財務大臣の執務室では、夜明け前から灯が燃えていた。
窓の外には、王都の屋根がまだ黒く重なっている。
春になっても石造りの部屋は冷え、椅子を引くたびに靴底から冷たさが上がった。
財務大臣は、眠気で重くなった瞼を指で押さえ、机に並ぶ3枚を見直した。
船に使う魔力量。
新しく引き受けられる供給量。
そして、既に国庫が負っている支出と約束。
「29,520は何の数だ」
「3隻案の年間使用魔力量です。買う魔石の個数ではありません」
財務担当官は、昨夜まで宰相府から受け取った資料を確かめていた。
返答はすぐだったが、大臣は次の紙を指した。
「6,000は?」
「王都3業者の追加引受枠です。地方の供給と、船で使った魔石の再充填は、まだ確認できておりません」
「結構。では前年の災害は、この3枚のどこにある」
担当官の指が止まった。
脇に積んであった報告を引き寄せ、表題を上にして置く。
「ヴァルディス侯爵領の水害と魔物災害、それからベラクルス侯爵領の魔物災害の報告でございます」
「出来事の名を聞いたのではない。復旧済みの項目、今も必要な支出、王国が負担する約束を聞いた」
水害への応急対応を記した頁には、土嚢による浸水防止や、衛生と医療に関する記載がある。
そこを指そうとした担当官は、指先を引っ込めた。
「侯爵領の帳簿までは届いておりません。現在の状況を、この報告だけで確定することはできません」
「なら空欄を残せ。侯爵家の費用を、王国がすべて払ったことにするな」
財務大臣は、3枚目の端へ災害の報告を重ねた。
新しい船の使用量には細かな数字が並んでいるのに、こちらは誰が負担するかさえ照合しなければならない。
目を離すと、細かく書かれた方から先に話が進む。
昨年の災害に対して残る責任を調べずに、新しい支出だけ承認するわけにはいかない。
「空欄ばかりで、陛下へお見せしてよいのでしょうか」
記録係が、清書用の紙を持ったまま尋ねた。
「よい。これは暫定版だ。既存の年間需要も地方の供給も調査中だと明記せよ」
「空欄にも理由を付けるのですね」
「金を使う前に足りない情報を示す。隠したら、それこそ危うい」
記録係が椅子へ戻り、紙の上へ身をかがめた。
ペン先の動く音が、灯の燃える小さな音に重なる。
財務大臣は、担当官の手元にある運航希望をもう一度見た。
魔術院と軍務に各1隻、貨物に1隻、あるいは2隻。
船を注文した者はまだいない。
今なら、止まって調べることができる。
「この表で、買付けを承認できるとは申すな。今の支出を守って何ができるか、それを陛下に判断していただく」
記録係がうなずき、担当官も災害の報告を別に揃えた。
財務大臣は、その動きを確かめてから窓へ目を向けた。
ようやく屋根と空の境が見え始めている。
茶を飲もうと手を伸ばしたが、茶碗はすっかり冷えていた。
数日後、王宮の大評議室には、高い窓から朝の光が差していた。
長い卓の上座に国王が座り、その隣でクラウスが提出資料を開く。
軍務大臣の隣には、軍務省次官フリードリヒ・ベルクマンが控えていた。
卓には前年の出動記録と補給の資料が、すぐ参照できるよう整理されている。
大臣がまだ開いていない頁にも、次官の手で要点が記されていた。
商務大臣と魔術院長コンラートも席に着くと、財務大臣は王の前へ計画を差し出した。
「年間魔石需給計画の暫定版でございます」
「暫定とは?」
「全国で既に使われている量と、地方から新たに供給できる量など、確認の済んでいない項目がございます」
王は表題から目を上げた。
「では、何が分かった」
「希望された船の運航を仮定した使用量と、王都3業者の新しい引受枠です」
3隻案は年29,520回分、貨物船を2隻とした4隻案は51,120回分。
財務大臣が示すと、王の視線は供給側の約6,000回分へ移った。
「大きく隔たっておるな」
「ただし、この6,000は全国の供給ではございません。使用後の石に再充填できる量も未確認ですので、差を国内の不足量とは申せません」
財務大臣は、既存の契約を示す青い札を卓へ置いた。
「新しく引き受けられる枠が限られるからと、先約の分を船へ回せば、誰かが待つことになります」
「国の用を優先する余地はあるはずだ」
軍務大臣が言い、次官がその隣へ守備と補給に関する資料を置いた。
「では、交換の必要な守備の石を遅らせますか。工房に約束した石を引き上げますか」
「防備の石は削れぬ」
「工房も、商いのために残す必要があります」
商務大臣が続けると、財務大臣は公共施設の維持を確かめる欄へ指を移した。
「こちらも止めぬのであれば、残った供給から船を動かすことになる。その残りを確かめる前に、なぜ船の数を先に決められるのです」
王が椅子の背から身を起こした。
「新しい石を供給できるなら、取り合わずに済む」
「その返答を待っております。ただ、集まらなかった時に既存の分を使うつもりなら、今ここで伺わねばなりません」
財務大臣は昨年の災害の報告を開いた。
「ヴァルディス侯爵領の水害と魔物災害、ベラクルス侯爵領の魔物災害。その後、何を復旧し、次に備えて何を残すべきか」
「忘れてはおらぬ」
「はい。ですから、その責任を新しい船より後へ回してよいのかと、伺っております」
クラウスが災害の報告を引き寄せた。
「現在の復旧状況は各領へ確認します。侯爵家の領費と、王国が負う約束も分けて照合しましょう」
「船を飛ばすために、昨年助けた領をまた傷めるつもりはない」
王の言葉に、財務大臣は頭を下げた。
軍務大臣が資料へ手を伸ばすと、ベルクマンは探させずに必要な頁を開いた。
大臣はそこを一瞥したが、財務大臣へ向き直った時には、もう頁から手を離していた。
侍従が水を注いで退くと、軍務大臣は杯に触れずに口を開いた。
「昨年のベラクルスへの救援には、時間がかかった。あれを短くできるなら、船を求める理由にはなる」
「承知しております。ヴァルディスから、およそ400kmでしたな」
「急いで兵を進めても、約1週間だ。待つ者にとっては長い」
財務大臣は、急かすことなく最後まで聞いた。
到着までの日数を確かめ直したことは、自分にもある。
「救援を速める価値は認めます。そのために、地上の守備と船の運航を両方続ける責任が生じます」
「だからこそ軍専用の飛行船が必要なのだ!」
「閣下。その件については、維持費と兵站上の課題を先日ご説明しております」
ベルクマンが静かに言った。
声を張らず、大臣の手元へ同じ資料を戻す。
「今は飛行船の話をしておる!」
「はい。その飛行船の運用についてのご説明でございます」
軍務大臣の眉が寄った。
財務大臣は、次官の前にある出動記録を見た。
「……次官。そなたが説明してくれ」
「承知いたしました」
ベルクマンは立ち上がり、軍務大臣が見やすい向きに記録を開いた。
「前年の救援は、兵の到着だけで終わっておりません。送り出す兵の装備、食糧、輸送、到着後の補給をつなげる必要があります」
「船なら最初の輸送を縮められる」
「はい、閣下。ただし、到着した兵の食糧も、留守の守備に必要な補給も残ります。船を持つ場合には、その上へ乗員と整備、魔石の備えが加わります」
財務大臣はうなずいた。
次官は船の利点を小さく言い換えず、残る仕事を指で示している。
「年間60日、1日5時間という案は?」
「訓練と出動を想定した運航の希望です。前年の救援記録と比較はしておりますが、同じ300時間で今後すべての任務を果たせるとは申せません」
「必要な運航費は出せるのか」
「乗員、保守、補給を分けて検討できます。ただし、船の見積りと魔石の調達条件は未回答ですので、確定額はまだ出せません」
ベルクマンはそこで止まり、大臣の方を見た。
財務大臣も軍務大臣へ向き直った。
「次官は、残る負担を説明している。それを踏まえて、何を優先するおつもりだったのです」
「救援を遅らせぬことだ」
「そのために普段の守備を弱めては、助けを待つ土地が増える。そこをどう避けるかが、あなたの判断です」
軍務大臣の指が資料を押さえた。
「守備を減らすつもりはない」
「なら、減らさずに持てるかを先に確かめるべきです。船を求めてから、足りぬ費用は財務が出せという順序にはできません」
商務大臣が杯を置いた。
「商務でも、船が動けば取引が増えます。荷主の要望もある」
「その荷を作る工房の石が遅れ、費用が上がった時に、荷主は同じだけ出せますか」
「既存の商いを損なうつもりはありません」
「意図を伺っているのではない。船へ資源を回した結果を、誰が引き受けるのかと問うております」
財務大臣は官吏ではなく、商務大臣を見たまま言った。
「欲しい船の数を集めるだけなら、誰にでもできます。供給が足りぬ時に何を守り、何を待たせるか」
「決める責任まで部下へ渡しては、大臣を置く意味がない」
商務大臣は返事をせず、荷主の希望へ目を落とした。
「魔術院も、既存の教育を止めてよいとは考えておりません」
コンラートが言った。
「実測の平均12回分は、既存船が経済巡航に近い条件で3時間、36回分を使った記録です。別の船の保証値ではございません」
「その不確かさを承知して検討することは必要です」
財務大臣は答え、王と大臣たちへ目を移した。
「分からぬことを分からぬと言う者を、無能とは申しておりません」
「部下が危険を示しているのに、それを他省と民の負担で埋めればよいと考える。その判断を無能と申しているのです」
国王は、軍務大臣の隣に立つ次官を見た。
「決めるのは大臣だ。次官の説明を聞いた上で、答えよ」
ベルクマンは一礼して座り、軍務大臣の手元に資料を残した。
窓から差す光が卓の中央へ移り、軍務大臣が新しい紙を押し出した。
「昨年のように救援が遅れぬためにも、出動用の予備魔石を持つべきだ」
ベルクマンが、その隣へ補給の資料を置く。
財務大臣は次官に尋ねた。
「この備えは、以前から検討していたのか」
「はい。日常の守備用とは分け、保管場所と補給の責任を定める必要があると、閣下へご説明しております」
「だから、予備として確保すると申しておる」
軍務大臣の声に、次官は顔を向けた。
「確保した石を誰が管理し、出動後にどう補うかも、併せて決める必要がございます」
「『予備』という字で石は増えません」
財務大臣が言うと、大臣は口を閉じた。
「守備の備蓄を船へ移して、帳面の上で用意できたことにしては困る。次官、両方の備えを分けて比較してくれ」
「承知しました。備蓄として置く量と、一年に使う量も別にいたします」
ベルクマンは短く答え、既に開いていた頁へ指を置いた。
新しい問いを、初めて聞いた者の動きではなかった。
「荷役用の魔道具で積み下ろしを速めれば、船の待ち時間を減らせます」
商務大臣が身を乗り出した。
「その設備は、荷を作る工房と同じ市場から石を求めますか」
「動かす分は、別に必要です」
「購入した後の修理と管理も要る。待ち時間の節約だけで、その費用まで賄えるのですか」
商務大臣は、自分の資料をめくった。
「人手で積む場合と比較します。船の待機中の消費も、まだ船主に確認しなければならない」
「荷役を速める利点はあります。ただ、そのために工房の供給を圧迫して荷が減るなら、何を速めたのか分からなくなる」
商務大臣は、荷主の希望を閉じずに脇へ寄せた。
コンラートが次の資料を出す。
「研究によって、少ない魔力量で動かす方法を探ることはできます」
「そこには試験用の石と、計測の設備、人の時間が要りますな」
「はい。技術研究と実際の飛行試験を行うための費用です」
「成功すれば、運航の負担は減るかもしれない。ですが、成功するまでの負担を、何で支えます」
コンラートは、持参した資料を自分の前へ戻した。
「既存の教育に必要なものと、新しい研究に必要なものを分けます。節約できると決まった額を、先に見込むこともしません」
「それをお願いいたします」
財務大臣が受け取った紙へ、予備石と荷役設備の案が重なった。
クラウスが、手元に滑ってきた1枚を押し戻す。
「節約案の書類で、机が埋まりましたな」
「書類なら置けます。石の置き場所は、まだ決まっておりません」
「こちらも、そう長くは持たぬようですが」
商務担当官が資料の束を膝へ移し、上の1枚を床へ落とした。
商務担当官が慌てて紙を拾う間に、ベルクマンは軍務の官吏へ補給の資料を示した。
既存の守備用と船の予備を分け、調達と管理の担当を確認している。
大臣はその間も、王へ予備の必要性を説いていた。
遠くで正午を知らせる鐘が鳴り始めた。
午後、国王も交えた協議は、大評議室から財務協議室へ場所を移した。
室内には、昼食を下げたばかりの皿が端に残っていた。
大評議室より卓が狭く、大臣たちの距離も近い。
財務大臣は船の希望一覧を脇へ置き、年300日、1日6時間の貨物運航を仮定した表を開いた。
「他の予算を回せば、貨物船一隻だけでも始められるのでは」
商務大臣の言葉に、財務大臣はうなずいた。
「では、一隻に絞って考えてみましょう」
年21,600回分という魔力量の横には、船代、整備、乗員、魔石の調達と再充填の欄がある。
確定した費用は、まだ入れられなかった。
「まず王室の裁量で使える支出を制限した場合です」
王の目が細くなった。
財務大臣は、その顔から目を逸らさなかった。
「構わぬ。まず計算を見せよ。命令ではないな」
「はい。振り替える余地を考えるための試算です」
王がうなずくのを待ち、財務大臣は朱筆を次の欄へ置いた。
「さらに、仮に軍務の予算を半分にする」
「昨年のような魔物災害が起これば、兵と補給をどうする!」
軍務大臣が声を上げ、椅子が床を擦った。
「まさにそれをお尋ねしている。何を失わずに、その半分を船へ回せますか」
「兵を飢えさせるわけにはいかぬ」
ベルクマンが、大臣の前にあった補給の資料を開いた。
「閣下のおっしゃるとおりです。兵の食糧、輸送に用いる動物の飼料、装備の補修は、出動のない間も必要です」
財務大臣は次官へ続きを促した。
「補給を減らせば、命令だけ出ても兵は動けません。装備の修理を先延ばしにすれば、次の出動で使えるものが減ります」
「各地の守備を残すのであれば、その維持も削れません」
「半分に合わせて、不要なものを探せば――」
軍務大臣が言うと、次官は顔を上げた。
「不要な支出の見直しはいたします。ただ、半分という結果を先に置けば、必要な補給まで削ることになります」
軍務大臣は、財務大臣の朱筆を見た。
「そもそも、軍務だけに払わせるのはおかしい」
「では、各省庁も半分にする。財務も含めます」
後方の財務担当官が顔を上げた。
財務大臣は自分の省の欄にも、二分の一と記した。
「税を集め、支出を確かめ、各地の報告を照合する仕事を減らす。その後、船を動かす金は誰が管理するのです」
「仕事が半分になるわけではございません」
担当官が答えた。
「はい。遅れた仕事を、民に待ってもらうことになる」
商務大臣が、公共施設と街道に関する欄へ手を伸ばした。
「補修を先延ばしにすれば、陸路を使う荷主が困ります。船に載せない荷の方も残る」
「ならば、そこも先に守るべき支出です」
財務大臣は、昨年の災害の報告を重ねた。
「復旧に残る仕事と再発への備えを調べず、新しい船へ予算を回す。次の水害や魔物災害が起きてから、戻せるでしょうか」
クラウスは、水害の頁を自分の側へ向けた。
「土嚢で浸水を防ぐ応急の措置だけで、その後の対策まで済んだとはできませぬ。現状を確かめた上で、領と王国が負うものを残す必要があります」
「各領で賄えば、国庫は――」
官吏が言いかけると、財務大臣は顔を向けた。
「国が約束した負担を領へ移せば、金が湧くのですか。領の防備や復旧から取り上げるなら、同じ土地の民が払うことになる」
官吏が口を閉じた。
王は、半分と記された欄を順に見た。
「一隻を動かすために、他を止めるのでは困る」
「はい。これは政策ではなく、国を壊す仮定です。予算を回すと簡単に申す前に、回した側で何ができなくなるかを伺いたいのです」
「そこまで削っても、一隻を続けられるかは分からぬのですか」
クラウスの問いに、財務大臣は費用の空欄を示した。
「魔石が届くか、再充填費を払えるかも未確定です。半減しても必ず足りぬという計算は出せませんが、これで維持できるという根拠もございません」
王が朱の二分の一を指した。
「半分にせよ、という命令にはするな」
「承知いたしました」
財務大臣は比較用の試算と書き足した。
ベルクマンはそれを見届け、軍務大臣の資料を閉じずに残した。
夕刻、大評議室へ戻ると、試算の朱が夕陽を受けていた。
窓の隙間から入る風に紙端が持ち上がり、クラウスが手で押さえる。
軍務大臣も商務大臣も、午前中のようには身を乗り出さなかった。
国王は上座で、比較用の表を読み直していた。
「では、必要な魔石を買い集めればよかろう」
財務大臣は答える前に息を吸い、椅子から立った。
「陛下。それを実行いたしますと……」
「申せ」
「国家経営が破綻します」
クラウスの指が、紙の端で止まった。
窓へ近づきかけた侍従も足を止める。
王は財務大臣を見据えた。
「船を買うだけで、国が滅ぶと?」
「船は一度でも、石は毎年です。国が相場を押し上げれば、守備の交換石も、工房の石も高くなります」
財務大臣は、毎年の運航にかかる欄へ青い札を寄せた。
「新たな供給が増えぬまま、国が高値で買い続ければ、売り手は次の契約でもその値を考えるでしょう」
「工房も、同じ値で求められるか」
商務大臣が杯から手を離した。
「値を上げて払うか、手に入るまで待つか。どちらも、工房には負担です」
財務大臣は商務大臣の方を向いた。
「工房がその分を商品の値へ上乗せすれば、買う者が払う。上乗せできなければ、工房の取り分が減る。仕入れや雇う人を減らすことにもなり得ます」
「荷主の費用が増せば、船へ出せる荷も変わる」
「はい。輸送を速めて得るはずの利益を、石の取り合いで失うかもしれない」
商務大臣は、閉じていた荷主の希望を開き直した。
財務大臣は王へ向き直る。
「国も同じ市場から、守備や既存の魔道具に必要な石を求めています。契約を更新する時に値が上がれば、船以外の支出も増えます」
「王室費の制限は見せよと言った。軍も役所も半減せよとは命じておらぬ」
「承知しております。仮の半減でさえ、従来の業務を守りながら一隻続けられる証拠がないのです」
王の顔には不快さが浮かんでいた。
財務大臣は、声を大きくしないように気を付けた。
強い言葉を口にした責任は、自分が負わねばならない。
「ただいま国が破産している、と申し上げたのではございません」
王は言葉を遮らなかった。
「必要な量も供給先も揃わぬまま、足りなければいくら払ってでも買う。その方針を毎年続けた場合の話です」
財務大臣は、災害に関する支出の欄を指した。
「既存の石が高くなっても防備は減らせず、国が負う復旧支援も投げ出せない」
「増えた負担を補うために別の仕事を止めれば、そこでまた民の商いや暮らしが傷む」
「税を増やせば済む、という話でもないな」
王が言った。
「商いの負担を増やした後に、さらに国へ払えと言うことになります。いくら増収を見込めるかも分からぬ今、それを財源とはできません」
王は表を閉じかけ、手を止めた。
青い札を横へずらし、もう一度開く。
「しかし昨年のベラクルスへは、早く兵を運ぶ必要があった」
軍務大臣の声に、財務大臣は向き直った。
「そのとおり。では飛行船のために地上の守備を削り、同じ災害が明日起きたら何を守るのです」
軍務大臣は補給の資料を見たが、すぐに返事をしなかった。
ベルクマンが、必要な頁を開いて隣へ置いた。
「速い輸送で税収が増える可能性はある」
商務大臣も、先ほどより静かな声で言った。
「将来の増収見込みで、今年の補修費を払ったことにしてはなりません」
財務大臣は杯へ手を伸ばし、一口だけ飲んだ。
冷たい水が喉を通り、ようやく声の乾きに気付く。
「29,520回分と王都の6,000回分だけで、国家破産の額を計算したのではありません。地方の供給も再充填も、まだ確認中です」
王がうなずくのを待ち、財務大臣は続けた。
「答えが揃う前に、上限のない買付けを約束しないでいただきたい」
「では、陛下へ何を求めます」
クラウスの問いに、財務大臣は頭を下げた。
「買付けの承認ではなく、用途と財源、供給先を揃える時間を」
窓の隙間で鳴っていた風が止み、紙を押さえるクラウスの手が少し緩んだ。
侍従が灯を増やす間に、窓の向こうの庭から色が消えていった。
財務大臣は、目の奥の重さをこらえて希望書を開いた。
船を何隻と求める声は、朝から何度も聞いている。
そのたびに残すと言われた仕事は、まだ一つも減っていなかった。
「他国の物笑いになりますな。扱えないしろものを贖おうとして亡国にしたと」
王の顎がわずかに上がる。
「言葉を慎め。必要だと思うからこそ、皆が申しておる」
「存じております。だから問います。そもそもなぜ今までなかったものを必要とするのですか」
軍務大臣が卓へ手を置いた。
「昨年のベラクルスだ。派兵に1週間かかった。あの時間が惜しかった」
「救援を速める価値は認めます。では、救援手段は一つだけですか」
「ならば軍の船を」
「常設軍用船の維持費と、民間船を優先借用する条件を比べましたか。出動のない日は何に使うのです」
「軍が使いたい時に借りられる保証はない」
軍務大臣の返事に、ベルクマンが小さく頭を下げた。
「そこは比較すべき点です。船主が引き受けられる条件、既に契約した荷への責任、出動用の石を誰が用意するかを確かめる必要があります」
「自前なら、その心配はない」
「乗員が揃い、整備が済み、石の備えがあることが前提です。所有するだけで、いつでも出せるわけではございません」
ベルクマンは大臣の資料を開き、財務大臣にも見える位置へ置いた。
「常設保有では、出動しない間の維持を含めて比較します。借用では、引き受けられない場合も含めて検討します」
「待っている間に被害が出れば、借りられなかったでは済まぬ」
「はい。ですから、現地の守備と既存の補給を残します。陸路の中継や集結の段取りで短くできる時間も、飛行船とは別に調べます」
軍務大臣は次官の手元を見た。
「それでは、飛行船ほど速くはならぬ」
「何をどこまで急ぐべきかによります。最初に送るもの、その後も送り続けるものを分け、実績から比べます」
財務大臣は、次官が話し終えるまで待った。
「大臣。専用船を持つ方がよいという結論も、排してはおりません。その負担を払ってでも得るものが大きいと、説明していただきたいのです」
軍務大臣は返事の代わりに、次官が開いた頁へ目を落とした。
「飛べば、遠い町との商いも変わります」
商務大臣が言うと、財務大臣はそちらを向いた。
「地理や時間的な障壁をのぞけるとしても別の案を考えないのですか」
商務大臣は、荷主の希望を1枚抜いた。
「急ぐ荷と、速く着けばありがたい荷を分けます。街道、荷車、定期中継、必要時だけの飛行を比べるべきでしょう」
「何をもって比べます」
「期限を守れるか、運べる量、それに荷主が払える費用です。速さのために費用が増し、買い手を失うなら、定期便にはできません」
財務大臣はうなずき、クラウスへ顔を向けた。
「ヴァルディスの水害には、現地の排水や再発防止策も必要でしょう」
「現状を確認します。応急の報告だけで、その後の対策まで足りるとは申せませぬ」
クラウスが水害の資料を引き寄せると、コンラートも自分の紙を開いた。
「教育も研究も必要です。実物でしか学べぬこともあります」
「では小さな実験設備で済む部分から示してください」
「分けて提出します。基礎は教室と模型で学び、技術研究も部分ごとに試せるものを分ける。ただし、最後の飛行試験は実物がなければできません」
「そのためだけに専用船を一年中持つか、実物を使える期間を相談するか」
「比較いたします。借用で学べる範囲も、所有者へ確認しなければなりません」
コンラートは、自分で専用船の札を少し脇へ寄せた。
財務大臣は王へ向き直った。
「領や国を痩せさせてもそれがなければ滅ぶのですか」
王の目が、船の希望から昨年の災害の資料へ移る。
灯の芯を切る小さな音がして、卓の影が濃くなった。
「昨年の災害を忘れたくない。だが、守るものを減らしては本末転倒か」
財務大臣は頭を下げた。
王は軍務大臣の隣を見てから、商務大臣とコンラートへ目を移した。
「そなたらの望む仕事を、今ある仕事とともに続ける。その方法を選ぶための比較が要るのだな」
今度は、軍務大臣も短くうなずいた。
夜の小協議室へ移ると、火の消えかけた香炉から薄い匂いが残っていた。
椅子を引く音が重なり、軍務大臣が息を吐いて座る。
財務大臣も、今度は席に着いた。
膝へ下ろした手を開くと、指の節が少しこわばっている。
中央には、持ち込まれた船の希望札があった。
国王はそれを眺め、財務大臣へ尋ねた。
「ならば船をすべて諦めろと?」
「違います。昨年、ベラクルスへ救援が早く届けばよかった。その願いは正しいのです」
財務大臣は軍務の船1隻という札を脇へ寄せ、前年災害の救援時間と書いた札を置いた。
「救援の時だけ商船を借りる交渉も、選択肢にはなる」
軍務大臣は札へ触れ、隣の次官を見た。
「先ほどの比較を、保有する案と並べるのだな」
「はい。既存の守備と補給を残し、救援までの時間をどこで縮められるかも示します」
ベルクマンはすぐに答えた。
「船主の了承と、荷主への約束が前提です。緊急時の用意も今は未確定」
クラウスは滑りかけた札を指で止めた。
「リュシア商会へは、アルベルトを通じて条件を相談します。次官、照会に必要な軍務の条件を揃えてください」
「閣下へ確認の上、お届けします」
次官は答えて大臣の方を向き、大臣は短くうなずいた。
クラウスは、軍務の資料がすべて次官の手元で使う順に揃っているのを見た。
王もそちらへ目を向ける。
「ベルクマン。今日説明した補給の条件は、比較するどの案にも残せ」
「承知いたしました」
「大臣は、それを踏まえて判断を示すのだ」
軍務大臣が一礼すると、商務大臣は貨物船2隻の札を自分の側へ引いた。
「荷車の増便や街道の改善と、空路の試験便を比べます。荷主には、到着期限と費用の希望を聞き直しましょう」
「ヴァルディスの水害対策も確認を。船一隻で川を直せるわけではない」
財務大臣は、水害と魔物への現地対策の札を並べた。
クラウスがそれを見て、手元に書き付ける。
「現在の復旧状況と、王国が負担すると約束したものを分けて報告させます」
「教育を教室・模型・実物で分け、小規模試験の案も出します」
コンラートも、魔術院の船という札を脇へ置いた。
「魔術師の養成、技術研究、飛行試験。それぞれ実物を必要とする期間と、費用を比べます」
「そのための石を、現在の維持費とは分けて示してください」
「分けます。所有者の意向を伺うまでは、借りられることを前提にもいたしません」
教育の試験と貨物の改善の札が加わり、王は置き直されたものを1枚ずつ読んだ。
「誰かの望みを消すのでなく、何を先に守るかを決めるのだな」
「まず目的と代案を集めます。船の数も費用も、その後でございます」
クラウスが答え、財務大臣の方を見た。
「供給の返事も、その比較に揃える」
「はい。財務も、既に負っている支出を残して照合いたします」
国王は船の希望を保留とし、各大臣へ改めて検討を命じた。
買付けの承認を求める書面には手を伸ばさなかった。
窓の外で夜警の足音が近づき、遠ざかっていく。
軍務大臣が席を立つと、ベルクマンは軍務の官吏を呼び止めた。
出動記録の照合、補給の見直し、船主へ尋ねる条件を分け、それぞれの担当を確かめている。
大臣が出口で振り返った時には、官吏たちは必要な資料を受け取り、次官へ返事をしていた。
ベルクマンは財務大臣へ一礼し、軍務大臣とともに退出した。
深夜の宰相府へ戻ると、隣室の蝋燭は短くなっていた。
クラウスは石廊下から上がる冷気を振り払うように、扉を閉めた。
財務大臣も後から入り、持ち帰った資料を卓へ置く。
額へ手を当てたところで、財務担当官が未発送の文案を差し出した。
「各官署への照会文案ができました。予算半減計画を提出せよ、と」
財務大臣の手が止まった。
「……誰が半減を命じた」
「閣下が陛下の前で二分の一と……」
「言ったのは仮に、だ。王も命じておらぬ」
担当官が、文案と会議の記録を並べた。
クラウスは、封じるために用意された赤い紐を見た。
まだ結ばれてはいない。
「一語抜けるだけで、各役所が痩せるところでしたな」
「昨年の災害の復旧まで止めて、何の調査になる」
財務大臣は草稿を卓へ戻し、担当官の椅子を引いた。
直すまで、ここで見届けるつもりらしい。
「では現行業務と災害支援を守る案を問い合わせます」
「それでよい。半減案は発するな」
担当官は表題を消し、前年の災害に関する責任と、現在の復旧状況を尋ねる文へ改めた。
確定していない費用は、その旨を示して報告させる。
飛行船以外の代案についても、別に欄を設けた。
「王都の担当者へ回す分も、すべて確かめてから出せ。うちの文書だからと見逃す理由はない」
財務大臣の声を聞きながら、クラウスも自分の手元の草稿を開いた。
船の注文に至る前に、照会文を直す仕事がまた増えた。
背中を椅子へ預けたいところだったが、もう少し座り直して、表題から読み直す。
記録係が、脇に置いていた薄い束を持ち上げた。
「念のため、財務省自身の人員を半減した試算も付けておりますが」
財務大臣が、その束を見た。
クラウスも顔を上げる。
灯が小さく揺れ、担当官のペンが止まった。
「……誰が、誰の案を計算するのだ」
「それは、私も聞きたい」