けへ出ると、空は晴れていた。

 

 ホテルの屋根の縁から水滴が落ち、日向の石に小さな点を作っている。

 

 それでも日陰の水溜まりは薄く白く、澪はそこを踏まず、壁に沿って進んだ。

 

 外套の前を合わせても、戸口に立つと首の後ろへ冷気が入る。

 

 通りでは荷車の軸が軋み、馬の蹄が、濡れた石と乾いた石で違う音を立てていた。

 

 ホテルの荷受けには、職員が空けてくれた場所がある。

 

 澪と真壁が収納から順に荷を出すと、そこへ布で包んだ服地と、札を付けた箱、酒の樽が並んだ。

 

 樽の木肌には、まだ戸口から入る朝日が細く当たっている。

 

 ニャニャミが通路を空ける位置へ紙を持って移り、レイニャも箱の前から尻尾を引いた。

 

 先に来た仕立師は、荷よりも理央の方を見た。

 

「帰ると聞いた。布は、追加を買えるのか?」

 

「今お渡しできるのは、この分です」

 

 理央が包みを開くと、仕立師は指で端を取り、朝の光へ傾けた。

 

 昨日見た小片と同じように、布を曲げ、戻る所を見ている。

 

「ちゃんと幅があるな」

 

 理央は頷いたが、すぐには包みから手を離さなかった。

 

「ほんとに、これ売るんですね。毛布の失敗だったのに」

 

「もう服地です」

 

 澪が答えると、仕立師は顔を上げた。

 

「毛布にするなら、惜しい布だ」

 

「はい。それは、もう分かりました」

 

 理央の声が少し小さくなり、レイニャのひげが動いた。

 

 仕立師は布の量と、今回の値を確かめる。

 

 理央は、今ある分の色と厚みは揃えたこと、着用してからの試験結果は次に聞きたいことを話した。

 

「縫ってある所も、残しておく。次に来たら、見てもらおう」

 

 包みが相手の手へ移り、ニャニャミの帳面へ、最初の服地の売上が書き込まれた。

 

 理央は受渡しの控えを読み、鞄にしまう前に、紙の端をそっと伸ばした。

 

 ホテルの制服用には、それと分けておいた試験購入分を渡す。

 

 支配人は長く使う時の補修について確認し、澪は、次回の色合わせと追加分は改めて相談すると答えた。

 

 支配人はその条件で試験に使う量と値を確認し、購入を決めてから、職員へ包みを預けた。

 

 そこへ、昨夜の酒場の主人が荷車と一緒に来た。

 

「あるな」

 

 樽を見て言う声は、歌を頼んだ時と同じくらい嬉しそうだった。

 

 ニャニャミが品目札を示し、主人はウォッカの側を数え、次にライの側を数える。

 

「こっちが5。こっちも5」

 

 受け取る樽を1つずつ控えと合わせてから、昨夜決めた代金を払った。

 

 真壁も受領を確かめ、澪が帳面へ記す。

 

 空だった樽は酒が入ると、荷車へ載せる人の足の置き方まで変わった。

 

 主人は通り側の車輪を押さえ、積み終わった樽の固定を自分で見直している。

 

「また来たら、寄ってくれ。酒の話でも、歌でも」

 

「歌はレイニャに言ってニャ」

 

「君にも言ってるんだ」

 

 レイニャの耳が揃って立ち、主人は笑って、荷車の横へ戻った。

 

 入れ替わりに来た酒卸へは、見せる分と渡せる初回分を分けて説明した。

 

 酒場の注文を済ませた樽は、もうそちらの取引へ混ぜない。

 

 真壁が渡せる量を示すと、酒卸は次まで足りる量を考え、初回に買う分の値を決めた。

 

 欲しい量を書き足す前に、ニャニャミが今回の受渡し量を読み返す。

 

 酒卸はその分の代金を払い、自分の控えと同じ札が付いた荷を受け取った。

 

「次も、同じ話ができるようにしておいてくれ」

 

「記録は残す。次の量は、その時に相談しよう」

 

 ホテル向けの少量のライも、別の控えで支配人へ渡した。

 

 制服用の服地と合わせて購入代金を受け取り、澪は宿泊の精算とは別に、売上の受領を記す。

 

 誰にいくつ渡したかを紙の上で追えるようになると、ニャニャミはようやく酒の頁を閉じた。

 

 食品卸の主人は、箱の上の札を先に取った。

 

「昨日は、まだ売れないと言っていたな」

 

「夜に保存試験の結果を確認しました。今日渡せるのは、そこに書いたロットだけです」

 

 澪は記録を横に置き、確認できた期間と保存条件を示した。

 

 主人は期間の欄を指で辿り、鰊と鱈の箱を見比べる。

 

「もっと先まで保つかどうかは、まだか」

 

「そこは続けて調べます。今回の札には、確認した所までしか書いていません」

 

 主人は箱の中の並びを見て、持ってきた控えに品名を分けて書いた。

 

 店で扱う最初の数量と値を決める間、レイニャは箱の蓋へ触りたそうにしていた。

 

 閉じて紐を掛ける段になると、澪へ顔を向ける。

 

「昨日まで試作品だった物が、今日は商品ニャ」

 

「この分は、ですね」

 

 澪は、持ち帰る試験品を記した紙を畳んだ。

 

 代金と箱がそれぞれの手へ移ると、荷受けの床が広くなった。

 

 ニャニャミは各店の控えを揃え、まだ丸を付けていない欄がないか確かめる。

 

「売れる分は、残さなかったニャ」

 

 レイニャが空いた場所へ立ち、窓越しにロビーを見た。

 

「あっちは、何も変わってないニャ」

 

 磨かれた受付では、職員がいつもの姿勢で客の鍵を受け取っていた。

 

 押入商会の荷が動いた分だけ、こちらの職員が通路を空け、送り出してくれていたのだ。

 

 澪は使った場所を片付け、支配人と職員に礼を言った。

 

 通りへ出ていく荷車の音が、朝の他の車輪の音へ混ざっていった。

 

 

 

 小サロンへ戻ると、窓から入る光が卓の半分まで届いていた。

 

 夜には黄色く見えた紙も、今は白い。

 

 澪は眩しい側から椅子を少しずらし、買付帳と販売帳を並べた。

 

 ニャニャミが控えを日付ごとに分け、理央は、試作に使った量と残した量の記録を開く。

 

 レイニャは手琴を膝に置いたまま、空になった卓の端へ肘をついた。

 

 廊下では、客の荷物を運ぶ車輪が、絨毯の継ぎ目を越える音がした。

 

「宿泊費は、今朝まで入れますね」

 

 澪は受付でもらった明細と、先に払った分を照合する。

 

 食事、サロンの利用、試作と商談に使った現地の品、仕立師へ頼んだ仕事の手間賃も拾っていった。

 

 最も大きな欄は、羊毛と魚、ジャガイモ、ライ麦などの原料買付だった。

 

 鉄を含む試料の代金も足すと、澪のペンはなかなか下まで届かない。

 

「使いましたね……」

 

「市場を歩くたび、増えたニャ」

 

 ニャニャミは買った場所と控えを合わせてから、服地の売上へ紙を替えた。

 

 次が酒場、酒卸、ホテルの酒、その次が食品卸へ渡した缶になる。

 

 澪は、そこで初めて、2冊の間にもう1枚の紙がないことに気づいた。

 

「今回、関税って払ってませんよね」

 

「書いてないニャ」

 

 ニャニャミも、買付帳の最初の頁へ戻った。

 

 輸入の費用を探すように、指が欄の外で止まる。

 

「輸送の所も、いつもの形になってないニャ」

 

「払う商品が国境を越えていないからな」

 

 真壁は羊毛の購入控えを取り、理央の服地の記録の横へ置いた。

 

 魚の控えも、缶を作った記録と並べる。

 

「ジャガイモもライ麦も、こちらで買った。加工したのも、この町だ」

 

「この町で買って、この町で作って、この町で売ったから……」

 

「そういうことだ」

 

 澪は買付の記録の余白へ、今回の取引の経路を書き添えた。

 

 店で仕入れた原料がホテルへ来て、別の商品になり、今朝はまた町の店へ出ていった。

 

 買付帳と販売帳の間を、指で辿るだけで届く。

 

「次に本店から完成品を持ってくるなら、その分は別に調べますね」

 

「ああ。今回の記録を、そのまま次の輸入へ使ってはいけない」

 

 ニャニャミは次回用の頁へ短く書き、また今朝の収入へ戻った。

 

 澪が合計を出すと、支出側の数字より、販売側の数字が大きくなった。

 

 食事代をもう一度確かめても、宿泊費を見直しても変わらない。

 

「……残ってます」

 

「残ってるニャ」

 

 ニャニャミは揃えた控えを指で押さえた。

 

「原料をこんなに買ったのに」

 

「原料、まだあるニャ」

 

 理央が残量の頁を寄せ、真壁と澪も、それぞれが持っている在庫を確かめて口頭で伝えた。

 

 ニャニャミは売上へ足さず、残った羊毛と魚などの欄へ数を写す。

 

 まだ作っていない分まで手元にあるのに、今朝受け取った代金だけで、今回使った金を上回っていた。

 

「おひねりは、足してないニャ?」

 

 レイニャが旅装の袋を押さえた。

 

「足してません」

 

「じゃあ、レイニャも残ってるニャ」

 

 澪が顔を上げると、レイニャは尻尾を椅子の横でふわりと動かした。

 

 ニャニャミは笑いながら控えを綴じ、買付帳を鞄へ戻した。

 

 澪は自分の帳面も閉じ、受渡しを終えた控えを収納へ収めた。

 

 卓に残す物を確かめると、最後の1枚はホテルの精算明細だった。

 

 

 

 澪は部屋の鍵を揃え、受付へ置いた。

 

 小サロンから持ってきた精算明細には、昨夜、追加で取った部屋まで、項目が分けてある。

 

 帰る前の1泊を取ったはずなのに、その間に商談と製造と販売まで入ってしまった。

 

 支配人は部屋とサロンの利用を確認し、精算を済ませた後も、鍵を手の中で一度揃え直した。

 

「もうお発ちになるのですか」

 

「はい。今回の買付はここまでです」

 

 澪は答え、理央の鞄の留め具が閉じているか見た。

 

 手元に残っているのは、旅に持つ物と記録だけだった。

 

 レイニャは旅装の肩紐を直し、手琴を身体へ寄せている。

 

 ニャニャミも自分の鞄を掛けたが、買付帳だけはすぐ取り出せる所へ置いた。

 

「まだお話をなさりたい方も、いらっしゃるのですが」

 

「昨夜お願いしたお返事を、届けていただけますか。せっかくお声を掛けていただいたのに、すみません」

 

 支配人は預かった返事を取り出し、宛先ごとに分けた状態を見せた。

 

 澪は漏れがないか確かめ、本店の住所も読み直す。

 

 ヴァルディス侯爵領都という字が、この北のホテルの受付に置かれていた。

 

 到着した時には、暖かい部屋を借りられれば充分だと思っていた場所だ。

 

 今は、次の取引の連絡を預けている。

 

「次のご訪問も、そちらへご連絡してよろしいですか」

 

「はい。1か月後くらいに、また来る予定です」

 

 支配人は頷き、預かった紙を受付の内側へ移した。

 

「次の商品も、楽しみにしております」

 

「次に来た時に、用意できる物をまたご相談します」

 

 澪は頭を下げ、今朝の受渡しの控えを明細の下へ揃えた。

 

 真壁が彼女の隣へ来て、明細の控えを受け取る。

 

「世話になった。快適だったよ」

 

「私の布のことも、仕立師の方へよろしくお願いします」

 

 理央が頭を下げると、支配人は次に来る時の報告を預かると答えた。

 

 理央はその返事を聞いてから、もう一度鞄の中の布片へ手を添えた。

 

「歌う所もあるニャ」

 

 レイニャが言い、澪は昨夜の酒場の主人の声を思い出した。

 

「次は、食事が冷める前に戻ってくださいね」

 

「次の曲、知らなかったら戻るニャ」

 

「知ってたら戻らないんですね」

 

 レイニャは答える代わりに、耳を少し横へ向けた。

 

 支配人が笑い、受付の職員も口元を緩める。

 

「それでは、こちらも1か月で噂が増えそうですな」

 

 澪は何と言えばよいか迷った。

 

 増やす予定は立てていないのだが、昨日1日を思うと、増えないとも言えなかった。

 

 隣で、ニャニャミが買付帳を取り出した。

 

 今朝の売上とは別の頁に、次に確認する羊毛と魚、服地の試用、缶の保存試験が書かれている。

 

「もう次ですか?」

 

「1か月しかないニャ」

 

 表の玄関扉が開き、冷たい空気が足元へ届いた。

 

 運ばれてくる荷物を避けるため、澪たちは受付の端へ寄った。

 

 職員が扉を押さえ、磨かれた金具が日差しを受ける。

 

 馬車寄せの石は夜より明るく、屋根から落ちた水が、縁に沿って細く流れていた。

 

 澪は外套を合わせて外へ出た。

 

 吸った空気が鼻の奥で冷たく、ようやく、今朝も北の町にいることを身体で思い出す。

 

 通りを進む荷車には、市場へ持っていく包みが積まれていた。

 

 昨日歩いた方角へ、職人らしい人たちが足早に向かっている。

 

 レイニャと理央が戸口を出て、真壁も続いた。

 

 最後に来るニャニャミを待つ間、澪は受付へ入る職員の手に、また封書が載っているのを見た。

 

 宛名を確かめた職員が、こちらへ顔を上げる。

 

 支配人が気づき、預かった返事の束を示して、その封書も受け取ってくれた。

 

 澪は礼を言ってから、5人が揃っていることを確かめた。

 

「……やっぱり、もう帰りましょう」

 

 ニャニャミが帳面を閉じ、レイニャが手琴の紐を肩へ寄せ直す。

 

 澪は次の水溜まりを避け、朝日の当たる石の上へ踏み出した。

 

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