朝の靄が庭の低い植え込みに残っている。
窓を開けた侍従が身を引くと、湿った土と若葉の匂いが、紙と革の匂いに混じった。
クラウス・ヴァルディスは襟元を直し、宰相府の大机についた。
机の右には各局へ戻す報告、左には自分の裁可を待つ案件が並んでいる。
朝のうちに左を減らせれば、昼からの会議で新しい紙が増えても、夕食までには収まりがつく。
長年ここで働いてきて、そう都合よく済んだ日は多くなかったが、今朝は悪くない気がした。
「こちらは、積雪による遅れが解消した後の報告か」
「はい。街道の補修費について、追加の裁可を求めております」
側近の声を聞きながら、クラウスは添付された明細へ目を移した。
補修に必要な費用と、例年の維持費が同じ欄に入っている。
これでは追加で幾ら出すべきか分からない。
「通常の維持費を除いて出し直させよ。作業そのものは止めるな」
側近が受け取った紙を脇へ寄せる間に、クラウスは次の報告を開いた。
以前なら、ここで目の奥が重くなり、窓の方を眺めていた頃だ。
今日は細い文字の末尾まで追っても、首を揉みたくならない。
肩を動かすと、上着の生地が軽く擦れた。
あの竜命薬は、やはり大したものだ。
あの朝に飲んだ時も、身体が若返った感覚はなかった。
《竜命薬》が止めるのは、今ある肉体の老化だ。
およそ5年間、これ以上衰えずにいられると聞いた時の安堵は、今も胸に残っている。
その前日に服用した《竜血疲労耐久強化薬》の説明も受けていた。
同じ負担でも、疲労が蓄積しにくくなる。
それでも、日々の調子のよさを考える時、真っ先に浮かぶのは竜命薬の名だった。
クラウスは次の紙を引き寄せた。
竜命薬のおかげで、今日はよく片付く。
仕事が進んでいる間は、その実感だけで十分だった。
「少し休まれますか」
侍従が飲み物を替えたのを見て、側近が尋ねた。
クラウスは温い茶をひと口飲んだ。
喉を通る熱がほどよく、もうひと口欲しくなる。
「いや、次を頼む」
「本日は珍しくお早いことで」
「書類の方が素直だっただけだ」
側近の口元が緩んだ。
薬の話をしなくても、この机に向かう自分が前より機嫌よく働いていることは、周囲にも分かるらしい。
クラウスは茶碗を置き、最後の報告へ裁可を入れた。
朝日が机の角へ届き、空いた場所に封蝋の皿の小さな影ができている。
久しぶりに、机の木目をこれだけ見た。
そう思ったところで、扉が叩かれた。
「レヴァニア王国から、王家宛ての正式な照会が到着しております」
クラウスは置きかけた筆を止めた。
国名を聞いて、南へ伸びる街道と、侯爵領にいる息子の顔が浮かぶ。
交易が活発になれば、外国から来る文書も増える。
それ自体は喜ばしい。
「封緘を照合し、正規の手順で陛下へ。私にも要旨を回すように」
返事をして去る足音を聞きながら、クラウスは机の空いた角をもう一度眺めた。
そこを空けておいて、よかったのかもしれない。
廊下へ出ると、石壁に残った冷えが頬に触れた。
窓から差す光の筋を横切るたび、靴底の音が高く響く。
クラウスは王の執務室へ向かう途中、要旨を携えた外交担当高官に追いつかれた。
「書簡は陛下のお手元へ届いております。宰相閣下も、すぐにお越しになるようにとのことです」
「何についての照会だ」
「大型飛行船の件でございます」
クラウスの歩幅が、そこで狭まった。
高官はその変化に気づいたらしく、クラウスの横へ並ぶと、要旨を渡してきた。
「レヴァニア王家は、以前の謁見で示した希望について、改めて窓口を確かめたいと申しております」
「以前の謁見とは」
「冬にアルベルト様が同国王へ挨拶された際の件にございます」
クラウスは紙へ目を落とした。
アルベルトの名があった。
その下に、現物の購入、同型船の建造、王家の荷の優先輸送という希望が記されている。
息子が外国の王と会った。
しかも、空を飛ぶ船を巡って、これだけの話をした。
その経緯を、父である自分が外国の文書から知ることになるとは思わなかった。
だが、ここでアルベルトを責めても、国王の待つ部屋へ持っていける説明は増えない。
「これは売買の成立を知らせる文書ではないな」
「はい。王家として希望を改めて伝え、その相談先を照会するものでございます」
クラウスは希望が並んだ部分を読み直した。
買いたいと言うことと、買えることは違う。
その区別が文書にも保たれているのを見て、息子が取り返しのつかない約束をしたのではないと分かった。
胸元の窮屈さが、ほんの少し薄れる。
続いて、所有者の名を探した。
リュシア商会。
その名を見れば、押入商会の者たちの顔も浮かんだ。
クラウス自身が知る、侯爵領での仕事ぶりがある。
この船も彼らの技術と無縁ではないのだろう。
紙の端が指へ当たり、そこだけ妙にはっきり感じられた。
やはり、彼らか。
驚くより先に納得してしまうのが、我ながら困ったことだった。
要旨には外形と輸送規模も添えられている。
「全長約200m。最大で1,000人……」
思わず声にすると、高官が顔を上げた。
「書簡には、そのように記載されております」
「実際に1,000人がレヴァニアへ来たということか」
「そこまでは申しておりません。最大輸送規模と、飛来した事実は別に記されております」
高官の落ち着いた返事は頼もしかった。
少なくとも、この紙を持っている者まで、数字に浮かされてはいない。
クラウスは廊下の先へ目を向けた。
衛兵が扉の両側で姿勢を正している。
あの向こうでは、国王が同じ数字を読んでいるはずだ。
200mの船を、紙1枚で知らされる。
その時の顔を想像すると、今朝の仕事が順調だったことなど、随分遠くへ退いた。
「この要旨にないことを、憶測で補うな」
「承知しております」
高官とともに扉の前へ着き、クラウスは上着の裾を整えた。
息子への問いは後でよい。
今は、陛下への返答だ。
国王の机には、開かれた書簡と添付の紙が置かれていた。
高窓から入る春の光が、机の縁を白く照らしている。
その明るさとは裏腹に、王の口元は硬かった。
クラウスが礼を終えるのを待って、王は書簡へ指を置いた。
「我が国に、これほどの船があるのか」
「記された商会の名からすれば、実在するものと存じます。ただ、運航の詳しい状況は当事者へ尋ねねばなりませぬ」
王の指が、リュシア商会の名から、全長の数字へ移った。
クラウスは、その指が数字の上で止まるのを見た。
王宮の建物を思い浮かべても、手軽に比較できる大きさではない。
王の顔を見ている自分も、まだ実物の姿を十分に思い描けずにいる。
「レヴァニアの王家は、購入を望んでいるという」
「はい」
「船が来たことも知っている」
王は外交高官へ目を向けた。
「同国の王都郊外への飛来について、書簡に記載がございます」
高官の隣には若い文官が控えていた。
添付資料を渡すため、両手で紙を持っている。
クラウスには、その紙の上辺がかすかに動いているのが見えた。
「この船の報告は、どこへ回っていた」
王は外交高官に尋ねた。
若い文官が添付資料から顔を上げる。
読み上げる箇所を探していた目が、王と書簡の間を行き来した。
「……陛下はご存じなかったのですか?」
クラウスは文官を見た。
本人も言い終えた瞬間に気づいたらしく、唇が開いたままになっている。
国王はゆっくりと顔を向けた。
「知らぬ。外国の王から、自国の船について教えられたところだ」
「失礼いたしました!」
深く下げた頭の先で、紙まで折れそうになった。
クラウスは視線を王へ戻し、ひと呼吸置いた。
報告が届いていないと明かす代わりに、届き先を尋ねられたのだ。
外国の公文書が当然のように扱っている船なら、自国の王も知っている。
文官は、そこを疑っていなかったのだろう。
その食い違いを、文官1人の失言へ押し込んでも仕方がなかった。
「まず、この書簡が何を求めているか、申し上げましょう」
王は文官から目を離した。
「頼む」
クラウスは机の横へ進んだ。
外国から届いた希望を、そのまま自国の決定のように受け取られては困る。
「相手王家が望んでいるのは、船の購入、同型船の建造についての相談、それに王家の荷を優先して運ぶ契約です。いずれも、まだ所有者の承諾を得たものではございません」
「所有者は、このリュシア商会か」
「そのように記されております」
王は添付の紙を引き寄せた。
先ほどまで数字に止まっていた指が、今度は商会の名に置かれた。
「まず、ここへ話を通すわけだな」
クラウスは顔を上げた。
知らなかったことへの不満は、王の声にまだ残っている。
「はい。私から侯爵領へ連絡を入れます」
「その前に聞こう。アルベルトは、外国の王に何と答えた」
父としても知りたかった問いだった。
クラウスは要旨の先を開いた。
レヴァニア側が受けた説明は、謁見の概要として添えられていた。
クラウスは行を追い、息子の返答に当たる部分で目を止めた。
領主には飛行船を売却する権限がない。
船はリュシア商会の所有物であり、希望は伝えるが、その回答までは約束できない。
短くまとめられていても、アルベルトが何を守ったかは分かった。
「息子は、王家の望みに答えられぬと言ったのか」
「決める立場にないと申したのでございます」
王は椅子の背へ身体を預けた。
クラウスは次の言葉を待った。
息子が外国王の前でどう見えたかは、この概要だけでは知りようがない。
だが、少なくとも答え方を誤ったとは思わなかった。
「それは正しいな」
そのひと言で、要旨を持つ手の力が抜けた。
「はい。リュシア商会の船を、侯爵家の持ち物として売ることはできませぬ」
「では、相手は返答を待っているのだな」
「今届いた照会については、そう受け取ってよろしいかと。謁見後に商会との間でどこまで話が進んだかは、改めて尋ねます」
王の机の向こうで、庭の水音がかすかに聞こえた。
普段なら意識しない音が、言葉を選ぶ間に耳へ入る。
アルベルトは売るとは言っていない。
ならば、自分も余計な約束をしてはならない。
クラウスの胸に、澪と真壁へ返した約束が浮かんだ。
王家へ話す必要が生じた時には、先に彼らへ相談する。
その時の澪の真剣な顔を、今でも覚えている。
王家へ近づくことを栄誉として喜ぶ者なら、あのような顔にはならない。
彼らは商売を続けたかった。
自分はそれを知り、承知した。
外国の書簡が国王の手に届いた事実は、もう動かせない。
しかし、書簡にない秘密まで、自分がここで並べる理由はないはずだ。
「船主へ話を通すに当たり、開発に携わった者たちの意向も確かめたく存じます」
クラウスは紙を机へ戻した。
「船主だけでは足りぬのか」
「技術に関する説明は、船主だけで判断できるとは限りませぬ。まずは当事者に確認させてください」
王がクラウスの顔を見た。
誰なのか、と続けられた時の返事を考えながら、クラウスはその視線を受け止めた。
澪と真壁に、まだ何も相談できていない。
口にしかけた名を留め、王の返事を待った。
王はすぐには答えなかった。
書簡を畳まずに置いたまま、窓の光の届く方へ目を向ける。
クラウスは、早く返事を欲しがる自分を抑えて待った。
「よかろう。余が知りたいのは、この船を国のために使えるかどうかだ」
王の視線が戻った。
「軍務と商務も呼べ。何を尋ねるべきか、先に聞いておく」
クラウスは礼をした。
ひとつの約束を守れる道が見えた。
その道の先には、もう次の会議が待っていた。
小会議室の長机へ、王国内の街道図が広げられた。
紙の巻き癖を押さえると、幾つもの道が王都から外へ伸びていく。
山を避け、川の渡れる所へ回り、町をつないで進む道だ。
クラウスは王の向かいに座り、集まった高官たちの顔を見渡した。
軍務担当は輸送規模の記された資料を、商務担当は所有者の名のある要旨を手元へ置いていた。
同じ船でも、先に見る所が違う。
「王家でも利用できるのか」
王が問うた。
「所有者との話し合いが必要でございます」
「それなら相談すればよい。こちらが何を運びたいのかも、決めずに尋ねるわけにはいくまい」
クラウスは街道図へ目を落とした。
陛下が本当に知りたいのは、空を飛ぶ珍しい船の見物だけではない。
これまで長い時間をかけていた移動の、どこを変えられるかだ。
「1,000人規模を運べるのであれば、兵の移動に大きな違いが出ます」
軍務担当が山際の道を指した。
「歩かせるだけでも食料が要ります。目的地へ着いた時に疲れ切っていては、その先の働きにも響く」
クラウスは朝の自分の肩を思い出しかけ、すぐに目の前の指へ意識を戻した。
地図の上では指ひとつで辿れる道を、兵は荷を背負って歩く。
その隔たりを考える者の言葉だった。
「ただ、人数だけで決めることはできません。装備と荷をどれだけ載せられるか、乗り降りに何が要るかを、船主へ尋ねたいと存じます」
「救援の荷もあるな」
王が同じ道の先を見た。
「橋が落ちた町へ食料を届ける。医師が足りぬ所へ、人を送る。道を直すまで待たずに済むなら、その意味は大きい」
軍務担当は指を引いた。
「はい。救援に向かう者が到着するまでの時間を縮められます。ただし、降ろせる所へ行けるかどうかは、別に聞く必要がございます」
王が頷くのを見て、商務担当も身体を机へ寄せた。
「運賃と条件が合えば、高値の急ぎ荷にも使えましょう。日を費やしたために価値を失う品なら、速さに金を払う者がおります」
「普段の荷車の代わりになるか」
「今の情報では申し上げられません。運賃も、受け渡しのできる場所も分かりませんので」
そこで言い切らなかったことに、クラウスは好感を持った。
夢の広がる席で、知らないことを知らないと言える者はありがたい。
商務担当は地図の端を押さえ直した。
「王家の急ぎ荷を優先するなら、既に受けた商人の荷との兼ね合いもございます。いつでも王家のために空けておけ、とは頼めませぬ」
机の上へ木の葉の影が揺れた。
窓の外では鳥が枝から枝へ移り、地図に描かれた曲がり道を気にも留めない。
クラウスはその影を見て、初めて船が飛ぶ姿を思い描けた気がした。
街道を上から越えていく。
山や川が消えるわけではないが、迂回する理由が変わる。
国王の目が明るくなるのも、もっともだった。
「急使や使節も乗せられような」
「乗船の条件を尋ねましょう。陛下が今挙げられた救援と、人の移動を先に。軍務には必要な装備と荷の内容、商務には急ぎ荷の性質をまとめてもらいます」
クラウスが顔を上げると、王は資料を手の下へ揃えた。
「余も、まず船を見てみたい。浮かんでいるところをだ」
王は窓の上方へ目を向けた。
「200mもの船が通れば、下からは何が見える。船底か、それとも人の乗る部分か」
「私も実物を見ておりませんので、そこまでは」
答えると、王はクラウスを見直した。
「では、そなたも見たいであろう」
その問いには、すぐに返事ができなかった。
窓から見える空へ、書簡の数字を重ねてしまったのだ。
クラウス自身も、200mの船が浮かぶところを見たかった。
「そのご希望も伝えます」
王は窓から視線を戻し、軍務担当へ顔を向けた。
「その船は、荒れた風の中でも運べるのでしょうか」
軍務担当の問いに、クラウスは顔を向けた。
高官は、輸送規模の数字を指している。
「1,000人を乗せられるとして、天候が崩れた時にどうなるか。救援のために呼んでも、その日に動けるとは限りません」
「故障した時の整備もございます」
商務担当が続けた。
「遠方へ届けた船が戻れなくなれば、荷の契約まで止まります。どこで直せるのか、誰が直すのかは聞いておきたいところです」
クラウスは冷めた茶へ手を伸ばし、飲まずに戻した。
先ほどの鳥の影は、もう地図に落ちていない。
空を進む姿を想像するのは容易でも、そこに乗る者の命は、地上の馬車と同じように重かった。
「王立魔術院にも調べさせよ」
王の言葉を聞いて、クラウスの手が茶碗から離れた。
魔術院。
浮かんだのは建物よりも、かつての捜索を巡って交わされた言葉だった。
ヴァルトには、王都で呼ばれていた別の名がある。
それを知っている自分が、技術の照会を人物の話へ近づけるわけにはいかなかった。
コンラート・アイゼンフェルトは、根拠もなく踏み込むことには慎重な男だ。
その慎重さに頼るだけでなく、こちらから渡す問いも誤らぬようにしなければならない。
「承知いたしました。ただし、まず既存の知見から、安全上どのような点を尋ねるべきか、求める形が適切かと存じます」
「なぜだ」
王の声に、クラウスは背筋を伸ばした。
返事を躊躇した分を、長い説明で取り繕うつもりはなかった。
「民間の技術でございます。ここには船の図面も、運航の詳しい報告もありません。魔術院にも、この書簡だけで仕組みを調べ尽くすことはできませぬ」
軍務担当が資料の裏側をめくり、何もないのを見て元へ戻した。
クラウスは、その手の動きに合わせて言葉を続けた。
「荒れた風の中でどうするか、故障の際に誰が対応するか。船主へ聞く時に、魔術の専門家が同じ席にいれば、私どもでは尋ねきれない点も聞けましょう」
「では、所有者にも協力を求めよ」
「先に意向を確かめます。現物の見学や聞き取りが可能なら、その範囲を相談いたします」
王は腕を組み、添付資料を眺めた。
クラウスも視線を下げた。
外形と人数だけでは、どう浮くのかさえ説明できない。
それでも飛来したという事実がある以上、知らないというだけで退けることもできなかった。
「院長には、知らぬものを知っているように答えさせるな」
クラウスは目を上げた。
「分からぬ所があれば、何を聞くべきかを出させよ。船を使う話は、その返答と船主の話を聞いてからだ」
「そのように伝えます」
胸の奥に張っていたものが緩んだ。
風が入り、地図の端が持ち上がる。
クラウスは手を伸ばして押さえた。
窓の向こうの空は淡く晴れているが、この先も同じとは限らない。
「魔術院の見解は、軍務と商務にも回します。それぞれの希望と合わせ、船主に同じ質問を繰り返さずに済むようにいたしましょう」
高官たちが応じた。
会議を終える頃には、茶はすっかり冷えていた。
クラウスは椅子から立ち上がった。
腰は、以前の長い会議の後ほど重くない。
これから宰相府へ持ち帰る仕事の方は、随分重くなっていた。
執務室へ戻ったクラウスは、先にアルベルトへの書状を用意した。
筆を持ったところで、外国王の前に立つ息子の姿が浮かんだ。
その場を見たわけではない。
だが、自分に権限のないことを約束せず、王の希望を預かって帰ったのなら、悪い応対ではなかった。
よく答えた。
父としては、そう書いてやりたくなる。
同時に、それならこちらにも先に知らせてほしかった、という言葉まで続きそうになった。
クラウスは息を吐き、レヴァニアから照会が届いたことから書き始めた。
冬の謁見から後、商会とどのような話をしたのか知らせてほしい。
続いて、国王が輸送の利用と見学に関心を示されたことを伝える。
浮かんでいるところを見たい、と言われた時の声が耳に戻った。
あの好奇心を、訪問の決定に変えて届けてはいけない。
クラウスは筆を止め、最後まで読んでから、商会の意向を尋ねてほしいと続けた。
船主のリュシア商会と、澪、真壁へ先に相談し、説明や見学に応じられる範囲を知らせるよう求める。
窓の光が退き、侍従の置いた灯りが筆先を照らした。
「急使の用意ができております」
側近の声に、クラウスは顔を上げた。
「返事の前に、商会と話す時間が要る。その点も伝えよ」
「承知いたしました」
側近が外へ出ると、クラウスは書状を畳んだ。
「アルベルト、今度は先に言ってくれ」
息子が目の前にいたなら、結局これを言っていただろう。
だが、この書状で届けるべきものは、父の小言ではない。
封蝋を押し、魔術院宛ての照会へ手を移した。
こちらには、安全上どのような点を尋ねるべきかを求める。
現物の調査は所有者の了承後と記したところで、ようやく指の力を緩められた。
王の関心を伝えながら、商会との約束も守れる。
あとは、受け取った者たちの返事を待つしかなかった。
戻ってきた側近へ、侯爵領と魔術院への封書を渡す。
「外交には、照会を受領した旨を返させよ。契約の返答は、船主の話を聞いてからだ」
側近の抱えた封書が、扉の向こうへ消えた。
クラウスは背もたれへ身体を預け、閉じた扉をしばらく眺めていた。
急使の出発を知らせる蹄の音が、中庭の向こうへ遠ざかっていった。
廊下では勤めを終えた者たちが挨拶を交わし、足早に帰っていく。
クラウスは腕を伸ばした。
長く座っていた背中には疲れがあるが、肩を揉まなければ動けないほどではない。
竜命薬のおかげで、今日もよく働けた。
そう思いながら目を戻すと、朝にはなかった案件が、机の空きを埋めていた。
封書1通が届いただけなのだが。
薬を服用した時には、これでしばらく国務へ力を注げると考えたものだ。
その願いは、確かに叶っている。
叶いすぎている気もした。
それでも、国王が窓の上方を見た時の顔を思い出すと、口元が緩んだ。
200mの船が空に浮かぶ。
自分も見たいと思ってしまった以上、すべてを誰かに任せて済ますわけにはいかない。
その船で医師が間に合い、遠い町へ食料が届くなら、なおさらだった。
「……仕事そのものが減る薬は、なかったな」
暮れた庭では、人影の途絶えた小径を風が渡っていた。
クラウスはその気配をしばらく聞き、それから通常の行政報告へ手を伸ばした。
まだ筆を持つ手は、しっかりしていた。
王立魔術院の院長室には、紙の乾いた匂いが籠もっていた。
コンラート・アイゼンフェルトは、届いた封書の王家の印を見て、手元の資料を閉じた。
机の向こうには術式図を収めた棚があり、その下に魔石の箱が置かれている。
夕刻の灯りが箱の金具に映るのを眺めながら、封を開いた。
王宮から知見を求められることは珍しくない。
ところが、最初の数行を読んだところで、コンラートは封筒を置く手を止めた。
「全長約200m……1,000人規模の輸送か」
紙へ近づけた顔を戻し、もう一度数字を見た。
領内の小さな移動具の相談ではなかった。
国外へも飛来した民間の輸送船について、王家が利用に関心を持っているという。
だが、添付された概要に、船を浮かせる術式はない。
人数と大きさを見ただけで、必要な魔術を言い当てることはできなかった。
コンラートは照会の末尾まで読み進めた。
既存の魔術知見から、安全上尋ねるべき点を挙げるようにとある。
現物の調査には、所有者の了承を得てから臨むよう求められていた。
そこまで読んでから、彼は扉の側に控える職員へ顔を向けた。
まずは、この数字をどう受け止めるか、話す相手が要る。
「境界課長を呼んでくれ」