共同商館の扉を入り、地下への階段を下りた所で、澪は外套の前を開いた。
外を歩いている時にはちょうどよかった厚さが、厨房の湯気が流れてくる場所では、少し暑い。
入口に持ち込まれた砂を靴底で踏み、通路の端へ寄ると、奥から皿の触れ合う音がした。
梁の下を給仕が行き来し、フードコートでは、遅い食事を取っている客がまだ卓を囲んでいる。
ノルドハルムのホテルでは、荷が動いても受付は静かだった。
ここでは、誰かが厨房へ声を掛けると、返事まで通路へ出てくる。
「たった3日で帰って来たのかい」
帳面を抱えて出てきたリュシアは、澪の後ろにいる4人まで見て、足を止めた。
「はい。でも、買う先も売る先もかなり見つかりました」
「3日で?」
「十分だったのでね」
真壁が外套を腕へ掛け、空いている打合せ卓へ目を向ける。
その返事だけでは、澪も何をして帰ってきた人なのか説明できない。
「あの、何も買えなかったわけではないです」
「何か買ったのは分かったよ。で、何を売ったって?」
リュシアが理央の布包みへ目を向ける間に、ニャニャミは卓へ買付帳を広げた。
白い手が押さえた頁には、店名と品名が細かく並んでいる。
「羊毛は次の入荷まで聞いてきたニャ」
「どこの店だい?」
ニャニャミは羊毛卸の欄を示し、魚の荷受けについて聞いた所も開いた。
リュシアは立ったまま読むつもりだったらしいが、途中で椅子を引いた。
澪はその向かいへ、北方の原毛見本を出す。
大量に買った分は収納に分けてあり、ここで通路を埋める必要はない。
理央も包みを開き、毛布の見本と服地の基準片を、離して置いた。
「羊毛は、こういう物が買えました。毛布も、同じ条件で作る所までできています」
澪が毛布へ手を伸ばした時、リュシアの目は隣の薄い布へ動いた。
「こっちも毛布?」
「そちらは服地です」
理央が答え、包みの端を折り込んだ。
澪は保存試験の控えを出し、その横に缶の見本を置く。
「魚も買いました。缶に入れて保存する方は、ここまで確認できています」
「魚を買って、缶も作ったのかい」
「はい」
真壁が酒の試作品を示し、ニャニャミが販売帳へ頁を替えた。
リュシアは缶から酒へ視線を動かしてから、机の真ん中を見た。
「ちょっと待ちな。買付の報告だよね?」
「そのつもりです」
「今、作った物の方が多くなってない?」
澪は並べた見本を見直した。
原毛は小さな一山だが、その先にできた物は、それぞれ別の紙を付けてある。
ニャニャミは売った相手を指し、仕立師、食品卸、酒場、酒卸、ホテルと読んだ。
「ホテルにも?」
「制服に使う布を、試していただく分です」
理央が控えを出すと、リュシアは受け取って、また服地を見た。
「買って、作って、売って、次も決めて帰ったんだね」
「歌も歌ったニャ」
レイニャが自分の袋を持ち上げ、軽く揺らした。
硬貨の音を聞いて、リュシアは彼女の顔を見る。
「それも3日の中かい」
「2晩ニャ」
「今、日数を減らさなくていいんだよ」
レイニャのひげが動き、理央が包みを押さえたまま笑った。
澪も笑いかけたが、机にある控えの厚さを見て、少しだけ息を吐く。
北では、次の店に行くたび、ノートを開いていた。
戻ってきて3日と言われると、本当にその間に収まっていたのか、自分の帳面でも確かめたくなる。
「まだ試している物は、そのまま売っていません。残した基準品と、確認済みの物を持ち帰っています」
澪は缶の札を見せ、販売を終えた分の控えを別に重ねた。
リュシアはそれを読み、原料の残量が書かれた頁も確かめる。
「それで、まず何から話す?」
澪は毛布を自分の前へ引いた。
「これを、届けたいんです」
澪は毛布の見本を広げ、リュシアへ端を渡した。
押した所がゆっくり戻り、指の跡が柔らかな毛羽へ埋もれる。
地下の食品街には、天井の灯りが等間隔に並んでいた。厨房の前では湯気がその光を白くぼかし、卓の上では、広げた毛布の毛羽が柔らかな影を作っている。
「この羊毛で、国内の孤児院に暖かい毛布を配りたいんです」
「そりゃいいね。冬になる前に必要数を調べよう」
リュシアは毛布の端を戻さず、指の間へ挟んで厚さを確かめた。
「今ある物が傷んでる所からだね。人数だけ聞けば足りる?」
「小さい子も大きい子もいますし、洗っている間の分も要ると思います。今、何を使っているかも聞きたいです」
澪はノートへ、人数とは別に、寝具の欄を作った。
膝に載せた北方用の外套は、ここではもう必要ない厚さだった。
澪はその重さと毛布の見本を比べ、もう一度、端を指へ挟んだ。
冬は、北で過ごした春の夜よりずっと寒いはずだ。
「1度配って終わりにはしたくないんです。使って薄くなったり、子どもが増えたりしたら、その分も」
「羊毛の仕入れ先が続くなら、その相談もしやすいね」
ニャニャミが買付帳を寄せ、卸から聞いた次回入荷の欄を見せた。
レイニャは毛布へ手を載せていたが、その言葉を聞いて、ふわりと押していた手を止める。
「次の冬も、その次もニャ?」
「はい。毎年、必要な所を確かめたいです」
「いっぱい寝られるニャ」
理央が小さく笑い、毛布の端を自分の方へ引いた。
「洗った後も、これくらいふわっとしていたらいいですね。縮みと、乾いた時の状態も続けて見ます」
彼女は工程の紙を開き、まだ結果を記していない所へ指を置いた。
「同じ物を作る所はできました。でも、毎日使って、何度も洗う物ですから」
「洗う人にも聞こう。乾かす場所が狭い所もあるだろうしね」
リュシアが答え、澪は配布先を調べる紙と試験の紙を、並べて置いた。
必要数が分かった頃に、使える状態も説明できるようにしたい。
優先する所を調べる役と、毛布を試す役を話し合っている間、リュシアの手は、毛布の隣へ少しずつ移っていた。
「……ところで、こっちは?」
薄い服地の基準片を持ち上げる。
「さっき、服地と説明しましたよ」
「聞いたよ。触るのは今だ」
理央は向かい側の布が揺れるのを見て、ノートを持ち直した。
「毛布を作ろうとして最初にできた方です」
リュシアは布を指の腹へ滑らせ、灯りに対して斜めに傾けた。
控えめな光沢が、折った所で細く変わる。
少し握ってから開くと、彼女は残った皺を指で伸ばした。
「毛布を作ろうとして?」
「はい。薄すぎました」
「失敗した方も持って帰るの、あんたたちらしいね」
「向こうでは、そっちが先に売れたニャ」
ニャニャミが付け足すと、リュシアは布を卓へ置き、両端へ手を当てた。
「これ、色違いで量を用意できるかい?」
澪は毛布を押さえていた手を離した。
向こうの仕立師と、尋ねる順がほとんど同じだった。
「色はゲンダイで安定した染料を買ってくれば、かなり揃えられると思います」
「青と灰色なんか、見たいね。商館の仕事着にも合いそうだ」
「まだ、色を決める前に試したいです」
理央がノートを回し、仕立師から聞いた条件を指す。
「反物の幅と、同じ色を次のロットでも出せるかは確認します。袖を直す時にも同じ色が要ると、言われました」
リュシアはそこで布から目を離し、紙を読んだ。
「買って終わりじゃないんだね。擦れた所を直せなきゃ、いい布でも仕事着には困る」
「原料を整理する所から、染料を混ぜる量、繊維と糸、織る条件まで揃えて比べます。染料が同じなら、それだけで済むというわけではないので」
「じゃあ、まず数色の試験反物だね。こっちで見る分も残しておくれ」
理央は頷き、北の仕立師へ見せる分の隣に、侯爵領で試す分を書いた。
リュシアの指は、もう毛布へ戻っていなかった。
「誰かおるか」
階段の方から声が届いた。
澪が顔を上げるより先に、リュシアが持っていた服地へ、別の手が伸びる。
「ほう」
赤い髪のエレナが、布の端をつまんでいた。
給仕の運ぶ盆を避けて来たらしく、半歩後ろのオスカーは、椅子と通路の間で足を止めている。
「姫様!」
「引っ張ってはおらんぞ」
「まず、ご挨拶を」
エレナは布を手放さず、澪へ顔を向けた。
「おったな、澪」
「はい。今、帰ってきたところです」
「北へ行っていたそうだな。ここなら誰かおるだろうと思って寄った」
そう言いながら、もう布へ目を戻している。
滑らかな表面を指で撫で、端を持ち上げると、垂れた布の折り目へ細い光が走った。
「これは兄上や父上によいかもしれんな」
「上着にするなら、仕立てる人にも見てもらいたいね」
リュシアが答えると、エレナは布を自分の袖へ当てた。
「私にもよいか?」
「姫様の分も?」
澪が聞くと、エレナは当然という顔で頷いた。
「兄上と父上だけ着ることもあるまい」
「まだ見本なんです。同じ物を作れるかは確かめましたが、色違いも、これから試します」
理央が工程の紙を示した。
「理央が作ったのか」
「はい。毛布を作ろうとしていたんですけど」
エレナは薄い布と、その隣に広がる毛布を見比べた。
「ずいぶん違う物ができたな」
「ええ。どっちも使い道があるから、困ってはいないよ」
リュシアが布を受け取ろうとすると、エレナはもう一度だけ表面を撫でてから返した。
「色ができたら、私にも見せてくれ」
「姫様、今日はお帰りの時刻が決まっております」
「まだ色はできておらんそうだぞ」
「今日、待つお話ではありません」
オスカーが空いている椅子を引くと、エレナはそこへ腰を下ろした。
澪は自分のノートを少し寄せた。
毛布の相談をしていた卓に、侯爵家の上着の候補まで載っている。帰還報告は、まだ半分も終わっていなかった。
「毛布の調査も、お願いしますね」
「忘れてないよ。こっちの布は売る。毛布は必要な子に届ける。両方の話だろ?」
澪が頷くと、リュシアは毛布の端も改めて揃えた。
「ただ、この服地を毛布にするのは、もうやめな」
「それは、向こうでも言われました」
理央は基準片を丁寧に畳み、毛布とは別の包みへ戻した。
通路の人が増えてきたので、見本をまとめ、打合せ卓から少し奥へ移った。
その一角には、レトルト食品の見本も置かれている。
リュシアは布をしまう理央の手元をまだ見ていたが、澪が缶を出すと、そちらへ椅子を向けた。
「こっちは、北の食品卸で欲しいと言われました」
澪は販売したロットの控えを置き、保存条件と確認できた期間を示す。
リュシアはその紙を読み、缶の胴へ指を当てた。
「保存できる魚なら、うちにはレトルトがあるからねえ」
「……はい」
澪は返事をしてから、もう少し待った。
リュシアは蓋を見ているが、服地を触った時のように、色違いも量も聞かない。
「やっぱり、こっちではそこまで珍しくないですよね」
「魚が保つって所はね。こっちは硬いんだろ?」
リュシアは柔らかいパウチを隣へ置き、指で押した。
缶の方は、押しても形が変わらない。
澪も蓋の輪へ指を近づけたが、彼女は、重ねた時の収まりを先に確かめていた。
金属の縁同士が触れ、硬い音がした。
ニャニャミが北の食品卸で聞いた用途の頁を開く。
「運ぶ人は、こっちを欲しがったニャ」
「宿へ置いたり、隊商が持っていくのにも使えそうです。王都なら、グスタフさん経由で宿や隊商に――」
「それ、警備隊でも使えるのではないか」
布地の話が終わってからも同席していたエレナが、身を乗り出した。
オスカーは彼女の後ろに立ち、通路を行き来する給仕へ時々目を向けている。
「え?」
「巡回に持たせられそうだな。警備所の備蓄にもよさそうだ」
エレナは借りてよいか尋ね、澪が頷くと、缶を片手へ載せた。
赤い髪が灯りの下へ寄り、琥珀色の目が、胴から蓋の輪へ移る。
「これは、ここを引くのか?」
「はい。開ける所も、試していただけます」
澪は比較のために残す缶を別へ戻し、開封用には、残った原料から同じ条件で見本を作った。
密閉と加熱、冷却まで既存の記録へ合わせ、缶と内容物を《鑑定》してから、トレーへ出す。
「こちらをどうぞ。胴を持って、輪を起こしてください」
澪が缶を支える場所を示すと、エレナは自分の指を合わせた。
引いた輪が起き、蓋の縁が切れていく。
外れた蓋を澪が受け取り、トレーへ置いた。
「刃物が要らんのだな」
エレナは油に浸かった鰊を覗き、用意した皿へ少し移した。
レイニャも見ていたが、勝手に手を出さず、耳だけを缶の方へ向ける。
「そのまま食べられます。開けた後は、残したまま保存しないでください」
「火が使えぬ時にも食べられるわけか」
エレナは一口確かめてから、空いている手でパウチにも触れた。
「袋は軽いが、固い荷と一緒に運ぶなら、この缶もよさそうだ。遠くの詰所へ箱で置いておけるな」
澪は想定する場所を尋ね、ニャニャミが巡回と警備所を別の欄へ書いた。
話を聞くうち、レイニャの耳が少し戻る。
「歩く時に持つ分と、置いとく分は、数え方が違うニャ」
「そうですね。毎回持つ量と、詰所の人数、それから入れ替える間隔も伺いたいです」
澪は保存期間を記した紙を、エレナにも渡した。
保存条件を指で示し、確認した範囲を読み上げる。
エレナはそれを見て、備蓄を長く置く場合は、この期間を越えないようにするのだと確かめた。
「まず、警備隊の者に見せてみよう。使う者に、持ち歩く分と詰所に置く分を聞かせればよい」
「ありがとうございます。見本と、保存条件を書いた物をご用意します」
リュシアが担当者との面会について相談に加わり、ニャニャミは必要数を聞くための欄を作った。正式な数量と受渡しは、その担当者と話してから決めることになった。
グスタフへ相談する案を消しかけた澪は、ペンを止める。
警備隊の欄は別に作り、王都の宿と隊商は、そのまま残した。
エレナは食べ終えた皿をトレーへ戻し、布包みから缶へ、さらに買付帳へ目を移した。
「今回は魚を買っただけではなかったのだな」
「私たちも、帰って報告するまで、こんなにあったとは思っていませんでした」
澪が答えると、エレナは笑い、持ち帰る説明の紙を畳んだ。
エレナが説明の紙をオスカーへ預けるのを見てから、レイニャが澪へ向く。
「こっちの魚、まだ食べられるニャ?」
「開けた分は、どうぞ」
レイニャは嬉しそうに皿を寄せた。
リュシアは、その横でレトルトの見本と缶の場所を分け直していた。
報告の紙を揃える頃には、昼の客が引き、フードコートの卓には夕食に備えた器が並び始めていた。
澪たちも食事を取り、理央の帰りを遅くしないよう、片付ける物を分ける。
「今日は、この後ゲンダイへ戻りましょう。おうちまで送ります」
「はい。布の記録は、明日また持ってきます」
理央は包みを鞄へ収め、まだ広げてある紙だけを残した。
澪が警備隊へ渡す見本についてリュシアと最後の相談をしていると、隣の卓で氷の触れ合う音がした。
帰還を聞いて合流したヴァルトが、真壁の向かいへ座っている。
会った時には北の話を聞いていたはずなのに、今はグラスの中を見ていた。
大きな氷の周りを、細い泡が上がる。
薄い琥珀色の液面が灯りを映し、ヴァルトは一口飲んだ後で、グラスを少し離した。
「これで、香りが変わるんですね」
「薄めた時の楽しみもある」
真壁が自分のグラスを持ち上げた。
椅子の背へ預けた肩からは、もう帳面を読むつもりが感じられない。
「何飲んでるんですか」
「ライウイスキーだ」
「それ、炭酸入ってますよね」
「ハイボールだ」
答えは全部合っているのだが、澪の知りたい所へ、なかなか辿り着かない。
真壁は、北で作った7年相当の酒の一部を、自分で作ったグラスへ入れていた。
氷を少し動かすと、炭酸の泡がまた増える。
「あたしもいただくニャ」
レイニャは椅子を引く所から始めた。
飲めるかどうかを尋ねる前に、席を決めている。
「どうぞ」
真壁が空のグラスを出し、立ち上がった。
その背中を追った理央が、卓の横の台へ目を向ける。
「……その氷、どこから出したんですか?」
真壁が開けた機械の中から、白く冷えた氷が出てきた。
すくった氷をグラスへ入れる音に重なって、機械の奥でも硬い物が落ちる。
その隣にはボトルを取り付けた炭酸水メーカーがあり、卓に置くには、どちらも少し大きかった。
「いつの間にこんなの置いたんですか」
「必要だったのでね」
「何にですか」
真壁は返事をする代わりに、氷の入ったグラスを持った。
澪はそれを見てから、隣の機械を見た。
もう一度グラスを見ても、用途は増えなかった。
「……それを飲むために?」
「氷と炭酸水が要るだろう」
「要りますけど」
炭酸水メーカーが短い音を立て、泡を含んだ水がボトルの中へできていく。
澪は台の後ろを覗き、給水と電源が、通路へ飛び出さないよう接続されているのを見た。
置いてあるだけの思いつきではなく、使う所まで済んでいる。
「ゲンダイの物を参考にした。ここなら、水も電源も使える」
真壁は、準備の説明だけは短く付け足した。
レイニャのグラスへ酒と炭酸水を注ぎ、理央には、酒を入れない炭酸水を渡す。
「私にも、その泡の出る水をくれ」
エレナが理央のグラスを指した。
真壁はもう1つグラスを出し、炭酸水だけを注いだ。
理央は自分のグラスを見てから、機械へ視線を戻した。
「これを置くの、帰還報告に入ってませんでしたね」
「北で仕入れた物ではないからな」
澪は、返す言葉を探している間に少し笑ってしまった。
たしかに、その買付帳には載らない。
「便利ニャ」
レイニャはグラスへ両手を添え、ひげが縁へ触れないようにして飲んだ。
飲み終えて顔を上げると、鼻先を一度動かす。
「しゅわしゅわするニャ」
理央も一口だけ飲み、グラスの底から上がる泡を見ていた。
隣でエレナがグラスへ鼻を近づけ、すぐに少し離した。
「水なのに、鼻に来るな」
「少しずつ飲んでみてください」
澪が言うと、エレナは用心して一口飲んだ。口を閉じたまま、しばらくグラスを見ている。
「……面白い。これを作るのが、その機械か」
真壁が頷くと、エレナは椅子から腰を浮かせた。
「姫様」
オスカーが、彼女の外套を手にしていた。
エレナは外套を見てから、製氷機と炭酸水メーカーを見た。
「もう帰る時刻か?」
「はい。お戻りになってから、お食事の支度がございます」
「今、飲み始めたばかりだぞ」
「お飲み物は、お済ませください」
機械を見る時間までは増えないらしい。
エレナは座り直し、炭酸水をもう一口飲んだ。今度は驚かず、舌へ触れる泡を確かめるようにゆっくり飲む。
「布の色ができたら、見せてくれ。缶の話も、警備隊へ伝えておく」
「ありがとうございます」
「この水も、次に来たら飲めるな?」
最後の問いだけ、真壁へ向いた。
「設備を片付けていなければな」
「では、片付けぬよう頼む」
エレナは残った炭酸水を飲み、グラスを卓へ置いた。
オスカーに外套を着せてもらう間も、機械の方へ顔を向けている。製氷機の奥で氷が落ちると、今度は肩までそちらへ動いた。
「姫様、こちらです」
「聞こえておる」
返事はしたが、足が向くまでには少し間があった。
オスカーが澪たちへ一礼し、エレナを伴って階段へ向かう。赤い髪が客の間に隠れる手前で、彼女はもう一度振り返った。
澪は手を振り、卓へ戻った。
エレナの席には、空のグラスが1つ残っている。
リュシアはすでに製氷機の前に立っている。
氷が落ちる音を聞き、取り出した分と、中に残る分を見比べていた。
「飲みたいんですか?」
「私は、こっちが気になる」
リュシアの指が機械を示す。
澪は毛布の横から服地へ移った、さっきの手を思い出した。
今度は酒の横だった。
夕食の客が増え、澪たちも注文した料理を食べた。食べ終えた皿を下げてもらう頃には、厨房で夜の片付けが始まっていた。
ヴァルトがグラスを置くと、卓へ丸い跡が残った。
冷えたガラスの外側に細かな水滴が並び、そのうち大きくなった1つが、底まで流れて落ちる。
真壁はそれを見て、グラスを少し横へ動かした。
「ふむ。湿度が高いようだ」
「氷で冷えてるからじゃないですか?」
「もちろん、それもある」
真壁は布で卓を拭いた。
拭いている手の隣で、レイニャのグラスからも水が落ちる。
彼はそちらを一度見てから、ヴァルトへ向いた。
「ヴァルト君は知っているかね。21世紀には、このようなグラスがあるのだ」
「どのような物ですか?」
「真空断熱だ」
真壁が普通のグラスを置き、収納へ手を向けた。
手持ちのステンレスを使い、内筒と外筒を持つ形へ仕上げていると、ヴァルトへ伝える。
澪は拭きかけた布を受け取り、その手の先を見る。
靄の中から、銀色の細長い器が出てきた。
同じ形の物がもう1脚、その隣へ置かれる。
どちらも縦に長く、卓の上へ立てると、さっきのグラスよりずっと背が高い。
真壁は内側を《鑑定》し、接合部まで確認してから、1脚をヴァルトへ渡した。
「ステンレスの内壁と外壁を分け、間の空気を抜いてある。そこを通る熱が伝わりにくい」
ヴァルトは口の縁へ指を当て、厚みを見た。
澪も横から覗いたが、壁の間そのものは見えない。
真壁は紙の端へ断面を簡単に描き、内側と外側を指で分けて示した。
「この間が、真空に近い状態というわけですね」
「そうだ」
ヴァルトは図を見て頷いた。
澪には、構造より先に、器の長さが気になった。
「……長くないですか?」
「1Lだ」
「なんで1Lなんですか」
「十分な量が入る」
真壁はそれ以上の説明を必要としていない顔で、製氷機から氷を取った。
深い器の底で、高い金属音がする。
酒を注ぎ、炭酸水を足していくと、長い内側へ泡が上がった。
澪は、いっぱいになれば本当に1Lなのだと、目盛りのない銀色の胴を眺める。
「氷も入れるからですよね?」
「それも、十分に入る」
「全部、十分で済ませるんですね」
理央が自分の炭酸水を寄せ、置かれた2脚を見比べた。
真壁とヴァルトがそれぞれ持つと、空になった普通のグラスが、急に小さく見える。
レイニャだけが、まだ普通のグラスを抱えていた。
彼女は自分の手元を見てから、2人の銀色の器を見た。
「あたしのは?」
「必要かね?」
「いただくニャ」
使うかどうかの話が、すぐ受け取る話になった。
真壁は口元をわずかに緩め、同じ形をもう1脚作る。
澪が卓を拭き終えるより先に、銀色の器は3脚になっていた。
「ここ、持っても冷たくないニャ」
レイニャは外壁へ両手を当て、頬を寄せる手前で止まった。
真壁が氷と酒、炭酸水を入れると、彼女は両手で胴を抱く。
短毛の三毛の手が、銀色の表面を包んだ。
縁へ口を持っていくため、いつもより少しだけ顎を上げる。
「持てますか?」
「持ってるニャ」
レイニャが答え、底を卓へ置いた。
そのまま両手を離さないので、飲むのも持つのも、もう決めたらしい。
澪が指の腹で真壁の器に触れると、冷たい水滴ではなく、滑らかな金属に当たった。
普通のグラスの下にあったような濡れ跡も、こちらには増えていない。
「確かに、拭く回数は減りますね」
「冷たさも長持ちする」
真壁は満足そうに器を持ち上げた。
ヴァルトは一口飲み、グラスで飲んだ時とは違う持ち方に直している。
そこへリュシアが戻り、使っている物を貸してくれと頼んだ。
真壁の1脚を受け取ると、内側を見てから、飲み物を持って歩く客の席へ目を向ける。
「1Lは客に出すには大きいね」
澪は大きく頷いた。
やっと、同じ所が気になる人が来た。
「もう少し小さいのを何種類か作れるかい?」
「可能だろう」
リュシアはその返事を聞き、器を真壁へ返した。
澪の頷いた首が、そのまま止まる。
「大きすぎるから、やめようという話ではないんですね」
「大きすぎるなら、小さくすればいいだろ?」
リュシアが答え、ニャニャミは帳面の新しい頁を探し始めた。
リュシアは製氷機へ戻り、扉を開けた。
中にある氷を見てから、隣の炭酸水メーカーのボトルを指す。
「こっちは、続けて何回使えるんだい?」
真壁が用意した設備の量と扱い方を答えると、リュシアは台の脇へ立ち、客が飲み物を受け取る場所まで見た。
「夏のフードコートで使うなら、厨房にも欲しいね。氷を取りに来る人と、客の列を分けないと」
「今、お酒を飲むために出した物ですよね?」
「だから使えるんだよ。夏のフードコートで氷がいつでも出せるんだよ?」
リュシアは澪へ答え、また機械へ向いた。
厨房では洗い終えた器が棚へ戻され、食器の音より、水を流す音の方が長くなっていた。
客の減った地下では、椅子を収める音が遠くまで響いた。灯りの下に並ぶ機械は、周りの卓が片付くほど目立っている。
「これ、どっちも増やせる?」
「同じ設備なら可能だ。ただ、使う台数と場所は決める必要がある」
「まず、ここで使ってみよう。水と電源、使った後の手入れも見たい。酒場や宿へ出すなら、そっちの使い方もあるしね」
ニャニャミの紙へ、製氷機と炭酸水メーカーが並んだ。
その下へ小容量のタンブラーと書き、リュシアが客へ出す飲み物の量を尋ねる。
今ある1Lの物には個人用と添え、ニャニャミはレイニャの持つ器を一度見た。
理央は炭酸水を飲みながら、銀色の3脚を見ていた。
「お酒を飲んでるだけなのに、書く物が増えてます」
「私は、まだ飲んでないよ」
リュシアが返すと、澪も自分の手元を見た。
そこには受渡しの控えしかない。
「私もです」
「あたしは飲んでるニャ」
大きな器が卓へ戻り、中で氷が鳴った。
リュシアはそれを聞いて、レイニャが持ち上げる時の両手の位置まで見ている。
「客用は、片手で持てるのも要るね。持ち帰りなら蓋も欲しいけど、まずここで出す分だ」
「真壁さん、普通に話を進めないでください」
「今は、質問に答えているだけだが」
真壁は銀色の器を置き、ヴァルトの方へ顔を向けた。
ヴァルトは、さっき描かれた断面の図を見直していた。
「真壁さん」
「何かね、ヴァルト君」
「これ、遊離魔素も閉じ込められるでしょうか」
真壁の手が、器へ届く前に止まった。
澪も、控えを畳む手を止める。
「……面白い」
ヴァルトは器の縁に指を添えたまま、内壁と外壁を見比べた。
「魔石では、魔素を結晶構造の中へ固定していますよね。固定せず、遊離したまま高密度で保持できる容器は、私は知りません」
「だが、真空が魔素を止める証拠はないな」
「もちろんです。魔素絶縁材とは別に、この構造で保持できないかと思っただけですよ。金属の壁で止まるかどうかも、別ですし」
澪は、真壁の手が収納へ向かわないことを確かめてから、畳みかけの紙へ目を戻した。
「できれば面白いな」
真壁はそれだけ言って、器を持ち上げた。
ヴァルトも図を卓へ戻し、残っているハイボールを飲む。
2人の器の底で、順に氷が鳴った。
「難しい話はいいから、もう一杯いただくニャ」
レイニャが器を少し持ち上げ、真壁へ中を見せる。
「君の用件は明快だな」
「氷も入れてニャ」
「承知した」
製氷機の扉が開いた。
リュシアは氷をすくう所を見て、最後の注意を紙へ書き足す。
ヴァルトは金属の外側へ手を添え、レイニャは注がれていく酒と炭酸水を見ていた。
澪は卓の真ん中を見回す。
「……好き放題やってますね」
「便利な物ができたんだから、使い道を考えてるだけだよ」
「私は、思いついたことを話しただけです」
「あたしは、飲んでるだけニャ」
3人分の返事が揃い、澪は最後に真壁を見た。
「君も、一杯どうかね」
「私まで座ったら、帰る話がなくなります」
理央が笑い、鞄を膝へ載せた。
ニャニャミも設備の紙をリュシアへ渡してから、自分の買付帳を閉じる。
「まだ、作る数は書いてないニャ」
「それでいいよ。夏前に使う分を、試してから決める」
リュシアは紙を受け取り、厨房側へ持っていった。
真壁は自分の酒器を空にし、洗ってから氷と水だけを入れ直す。
「これは朝まで置いて、どれくらい残るか見ておこう」
卓の端へ1脚を寄せ、片付ける人にもそのまま置くよう伝えた。
ヴァルトとレイニャは、自分の器を洗って持ち帰ると告げた。
レイニャは手琴の紐を直し、孤児院へ戻ると澪へ告げた。
ニャニャミも真壁へ明日の研修の時間を確かめ、買付帳を鞄へ収めた。
理央が人の通らない場所へ《関門接続》を開くと、向こうにはフェルナ村が見えた。ニャニャミは澪たちへ挨拶し、白い尾を揺らして帰っていく。
関門が消えるのを待ち、澪はレイニャとも挨拶を交わした。それから、理央を送るため、ゲンダイへ戻る道へ歩き出した。
後ろでまだ機械の音がしていた。
理央が振り向き、澪へ小さく笑う。
「あれ、明日もありますね」
「……たぶん、場所も決まってます」
澪は手元の紙を鞄へしまい、今夜はこれ以上増やさないよう、留め具を閉じた。
翌朝、仕事で共同商館へ来たヴァルトは、昨夜の卓の端で足を止めた。
地下の食品街では、朝の営業に向けて厨房の明かりが灯っていた。その光を受け、銀色の細長い器が卓の端に立っている。
他のグラスと皿は片付けられ、そこだけ、置いた時と同じ位置に残っていた。
外壁には、ほとんど水滴がない。
ヴァルトは上から覗き、少し傾けた。
底で硬い物が触れ合い、昨夜より小さな音がした。
水の中には、角の丸くなった氷がまだ残っている。
全部が水になっていると思っていたので、彼はもう一度、光を入れる向きへ器を動かした。
「……まだ残っていますね」
近くの台を確かめていた真壁が振り向いた。
「真空断熱だからな」
「朝まで、置いたままですよね?」
「ああ。途中で氷を足してはいない」
ヴァルトは外側へ指を添え、中の水との温度の違いを確かめた。
昨夜は、酒を飲む時に手が濡れないことを先に面白がった。
今は残っている氷を見て、深い器を持ち歩けば、中の冷たさも一緒に持っていけるのだと分かる。
壁の間の図が頭に浮かび、その続きに口にした思いつきも、少しだけ戻ってきた。
けれど、目の前で分かったのは氷のことだった。
「熱には効く。魔素は、別の話ですね」
「その通りだ」
ヴァルトは器を卓へ戻し、隣の台に置かれた紙を見た。
昨夜リュシアが受け取った、設備を試すためのメモだった。
製氷機と炭酸水メーカー、小容量のタンブラーが並び、1Lの方には、個人用と添えてある。
ヴァルトはその字を見て、真壁へ顔を向けた。
「こちらは、売らないことになったんですか?」
「リュシア君は、客用には大きすぎると言っていた」
「私たちの分は?」
「十分な量が入るだろう」
昨夜と同じ答えに、ヴァルトは少し笑った。
器を持ち上げ、厨房の洗浄へ回すため、置いてよい場所を尋ねる。
受け取った職員が、残る氷を見て、まだ使う物なのか確かめた。
「確認は終わりました。洗ってもらえますか」
水と氷が流され、銀色の胴が、洗い物を置く側へ移る。
ヴァルトが自分の仕事へ向かおうとすると、真壁は台の機械を確かめてから、メモを取り上げた。
「昼には、リュシア君と使う場所を相談する」
「お酒を飲む場所ですか?」
「氷と炭酸水を出す場所だ」
真壁は落ち着いて答え、紙を畳んだ。
ヴァルトは昨夜、酒のために使われていた設備へ一度目を戻し、今度はその前を空けて通った。
洗い場の方で、最後の氷が小さく鳴った。