庭師が刈り枝を束ねる音が、開いた窓から入っていた。
アルベルトは王都から届いた書状を読み終え、茶へ手を伸ばした。
湯気はまだ上がっているが、飲む前に向かいの真壁を見た。
「飛行船の報告が遅れたのは私の責任だ。だが、去年の王命の件は、当時から父上に伝えている」
真壁は茶碗を持ち上げかけた手を止めた。
「別の件というわけですな」
「ああ。船の存在を、父上が外国王家から知らされたのは、こちらの報告が足りなかったためだ」
アルベルトは新しい封書を左へ寄せた。
レヴァニア王家との謁見で、船主の判断を越えて売買の約束はしていない。
そこを変えるつもりはなかった。
ただ、父に先に知らせておくべきだったことは、いまさら取り繕えない。
「軍務の方も、知らなかったと思われては困る」
机の脇の棚から、薄い革表紙を取り出した。
紐をほどくと、端の擦れた控えが現れる。
発信の控えと返答を収めた頁の間に、短い紙片が挟まっていた。
自分で未回答の項目を書き留めたものだ。
「王都から約200kmの救援先へ、災害続きの我が軍を約400km動かす。調べぬはずがないだろう」
言葉にすると、あの時の地図が目の前へ戻ってきた。
水害の後始末も、魔物への備えも、終わってはいなかった。
それでも西で助けを待つ人々はいた。
出動の準備をさせながら、軍務省へ問いを送った。
近い王都から、どのような救援を出せるのか。
なぜ、こちらの派兵を先に求めるのか。
「こちらが受けた回答ですか」
真壁は表紙に触れず、開かれた頁へ目を落とした。
「そうだ。これは発送日、こちらが受け取った日はこちらにある」
アルベルトは2つの日付を別々に示した。
その下に、回答を出した窓口と文書番号が残っている。
「王都から1人も出なかったと、私は言っておらん。なぜ主要な援軍を出せなかったのかを聞いた」
「では、まずその回答を拝見しましょう」
真壁が茶碗を置いた。
硬い音が1つして、庭の枝を引きずる音が続く。
アルベルトは紙片を抜き、控えの横へ置いた。
船についての新しい書状と、軍務についての古い返答が、ようやく別々に見える位置に並んだ。
「父上に何を知らせたかも残してある。去年の問いを、新しい船の話に埋めたくない」
真壁は返答の最初の行を読み、背筋を伸ばしたまま顔を上げた。
「その問いが、船に乗せるものに関わるわけですな」
書状に添えられた飛行船の公開図を、アルベルトは2人の間へ広げた。
人員輸送用のカーゴが描かれ、船体の輪郭が卓の大半を占める。
窓の外では、荷車から木箱を下ろす男が腰を落としていた。
もう1人が下から支え、2人で庭の端へ運んでいく。
「軍務大臣は、あの時の救援が遅かったから、軍の船が欲しいと言っているらしい」
「輸送時間は確かに縮められましょう。ですが、空の船だけでは軍になりません」
真壁の目が図から窓へ移った。
アルベルトも、箱を置き終えた2人を見た。
男の1人が額を拭き、次の箱を運ぶために荷車へ戻る。
「ベラクルスから兵1,000人を戻した時は、約4時間だったな」
「ええ。約400kmの帰還を、それだけで済ませられた」
帰ってきた兵と報告の時刻は、アルベルトも確かめていた。
往路の行軍に要した時間とは、あまりに違った。
「それを救援に使いたいという望みは分かる」
「私も、速く運ぶことに異存はありません。どこの兵を、誰の命令で出すかが先でしょう」
アルベルトは古い回答へ手を伸ばした。
「そこが気になる。去年、王都には派遣できる部隊を確保できないと回答された」
「新しい船を持てば、当時出せなかった兵を出せると?」
「そういう説明は受けておらん」
図の中のカーゴを指で押さえた。
1,000人を収められることと、その人数を王都から動かせることは、同じではなかった。
彼らに持たせる装備があり、食べさせる糧秣がある。
送り出す指揮官と、着いた先で補給を受ける段取りも要る。
「もちろん、王都を空にはできない。どれだけ残す必要があったかも含めて知りたい」
「船の売却や貸与は、リュシア商会の判断です。それ以前に、使う側の支度を伺わねばなりませんな」
「父上へ出す次の照会にも、この件を入れる」
アルベルトは公開図を畳み、書状の下へ戻した。
取得はまだ決まっていない。
軍務大臣が船を希望したことで、むしろ古い回答をもう一度問う理由ができた。
真壁は図を追い掛けず、去年の控えへ向き直る。
「では、何が示され、何が示されなかったかを」
アルベルトは立ち上がり、派兵の記録を収めた棚へ向かった。
地図卓へ革表紙を移すと、書記が追加の控えを持ってきた。
アルベルトは父へ送った報告が含まれていることを確かめ、礼を言って退出させる。
地図には王都からベラクルスへ続く道と、領都から西へ進む道が見えていた。
長い方の経路には、渡河点と宿場を示す印がある。
「最初の照会は、王命を受けてすぐだ。返事を待つ間にも、出動の準備は進めた」
控えを開き、問いと回答の要旨を並べる。
王都防衛および既存任務のため、派遣可能な部隊を確保できない。
短い文面だった。
「再照会もした。派兵不能と言うなら、どの部隊が何の任務に就いていたか、と」
「返答は?」
「国防上、部隊配置の詳細は出せない。所管の官署で扱う、と」
真壁は読み終えた頁を戻し、文書番号へ目を留めた。
「実数の回答はありませんな」
「ない。部隊の区分と、回答の窓口は残った。だが、何人を動かせたかがない」
アルベルトは父への報告控えも開いた。
初回の照会から再度の返答まで、経過を書いた頁だ。
「父上にも、ここまで伝えている。父上からも軍務省へ、派兵不能の根拠を調べて報告するよう求めた」
アルベルトは報告控えの次の頁を開いた。
父から届いた経過の知らせが、同じ綴りに残っている。
「提出されたのは、部隊配置と既存任務の概要だった。兵籍と当日の動員記録を照合し、実際に出せた人数を裏付ける資料までは揃わなかった」
「軍務省がまとめた説明の外へは、まだ出られなかったと」
「ああ。父上は実員の照合も求めた」
その後の催促についても、父の知らせに記されていた。
「救援と復旧を進める間も、その後も、原簿の提出を求め続けた。だが、兵籍と当日の動員記録は揃わず、独立した確認は未了のままだ」
アルベルトは、未回答の項目を記した紙片をその頁へ重ねた。
「父上が知らずにいたわけではない。何を確かめ切れていないかも、ここに残っている」
国軍の兵籍も配置表も、この棚にはない。
領軍を点呼することはできても、王都の兵を勝手に集めて数える権限はなかった。
真壁は地図の短い道を指し、すぐに手を引いた。
「近いというだけで、動かせたとは申せません。既存任務の中身を確かめる必要はあります」
「それを聞いているのだ。陛下の命令で動いた我が軍には、なぜそうなったのかを知る必要がある」
アルベルトの指は、領都から西へ延びる道に置かれたままだった。
兵を出すため、こちらで残す者の役目を組み替えた。
傷んだ装備を急いで直し、歩かせる者へ糧食を渡した。
救援を止めて答えを待つという選択は、あの時にはできなかった。
「問いを残しておかれたのですな」
「残しただけで満足したわけではない」
真壁は短くうなずき、ノートを開いた。
「この番号と、対象の期間、回答部署を控えてよろしいか」
「それは構わん。機密扱いの全文は、こちらに置く」
真壁のペンが、後で参照できる欄だけを拾っていく。
アルベルトはその脇に地図を残し、王都側の部隊区分の記載を示した。
「定員があることと、そこに兵がいることも違う。所属していても、その日に出せるとは限らん」
「装備や補給が整っているかも、別ですな」
「ああ。だから、名簿の人数を答えにされても足りない」
真壁は最後の欄を書き終え、ノートを閉じた。
「軍の原簿を扱うのは、王国側の仕事です。私は、品物の出入りからなら話を聞けましょう」
アルベルトは棚へ目を向けた。
まだ片付けることのできない控えがある。
今回は、軍の船を求める理由と一緒に、父へ改めて問いを出せる。
「その前に、我が軍の補給を見てもらいたい。使った装備が、ちょうど戻っている」
去年の地図を畳むと、渡河点の印が折り目の内側へ隠れた。
補給場へ着くと、炊事場から湯気が流れてきた。
訓練を終えた兵が靴紐を緩め、足を抜いている。
靴底の泥は乾いていたが、脱いだ内側にはまだ湿り気が残っていた。
アルベルトは真壁を連れ、補修を受け付ける台の前へ立った。
「こちらの範囲だけなら、見てもらって構わん」
補給担当者が礼をし、台に並ぶ靴を示した。
踵の減ったもの、縫い目が開いたもの、底を直せばまだ履けるものが分けてある。
針を持つ者は顔を上げず、革を貫いた糸を引いた。
「これも、まだ戻せるか」
アルベルトが1足を取ると、担当者は底を見た。
「ええ。ただ、いま履いている者には、その間の代わりが要ります」
「予備から回すのだな」
「足に合うものを探してからです」
近くの兵が、片足だけ新しい靴に入れ替えた。
立って重みを掛け、紐を結び直す。
真壁はその足と、脱いだ靴の両方を見た。
「新しい靴を100足納めても、100人に支給されたとは限りませんな」
「予備にも回しますし、寸法違いもある。修理に出す分もございます」
担当者は靴についていた札を確かめ、補修の台へ戻した。
誰に渡したものが、いつ戻ったかを帳面へ入れる。
真壁は書かれた数より、その札の擦れた端へ目を留めた。
「返ってくる品にも、手が掛かる」
「返ってこない分もございます。廃棄したのか、まだ使っているのか、確かめねばなりません」
脇では、兵が替えの紐を受け取っていた。
帳簿を待たずに先へ歩き出そうとすると、担当者が呼び止め、受け渡しを済ませる。
「王都で補充するなら、どこへ頼む?」
アルベルトが尋ねた。
「取引のある問屋はいくつかございます。軍向けも民間向けも扱う店なら……」
担当者は候補を挙げ、それぞれの扱う品と道順を紙へ書いた。
どの店も軍の秘密に通じているという話ではなく、傷んだ靴の代わりを揃える時に頼む相手だった。
「押入商会でも、工事と輸送に使う靴が要る」
真壁が、民間用品も扱う店の項目を押さえた。
「補修しやすいものを、継続して仕入れたい。今日、こちらを見てきましょう」
「紹介を受けたと話して構わん。軍の調達を代わりに進めるわけではないと伝えてくれ」
「承知しました」
真壁は紙を畳んだ。
その後ろで兵が歩き出し、新しい底と古い底が、違う音を立てた。
アルベルトは履き直された足を見送り、補修の台へ残った靴を戻した。
真壁は訪れたことのある王都の安全な場所へ《転移》し、人の往来を避けて街路へ出た。
紹介された店までは歩いて向かう。
革を扱う一角に近づくと、靴底を打つ槌の音が重なって聞こえた。
軒先で油を含んだ布が絞られ、陽を受けた革紐に艶が浮いている。
真壁は目印を確かめ、問屋の店先で声を掛けた。
「ヴァルディス侯爵軍の補給担当から、こちらを教わりました」
主人は帳場から顔を上げた。
押入商会の名を伝えた札を受け取り、奥の棚を見た。
「軍の追加注文か?」
「いえ。工事と輸送の作業靴を探しています。丈夫で、現場で補修しやすいものを」
「それなら、こっちだ」
出された靴を、真壁は両手で受け取った。
裏返し、底を押してから、縫い目と紐の通る箇所へ目を移す。
主人は別の靴を隣へ置き、底の違いを指で示した。
「厚い方を選べば、それだけ重くなる。どんな場所で履く?」
「荷を扱い、足場の悪い場所も歩きます。壊れた時に丸ごと捨てる品では困る」
「直すなら、こっちの方が扱いやすい。底だけの注文も受ける」
真壁は2つを並べ、棚にある寸法の札を読んだ。
「注文するなら寸法ごとだ。同じ靴ばかりでは現場で困る」
「承知しています。履く者に合わせて、継続して揃えたい」
「数を聞いてから、引渡しの時期を出す。見本でよければ、今日は値を出せる」
主人は民間用品の帳面を開いた。
真壁は用途を伝え、採寸後に数量を決めること、補修材も別に見積もることを頼む。
出来上がった品をどこへ渡すかまで話が進むと、主人は奥へ呼び掛けた。
倉庫係が木箱を運んできたが、途中で通れず、箱をいったん下ろした。
「また、あそこの前か」
主人が口を曲げた。
「置き場さえあればな。軍へ渡すはずの品が奥を塞いでいて、普通の靴まで入らん」
「引き取りが遅れているのですか」
「遅れたというより、いつ来るのか分からん。勝手に処分もできん」
倉庫係は箱を細い隙間へ回し、棚へ戻った。
真壁は作業靴を卓へ置く。
「こちらの注文で、これ以上倉庫を狭くするわけにも参りませんな」
「だから、預けっぱなしにする注文は困る」
「その条件も見積もりに。こちらで引き取る段取りを付けます」
主人は少し顔を緩め、納品の欄へ書き足した。
真壁は奥の詰まった通路を見てから、相手へ顔を戻す。
「保管に関する契約は、どうなっています?」
「そこが、はっきりせんのだ。うちにある物と、うちの控えなら見せられるが」
「では、説明できる範囲を伺いましょう」
主人は軍用品を売る話ではないと念を押した。
真壁が了承すると、帳面を閉じ、裏の戸を開けるよう倉庫係へ頼んだ。
2枚戸を開くと、革油の匂いが濃くなった。
光が当たる通路では箱の角が明るく、奥の棚は暗い。
倉庫係は手押し台をよけ、軍用品を積んだ場所へ案内した。
「こちらと、向こうの組です」
木箱の札には、同じ納入先番号がある。
注文の時期は違い、箱の識別も別になっていた。
主人が1箱の開封を認めると、倉庫係は蓋を外し、新品の軍靴を出した。
踵には減りがなく、底の縁にも歩いた傷がない。
「新兵向けの注文だ。寸法ごとに、ここへ収めてある」
主人は自店の注文控えを示した。
真壁は靴へ手を伸ばさず、控えと箱の札を見比べる。
注文書の後に、検収と受領の控えが続いていた。
「受領の扱いにはなった。代金の話は進むのに、置き場はうちのままだ」
「受領した場所は?」
「その兵舎だ。だから、引き取ると思ったんだが」
真壁の目が、旧兵舎を記した宛先の下で止まった。
指定納入先にて引渡し、現地検収完了。
その指定納入先には、旧兵舎の所在地が記されていた。
受領者の記載と部署、日付が続く。
「ここにあるのは、ご主人の保管記録ですな。では、この『現地検収』は、どこで行われたのでしょう」
主人は書類を引き寄せ、今度は自分でもその箇所を読んだ。
「書いてある場所なら、兵舎だろう」
「箱は動いておりません。少なくとも、この倉庫からは」
倉庫係が保管台帳を開いた。
箱ごとの搬入と出庫を記す頁に、該当の識別番号がある。
近くの客の品には出庫の書込みがあり、こちらにはない。
「戻ってきた物では?」
「出ておりません。戻った時は、そちらにも入れます」
係が別の品の欄を示した。
真壁は説明を聞き、最初の注文と後の注文の番号を1つずつ追った。
後の分にも受領の控えがあり、納入先は同じ番号だった。
旧兵舎を引渡し場所とする記載も、現地で検収を終えたという文言もある。
それに対応する木箱も、隣の棚に残っている。
「軍がこちらで検収し、そのまま保管を頼んだことは?」
「引き取りを待てとは言われている。ただ、場所代を誰へ請求するのか、いつまで待つのかは決まらん」
主人が出したのは、引取り先を変更する旨の連絡だった。
真壁は最後まで読み、紙を置いた。
「この連絡とは別に、こちらへ預ける契約はありますか」
「見つからん。それがあるなら、俺だって先に出している」
声が強くなり、主人は箱の蓋へ手を置いた。
「靴は作った。取りに来るなら渡す。だが、出したことにして帳面を閉じるわけにはいかん」
「ええ。店の記録は、そのまま残してください」
真壁は受領控えをもう一度見た。
販売済みの物を店で預かること自体は、取引としてあり得る。
ここで検収していたなら、その記録もあるはずだった。
「文面の意味から調べましょう。軍が別途預かりを命じた可能性もあります」
「それを、どこへ聞けばいい?」
「まず、記された宛先が今どう使われているかを見てきます。所在地を教えていただきたい」
主人は納入先の控えを取り、通りの目印を説明した。
歩いて往復できる範囲だった。
真壁は宛先と受領日をノートへ控え、主人に読み違いがないか確かめてもらう。
箱は蓋を戻され、軍靴は倉庫に残った。
控えに記された建物へ近づくと、車輪が踏む麦の殻が道端にたまっていた。
古い門柱が2つあり、内側へ荷車が入っていく。
真壁は通りの目印を確かめ、向かいの公道で足を止めた。
兵舎だった門の留め具が残っている。
その上の看板には、官営の穀物保管施設と記されていた。
人夫が麦袋を肩へ載せ、庇の下へ運んでいく。
荷車の縁から白い埃が落ち、御者が布で口元を拭った。
「以前は兵舎だったそうですな」
真壁が声を掛けると、御者は看板を見上げた。
「そう聞いてる。今は麦を運び入れるだけだ」
「いつ頃からでしょう」
「俺がこの仕事を始めた時には、もう麦倉だよ。正しい年はあの札を見な」
指した先に、官の掲示があった。
施設の用途変更と、公共倉庫として使い始めた時期が示されている。
真壁は近づき、掲示の発出元と日付を読んだ。
ノートの受領日を開き、2つを見比べる。
問屋の後の注文が現地検収済みとされた時には、ここは既に穀物施設として使われ始めていた。
真壁は前後関係を控え、所在地の目印も添えた。
「靴を届けに来ても、少々困りますな」
「麦袋の横へ置くなら、場所は欲しいがね」
御者は軽く笑い、人夫が戻ってきたのを見て荷台の縄を外した。
真壁も道の端へよける。
軍靴を運ぶ者は見当たらず、穀物の荷は途切れなかった。
それでも、兵の移転先を御者に尋ねることはしなかった。
この者が知っているのは、自分の運ぶ麦と、いま使う入口だ。
真壁は門の内側へ入らず、もう一度掲示へ目を戻した。
兵舎の古い名称が、書類の宛先として残ることはあるだろう。
その名称が別の受取場所を指すのか、ここで品物を受け渡したという意味なのか。
そこは軍側に尋ねる必要があった。
倉庫番が門の脇から出て、次の荷車を招き入れる。
真壁は掲示の文言をノートへ写し終え、看板と門柱の位置を確かめた。
公道で見たものを、施設の正式な転用命令を読んだことにはできない。
ノートの欄外へ、掲示による確認、と短く加える。
車輪が石の継ぎ目を越え、荷台の麦袋が一度揺れた。
門は空ではなかった。
そこへ届くものが、受領控えに書かれたものと違っていた。
真壁は荷車が通り終えるのを待って、問屋へ戻る道を渡った。
問屋へ戻ると、主人は作業靴の見積もりを帳場に用意していた。
職人が最後の荷を結び、倉庫係は通路を空けている。
真壁は靴の仕様と補修材の項目を確かめてから、旧兵舎の話をした。
「あそこは、今は官営の穀物倉庫です。用途変更の掲示もありました」
「だから引き取り先が変わったのか」
主人は連絡の控えを引き寄せた。
「だが、変えた先へ誰が運ぶ? その間、うちへ置く場所代は誰が払う?」
「それを、契約の相手へ明らかにしていただきましょう」
真壁が返すと、主人の手が止まった。
「俺は軍を訴えたいわけじゃない。商売ができる場所を返してほしい」
奥では倉庫係が、軍靴の箱を避けて手押し台を曲げていた。
主人はその方を見てから、声を落とす。
「軍の注文が切れれば、困る職人もいる。それで軍と喧嘩にならんか」
「先に結論を決めては、相手にも説明のしようがありません。引渡しと保管の根拠を、正式に尋ねるための資料にしましょう」
真壁は、アルベルトを通じて宰相府の所管照会に渡すと説明した。
店の名も受領者の名も、資料を扱う関係官署での照合に使う。
町へ告発を広めるためのものではない。
「誰へ渡すかを、こちらの控えにも残してくれるか」
「結構。写しを作る手間にも、対価をお支払いします」
主人は倉庫係を呼び、自社の注文書と受領控えを出した。
引取り先変更の連絡と、保管台帳の該当する頁も続く。
真壁は用途と渡す範囲、写しの作成料を紙に記し、主人に読んでもらった。
「原本はうちへ残す」
「もちろんです」
倉庫係が写しを作り、箱の札の識別を添える。
数字の似た箇所では、主人が原本を指し、2人で読み合わせた。
受領者の記載、発出部署、日付、現地での引渡しを示す文言は省かなかった。
主人が照合した写しへ印を押す。
真壁は受け渡しの記録を残し、合意した作成料を払った。
「箱は、このままでよいのだな」
「ご主人の保管記録どおりに。場所を変えるなら、その経過も残してください」
真壁は写しと自分の現地メモを分け、紐で束ねた。
倉庫係が話した搬出の有無も、係から聞いたこととして記す。
最後に、作業靴の見積もりを別の包みへ入れた。
「こちらの注文は、寸法と数量を揃えてから改めて伺います」
「そっちは、ちゃんと取りに来てくれよ」
「引き取る日も含めて決めましょう」
主人が初めて、声を出して笑った。
真壁が店を出ると、後ろで倉庫の戸が閉まる。
新品の軍靴はまだ棚にある。
持ち帰る包みには、その置き場所を尋ねるための写しが入っていた。
夕刻、侯爵館の廊下で夜番への引継ぎが始まっていた。
真壁は訪問済みの領都へ《転移》してから歩いて戻り、執務室の扉口に立った。
アルベルトは午前の控えを閉じずに残していた。
「作業靴は見つかったか」
「見積もりは、こちらに。それとは別に、ご覧いただきたいものがあります」
真壁は2つの包みを別々に置いた。
革問屋の自社控えの写しを開き、倉庫の現物を見た範囲から報告する。
注文の違う二組の軍靴が残っていたこと。
搬出がないという倉庫係の説明と、その保管台帳。
宛先の旧兵舎で現地引渡し、検収完了と読める受領控え。
アルベルトは聞きながら、写しの出所と問屋の印を確かめた。
「軍が買って、そのまま問屋へ預けたのでは?」
「その可能性はあります。主人が示せたのは、引取り先変更の連絡でした。保管の根拠は、まだ分かりません」
真壁は次に、公道から見た旧兵舎の様子を伝えた。
麦袋を運ぶ荷車と、官営穀物倉庫の看板。
掲示の供用開始時期は、少なくとも後の受領控えの日付より前だった。
アルベルトは受領の頁を戻し、現地検収の文言へ目を寄せた。
「旧い兵舎を宛先にしていただけかもしれん」
「ええ。ですが、記載の現地で受領したというなら、誰がどこで確かめたのでしょう」
しばらく、紙をめくる音だけになった。
問屋の写しには、受領者と担当部署がある。
午前の軍務省回答には、回答窓口と部隊区分がある。
アルベルトは2つを隣へ置いたが、線で結びはしなかった。
「この発注が、去年の回答で示された部隊のものかは、まだ分からんな」
「王国の原簿で照合していただく必要があります」
「……前に問うたのは、出せる兵の数だった。今度は、軍へ届いたことになっている物か」
朝、補給場で兵が履き直した靴を思い出した。
予備の分も、修理の代わりもあった。
この箱数から兵の人数を決めることはできない。
だが、何を誰が受け取ったかなら、番号と署名から尋ねられる。
「商人として確かめられたのは、ここまでです」
アルベルトは去年の王命へ目を落とした。
「あの時、王都の兵はどこにいたのか。今度こそ確かめねばならんな」
「ええ。そのための記録が、1つ増えました」
アルベルトは書記を呼び、父への正式照会を起こさせた。
去年から伝えていた軍務省への問いに、追加の現物資料が得られたと書き出す。
当時の派兵不能という回答に対応する部隊配置と、実際に動員できた人数を確かめたい。
次に軍靴の注文番号を添え、検収、引取り、保管の指示を問う。
旧兵舎が転用された正式な時期と、新兵向けの注文に対応する入営、支給の記録も照合を求めた。
「軍務省の回答だけで、確認を終えないように」
書記のペンが止まった。
「宰相府、財務側など、独立に原簿を確かめられる経路を父上に求める。どの権限で進めるかは、向こうの判断だ」
真壁は問屋の了承した利用範囲を示し、同封する写しを揃えた。
アルベルトは照会の文面を読み直して署名し、封をさせる。
旧い回答は手元に残し、その番号を新しい文書へ添えた。
書記が通常の送達へ回す封書を受け取る間、封蝋が固まるのを待つ。
窓の向こうで炊事の煙が上がり、庭を通る者が厨房へ声を掛けていた。
「救援を待っている者に、また1週間を使わせるわけにはいかん」
真壁は短くうなずいた。
封書が運ばれると、アルベルトは机に残った去年の王命へ手を置いた。
窓の外では、夕餉を知らせる声が続いていた。