押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第41話 銀行アプリと扶養の電話

 六畳間のローテーブルの上には、スマホと記録帳と電卓と、なぜか未開封の20mlクリームケースの袋が並んでいた。

 

 片づけたつもりだった。

 

 少なくとも澪は、白金インゴット1kgを売りに出す前、部屋の中を一度は片づけたつもりでいた。だが戻ってきてみると、容器の段ボールは壁際に積み上がり、グリセリンの空き箱は棚の下に押し込まれ、レシートの束はローテーブルの端で扇みたいに広がっている。

 

 押入商会は、会社である。

 

 会社であるはずなのに、代表社員の作業場は六畳間で、代表社員の膝の上には家計簿用だった古い電卓が乗っている。

 

 澪は深呼吸して、スマホを持った。

 

 銀行アプリを開く。

 

 暗証番号を入れる指が、少し滑った。

 

「落ち着け、あたし。見るだけ。見るだけだから」

 

 画面が切り替わった。

 

 合同会社押入商会。

 

 普通預金。

 

 12,761,000円。

 

 澪は、呼吸を忘れた。

 

 ローテーブルの上で、スマホ画面だけが静かに光っている。六畳間の蛍光灯より、その数字の方がよほどまぶしかった。

 

 入出金明細を開く。

 

 白金素材売却代金。

 

 10,800,000円。

 

「……入ってる」

 

 声が小さく出た。

 

 白金インゴット1kg。

 

 あれだけで、会社の口座の数字が跳ねた。

 

 一瞬だけ、胸の奥が持ち上がった。容器代。グリセリン代。光る棚。発電シート。力をためる箱。これで払える。次も買える。やっと、押入商会が息を吸える。

 

 けれど、澪はスマホを置く前に記録帳を引き寄せた。

 

 喜ぶのは危ない。

 

 残高は、残高であって、自由に使えるお金ではない。

 

 この数字には、もう行き先がある。

 

 澪はペンを持ち、白いページに書き始めた。

 

 役員借入金、3,000,000円。

 

 カード引き落とし予定。

 

 容器代。

 

 グリセリン代。

 

 栽培用品。

 

 発電用品。

 

 白金調達未払い。

 

 税金用取り置き。

 

 次回仕入れ。

 

 明石さんへ報告。

 

 項目が増えるたびに、12,761,000円という数字が少しずつ遠くなっていく。

 

「残高が増えたのに、使える気がしない……」

 

 澪はスマホと記録帳を交互に見た。

 

 たぶん、ここで勝手に動かしたら怒られる。

 

 いや、怒られるだけならいい。帳面が壊れる。明石さんの、柔らかいけれど逃げ道のない声が頭に浮かんだ。

 

 澪は通話履歴を開き、明石さんの名前を押した。

 

 コール音が鳴る。

 

 その間に、澪は背筋を伸ばした。なぜか正座になっていた。電話なのに。

 

「もしもし、篠原です。今、大丈夫でしょうか」

 

 返ってきた声に、澪は軽く頷いた。

 

「はい。合同会社押入商会の件です。白金素材を1kgだけ売りました」

 

 そこで、電話の向こうが一拍黙った。

 

 澪はすぐに言い直した。

 

「……はい。だけ、という言い方はやめます」

 

 電卓の横に置いたペン先が、記録帳の端をつついた。

 

「入金額は10,800,000円です」

 

 また、一拍。

 

「現在残高は、12,761,000円です」

 

 澪はスマホを耳に当てたまま、銀行アプリの画面をもう一度見た。数字は変わらない。逃げてくれない。

 

「はい。白金素材の売却代金として、法人口座に入っています。売却明細と重量記録はあります。素材の在庫の一部を売却した扱いです」

 

 異世界のことは言わない。

 

 セルマ工房のことも言わない。

 

 リュシアが麻袋40袋を運び込んだことも、収納の中で白金粒がインゴットになったことも、明石さんには話さない。

 

 明石さんが見るのは、帳簿に出せるものだけだ。

 

 売却明細。

 

 法人口座。

 

 法人カード。

 

 仕入れ。

 

 役員借入金。

 

 澪は、記録帳の空欄にペンを構えた。

 

「はい。全部使えるお金だと思わない。分かります」

 

 そこで澪は少し身構えた。

 

 前に自分なら、ここで「使わないでください」と言われると思ったかもしれない。でも、明石さんはそうは言わなかった。

 

 電話の向こうから、淡々とした声が続く。

 

「使うお金は使います、ですね」

 

 澪は復唱した。

 

「まず支払い予定を表にする。カード引き落とし、未払い、次回仕入れ、税金用取り置き、役員借入金……はい」

 

 ペンが動く。

 

 カード引き落とし予定。

 

 容器。

 

 グリセリン。

 

 栽培設備。

 

 発電用品。

 

 白金素材の買取記録。

 

 売却明細。

 

 役員借入金。

 

 税金用取り置き。

 

 次回仕入れ。

 

 運転資金。

 

 書けば書くほど、銀行アプリの数字が、ただの数字ではなくなっていく。

 

「会社の口座は、残高ではなく予定で見る……」

 

 澪はそのまま書いた。

 

 残高ではなく予定で見る。

 

 名言のようだった。

 

 ただし、あまり嬉しくない種類の名言である。

 

「はい。気分で使いません。そもそも気分で使える気がしてません」

 

 澪は口元だけで笑った。

 

 電話の向こうの明石さんは笑わなかった。

 

 

 

 

 

「役員借入金の件なんですが」

 

 澪は、記録帳の一番上に書いた3,000,000円を指で押さえた。

 

「最初にあたしの個人のお金から会社へ入れた3,000,000円です。処理は役員借入金になっているはずです」

 

 明石さんの返答を聞きながら、澪は背筋をさらに伸ばした。

 

「全額返済、ですか」

 

 思わず聞き返した。

 

「はい。報酬ではない。会社があたしから借りていたお金を返すだけ。……そうですね。口座残高は減るけど、借金も消える」

 

 澪は電卓を叩いた。

 

 12,761,000。

 

 そこから、3,000,000を引く。

 

 9,761,000。

 

 表示された数字を見て、少しだけ息が抜けた。

 

 会社から自分へ、3,000,000円が戻る。

 

 それは給料ではない。

 

 けれど、個人側の口座に戻れば、生活費や学費返済の準備ができる。会社を作る時に、澪はかなり無理をして個人のお金を会社へ入れた。その穴が、ようやく埋まる。

 

「分かりました。役員借入金3,000,000円は全額返済で記録します」

 

 記録帳に書く。

 

 役員借入金返済、3,000,000円。

 

 役員借入金残高、0円。

 

 その0円を見て、澪は小さく息を吐いた。

 

 0円が、こんなに安心する数字だとは思わなかった。

 

「次に、役員報酬なんですが」

 

 その言葉を口にした瞬間、緊張が戻った。

 

 役員借入金返済は、貸したお金が戻るだけだ。

 

 役員報酬は違う。

 

 これから毎月、会社が澪へ払う固定費になる。

 

「最初は、月400,000円くらいかと思っていたんですが……」

 

 澪はそこまで言って、電話の向こうの明石さんの声を聞いた。

 

「低い、ですか」

 

 言われると思っていなかったわけではない。

 

 家賃がある。

 

 生活費がある。

 

 学費返済がある。

 

 大学も続ける。

 

 押入商会の代表として動くなら、会社の仕事で時間も体力も使う。

 

 月400,000円では、生活できても、学費返済をきちんと始めるには弱い。

 

「はい。素材売却は……当面はあります」

 

 澪は言葉を選んだ。

 

 当面。

 

 嘘ではない。

 

 白金インゴットは、収納の中にまだある。ただし、明石さんにはその出所も、量も、全部は言わない。言えるのは、素材在庫があり、分割して売却する予定がある、という表向きの事実だけだ。

 

「いきなり最大にはしない。月800,000円を基準にする」

 

 澪はペンを止めた。

 

「80万……」

 

 数字が重い。

 

 さっきまで小金貨や白金インゴットの重さに怯えていたのに、今度は自分の給料の重さに怯えている。

 

「生活費、家賃、学費返済、代表としての責任を考えると、そのくらいは検討できる。……はい。半年後、売上が安定すれば月1,200,000円への見直し候補」

 

 澪は記録帳に書いた。

 

 役員報酬案、月800,000円。

 

 半年後見直し、月1,200,000円候補。

 

 書いた文字を見て、胃のあたりがそわそわした。

 

「毎月同額。気分で増やしたり減らしたりしない。……自由じゃないですね」

 

 思わず言うと、電話の向こうで明石さんが何か言った。

 

 澪は素直に頷いた。

 

「はい。役員報酬はお小遣いではなく、会社が代表を継続して働かせるための固定費です」

 

 そう復唱した瞬間、自分が本当に会社の代表なのだと、変なところで実感した。

 

 

 

 

 

「あと、アパート代なんですが」

 

 澪は、部屋を見回した。

 

 六畳間。

 

 寝る場所。

 

 食べる場所。

 

 帳簿を書く場所。

 

 容器を置く場所。

 

 押し入れがある場所。

 

 つまり、生活の場所であり、会社の作業場でもある。

 

「家賃は、あたしが個人で払っています」

 

 明石さんの返答を聞いて、澪は頷いた。

 

「家賃補助という名前では出さない」

 

 記録帳に書く。

 

 家賃補助、不可。

 

 いや、不可という書き方は怖いので、横に「使わない」と書き直した。

 

「アパート全額を会社負担にしない。生活の場でもあるから。会社が使っている部分だけ合理的に按分」

 

 澪は部屋の中を見た。

 

 押し入れ。

 

 ローテーブル。

 

 在庫棚。

 

 容器の段ボール。

 

 帳簿の山。

 

 発電用品の箱。

 

 洗って乾かした小さな道具。

 

 生活スペースと会社スペースは、きれいには分かれていない。むしろ、押入商会が澪の生活に食い込んでいる。

 

「押入商会、押し入れ使ってますけど」

 

 澪は思わず言った。

 

 返ってきた声に、少しだけ口を尖らせる。

 

「名前は押入商会でも、寝ている場所まで会社の経費にはしない。はい」

 

 正論だった。

 

「押し入れとローテーブルと棚と在庫の山は、事業使用分として見る。写真を撮って、間取りに色を塗って、割合を決める」

 

 澪はスマホを耳に当てたまま、部屋を見回した。

 

 写真。

 

 間取り。

 

 色塗り。

 

「また証拠……」

 

 明石さんの声が返ってくる。

 

 澪は、ほぼ同時に復唱した。

 

「会社は証拠でできています」

 

 覚えたくない言葉ばかり覚えていく。

 

 だが、たぶん必要な言葉だった。

 

 

 

 

 

「念のため確認します、ですよね」

 

 澪は、明石さんが言い出す前に少しだけ先回りした。

 

「親の扶養のことですよね」

 

 法人化の時に、親には話していた。

 

 合同会社押入商会を作ること。

 

 大学に通いながら小さな商売をすること。

 

 法人口座を作ること。

 

 扶養から外れる可能性があること。

 

 その時はまだ、可能性だった。

 

 今は違う。

 

「はい。法人化の時に、会社を作ることと、扶養から外れるかもしれないことは話しました」

 

 明石さんの声が静かに返る。

 

「今回は、報酬額と時期の連絡。月800,000円なら、“外れるかもしれない”ではなく“外れます”」

 

 澪は、ペンを持つ指に力を入れた。

 

「親に連絡、必要ですよね」

 

 答えは分かっている。

 

 必要だ。

 

 親側の税金にも、保険にも関わる。

 

 澪が勝手に会社から役員報酬を受け取り始めれば、親の扶養から外れる。黙って進める話ではない。

 

「分かりました。母に電話します。父にも伝えてもらいます。あとで数字も送ります」

 

 電話を切る前に、澪はもう一度、記録帳を確認した。

 

 法人口座残高、12,761,000円。

 

 役員借入金返済、3,000,000円。

 

 返済後残高、9,761,000円。

 

 役員報酬案、月800,000円。

 

 半年後見直し、月1,200,000円候補。

 

 家賃按分、30%仮。

 

 親の扶養、外れる連絡。

 

 学費返済、役員報酬から開始。

 

 電話を切ると、六畳間が急に静かになった。

 

 澪はしばらくスマホを握ったまま、ローテーブルの上の数字を見つめていた。

 

 会社のお金が、ついに自分の生活費、家賃、学費返済に接続した。

 

 嬉しいはずだった。

 

 いや、嬉しい。

 

 でも怖い。

 

 会社の口座に入った数字が、六畳間の床を伝って、自分の人生の方へ伸びてきた感じがした。

 

「逃げる話じゃない」

 

 澪はそう言って、母への電話メモを書き始めた。

 

 会社の口座に入金があった。

 

 怪しいお金ではなく素材売却代金。

 

 明石さんに報告済み。

 

 役員借入金3,000,000円を返してもらう。

 

 役員報酬を設定する。

 

 扶養から正式に外れる。

 

 学費返済を始める。

 

 大学は辞めない。

 

 税金は明石さんに見てもらう。

 

 書いているうちに、メモが長くなった。

 

 長くなりすぎた。

 

「これ、母への電話じゃなくて、株主総会資料みたい……」

 

 澪は一度、紙を見つめた。

 

 でも、電話するしかない。

 

 

 

 

 

 母への電話は、なかなか発信ボタンを押せなかった。

 

 法人化の時に話している。

 

 隠していたわけではない。

 

 それでも、月800,000円の役員報酬や、扶養から正式に外れる話は、重い。

 

 澪は深呼吸し、スマホを耳に当てた。

 

「もしもし、お母さん? 今、大丈夫?」

 

 最初の声は、思ったより普通に出た。

 

「うん、澪。あの、会社のことで少し報告があって」

 

 ローテーブルの上のメモを見る。

 

「うん、押入商会のこと。法人化の時に話したやつ」

 

 返事を聞いて、澪は少し肩を下げた。

 

「怖い話じゃない。たぶん。いや、ちょっと金額は怖いかも」

 

 自分で言って、すぐに失敗したと思った。

 

「怒らないで聞いてほしいんだけど、会社の口座に大きめの入金がありました」

 

 沈黙。

 

 澪は早口になりかけ、意識してゆっくり話した。

 

「怪しいお金じゃない。素材の売却代金。ちゃんと会社の口座に入れて、明石さんにも報告してる」

 

「うん、税理士さん。法人化の時に相談してた明石さん」

 

 スマホを持つ手に汗がにじむ。

 

「金額は……10,800,000円」

 

 耳元で母の声が高くなった気配がした。

 

「だから、怒らないでって言ったでしょ」

 

「違う違う、あたしの財布に入ったわけじゃない。会社の口座」

 

「税金もあるし、仕入れもあるし、帳簿もあるし、全部自由に使えるお金じゃない」

 

 澪はメモを指で押さえる。

 

 次。

 

「それで、会社からあたしに、最初に貸してた3,000,000円を返してもらうことになりそう」

 

「うん。法人作った時に、あたしの個人のお金を会社に入れてた分。あれは役員借入金っていう扱いだったから、返してもらう」

 

「それとは別に、役員報酬を決める話になってる」

 

「うん、給料みたいなもの」

 

 次の言葉は、少し喉につかえた。

 

「金額は、月800,000円くらいから考えることになりそう」

 

 すぐにスマホの向こうが揺れた気がした。

 

「高く聞こえるよね。あたしもそう思った」

 

「でも、会社の代表として動くなら、生活費と家賃と学費返済まで見ないと駄目だって」

 

「うん。だから、扶養は外れると思う」

 

「法人化の時に、外れるかもしれないって話はしたよね。今回は、たぶん本当に外れる」

 

 澪はペンを握った。

 

「お父さんの税金とか保険にも影響するから、先にちゃんと話しておこうと思って」

 

「ごめん。急に大きくなった」

 

「でも、隠して進める方がもっと駄目だから」

 

 少し沈黙があった。

 

 母の返事は書かない。

 

 けれど、澪の肩から力が抜けていく。

 

「学費の返済も、始めたい」

 

「うん。全部一気には無理だけど、ちゃんと返す予定を作る」

 

「大学は辞めない。そこは大丈夫」

 

「授業も行く。単位も落とさないようにする」

 

「いや、そこは本当に頑張る」

 

 だんだん、母親との会話になってきた。

 

 会社の報告だったはずなのに、最後は単位の話になる。少しだけ笑いそうになって、澪は唇を噛んだ。

 

「会社のことは、明石さんに見てもらいながらやる。勝手に税金をごまかしたりはしない」

 

「うん、分かってる。金額が大きいから、なおさらちゃんとやる」

 

「お父さんにも話しておいてほしい。あたしからも電話する」

 

「怒ってた?」

 

 澪は息を止めた。

 

「……そっか。心配してるだけか」

 

 その返事で、少しだけ泣きそうになった。

 

「うん。分かってる」

 

「ごめんね。でも、ちゃんと報告したかった」

 

「ありがとう」

 

「また明石さんと話したら、数字をまとめて送る」

 

「うん。扶養の手続きとか、保険のことも確認する」

 

「大丈夫。たぶん大丈夫」

 

 母の声が少し強くなったらしい。

 

 澪は慌てて言い直す。

 

「……たぶんって言うなって?」

 

「はい。大丈夫です」

 

 言い直すと、少しだけ本当に大丈夫な気がした。

 

「うん。じゃあ、また電話する」

 

「ありがとう、お母さん」

 

 通話が切れた後、澪はスマホを膝の上に置いた。

 

 六畳間は、電話の前と同じ部屋だった。

 

 容器の袋がある。

 

 レシートがある。

 

 記録帳がある。

 

 銀行アプリの数字も、変わらずそこにある。

 

 でも、何かが少し変わっていた。

 

 会社のお金が、自分の生活に届いた。

 

 そして、親にも届いた。

 

 

 

 

 

 澪はもう一度、記録帳を開いた。

 

 法人口座。

 

 個人口座。

 

 会社のお金。

 

 自分のお金。

 

 ページの真ん中に、縦線を引いた。

 

 まっすぐ引いたつもりだったが、少し曲がった。

 

「会社のお金」

 

 左側に書く。

 

「個人のお金」

 

 右側に書く。

 

 学費返済。

 

 生活費。

 

 税金・保険。

 

 会社仕入れ。

 

 白金売却記録。

 

 容器。

 

 グリセリン。

 

 家賃按分。

 

 書く場所を間違えないように、澪は線を足した。横線も足した。項目が増えて、表になった。表になったら、また帳面になった。

 

「押入商会、帳面を売ってるわけじゃないのに……」

 

 ぼやきながらも、手は止まらなかった。

 

 役員借入金返済で、個人口座へ3,000,000円が戻る予定。

 

 役員報酬が始まれば、学費返済もできる。

 

 ただし、会社のお金と個人のお金を混ぜてはいけない。

 

 澪はその線を、もう一度なぞった。

 

 会社のお金。

 

 自分のお金。

 

 同じ澪が扱うのに、同じではない。

 

 押し入れの向こうとこちら側を分ける襖みたいだと思った。

 

 開ければつながる。

 

 でも、混ぜてはいけない。

 

 夜の六畳間で、スマホ画面の数字はまだ光っていた。

 

 合同会社押入商会。

 

 普通預金、12,761,000円。

 

 白金1kgを売って、会社の口座は増えた。

 

 役員借入金は返せる。

 

 役員報酬も設定できる。

 

 学費返済も始められる。

 

 でも、自由に使えるお金が急に増えたわけではなかった。

 

 会社の数字が、澪の生活を現実に動かし始めたのだ。

 

 澪はペンを置き、スマホを伏せた。

 

 押入商会の口座残高は増えた。

 

 けれど澪がその夜いちばん長く見ていたのは、銀行アプリの数字ではなく、「会社のお金」と「自分のお金」の間に引いた、一本の線だった。

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