王立魔術院の会議室へ、湿り気を含んだ春の風が入っていた。
マティアスは窓を少し閉め、卓に広げた飛行船の公開図を押さえた。
向かいのオットーは、王宮から届いた通知を読み終えたところだった。
「一隻は保留でも、学ぶことまで保留にする必要はないでしょう」
記録係が、船の図と院内の教育計画を別々に置いた。
専用船も魔石の優先供給も、まだ認められてはいない。
船を手に入れなければ始められないことばかり考えていた自分に、マティアスは少し腹が立った。
「何を知りたいか、先に分けねばならんな」
「公開してよい設備と、向こうが教えると認めた範囲だけです」
オットーは、教育計画の実習時間を指した。
「教師がいて、道具があっても、毎日続くとは限りません。誰が教え、誰が安全を見ているか。そこを見てきていただきたい」
窓の下を、教材を抱えた学生たちが通った。
傷んだ箱を持ち直すために、一人が立ち止まる。
隣の学生が底を支え、二人で運び直した。
「私は境界の研究者としてではなく、いま人を教えている者の仕事を見に行きたい」
「ヴァルト殿にも会うことになります」
マティアスの手が、公開図の端で止まった。
以前会った時、戻れとは言わないと伝えた。
その後も、境界課で行き詰まるたびに、あの人がいればと思ったことはある。
それを訪問の理由にしてはならなかった。
「承知している。昔の仕事を押し付けに行くわけではない」
オットーがうなずき、見学の目的を書き直した。
教室の運営、安全に止める手順、許可された一般原理についての質疑。
マティアスはそこへ、若手が学ぶ機会について相談する、と加えた。
「こちらから人を送り込むと決めるのも、まだ早いな」
「まずは相談です。教える側の時間も要りますから」
記録係が紙を受け取り、決裁へ回す束に揃えた。
派遣が院内の正規の手続きを経て承認されてから、侯爵家へ受入れを依頼する文書が送られた。
返事を待つ間にも、実習棟から授業の合図は聞こえてきた。
オットーは王都に残り、マティアスが現地を見ることになった。
侯爵家からの返書には、商館と工房、それにヴァルト本人が了承した見学範囲が記されていた。
マティアスは封を開いたまま、最後まで読み直した。
翌日の授業の打合せを終え、留守中の仕事を担当者と確かめてから、旅の支度を始める。
王都を出た馬車は、何日も街道を進んだ。
窓から畑を見るたび、持参する質問のうち、本当に聞きたいものを選び直していた。
領都に着いた馬車を降りると、焼けたパンの匂いがした。
荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越え、軒先で店員が客へ声を掛けている。
マティアスは外套を直し、侯爵家の案内役が示す先を見た。
そこで、足が止まった。
窓が幾列も並ぶ建物の前を、買物客が普通に出入りしている。
隣にも、同じように高い建物があった。
視線を上げるにつれ、旅で固くなった首の後ろが痛んだ。
「……あれが共同商館か」
「ああ。こちらが共同商館、隣がセルマさんの工房だ」
声の方を振り向くと、ヴァルトが歩いてきた。
マティアスは挨拶をする前に、隣の建物をもう一度見た。
「隣も同じような建物ではないか。あれが工房?」
「薬を作るほかに、人を育てる場所でもあるんだ」
ヴァルトは笑ってから、一礼した。
「久しぶりだな、マティアス。元気そうで何よりだ」
「君もな。……しかし、ここは一体どうなっているんだ?」
「君も、まず上を見るんだな」
王都にも王宮や大きな貴族邸、魔術院の塔はある。
しかし、塔を見上げたまま薬の値を尋ねる客はいない。
こちらでは、今も客が扉を押し、空の籠を下げた職人が隣の搬入口へ向かっている。
「地上は5階だ。地下も2階ある」
「こちらがか」
「両方だよ」
マティアスは、数え直すように両棟の窓を見た。
「王都の魔術院ですら、教室の増築は簡単に通らんというのに……」
案内役は驚きを遮らず、通行する荷車が過ぎるのを待った。
「お入りになる時はこちらを。搬入の口は別になります」
ヴァルトも道の端へ寄り、マティアスを客用の入口へ導いた。
入り口では、案内の者と今日の見学先を短く確認する。
マティアスが見せた訪問の文書は、読まれてから丁寧に返された。
「店と住居、研究する場所は、通路を分けているんだ。お客様が迷って入ると困るからね」
そう説明するヴァルトの横を、客が品物を包んでもらいながら通った。
売場の向こうには荷を上へ運ぶ設備があり、台車を押す者が順番を待っている。
「あれで上階へ?」
「そうだ。荷も人も、階段だけでは大変だからね」
マティアスは返事をしながら、運ぶ者の手が荷を抱え直さずに済んでいるのを見た。
建物の高さを使うための仕事が、入口から始まっている。
「セルマさんが、昼前なら案内できるそうだ。先に工房へ行こうか」
「ぜひ頼む。あの大きさで、どう教えているのか見たい」
ヴァルトが笑った。
王都で難しい問い合わせを受けた時より、ずっと柔らかな顔だった。
セルマ工房へ入ると、乾いた薬草の匂いに、洗った瓶の水気が混じっていた。
セルマは仕事着のまま迎え、見学できる区画を示した。
「こちらから見てください。手元に近づく時は、声を掛けてね」
マティアスはうなずき、ヴァルトの隣に立った。
作業台では、弟子が秤から手を離し、もう一人へ記録を渡している。
受け取った弟子は紙だけを見ず、容器の印と量を確かめた。
「ここで働く者は、皆、製法を知っているのか」
「仕事によります。分かるところまで教えて、危ない工程はまだ任せません」
セルマが答えた時、弟子の一人が手を上げた。
「こちらの量を、もう一度見ていただけますか」
「次へは進めていないね?」
「はい。止めています」
セルマは容器を確かめ、弟子に最初から量を読み直させた。
間違った数字を消す前に、どこで違いが出たかを記している。
マティアスは見ようと少し身を寄せた。
セルマの手が、作業台の手前を示す。
「そこまででお願いします」
「失礼した」
離れると、弟子は慌てることなく確認を続けた。
「一人にしか分からぬ工程は?」
「残っていれば、そこを直しているところよ。私が休んだだけで止まる工房にはしたくないからね」
「私も、その考えには随分助けられています」
ヴァルトが言うと、セルマは彼の方を見た。
「先生も、休んだ時の授業を考えておいてね」
「はい。それは今も考えています」
マティアスは、二人のやり取りを聞いて口元を緩めた。
誰かに任せる話をすると、その人が何もしなくなるように受け取る者もいた。
ここでは、明日休む人間の仕事を、今日から考えている。
瓶を乾かす棚と、確認を待つ品を置く場所は分かれていた。
弟子が台車を押してきても、調合の手元を横切らずに済む。
「教える時間も、この中で取るのか」
「ええ。上にも勉強する場所があります。作る前に分かってほしいこともあるから」
セルマが移動の設備へ二人を案内した。
エレベーターの扉が開き、弟子が教材を抱えて先に降りてくる。
マティアスは箱の床を見てから、そっと乗った。
動き始めると、指が外套の端をつかんだ。
「地下も使うのか」
「2階分あります。ただ、今日ご案内するのはこちらまでです」
セルマの答えに、マティアスはうなずいた。
上階で見せられたのは、教材と、弟子が使った練習の記録だった。
窓の外には、共同商館の窓が同じ高さに見えている。
マティアスは持参した紙へ、確認できる者を育てる時間、と書いた。
建物の寸法を書き留めるつもりだった頁が、先にその言葉で埋まった。
午後、共同商館2階の教室へ入ると、22人の視線が集まった。
石板を拭いていた子が手を止め、前の席にいたラウが立ち上がる。
「先生、誰だ?」
「以前、魔術院で一緒に働いていたマティアス課長です。境界魔術の専門家ですよ」
ラウはマティアスの顔を見てから、ヴァルトへ目を戻した。
「先生の、前のところの人か」
「はい。今日は授業を見ていただきます」
マティアスが会釈すると、ベスが後ろの机を少し動かした。
通路を空けてから、椅子を示す。
「ここなら見えると思います」
「ありがとう」
腰を下ろすと、窓から下を行く客の声が聞こえた。
子どもたちは机の上を片付け、隣との間隔を確かめている。
ヴァルトは前へ立ち、両手を見せた。
「今日は、魔力を動かす時の止め方から始めます。まだ流れが分かりにくい人も、合図と距離は一緒に確かめてください」
トマが、横の子へ椅子を引くよう声を掛けた。
リオとメルも隣の子と向き合い、互いの手がぶつからない位置を探している。
「なぜ術を止める手順から学ぶ?」
マティアスが尋ねると、ラウが振り向いた。
「失敗しても、こいつらを巻き込まないためだ」
「変な音がしたら、すぐ知らせるんだろ」
トマが続ける。
「小さい子を近づけないのも、先に決めています」
ベスは答えながら、隣の席を見た。
マティアスは、椅子を寄せてきた意味をそこで理解した。
「マティアス、君も一つ質問を出してみないか」
ヴァルトが言うと、ラウの目が少し細くなった。
マティアスは立たず、座ったまま尋ねた。
「では、隣の者が変だと気付いた。術を使っている本人は、気付いていない。誰が知らせる?」
「俺だ」
ラウがすぐ答え、トマも口を開いた。
「俺が先に聞こえたら、俺が言う」
「二人とも気付いたら?」
ラウは考え、トマの方を見た。
「先に気付いたやつが言えばいい」
「言ってないと思ったら?」
「……俺も言う」
後ろの席から、小さな声がした。
キリが筆記具を持ったまま、マティアスを見ている。
「それでよい。声が届いたか分からぬ時に、誰かが言ったはずと黙る必要はない」
キリはうなずき、石板へ短く書いた。
ラウも前へ向き直り、止める合図を確かめた。
ヴァルトが練習を始めると、子どもたちは掌へ意識を向け、呼吸を乱さないようにしている。
途中で止める合図が出る。
全員が手を下ろしたところで、トマが隣へ顔を向けた。
「まだやってる?」
「止めた」
「声も出してくださいね」
ヴァルトが言い、二人はもう一度答え直した。
マティアスは手を上げた。
「止めた者のところへ、確認するために寄るか?」
ベスが首を振る。
「先生に知らせて、待ちます」
「なぜ待つ」
「止まったか、私には分からないこともあるから」
マティアスはうなずいた。
次の問いを考えていると、ラウが先に尋ねた。
「課長さんのところでも、間違えるのか?」
「間違える。慣れた者もだ」
「なら、そこでもこれをやるんだな」
「……そうだな。やらねばならん」
マティアスが答えると、ラウはようやく口元を緩めた。
後ろから眺めるつもりだった授業で、マティアスは次の合図まで見届けていた。
ヴァルトが終了を告げた時には、持参した紙に問いと答えがいくつも残っていた。
授業を終えた教室から出ると、廊下の窓に柔らかな光が残っていた。
隣の工房でも、人が教材を持って窓際を通っている。
マティアスは見学の紙を閉じず、ヴァルトへ尋ねた。
「よく学んでいる。どこから集まった子どもたちだ」
「20人は王都から来た。あとの2人は、領内の孤児院から通うリオ君とメルさんだ」
「王都から来たと言ったか。どこの学校だ」
「学校ではないんだ。あの20人は、以前は王都のスラムにいた」
マティアスは開いた紙から顔を上げた。
「……あの子たちが?」
教室の戸はまだ開いている。
ラウが年少の子へ道具を返すように言い、トマが机の下に残った筆記具を拾って渡していた。
先ほど自分へ問い返した顔を、王都の裏路地に思い浮かべようとする。
うまく重ならなかった。
「保護した時、ラウ君が仲間を守る力を欲しいと言ったんだ。そこで魔術を教えることにした」
「魔術師になりたい、ではなかったのか」
「ああ。あの子が守りたかったのは、そばにいた仲間だった」
ヴァルトは子どもたちの方へ目を向けた。
保護することになった時、人身売買につながる危険があったと短く話す。
その後の手続きは、侯爵家と王都の警備隊へ引き継いだという。
マティアスは、誰が何をされたのかとは尋ねなかった。
今、戸の向こうにいる者たちに、同じ話をもう一度させたくはなかった。
「王都にいた我々には、あの子たちの姿が見えていなかったのか」
「今は見てやってくれ。あの子たちは、もう自分で学べる」
ベスが、小さい子の荷を一緒に持って戸口へ出てきた。
キリも石板を抱え、ヴァルトへ顔を上げる。
「明日の授業、あるよね」
「はい。今日の続きです。最初の合図を覚えておいてください」
「うん」
キリは返事をして、他の子の後へ続いた。
マティアスは、小さな足音が遠ざかるのを聞いた。
明日も教わる場所があり、顔を知った先生が来る。
魔術院の教育を考える時、自分はその前提から始めていた。
「皆が魔術へ進むのか」
「読み書きと計算、それに安全の基礎は皆で学ぶ。その先は、本人の希望と得意なことを見て考えているよ」
「今日答えた子を、早く専門の訓練へ入れたくなるな」
「ラウ君は、まだ覚えたいことが多いそうだよ」
ヴァルトが言った時、教室からラウの声が飛んだ。
「先生、片付け終わった」
「ありがとうございます。明日の道具も揃っていますか」
「揃ってる。課長さん、明日も来るのか?」
マティアスは、返事をする前にヴァルトを見た。
ヴァルトが笑う。
「課長は王都のお仕事へ戻ります」
「じゃあ、あっちでも止める合図をやれよ」
「覚えておこう」
ラウがうなずいて戸を閉めると、マティアスは紙の余白へその言葉を書いた。
夕方の談話室には、西日が長く差していた。
茶を置いた店員が出ていくと、教室の片付けの音も遠くなる。
マティアスは工房と教室で書いた紙を重ね、ヴァルトを見た。
「子爵が境界課長を解かれても、仕事は一つも消えなかった」
「そうだろうな。何年も、一人で片付ける前提だったから」
ラウル・ベッカー子爵は、難しい仕事を任せる時には能力を認めた。
昇進の話になれば、その同じ能力を十分とは扱わなかった。
貴族の権限に守られた評価は、仕事の成果を示しても変わらなかった。
「北門結界の点検、地下収納庫の封印、古代転移陣の解析。難しい仕事が来るたび、我々は君を頼っていた」
マティアスは、口にした仕事を指で数えた。
「君が去ると、次へ進めるための判断が止まった。点検の結果を誰が確かめるのか、封印の記録の食い違いを誰が調べるのか。そこから決め直すことになった」
「古代転移陣もか」
「ああ。解析を進めたいのに、手を出してよい範囲を判断できない。安全を確かめる者が足りず、そのまま待つ仕事が増えた」
ヴァルトが茶器を持ち上げ、そのまま置いた。
「私は、引継ぎを残したつもりだった」
「引継書はあった。だが、読む側が育っていなかった」
マティアスは、空席の周囲へ集まっていった仕事を思い出した。
資料は棚にあり、設備も残っている。
それなのに、見たものを次の判断へつなげられない。
「急ぐ仕事を先に回そうとすると、別の仕事が待つ。教える者までその穴へ入れれば、若手はまた待たされる」
「課長になってから、同じところを回っていると気付いた」
「引継書だけで人は育たないからな」
「分かっていたつもりだった。君が片付けている間に、隣で覚える時間を作るべきだったんだ」
マティアスは、ヴァルトの顔を見た。
「我々は君の能力を知っていた。その能力を使うことだけ考え、次を育てる時間を奪った」
「私も、仕事を渡す相手を育てられなかった。今は、ああならないようにしているよ」
「仕事が空いたら教えようとしたが、空かぬな」
「君も、同じことをしたのか」
「した。空くまで待った分だけ、覚えてもらう仕事が増えた」
ヴァルトが苦笑し、マティアスも息を吐いた。
昔なら、明日の仕事を思って笑えなかった話だった。
今は廊下の向こうで、子どもと店員の声がしている。
ヴァルトは授業の予定を見せた。
覚えた子が説明し、その説明を先生が聞く時間もある。
「言葉にしてもらうと、分かったつもりのところが見える。私も教え直す場所が分かるんだ」
「今日、君は私が答えるのも待っていたな」
「君が何を聞くか、私も知りたかったからね」
「見学に来た私まで教材にしたか」
「ラウ君が君に質問した時は、私も答えが楽しみだったよ」
マティアスは思わず笑った。
慣れた者も間違える、と子どもへ答えた自分の声を思い出す。
「王都では、次の担当者が実際に触れる時間を先に取る。君の席へ一人を座らせて、全部覚えろでは済ませぬ」
「そうしてくれ。私の代わりに、また一人で抱える人を作らないでほしい」
マティアスはうなずき、冷めないうちに茶を飲んだ。
案内を許された研究室には、窓際の机へ木皿が置かれていた。
白い鉱物のかけらが二つ並び、脇には観察道具と記録帳がある。
マティアスは、机へ鞄を置く前にヴァルトへ尋ねた。
「国家魔術師だった君が、なぜ行商人になった?」
「最初は、目立たず旅をするためだった」
ヴァルトは椅子を寄せた。
「私は今は行商人だが、以前のスキルは残っているよ」
「境界も結界も使えるのか」
「ああ。そのうえで《鑑定》と《収納》まで身につけた」
ヴァルトが空の木皿へ小さな結界を張り、細い木の棒をそっと触れさせた。
棒が止まるのを確かめてから、結界を解く。
マティアスは頬を緩めた。
「君らしい確かめ方だ」
「失わずに済んで、私もほっとしたよ」
ヴァルトは鉱物のある皿を前へ出した。
マティアスは片方を持ち上げ、窓の光へ向ける。
指先で面の向きを変えると、見え方が違ってくる。
「色だけなら、取り違えそうだな。こちらは石英か。もう一つは……」
「方解石だ」
「その石の違いは、いま何を見て分かった?」
「私にしか見えない鑑定結果だ。書き写すから、確かめてくれ」
ヴァルトは記録帳へ材質を書いた。
マティアスからは、彼が何へ目を向けているのか分からない。
見えるのは、紙へ走るペン先だった。
書き終えて渡された帳面を読み、改めて二つの石を並べた。
「……これなら、最初の見立てを検証できるな」
結晶面と割れた面を見比べ、観察道具で確かめたところを、手元の鉱物資料と照合する。
ヴァルトも隣から覗き、どこを根拠にしたか尋ねた。
マティアスは説明しながら、昔の研究室でもこうして顔を寄せたことがあったと思い出した。
「この二つは普通の方法でも区別できる。本当に助かったのは、何を調べるべきかも分からない時なんだ」
「鑑定で出たものを、そのまま答えにするわけではないか」
「確かめ方を考える。見えた違いが、何の違いなのかをね」
ヴァルトは石を皿ごと《収納》へ戻した。
次に取り出した皿には、材質を記した札が添えてある。
空だった机の端へ、分類した標本が順に並んだ。
「行商では、荷を取り違えると困るからね。仕分けを重ねるうちに、どちらもLv10まで育った」
マティアスは、皿と札の組を確かめた。
「研究室では、標本を探すだけで午後が終わることもある」
「出した後の記録は、こちらでも要るよ」
「それまで消えるわけではないのだな」
ヴァルトは笑って、新しく転記した頁へ印を付けた。
マティアスはその紙を指した。
「何を調べるか分からぬ時に助かったと言ったな。例えば?」
「魔石の研究にも関わる話だ」
ヴァルトは鉱物の皿を片付け、普通の魔石を一つ取り出した。
机を片付けると、ヴァルトは魔石の隣へ模式図を広げた。
マティアスは紙を押さえようとして、手を止めた。
「これは見せてもらってよいのか」
「ああ。商会側に確認した一般原理の範囲だ」
うなずいてから、マティアスは図を自分の方へ寄せた。
「魔石が足りなければ、飛行船の計画も止まるだろうな」
「必要な量や供給の結論は、まだ出ていないのだろう。研究では量だけでなく状態も重要なんだ」
結晶に固定された魔素と、固定されずに存在する遊離魔素。
マティアスは二つの記載を読み、魔石を持ち上げた。
「固定されたものと、そうでないものでは違う、と?」
「そうだ。遊離魔素は結晶内部に存在する場合もある」
「内部にも?」
マティアスは椅子を寄せ、図へ顔を近づけた。
「では、結晶の中と外を分けて測ったつもりでも、固定と遊離を分けたことにはならぬのか」
「そこが違う。仲間と調べていて、重要なのは場所ではなく、固定されているかどうかだと分かったんだ」
「同じ石に、状態の異なる魔素がある。しかも、見た目で分けられるわけではない……」
マティアスは手元の石を置き、すぐまた持った。
量を増やす話をする前に、今あるものの見方が変わってしまった。
「どうやって確かめた?」
「《鑑定》の記録から検証した。ただ、具体的な方法は商会の技術だから、ここでは話せない」
「ああ、そうだった。では、観察した時の条件は――いや、それも方法に入るな」
続けて尋ねかけた自分に気付き、マティアスは口を閉じた。
ヴァルトが笑う。
「昔も、気になると質問が止まらなかったな」
「君が先に面白いものを見せたんだ」
「質問はしてくれていい。答えられる範囲は、その都度伝えるよ」
マティアスは石を皿へ戻した。
ヴァルトも、図の端を押さえたまま身を寄せている。
「《鑑定》を得て、研究が変わったのか」
「鑑定がなければ何もはじまらなかったよ」
ヴァルトは、先ほど転記した鉱物の頁を指した。
「何が同じで、何が違うか。その手掛かりがあれば、皆で確かめ方を考えられる」
「答えを教えてもらったのではなく、問いを見つけたわけか」
「私一人では、見つけた違いを確かめ切れなかった。違うことのできる仲間がいたから進められたんだ」
廊下を台車が通り、車輪の音が遠ざかった。
マティアスは図から顔を上げた。
「王都で若手に魔石を渡す時、まず何を観察したか聞いてみよう。私が知っている分類を、先に答えとして渡してしまわぬように」
「それなら、私も授業で聞いてみたいな」
「君の子どもたちに先を越されそうだ」
「そうなったら、何を見たか一緒に聞こう」
マティアスは笑い、持ち帰る質問を一つだけ書いた。
位置と状態を、どう区別して観察するか。
製法を手に入れたわけではないのに、帰って確かめたいことができた。
ヴァルトが図を片付ける時、下の階から夕食の客を迎える声が聞こえてきた。
地下へ下りる階段の途中で、弦の音が聞こえた。
マティアスは足を緩め、灯のついた地下1階を覗いた。
フードコートには料理の湯気が漂い、店員が空いた皿を重ねている。
その向こうで、三毛のケット・シーが手琴を抱えていた。
「……地下まで食堂なのか。あれはケット・シーか?」
「レイニャさんだ。ここで歌うこともあるんだよ」
レイニャは耳をこちらへ向け、ヴァルトに気付くと片手を上げた。
通路を塞がない席で、店の者へ声を掛けてから弦を確かめ直す。
「今日は旅の歌にするニャ」
マティアスは、琥珀色の目が笑うのを見た。
手琴を抱える腕にも三毛の斑があり、長い尾が椅子の横で揺れている。
「先生、課長さんも一緒に食うのか?」
ラウが席を空けた。
授業の時に先に立った少年が、今は空いた椅子を指している。
「そうさせてもらおう」
マティアスが座ると、ベスが年少児の料理を置き、トマが通路に出た足を引っ込めるよう声を掛けた。
リオとメルも一緒に席へ着き、昼に学んだ合図の話をしている。
22人が料理を受け取る間、ヴァルトは熱い皿へ手を出しかけた子に声を掛けた。
「食べながら聞いてほしいニャ」
レイニャの声に、キリが匙を持ったまま顔を上げた。
手琴の音が重なり、歌が始まる。
風を受けて歩く道、知らない町で灯を見つける旅の歌だった。
小さな足で拍を取る子も、料理を口へ運びながら耳を向ける子もいる。
キリはパンをちぎり、皿に落ちたかけらを拾って食べた。
残りは膝へ隠さず、皿の端へ置く。
マティアスは、自分の料理が冷めるまで見てしまう前に、匙を取った。
隣でラウが尋ねる。
「課長さん、旅したことあるか?」
「ある。今日も馬車で来た」
「そっちは仕事だろ」
マティアスは答えに詰まり、ヴァルトが小さく笑った。
「帰りに思い出すものができれば、旅にもなりますよ」
ラウはそれなら、と言って歌へ向き直った。
レイニャの指が最後の弦を鳴らすと、拍手が広がった。
彼女は耳を少し倒して礼をし、子どもたちの声へ笑って返す。
マティアスは拍手を終え、ヴァルトへ顔を向けた。
「……正直に言えば、戻ってきてほしい」
ヴァルトの匙が止まった。
「……そう言ってもらえるのは、うれしいよ」
「だが、この環境を見てしまったらな。無理だろうな」
自分で言って、マティアスは苦笑した。
教室の22人は、今も隣で同じ食卓を囲んでいる。
ヴァルトが去れば空く席を、王都にいる頃には見ずに済んでいた。
「ああ。今の仕事が気に入っているんだ」
「王都にいた頃とは、随分違うものだな」
「一歩踏み出したことで、今まで見えなかったものが見える世界に変わったんだ」
ヴァルトは、子どもたちの方を見てから言った。
「君も商人になったらいい」
「……店を開けというのか?」
「いや、ジョブの話だよ」
マティアスは、ようやく笑い声を出した。
「境界課の店番は、務まりそうにない」
「司祭の儀式は必要だし、私と同じ技能を得られるとも限らない。官職の扱いも、別に確かめないとね」
「ずいぶん条件の付く勧誘だな」
「君が選ぶことだからね。課長を辞めろと言うつもりはないよ」
マティアスはうなずき、残った料理を食べた。
転職を決めたわけではないが、王都へ戻ってから思い出す言葉がまた増えた。
「明日は馬車か。今夜は宿で、質問を整理しておこう」
「馬車はキャンセルしたまえ。明日、送っていこう」
唐突な提案に、マティアスは匙を置いた。
「……今、何と言った?」
「私が《転移》で送るよ。宿泊はそのままで、朝に迎えに行く」
ヴァルトは事もなげに答えた。
マティアスが了承すると、馬車を手配した現地の担当者へ伝えるため、席を立つ。
食事の後、二人は担当者に会い、帰任の馬車の取消しを確かめた。
マティアスは宿へ戻る途中でも、キャンセルしたまえ、と言ったヴァルトの声を思い出していた。
翌朝、領都の石畳にはまだ冷えが残っていた。
マティアスが宿を出ると、ヴァルトが待っている。
鞄を持ち上げ、昨夜まとめた紙が入っていることを確かめた。
「忘れ物はないか。気分の悪いところは?」
「ない。馬車で座り続ける支度ばかりしてきたがな」
ヴァルトが笑い、人の行き来を妨げない場所へ案内した。
「王都は以前訪れているから、その手前へ移れる。城門へは、着いてから歩いてくれ」
「門の中へ出るわけではないのだな」
「ああ。人の集まる場所は避ける」
マティアスは鞄の取っ手を握り直した。
ヴァルトが同行を確かめ、《転移》を使う。
踏んでいた石畳が消え、靴底へ土の感触が来た。
顔へ当たる風も変わる。
見上げると、街道の先に見慣れた王都の城壁があった。
「……もう王都なのか?」
「ああ。城門はあちらだ。荷物は忘れないでくれよ」
マティアスは、手に持っている鞄を見た。
遠くを馬車が進み、街道脇の草が風に揺れる。
車輪の音を何日も聞くはずだった帰路が、足の裏の感触一つで終わっていた。
「君はいつから、これを当然のようにするようになった?」
ヴァルトは少し考え、それから苦笑した。
「……私も真壁さんのやり方が染みついてきたようだ」
「昨夜、あれほど簡単に馬車を取り消せと言ったのもか」
ヴァルトは口元へ手を当てた。
マティアスが笑うと、彼も手を下ろして笑った。
「王都では信じてもらえそうにないな」
「見学したことと、自分で確かめたことを話してくれ」
マティアスは鞄の中を開き、持ち帰る紙を確かめた。
教育交流について相談する項目と、公開された一般原理への質問がある。
工房の製法も、研究の非公開の手順も持ってはいない。
それでも、王都で始めたい仕事は来る前よりはっきりしていた。
「オットーには、先に授業の話をしよう。子どもに聞かれたことも」
「若手の交流は、正式な文書で相談してくれ。私も皆に話しておく」
「ああ。こちらから、そちらの授業を邪魔せぬようにする」
城門へ続く道へ向き直ると、朝の人々が少しずつ列を作り始めていた。
ここからなら、一人で戻れる。
マティアスは鞄を閉じ、ヴァルトへ顔を戻した。
「また会おう」
ヴァルトがうなずいた。
「ではな」
短い声が残り、ヴァルトの姿が消えた。
マティアスは、誰もいなくなった場所をしばらく見つめていた。
やがて小さく笑い、鞄を持ち直して城門へ向かった。