王立魔術院の門で帰任の手続きを済ませる間、マティアスは鞄の底についた土を払っていた。
朝の街道でついたものだが、門番には長旅の名残に見えたらしい。
道中の無事をねぎらわれ、礼を言って中庭を横切る。
石の縁にたまった昨夜の雨が、春の日差しを返していた。
学生が教材箱を抱えて走りかけ、隣を歩く仲間に袖を引かれる。
箱を持ち直す二人を見ながら、マティアスは教育課の扉を叩いた。
「どうぞ」
オットー・ライヒは、入ってきた者の顔を見て羽根ペンを置いた。
それから机の予定表へ目を落とし、もう一度こちらを見る。
「……お帰りになるのは、まだ何日も先のはずでは?」
「予定より早く戻った。留守中、面倒を掛けたな」
「何か、街道で問題が?」
椅子を立つ動きが速かった。
マティアスは鞄を置き、相手が報告用の紙へ手を伸ばす前に首を振った。
「ヴァルトに送ってもらった。今朝まで侯爵領にいたんだ」
「送った、とは。飛行船ですか?」
「いや、《転移》だ。私一人を連れて、王都の手前までな」
オットーの手が宙で止まった。
窓の外から、教室へ急ぐ学生の声が聞こえる。
「今朝まで、侯爵領に?」
「ああ。ついさっき城門をくぐったところだ」
「それで、もうここに」
「私も、まだ少し可笑しい」
行きは何日も揺られた馬車の旅が、帰りは一息で終わった。
その落差が可笑しくて、今も頬が緩む。
「昔のオスヴァルト殿が、帰りの馬車を取り消すとは……」
「ああ。本人も少し妙な顔をしていたよ」
「ではな」と笑った友人を思い出すと、また少し笑いたくなった。
「今回は、友人として送ってくれた。それを次の出張でも当てにするわけにはいかん」
「ええ。では、まず帰任日を直します」
オットーは予定表を引き寄せた。
「馬車の費用は?」
「取り消した分を、精算の時に分けて出す」
「報告期限も繰り上がりますね」
「帰るのが早いと、そういうことも早くなるのだな」
「戻っていらした方を、予定日まで留守扱いにはできませんから」
届け物を持ってきた事務係が扉口で立ち止まり、帰任の欄を二度見た。
オットーは訂正した予定を渡し、必要な手続きを頼んだ。
人が出ていくと、マティアスは見学の帳面を卓へ置いた。
「それより先に、見てほしいものがある」
工房の設備規模をまとめた頁を越え、教室で取った覚え書きを開く。
許された見学範囲の外については、何も書いていない。
オットーは表紙の目的欄を読んでから、開かれた頁へ顔を寄せた。
「授業中のやり取りですか」
「それと、仕事をしながら教えている様子だ。先日の模型の実習と並べて見たい」
棚の隅には、角を直して使っている教材箱があった。
オットーはその箱へ目をやった。
「境界課の担当者にも、聞いてもらいましょう」
マティアスは帳面を閉じずに持ち上げた。
帰りの旅に使うはずだった今日が、まだほとんど残っていた。
小会議室の棚から木模型を下ろすと、糸が翼の端に引っ掛かった。
オットーが引く手を止め、境界課の年長担当者が絡んだところを外した。
若手が机を空け、模型を置く場所を作る。
「先日の授業に使ったものです」
「もう片付けてしまったかと思っていた」
「また使いますから。糸は、その前に直します」
マティアスは模型の脇へ見学の帳面を置いた。
共同商館とセルマ工房が、どちらも地上5階、地下2階だったと伝える。
年長担当者は、途中まで茶を注いでいた手を止めた。
「二つともですか」
「ああ。だが、驚いたのは大きさだけではない。中で人が働き、毎日教えていた」
工房の見学では、入ってよい範囲を最初にはっきり示された。
作業の手を止めた時には、何を見て止めたのかを、教わる側が答えていた。
マティアスは覚え書きの端を押さえ、瓶へ触れる前に待った手の動きを話した。
「やり直す理由を、教える者だけが知っているのではなかった」
「作業している側にも、尋ねていたのですね」
オットーは自分の実習記録を開いた。
合図札の束が頁に当たり、若手が脇へよける。
「商館の教室には、22人いた。うち20人は、王都のスラムから保護された子どもたちだ」
年長担当者が顔を上げた。
何か聞きかける気配があったが、マティアスは先に授業の話を続けた。
「それぞれ進み方は違っていたよ。できる子に合わせて、全員を先へ進めるのではない」
手の上へ力を集める前に、隣との距離を取る。
間違えた時にどうするかと尋ねると、子どもたちは自分たちの言葉で答えた。
「『課長さんのところでも間違えるのか?』と聞かれた」
マティアスが言うと、若手が口元を押さえた。
「間違えると言ったら、『なら、そこでもこれをやるんだな』と」
「ずいぶん、はっきり言う子ですね」
「ああ。仲間を巻き込みたくないという顔でな」
ラウが隣の子を見た時の目を、マティアスは覚えていた。
声を張ることより、そちらの方が強く残っている。
「飛行船の木模型で、私たちも止める練習は始めましたね」
オットーが実習記録をこちらへ向けた。
若手3人が声と札で異常を伝え、担当同士で止める合図を確かめた授業だ。
マティアスも、その時は模型を囲んでいた。
「ああ。あの授業は必要だった。だからこそ、普段の点検ではどうだろうと思った」
年長担当者は、茶器を卓へ戻した。
「授業でできても、当番中に同じことができるかは別ですね」
「いま、報告はできているか?」
「できます。差があれば、勝手に先へ回さず知らせてくれます」
「その後は?」
「そこから、私たちが見ます」
返答は短かった。
マティアスは点検の勤務表を頼み、模型の授業と混ざらない場所へ広げる。
工房では、仕事が続くすぐ隣で、教わる者が理由を尋ねていた。
こちらの「その後」が、どんな仕事なのかを見たい。
「当番が終わるのを待つより、今の受け渡しを見せてもらおう」
若手が席を立ち、境界課の記録箱を取りに行った。
年長担当者は空になった椅子を見送り、勤務表の自分の名へ指を置いた。
報告がひと区切りつくと、オットーは茶を注ぎ足した。
若手が持ってきた記録箱は、まだ蓋をしたままだ。
見学の帳面を閉じようとしたところで、その若手がためらいがちに尋ねた。
「オスヴァルト殿は、今は商人なのですか?」
「正確には行商人だ。以前の結界も使っていた」
マティアスは茶器を持ち上げ、相手の目が大きく開くのを見た。
「以前の技能が、そのまま?」
「私が見せてもらったものはな。それに《鑑定》と《収納》も使っている」
「研究には、便利でしょうね」
年長担当者まで、帳面の閉じかけた頁を見た。
マティアスは、友人が普通の石を見て、その結果を書き写した時のことを話す。
表示が見えたのはヴァルト本人だけで、こちらは紙へ移された説明を読んだ。
「二つとも、Lv10になったと言っていたよ」
若手は手元の紙に《鑑定》と書いた。
それから、欄外へ「商人」と加える。
「では私も、商人のジョブにすれば……」
「待て。魔術院の人間まで商人に取られたら、ますます人数が足りん!」
年長担当者の指が、丸をつけかけた文字のそばへ下りた。
マティアスは口へ運びかけた茶器をゆっくり戻した。
昨夜と、同じような顔をしている者がいる。
「私も、本人に同じことを勧められたよ。だが、今ここで退職届を書く話ではない」
「課長まで?」
「君も商人になったらいい、とな」
オットーは目を細め、年長担当者の指が置かれた紙を引き寄せた。
「ジョブの変更と官職を辞めることは、別の話でしょう」
「そうだ。私も、店を開くところまで考えかけた」
「では、そこは考えなくてよいのですね」
「次に、どの技能をどう得られるかは考えねばならん」
若手のペン先が止まる。
マティアスは友人が素材を見比べていた手を思い出した。
何を知らないのかを尋ねるたび、ヴァルトは楽しそうに答えた。
その顔を、ジョブの名だけで説明するのは難しかった。
「あいつが何年も使ってきた技能と、行商人になってから積んだ経験だ。君が儀式を受ければ、明日同じことができるとは言えない」
「まず司祭に伺う話ですか」
「ジョブを変えるなら、司祭の儀式が要る。勤務とどう両立するかも、別に確かめる必要があるな」
若手は「商人」の丸を閉じず、横へ小さく疑問符を足した。
年長担当者が、その手元を見て息を吐く。
「少なくとも、今日の当番から人が消えるわけではないか」
「ええ。今日のところは」
オットーが答えると、今度は年長担当者が顔をしかめた。
マティアスは笑ってから、記録箱の蓋を開ける。
「まず、いまいる者の仕事を見よう。そもそも、何人が足りないのかを聞きたい」
若手はジョブのメモを見学の紙の下へ入れ、点検票を取り出した。
昼過ぎの境界課では、入口に置いた箱が次々と空いていった。
運び込まれた票を若手が分け、参照する帳簿を棚から取る。
北門結界の点検簿、地下収納庫の封印記録、その向こうに古代転移陣の解析履歴が並んでいた。
マティアスには見慣れた棚だった。
背表紙の擦れたところまで知っているのに、今日は取り出す手の方へ目が向いた。
「飛行船の仕事まで来たら、魔術師が足りなくなります」
年長担当者は、机にたまった票を持ち上げた。
「船はまだ買うと決まっていない。研究が増えるかどうかも、これからだ」
「ええ。それでも、今の分だけで、この有様です」
「何人足りない?」
担当者は束を机へ戻し、答えを探した。
「一人いれば、その分は助かりますが……」
「その一人に、何をしてもらいたい?」
近くの若手が、転記を終えた票を机へ置いた。
原本と突き合わせた印も、差異を報告した箇所も揃っている。
担当者は受け取り、前の点検簿を開いた。
該当する頁が見つかると、今度は別の冊子へ手を伸ばす。
その間に、別の机からも呼び掛けがあった。
「こちらの照合も、後でお願いします」
「承認前の束へ置いておいてくれ」
声を返しながら、担当者の目は古い頁を追っていた。
転記の机には空きができ、こちらには票が増える。
「記録は集まります。ですが、それを確かめられる魔術師が足りません」
担当者がようやく答えた。
オットーは、空いた机と開きっぱなしの帳簿を交互に見た。
「確認のうち、若手に教えられる部分はないのか?」
「最終判断は任せられません」
すぐに返ってきた声へ、マティアスはうなずいた。
そこを早めろと言うつもりはなかった。
「任せるのはそこじゃない。まず、判断に必要な材料を揃えられるか確かめたい」
担当者は開いた冊子へ目を落とした。
いま探していたのは、値そのものではない。
当時の作業について書かれた頁に指を挟み、もう一冊を引き寄せる。
「それを探すには、どの資料を見るか知らねばなりません」
「君は、どこを見ればよいか知っている」
「長くやっていますから」
「その探し方を、教わった者は?」
担当者は答える前に、近くの若手へ顔を向けた。
若手は報告する票を抱えたまま、その冊子の背表紙を見ていた。
「作業を引き受けてもらう時に、必要なところは説明しています」
「では、どこまで伝わっているか、一緒に見てみよう」
担当者は少し考え、手元の冊子を閉じた。
「研究室なら、いま転記を終えた者がいます」
承認を待つ票は、その後も積み重なっていた。
研究室へ向かう途中、年長担当者が廊下の当番表の前で足を止めた。
「この後も北門の点検票を確認しなければなりません。長くは付き合えませんよ」
「点検当番は動かさない。仕事を増やしに来たわけでもない」
マティアスが答えると、オットーが勤務表を覗いた。
「先日の模型の授業のように、全員を一度に集める必要はありませんね」
「ああ。一人の仕事を見せてもらうだけだ。どこまで覚えているか、まず確かめたい」
「若手にも、終わらせなければならない転記があります」
「その時間も奪わない。今日は、報告の後をどうしているのか見るだけにしよう」
セルマ工房では、セルマが手を止めた弟子に、何を見て止めたのか尋ねていた。
だが、あちらのやり方をそのまま押し付けても、境界課の仕事が滞るだけだ。
担当者は当番表を確かめ、ようやくうなずいた。
「次の確認が始まるまでなら、一緒に見られます」
研究室の扉を開くと、若手が原本と転記票を照合していた。
「そのままでいい。いまの作業を見せてくれるか」
マティアスは邪魔にならない椅子に腰掛けた。
高い窓から入る光が、石床に細長く落ちていた。
若手の机には転記の終わった票と、原本を収めた箱がある。
マティアスが手を差し出すと、若手は二つを並べて渡した。
「ここが、前の票と違っていました」
指が止まった行には、印が添えられている。
知らせた時刻と受け取った担当者も書かれていた。
「違いを見つけて報告した。そこまでは正しい」
「はい。承認前の記録は、次には回していません」
若手は机の内側へ置いた束を示した。
差のある行だけでなく、前後の欄まで丁寧に写されていた。
「いつも、こうして分けているのか?」
「はい。ただ、他の方が運ぶ時にも分かるよう、何か添えた方がよいかと思っています」
「確認待ち、と書いた紙を置こうか。置き場所を知らない者にも伝わる」
オットーが「確認待ち」と書いた札を添えた。
若手は安心したようだが、マティアスにはもう一つ聞きたいことがあった。
「この報告を受けて、その差を判断する人は、ほかに何を知りたいと思う?」
若手は印をつけた行と、隣の古い票を見比べた。
「……値以外も、ですか?」
「そうだ。たとえば」
言いかけて、マティアスは口を閉じた。
答えを言ってしまえば、相手はうなずくだろう。
まだ何を見ているのか、聞けていない。
「君は、この二つのどこを比べた?」
「同じ項目の行です。前と同じかどうかを見て、違うところをお伝えしました」
「前の作業について書かれたものも、見たか?」
「そこは、担当の方が見てくださいます」
年長担当者が作業記録の冊子を若手の前に開いた。
「私は毎回、前の記録と条件を探している」
「ここの作業記録と、点検票を照らし合わせます」
若手は身をかがめ、担当者の指が示す箇所を読んだ。
「こちらも、点検の日付で探すのですか」
「まず日付だ。その後、対象が同じかを見て、測った場所と手順を拾う」
若手は点検票と作業記録を並べ、二つの頁を行き来した。
「その手順が違うと、同じ値として比べられないのでしょうか」
「どう違うかを見なければ、何とも言えない。だから、先に調べている」
「いつも、この冊子を?」
「別の年なら、その年のものを探す」
若手は棚の方を見た。
背表紙の日付を追い、途中で眉を寄せる。
「どれから出せばよいか、私にはまだ分かりません」
自分にできない仕事だと思ったのか、若手は肩を落とした。
「なら、その探し方から一緒に覚えよう。今すぐ結論を出さなくていい」
「差があるとお伝えするだけでは、足りなかったのですか」
「いまの仕事はきちんとできている。次は、資料を探すところまで覚えてみないか」
若手は驚いたように顔を上げた。
「資料は私が出せば早いと思って、必要なところを話すだけでした」
「早いだろうな。君なら、どこにあるかまで覚えている」
マティアス自身にも、そうした覚えはあった。
棚から探させる間に取ってやり、読み終わる前に説明する。
それで一件が片付くと、次の票へ手を伸ばした。
若手がその後、どの冊子へ戻ればよいかまでは尋ねなかった。
「探すところからやるには、時間がかかります」
「最初はな。だから、今日の承認待ちで練習するのはやめよう」
現在の票を元の位置へ戻し、過去の点検簿だけを残す。
「これを参考に、練習用の写しを作りたい。一方の条件欄を空けて、何が要るか考えてもらう」
「実際の票とは、混ざらないようにします」
オットーが紙の上端に、演習用と書いた。
年長担当者は内容を確かめ、今日の確認に使う冊子を抱える。
「当番へ戻ります。終わりに、少しなら顔を出せます」
「頼む。君が普段どこを見るかも、その時に教えてほしい」
担当者が出ていくと、若手は残った点検簿へもう一度目を落とした。
「こちらは、今から見てよいですか」
「自分の作業を終えたら、声を掛けてくれ」
マティアスが答えると、若手は冊子の題名を確かめてから、転記の箱へ手を戻した。
夕方の執務室で、オットーが研修の相談用紙を開いた。
侯爵領で見てきた教え方を、今度は別の者にも見せたい。
マティアスもそのつもりだったが、候補欄にはまだ名前を書けなかった。
当番の引継ぎを終えた年長担当者が、勤務表を横へ置く。
「侯爵領へ一人でも研修に出せればと思いましたが……」
「今は誰かを抜けば、その分の仕事が止まります」
担当者は表の端を持ち、先の日付まで広げた。
代わりを頼めそうな者も、別の持ち場に名があった。
「若手を出すとしても、こちらの準備を誰が引き受けるか、決めねばなりません」
「魔術師が足りないから研修したいのに、足りないから出せないか」
マティアスは空いた候補欄を見た。
侯爵領では、ヴァルトのそばへ子どもたちが集まっていた。
ここから一人を連れていくことさえ、まだできない。
オットーは相談用紙を閉じず、横へよけた。
「向こうにも、教えていただけるかを改めて伺う必要があります。交流の検討は残しましょう」
「ああ」
「では、今日できることは?」
マティアスの目が、自分の机の端へ止まった。
留守中の仕事の上に、古い分類帳が置かれている。
帰任したら着手するつもりで、出発前にまとめた束だった。
「これは、今日使う資料に関わるか?」
担当者は紐の下から添付の紙を引き出し、期限を読んだ。
「いえ。今の参照は、これまでの帳簿でできます。明日に回しても、当番には影響しません」
マティアスも日付を見直す。
すぐ処理すべき点検の束は別にあり、そちらの担当も変わらない。
「古い分類帳は明日に回せる。まず私が、あの若手と過去の記録を比べてみよう」
紐を結び直し、束を机の奥へ移した。
オットーは演習用の写しを揃えた。
「本人の転記が済めば、今日のうちに試せますね」
「研究室でやろう。自分で探させる時間も取れる」
担当者は当番表を畳まず、もう一度残りの仕事を指で追った。
「私も、最後の説明に加われます」
「無理に早く片付けなくていい。こちらで始めておく」
マティアスは翌週の予定を引き寄せた。
同じように時間を作れそうな欄へ、まず仮の印を置く。
オットーと当番の重なりを確かめ、今日の演習を終えてから枠を決めることにした。
「人数が足りないことは変わりませんが」
「分かっている。だから、君が一人で抱えている仕事を少しずつ教えていきたい」
「……まずは資料探しから、ですね」
「ああ。最終判断はこれまでどおり熟練者が行う。そこは変えん」
マティアスは笑い、写しの混ざっていない現在の点検票を担当者へ渡した。
それぞれの仕事を持って、三人は部屋を出た。
研究室の窓際に、机を一つ空けてもらった。
若手は自分の転記を終え、箱を所定の位置へ戻してから来た。
マティアスは椅子を勧め、過去の北門結界の点検を基にした写しを二組置く。
上端の「演習用」の文字を示し、現在の票ではないと伝えた。
「ここからは、練習だ。実際の結界には何もしない」
若手は両方の紙を手元へ寄せた。
「この二つは値が違う。結界に異常があると言えるか?」
若手は先ほどと同じように行を追い、違うところを丸で囲んだ。
そこまでは手が迷わない。
「違いは報告します。でも、これだけでは異常とは言えません」
「なぜそう思う?」
「……担当の方に見ていただかないと」
「そうだな。では、その方へ、何を見てほしいと頼もうか」
若手のペンが止まった。
オットーも口を挟まず、答えを待った。
若手は値を囲んだ丸へ目を戻し、それから上の欄を読んだ。
「点検した対象は、同じです」
「ああ」
「日付は違います。前の点検と比べていますから」
指がその下へ動く。
マティアスは助け舟を出しかけ、思いとどまった。
侯爵領の教室で、ヴァルトもこうして子どもたちの言葉を待っていた。
若手は一方を読み直し、もう一方の紙を重ねてずらした。
「こちらには、測定の方法が書かれていません。前回と同じ条件で測ったのか確かめたいです」
「そのためには?」
「前回の作業記録を探します。それでも分からなければ、担当者へ確認をお願いします」
答えた後で、若手は眉を寄せた。
「前回の分だけでは、足りませんね」
マティアスは、続く言葉を待った。
「こちらの作業についても、同じ方法で測ったと分かるものが要ります」
「値が違うことと、測り方が同じだったことは、別ですから」
「よし。結論を急がず、何が足りないかを説明できたな」
若手はようやく肩の力を抜いた。
「この空欄は、私が練習のために作った。元の票に不備があったわけではない」
「はい。何を調べるか、ここに書いてよいですか」
「書いてみてくれ」
比較表へ「不足:測定条件の記録」と入れる。
確認先には前回の作業記録を書き、今回に当たる作業の記録も加えた。
マティアスは過去の帳簿を若手の手が届く位置へ寄せた。
「では、この練習に使った資料なら、どこから探す?」
若手は背表紙を見て、日付を確かめる。
すぐには開かず、点検票へ目を戻して、対象の名も見直した。
「まず、こちらの時期からです」
最初に開いた頁には、探している作業がなかった。
若手がマティアスの方を見かけ、途中で目を戻す。
目次に指を沿わせ、該当するところへ進んだ。
今度は添え書きまで読み、写しの横へ帳簿を置く。
「ありました。ただ、この欄だけではなく、その前の説明も読みたいです」
答えを教わる前に、若手は自分から次の頁を求めた。
マティアスは笑みを浮かべた。
「どこが気になった?」
「手順を参照するよう書かれています。その手順が、比べる方と同じかを見ないと」
オットーのペン先が一度止まり、それからまた動いた。
マティアスは頁を押さえ、読み進める場所を若手に任せる。
紙をめくる音が、さっきよりゆっくりになっていた。
年長担当者が戻ったのは、若手が確認先を書き足している時だった。
立ったまま比較表へ目を通し、途中から椅子を引き寄せる。
「その比較が添えてあれば、私も判断に入りやすい」
若手が顔を上げた。
「このように探して、足りないところをお伝えすればよいですか」
「そうだ。ただ、見つからない時は探し続けず、声を掛けてくれ」
担当者は帳簿の参照箇所を示し、題名と頁を一緒に添えると戻りやすい、と教えた。
若手は教わった位置を確かめ、自分の言葉で書き足す。
「最終的に問題がないかを決めるのは、私たちがやる。まずは指示した範囲で、こうして資料を揃える練習からだ」
「はい」
「助かる」
担当者は短く言って、手元の帳簿を閉じた。
若手は書き込んだ比較表を読み返してから、ペンを置いた。
オットーが今日の演習に使った紙を揃え、もう一度使えるよう別の封筒へ収めた。
「次は、資料を探すところから始められますね」
「今日より早くできるでしょうか」
若手の問いに、年長担当者が笑った。
「まず、どれを探したか私にも分かるようにしてくれ。速さは、その後でいい」
若手も笑い、開いていた帳簿の参照箇所へ紙を挟んだ。
窓の外で、日暮れ前の風が木の葉を返していた。
マティアスは翌週の勤務表を広げ、オットーと担当者に当番の重なりがないことを確かめてもらう。
仮につけていた印の横へ、指導の時間と自分の名を書いた。
若手は席を立つ前に、演習の比較表を持ち上げる。
「これを、次も持ってきます」
「ああ。待っている」
戸口まで行った若手が、棚の前で足を止めた。
さっき自分で探した帳簿を正しい位置へ戻し、背表紙を一度、指でなぞる。
マティアスはそれを見送りながら、ラウの声を思い出していた。
なら、そこでもこれをやるんだな。
風でめくれかけた勤務表を、マティアスは手のひらでそっと押さえた。