押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第412話 魔術院にも一隻必要です

 

 扉を叩く音に、コンラートは書面から顔を上げた。

 

「入ってくれ」

 

 境界課長のマティアスが、夕刻の冷気を肩にまとって入ってきた。

 

 廊下の向こうでは、片づけられる実習道具がかちゃりと鳴っている。

 

 窓際に残っていた春の光は薄れ、灯りの油の匂いが室内に漂い始めていた。

 

「境界課長。これを見てくれ」

 

 差し出された王宮からの要旨を、マティアスは立ったまま受け取った。

 

 最初はいつもの照会だと思ったのだろう。

 

 目を落とした途端、眉間に深い皺が寄った。

 

「……200m?」

 

「最大1,000人だそうだ」

 

「船でしょう? 建物の話ではなく」

 

「国外まで飛んでいる」

 

 そこでようやくマティアスが椅子を引いた。

 

 座って読み直しても数字は変わらない。

 

 コンラートにも、その気持ちはよく分かった。

 

 王宮の庭を思い浮かべ、その上に船を置こうとして、どうしても屋根にぶつかる。

 

 しかも、これは地面に置くためのものではないのだ。

 

 マティアスは紙を裏返した。

 

 もう一度表に戻し、下端まで見てから院長を見た。

 

「院長。肝心の術式は?」

 

「載っておらん」

 

「ならば、この数字はどうやって支えているのです」

 

「それを知りたいのは私も同じだ」

 

 大きさの割に、報告はひどく薄かった。

 

 マティアスの手にある紙1枚へ、巨大な船が収まっている。

 

 ただし、飛ぶ理由はどこにも収まっていない。

 

「調査に出ますか」

 

 返答を急ぎたくなる問いだった。

 

 何を見れば分かるかという想像なら、コンラートの頭には既に幾つも浮かんでいる。

 

 船底、操船の場所、魔力を流す経路。

 

 しかし、王立魔術院の看板を掲げて行けば、それだけで相手を身構えさせる。

 

「出る前に、何を知らぬか書く。所有者の了承なしに覗くことはできん」

 

「船主はリュシア商会、とありますな」

 

「我々の船ではない。まずは、安全を確かめるために何を尋ねるかだ」

 

 マティアスは頷いたが、すぐには次の言葉が出なかった。

 

 視線が院長の背後へわずかに動く。

 

 以前なら、この手の話を持ち込んでいた相手の席を思い出したのだと、コンラートは察した。

 

「……また、誰か1人が答えを持っているのでしょうか」

 

「そうだとしても、探して連れ戻す話にはせん。今回は船の安全についてだ」

 

 その返事には、自分へ言い聞かせる響きもあった。

 

 答えを知る者がいれば、その者に任せればよい。

 

 長くそうしてきた結果を、2人とも忘れてはいない。

 

「明朝、オットーにも来てもらおう」

 

「教える側からも、ですか」

 

「分からぬまま乗せるわけにはいかんからな」

 

 マティアスは要旨を置き直した。

 

 今度は、その裏を確かめなかった。

 

 

 

 翌朝、教育課の古い教室には、削った木の匂いが残っていた。

 

 高い窓から射す光が、床の冷たい石を斜めに照らしている。

 

 廊下を通る若手たちの声を聞きながら、コンラートは机の上の小さな船を眺めた。

 

 教育を担当するオットーが、教材の木模型に糸を掛けている。

 

「さて、これを200mにしたら飛ぶと思うか」

 

「糸があれば」

 

 オットーが糸を持ち上げると、木の船は宙に浮いた。

 

 マティアスが天井を見上げる。

 

「それは天井から吊るす船だ」

 

「では重力で軽くしたとして……」

 

 糸を置いたオットーは、船底へ指を添えた。

 

 魔法を使うつもりはない。

 

 何ができて、何ができないかを、目の前の物で考えるためだった。

 

「軽い船は、前へ進むのか?」

 

「風で押せば進みます」

 

 オットーが扇を動かした。

 

 吊り直された船は、細い糸を軸にくるりと横を向く。

 

「横へ行ったぞ」

 

「風向きを変えれば」

 

 扇を持つ腕が回り込んだ。

 

 今度は船首が持ち上がり、船尾が下がる。

 

「今度は傾いた。乗客が1,000人いたら?」

 

 オットーは扇を止めた。

 

 積荷に見立てた小さな重りが、船内でこつりと滑っている。

 

 コンラートはその音を聞いて、実際の船内を想像した。

 

 人が倒れる音なら、こんな軽いものでは済まない。

 

「2人とも、いい調子だ。質問が4つになった」

 

「院長、正解が1つも出ていません」

 

「正解を知っているふりで報告するより、ずっとよい」

 

 オットーは困ったように笑い、船を手で支えた。

 

 院長の言葉に慰められたというより、考える向きが揃った顔だった。

 

 巨大な飛行船を作れと言われているのではない。

 

 既に飛んでいる船を、知らぬまま安全だと請け合わないための作業である。

 

「結界で守るにしても、結界が止まればどうします」

 

 マティアスは、船の側面に掛かった糸を指で避けた。

 

「浮く役、進む役、守る役。担当が違えば、止める合図も要りますね」

 

「そこまで質問に入れよう。だが、まだ全部仮説だ」

 

 コンラートは念を押した。

 

 重力で支えているのか、風で進んでいるのか、それさえ船主から聞いた話ではない。

 

 この木模型が傾いたからといって、本物にも同じ欠点があるとは限らなかった。

 

「浮かせる方法だけ聞けば、分かった気になりそうでした」

 

 オットーが糸を外す。

 

 今度は小さな船が、机の上に落ち着いた。

 

「教える時にも同じことが起こるな」

 

「はい。術を使える者と、船を動かせる者を、一緒にはできません」

 

 廊下の声が近づき、授業を待つ若手が入口から顔を覗かせた。

 

 オットーは手で少し待つように示してから、院長へ向き直る。

 

「返事が届いたら、この部屋で話すだけで終わらせないでください」

 

 コンラートは頷いた。

 

 いま自分たちが見落としかけたことを、次の者にも見落とさせるわけにはいかない。

 

 その朝の問いは、宰相を通じて船主へ送られることになった。

 

 

 

 返事を待つ間に、王都には雨が降った。

 

 侯爵領へ向かった伝令が戻るまで、王立魔術院の者たちには別の仕事もあった。

 

 だが、コンラートは教室の前を通るたび、木の船を支えていた指を思い出した。

 

 あの指の代わりを、何が務めているのか。

 

 雨が上がった昼、宰相から公開を認められた説明が届いた。

 

 アルベルトが船主と開発に関わる者たちの意向を確かめ、公開の了承を得た一般概要だという。

 

 術式や製造法は含まれていなかったが、最初の要旨にはなかった船の仕組みがある。

 

「まず軽い気体で船体を浮かせる……?」

 

 コンラートはそこを読み直した。

 

 開けた窓から、濡れた中庭の草の匂いが入ってくる。

 

 目の前にいるマティアスも、わずかに首を傾げていた。

 

「重力魔法で丸ごと吊っているのではないのですか」

 

「荷重が残る分を軽くする、とある」

 

「魔石を休ませるためですか」

 

 オットーが身を乗り出した。

 

 コンラートは指で説明の続きを追う。

 

「全力をかけ続けない。そう読める」

 

 魔法で支えればよい、と考えていた自分の出発点が、そもそも違っていた。

 

 船の大きさに驚いて、必要な魔力の大きさばかり想像していたのだ。

 

 その前に、魔法へ頼らず浮かぶ力を使っている。

 

 コンラートは、思わず椅子の背から身体を離した。

 

「前へ進めるのは風魔法。姿勢制御は別の仕組みか」

 

 マティアスが次の箇所を読む。

 

「一人の術で全部を動かさないのですね」

 

「翼もある。速度が出れば、そちらでも船を支える」

 

 オットーの眼差しが、先日の模型を思い浮かべるように宙へ向いた。

 

 糸を外した時、木の船は浮いていられなかった。

 

 実物には、あの小さな教材にない働きが幾つもある。

 

「気体、重力、風、翼……もう十分でしょう」

 

「まだ結界がある」

 

 マティアスがコンラートを見た。

 

「……一隻の話ですよね」

 

「一隻で、これだけ組み合わせている」

 

 院長の声は、自分でも少し弾んで聞こえた。

 

 途方もない魔力で無理を通したという話ではなかった。

 

 違う働きを重ねて、互いに負担を減らしている。

 

 それを200mの船として飛ばした者たちがいる。

 

 許されるなら、その場へ行って、どのように考えたのか聞いてみたかった。

 

「操作の順番までは、書かれていませんね」

 

 オットーの声に、コンラートは顔を上げた。

 

 知的な興奮のすぐ横に、教える者の困り事がある。

 

「そこから先は、改めて了承を得ねばならん」

 

「安全に止めるには、何人が、何を受け持つのでしょう」

 

 マティアスの問いも変わっていた。

 

 浮く理由を知っただけでは、誰も乗員になれない。

 

「それも質問に入れよう。……いや、質問では足りぬかもしれんな」

 

 コンラートは、公開説明の脇へ手を置いた。

 

 知るために船を見たいという気持ちと、教えるために船が必要かもしれないという考えが、初めて重なった。

 

 

 

 午後、同じ教室に3人の若手が並んだ。

 

 机の上には木模型と、役割を書いた合図札がある。

 

 オットーは浮く働き、進める働き、安全を守る働きを、それぞれに割り当てた。

 

 使わせるのは魔法ではなく、声と札だった。

 

「いま船が傾き始めました。推進担当、異常です。誰へ知らせますか」

 

 呼ばれた若手が、手元の札を握った。

 

 院長の前だからだろうか。

 

 答えを探す目が、操船担当役のオットーを通り越してコンラートへ向く。

 

「院長へ……いえ、操船担当へ!」

 

「その間に傾いたら?」

 

 マティアスが問うと、別の若手が答えた。

 

「結界担当が守ります」

 

「結界担当が異常に気づかなければ?」

 

 札を持つ3人が、互いの顔を見た。

 

 何を知らせるかは、始める前に聞いている。

 

 それなのに、自分が言うのか、誰かが先に言うのかが決まらない。

 

 廊下で戸が閉まった音に、1人が肩を揺らした。

 

「そこで止めよう。失敗していいのは、ここが教室だからだ」

 

 オットーは、若手の手から札を取り上げなかった。

 

 代わりに自分の立つ位置を示す。

 

「私へ知らせて、私が聞いたと返す。返事がなければ、次にどうする?」

 

 今度は、若手たちがオットーを見た。

 

 少しずつ声が出てくる。

 

 呼びかけが他の者の声と重なった時、返事を待って黙ってしまった時。

 

 同じ問いを繰り返すうちに、最初には出なかった困り事が現れた。

 

 コンラートは、若手が悪いとは思わなかった。

 

 何を知っているかを問われれば、彼らは答えられる。

 

 だが、答えを持っていることと、周囲が動く速さでそれを渡せることは違う。

 

「本物なら、止めてやり直すわけにはいかん」

 

 授業を終えた後、コンラートは木模型の横で言った。

 

 若手たちはもう廊下へ出ていたが、最後に成功した呼びかけの声が耳に残っている。

 

「本には『知らせる』と書けます。相手の返事を待つ間までは、読んだだけでは分かりません」

 

 オットーが札を揃えながら応じた。

 

 教える言葉が足りない時の顔を、コンラートは以前にも見ている。

 

 道具や場所が足りない、と訴えられた時もそうだった。

 

 今日の授業は、この部屋でできた。

 

 しかし、ここには揺れる床も、風の音も、離れた持ち場もない。

 

 教育用の資料を戻すため、3人は隣の部屋へ移った。

 

 古い戸棚の蝶番が軋み、オットーが両手で棚板を支える。

 

 コンラートは、その手から木模型を受け取った。

 

「以前なら、分かる者に任せてしまったでしょうな」

 

 マティアスの低い声に、院長は頷く。

 

「任せられる者が、いなくなりました」

 

 オットーは戸棚を閉めた。

 

 恨みを言う声ではなかった。

 

 だからこそ、コンラートには重く聞こえた。

 

「人を探して穴を埋めようとした。我々は、同じ穴を作らぬ方法を考えねばならん」

 

 誰か1人が全て分かるなら、その場は回る。

 

 だが、その者が席を離れた後にも、若手たちは残る。

 

 木模型を受け取る手が、次には本物の船を動かせるようにしておかねばならない。

 

「地上でできることは、ここで教えます。船の上でしか分からないことは、船の上で教えたいのです」

 

「実物で覚えるにも、乗客を乗せる前に、安全に学ぶ場が要るな」

 

 マティアスも、その点では譲らなかった。

 

「借りて、授業を組むことはできぬか」

 

「商人が荷を運ぶたびに授業を止めれば、次に進める日が決まりません」

 

 コンラートは木模型を棚へ戻した。

 

 決まった日に若手を集め、持ち場を替え、できなかったことをやり直す。

 

 その積み重ねを、商船の都合だけに預けるのは難しい。

 

「今度は、必要なものを必要だと言おう」

 

 オットーが、戸棚の取っ手から手を離した。

 

 院長の言葉を確かめるように、ゆっくりと頷いた。

 

 

 

 後日、王宮の小謁見室で、クラウスは院長の説明を聞いていた。

 

 国王は先ほどから、船を動かす仕組みについて質問を重ねている。

 

 座席の近くに飾られた花から、淡い香りが漂っていた。

 

 そこへオットーが示した実習の図には、船と幾つかの持ち場、それらを結ぶ合図が描かれている。

 

 船主から届いた一般的な説明を、教育の側から考え直したものだった。

 

「それで、最も難しい魔法は何だ」

 

「一つは選べませぬ」

 

 国王がコンラートを見た。

 

「院長でも分からぬのか」

 

「個々の術が担う働きは分かります。難しいのは、片方が止まった時、残りをどう扱うかです」

 

 コンラートの返事は落ち着いていた。

 

 公開を認められた説明以上のことを知ったようには語らないが、そこから考えた問いには迷いがない。

 

 クラウスは、それを頼もしく思った。

 

 専門家に調べさせたというだけで、国が安全を保証したことにはできない。

 

「教室の問答なら『すぐ知らせる』で正解にできます」

 

 オットーが、図の中の合図を示した。

 

「船の上では違うのか」

 

「その『すぐ』を、誰が聞き、誰が返すか。答えを知っていても、声を掛ける相手を間違えます」

 

 クラウスの頭に、急ぎの報告を持って廊下を走る文官の姿が浮かんだ。

 

 届ける相手を間違えれば、王宮でも遅れは出る。

 

 空の上なら、廊下を戻るだけでは済まないのだろう。

 

「ならば実地で教えよ」

 

 国王は、ごく自然にそう言った。

 

 コンラートが姿勢を正す。

 

「はい。そのためにお願いがございます」

 

 クラウスは、ここでわずかな間を感じた。

 

 技術の質問を聞きに来たはずなのだが、院長の顔は説明を終える者のものではない。

 

「魔術院にも一隻必要です」

 

「……一隻、ですか」

 

 口を出した後で、クラウスは国王へ目を戻した。

 

 王も、図の船から顔を上げている。

 

「既に一隻あるのではないか」

 

「船主が荷や人を運ぶための船でございます。授業の都合で航路を止めることはできませぬ」

 

「日を決めて借りればよかろう」

 

 それは、クラウスも聞きたかったことだった。

 

 コンラートはすぐに否定せず、隣のオットーを見た。

 

「最初の見学なら、それで学べることが多くございます」

 

 オットーが答える。

 

「その後、若手の持ち場を替え、連絡を繰り返し教える時にも、同じように借りられるかが問題です」

 

「客を乗せている横で、授業をするわけにはいかんか」

 

「途中で止めて、先ほどの呼びかけからやり直すこともあります」

 

「それに、魔術師の養成だけではございませぬ」

 

 コンラートが、図の中で並ぶ持ち場へ手を添えた。

 

 クラウスは、院長がそこへ指を置く意味を待った。

 

「技術研究と、実際の飛行試験を行う場も必要です。風の強さや荷の重さが変わった時、術をどう連携させるか。公開された説明を読んだだけでは、答えは出せませぬ」

 

「既に飛んでいる船でも、確かめることがあるのか」

 

「船主は、その船の扱いをご存じでしょう。我々が別の用途で動かすなら、同じように安全に扱えるかを確かめねばなりません」

 

 人を乗せる場合にも、荷を運ぶ場合にも、数字を読み替えるだけでは済まない。

 

 クラウスは、最大1,000人という最初の報告を思い出した。

 

 その数字だけで、今この場にいる者が船を動かせるわけではなかった。

 

「術を調整し、連携を研究する日に、商会の客を乗せるわけにも参りませぬ。方法や安全の条件は、船主と相談した上で定めたく存じます」

 

 国王が小さく息を吐いた。

 

 クラウスにも、荷主の困る顔が見えるようだった。

 

 到着時刻を聞きたいところへ、今日は若手の返事が揃わなかったと言われても、承服はできまい。

 

「院長。新たに1,000人乗りを求めるという話ですかな」

 

「規模は、まだ分かりませぬ。小さくても、必要な役割を学べるなら構いません」

 

 コンラートは、実習の図を王へ向け直した。

 

「全ての操作を1人に任せて終えるのではなく、交代できる者を育てたいのです」

 

 その一言には、単なる新技術への憧れより深いものがあった。

 

 クラウスは、王立魔術院の過去の騒動を思い出した。

 

 人が欠けてから継ぐ者を探す苦労は、宰相府にも無縁ではない。

 

「希望としては聞こう。だが、船主の意向も知らずに買うとは言えぬぞ」

 

「承知しております」

 

「借り方を変えれば済むかもしれません。その点も含めて照会いたしましょう」

 

 クラウスが引き取ると、院長は一礼した。

 

 国王は再び図を見下ろした。

 

 先ほどまで、空を飛ぶ200mの船を眺めたがっていた目が、船の中で働く者の配置を追っている。

 

 クラウスは、返事を求める内容を頭の中で組み直した。

 

 魔術院の希望は1隻。

 

 ただし、注文ではない。

 

 そこを取り違えぬように伝える言葉が、また必要になった。

 

 

 

 午後の合同協議室では、軍務大臣が街道図を広げた。

 

 窓の外から、整列する衛兵の揃った靴音が届く。

 

 大臣の指は、山を越える道から、川を渡る橋へ移った。

 

 クラウスは王の隣で、魔術院の実習図が押しやられぬよう端を持ち上げた。

 

「魔術院のご提案に異存はありません。むしろ必要でしょう」

 

 軍務大臣の口調は穏やかだった。

 

 クラウスは、ひとまず胸の内で息をつく。

 

 教育と軍務の間で、どちらを優先するかという議論から始まらずに済んだ。

 

「ですが、軍務にも一隻必要です」

 

 持ち上げていた実習図を、クラウスは静かに下ろした。

 

「……もう一隻、ですか」

 

「魔術院の船に兵を乗せれば済むのではないか」

 

 国王の問いを、軍務大臣は待っていたようだった。

 

 街道図の橋に、指を置き直す。

 

「飛行試験の日に、橋の落ちた町へ兵を送る命令が出たらどういたします」

 

「授業を止めればよかろう」

 

「止められます。しかしその日が、初めて船上の安全確認をする日であれば?」

 

 コンラートが口を挟んだ。

 

 軍務大臣に反発しているのではない。

 

 自分が受け持つ船へ、まだ安心して人を乗せられない場合を考えている。

 

「実習の終わる日まで救援を待つわけにも参りません」

 

 軍務大臣も、同じ橋から指を離さなかった。

 

 兵を運ぶという言葉には、行軍の手間を減らす以上の意味がある。

 

 倒れた橋の向こうに、人も資材も届けなければならない。

 

 その日がいつ来るかは、授業の予定では決められなかった。

 

「では、いざという時だけ商会から借りるのは」

 

 クラウスが問うと、大臣は図の離れた町へ手を移した。

 

「商会の荷を積んで遠くにいる時でも、軍の望む日に戻せるでしょうか」

 

「それは……まだ分かりませんな」

 

 急ぎだからといって、商会の客との約束を国が消してよいものではない。

 

 借りるにしても、事前にどこまで備えられるかを確かめる必要があった。

 

 クラウスは、その返答を他の誰かへ押しつけることもできなかった。

 

「一隻は教えるため。一隻は動くため、か」

 

「お言葉のとおりです。軍の輸送に使うなら、装備と兵を載せる条件も別に確認したく」

 

 軍務大臣の手が、山道の曲がりをなぞった。

 

「人数だけ分かっても、装備を持たせた時に同じだけ乗れるとは申せません。乗るまでの支度も要ります」

 

「安全の基準は共有できます。けれど、術の連携を確かめている途中の船へ兵を満載するのは、私も御免です」

 

 コンラートの返事に、軍務大臣が頷いた。

 

 両者は譲歩したようには見えない。

 

 互いに、同じ船では責任を果たせない日があると認めていた。

 

 クラウスは、反対意見なら裁定のしようもあると思った。

 

 今回はそうではない。

 

 どちらも、任された仕事を果たすために言っている。

 

 正しい理由が揃うほど、必要な船が増えていく。

 

「魔術院1隻、軍務1隻。今のところ、2隻ですな」

 

「『今のところ』は余計ではないか」

 

 国王に言われ、クラウスは一礼した。

 

 余計なら、これで終わってくれるとありがたい。

 

 そう思いながら、次に呼ばれている商務大臣のことを思い出す。

 

「軍務も希望として、必要な条件をまとめていただきたい。待機や整備、乗員についてもです」

 

「承知しました」

 

 軍務大臣はようやく、街道図から手を離した。

 

 クラウスの胸にあった軽さは、戻ってこなかった。

 

 

 

 商務大臣が入室した頃には、合同協議室の中も暖まっていた。

 

 西へ傾いた日差しが長い机を照らしている。

 

 窓の下から入る風だけが涼しく、遠くの道を行く荷車の音を運んできた。

 

「商務にも、貨物船を一隻お願いしたいのです」

 

 大臣は、軍務大臣の街道図へ目をやってから言った。

 

 クラウスは、今度こそ数を確かめておこうと思った。

 

「……一隻、ですな」

 

「まずは、でございます」

 

 クラウスは返事を止めた。

 

 短い言葉なのに、後ろに何かを連れている。

 

「その『まずは』を、先に説明してもらえますかな」

 

 商務大臣は頷いて、貨物の発着予定を広げた。

 

 街道図の角が、その下に隠れる。

 

 オットーが実習図をずらし、コンラートが端を受け止めた。

 

 まだ船は増えていないのに、机の上の場所は足りなくなりつつあった。

 

「王都で荷を積み、西へ飛びます。そこで荷を降ろすと、こちらから東へ送りたい荷もございます」

 

「ならば折り返せばよかろう」

 

「はい。ただ、その間に別の町でも荷が待ちます」

 

 商務大臣の両手が、離れた2か所を示した。

 

 国王の目も、その指の間を動く。

 

「戻るまで待たせればよい」

 

 軍務大臣が言った。

 

 商務大臣は、指を置いたまま顔を上げる。

 

「待たせてよい荷なら、すでに馬車で運んでおります」

 

 軍務大臣は口を閉じ、もう一度予定を見た。

 

 つい先ほど、自分も望む日に船が戻るかと聞いたばかりだった。

 

 商人が必要とする日にも、理由はある。

 

「……それで一隻では足りぬと?」

 

「定期便を守ろうとすれば、二隻の案も必要です」

 

 クラウスは、商務大臣の顔を見た。

 

 最初の控えめな頼み方は、どこにも消えていない。

 

 それなのに、数字が増えていた。

 

「先ほどの一隻は、どこへ行きました」

 

「おります。一隻では足りぬ場合の、もう一隻です」

 

 商務大臣は、一方の指をわずかに上げた。

 

 残った指が、最初の船の居場所を示している。

 

 確かに、消えたわけではない。

 

 クラウスは、それで納得するしかないのが困りものだと思った。

 

「まだ本物は一隻も増えておらぬぞ」

 

「ですから、計画の段階で確かめたいのです」

 

 国王への返事に、商務大臣は両手を引いた。

 

「荷主へ引き受けると言ってから、船が戻らぬでは済みません。今の運び方を続ける方がよい荷もありましょう」

 

「……授業を受ける者としては、見事な質問ですな」

 

 コンラートが静かに言った。

 

 オットーの口元も、少し緩んでいる。

 

 船を1つ手に入れれば全て済む、という答えに飛びつかなかった点を、院長は評価しているらしい。

 

「院長。褒めて増えるのは質問だけにしていただきたい」

 

 クラウスが言うと、国王も頷いた。

 

「もっともだ。二隻が必要かどうかは、船主へ聞いてから決めよう」

 

「積み降ろしにかかる時間と、輸送の仕組みをお尋ねください」

 

 商務大臣は、荷を降ろしている間にも船が留まること、発着できる場所が必要なことを挙げた。

 

 操船する者が休む時間もある。

 

 それらが分からなければ、今広げている予定をそのまま飛行船へ移せなかった。

 

「船を増やさずに便を組めるかもしれませんな」

 

「はい。その方法があるなら、そちらも比べたいのです」

 

 商務大臣の声は明るかった。

 

 クラウスも頷く。

 

 ただし、船主から返事が来るまでは、1隻の案も2隻の案も残る。

 

 軍務大臣が街道図を折り始め、オットーは実習図を引き寄せた。

 

 机の上は少しずつ片づいていく。

 

 クラウスの頭の中では、3隻という数字の隣に、4隻が居座ったままだった。

 

 

 

 夜の宰相府へ戻ると、石の廊下は冷えていた。

 

 王宮の協議室に残っていた暖かさが、上着の内側からも抜けていく。

 

 クラウスが椅子を引いたところへ、側近が入ってきた。

 

「本日の希望をまとめました」

 

「頼む。まず魔術院からだ」

 

「研究・教育・飛行試験用、一隻」

 

「軍務は」

 

「緊急輸送用、一隻」

 

「商務は」

 

「定期貨物用、一隻。二隻案も併記です」

 

 側近は、いつもと変わらぬ声で読み上げた。

 

 その落ち着きが、いまは少し羨ましい。

 

 クラウスには、それぞれが求められる理由まで聞こえてきた。

 

「……四隻になったのか」

 

「希望案では、最大四隻です」

 

 否定してくれるかと思ったが、条件が付いただけだった。

 

 クラウスは差し出された一覧を見た。

 

 各部署の名の隣には、今日一日で聞いた船が並んでいる。

 

「レヴァニアからの購入希望は?」

 

「別件です。相手王家にもご希望があります」

 

「あちらへ渡す分まで、我が国の四隻に足せとは言うまいな」

 

「足しておりません」

 

「結構。では、船主から一隻でも引き受けるとの返事は?」

 

「まだございません」

 

 灯りが揺れ、一覧の上を側近の影が通った。

 

 希望の隣にある返答欄は、白いままだった。

 

「建造の可否は?」

 

「未回答です」

 

「操船者は?」

 

「条件を問い合わせるところです」

 

 クラウスは、椅子の背へ身体を預けた。

 

 教育を受ける者、出動を待つ兵、到着を待つ荷主。

 

 大臣たちの言葉を聞いた時には、それぞれの顔が見えた。

 

 ところが、彼らを運ぶ船はまだ見えない。

 

「……契約は?」

 

「一隻もしておりません」

 

 その答えには、間違いがなかった。

 

 クラウスは希望数の最後を指で押さえ、空いた契約欄へ目を移した。

 

 船主が了承したのは、一般的な仕組みの説明である。

 

 買うとも、売るとも、造れるとも話はついていない。

 

「増えたのは、船ではなく、頼み事か」

 

「正確には、確認する項目も増えております」

 

「それは数えずとも分かる」

 

 側近は真面目な顔で頷いた。

 

 悪気がないことは、よく分かっている。

 

 今日の大臣たちにもなかった。

 

 だからといって、頼み事が軽くなるわけでもない。

 

 クラウスは身体を起こした。

 

 質問が重なる部分はまとめ、使い方の違う部分は分ける。

 

 船主へ話を通す際に、開発に関わる者たちへ先に相談する段取りも、アルベルトに守らせなければならない。

 

 望む用途を、もう決まった注文のように受け取らせては困る。

 

「財務の担当にも、動かすための魔石を確認する必要があると伝えてくれ」

 

「建造費とは別に、でございますね」

 

「どの種類を、どこから、1年にどれほど必要とするのか。分からぬ数字を埋めるなよ」

 

 側近が頷いた。

 

 クラウスは、一覧を手前に戻す。

 

 誰の希望を削れば簡単になるかと考えるより、まず答えを得ねばならない。

 

 机の端に置いた肘を離すと、冷えていた指先にも少し力が戻った。

 

「明日、各局に問い合わせの様式を配りますか」

 

「……頼む。船はまだないが、仕事だけはもう動いておる」

 

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