扉を叩く音に、コンラートは書面から顔を上げた。
「入ってくれ」
境界課長のマティアスが、夕刻の冷気を肩にまとって入ってきた。
廊下の向こうでは、片づけられる実習道具がかちゃりと鳴っている。
窓際に残っていた春の光は薄れ、灯りの油の匂いが室内に漂い始めていた。
「境界課長。これを見てくれ」
差し出された王宮からの要旨を、マティアスは立ったまま受け取った。
最初はいつもの照会だと思ったのだろう。
目を落とした途端、眉間に深い皺が寄った。
「……200m?」
「最大1,000人だそうだ」
「船でしょう? 建物の話ではなく」
「国外まで飛んでいる」
そこでようやくマティアスが椅子を引いた。
座って読み直しても数字は変わらない。
コンラートにも、その気持ちはよく分かった。
王宮の庭を思い浮かべ、その上に船を置こうとして、どうしても屋根にぶつかる。
しかも、これは地面に置くためのものではないのだ。
マティアスは紙を裏返した。
もう一度表に戻し、下端まで見てから院長を見た。
「院長。肝心の術式は?」
「載っておらん」
「ならば、この数字はどうやって支えているのです」
「それを知りたいのは私も同じだ」
大きさの割に、報告はひどく薄かった。
マティアスの手にある紙1枚へ、巨大な船が収まっている。
ただし、飛ぶ理由はどこにも収まっていない。
「調査に出ますか」
返答を急ぎたくなる問いだった。
何を見れば分かるかという想像なら、コンラートの頭には既に幾つも浮かんでいる。
船底、操船の場所、魔力を流す経路。
しかし、王立魔術院の看板を掲げて行けば、それだけで相手を身構えさせる。
「出る前に、何を知らぬか書く。所有者の了承なしに覗くことはできん」
「船主はリュシア商会、とありますな」
「我々の船ではない。まずは、安全を確かめるために何を尋ねるかだ」
マティアスは頷いたが、すぐには次の言葉が出なかった。
視線が院長の背後へわずかに動く。
以前なら、この手の話を持ち込んでいた相手の席を思い出したのだと、コンラートは察した。
「……また、誰か1人が答えを持っているのでしょうか」
「そうだとしても、探して連れ戻す話にはせん。今回は船の安全についてだ」
その返事には、自分へ言い聞かせる響きもあった。
答えを知る者がいれば、その者に任せればよい。
長くそうしてきた結果を、2人とも忘れてはいない。
「明朝、オットーにも来てもらおう」
「教える側からも、ですか」
「分からぬまま乗せるわけにはいかんからな」
マティアスは要旨を置き直した。
今度は、その裏を確かめなかった。
翌朝、教育課の古い教室には、削った木の匂いが残っていた。
高い窓から射す光が、床の冷たい石を斜めに照らしている。
廊下を通る若手たちの声を聞きながら、コンラートは机の上の小さな船を眺めた。
教育を担当するオットーが、教材の木模型に糸を掛けている。
「さて、これを200mにしたら飛ぶと思うか」
「糸があれば」
オットーが糸を持ち上げると、木の船は宙に浮いた。
マティアスが天井を見上げる。
「それは天井から吊るす船だ」
「では重力で軽くしたとして……」
糸を置いたオットーは、船底へ指を添えた。
魔法を使うつもりはない。
何ができて、何ができないかを、目の前の物で考えるためだった。
「軽い船は、前へ進むのか?」
「風で押せば進みます」
オットーが扇を動かした。
吊り直された船は、細い糸を軸にくるりと横を向く。
「横へ行ったぞ」
「風向きを変えれば」
扇を持つ腕が回り込んだ。
今度は船首が持ち上がり、船尾が下がる。
「今度は傾いた。乗客が1,000人いたら?」
オットーは扇を止めた。
積荷に見立てた小さな重りが、船内でこつりと滑っている。
コンラートはその音を聞いて、実際の船内を想像した。
人が倒れる音なら、こんな軽いものでは済まない。
「2人とも、いい調子だ。質問が4つになった」
「院長、正解が1つも出ていません」
「正解を知っているふりで報告するより、ずっとよい」
オットーは困ったように笑い、船を手で支えた。
院長の言葉に慰められたというより、考える向きが揃った顔だった。
巨大な飛行船を作れと言われているのではない。
既に飛んでいる船を、知らぬまま安全だと請け合わないための作業である。
「結界で守るにしても、結界が止まればどうします」
マティアスは、船の側面に掛かった糸を指で避けた。
「浮く役、進む役、守る役。担当が違えば、止める合図も要りますね」
「そこまで質問に入れよう。だが、まだ全部仮説だ」
コンラートは念を押した。
重力で支えているのか、風で進んでいるのか、それさえ船主から聞いた話ではない。
この木模型が傾いたからといって、本物にも同じ欠点があるとは限らなかった。
「浮かせる方法だけ聞けば、分かった気になりそうでした」
オットーが糸を外す。
今度は小さな船が、机の上に落ち着いた。
「教える時にも同じことが起こるな」
「はい。術を使える者と、船を動かせる者を、一緒にはできません」
廊下の声が近づき、授業を待つ若手が入口から顔を覗かせた。
オットーは手で少し待つように示してから、院長へ向き直る。
「返事が届いたら、この部屋で話すだけで終わらせないでください」
コンラートは頷いた。
いま自分たちが見落としかけたことを、次の者にも見落とさせるわけにはいかない。
その朝の問いは、宰相を通じて船主へ送られることになった。
返事を待つ間に、王都には雨が降った。
侯爵領へ向かった伝令が戻るまで、王立魔術院の者たちには別の仕事もあった。
だが、コンラートは教室の前を通るたび、木の船を支えていた指を思い出した。
あの指の代わりを、何が務めているのか。
雨が上がった昼、宰相から公開を認められた説明が届いた。
アルベルトが船主と開発に関わる者たちの意向を確かめ、公開の了承を得た一般概要だという。
術式や製造法は含まれていなかったが、最初の要旨にはなかった船の仕組みがある。
「まず軽い気体で船体を浮かせる……?」
コンラートはそこを読み直した。
開けた窓から、濡れた中庭の草の匂いが入ってくる。
目の前にいるマティアスも、わずかに首を傾げていた。
「重力魔法で丸ごと吊っているのではないのですか」
「荷重が残る分を軽くする、とある」
「魔石を休ませるためですか」
オットーが身を乗り出した。
コンラートは指で説明の続きを追う。
「全力をかけ続けない。そう読める」
魔法で支えればよい、と考えていた自分の出発点が、そもそも違っていた。
船の大きさに驚いて、必要な魔力の大きさばかり想像していたのだ。
その前に、魔法へ頼らず浮かぶ力を使っている。
コンラートは、思わず椅子の背から身体を離した。
「前へ進めるのは風魔法。姿勢制御は別の仕組みか」
マティアスが次の箇所を読む。
「一人の術で全部を動かさないのですね」
「翼もある。速度が出れば、そちらでも船を支える」
オットーの眼差しが、先日の模型を思い浮かべるように宙へ向いた。
糸を外した時、木の船は浮いていられなかった。
実物には、あの小さな教材にない働きが幾つもある。
「気体、重力、風、翼……もう十分でしょう」
「まだ結界がある」
マティアスがコンラートを見た。
「……一隻の話ですよね」
「一隻で、これだけ組み合わせている」
院長の声は、自分でも少し弾んで聞こえた。
途方もない魔力で無理を通したという話ではなかった。
違う働きを重ねて、互いに負担を減らしている。
それを200mの船として飛ばした者たちがいる。
許されるなら、その場へ行って、どのように考えたのか聞いてみたかった。
「操作の順番までは、書かれていませんね」
オットーの声に、コンラートは顔を上げた。
知的な興奮のすぐ横に、教える者の困り事がある。
「そこから先は、改めて了承を得ねばならん」
「安全に止めるには、何人が、何を受け持つのでしょう」
マティアスの問いも変わっていた。
浮く理由を知っただけでは、誰も乗員になれない。
「それも質問に入れよう。……いや、質問では足りぬかもしれんな」
コンラートは、公開説明の脇へ手を置いた。
知るために船を見たいという気持ちと、教えるために船が必要かもしれないという考えが、初めて重なった。
午後、同じ教室に3人の若手が並んだ。
机の上には木模型と、役割を書いた合図札がある。
オットーは浮く働き、進める働き、安全を守る働きを、それぞれに割り当てた。
使わせるのは魔法ではなく、声と札だった。
「いま船が傾き始めました。推進担当、異常です。誰へ知らせますか」
呼ばれた若手が、手元の札を握った。
院長の前だからだろうか。
答えを探す目が、操船担当役のオットーを通り越してコンラートへ向く。
「院長へ……いえ、操船担当へ!」
「その間に傾いたら?」
マティアスが問うと、別の若手が答えた。
「結界担当が守ります」
「結界担当が異常に気づかなければ?」
札を持つ3人が、互いの顔を見た。
何を知らせるかは、始める前に聞いている。
それなのに、自分が言うのか、誰かが先に言うのかが決まらない。
廊下で戸が閉まった音に、1人が肩を揺らした。
「そこで止めよう。失敗していいのは、ここが教室だからだ」
オットーは、若手の手から札を取り上げなかった。
代わりに自分の立つ位置を示す。
「私へ知らせて、私が聞いたと返す。返事がなければ、次にどうする?」
今度は、若手たちがオットーを見た。
少しずつ声が出てくる。
呼びかけが他の者の声と重なった時、返事を待って黙ってしまった時。
同じ問いを繰り返すうちに、最初には出なかった困り事が現れた。
コンラートは、若手が悪いとは思わなかった。
何を知っているかを問われれば、彼らは答えられる。
だが、答えを持っていることと、周囲が動く速さでそれを渡せることは違う。
「本物なら、止めてやり直すわけにはいかん」
授業を終えた後、コンラートは木模型の横で言った。
若手たちはもう廊下へ出ていたが、最後に成功した呼びかけの声が耳に残っている。
「本には『知らせる』と書けます。相手の返事を待つ間までは、読んだだけでは分かりません」
オットーが札を揃えながら応じた。
教える言葉が足りない時の顔を、コンラートは以前にも見ている。
道具や場所が足りない、と訴えられた時もそうだった。
今日の授業は、この部屋でできた。
しかし、ここには揺れる床も、風の音も、離れた持ち場もない。
教育用の資料を戻すため、3人は隣の部屋へ移った。
古い戸棚の蝶番が軋み、オットーが両手で棚板を支える。
コンラートは、その手から木模型を受け取った。
「以前なら、分かる者に任せてしまったでしょうな」
マティアスの低い声に、院長は頷く。
「任せられる者が、いなくなりました」
オットーは戸棚を閉めた。
恨みを言う声ではなかった。
だからこそ、コンラートには重く聞こえた。
「人を探して穴を埋めようとした。我々は、同じ穴を作らぬ方法を考えねばならん」
誰か1人が全て分かるなら、その場は回る。
だが、その者が席を離れた後にも、若手たちは残る。
木模型を受け取る手が、次には本物の船を動かせるようにしておかねばならない。
「地上でできることは、ここで教えます。船の上でしか分からないことは、船の上で教えたいのです」
「実物で覚えるにも、乗客を乗せる前に、安全に学ぶ場が要るな」
マティアスも、その点では譲らなかった。
「借りて、授業を組むことはできぬか」
「商人が荷を運ぶたびに授業を止めれば、次に進める日が決まりません」
コンラートは木模型を棚へ戻した。
決まった日に若手を集め、持ち場を替え、できなかったことをやり直す。
その積み重ねを、商船の都合だけに預けるのは難しい。
「今度は、必要なものを必要だと言おう」
オットーが、戸棚の取っ手から手を離した。
院長の言葉を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
後日、王宮の小謁見室で、クラウスは院長の説明を聞いていた。
国王は先ほどから、船を動かす仕組みについて質問を重ねている。
座席の近くに飾られた花から、淡い香りが漂っていた。
そこへオットーが示した実習の図には、船と幾つかの持ち場、それらを結ぶ合図が描かれている。
船主から届いた一般的な説明を、教育の側から考え直したものだった。
「それで、最も難しい魔法は何だ」
「一つは選べませぬ」
国王がコンラートを見た。
「院長でも分からぬのか」
「個々の術が担う働きは分かります。難しいのは、片方が止まった時、残りをどう扱うかです」
コンラートの返事は落ち着いていた。
公開を認められた説明以上のことを知ったようには語らないが、そこから考えた問いには迷いがない。
クラウスは、それを頼もしく思った。
専門家に調べさせたというだけで、国が安全を保証したことにはできない。
「教室の問答なら『すぐ知らせる』で正解にできます」
オットーが、図の中の合図を示した。
「船の上では違うのか」
「その『すぐ』を、誰が聞き、誰が返すか。答えを知っていても、声を掛ける相手を間違えます」
クラウスの頭に、急ぎの報告を持って廊下を走る文官の姿が浮かんだ。
届ける相手を間違えれば、王宮でも遅れは出る。
空の上なら、廊下を戻るだけでは済まないのだろう。
「ならば実地で教えよ」
国王は、ごく自然にそう言った。
コンラートが姿勢を正す。
「はい。そのためにお願いがございます」
クラウスは、ここでわずかな間を感じた。
技術の質問を聞きに来たはずなのだが、院長の顔は説明を終える者のものではない。
「魔術院にも一隻必要です」
「……一隻、ですか」
口を出した後で、クラウスは国王へ目を戻した。
王も、図の船から顔を上げている。
「既に一隻あるのではないか」
「船主が荷や人を運ぶための船でございます。授業の都合で航路を止めることはできませぬ」
「日を決めて借りればよかろう」
それは、クラウスも聞きたかったことだった。
コンラートはすぐに否定せず、隣のオットーを見た。
「最初の見学なら、それで学べることが多くございます」
オットーが答える。
「その後、若手の持ち場を替え、連絡を繰り返し教える時にも、同じように借りられるかが問題です」
「客を乗せている横で、授業をするわけにはいかんか」
「途中で止めて、先ほどの呼びかけからやり直すこともあります」
「それに、魔術師の養成だけではございませぬ」
コンラートが、図の中で並ぶ持ち場へ手を添えた。
クラウスは、院長がそこへ指を置く意味を待った。
「技術研究と、実際の飛行試験を行う場も必要です。風の強さや荷の重さが変わった時、術をどう連携させるか。公開された説明を読んだだけでは、答えは出せませぬ」
「既に飛んでいる船でも、確かめることがあるのか」
「船主は、その船の扱いをご存じでしょう。我々が別の用途で動かすなら、同じように安全に扱えるかを確かめねばなりません」
人を乗せる場合にも、荷を運ぶ場合にも、数字を読み替えるだけでは済まない。
クラウスは、最大1,000人という最初の報告を思い出した。
その数字だけで、今この場にいる者が船を動かせるわけではなかった。
「術を調整し、連携を研究する日に、商会の客を乗せるわけにも参りませぬ。方法や安全の条件は、船主と相談した上で定めたく存じます」
国王が小さく息を吐いた。
クラウスにも、荷主の困る顔が見えるようだった。
到着時刻を聞きたいところへ、今日は若手の返事が揃わなかったと言われても、承服はできまい。
「院長。新たに1,000人乗りを求めるという話ですかな」
「規模は、まだ分かりませぬ。小さくても、必要な役割を学べるなら構いません」
コンラートは、実習の図を王へ向け直した。
「全ての操作を1人に任せて終えるのではなく、交代できる者を育てたいのです」
その一言には、単なる新技術への憧れより深いものがあった。
クラウスは、王立魔術院の過去の騒動を思い出した。
人が欠けてから継ぐ者を探す苦労は、宰相府にも無縁ではない。
「希望としては聞こう。だが、船主の意向も知らずに買うとは言えぬぞ」
「承知しております」
「借り方を変えれば済むかもしれません。その点も含めて照会いたしましょう」
クラウスが引き取ると、院長は一礼した。
国王は再び図を見下ろした。
先ほどまで、空を飛ぶ200mの船を眺めたがっていた目が、船の中で働く者の配置を追っている。
クラウスは、返事を求める内容を頭の中で組み直した。
魔術院の希望は1隻。
ただし、注文ではない。
そこを取り違えぬように伝える言葉が、また必要になった。
午後の合同協議室では、軍務大臣が街道図を広げた。
窓の外から、整列する衛兵の揃った靴音が届く。
大臣の指は、山を越える道から、川を渡る橋へ移った。
クラウスは王の隣で、魔術院の実習図が押しやられぬよう端を持ち上げた。
「魔術院のご提案に異存はありません。むしろ必要でしょう」
軍務大臣の口調は穏やかだった。
クラウスは、ひとまず胸の内で息をつく。
教育と軍務の間で、どちらを優先するかという議論から始まらずに済んだ。
「ですが、軍務にも一隻必要です」
持ち上げていた実習図を、クラウスは静かに下ろした。
「……もう一隻、ですか」
「魔術院の船に兵を乗せれば済むのではないか」
国王の問いを、軍務大臣は待っていたようだった。
街道図の橋に、指を置き直す。
「飛行試験の日に、橋の落ちた町へ兵を送る命令が出たらどういたします」
「授業を止めればよかろう」
「止められます。しかしその日が、初めて船上の安全確認をする日であれば?」
コンラートが口を挟んだ。
軍務大臣に反発しているのではない。
自分が受け持つ船へ、まだ安心して人を乗せられない場合を考えている。
「実習の終わる日まで救援を待つわけにも参りません」
軍務大臣も、同じ橋から指を離さなかった。
兵を運ぶという言葉には、行軍の手間を減らす以上の意味がある。
倒れた橋の向こうに、人も資材も届けなければならない。
その日がいつ来るかは、授業の予定では決められなかった。
「では、いざという時だけ商会から借りるのは」
クラウスが問うと、大臣は図の離れた町へ手を移した。
「商会の荷を積んで遠くにいる時でも、軍の望む日に戻せるでしょうか」
「それは……まだ分かりませんな」
急ぎだからといって、商会の客との約束を国が消してよいものではない。
借りるにしても、事前にどこまで備えられるかを確かめる必要があった。
クラウスは、その返答を他の誰かへ押しつけることもできなかった。
「一隻は教えるため。一隻は動くため、か」
「お言葉のとおりです。軍の輸送に使うなら、装備と兵を載せる条件も別に確認したく」
軍務大臣の手が、山道の曲がりをなぞった。
「人数だけ分かっても、装備を持たせた時に同じだけ乗れるとは申せません。乗るまでの支度も要ります」
「安全の基準は共有できます。けれど、術の連携を確かめている途中の船へ兵を満載するのは、私も御免です」
コンラートの返事に、軍務大臣が頷いた。
両者は譲歩したようには見えない。
互いに、同じ船では責任を果たせない日があると認めていた。
クラウスは、反対意見なら裁定のしようもあると思った。
今回はそうではない。
どちらも、任された仕事を果たすために言っている。
正しい理由が揃うほど、必要な船が増えていく。
「魔術院1隻、軍務1隻。今のところ、2隻ですな」
「『今のところ』は余計ではないか」
国王に言われ、クラウスは一礼した。
余計なら、これで終わってくれるとありがたい。
そう思いながら、次に呼ばれている商務大臣のことを思い出す。
「軍務も希望として、必要な条件をまとめていただきたい。待機や整備、乗員についてもです」
「承知しました」
軍務大臣はようやく、街道図から手を離した。
クラウスの胸にあった軽さは、戻ってこなかった。
商務大臣が入室した頃には、合同協議室の中も暖まっていた。
西へ傾いた日差しが長い机を照らしている。
窓の下から入る風だけが涼しく、遠くの道を行く荷車の音を運んできた。
「商務にも、貨物船を一隻お願いしたいのです」
大臣は、軍務大臣の街道図へ目をやってから言った。
クラウスは、今度こそ数を確かめておこうと思った。
「……一隻、ですな」
「まずは、でございます」
クラウスは返事を止めた。
短い言葉なのに、後ろに何かを連れている。
「その『まずは』を、先に説明してもらえますかな」
商務大臣は頷いて、貨物の発着予定を広げた。
街道図の角が、その下に隠れる。
オットーが実習図をずらし、コンラートが端を受け止めた。
まだ船は増えていないのに、机の上の場所は足りなくなりつつあった。
「王都で荷を積み、西へ飛びます。そこで荷を降ろすと、こちらから東へ送りたい荷もございます」
「ならば折り返せばよかろう」
「はい。ただ、その間に別の町でも荷が待ちます」
商務大臣の両手が、離れた2か所を示した。
国王の目も、その指の間を動く。
「戻るまで待たせればよい」
軍務大臣が言った。
商務大臣は、指を置いたまま顔を上げる。
「待たせてよい荷なら、すでに馬車で運んでおります」
軍務大臣は口を閉じ、もう一度予定を見た。
つい先ほど、自分も望む日に船が戻るかと聞いたばかりだった。
商人が必要とする日にも、理由はある。
「……それで一隻では足りぬと?」
「定期便を守ろうとすれば、二隻の案も必要です」
クラウスは、商務大臣の顔を見た。
最初の控えめな頼み方は、どこにも消えていない。
それなのに、数字が増えていた。
「先ほどの一隻は、どこへ行きました」
「おります。一隻では足りぬ場合の、もう一隻です」
商務大臣は、一方の指をわずかに上げた。
残った指が、最初の船の居場所を示している。
確かに、消えたわけではない。
クラウスは、それで納得するしかないのが困りものだと思った。
「まだ本物は一隻も増えておらぬぞ」
「ですから、計画の段階で確かめたいのです」
国王への返事に、商務大臣は両手を引いた。
「荷主へ引き受けると言ってから、船が戻らぬでは済みません。今の運び方を続ける方がよい荷もありましょう」
「……授業を受ける者としては、見事な質問ですな」
コンラートが静かに言った。
オットーの口元も、少し緩んでいる。
船を1つ手に入れれば全て済む、という答えに飛びつかなかった点を、院長は評価しているらしい。
「院長。褒めて増えるのは質問だけにしていただきたい」
クラウスが言うと、国王も頷いた。
「もっともだ。二隻が必要かどうかは、船主へ聞いてから決めよう」
「積み降ろしにかかる時間と、輸送の仕組みをお尋ねください」
商務大臣は、荷を降ろしている間にも船が留まること、発着できる場所が必要なことを挙げた。
操船する者が休む時間もある。
それらが分からなければ、今広げている予定をそのまま飛行船へ移せなかった。
「船を増やさずに便を組めるかもしれませんな」
「はい。その方法があるなら、そちらも比べたいのです」
商務大臣の声は明るかった。
クラウスも頷く。
ただし、船主から返事が来るまでは、1隻の案も2隻の案も残る。
軍務大臣が街道図を折り始め、オットーは実習図を引き寄せた。
机の上は少しずつ片づいていく。
クラウスの頭の中では、3隻という数字の隣に、4隻が居座ったままだった。
夜の宰相府へ戻ると、石の廊下は冷えていた。
王宮の協議室に残っていた暖かさが、上着の内側からも抜けていく。
クラウスが椅子を引いたところへ、側近が入ってきた。
「本日の希望をまとめました」
「頼む。まず魔術院からだ」
「研究・教育・飛行試験用、一隻」
「軍務は」
「緊急輸送用、一隻」
「商務は」
「定期貨物用、一隻。二隻案も併記です」
側近は、いつもと変わらぬ声で読み上げた。
その落ち着きが、いまは少し羨ましい。
クラウスには、それぞれが求められる理由まで聞こえてきた。
「……四隻になったのか」
「希望案では、最大四隻です」
否定してくれるかと思ったが、条件が付いただけだった。
クラウスは差し出された一覧を見た。
各部署の名の隣には、今日一日で聞いた船が並んでいる。
「レヴァニアからの購入希望は?」
「別件です。相手王家にもご希望があります」
「あちらへ渡す分まで、我が国の四隻に足せとは言うまいな」
「足しておりません」
「結構。では、船主から一隻でも引き受けるとの返事は?」
「まだございません」
灯りが揺れ、一覧の上を側近の影が通った。
希望の隣にある返答欄は、白いままだった。
「建造の可否は?」
「未回答です」
「操船者は?」
「条件を問い合わせるところです」
クラウスは、椅子の背へ身体を預けた。
教育を受ける者、出動を待つ兵、到着を待つ荷主。
大臣たちの言葉を聞いた時には、それぞれの顔が見えた。
ところが、彼らを運ぶ船はまだ見えない。
「……契約は?」
「一隻もしておりません」
その答えには、間違いがなかった。
クラウスは希望数の最後を指で押さえ、空いた契約欄へ目を移した。
船主が了承したのは、一般的な仕組みの説明である。
買うとも、売るとも、造れるとも話はついていない。
「増えたのは、船ではなく、頼み事か」
「正確には、確認する項目も増えております」
「それは数えずとも分かる」
側近は真面目な顔で頷いた。
悪気がないことは、よく分かっている。
今日の大臣たちにもなかった。
だからといって、頼み事が軽くなるわけでもない。
クラウスは身体を起こした。
質問が重なる部分はまとめ、使い方の違う部分は分ける。
船主へ話を通す際に、開発に関わる者たちへ先に相談する段取りも、アルベルトに守らせなければならない。
望む用途を、もう決まった注文のように受け取らせては困る。
「財務の担当にも、動かすための魔石を確認する必要があると伝えてくれ」
「建造費とは別に、でございますね」
「どの種類を、どこから、1年にどれほど必要とするのか。分からぬ数字を埋めるなよ」
側近が頷いた。
クラウスは、一覧を手前に戻す。
誰の希望を削れば簡単になるかと考えるより、まず答えを得ねばならない。
机の端に置いた肘を離すと、冷えていた指先にも少し力が戻った。
「明日、各局に問い合わせの様式を配りますか」
「……頼む。船はまだないが、仕事だけはもう動いておる」