六畳間のローテーブルの上には、スマホと記録帳と電卓と、なぜか未開封の20mlクリームケースの袋が並んでいた。
片づけたつもりだった。
少なくとも澪は、白金インゴット1kgを売りに出す前、部屋の中を一度は片づけたつもりでいた。だが戻ってきてみると、容器の段ボールは壁際に積み上がり、グリセリンの空き箱は棚の下に押し込まれ、レシートの束はローテーブルの端で扇みたいに広がっている。
押入商会は、会社である。
会社であるはずなのに、代表社員の作業場は六畳間で、代表社員の膝の上には家計簿用だった古い電卓が乗っている。
澪は深呼吸して、スマホを持った。
銀行アプリを開く。
暗証番号を入れる指が、少し滑った。
「落ち着け、あたし。見るだけ。見るだけだから」
画面が切り替わった。
合同会社押入商会。
普通預金。
12,761,000円。
澪は、呼吸を忘れた。
ローテーブルの上で、スマホ画面だけが静かに光っている。六畳間の蛍光灯より、その数字の方がよほどまぶしかった。
入出金明細を開く。
白金素材売却代金。
10,800,000円。
「……入ってる」
声が小さく出た。
白金インゴット1kg。
あれだけで、会社の口座の数字が跳ねた。
一瞬だけ、胸の奥が持ち上がった。容器代。グリセリン代。光る棚。発電シート。力をためる箱。これで払える。次も買える。やっと、押入商会が息を吸える。
けれど、澪はスマホを置く前に記録帳を引き寄せた。
喜ぶのは危ない。
残高は、残高であって、自由に使えるお金ではない。
この数字には、もう行き先がある。
澪はペンを持ち、白いページに書き始めた。
役員借入金、3,000,000円。
カード引き落とし予定。
容器代。
グリセリン代。
栽培用品。
発電用品。
白金調達未払い。
税金用取り置き。
次回仕入れ。
明石さんへ報告。
項目が増えるたびに、12,761,000円という数字が少しずつ遠くなっていく。
「残高が増えたのに、使える気がしない……」
澪はスマホと記録帳を交互に見た。
たぶん、ここで勝手に動かしたら怒られる。
いや、怒られるだけならいい。帳面が壊れる。明石さんの、柔らかいけれど逃げ道のない声が頭に浮かんだ。
澪は通話履歴を開き、明石さんの名前を押した。
コール音が鳴る。
その間に、澪は背筋を伸ばした。なぜか正座になっていた。電話なのに。
「もしもし、篠原です。今、大丈夫でしょうか」
返ってきた声に、澪は軽く頷いた。
「はい。合同会社押入商会の件です。白金素材を1kgだけ売りました」
そこで、電話の向こうが一拍黙った。
澪はすぐに言い直した。
「……はい。だけ、という言い方はやめます」
電卓の横に置いたペン先が、記録帳の端をつついた。
「入金額は10,800,000円です」
また、一拍。
「現在残高は、12,761,000円です」
澪はスマホを耳に当てたまま、銀行アプリの画面をもう一度見た。数字は変わらない。逃げてくれない。
「はい。白金素材の売却代金として、法人口座に入っています。売却明細と重量記録はあります。素材の在庫の一部を売却した扱いです」
異世界のことは言わない。
セルマ工房のことも言わない。
リュシアが麻袋40袋を運び込んだことも、収納の中で白金粒がインゴットになったことも、明石さんには話さない。
明石さんが見るのは、帳簿に出せるものだけだ。
売却明細。
法人口座。
法人カード。
仕入れ。
役員借入金。
澪は、記録帳の空欄にペンを構えた。
「はい。全部使えるお金だと思わない。分かります」
そこで澪は少し身構えた。
前に自分なら、ここで「使わないでください」と言われると思ったかもしれない。でも、明石さんはそうは言わなかった。
電話の向こうから、淡々とした声が続く。
「使うお金は使います、ですね」
澪は復唱した。
「まず支払い予定を表にする。カード引き落とし、未払い、次回仕入れ、税金用取り置き、役員借入金……はい」
ペンが動く。
カード引き落とし予定。
容器。
グリセリン。
栽培設備。
発電用品。
白金素材の買取記録。
売却明細。
役員借入金。
税金用取り置き。
次回仕入れ。
運転資金。
書けば書くほど、銀行アプリの数字が、ただの数字ではなくなっていく。
「会社の口座は、残高ではなく予定で見る……」
澪はそのまま書いた。
残高ではなく予定で見る。
名言のようだった。
ただし、あまり嬉しくない種類の名言である。
「はい。気分で使いません。そもそも気分で使える気がしてません」
澪は口元だけで笑った。
電話の向こうの明石さんは笑わなかった。
「役員借入金の件なんですが」
澪は、記録帳の一番上に書いた3,000,000円を指で押さえた。
「最初にあたしの個人のお金から会社へ入れた3,000,000円です。処理は役員借入金になっているはずです」
明石さんの返答を聞きながら、澪は背筋をさらに伸ばした。
「全額返済、ですか」
思わず聞き返した。
「はい。報酬ではない。会社があたしから借りていたお金を返すだけ。……そうですね。口座残高は減るけど、借金も消える」
澪は電卓を叩いた。
12,761,000。
そこから、3,000,000を引く。
9,761,000。
表示された数字を見て、少しだけ息が抜けた。
会社から自分へ、3,000,000円が戻る。
それは給料ではない。
けれど、個人側の口座に戻れば、生活費や学費返済の準備ができる。会社を作る時に、澪はかなり無理をして個人のお金を会社へ入れた。その穴が、ようやく埋まる。
「分かりました。役員借入金3,000,000円は全額返済で記録します」
記録帳に書く。
役員借入金返済、3,000,000円。
役員借入金残高、0円。
その0円を見て、澪は小さく息を吐いた。
0円が、こんなに安心する数字だとは思わなかった。
「次に、役員報酬なんですが」
その言葉を口にした瞬間、緊張が戻った。
役員借入金返済は、貸したお金が戻るだけだ。
役員報酬は違う。
これから毎月、会社が澪へ払う固定費になる。
「最初は、月400,000円くらいかと思っていたんですが……」
澪はそこまで言って、電話の向こうの明石さんの声を聞いた。
「低い、ですか」
言われると思っていなかったわけではない。
家賃がある。
生活費がある。
学費返済がある。
大学も続ける。
押入商会の代表として動くなら、会社の仕事で時間も体力も使う。
月400,000円では、生活できても、学費返済をきちんと始めるには弱い。
「はい。素材売却は……当面はあります」
澪は言葉を選んだ。
当面。
嘘ではない。
白金インゴットは、収納の中にまだある。ただし、明石さんにはその出所も、量も、全部は言わない。言えるのは、素材在庫があり、分割して売却する予定がある、という表向きの事実だけだ。
「いきなり最大にはしない。月800,000円を基準にする」
澪はペンを止めた。
「80万……」
数字が重い。
さっきまで小金貨や白金インゴットの重さに怯えていたのに、今度は自分の給料の重さに怯えている。
「生活費、家賃、学費返済、代表としての責任を考えると、そのくらいは検討できる。……はい。半年後、売上が安定すれば月1,200,000円への見直し候補」
澪は記録帳に書いた。
役員報酬案、月800,000円。
半年後見直し、月1,200,000円候補。
書いた文字を見て、胃のあたりがそわそわした。
「毎月同額。気分で増やしたり減らしたりしない。……自由じゃないですね」
思わず言うと、電話の向こうで明石さんが何か言った。
澪は素直に頷いた。
「はい。役員報酬はお小遣いではなく、会社が代表を継続して働かせるための固定費です」
そう復唱した瞬間、自分が本当に会社の代表なのだと、変なところで実感した。
「あと、アパート代なんですが」
澪は、部屋を見回した。
六畳間。
寝る場所。
食べる場所。
帳簿を書く場所。
容器を置く場所。
押し入れがある場所。
つまり、生活の場所であり、会社の作業場でもある。
「家賃は、あたしが個人で払っています」
明石さんの返答を聞いて、澪は頷いた。
「家賃補助という名前では出さない」
記録帳に書く。
家賃補助、不可。
いや、不可という書き方は怖いので、横に「使わない」と書き直した。
「アパート全額を会社負担にしない。生活の場でもあるから。会社が使っている部分だけ合理的に按分」
澪は部屋の中を見た。
押し入れ。
ローテーブル。
在庫棚。
容器の段ボール。
帳簿の山。
発電用品の箱。
洗って乾かした小さな道具。
生活スペースと会社スペースは、きれいには分かれていない。むしろ、押入商会が澪の生活に食い込んでいる。
「押入商会、押し入れ使ってますけど」
澪は思わず言った。
返ってきた声に、少しだけ口を尖らせる。
「名前は押入商会でも、寝ている場所まで会社の経費にはしない。はい」
正論だった。
「押し入れとローテーブルと棚と在庫の山は、事業使用分として見る。写真を撮って、間取りに色を塗って、割合を決める」
澪はスマホを耳に当てたまま、部屋を見回した。
写真。
間取り。
色塗り。
「また証拠……」
明石さんの声が返ってくる。
澪は、ほぼ同時に復唱した。
「会社は証拠でできています」
覚えたくない言葉ばかり覚えていく。
だが、たぶん必要な言葉だった。
「念のため確認します、ですよね」
澪は、明石さんが言い出す前に少しだけ先回りした。
「親の扶養のことですよね」
法人化の時に、親には話していた。
合同会社押入商会を作ること。
大学に通いながら小さな商売をすること。
法人口座を作ること。
扶養から外れる可能性があること。
その時はまだ、可能性だった。
今は違う。
「はい。法人化の時に、会社を作ることと、扶養から外れるかもしれないことは話しました」
明石さんの声が静かに返る。
「今回は、報酬額と時期の連絡。月800,000円なら、“外れるかもしれない”ではなく“外れます”」
澪は、ペンを持つ指に力を入れた。
「親に連絡、必要ですよね」
答えは分かっている。
必要だ。
親側の税金にも、保険にも関わる。
澪が勝手に会社から役員報酬を受け取り始めれば、親の扶養から外れる。黙って進める話ではない。
「分かりました。母に電話します。父にも伝えてもらいます。あとで数字も送ります」
電話を切る前に、澪はもう一度、記録帳を確認した。
法人口座残高、12,761,000円。
役員借入金返済、3,000,000円。
返済後残高、9,761,000円。
役員報酬案、月800,000円。
半年後見直し、月1,200,000円候補。
家賃按分、30%仮。
親の扶養、外れる連絡。
学費返済、役員報酬から開始。
電話を切ると、六畳間が急に静かになった。
澪はしばらくスマホを握ったまま、ローテーブルの上の数字を見つめていた。
会社のお金が、ついに自分の生活費、家賃、学費返済に接続した。
嬉しいはずだった。
いや、嬉しい。
でも怖い。
会社の口座に入った数字が、六畳間の床を伝って、自分の人生の方へ伸びてきた感じがした。
「逃げる話じゃない」
澪はそう言って、母への電話メモを書き始めた。
会社の口座に入金があった。
怪しいお金ではなく素材売却代金。
明石さんに報告済み。
役員借入金3,000,000円を返してもらう。
役員報酬を設定する。
扶養から正式に外れる。
学費返済を始める。
大学は辞めない。
税金は明石さんに見てもらう。
書いているうちに、メモが長くなった。
長くなりすぎた。
「これ、母への電話じゃなくて、株主総会資料みたい……」
澪は一度、紙を見つめた。
でも、電話するしかない。
母への電話は、なかなか発信ボタンを押せなかった。
法人化の時に話している。
隠していたわけではない。
それでも、月800,000円の役員報酬や、扶養から正式に外れる話は、重い。
澪は深呼吸し、スマホを耳に当てた。
「もしもし、お母さん? 今、大丈夫?」
最初の声は、思ったより普通に出た。
「うん、澪。あの、会社のことで少し報告があって」
ローテーブルの上のメモを見る。
「うん、押入商会のこと。法人化の時に話したやつ」
返事を聞いて、澪は少し肩を下げた。
「怖い話じゃない。たぶん。いや、ちょっと金額は怖いかも」
自分で言って、すぐに失敗したと思った。
「怒らないで聞いてほしいんだけど、会社の口座に大きめの入金がありました」
沈黙。
澪は早口になりかけ、意識してゆっくり話した。
「怪しいお金じゃない。素材の売却代金。ちゃんと会社の口座に入れて、明石さんにも報告してる」
「うん、税理士さん。法人化の時に相談してた明石さん」
スマホを持つ手に汗がにじむ。
「金額は……10,800,000円」
耳元で母の声が高くなった気配がした。
「だから、怒らないでって言ったでしょ」
「違う違う、あたしの財布に入ったわけじゃない。会社の口座」
「税金もあるし、仕入れもあるし、帳簿もあるし、全部自由に使えるお金じゃない」
澪はメモを指で押さえる。
次。
「それで、会社からあたしに、最初に貸してた3,000,000円を返してもらうことになりそう」
「うん。法人作った時に、あたしの個人のお金を会社に入れてた分。あれは役員借入金っていう扱いだったから、返してもらう」
「それとは別に、役員報酬を決める話になってる」
「うん、給料みたいなもの」
次の言葉は、少し喉につかえた。
「金額は、月800,000円くらいから考えることになりそう」
すぐにスマホの向こうが揺れた気がした。
「高く聞こえるよね。あたしもそう思った」
「でも、会社の代表として動くなら、生活費と家賃と学費返済まで見ないと駄目だって」
「うん。だから、扶養は外れると思う」
「法人化の時に、外れるかもしれないって話はしたよね。今回は、たぶん本当に外れる」
澪はペンを握った。
「お父さんの税金とか保険にも影響するから、先にちゃんと話しておこうと思って」
「ごめん。急に大きくなった」
「でも、隠して進める方がもっと駄目だから」
少し沈黙があった。
母の返事は書かない。
けれど、澪の肩から力が抜けていく。
「学費の返済も、始めたい」
「うん。全部一気には無理だけど、ちゃんと返す予定を作る」
「大学は辞めない。そこは大丈夫」
「授業も行く。単位も落とさないようにする」
「いや、そこは本当に頑張る」
だんだん、母親との会話になってきた。
会社の報告だったはずなのに、最後は単位の話になる。少しだけ笑いそうになって、澪は唇を噛んだ。
「会社のことは、明石さんに見てもらいながらやる。勝手に税金をごまかしたりはしない」
「うん、分かってる。金額が大きいから、なおさらちゃんとやる」
「お父さんにも話しておいてほしい。あたしからも電話する」
「怒ってた?」
澪は息を止めた。
「……そっか。心配してるだけか」
その返事で、少しだけ泣きそうになった。
「うん。分かってる」
「ごめんね。でも、ちゃんと報告したかった」
「ありがとう」
「また明石さんと話したら、数字をまとめて送る」
「うん。扶養の手続きとか、保険のことも確認する」
「大丈夫。たぶん大丈夫」
母の声が少し強くなったらしい。
澪は慌てて言い直す。
「……たぶんって言うなって?」
「はい。大丈夫です」
言い直すと、少しだけ本当に大丈夫な気がした。
「うん。じゃあ、また電話する」
「ありがとう、お母さん」
通話が切れた後、澪はスマホを膝の上に置いた。
六畳間は、電話の前と同じ部屋だった。
容器の袋がある。
レシートがある。
記録帳がある。
銀行アプリの数字も、変わらずそこにある。
でも、何かが少し変わっていた。
会社のお金が、自分の生活に届いた。
そして、親にも届いた。
澪はもう一度、記録帳を開いた。
法人口座。
個人口座。
会社のお金。
自分のお金。
ページの真ん中に、縦線を引いた。
まっすぐ引いたつもりだったが、少し曲がった。
「会社のお金」
左側に書く。
「個人のお金」
右側に書く。
学費返済。
生活費。
税金・保険。
会社仕入れ。
白金売却記録。
容器。
グリセリン。
家賃按分。
書く場所を間違えないように、澪は線を足した。横線も足した。項目が増えて、表になった。表になったら、また帳面になった。
「押入商会、帳面を売ってるわけじゃないのに……」
ぼやきながらも、手は止まらなかった。
役員借入金返済で、個人口座へ3,000,000円が戻る予定。
役員報酬が始まれば、学費返済もできる。
ただし、会社のお金と個人のお金を混ぜてはいけない。
澪はその線を、もう一度なぞった。
会社のお金。
自分のお金。
同じ澪が扱うのに、同じではない。
押し入れの向こうとこちら側を分ける襖みたいだと思った。
開ければつながる。
でも、混ぜてはいけない。
夜の六畳間で、スマホ画面の数字はまだ光っていた。
合同会社押入商会。
普通預金、12,761,000円。
白金1kgを売って、会社の口座は増えた。
役員借入金は返せる。
役員報酬も設定できる。
学費返済も始められる。
でも、自由に使えるお金が急に増えたわけではなかった。
会社の数字が、澪の生活を現実に動かし始めたのだ。
澪はペンを置き、スマホを伏せた。
押入商会の口座残高は増えた。
けれど澪がその夜いちばん長く見ていたのは、銀行アプリの数字ではなく、「会社のお金」と「自分のお金」の間に引いた、一本の線だった。