押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第416話 魔術師が足りなくなりました

 王立魔術院の門で帰任の手続きを済ませる間、マティアスは鞄の底についた土を払っていた。

 

 朝の街道でついたものだが、門番には長旅の名残に見えたらしい。

 

 道中の無事をねぎらわれ、礼を言って中庭を横切る。

 

 石の縁にたまった昨夜の雨が、春の日差しを返していた。

 

 学生が教材箱を抱えて走りかけ、隣を歩く仲間に袖を引かれる。

 

 箱を持ち直す二人を見ながら、マティアスは教育課の扉を叩いた。

 

「どうぞ」

 

 オットー・ライヒは、入ってきた者の顔を見て羽根ペンを置いた。

 

 それから机の予定表へ目を落とし、もう一度こちらを見る。

 

「……お帰りになるのは、まだ何日も先のはずでは?」

 

「予定より早く戻った。留守中、面倒を掛けたな」

 

「何か、街道で問題が?」

 

 椅子を立つ動きが速かった。

 

 マティアスは鞄を置き、相手が報告用の紙へ手を伸ばす前に首を振った。

 

「ヴァルトに送ってもらった。今朝まで侯爵領にいたんだ」

 

「送った、とは。飛行船ですか?」

 

「いや、《転移》だ。私一人を連れて、王都の手前までな」

 

 オットーの手が宙で止まった。

 

 窓の外から、教室へ急ぐ学生の声が聞こえる。

 

「今朝まで、侯爵領に?」

 

「ああ。ついさっき城門をくぐったところだ」

 

「それで、もうここに」

 

「私も、まだ少し可笑しい」

 

 行きは何日も揺られた馬車の旅が、帰りは一息で終わった。

 

 その落差が可笑しくて、今も頬が緩む。

 

「昔のオスヴァルト殿が、帰りの馬車を取り消すとは……」

 

「ああ。本人も少し妙な顔をしていたよ」

 

 「ではな」と笑った友人を思い出すと、また少し笑いたくなった。

 

「今回は、友人として送ってくれた。それを次の出張でも当てにするわけにはいかん」

 

「ええ。では、まず帰任日を直します」

 

 オットーは予定表を引き寄せた。

 

「馬車の費用は?」

 

「取り消した分を、精算の時に分けて出す」

 

「報告期限も繰り上がりますね」

 

「帰るのが早いと、そういうことも早くなるのだな」

 

「戻っていらした方を、予定日まで留守扱いにはできませんから」

 

 届け物を持ってきた事務係が扉口で立ち止まり、帰任の欄を二度見た。

 

 オットーは訂正した予定を渡し、必要な手続きを頼んだ。

 

 人が出ていくと、マティアスは見学の帳面を卓へ置いた。

 

「それより先に、見てほしいものがある」

 

 工房の設備規模をまとめた頁を越え、教室で取った覚え書きを開く。

 

 許された見学範囲の外については、何も書いていない。

 

 オットーは表紙の目的欄を読んでから、開かれた頁へ顔を寄せた。

 

「授業中のやり取りですか」

 

「それと、仕事をしながら教えている様子だ。先日の模型の実習と並べて見たい」

 

 棚の隅には、角を直して使っている教材箱があった。

 

 オットーはその箱へ目をやった。

 

「境界課の担当者にも、聞いてもらいましょう」

 

 マティアスは帳面を閉じずに持ち上げた。

 

 帰りの旅に使うはずだった今日が、まだほとんど残っていた。

 

 

 

 小会議室の棚から木模型を下ろすと、糸が翼の端に引っ掛かった。

 

 オットーが引く手を止め、境界課の年長担当者が絡んだところを外した。

 

 若手が机を空け、模型を置く場所を作る。

 

「先日の授業に使ったものです」

 

「もう片付けてしまったかと思っていた」

 

「また使いますから。糸は、その前に直します」

 

 マティアスは模型の脇へ見学の帳面を置いた。

 

 共同商館とセルマ工房が、どちらも地上5階、地下2階だったと伝える。

 

 年長担当者は、途中まで茶を注いでいた手を止めた。

 

「二つともですか」

 

「ああ。だが、驚いたのは大きさだけではない。中で人が働き、毎日教えていた」

 

 工房の見学では、入ってよい範囲を最初にはっきり示された。

 

 作業の手を止めた時には、何を見て止めたのかを、教わる側が答えていた。

 

 マティアスは覚え書きの端を押さえ、瓶へ触れる前に待った手の動きを話した。

 

「やり直す理由を、教える者だけが知っているのではなかった」

 

「作業している側にも、尋ねていたのですね」

 

 オットーは自分の実習記録を開いた。

 

 合図札の束が頁に当たり、若手が脇へよける。

 

「商館の教室には、22人いた。うち20人は、王都のスラムから保護された子どもたちだ」

 

 年長担当者が顔を上げた。

 

 何か聞きかける気配があったが、マティアスは先に授業の話を続けた。

 

「それぞれ進み方は違っていたよ。できる子に合わせて、全員を先へ進めるのではない」

 

 手の上へ力を集める前に、隣との距離を取る。

 

 間違えた時にどうするかと尋ねると、子どもたちは自分たちの言葉で答えた。

 

「『課長さんのところでも間違えるのか?』と聞かれた」

 

 マティアスが言うと、若手が口元を押さえた。

 

「間違えると言ったら、『なら、そこでもこれをやるんだな』と」

 

「ずいぶん、はっきり言う子ですね」

 

「ああ。仲間を巻き込みたくないという顔でな」

 

 ラウが隣の子を見た時の目を、マティアスは覚えていた。

 

 声を張ることより、そちらの方が強く残っている。

 

「飛行船の木模型で、私たちも止める練習は始めましたね」

 

 オットーが実習記録をこちらへ向けた。

 

 若手3人が声と札で異常を伝え、担当同士で止める合図を確かめた授業だ。

 

 マティアスも、その時は模型を囲んでいた。

 

「ああ。あの授業は必要だった。だからこそ、普段の点検ではどうだろうと思った」

 

 年長担当者は、茶器を卓へ戻した。

 

「授業でできても、当番中に同じことができるかは別ですね」

 

「いま、報告はできているか?」

 

「できます。差があれば、勝手に先へ回さず知らせてくれます」

 

「その後は?」

 

「そこから、私たちが見ます」

 

 返答は短かった。

 

 マティアスは点検の勤務表を頼み、模型の授業と混ざらない場所へ広げる。

 

 工房では、仕事が続くすぐ隣で、教わる者が理由を尋ねていた。

 

 こちらの「その後」が、どんな仕事なのかを見たい。

 

「当番が終わるのを待つより、今の受け渡しを見せてもらおう」

 

 若手が席を立ち、境界課の記録箱を取りに行った。

 

 年長担当者は空になった椅子を見送り、勤務表の自分の名へ指を置いた。

 

 

 

 報告がひと区切りつくと、オットーは茶を注ぎ足した。

 

 若手が持ってきた記録箱は、まだ蓋をしたままだ。

 

 見学の帳面を閉じようとしたところで、その若手がためらいがちに尋ねた。

 

「オスヴァルト殿は、今は商人なのですか?」

 

「正確には行商人だ。以前の結界も使っていた」

 

 マティアスは茶器を持ち上げ、相手の目が大きく開くのを見た。

 

「以前の技能が、そのまま?」

 

「私が見せてもらったものはな。それに《鑑定》と《収納》も使っている」

 

「研究には、便利でしょうね」

 

 年長担当者まで、帳面の閉じかけた頁を見た。

 

 マティアスは、友人が普通の石を見て、その結果を書き写した時のことを話す。

 

 表示が見えたのはヴァルト本人だけで、こちらは紙へ移された説明を読んだ。

 

「二つとも、Lv10になったと言っていたよ」

 

 若手は手元の紙に《鑑定》と書いた。

 

 それから、欄外へ「商人」と加える。

 

「では私も、商人のジョブにすれば……」

 

「待て。魔術院の人間まで商人に取られたら、ますます人数が足りん!」

 

 年長担当者の指が、丸をつけかけた文字のそばへ下りた。

 

 マティアスは口へ運びかけた茶器をゆっくり戻した。

 

 昨夜と、同じような顔をしている者がいる。

 

「私も、本人に同じことを勧められたよ。だが、今ここで退職届を書く話ではない」

 

「課長まで?」

 

「君も商人になったらいい、とな」

 

 オットーは目を細め、年長担当者の指が置かれた紙を引き寄せた。

 

「ジョブの変更と官職を辞めることは、別の話でしょう」

 

「そうだ。私も、店を開くところまで考えかけた」

 

「では、そこは考えなくてよいのですね」

 

「次に、どの技能をどう得られるかは考えねばならん」

 

 若手のペン先が止まる。

 

 マティアスは友人が素材を見比べていた手を思い出した。

 

 何を知らないのかを尋ねるたび、ヴァルトは楽しそうに答えた。

 

 その顔を、ジョブの名だけで説明するのは難しかった。

 

「あいつが何年も使ってきた技能と、行商人になってから積んだ経験だ。君が儀式を受ければ、明日同じことができるとは言えない」

 

「まず司祭に伺う話ですか」

 

「ジョブを変えるなら、司祭の儀式が要る。勤務とどう両立するかも、別に確かめる必要があるな」

 

 若手は「商人」の丸を閉じず、横へ小さく疑問符を足した。

 

 年長担当者が、その手元を見て息を吐く。

 

「少なくとも、今日の当番から人が消えるわけではないか」

 

「ええ。今日のところは」

 

 オットーが答えると、今度は年長担当者が顔をしかめた。

 

 マティアスは笑ってから、記録箱の蓋を開ける。

 

「まず、いまいる者の仕事を見よう。そもそも、何人が足りないのかを聞きたい」

 

 若手はジョブのメモを見学の紙の下へ入れ、点検票を取り出した。

 

 

 

 昼過ぎの境界課では、入口に置いた箱が次々と空いていった。

 

 運び込まれた票を若手が分け、参照する帳簿を棚から取る。

 

 北門結界の点検簿、地下収納庫の封印記録、その向こうに古代転移陣の解析履歴が並んでいた。

 

 マティアスには見慣れた棚だった。

 

 背表紙の擦れたところまで知っているのに、今日は取り出す手の方へ目が向いた。

 

「飛行船の仕事まで来たら、魔術師が足りなくなります」

 

 年長担当者は、机にたまった票を持ち上げた。

 

「船はまだ買うと決まっていない。研究が増えるかどうかも、これからだ」

 

「ええ。それでも、今の分だけで、この有様です」

 

「何人足りない?」

 

 担当者は束を机へ戻し、答えを探した。

 

「一人いれば、その分は助かりますが……」

 

「その一人に、何をしてもらいたい?」

 

 近くの若手が、転記を終えた票を机へ置いた。

 

 原本と突き合わせた印も、差異を報告した箇所も揃っている。

 

 担当者は受け取り、前の点検簿を開いた。

 

 該当する頁が見つかると、今度は別の冊子へ手を伸ばす。

 

 その間に、別の机からも呼び掛けがあった。

 

「こちらの照合も、後でお願いします」

 

「承認前の束へ置いておいてくれ」

 

 声を返しながら、担当者の目は古い頁を追っていた。

 

 転記の机には空きができ、こちらには票が増える。

 

「記録は集まります。ですが、それを確かめられる魔術師が足りません」

 

 担当者がようやく答えた。

 

 オットーは、空いた机と開きっぱなしの帳簿を交互に見た。

 

「確認のうち、若手に教えられる部分はないのか?」

 

「最終判断は任せられません」

 

 すぐに返ってきた声へ、マティアスはうなずいた。

 

 そこを早めろと言うつもりはなかった。

 

「任せるのはそこじゃない。まず、判断に必要な材料を揃えられるか確かめたい」

 

 担当者は開いた冊子へ目を落とした。

 

 いま探していたのは、値そのものではない。

 

 当時の作業について書かれた頁に指を挟み、もう一冊を引き寄せる。

 

「それを探すには、どの資料を見るか知らねばなりません」

 

「君は、どこを見ればよいか知っている」

 

「長くやっていますから」

 

「その探し方を、教わった者は?」

 

 担当者は答える前に、近くの若手へ顔を向けた。

 

 若手は報告する票を抱えたまま、その冊子の背表紙を見ていた。

 

「作業を引き受けてもらう時に、必要なところは説明しています」

 

「では、どこまで伝わっているか、一緒に見てみよう」

 

 担当者は少し考え、手元の冊子を閉じた。

 

「研究室なら、いま転記を終えた者がいます」

 

 承認を待つ票は、その後も積み重なっていた。

 

 

 

 研究室へ向かう途中、年長担当者が廊下の当番表の前で足を止めた。

 

「この後も北門の点検票を確認しなければなりません。長くは付き合えませんよ」

 

「点検当番は動かさない。仕事を増やしに来たわけでもない」

 

 マティアスが答えると、オットーが勤務表を覗いた。

 

「先日の模型の授業のように、全員を一度に集める必要はありませんね」

 

「ああ。一人の仕事を見せてもらうだけだ。どこまで覚えているか、まず確かめたい」

 

「若手にも、終わらせなければならない転記があります」

 

「その時間も奪わない。今日は、報告の後をどうしているのか見るだけにしよう」

 

 セルマ工房では、セルマが手を止めた弟子に、何を見て止めたのか尋ねていた。

 

 だが、あちらのやり方をそのまま押し付けても、境界課の仕事が滞るだけだ。

 

 担当者は当番表を確かめ、ようやくうなずいた。

 

「次の確認が始まるまでなら、一緒に見られます」

 

 研究室の扉を開くと、若手が原本と転記票を照合していた。

 

「そのままでいい。いまの作業を見せてくれるか」

 

 マティアスは邪魔にならない椅子に腰掛けた。

 

 

 

 高い窓から入る光が、石床に細長く落ちていた。

 

 若手の机には転記の終わった票と、原本を収めた箱がある。

 

 マティアスが手を差し出すと、若手は二つを並べて渡した。

 

「ここが、前の票と違っていました」

 

 指が止まった行には、印が添えられている。

 

 知らせた時刻と受け取った担当者も書かれていた。

 

「違いを見つけて報告した。そこまでは正しい」

 

「はい。承認前の記録は、次には回していません」

 

 若手は机の内側へ置いた束を示した。

 

 差のある行だけでなく、前後の欄まで丁寧に写されていた。

 

「いつも、こうして分けているのか?」

 

「はい。ただ、他の方が運ぶ時にも分かるよう、何か添えた方がよいかと思っています」

 

「確認待ち、と書いた紙を置こうか。置き場所を知らない者にも伝わる」

 

 オットーが「確認待ち」と書いた札を添えた。

 

 若手は安心したようだが、マティアスにはもう一つ聞きたいことがあった。

 

「この報告を受けて、その差を判断する人は、ほかに何を知りたいと思う?」

 

 若手は印をつけた行と、隣の古い票を見比べた。

 

「……値以外も、ですか?」

 

「そうだ。たとえば」

 

 言いかけて、マティアスは口を閉じた。

 

 答えを言ってしまえば、相手はうなずくだろう。

 

 まだ何を見ているのか、聞けていない。

 

「君は、この二つのどこを比べた?」

 

「同じ項目の行です。前と同じかどうかを見て、違うところをお伝えしました」

 

「前の作業について書かれたものも、見たか?」

 

「そこは、担当の方が見てくださいます」

 

 年長担当者が作業記録の冊子を若手の前に開いた。

 

「私は毎回、前の記録と条件を探している」

 

「ここの作業記録と、点検票を照らし合わせます」

 

 若手は身をかがめ、担当者の指が示す箇所を読んだ。

 

「こちらも、点検の日付で探すのですか」

 

「まず日付だ。その後、対象が同じかを見て、測った場所と手順を拾う」

 

 若手は点検票と作業記録を並べ、二つの頁を行き来した。

 

「その手順が違うと、同じ値として比べられないのでしょうか」

 

「どう違うかを見なければ、何とも言えない。だから、先に調べている」

 

「いつも、この冊子を?」

 

「別の年なら、その年のものを探す」

 

 若手は棚の方を見た。

 

 背表紙の日付を追い、途中で眉を寄せる。

 

「どれから出せばよいか、私にはまだ分かりません」

 

 自分にできない仕事だと思ったのか、若手は肩を落とした。

 

「なら、その探し方から一緒に覚えよう。今すぐ結論を出さなくていい」

 

「差があるとお伝えするだけでは、足りなかったのですか」

 

「いまの仕事はきちんとできている。次は、資料を探すところまで覚えてみないか」

 

 若手は驚いたように顔を上げた。

 

「資料は私が出せば早いと思って、必要なところを話すだけでした」

 

「早いだろうな。君なら、どこにあるかまで覚えている」

 

 マティアス自身にも、そうした覚えはあった。

 

 棚から探させる間に取ってやり、読み終わる前に説明する。

 

 それで一件が片付くと、次の票へ手を伸ばした。

 

 若手がその後、どの冊子へ戻ればよいかまでは尋ねなかった。

 

「探すところからやるには、時間がかかります」

 

「最初はな。だから、今日の承認待ちで練習するのはやめよう」

 

 現在の票を元の位置へ戻し、過去の点検簿だけを残す。

 

「これを参考に、練習用の写しを作りたい。一方の条件欄を空けて、何が要るか考えてもらう」

 

「実際の票とは、混ざらないようにします」

 

 オットーが紙の上端に、演習用と書いた。

 

 年長担当者は内容を確かめ、今日の確認に使う冊子を抱える。

 

「当番へ戻ります。終わりに、少しなら顔を出せます」

 

「頼む。君が普段どこを見るかも、その時に教えてほしい」

 

 担当者が出ていくと、若手は残った点検簿へもう一度目を落とした。

 

「こちらは、今から見てよいですか」

 

「自分の作業を終えたら、声を掛けてくれ」

 

 マティアスが答えると、若手は冊子の題名を確かめてから、転記の箱へ手を戻した。

 

 

 

 夕方の執務室で、オットーが研修の相談用紙を開いた。

 

 侯爵領で見てきた教え方を、今度は別の者にも見せたい。

 

 マティアスもそのつもりだったが、候補欄にはまだ名前を書けなかった。

 

 当番の引継ぎを終えた年長担当者が、勤務表を横へ置く。

 

「侯爵領へ一人でも研修に出せればと思いましたが……」

 

「今は誰かを抜けば、その分の仕事が止まります」

 

 担当者は表の端を持ち、先の日付まで広げた。

 

 代わりを頼めそうな者も、別の持ち場に名があった。

 

「若手を出すとしても、こちらの準備を誰が引き受けるか、決めねばなりません」

 

「魔術師が足りないから研修したいのに、足りないから出せないか」

 

 マティアスは空いた候補欄を見た。

 

 侯爵領では、ヴァルトのそばへ子どもたちが集まっていた。

 

 ここから一人を連れていくことさえ、まだできない。

 

 オットーは相談用紙を閉じず、横へよけた。

 

「向こうにも、教えていただけるかを改めて伺う必要があります。交流の検討は残しましょう」

 

「ああ」

 

「では、今日できることは?」

 

 マティアスの目が、自分の机の端へ止まった。

 

 留守中の仕事の上に、古い分類帳が置かれている。

 

 帰任したら着手するつもりで、出発前にまとめた束だった。

 

「これは、今日使う資料に関わるか?」

 

 担当者は紐の下から添付の紙を引き出し、期限を読んだ。

 

「いえ。今の参照は、これまでの帳簿でできます。明日に回しても、当番には影響しません」

 

 マティアスも日付を見直す。

 

 すぐ処理すべき点検の束は別にあり、そちらの担当も変わらない。

 

「古い分類帳は明日に回せる。まず私が、あの若手と過去の記録を比べてみよう」

 

 紐を結び直し、束を机の奥へ移した。

 

 オットーは演習用の写しを揃えた。

 

「本人の転記が済めば、今日のうちに試せますね」

 

「研究室でやろう。自分で探させる時間も取れる」

 

 担当者は当番表を畳まず、もう一度残りの仕事を指で追った。

 

「私も、最後の説明に加われます」

 

「無理に早く片付けなくていい。こちらで始めておく」

 

 マティアスは翌週の予定を引き寄せた。

 

 同じように時間を作れそうな欄へ、まず仮の印を置く。

 

 オットーと当番の重なりを確かめ、今日の演習を終えてから枠を決めることにした。

 

「人数が足りないことは変わりませんが」

 

「分かっている。だから、君が一人で抱えている仕事を少しずつ教えていきたい」

 

「……まずは資料探しから、ですね」

 

「ああ。最終判断はこれまでどおり熟練者が行う。そこは変えん」

 

 マティアスは笑い、写しの混ざっていない現在の点検票を担当者へ渡した。

 

 それぞれの仕事を持って、三人は部屋を出た。

 

 

 

 研究室の窓際に、机を一つ空けてもらった。

 

 若手は自分の転記を終え、箱を所定の位置へ戻してから来た。

 

 マティアスは椅子を勧め、過去の北門結界の点検を基にした写しを二組置く。

 

 上端の「演習用」の文字を示し、現在の票ではないと伝えた。

 

「ここからは、練習だ。実際の結界には何もしない」

 

 若手は両方の紙を手元へ寄せた。

 

「この二つは値が違う。結界に異常があると言えるか?」

 

 若手は先ほどと同じように行を追い、違うところを丸で囲んだ。

 

 そこまでは手が迷わない。

 

「違いは報告します。でも、これだけでは異常とは言えません」

 

「なぜそう思う?」

 

「……担当の方に見ていただかないと」

 

「そうだな。では、その方へ、何を見てほしいと頼もうか」

 

 若手のペンが止まった。

 

 オットーも口を挟まず、答えを待った。

 

 若手は値を囲んだ丸へ目を戻し、それから上の欄を読んだ。

 

「点検した対象は、同じです」

 

「ああ」

 

「日付は違います。前の点検と比べていますから」

 

 指がその下へ動く。

 

 マティアスは助け舟を出しかけ、思いとどまった。

 

 侯爵領の教室で、ヴァルトもこうして子どもたちの言葉を待っていた。

 

 若手は一方を読み直し、もう一方の紙を重ねてずらした。

 

「こちらには、測定の方法が書かれていません。前回と同じ条件で測ったのか確かめたいです」

 

「そのためには?」

 

「前回の作業記録を探します。それでも分からなければ、担当者へ確認をお願いします」

 

 答えた後で、若手は眉を寄せた。

 

「前回の分だけでは、足りませんね」

 

 マティアスは、続く言葉を待った。

 

「こちらの作業についても、同じ方法で測ったと分かるものが要ります」

 

「値が違うことと、測り方が同じだったことは、別ですから」

 

「よし。結論を急がず、何が足りないかを説明できたな」

 

 若手はようやく肩の力を抜いた。

 

「この空欄は、私が練習のために作った。元の票に不備があったわけではない」

 

「はい。何を調べるか、ここに書いてよいですか」

 

「書いてみてくれ」

 

 比較表へ「不足:測定条件の記録」と入れる。

 

 確認先には前回の作業記録を書き、今回に当たる作業の記録も加えた。

 

 マティアスは過去の帳簿を若手の手が届く位置へ寄せた。

 

「では、この練習に使った資料なら、どこから探す?」

 

 若手は背表紙を見て、日付を確かめる。

 

 すぐには開かず、点検票へ目を戻して、対象の名も見直した。

 

「まず、こちらの時期からです」

 

 最初に開いた頁には、探している作業がなかった。

 

 若手がマティアスの方を見かけ、途中で目を戻す。

 

 目次に指を沿わせ、該当するところへ進んだ。

 

 今度は添え書きまで読み、写しの横へ帳簿を置く。

 

「ありました。ただ、この欄だけではなく、その前の説明も読みたいです」

 

 答えを教わる前に、若手は自分から次の頁を求めた。

 

 マティアスは笑みを浮かべた。

 

「どこが気になった?」

 

「手順を参照するよう書かれています。その手順が、比べる方と同じかを見ないと」

 

 オットーのペン先が一度止まり、それからまた動いた。

 

 マティアスは頁を押さえ、読み進める場所を若手に任せる。

 

 紙をめくる音が、さっきよりゆっくりになっていた。

 

 年長担当者が戻ったのは、若手が確認先を書き足している時だった。

 

 立ったまま比較表へ目を通し、途中から椅子を引き寄せる。

 

「その比較が添えてあれば、私も判断に入りやすい」

 

 若手が顔を上げた。

 

「このように探して、足りないところをお伝えすればよいですか」

 

「そうだ。ただ、見つからない時は探し続けず、声を掛けてくれ」

 

 担当者は帳簿の参照箇所を示し、題名と頁を一緒に添えると戻りやすい、と教えた。

 

 若手は教わった位置を確かめ、自分の言葉で書き足す。

 

「最終的に問題がないかを決めるのは、私たちがやる。まずは指示した範囲で、こうして資料を揃える練習からだ」

 

「はい」

 

「助かる」

 

 担当者は短く言って、手元の帳簿を閉じた。

 

 若手は書き込んだ比較表を読み返してから、ペンを置いた。

 

 オットーが今日の演習に使った紙を揃え、もう一度使えるよう別の封筒へ収めた。

 

「次は、資料を探すところから始められますね」

 

「今日より早くできるでしょうか」

 

 若手の問いに、年長担当者が笑った。

 

「まず、どれを探したか私にも分かるようにしてくれ。速さは、その後でいい」

 

 若手も笑い、開いていた帳簿の参照箇所へ紙を挟んだ。

 

 窓の外で、日暮れ前の風が木の葉を返していた。

 

 マティアスは翌週の勤務表を広げ、オットーと担当者に当番の重なりがないことを確かめてもらう。

 

 仮につけていた印の横へ、指導の時間と自分の名を書いた。

 

 若手は席を立つ前に、演習の比較表を持ち上げる。

 

「これを、次も持ってきます」

 

「ああ。待っている」

 

 戸口まで行った若手が、棚の前で足を止めた。

 

 さっき自分で探した帳簿を正しい位置へ戻し、背表紙を一度、指でなぞる。

 

 マティアスはそれを見送りながら、ラウの声を思い出していた。

 

 なら、そこでもこれをやるんだな。

 

 風でめくれかけた勤務表を、マティアスは手のひらでそっと押さえた。

 

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