理央はノートの頁を開いたまま、机へ置いた服地を指先で撫でた。
北で残した基準片は、朝の窓から入る光の下でも、折り目の所だけ細く光っている。
隣へ毛布の見本を出すと、同じ羊毛から作ったとは思えない厚みになった。
こちらを子どもたちへ届け、薄い方は服を仕立てる人へ渡す。
そこまでは、昨日の共同商館で話ができた。
「澪さん、染料って、どこで買えばいいんでしょう」
向かいの机で書類を揃えていた澪が、顔を上げた。
江古田の新事務所には、商館の厨房から流れてきたような湯気も、食器の音もない。
窓を少し開けておくと、道路を走る車の音に、遠くの電車の音が重なって届いた。
春の光が机を斜めに照らし、理央のノートには、窓枠の影が掛かっている。
「手芸店か、通販でしょうか。今まで使った分より、たくさん要りますよね」
「はい。毛布も服地も、続けて作るなら」
理央は携帯で調べていた画面を、澪へ向けた。
20g入り、50g入りと並んだ袋は、最初に見た時には、ずいぶん使えそうに思えた。
だが、試験片の横へ毛布の枚数を書く欄を作ってみると、その袋だけで本番まで済む気がしなくなる。
「孤児院の必要数は、これからですよね」
「人数だけでなく、洗っている間の分も聞いてもらっています」
「じゃあ、たぶん、この袋をいっぱい……」
理央は言いかけて、画面を下へ送った。
家庭用ではない物を探すと、今度は500gや1kgの容器が出てくる。
袋から缶へ変わっただけで、買物の難しさまで大きくなった。
「いっぱい買って、合わなかったら困りますね」
「まず試す分を買って、その結果で本番の量を決めましょう。何色にします?」
理央は毛布の見本を手前へ引いた。
真っ白なら、手元にある基準品のままでいい。
けれど、子どもが自分の毛布を選ぶ時のことを考えると、違う色も置きたかった。
「水色と、薄い赤色がいいと思います。暗い色ばかりにしないで、2色なら、使う方も選べますし」
「真っ白より、日々の汚れも気になりにくいでしょうか」
「はい。どちらかがなくなった時も、次に同じ色を作れるようにしたいです」
理央は頁の上へ2つの色を書き、線を引いてから、服地の方へ手を移した。
「こっちは、濃紺とチャコールグレーと黒で」
「仕事着にも使いやすそうですね」
濃紺の横には、リュシアに見せる、と書き添えた。
色が違えば欲しいと言われた布は、まだ机の上で淡いままだ。
理央は検索欄へ羊毛用と加え、表示された水色の見本を指した。
「こういう色です」
「こっちの方が、毛布には柔らかそうですけど」
澪が隣を指したので、理央は2つの画像を切り替えて見た。
どちらも水色と書いてあるのに、片方は緑が近く、もう片方は青が強い。
「……水色って、1色じゃないんですね」
「薄い青、と思ってました」
「私もです」
理央が別の頁を開くと、また違う水色が増えた。
もう携帯を傾けても、どれが近いのか分からない。
画面の明るさを変えかけた手を止め、彼女は机の毛布を見た。
「実物で比べたいです。染料も、羊毛に使える物を聞いてから決めたいですし」
澪は自分の携帯でも探し、浅草の染料専門店の案内を開いた。
法人の大口だけでなく、個人や小分けの相談にも対応しているという。
「ここなら、いきなり大きな缶を買わなくてもよさそうです」
「私たちみたいな試作でも、聞けますかね」
「聞いてみましょう。私も染料のことは詳しくないですから」
理央は試作する素材と欲しい色をまとめ、澪と一緒に店へ電話を掛けた。
小分けの相談ができると聞いてから、店の場所をノートへ書き留める。
買う物の欄は、まだ空けておいた。
画面にある水色の画像を閉じ、理央は毛布と服地の基準片を、相談に持っていく紙の上へ並べた。
毛布を包んで鞄へ入れた所で、澪が封筒を持ってきた。
理央は、それも店へ持参する資料かと思って受け取る。
口を開いた途端、中に並んだ1万円札が見えた。
「……これ、何ですか」
「染料を買うお金です」
理央は封筒を閉じ、もう一度、開けた。
紙幣は減っていないし、見間違いでもなかった。
「私が持つんですか」
「はい。今日は理央ちゃんが、試作に使う物を選びますから」
「これ、会社のお金ですよね」
「会社のお金です」
澪の返事があまりに普通なので、理央は封筒を机へ戻した。
包んだ毛布より、こちらの方が置く時に気を使った。
「先に、一緒に数えましょう。10万円です」
理央は席へ座り直し、紙幣を机の空いている所へ出した。
10枚を数え、端を揃えてから、澪が見ている前でもう一度数える。
自分の買物なら、携帯に表示された残高を見れば済むことが多い。
今は、指先で1枚送るたび、預かるという言葉がはっきりしてくる。
「全部使う、という意味じゃないですからね」
「分かってます。それは、分かってます」
理央は封筒へ戻しながら答えたが、澪が続けようとすると、今度はペンを持った。
買う物は店で相談して決め、支払ったら会社宛の領収書と明細を受け取る。
戻った時に、残った現金と一緒に渡す。
聞いた内容をノートへ書くと、やること自体は短かった。
「領収書の宛名は、合同会社押入商会ですね」
「はい」
経理の整理を手伝った時にも、その名前の書かれた紙は何枚も見た。
日付や金額を確かめ、明細と揃えて綴じたこともある。
それでも、自分が店の人へ頼んで受け取るのだと思うと、ノートに書いた会社名を、もう一度読みたくなった。
「もし、どれを買えばいいか分からなくなったら」
「店の方に聞きましょう」
「それでも決められなかったら」
「その場で私にも聞いてください。今日は一緒に行きます」
理央は澪の顔を見てから、封筒の口を折った。
1人で専門店へ行き、何万円も使って帰るわけではない。
そこには安心したのに、鞄へしまう場所は、なかなか決められなかった。
財布の隣へ入れかけて、手を引く。
「混ざると怖いので、こっちにします」
自分の財布と離れた内ポケットへ封筒を入れ、ファスナーを閉めた。
もう一度、上から触って入っていることを確かめる。
澪はその手を見ていたが、急かさず、机に置いた相談用の紙をまとめてくれた。
「電車代は、どっちのお金ですか」
「仕事で行く分ですから、会社へ精算します。今日はそれぞれのICカードを使って、交通費は別に残しましょう。この封筒は染料用で」
「お昼は?」
「いつものお昼なら、自分のお金です」
「……境目が難しいです」
「私も、迷ったら分けて書いてます」
理央は交通費の欄を別に作り、自分の財布を取り出した。
中にICカードがあることを確かめると、澪が小さく笑う。
「そっちは、普段も持ってますよね」
「今日は、普段の方まで分からなくなりそうなので」
鞄を肩へ掛けると、いつもより紐が重く感じた。
基準片もノートも入っているが、理央の手は、自然に内ポケットの上へ戻る。
澪が照明を消す間、事務所の入口で待ち、扉が施錠されたのを見てから、一緒に駅へ歩き出した。
さっき窓越しに聞いた電車の音が、今度は、行く先の方から聞こえていた。
電車を乗り継いで浅草へ着く頃には、理央の手は、鞄の紐を持つ所へ落ち着いていた。
改札でICカードを使う時だけ、自分の財布を出し、封筒の入ったポケットには触らない。
澪の隣で階段を上がると、地上の光が駅の灯りより白く見えた。
外は晴れていたが、建物の陰を抜ける風はまだ冷たい。
人の多い方から道を分かれ、携帯に出した地図を見ながら歩くと、店先に荷物を置く人や、台車を押す人が増えてきた。
理央は澪と、通る人の邪魔にならない壁際へ寄った。
「ここですね」
電話で聞いた店名を入口で確かめ、澪が扉を開ける。
中は、手芸店で見かけるような、完成品を並べた場所ではなかった。
棚の容器には色名と番号が付き、足元には発送する箱が重ねてある。
奥で電話に応じている声が聞こえ、カウンターには、見本帳と小分けの容器が置かれていた。
紙と段ボールの匂いが、外を歩いている時より近い。
青い物を買いに来たはずなのに、棚にある容器は、みんな似た形だった。
理央は蓋の色で探すのをやめ、相談の紙を手元へ出した。
「先ほど、小分けの染料でお電話した者です」
店員が応じ、カウンターの空いた所へ案内してくれる。
澪は隣へ立ち、理央が鞄を置けるよう、少しだけ横へ寄った。
そこで初めて、理央は鞄の紐を離した。
「羊毛を使った毛布と服地の試作をしています。毛布は水色と薄い赤色で、服地は、濃紺とチャコールグレーと黒を考えています」
持参した基準片を出すと、店員は、触ってもよいか尋ねてから、薄い布の端を持ち上げた。
毛布の方は少し押し、厚みの違いを見ている。
「仕上がりは、こういう物ですね。お色は、こちらを見ながら伺いましょうか」
見本帳が開かれ、理央は、水色の並ぶ頁へ目を落とした。
携帯で見た時より、違いがよく分かる。
その分、選ぶのが簡単になったわけではなかった。
淡くても緑へ寄った物、青を感じる物、灰色を含んでいるように見える物が、同じ頁に並んでいた。
「この辺ですかね」
理央が指した所へ、澪も顔を寄せる。
「毛布なら、こっちもきれいです」
「そっちだと、青が強くないですか」
「では、これでしょうか」
澪が次を指したので、理央は見本帳から顔を上げた。
「候補、増えてます」
「減らすつもりだったんですけど」
店員が、比べたい色の頁を見やすく押さえてくれた。
理央はその上へ、自分の指を戻す。
白い毛布の横に置いた時、色が強く見えすぎない物がよかった。
離れて眺め、もう一度近づいて、青と緑の間で迷っていた指を止めた。
「まず、この色を目標にしたいです」
店員は番号を控え、薄い赤色の方も開いた。
理央が毛布の上へ片手を置くと、澪が今度は、先に彼女を見る。
「候補は、理央ちゃんが選んでください」
「さっきも私が……あ、でも、これもいいですね」
言いかけた理央の指が2つ目へ動き、澪の口元が緩んだ。
彼女は自分で増やした候補を見比べ、最初に選んだ淡い方を残した。
店員にその番号を伝えてから、服地の3色へ移る。
濃紺は黒に近くても、折った所で青が見える色を選び、チャコールグレーは、明るい灰色と離して比べた。
「制服にも使いたいので、次に作る時も、なるべく同じ色にしたいです」
「それでしたら、使う染料と配合を残していただくのがいいですね。仕上がりの見本も取っておくと、後で比べられます」
理央はノートを開き、選んだ番号の横へ、布の見本を残すと書いた。
原料や織り方の控えだけでは、店へ来た時のこの色は伝えられない。
「選んだ色を試作と比べたいんですが、小さい見本を持ち帰れますか」
「はい。お選びの5色を用意します」
理央は礼を言い、ノートへ番号を書く欄とは別に、色票を添える所を空けた。
店員は毛布の端を戻し、改めて、薄い服地の方へ目を向けた。
「羊毛でしたら、糸を染めますか。それとも生地になってからですか」
理央はペンを浮かせたまま、自分のノートの工程欄へ視線を移した。
「どっちでもなくて、一度溶かします」
理央が答えると、店員の手が見本帳の上で止まった。
隣にいた澪も、基準片を包み直す手を止めている。
「……羊毛を、ですか?」
「はい。溶かして、必要な成分だけにして、そこへ染料を混ぜてから、繊維に戻します」
「繊維に……戻す?」
「それを糸にして、布にします」
店員は、カウンターに載っている布を、もう一度見た。
理央も同じ物へ目を落とし、どこが足りなかったのか、工程を頭の中で辿る。
北では、繊維を揃える所までできたら、次は撚りや織り方を聞かれた。
今、止まっているのは、それより手前らしい。
「糸にしてからではなく、ということですね」
「なる前です」
「原毛の状態で色を付けるのでしょうか」
「それより前です」
店員の視線が、薄い布から、毛布へ戻った。
理央は、もっと分かりやすく言い直そうと口を開く。
「一度、羊毛じゃなくします」
「理央ちゃん、その説明は、もっと分からなくなります」
澪が横から言ったので、理央はペンを持った手を下ろした。
店員は困った顔を隠さず、それでも、話を途中で終わらせる様子はなかった。
「最終的には、羊毛の繊維になるんですね?」
「はい。戻します」
「戻す……」
理央は、今度こそ余計な言葉を足さずに待った。
澪が咳払いし、カウンターの紙へ、原料の段階と書く。
「特殊な加工設備を使って、原料から繊維を作る試験なんです。通常の糸染めとは工程が違います」
それを聞くと、店員は理央の持参した紙へ目を向けた。
染料と羊毛の成分を混ぜてから、繊維や糸の形へする。
理央も、澪が書いた所を指し、色を付けたいのはここだと説明し直した。
「なるほど。その工程でどう定着するかは、こちらでは保証できません」
店員は、分かったふりをせずに言った。
「一般的な羊毛向けでご案内するなら、こちらの酸性染料の系統になります。まず少量で、実際の工程に合わせて試していただきたいです」
「この色の物を買っても、同じ色に出るとは限らないんですね」
「はい。こちらの見本も、一定の染め方で出した色ですから」
理央は、自分が選んだ水色へ顔を戻した。
さっき決めた番号を、そのまま自分の工程へ入れられるわけではない。
専門店へ来れば、最後の空欄まで埋まる気がしていたのだが、ノートには、まだ自分で書かなければならない所が残った。
「では、混ぜる量を変えて比べるところからやってみます。青を薄くして水色にして、濃紺は黒も合わせる、という相談はできますか」
「基本になる色と、調整に使う色は選べます。同じ系統で組み合わせた方が、試験も揃えやすいでしょう。ただ、実際の発色は、やはり試料を見てください」
店員は青、赤、黒を候補にし、色味を整えるための黄も、少量から持てると説明した。
理央は青の用途を2つ書き、黒の方には、黒そのものとは別に、濃紺と灰色の調整を書き添える。
話を聞いているうち、4色の容器と、作りたい5色との関係が、ノートの上でつながってきた。
「この工程で試す場合、色が揃うか以外に、特に見ておいた方がいい所はありますか」
店員は、理央が開いている工程の頁へ目を向けた。
「水洗いした後の色や、擦った時の色移りも見てください。洗濯や光でどう変わるかも、用途に合わせて」
理央は、聞いた言葉を工程の横へ書いた。
毛布なら、使う子だけでなく、洗って干す人がいる。
服地は、着て歩き、袖が擦れ、日が当たる所へも出る。
基準片を撫でていた指を止め、彼女は試験の頁を1枚増やした。
「今は、試作と最初に作る分だけにします。配合が決まってから、まとまった量を注文したいです」
「承知しました。では、小分けの量を見ましょう」
澪が包み直してくれた布を鞄へ戻し、理央は、まだ空いていた購入欄を、カウンターの手前へ寄せた。
店員が示した小分けの量を見ながら、理央は購入欄へ青500gと書いた。
黒も500gにし、赤の所では、一度、ペンを止める。
「赤は毛布だけなので、300gにしたいです。調整用の黄は、100gで」
それぞれ小分けで用意できると聞き、理央は4色の量を読み返した。
店員も品名と数量を復唱し、金額を示してくれる。
合計は数万円で、持ってきた封筒の中だけで支払える額だった。
理央は、相談していた時には見なかった鞄のポケットへ、手を入れた。
「こちらで、お願いします」
澪が横にいるのを見てから、店員へ言った。
澪は代わりに注文せず、理央のノートの数量へ、短く目を通した。
容器が揃うまでの間、理央は、後で同じ物を注文する時の品番も聞いておく。
店員が購入する染料の欄を示したので、選んだ色見本の番号とは分けて書き留めた。
「本発注の前に、試験で使った量を見て、もう一度相談させてください」
「はい。その際も、この品番でお知らせください」
カウンターへ並んだ容器は、持参した毛布よりずっと小さかった。
青を2つの仕上がりに使い、黒も3つの用途へ回す。
理央はラベルとノートを見比べ、赤と黄の量も確かめてから、封筒を開いた。
必要な紙幣を数え、支払う方だけをトレーへ置く。
残りはすぐ封筒へ戻した。
店員が現金を受け取り、釣銭を用意する間、理央は、自分のノートへ支払額を書いた。
「領収書はいりますか?」
「お願いします」
「お宛名は?」
理央は、ノートへ目を戻しかけた。
今朝書いた名前は、もう覚えている。
手を止め、店員の方を向いた。
「合同会社押入商会でお願いします」
店員が復唱し、宛名を記入する。
理央は、そのペン先が動く間、無意識に背筋を伸ばしていた。
隣で澪が見ているが、会社名を代わりに言ってはくれない。
それが困るのではなく、今は、自分の返事で書いてもらえたことを、最後まで見ていたかった。
「こちらが領収書と、購入明細です」
「ありがとうございます」
理央は両手で受け取り、日付と宛名へ目を通した。
4色の品名と量を明細で見て、合計を領収書の金額へ合わせる。
釣銭も受け取り、自分の書いた支払額と見比べた。
「……合ってます」
「はい。私も同じです」
澪が答えると、理央は、もう一度数えかけていた硬貨を封筒へ戻した。
店員は容器を袋へまとめ、理央の手元にある紙が入るように、袋の口を広くしてくれた。
だが、理央はそちらへ紙を入れず、持参した透明ファイルを開く。
領収書と明細を重ね、角を揃えて奥まで差し込んだ。
「紙は、別にします」
「では、こちらをどうぞ」
店員が用意してくれた5色の色票を受け取り、選んだ番号と合わせて、相談用の紙へ添えた。
領収書とは別の所へ収め、染料の袋も受け取ってから、店を出た。
外へ出ると、風が理央の前髪を動かした。
遠くで人の話す声が重なり、昼を食べに行くらしい人たちが、道の先へ歩いていく。
理央は入口を空け、澪と並んで、邪魔にならない所まで移った。
「これ、持ったまま帰らなくてもいいですよね」
袋の方を見て聞くと、澪が周囲を確かめた。
人の目を避けて容器を靄へ収めれば、理央の片手は空く。
店のラベルごと分けて保管し、次に出す時にも取り違えないようにした。
ところが、もう片方の手に持った透明ファイルは、そのままだった。
「そちらも、しまえますよ」
「これは、なくすと困るので」
「染料も、なくしたら困りますけど」
理央は収納した物の位置を確かめ、今度はファイルの中を見た。
会社名も金額も、ちゃんとそこにある。
「物の方は、後から探せる気がするんです」
「紙も物ですよ」
「……分かってるんですけど」
理央はファイルを鞄へ入れ、紙が折れない場所へ、手帳を添えておいた。
澪が歩き出してから、今度は内ポケットの封筒に触れず、ファイルの入った方へ手を当てる。
帰りの電車へ向かうまで、指先は、そちらの角を覚えていた。
江古田へ戻るまでに昼食を済ませ、2人は新事務所の収納接続区画から、異世界側へ渡った。
共同商館の作業台へ着くと、ニャニャミが帳面を開いて待っていた。
窓の光はまだ明るく、フードコートの方から、人の話す声が届いている。
理央は鞄を作業台から離した椅子へ置き、先に、持参した基準片を出した。
「染料、買ってきました」
4つの容器を靄から出して並べると、ニャニャミの金色の目が、その間を動いた。
「これが、全部違う色ニャ?」
「青と赤と黒と黄です。作りたい布は5色ですけど」
理央は品番を読み上げ、買った量も伝えた。
ニャニャミは白い手で容器を1つずつ指し、聞いた数字を帳面へ移していく。
リュシアは色見本を持ってきて、青の容器から離れた所へ並べた。
「服地は、この辺の色が欲しいんだよ。仕事着なら、紺と灰色。黒も、これくらい深いのがいいね」
理央は店で受け取った5色の色票を出し、彼女が示した見本の隣へ置いた。
濃紺とチャコールグレーを1つずつ見比べると、リュシアも指で端を揃える。
「こっちを目標にしても、よさそうだね。できた布は、私にも見せておくれ」
理央は目標にする色票を決め、見本帳で控えた番号をニャニャミへ伝えた。
毛布用の水色と薄い赤色は、服地用と離して、台の手前へ置く。
「水色と紺は、同じ物から作るんだね」
「はい。混ぜる量を変えてみます。今日は、まず小さい見本で」
理央は、既に使っている羊毛加工の頁を開いた。
収納してある原料を少量ずつ溶解し、残すケラチン主体の成分と、脂や元の色に関わる不要な成分を分ける。
分離後の成分を《鑑定》し、量を揃えてから、比べるための試料を分けた。
理央が成分と量を読み上げると、ニャニャミは別の欄へ書き留め、聞き取った数を読み返した。
「水色からやります。最初は、この量で」
理央は青を混ぜる量を伝え、原料の中で均一にしてから、定めた太さと長さの繊維へ固形化した。
糸にする条件も、毛布に織る条件も、北で揃えた物に合わせる。
厚みを持たせ、仕上げた小さな見本を台へ出すと、澪が手を伸ばすより先に、色だけはよく見えた。
「……水色ですか?」
「青ですね」
「青ニャ」
「青だね」
理央は、台を囲んだ3人を順に見た。
「全員で言わなくても、分かります」
ニャニャミの耳が小さく動き、リュシアは毛布の端を持ち上げた。
厚みも、押した後の戻り方も、基準片と近い。
理央が水色の色票を横へ置くと、毛布の青さが、ますますはっきりした。
「これでも、青い毛布にはなるよ」
「でも、今日決めた水色ではないです」
理央は見本に番号を付け、ニャニャミへ最初の配合を残すよう頼んだ。
次は原料の量を変えず、青を減らす。
出てきた物は淡くなったが、まだ、毛羽の間に見える青が強かった。
3回目の量を決める前に、理央は容器へ目を向けた。
小さな試験でも、出すたびに、買った物が減っていく。
朝の封筒と店の金額が頭に浮かび、次の試料を作る手順を、もう一度見直した。
「無駄にしないように、もう少し……」
「今、無駄になってますか?」
澪が尋ね、1回目と2回目を並べた。
「どれだけ減らせば薄くなるかは、分かってきましたよね」
ニャニャミも、成功欄を空けたまま、配合の欄を理央へ向けた。
「この量は青すぎたニャ。それも残すニャ」
理央は、片付けかけた青い見本を、番号の紙の上へ戻した。
2回目の見本と並べると、減らした染料の量と、薄くなった色を、一緒に辿れる。
「これも、比べる分に残します。次は、ここまで減らしてみます」
彼女はニャニャミへ3回目の量を伝え、先の2枚と番号を取り違えないように置き直した。
今度は、基準の白と並べた時に、毛羽の上へ淡い色が載って見える。
澪が窓へ向けて持ち上げると、理央も色票を持って傍へ行った。
同じ光の下へ並べると、色票との差は小さく、毛布を裏へ返しても、表との色の違いはほとんど見えない。
「これは、近いです」
「ここで、比べる物を残しておきましょう」
水色の欄へ候補の番号を書き、続けて、青と黒を合わせた濃紺を試した。
こちらは少ない修正で、折った所に青が出る、深い色になった。
リュシアは理央が出した布を窓へ向け、持参した黒の色見本を隣へ添えた。
「黒と並べた時に、ちゃんと紺だと分かるくらいがいい。暗くしすぎないでおくれ」
理央は濃紺の色票も並べ、黒との境を目で追った。
布を平らに伸ばすと差が見えにくくなったので、黒を加えた量を少し戻して作り直す。
次の試料を同じ所へ置くと、リュシアは黒の見本を離し、紺だけを肩へ当てた。
「これは、商館の仕事着にもよさそうだね。袖に使う布も、同じ物が欲しいよ」
「次の原料でも、この配合で出るか比べます」
理央は候補を分け、同じ色を作り直すための欄へ移した。
濃紺が決まると、気持ちも少し軽くなる。
だが、薄い赤色に進んだ所で、次に出した毛布は、遠くから見れば白とあまり変わらなかった。
赤を増やした2枚目には、はっきりと色が付いた。
「これは?」
「ピンクですね」
「ピンクニャ」
「ニャニャミさんまで覚えなくていいです」
理央が言うと、ニャニャミは、その言葉を見本の番号の横へ書いた。
「違う色なら、分けるニャ」
理央は笑いかけ、紙へ載った番号を見てから、薄い1枚目もそちらへ渡した。
黄は調整用だからと、いきなり混ぜるのをやめ、まず赤だけの量を、1枚目と2枚目の間へ寄せる。
できた毛布には、手を載せた時にも、淡い赤みが残った。
理央は薄い赤色の色票を傍へ置き、さっきの2枚を離してから見比べた。
澪は水色と離して置き、リュシアは、それぞれ1枚ずつになるよう端を揃えた。
「これなら、子どもも選びやすいね。どっちも同じ暖かさなんだろ?」
「はい。色以外の条件は、揃えてます」
ニャニャミが厚みと加工の欄を読み上げ、理央は、自分のノートの値と合わせた。
毛布2色の候補から試験片を分け、理央が洗う前の寸法を測った。
ニャニャミがその値を書き終えると、澪は試験片を水で洗った。
洗う前に残す片を濡らさないよう脇へ寄せ、洗った分は、窓に近い所へ広げて干す。
理央は、残した毛布の片を番号の紙へ置き、服地のチャコールグレーへ移った。
黒を薄くすればすぐできると思っていたのに、並べた物の片方には青が近く、別の物は、赤みが残って見えた。
黄を使った調整分も加え、理央は3枚を台へ置く。
「違い、分かります?」
「……並べると」
「並べないと?」
「灰色です」
澪の答えを聞いて、理央は、見本を1枚だけ手前へ出した。
リュシアがそれを取ると、明るい窓へ向けて歩く。
「売る時は、3枚並べるんじゃないんだから、ちゃんと決めとくれ。こっちは、青い上着と組ませたいのかい?」
「特に、青に合わせるつもりではないです」
「じゃあ、今の青みは少ない方が使いやすいね。単独で見た時の色も決めよう」
理央は、彼女が戻した見本を置き、ほかの2枚を隠して比べた。
並べていた時には端の差ばかり追っていたのに、1枚になると、折り目に出る色が目に入る。
ニャニャミがその番号を残し、理央は、チャコールグレーの色票とも合わせながら、調整の量を詰めた。
チャコールの候補を決める頃には、窓枠の影が、台の上から床へ移っていた。
最後の黒は、台へ出した時には、黒に見えた。
理央はそのまま候補へ加えかけ、店員の言葉を思い出して、窓へ持っていく。
傾けた面が光を受けると、端に、ほのかな青が現れた。
「黒って、黒じゃないんですか」
「黒は黒だよ。だから難しいんだよ」
「分からない説明されました」
リュシアは笑ったが、布を戻す手は、その青く見えた面を上にしていた。
「暗い所だけで見て決めると、着て外へ出た時に違って見えるよ。紺と並べたら、もっと分かるんじゃないかい」
理央は濃紺の候補を取り、黒の隣へ置いた。
ニャニャミは黒の量を増やすだけの欄を閉じず、色味を変えた場合も横へ足す。
理央も、量の違いと、組合せの違いを分けて、次の小さな試料を作った。
店から届いた数字だけでは埋まらなかった所が、今は、目の前の布を見て書ける。
澪は灯りの下へ候補を運び、理央は窓辺で見た色と比べた。
黒の色票と並べ、濃紺の布とは離し、表も裏も返してから、黒の候補へ番号を記した。
その頃には、先に洗って干しておいた水色と薄い赤色の見本が、触っても冷たくなくなっていた。
澪が理央を呼び、乾いた物を、洗う前に残した片と並べる。
毛布の寸法を測り直す間に、ニャニャミは、干す前の値が載った頁を開いた。
「ここは、同じニャ」
「縮みは、今の分なら、この範囲ですね。でも、洗濯を繰り返した分も見たいです」
理央は結果を書き、まだ終えていない欄を空けておいた。
服地も、水洗いした片を乾かす間に、残した片を白い布へ擦ってみた。
理央は使っていない白布と隣り合わせにして、目立つ色の跡が付いていないことを確かめ、擦った側の番号もノートへ残す。
澪が乾いた服地も持ってきたので、理央は洗う前の片と重ね、色が大きく変わっていないか比べた。
折って戻し、角度を変えて光を当てると、リュシアも、濃紺と黒を別々に持ち上げる。
「色が決まったからって、全部これで売るのは、まだだね」
「はい。今日は見本です。同じ配合で作り直す分と、使って洗う分も残します」
理央が答えると、リュシアは販売する布とは分けておくよう言い、5色の候補を台の中央へ返した。
毛布の2枚だけがふくらみ、服地の3枚は、端を重ねても薄い。
理央はノートと見本の番号を揃え、鞄の方へ顔を向けた。
領収書は、作業を始める前と同じ所に、透明ファイルのまま入っている。
「これで、一度ゲンダイへ戻って精算します」
ニャニャミは配合表を閉じかけ、青の欄へ指を戻した。
「青、もっといるニャ」
理央は、鞄へ伸ばした手を止めた。
「……もうですか?」
「本番の分ニャ。水色と濃紺、両方で使うニャ」
白い指が、別々に書いた配合を辿った。
今の容器には、試作を続ける分が残っている。
けれど毛布を何枚も作り、服地を反物にすれば、買った分だけで済ませられるとは限らない。
理央はノートを開き直し、今日の試料と、本生産へ使う材料を分けて書いた。
「赤も、そのうちいるニャ」
「先に青の話をさせてください」
ニャニャミは耳を起こしたまま、青の品番を別の紙へ写し、理央へ差し出した。
下には、水色と濃紺に使うことが書いてある。
「量は、作る枚数を決めてから相談しましょう。今日は、これも持って帰ります」
「分かったニャ。こっちの帳面にも残すニャ」
理央が紙をノートへ挟むと、ニャニャミは配合表を自分の前へ引き寄せた。
理央は色票を相談用の紙へ戻し、リュシアが持参した見本を彼女へ返した。
候補の見本を包み、ほかの試料は番号ごとに収納する。
青すぎた最初の毛布も、今度は、迷わず残した。
ニャニャミは試作の帳面を揃え、リュシアへ結果を見せてから、フェルナ村へ帰ると言った。
「次に作る分も、今日の番号で分かるようにしておくニャ」
「お願いします。それじゃ、また」
澪と理央が作業台を離れる時にも、彼女のペンは、まだ配合の欄を辿っていた。
澪と理央が新事務所の接続区画から出ると、窓の外は、もう暗かった。
理央は鞄を机の脇へ置き、包んで持ち帰った5色の見本を、乾いた所へ広げた。
共同商館で聞こえていた声はなく、道路を通る車の灯りだけが、窓の端を動いていく。
理央は会社用の封筒を取り出した。
残った紙幣と釣銭を数え、透明ファイルから領収書と明細を出す。
ノートへ足した金額を見てから、全部を澪の前へ置いた。
「これ、残りです。数えてください」
「理央ちゃんが数えたんですよね?」
「数えました。でも会社のお金なので、もう1回お願いします」
澪が椅子を引いて座り、紙幣を1枚ずつ送った。
硬貨も別に数えて、明細の購入額と合わせる。
朝に渡された10万円になると分かるまで、理央は、机に載った封筒を見ていた。
「合っています」
澪が残金を会社の保管用へ移すのを見て、理央はようやく、背もたれへ肩を預けた。
交通費は、乗り継いだ経路と支払った運賃を照らし合わせ、染料とは別の紙へ残す。
昼食に使った自分の財布は、鞄へ戻したまま触らなかった。
澪が領収書を持ち上げると、理央はまた、前へ座り直した。
「すごくきれいですね」
「なくしたら駄目だと思って。折れない所へ入れてました」
「これと明細は、会社で保管しますね」
「……私が、持ってなくていいんですか」
言ってから、理央は、以前自分が揃えて綴じた書類を思い出した。
買った人の鞄に入ったままでは、経理の仕事ができない。
分かっているのに、今日は、澪の指へ渡った紙を、目で追ってしまう。
「会社の領収書ですから」
「そうですよね。お願いします」
澪は明細を重ね、保管するファイルへ綴じた。
理央の手元に戻った透明ファイルは、紙がない分、薄くなっていた。
ノートを開くと、朝に書いた仮払いの金額の下へ、返した残金を書ける。
自分で、その数字を足した。
澪が会社の記録を開き、用途を確かめる。
「毛布と服地の試作用染料、でいいですね」
「はい。購入した色と量は、こちらです」
理央は店の品番を示し、共同商館で書き留めた配合の頁も開いた。
数字を突き合わせ、記録へ入った染料仕入の一行を見る。
購入者の所には、飯島理央とあった。
理央は自分の名前へ目を留め、それから、机の反対側へ並べた水色の見本を見た。
店で選んだ色に近づけるため、何回か作り直した物だ。
毛羽へ触れると、指の下で沈み、離した所が戻ってくる。
「澪さん。会社のお金って、自分のお金より使うの怖いですね」
「必要な物をちゃんと買えましたし、残ったお金も、こうして戻せましたよ」
理央は領収書の収まったファイルを見てから、薄い赤色の見本を水色の横へ寄せた。
「でも、また買いに行くんですよね」
「この色で本番を作るなら、今度はもっと要りますね。続けて試す分もありますし」
「……次は、もう少し慣れておきます」
ノートを閉じようとすると、挟んでいた紙が、机へ滑り落ちた。
ニャニャミが写してくれた、青の品番だ。
理央は拾い上げ、水色と濃紺の見本の間へ置いた。
「青は、もう追加の相談も来ていますし」
「赤も言っていましたね」
「先に青って、お願いしたんですけど」
澪は紙を手に取り、明細の品番と見比べた。
「枚数を決めたら、必要な量を出して、注文しましょう」
「また領収書もらうんですか」
「そこから慣れるんですか?」
理央は笑いながら、空になった会社用の封筒を畳んだ。
次に持つ時には、店で聞く品番と、欲しい量を、もっとはっきり書いて行ける。
「次は、最初から押入商会って言えます」
「染料の方にも、慣れてくださいね」
澪が青の品番の紙を戻すと、理央は封筒を置いた手で口元を押さえた。
澪は時計を見て、理央を家まで送ると告げる。
理央は追加の相談をする紙をノートへ挟み直し、5色の見本を包んだ。
領収書は、もう鞄のポケットへ戻さない。
空の透明ファイルを閉じると、重ねた水色と薄い赤色の毛布が、その隣の包みを柔らかくふくらませていた。