押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第415話 君も商人になったらいい

 

 王立魔術院の会議室へ、湿り気を含んだ春の風が入っていた。

 

 マティアスは窓を少し閉め、卓に広げた飛行船の公開図を押さえた。

 

 向かいのオットーは、王宮から届いた通知を読み終えたところだった。

 

「一隻は保留でも、学ぶことまで保留にする必要はないでしょう」

 

 記録係が、船の図と院内の教育計画を別々に置いた。

 

 専用船も魔石の優先供給も、まだ認められてはいない。

 

 船を手に入れなければ始められないことばかり考えていた自分に、マティアスは少し腹が立った。

 

「何を知りたいか、先に分けねばならんな」

 

「公開してよい設備と、向こうが教えると認めた範囲だけです」

 

 オットーは、教育計画の実習時間を指した。

 

「教師がいて、道具があっても、毎日続くとは限りません。誰が教え、誰が安全を見ているか。そこを見てきていただきたい」

 

 窓の下を、教材を抱えた学生たちが通った。

 

 傷んだ箱を持ち直すために、一人が立ち止まる。

 

 隣の学生が底を支え、二人で運び直した。

 

「私は境界の研究者としてではなく、いま人を教えている者の仕事を見に行きたい」

 

「ヴァルト殿にも会うことになります」

 

 マティアスの手が、公開図の端で止まった。

 

 以前会った時、戻れとは言わないと伝えた。

 

 その後も、境界課で行き詰まるたびに、あの人がいればと思ったことはある。

 

 それを訪問の理由にしてはならなかった。

 

「承知している。昔の仕事を押し付けに行くわけではない」

 

 オットーがうなずき、見学の目的を書き直した。

 

 教室の運営、安全に止める手順、許可された一般原理についての質疑。

 

 マティアスはそこへ、若手が学ぶ機会について相談する、と加えた。

 

「こちらから人を送り込むと決めるのも、まだ早いな」

 

「まずは相談です。教える側の時間も要りますから」

 

 記録係が紙を受け取り、決裁へ回す束に揃えた。

 

 派遣が院内の正規の手続きを経て承認されてから、侯爵家へ受入れを依頼する文書が送られた。

 

 返事を待つ間にも、実習棟から授業の合図は聞こえてきた。

 

 オットーは王都に残り、マティアスが現地を見ることになった。

 

 侯爵家からの返書には、商館と工房、それにヴァルト本人が了承した見学範囲が記されていた。

 

 マティアスは封を開いたまま、最後まで読み直した。

 

 翌日の授業の打合せを終え、留守中の仕事を担当者と確かめてから、旅の支度を始める。

 

 王都を出た馬車は、何日も街道を進んだ。

 

 窓から畑を見るたび、持参する質問のうち、本当に聞きたいものを選び直していた。

 

 

 

 領都に着いた馬車を降りると、焼けたパンの匂いがした。

 

 荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越え、軒先で店員が客へ声を掛けている。

 

 マティアスは外套を直し、侯爵家の案内役が示す先を見た。

 

 そこで、足が止まった。

 

 窓が幾列も並ぶ建物の前を、買物客が普通に出入りしている。

 

 隣にも、同じように高い建物があった。

 

 視線を上げるにつれ、旅で固くなった首の後ろが痛んだ。

 

「……あれが共同商館か」

 

「ああ。こちらが共同商館、隣がセルマさんの工房だ」

 

 声の方を振り向くと、ヴァルトが歩いてきた。

 

 マティアスは挨拶をする前に、隣の建物をもう一度見た。

 

「隣も同じような建物ではないか。あれが工房?」

 

「薬を作るほかに、人を育てる場所でもあるんだ」

 

 ヴァルトは笑ってから、一礼した。

 

「久しぶりだな、マティアス。元気そうで何よりだ」

 

「君もな。……しかし、ここは一体どうなっているんだ?」

 

「君も、まず上を見るんだな」

 

 王都にも王宮や大きな貴族邸、魔術院の塔はある。

 

 しかし、塔を見上げたまま薬の値を尋ねる客はいない。

 

 こちらでは、今も客が扉を押し、空の籠を下げた職人が隣の搬入口へ向かっている。

 

「地上は5階だ。地下も2階ある」

 

「こちらがか」

 

「両方だよ」

 

 マティアスは、数え直すように両棟の窓を見た。

 

「王都の魔術院ですら、教室の増築は簡単に通らんというのに……」

 

 案内役は驚きを遮らず、通行する荷車が過ぎるのを待った。

 

「お入りになる時はこちらを。搬入の口は別になります」

 

 ヴァルトも道の端へ寄り、マティアスを客用の入口へ導いた。

 

 入り口では、案内の者と今日の見学先を短く確認する。

 

 マティアスが見せた訪問の文書は、読まれてから丁寧に返された。

 

「店と住居、研究する場所は、通路を分けているんだ。お客様が迷って入ると困るからね」

 

 そう説明するヴァルトの横を、客が品物を包んでもらいながら通った。

 

 売場の向こうには荷を上へ運ぶ設備があり、台車を押す者が順番を待っている。

 

「あれで上階へ?」

 

「そうだ。荷も人も、階段だけでは大変だからね」

 

 マティアスは返事をしながら、運ぶ者の手が荷を抱え直さずに済んでいるのを見た。

 

 建物の高さを使うための仕事が、入口から始まっている。

 

「セルマさんが、昼前なら案内できるそうだ。先に工房へ行こうか」

 

「ぜひ頼む。あの大きさで、どう教えているのか見たい」

 

 ヴァルトが笑った。

 

 王都で難しい問い合わせを受けた時より、ずっと柔らかな顔だった。

 

 

 

 セルマ工房へ入ると、乾いた薬草の匂いに、洗った瓶の水気が混じっていた。

 

 セルマは仕事着のまま迎え、見学できる区画を示した。

 

「こちらから見てください。手元に近づく時は、声を掛けてね」

 

 マティアスはうなずき、ヴァルトの隣に立った。

 

 作業台では、弟子が秤から手を離し、もう一人へ記録を渡している。

 

 受け取った弟子は紙だけを見ず、容器の印と量を確かめた。

 

「ここで働く者は、皆、製法を知っているのか」

 

「仕事によります。分かるところまで教えて、危ない工程はまだ任せません」

 

 セルマが答えた時、弟子の一人が手を上げた。

 

「こちらの量を、もう一度見ていただけますか」

 

「次へは進めていないね?」

 

「はい。止めています」

 

 セルマは容器を確かめ、弟子に最初から量を読み直させた。

 

 間違った数字を消す前に、どこで違いが出たかを記している。

 

 マティアスは見ようと少し身を寄せた。

 

 セルマの手が、作業台の手前を示す。

 

「そこまででお願いします」

 

「失礼した」

 

 離れると、弟子は慌てることなく確認を続けた。

 

「一人にしか分からぬ工程は?」

 

「残っていれば、そこを直しているところよ。私が休んだだけで止まる工房にはしたくないからね」

 

「私も、その考えには随分助けられています」

 

 ヴァルトが言うと、セルマは彼の方を見た。

 

「先生も、休んだ時の授業を考えておいてね」

 

「はい。それは今も考えています」

 

 マティアスは、二人のやり取りを聞いて口元を緩めた。

 

 誰かに任せる話をすると、その人が何もしなくなるように受け取る者もいた。

 

 ここでは、明日休む人間の仕事を、今日から考えている。

 

 瓶を乾かす棚と、確認を待つ品を置く場所は分かれていた。

 

 弟子が台車を押してきても、調合の手元を横切らずに済む。

 

「教える時間も、この中で取るのか」

 

「ええ。上にも勉強する場所があります。作る前に分かってほしいこともあるから」

 

 セルマが移動の設備へ二人を案内した。

 

 エレベーターの扉が開き、弟子が教材を抱えて先に降りてくる。

 

 マティアスは箱の床を見てから、そっと乗った。

 

 動き始めると、指が外套の端をつかんだ。

 

「地下も使うのか」

 

「2階分あります。ただ、今日ご案内するのはこちらまでです」

 

 セルマの答えに、マティアスはうなずいた。

 

 上階で見せられたのは、教材と、弟子が使った練習の記録だった。

 

 窓の外には、共同商館の窓が同じ高さに見えている。

 

 マティアスは持参した紙へ、確認できる者を育てる時間、と書いた。

 

 建物の寸法を書き留めるつもりだった頁が、先にその言葉で埋まった。

 

 

 

 午後、共同商館2階の教室へ入ると、22人の視線が集まった。

 

 石板を拭いていた子が手を止め、前の席にいたラウが立ち上がる。

 

「先生、誰だ?」

 

「以前、魔術院で一緒に働いていたマティアス課長です。境界魔術の専門家ですよ」

 

 ラウはマティアスの顔を見てから、ヴァルトへ目を戻した。

 

「先生の、前のところの人か」

 

「はい。今日は授業を見ていただきます」

 

 マティアスが会釈すると、ベスが後ろの机を少し動かした。

 

 通路を空けてから、椅子を示す。

 

「ここなら見えると思います」

 

「ありがとう」

 

 腰を下ろすと、窓から下を行く客の声が聞こえた。

 

 子どもたちは机の上を片付け、隣との間隔を確かめている。

 

 ヴァルトは前へ立ち、両手を見せた。

 

「今日は、魔力を動かす時の止め方から始めます。まだ流れが分かりにくい人も、合図と距離は一緒に確かめてください」

 

 トマが、横の子へ椅子を引くよう声を掛けた。

 

 リオとメルも隣の子と向き合い、互いの手がぶつからない位置を探している。

 

「なぜ術を止める手順から学ぶ?」

 

 マティアスが尋ねると、ラウが振り向いた。

 

「失敗しても、こいつらを巻き込まないためだ」

 

「変な音がしたら、すぐ知らせるんだろ」

 

 トマが続ける。

 

「小さい子を近づけないのも、先に決めています」

 

 ベスは答えながら、隣の席を見た。

 

 マティアスは、椅子を寄せてきた意味をそこで理解した。

 

「マティアス、君も一つ質問を出してみないか」

 

 ヴァルトが言うと、ラウの目が少し細くなった。

 

 マティアスは立たず、座ったまま尋ねた。

 

「では、隣の者が変だと気付いた。術を使っている本人は、気付いていない。誰が知らせる?」

 

「俺だ」

 

 ラウがすぐ答え、トマも口を開いた。

 

「俺が先に聞こえたら、俺が言う」

 

「二人とも気付いたら?」

 

 ラウは考え、トマの方を見た。

 

「先に気付いたやつが言えばいい」

 

「言ってないと思ったら?」

 

「……俺も言う」

 

 後ろの席から、小さな声がした。

 

 キリが筆記具を持ったまま、マティアスを見ている。

 

「それでよい。声が届いたか分からぬ時に、誰かが言ったはずと黙る必要はない」

 

 キリはうなずき、石板へ短く書いた。

 

 ラウも前へ向き直り、止める合図を確かめた。

 

 ヴァルトが練習を始めると、子どもたちは掌へ意識を向け、呼吸を乱さないようにしている。

 

 途中で止める合図が出る。

 

 全員が手を下ろしたところで、トマが隣へ顔を向けた。

 

「まだやってる?」

 

「止めた」

 

「声も出してくださいね」

 

 ヴァルトが言い、二人はもう一度答え直した。

 

 マティアスは手を上げた。

 

「止めた者のところへ、確認するために寄るか?」

 

 ベスが首を振る。

 

「先生に知らせて、待ちます」

 

「なぜ待つ」

 

「止まったか、私には分からないこともあるから」

 

 マティアスはうなずいた。

 

 次の問いを考えていると、ラウが先に尋ねた。

 

「課長さんのところでも、間違えるのか?」

 

「間違える。慣れた者もだ」

 

「なら、そこでもこれをやるんだな」

 

「……そうだな。やらねばならん」

 

 マティアスが答えると、ラウはようやく口元を緩めた。

 

 後ろから眺めるつもりだった授業で、マティアスは次の合図まで見届けていた。

 

 ヴァルトが終了を告げた時には、持参した紙に問いと答えがいくつも残っていた。

 

 

 

 授業を終えた教室から出ると、廊下の窓に柔らかな光が残っていた。

 

 隣の工房でも、人が教材を持って窓際を通っている。

 

 マティアスは見学の紙を閉じず、ヴァルトへ尋ねた。

 

「よく学んでいる。どこから集まった子どもたちだ」

 

「20人は王都から来た。あとの2人は、領内の孤児院から通うリオ君とメルさんだ」

 

「王都から来たと言ったか。どこの学校だ」

 

「学校ではないんだ。あの20人は、以前は王都のスラムにいた」

 

 マティアスは開いた紙から顔を上げた。

 

「……あの子たちが?」

 

 教室の戸はまだ開いている。

 

 ラウが年少の子へ道具を返すように言い、トマが机の下に残った筆記具を拾って渡していた。

 

 先ほど自分へ問い返した顔を、王都の裏路地に思い浮かべようとする。

 

 うまく重ならなかった。

 

「保護した時、ラウ君が仲間を守る力を欲しいと言ったんだ。そこで魔術を教えることにした」

 

「魔術師になりたい、ではなかったのか」

 

「ああ。あの子が守りたかったのは、そばにいた仲間だった」

 

 ヴァルトは子どもたちの方へ目を向けた。

 

 保護することになった時、人身売買につながる危険があったと短く話す。

 

 その後の手続きは、侯爵家と王都の警備隊へ引き継いだという。

 

 マティアスは、誰が何をされたのかとは尋ねなかった。

 

 今、戸の向こうにいる者たちに、同じ話をもう一度させたくはなかった。

 

「王都にいた我々には、あの子たちの姿が見えていなかったのか」

 

「今は見てやってくれ。あの子たちは、もう自分で学べる」

 

 ベスが、小さい子の荷を一緒に持って戸口へ出てきた。

 

 キリも石板を抱え、ヴァルトへ顔を上げる。

 

「明日の授業、あるよね」

 

「はい。今日の続きです。最初の合図を覚えておいてください」

 

「うん」

 

 キリは返事をして、他の子の後へ続いた。

 

 マティアスは、小さな足音が遠ざかるのを聞いた。

 

 明日も教わる場所があり、顔を知った先生が来る。

 

 魔術院の教育を考える時、自分はその前提から始めていた。

 

「皆が魔術へ進むのか」

 

「読み書きと計算、それに安全の基礎は皆で学ぶ。その先は、本人の希望と得意なことを見て考えているよ」

 

「今日答えた子を、早く専門の訓練へ入れたくなるな」

 

「ラウ君は、まだ覚えたいことが多いそうだよ」

 

 ヴァルトが言った時、教室からラウの声が飛んだ。

 

「先生、片付け終わった」

 

「ありがとうございます。明日の道具も揃っていますか」

 

「揃ってる。課長さん、明日も来るのか?」

 

 マティアスは、返事をする前にヴァルトを見た。

 

 ヴァルトが笑う。

 

「課長は王都のお仕事へ戻ります」

 

「じゃあ、あっちでも止める合図をやれよ」

 

「覚えておこう」

 

 ラウがうなずいて戸を閉めると、マティアスは紙の余白へその言葉を書いた。

 

 

 

 夕方の談話室には、西日が長く差していた。

 

 茶を置いた店員が出ていくと、教室の片付けの音も遠くなる。

 

 マティアスは工房と教室で書いた紙を重ね、ヴァルトを見た。

 

「子爵が境界課長を解かれても、仕事は一つも消えなかった」

 

「そうだろうな。何年も、一人で片付ける前提だったから」

 

 ラウル・ベッカー子爵は、難しい仕事を任せる時には能力を認めた。

 

 昇進の話になれば、その同じ能力を十分とは扱わなかった。

 

 貴族の権限に守られた評価は、仕事の成果を示しても変わらなかった。

 

「北門結界の点検、地下収納庫の封印、古代転移陣の解析。難しい仕事が来るたび、我々は君を頼っていた」

 

 マティアスは、口にした仕事を指で数えた。

 

「君が去ると、次へ進めるための判断が止まった。点検の結果を誰が確かめるのか、封印の記録の食い違いを誰が調べるのか。そこから決め直すことになった」

 

「古代転移陣もか」

 

「ああ。解析を進めたいのに、手を出してよい範囲を判断できない。安全を確かめる者が足りず、そのまま待つ仕事が増えた」

 

 ヴァルトが茶器を持ち上げ、そのまま置いた。

 

「私は、引継ぎを残したつもりだった」

 

「引継書はあった。だが、読む側が育っていなかった」

 

 マティアスは、空席の周囲へ集まっていった仕事を思い出した。

 

 資料は棚にあり、設備も残っている。

 

 それなのに、見たものを次の判断へつなげられない。

 

「急ぐ仕事を先に回そうとすると、別の仕事が待つ。教える者までその穴へ入れれば、若手はまた待たされる」

 

「課長になってから、同じところを回っていると気付いた」

 

「引継書だけで人は育たないからな」

 

「分かっていたつもりだった。君が片付けている間に、隣で覚える時間を作るべきだったんだ」

 

 マティアスは、ヴァルトの顔を見た。

 

「我々は君の能力を知っていた。その能力を使うことだけ考え、次を育てる時間を奪った」

 

「私も、仕事を渡す相手を育てられなかった。今は、ああならないようにしているよ」

 

「仕事が空いたら教えようとしたが、空かぬな」

 

「君も、同じことをしたのか」

 

「した。空くまで待った分だけ、覚えてもらう仕事が増えた」

 

 ヴァルトが苦笑し、マティアスも息を吐いた。

 

 昔なら、明日の仕事を思って笑えなかった話だった。

 

 今は廊下の向こうで、子どもと店員の声がしている。

 

 ヴァルトは授業の予定を見せた。

 

 覚えた子が説明し、その説明を先生が聞く時間もある。

 

「言葉にしてもらうと、分かったつもりのところが見える。私も教え直す場所が分かるんだ」

 

「今日、君は私が答えるのも待っていたな」

 

「君が何を聞くか、私も知りたかったからね」

 

「見学に来た私まで教材にしたか」

 

「ラウ君が君に質問した時は、私も答えが楽しみだったよ」

 

 マティアスは思わず笑った。

 

 慣れた者も間違える、と子どもへ答えた自分の声を思い出す。

 

「王都では、次の担当者が実際に触れる時間を先に取る。君の席へ一人を座らせて、全部覚えろでは済ませぬ」

 

「そうしてくれ。私の代わりに、また一人で抱える人を作らないでほしい」

 

 マティアスはうなずき、冷めないうちに茶を飲んだ。

 

 

 

 案内を許された研究室には、窓際の机へ木皿が置かれていた。

 

 白い鉱物のかけらが二つ並び、脇には観察道具と記録帳がある。

 

 マティアスは、机へ鞄を置く前にヴァルトへ尋ねた。

 

「国家魔術師だった君が、なぜ行商人になった?」

 

「最初は、目立たず旅をするためだった」

 

 ヴァルトは椅子を寄せた。

 

「私は今は行商人だが、以前のスキルは残っているよ」

 

「境界も結界も使えるのか」

 

「ああ。そのうえで《鑑定》と《収納》まで身につけた」

 

 ヴァルトが空の木皿へ小さな結界を張り、細い木の棒をそっと触れさせた。

 

 棒が止まるのを確かめてから、結界を解く。

 

 マティアスは頬を緩めた。

 

「君らしい確かめ方だ」

 

「失わずに済んで、私もほっとしたよ」

 

 ヴァルトは鉱物のある皿を前へ出した。

 

 マティアスは片方を持ち上げ、窓の光へ向ける。

 

 指先で面の向きを変えると、見え方が違ってくる。

 

「色だけなら、取り違えそうだな。こちらは石英か。もう一つは……」

 

「方解石だ」

 

「その石の違いは、いま何を見て分かった?」

 

「私にしか見えない鑑定結果だ。書き写すから、確かめてくれ」

 

 ヴァルトは記録帳へ材質を書いた。

 

 マティアスからは、彼が何へ目を向けているのか分からない。

 

 見えるのは、紙へ走るペン先だった。

 

 書き終えて渡された帳面を読み、改めて二つの石を並べた。

 

「……これなら、最初の見立てを検証できるな」

 

 結晶面と割れた面を見比べ、観察道具で確かめたところを、手元の鉱物資料と照合する。

 

 ヴァルトも隣から覗き、どこを根拠にしたか尋ねた。

 

 マティアスは説明しながら、昔の研究室でもこうして顔を寄せたことがあったと思い出した。

 

「この二つは普通の方法でも区別できる。本当に助かったのは、何を調べるべきかも分からない時なんだ」

 

「鑑定で出たものを、そのまま答えにするわけではないか」

 

「確かめ方を考える。見えた違いが、何の違いなのかをね」

 

 ヴァルトは石を皿ごと《収納》へ戻した。

 

 次に取り出した皿には、材質を記した札が添えてある。

 

 空だった机の端へ、分類した標本が順に並んだ。

 

「行商では、荷を取り違えると困るからね。仕分けを重ねるうちに、どちらもLv10まで育った」

 

 マティアスは、皿と札の組を確かめた。

 

「研究室では、標本を探すだけで午後が終わることもある」

 

「出した後の記録は、こちらでも要るよ」

 

「それまで消えるわけではないのだな」

 

 ヴァルトは笑って、新しく転記した頁へ印を付けた。

 

 マティアスはその紙を指した。

 

「何を調べるか分からぬ時に助かったと言ったな。例えば?」

 

「魔石の研究にも関わる話だ」

 

 ヴァルトは鉱物の皿を片付け、普通の魔石を一つ取り出した。

 

 

 

 机を片付けると、ヴァルトは魔石の隣へ模式図を広げた。

 

 マティアスは紙を押さえようとして、手を止めた。

 

「これは見せてもらってよいのか」

 

「ああ。商会側に確認した一般原理の範囲だ」

 

 うなずいてから、マティアスは図を自分の方へ寄せた。

 

「魔石が足りなければ、飛行船の計画も止まるだろうな」

 

「必要な量や供給の結論は、まだ出ていないのだろう。研究では量だけでなく状態も重要なんだ」

 

 結晶に固定された魔素と、固定されずに存在する遊離魔素。

 

 マティアスは二つの記載を読み、魔石を持ち上げた。

 

「固定されたものと、そうでないものでは違う、と?」

 

「そうだ。遊離魔素は結晶内部に存在する場合もある」

 

「内部にも?」

 

 マティアスは椅子を寄せ、図へ顔を近づけた。

 

「では、結晶の中と外を分けて測ったつもりでも、固定と遊離を分けたことにはならぬのか」

 

「そこが違う。仲間と調べていて、重要なのは場所ではなく、固定されているかどうかだと分かったんだ」

 

「同じ石に、状態の異なる魔素がある。しかも、見た目で分けられるわけではない……」

 

 マティアスは手元の石を置き、すぐまた持った。

 

 量を増やす話をする前に、今あるものの見方が変わってしまった。

 

「どうやって確かめた?」

 

「《鑑定》の記録から検証した。ただ、具体的な方法は商会の技術だから、ここでは話せない」

 

「ああ、そうだった。では、観察した時の条件は――いや、それも方法に入るな」

 

 続けて尋ねかけた自分に気付き、マティアスは口を閉じた。

 

 ヴァルトが笑う。

 

「昔も、気になると質問が止まらなかったな」

 

「君が先に面白いものを見せたんだ」

 

「質問はしてくれていい。答えられる範囲は、その都度伝えるよ」

 

 マティアスは石を皿へ戻した。

 

 ヴァルトも、図の端を押さえたまま身を寄せている。

 

「《鑑定》を得て、研究が変わったのか」

 

「鑑定がなければ何もはじまらなかったよ」

 

 ヴァルトは、先ほど転記した鉱物の頁を指した。

 

「何が同じで、何が違うか。その手掛かりがあれば、皆で確かめ方を考えられる」

 

「答えを教えてもらったのではなく、問いを見つけたわけか」

 

「私一人では、見つけた違いを確かめ切れなかった。違うことのできる仲間がいたから進められたんだ」

 

 廊下を台車が通り、車輪の音が遠ざかった。

 

 マティアスは図から顔を上げた。

 

「王都で若手に魔石を渡す時、まず何を観察したか聞いてみよう。私が知っている分類を、先に答えとして渡してしまわぬように」

 

「それなら、私も授業で聞いてみたいな」

 

「君の子どもたちに先を越されそうだ」

 

「そうなったら、何を見たか一緒に聞こう」

 

 マティアスは笑い、持ち帰る質問を一つだけ書いた。

 

 位置と状態を、どう区別して観察するか。

 

 製法を手に入れたわけではないのに、帰って確かめたいことができた。

 

 ヴァルトが図を片付ける時、下の階から夕食の客を迎える声が聞こえてきた。

 

 

 

 地下へ下りる階段の途中で、弦の音が聞こえた。

 

 マティアスは足を緩め、灯のついた地下1階を覗いた。

 

 フードコートには料理の湯気が漂い、店員が空いた皿を重ねている。

 

 その向こうで、三毛のケット・シーが手琴を抱えていた。

 

「……地下まで食堂なのか。あれはケット・シーか?」

 

「レイニャさんだ。ここで歌うこともあるんだよ」

 

 レイニャは耳をこちらへ向け、ヴァルトに気付くと片手を上げた。

 

 通路を塞がない席で、店の者へ声を掛けてから弦を確かめ直す。

 

「今日は旅の歌にするニャ」

 

 マティアスは、琥珀色の目が笑うのを見た。

 

 手琴を抱える腕にも三毛の斑があり、長い尾が椅子の横で揺れている。

 

「先生、課長さんも一緒に食うのか?」

 

 ラウが席を空けた。

 

 授業の時に先に立った少年が、今は空いた椅子を指している。

 

「そうさせてもらおう」

 

 マティアスが座ると、ベスが年少児の料理を置き、トマが通路に出た足を引っ込めるよう声を掛けた。

 

 リオとメルも一緒に席へ着き、昼に学んだ合図の話をしている。

 

 22人が料理を受け取る間、ヴァルトは熱い皿へ手を出しかけた子に声を掛けた。

 

「食べながら聞いてほしいニャ」

 

 レイニャの声に、キリが匙を持ったまま顔を上げた。

 

 手琴の音が重なり、歌が始まる。

 

 風を受けて歩く道、知らない町で灯を見つける旅の歌だった。

 

 小さな足で拍を取る子も、料理を口へ運びながら耳を向ける子もいる。

 

 キリはパンをちぎり、皿に落ちたかけらを拾って食べた。

 

 残りは膝へ隠さず、皿の端へ置く。

 

 マティアスは、自分の料理が冷めるまで見てしまう前に、匙を取った。

 

 隣でラウが尋ねる。

 

「課長さん、旅したことあるか?」

 

「ある。今日も馬車で来た」

 

「そっちは仕事だろ」

 

 マティアスは答えに詰まり、ヴァルトが小さく笑った。

 

「帰りに思い出すものができれば、旅にもなりますよ」

 

 ラウはそれなら、と言って歌へ向き直った。

 

 レイニャの指が最後の弦を鳴らすと、拍手が広がった。

 

 彼女は耳を少し倒して礼をし、子どもたちの声へ笑って返す。

 

 マティアスは拍手を終え、ヴァルトへ顔を向けた。

 

「……正直に言えば、戻ってきてほしい」

 

 ヴァルトの匙が止まった。

 

「……そう言ってもらえるのは、うれしいよ」

 

「だが、この環境を見てしまったらな。無理だろうな」

 

 自分で言って、マティアスは苦笑した。

 

 教室の22人は、今も隣で同じ食卓を囲んでいる。

 

 ヴァルトが去れば空く席を、王都にいる頃には見ずに済んでいた。

 

「ああ。今の仕事が気に入っているんだ」

 

「王都にいた頃とは、随分違うものだな」

 

「一歩踏み出したことで、今まで見えなかったものが見える世界に変わったんだ」

 

 ヴァルトは、子どもたちの方を見てから言った。

 

「君も商人になったらいい」

 

「……店を開けというのか?」

 

「いや、ジョブの話だよ」

 

 マティアスは、ようやく笑い声を出した。

 

「境界課の店番は、務まりそうにない」

 

「司祭の儀式は必要だし、私と同じ技能を得られるとも限らない。官職の扱いも、別に確かめないとね」

 

「ずいぶん条件の付く勧誘だな」

 

「君が選ぶことだからね。課長を辞めろと言うつもりはないよ」

 

 マティアスはうなずき、残った料理を食べた。

 

 転職を決めたわけではないが、王都へ戻ってから思い出す言葉がまた増えた。

 

「明日は馬車か。今夜は宿で、質問を整理しておこう」

 

「馬車はキャンセルしたまえ。明日、送っていこう」

 

 唐突な提案に、マティアスは匙を置いた。

 

「……今、何と言った?」

 

「私が《転移》で送るよ。宿泊はそのままで、朝に迎えに行く」

 

 ヴァルトは事もなげに答えた。

 

 マティアスが了承すると、馬車を手配した現地の担当者へ伝えるため、席を立つ。

 

 食事の後、二人は担当者に会い、帰任の馬車の取消しを確かめた。

 

 マティアスは宿へ戻る途中でも、キャンセルしたまえ、と言ったヴァルトの声を思い出していた。

 

 

 

 翌朝、領都の石畳にはまだ冷えが残っていた。

 

 マティアスが宿を出ると、ヴァルトが待っている。

 

 鞄を持ち上げ、昨夜まとめた紙が入っていることを確かめた。

 

「忘れ物はないか。気分の悪いところは?」

 

「ない。馬車で座り続ける支度ばかりしてきたがな」

 

 ヴァルトが笑い、人の行き来を妨げない場所へ案内した。

 

「王都は以前訪れているから、その手前へ移れる。城門へは、着いてから歩いてくれ」

 

「門の中へ出るわけではないのだな」

 

「ああ。人の集まる場所は避ける」

 

 マティアスは鞄の取っ手を握り直した。

 

 ヴァルトが同行を確かめ、《転移》を使う。

 

 踏んでいた石畳が消え、靴底へ土の感触が来た。

 

 顔へ当たる風も変わる。

 

 見上げると、街道の先に見慣れた王都の城壁があった。

 

「……もう王都なのか?」

 

「ああ。城門はあちらだ。荷物は忘れないでくれよ」

 

 マティアスは、手に持っている鞄を見た。

 

 遠くを馬車が進み、街道脇の草が風に揺れる。

 

 車輪の音を何日も聞くはずだった帰路が、足の裏の感触一つで終わっていた。

 

「君はいつから、これを当然のようにするようになった?」

 

 ヴァルトは少し考え、それから苦笑した。

 

「……私も真壁さんのやり方が染みついてきたようだ」

 

「昨夜、あれほど簡単に馬車を取り消せと言ったのもか」

 

 ヴァルトは口元へ手を当てた。

 

 マティアスが笑うと、彼も手を下ろして笑った。

 

「王都では信じてもらえそうにないな」

 

「見学したことと、自分で確かめたことを話してくれ」

 

 マティアスは鞄の中を開き、持ち帰る紙を確かめた。

 

 教育交流について相談する項目と、公開された一般原理への質問がある。

 

 工房の製法も、研究の非公開の手順も持ってはいない。

 

 それでも、王都で始めたい仕事は来る前よりはっきりしていた。

 

「オットーには、先に授業の話をしよう。子どもに聞かれたことも」

 

「若手の交流は、正式な文書で相談してくれ。私も皆に話しておく」

 

「ああ。こちらから、そちらの授業を邪魔せぬようにする」

 

 城門へ続く道へ向き直ると、朝の人々が少しずつ列を作り始めていた。

 

 ここからなら、一人で戻れる。

 

 マティアスは鞄を閉じ、ヴァルトへ顔を戻した。

 

「また会おう」

 

 ヴァルトがうなずいた。

 

「ではな」

 

 短い声が残り、ヴァルトの姿が消えた。

 

 マティアスは、誰もいなくなった場所をしばらく見つめていた。

 

 やがて小さく笑い、鞄を持ち直して城門へ向かった。

 

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