押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第411話 陛下はご存じなかったのですか?

 

 朝の靄が庭の低い植え込みに残っている。

 

 窓を開けた侍従が身を引くと、湿った土と若葉の匂いが、紙と革の匂いに混じった。

 

 クラウス・ヴァルディスは襟元を直し、宰相府の大机についた。

 

 机の右には各局へ戻す報告、左には自分の裁可を待つ案件が並んでいる。

 

 朝のうちに左を減らせれば、昼からの会議で新しい紙が増えても、夕食までには収まりがつく。

 

 長年ここで働いてきて、そう都合よく済んだ日は多くなかったが、今朝は悪くない気がした。

 

「こちらは、積雪による遅れが解消した後の報告か」

 

「はい。街道の補修費について、追加の裁可を求めております」

 

 側近の声を聞きながら、クラウスは添付された明細へ目を移した。

 

 補修に必要な費用と、例年の維持費が同じ欄に入っている。

 

 これでは追加で幾ら出すべきか分からない。

 

「通常の維持費を除いて出し直させよ。作業そのものは止めるな」

 

 側近が受け取った紙を脇へ寄せる間に、クラウスは次の報告を開いた。

 

 以前なら、ここで目の奥が重くなり、窓の方を眺めていた頃だ。

 

 今日は細い文字の末尾まで追っても、首を揉みたくならない。

 

 肩を動かすと、上着の生地が軽く擦れた。

 

 あの竜命薬は、やはり大したものだ。

 

 あの朝に飲んだ時も、身体が若返った感覚はなかった。

 

 《竜命薬》が止めるのは、今ある肉体の老化だ。

 

 およそ5年間、これ以上衰えずにいられると聞いた時の安堵は、今も胸に残っている。

 

 その前日に服用した《竜血疲労耐久強化薬》の説明も受けていた。

 

 同じ負担でも、疲労が蓄積しにくくなる。

 

 それでも、日々の調子のよさを考える時、真っ先に浮かぶのは竜命薬の名だった。

 

 クラウスは次の紙を引き寄せた。

 

 竜命薬のおかげで、今日はよく片付く。

 

 仕事が進んでいる間は、その実感だけで十分だった。

 

「少し休まれますか」

 

 侍従が飲み物を替えたのを見て、側近が尋ねた。

 

 クラウスは温い茶をひと口飲んだ。

 

 喉を通る熱がほどよく、もうひと口欲しくなる。

 

「いや、次を頼む」

 

「本日は珍しくお早いことで」

 

「書類の方が素直だっただけだ」

 

 側近の口元が緩んだ。

 

 薬の話をしなくても、この机に向かう自分が前より機嫌よく働いていることは、周囲にも分かるらしい。

 

 クラウスは茶碗を置き、最後の報告へ裁可を入れた。

 

 朝日が机の角へ届き、空いた場所に封蝋の皿の小さな影ができている。

 

 久しぶりに、机の木目をこれだけ見た。

 

 そう思ったところで、扉が叩かれた。

 

「レヴァニア王国から、王家宛ての正式な照会が到着しております」

 

 クラウスは置きかけた筆を止めた。

 

 国名を聞いて、南へ伸びる街道と、侯爵領にいる息子の顔が浮かぶ。

 

 交易が活発になれば、外国から来る文書も増える。

 

 それ自体は喜ばしい。

 

「封緘を照合し、正規の手順で陛下へ。私にも要旨を回すように」

 

 返事をして去る足音を聞きながら、クラウスは机の空いた角をもう一度眺めた。

 

 そこを空けておいて、よかったのかもしれない。

 

 

 

 廊下へ出ると、石壁に残った冷えが頬に触れた。

 

 窓から差す光の筋を横切るたび、靴底の音が高く響く。

 

 クラウスは王の執務室へ向かう途中、要旨を携えた外交担当高官に追いつかれた。

 

「書簡は陛下のお手元へ届いております。宰相閣下も、すぐにお越しになるようにとのことです」

 

「何についての照会だ」

 

「大型飛行船の件でございます」

 

 クラウスの歩幅が、そこで狭まった。

 

 高官はその変化に気づいたらしく、クラウスの横へ並ぶと、要旨を渡してきた。

 

「レヴァニア王家は、以前の謁見で示した希望について、改めて窓口を確かめたいと申しております」

 

「以前の謁見とは」

 

「冬にアルベルト様が同国王へ挨拶された際の件にございます」

 

 クラウスは紙へ目を落とした。

 

 アルベルトの名があった。

 

 その下に、現物の購入、同型船の建造、王家の荷の優先輸送という希望が記されている。

 

 息子が外国の王と会った。

 

 しかも、空を飛ぶ船を巡って、これだけの話をした。

 

 その経緯を、父である自分が外国の文書から知ることになるとは思わなかった。

 

 だが、ここでアルベルトを責めても、国王の待つ部屋へ持っていける説明は増えない。

 

「これは売買の成立を知らせる文書ではないな」

 

「はい。王家として希望を改めて伝え、その相談先を照会するものでございます」

 

 クラウスは希望が並んだ部分を読み直した。

 

 買いたいと言うことと、買えることは違う。

 

 その区別が文書にも保たれているのを見て、息子が取り返しのつかない約束をしたのではないと分かった。

 

 胸元の窮屈さが、ほんの少し薄れる。

 

 続いて、所有者の名を探した。

 

 リュシア商会。

 

 その名を見れば、押入商会の者たちの顔も浮かんだ。

 

 クラウス自身が知る、侯爵領での仕事ぶりがある。

 

 この船も彼らの技術と無縁ではないのだろう。

 

 紙の端が指へ当たり、そこだけ妙にはっきり感じられた。

 

 やはり、彼らか。

 

 驚くより先に納得してしまうのが、我ながら困ったことだった。

 

 要旨には外形と輸送規模も添えられている。

 

「全長約200m。最大で1,000人……」

 

 思わず声にすると、高官が顔を上げた。

 

「書簡には、そのように記載されております」

 

「実際に1,000人がレヴァニアへ来たということか」

 

「そこまでは申しておりません。最大輸送規模と、飛来した事実は別に記されております」

 

 高官の落ち着いた返事は頼もしかった。

 

 少なくとも、この紙を持っている者まで、数字に浮かされてはいない。

 

 クラウスは廊下の先へ目を向けた。

 

 衛兵が扉の両側で姿勢を正している。

 

 あの向こうでは、国王が同じ数字を読んでいるはずだ。

 

 200mの船を、紙1枚で知らされる。

 

 その時の顔を想像すると、今朝の仕事が順調だったことなど、随分遠くへ退いた。

 

「この要旨にないことを、憶測で補うな」

 

「承知しております」

 

 高官とともに扉の前へ着き、クラウスは上着の裾を整えた。

 

 息子への問いは後でよい。

 

 今は、陛下への返答だ。

 

 

 

 国王の机には、開かれた書簡と添付の紙が置かれていた。

 

 高窓から入る春の光が、机の縁を白く照らしている。

 

 その明るさとは裏腹に、王の口元は硬かった。

 

 クラウスが礼を終えるのを待って、王は書簡へ指を置いた。

 

「我が国に、これほどの船があるのか」

 

「記された商会の名からすれば、実在するものと存じます。ただ、運航の詳しい状況は当事者へ尋ねねばなりませぬ」

 

 王の指が、リュシア商会の名から、全長の数字へ移った。

 

 クラウスは、その指が数字の上で止まるのを見た。

 

 王宮の建物を思い浮かべても、手軽に比較できる大きさではない。

 

 王の顔を見ている自分も、まだ実物の姿を十分に思い描けずにいる。

 

「レヴァニアの王家は、購入を望んでいるという」

 

「はい」

 

「船が来たことも知っている」

 

 王は外交高官へ目を向けた。

 

「同国の王都郊外への飛来について、書簡に記載がございます」

 

 高官の隣には若い文官が控えていた。

 

 添付資料を渡すため、両手で紙を持っている。

 

 クラウスには、その紙の上辺がかすかに動いているのが見えた。

 

「この船の報告は、どこへ回っていた」

 

 王は外交高官に尋ねた。

 

 若い文官が添付資料から顔を上げる。

 

 読み上げる箇所を探していた目が、王と書簡の間を行き来した。

 

「……陛下はご存じなかったのですか?」

 

 クラウスは文官を見た。

 

 本人も言い終えた瞬間に気づいたらしく、唇が開いたままになっている。

 

 国王はゆっくりと顔を向けた。

 

「知らぬ。外国の王から、自国の船について教えられたところだ」

 

「失礼いたしました!」

 

 深く下げた頭の先で、紙まで折れそうになった。

 

 クラウスは視線を王へ戻し、ひと呼吸置いた。

 

 報告が届いていないと明かす代わりに、届き先を尋ねられたのだ。

 

 外国の公文書が当然のように扱っている船なら、自国の王も知っている。

 

 文官は、そこを疑っていなかったのだろう。

 

 その食い違いを、文官1人の失言へ押し込んでも仕方がなかった。

 

「まず、この書簡が何を求めているか、申し上げましょう」

 

 王は文官から目を離した。

 

「頼む」

 

 クラウスは机の横へ進んだ。

 

 外国から届いた希望を、そのまま自国の決定のように受け取られては困る。

 

「相手王家が望んでいるのは、船の購入、同型船の建造についての相談、それに王家の荷を優先して運ぶ契約です。いずれも、まだ所有者の承諾を得たものではございません」

 

「所有者は、このリュシア商会か」

 

「そのように記されております」

 

 王は添付の紙を引き寄せた。

 

 先ほどまで数字に止まっていた指が、今度は商会の名に置かれた。

 

「まず、ここへ話を通すわけだな」

 

 クラウスは顔を上げた。

 

 知らなかったことへの不満は、王の声にまだ残っている。

 

「はい。私から侯爵領へ連絡を入れます」

 

「その前に聞こう。アルベルトは、外国の王に何と答えた」

 

 父としても知りたかった問いだった。

 

 クラウスは要旨の先を開いた。

 

 レヴァニア側が受けた説明は、謁見の概要として添えられていた。

 

 クラウスは行を追い、息子の返答に当たる部分で目を止めた。

 

 領主には飛行船を売却する権限がない。

 

 船はリュシア商会の所有物であり、希望は伝えるが、その回答までは約束できない。

 

 短くまとめられていても、アルベルトが何を守ったかは分かった。

 

「息子は、王家の望みに答えられぬと言ったのか」

 

「決める立場にないと申したのでございます」

 

 王は椅子の背へ身体を預けた。

 

 クラウスは次の言葉を待った。

 

 息子が外国王の前でどう見えたかは、この概要だけでは知りようがない。

 

 だが、少なくとも答え方を誤ったとは思わなかった。

 

「それは正しいな」

 

 そのひと言で、要旨を持つ手の力が抜けた。

 

「はい。リュシア商会の船を、侯爵家の持ち物として売ることはできませぬ」

 

「では、相手は返答を待っているのだな」

 

「今届いた照会については、そう受け取ってよろしいかと。謁見後に商会との間でどこまで話が進んだかは、改めて尋ねます」

 

 王の机の向こうで、庭の水音がかすかに聞こえた。

 

 普段なら意識しない音が、言葉を選ぶ間に耳へ入る。

 

 アルベルトは売るとは言っていない。

 

 ならば、自分も余計な約束をしてはならない。

 

 クラウスの胸に、澪と真壁へ返した約束が浮かんだ。

 

 王家へ話す必要が生じた時には、先に彼らへ相談する。

 

 その時の澪の真剣な顔を、今でも覚えている。

 

 王家へ近づくことを栄誉として喜ぶ者なら、あのような顔にはならない。

 

 彼らは商売を続けたかった。

 

 自分はそれを知り、承知した。

 

 外国の書簡が国王の手に届いた事実は、もう動かせない。

 

 しかし、書簡にない秘密まで、自分がここで並べる理由はないはずだ。

 

「船主へ話を通すに当たり、開発に携わった者たちの意向も確かめたく存じます」

 

 クラウスは紙を机へ戻した。

 

「船主だけでは足りぬのか」

 

「技術に関する説明は、船主だけで判断できるとは限りませぬ。まずは当事者に確認させてください」

 

 王がクラウスの顔を見た。

 

 誰なのか、と続けられた時の返事を考えながら、クラウスはその視線を受け止めた。

 

 澪と真壁に、まだ何も相談できていない。

 

 口にしかけた名を留め、王の返事を待った。

 

 王はすぐには答えなかった。

 

 書簡を畳まずに置いたまま、窓の光の届く方へ目を向ける。

 

 クラウスは、早く返事を欲しがる自分を抑えて待った。

 

「よかろう。余が知りたいのは、この船を国のために使えるかどうかだ」

 

 王の視線が戻った。

 

「軍務と商務も呼べ。何を尋ねるべきか、先に聞いておく」

 

 クラウスは礼をした。

 

 ひとつの約束を守れる道が見えた。

 

 その道の先には、もう次の会議が待っていた。

 

 

 

 小会議室の長机へ、王国内の街道図が広げられた。

 

 紙の巻き癖を押さえると、幾つもの道が王都から外へ伸びていく。

 

 山を避け、川の渡れる所へ回り、町をつないで進む道だ。

 

 クラウスは王の向かいに座り、集まった高官たちの顔を見渡した。

 

 軍務担当は輸送規模の記された資料を、商務担当は所有者の名のある要旨を手元へ置いていた。

 

 同じ船でも、先に見る所が違う。

 

「王家でも利用できるのか」

 

 王が問うた。

 

「所有者との話し合いが必要でございます」

 

「それなら相談すればよい。こちらが何を運びたいのかも、決めずに尋ねるわけにはいくまい」

 

 クラウスは街道図へ目を落とした。

 

 陛下が本当に知りたいのは、空を飛ぶ珍しい船の見物だけではない。

 

 これまで長い時間をかけていた移動の、どこを変えられるかだ。

 

「1,000人規模を運べるのであれば、兵の移動に大きな違いが出ます」

 

 軍務担当が山際の道を指した。

 

「歩かせるだけでも食料が要ります。目的地へ着いた時に疲れ切っていては、その先の働きにも響く」

 

 クラウスは朝の自分の肩を思い出しかけ、すぐに目の前の指へ意識を戻した。

 

 地図の上では指ひとつで辿れる道を、兵は荷を背負って歩く。

 

 その隔たりを考える者の言葉だった。

 

「ただ、人数だけで決めることはできません。装備と荷をどれだけ載せられるか、乗り降りに何が要るかを、船主へ尋ねたいと存じます」

 

「救援の荷もあるな」

 

 王が同じ道の先を見た。

 

「橋が落ちた町へ食料を届ける。医師が足りぬ所へ、人を送る。道を直すまで待たずに済むなら、その意味は大きい」

 

 軍務担当は指を引いた。

 

「はい。救援に向かう者が到着するまでの時間を縮められます。ただし、降ろせる所へ行けるかどうかは、別に聞く必要がございます」

 

 王が頷くのを見て、商務担当も身体を机へ寄せた。

 

「運賃と条件が合えば、高値の急ぎ荷にも使えましょう。日を費やしたために価値を失う品なら、速さに金を払う者がおります」

 

「普段の荷車の代わりになるか」

 

「今の情報では申し上げられません。運賃も、受け渡しのできる場所も分かりませんので」

 

 そこで言い切らなかったことに、クラウスは好感を持った。

 

 夢の広がる席で、知らないことを知らないと言える者はありがたい。

 

 商務担当は地図の端を押さえ直した。

 

「王家の急ぎ荷を優先するなら、既に受けた商人の荷との兼ね合いもございます。いつでも王家のために空けておけ、とは頼めませぬ」

 

 机の上へ木の葉の影が揺れた。

 

 窓の外では鳥が枝から枝へ移り、地図に描かれた曲がり道を気にも留めない。

 

 クラウスはその影を見て、初めて船が飛ぶ姿を思い描けた気がした。

 

 街道を上から越えていく。

 

 山や川が消えるわけではないが、迂回する理由が変わる。

 

 国王の目が明るくなるのも、もっともだった。

 

「急使や使節も乗せられような」

 

「乗船の条件を尋ねましょう。陛下が今挙げられた救援と、人の移動を先に。軍務には必要な装備と荷の内容、商務には急ぎ荷の性質をまとめてもらいます」

 

 クラウスが顔を上げると、王は資料を手の下へ揃えた。

 

「余も、まず船を見てみたい。浮かんでいるところをだ」

 

 王は窓の上方へ目を向けた。

 

「200mもの船が通れば、下からは何が見える。船底か、それとも人の乗る部分か」

 

「私も実物を見ておりませんので、そこまでは」

 

 答えると、王はクラウスを見直した。

 

「では、そなたも見たいであろう」

 

 その問いには、すぐに返事ができなかった。

 

 窓から見える空へ、書簡の数字を重ねてしまったのだ。

 

 クラウス自身も、200mの船が浮かぶところを見たかった。

 

「そのご希望も伝えます」

 

 王は窓から視線を戻し、軍務担当へ顔を向けた。

 

「その船は、荒れた風の中でも運べるのでしょうか」

 

 軍務担当の問いに、クラウスは顔を向けた。

 

 高官は、輸送規模の数字を指している。

 

「1,000人を乗せられるとして、天候が崩れた時にどうなるか。救援のために呼んでも、その日に動けるとは限りません」

 

「故障した時の整備もございます」

 

 商務担当が続けた。

 

「遠方へ届けた船が戻れなくなれば、荷の契約まで止まります。どこで直せるのか、誰が直すのかは聞いておきたいところです」

 

 クラウスは冷めた茶へ手を伸ばし、飲まずに戻した。

 

 先ほどの鳥の影は、もう地図に落ちていない。

 

 空を進む姿を想像するのは容易でも、そこに乗る者の命は、地上の馬車と同じように重かった。

 

「王立魔術院にも調べさせよ」

 

 王の言葉を聞いて、クラウスの手が茶碗から離れた。

 

 魔術院。

 

 浮かんだのは建物よりも、かつての捜索を巡って交わされた言葉だった。

 

 ヴァルトには、王都で呼ばれていた別の名がある。

 

 それを知っている自分が、技術の照会を人物の話へ近づけるわけにはいかなかった。

 

 コンラート・アイゼンフェルトは、根拠もなく踏み込むことには慎重な男だ。

 

 その慎重さに頼るだけでなく、こちらから渡す問いも誤らぬようにしなければならない。

 

「承知いたしました。ただし、まず既存の知見から、安全上どのような点を尋ねるべきか、求める形が適切かと存じます」

 

「なぜだ」

 

 王の声に、クラウスは背筋を伸ばした。

 

 返事を躊躇した分を、長い説明で取り繕うつもりはなかった。

 

「民間の技術でございます。ここには船の図面も、運航の詳しい報告もありません。魔術院にも、この書簡だけで仕組みを調べ尽くすことはできませぬ」

 

 軍務担当が資料の裏側をめくり、何もないのを見て元へ戻した。

 

 クラウスは、その手の動きに合わせて言葉を続けた。

 

「荒れた風の中でどうするか、故障の際に誰が対応するか。船主へ聞く時に、魔術の専門家が同じ席にいれば、私どもでは尋ねきれない点も聞けましょう」

 

「では、所有者にも協力を求めよ」

 

「先に意向を確かめます。現物の見学や聞き取りが可能なら、その範囲を相談いたします」

 

 王は腕を組み、添付資料を眺めた。

 

 クラウスも視線を下げた。

 

 外形と人数だけでは、どう浮くのかさえ説明できない。

 

 それでも飛来したという事実がある以上、知らないというだけで退けることもできなかった。

 

「院長には、知らぬものを知っているように答えさせるな」

 

 クラウスは目を上げた。

 

「分からぬ所があれば、何を聞くべきかを出させよ。船を使う話は、その返答と船主の話を聞いてからだ」

 

「そのように伝えます」

 

 胸の奥に張っていたものが緩んだ。

 

 風が入り、地図の端が持ち上がる。

 

 クラウスは手を伸ばして押さえた。

 

 窓の向こうの空は淡く晴れているが、この先も同じとは限らない。

 

「魔術院の見解は、軍務と商務にも回します。それぞれの希望と合わせ、船主に同じ質問を繰り返さずに済むようにいたしましょう」

 

 高官たちが応じた。

 

 会議を終える頃には、茶はすっかり冷えていた。

 

 クラウスは椅子から立ち上がった。

 

 腰は、以前の長い会議の後ほど重くない。

 

 これから宰相府へ持ち帰る仕事の方は、随分重くなっていた。

 

 

 

 執務室へ戻ったクラウスは、先にアルベルトへの書状を用意した。

 

 筆を持ったところで、外国王の前に立つ息子の姿が浮かんだ。

 

 その場を見たわけではない。

 

 だが、自分に権限のないことを約束せず、王の希望を預かって帰ったのなら、悪い応対ではなかった。

 

 よく答えた。

 

 父としては、そう書いてやりたくなる。

 

 同時に、それならこちらにも先に知らせてほしかった、という言葉まで続きそうになった。

 

 クラウスは息を吐き、レヴァニアから照会が届いたことから書き始めた。

 

 冬の謁見から後、商会とどのような話をしたのか知らせてほしい。

 

 続いて、国王が輸送の利用と見学に関心を示されたことを伝える。

 

 浮かんでいるところを見たい、と言われた時の声が耳に戻った。

 

 あの好奇心を、訪問の決定に変えて届けてはいけない。

 

 クラウスは筆を止め、最後まで読んでから、商会の意向を尋ねてほしいと続けた。

 

 船主のリュシア商会と、澪、真壁へ先に相談し、説明や見学に応じられる範囲を知らせるよう求める。

 

 窓の光が退き、侍従の置いた灯りが筆先を照らした。

 

「急使の用意ができております」

 

 側近の声に、クラウスは顔を上げた。

 

「返事の前に、商会と話す時間が要る。その点も伝えよ」

 

「承知いたしました」

 

 側近が外へ出ると、クラウスは書状を畳んだ。

 

「アルベルト、今度は先に言ってくれ」

 

 息子が目の前にいたなら、結局これを言っていただろう。

 

 だが、この書状で届けるべきものは、父の小言ではない。

 

 封蝋を押し、魔術院宛ての照会へ手を移した。

 

 こちらには、安全上どのような点を尋ねるべきかを求める。

 

 現物の調査は所有者の了承後と記したところで、ようやく指の力を緩められた。

 

 王の関心を伝えながら、商会との約束も守れる。

 

 あとは、受け取った者たちの返事を待つしかなかった。

 

 戻ってきた側近へ、侯爵領と魔術院への封書を渡す。

 

「外交には、照会を受領した旨を返させよ。契約の返答は、船主の話を聞いてからだ」

 

 側近の抱えた封書が、扉の向こうへ消えた。

 

 クラウスは背もたれへ身体を預け、閉じた扉をしばらく眺めていた。

 

 

 

 急使の出発を知らせる蹄の音が、中庭の向こうへ遠ざかっていった。

 

 廊下では勤めを終えた者たちが挨拶を交わし、足早に帰っていく。

 

 クラウスは腕を伸ばした。

 

 長く座っていた背中には疲れがあるが、肩を揉まなければ動けないほどではない。

 

 竜命薬のおかげで、今日もよく働けた。

 

 そう思いながら目を戻すと、朝にはなかった案件が、机の空きを埋めていた。

 

 封書1通が届いただけなのだが。

 

 薬を服用した時には、これでしばらく国務へ力を注げると考えたものだ。

 

 その願いは、確かに叶っている。

 

 叶いすぎている気もした。

 

 それでも、国王が窓の上方を見た時の顔を思い出すと、口元が緩んだ。

 

 200mの船が空に浮かぶ。

 

 自分も見たいと思ってしまった以上、すべてを誰かに任せて済ますわけにはいかない。

 

 その船で医師が間に合い、遠い町へ食料が届くなら、なおさらだった。

 

「……仕事そのものが減る薬は、なかったな」

 

 暮れた庭では、人影の途絶えた小径を風が渡っていた。

 

 クラウスはその気配をしばらく聞き、それから通常の行政報告へ手を伸ばした。

 

 まだ筆を持つ手は、しっかりしていた。

 

 

 

 王立魔術院の院長室には、紙の乾いた匂いが籠もっていた。

 

 コンラート・アイゼンフェルトは、届いた封書の王家の印を見て、手元の資料を閉じた。

 

 机の向こうには術式図を収めた棚があり、その下に魔石の箱が置かれている。

 

 夕刻の灯りが箱の金具に映るのを眺めながら、封を開いた。

 

 王宮から知見を求められることは珍しくない。

 

 ところが、最初の数行を読んだところで、コンラートは封筒を置く手を止めた。

 

「全長約200m……1,000人規模の輸送か」

 

 紙へ近づけた顔を戻し、もう一度数字を見た。

 

 領内の小さな移動具の相談ではなかった。

 

 国外へも飛来した民間の輸送船について、王家が利用に関心を持っているという。

 

 だが、添付された概要に、船を浮かせる術式はない。

 

 人数と大きさを見ただけで、必要な魔術を言い当てることはできなかった。

 

 コンラートは照会の末尾まで読み進めた。

 

 既存の魔術知見から、安全上尋ねるべき点を挙げるようにとある。

 

 現物の調査には、所有者の了承を得てから臨むよう求められていた。

 

 そこまで読んでから、彼は扉の側に控える職員へ顔を向けた。

 

 まずは、この数字をどう受け止めるか、話す相手が要る。

 

「境界課長を呼んでくれ」

 

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転生したら異世界の宇宙最強の龍でした!〜0から星と生命を作り出して一大文明の支配者になったので現代日本へ帰還します。自分は日本が一番暮らしやすい。〜(作者:電動ガン)(オリジナル:現代/コメディ)

目覚めたら無だった。何も無い。宇宙さえも。自分の身体を見る。銀色の甲殻、長い尻尾これモンスターだ!?よく見ると俺の他にも二頭のモンスターが。ドラゴンだこれ!!▼俺たち三頭の女神龍は宇宙創成の前の世界にいる。俺たちを生み出した主神の指示で世界を作り生命を繁栄させることとなったけど・・・・・・それ何年掛かるの?▼何億年も掛けて生命が宿れる星を何個も作り、失敗し、…


総合評価:2877/評価:7.61/連載:146話/更新日時:2026年09月27日(日) 17:07 小説情報

【TSして最強】世界はまだ、俺が魔女で聖女だと知らない(作者:月森朔)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

ダンジョンが現れてから30年。▼俺は、黒歴史の自作小説キャラになれるという奇妙な能力を手に入れた。▼変身した姿は、▼紅い髪をなびかせるレベル500の魔女▼食いしん坊の女子高生ヒーラー▼希代の美少女魔道具師▼・・・▼かつて妄想で描いたキャラたちが、▼美貌も能力もそのままに、俺のアバターとして実体化する。▼そして能力は進化し、分身も加わり、アバターが連携を始める…


総合評価:1897/評価:8.12/連載:112話/更新日時:2026年09月29日(火) 11:24 小説情報


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