押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第418話 将軍じゃありませんよね?

 

 午後の荷受けが終わり、廊下を行く足音もようやくまばらになった。

 

 澪は大学の予定と商会の仕事を見比べ、手帳の余白へ次にこちらへ来られる日を書き込んだ。

 

 机の端には、まだ返していない注文票がある。

 

 そこまで片付ければ、今日はひとまず終わりにできそうだった。

 

「澪君、今夕、軍務省へ少々用がある」

 

 顔を上げると、真壁が開いた扉の前に立っていた。

 

 いつもの服に、いつもの落ち着いた声である。

 

「王都の軍務省ですか? 真壁さんなら《転移》で行けますよね」

 

「王都まではな。しかし、訪ねたことのない部屋へ直接は行けん」

 

「じゃあ、正面から入れば……」

 

「それで見せてもらえる資料なら、侯爵閣下がとうに確認しておられよう」

 

 手帳へ向けていたペンが、空中で止まった。

 

 真壁は廊下に誰もいないのを見てから、部屋へ入り、扉を閉めた。

 

「少々、手を貸してもらえるかな」

 

「私が何をするんですか?」

 

「軍務省の中へ、扉を1つ開けていただきたい」

 

「……扉って、まさか」

 

「《関門接続》をお願いしたい」

 

 澪はペンを置いた。

 

 小さな音が、妙にはっきり聞こえた。

 

「不法侵入ですよね」

 

「法の上では、そういうことになろうな」

 

 さらりと認められると、その先に用意していた言葉がなくなる。

 

 せめて、否定してくれればよかったのに。

 

「軍靴のことですか」

 

「それもある。問屋に残っている品と、軍務省が出してきた回答を、まだ同じ案件とは言えん」

 

 真壁は、薄い紙包みを机へ置いた。

 

 問屋の受領控えを写したものだという。

 

 指定納入先にて引渡し、現地検収完了。

 

 澪はその文言へ目を落とし、倉庫に並んでいるはずの箱を思い浮かべた。

 

「届いていないのに、向こうで受け取ったことになっているんですよね」

 

「少なくとも、問屋の保管記録とは食い違う。ただ、これだけでは兵の所在まで分からん」

 

「だから、全部の帳簿を持ってくるんですか?」

 

「いや。何がどこで扱われ、どこへ渡されているかを見たい。原簿を盗み集めるつもりはない」

 

 澪は、返し忘れていた注文票を紙包みから遠ざけた。

 

 ついさっきまで、今日の仕事を終わらせることを考えていた。

 

 同じ机で、今は国の役所へ忍び込む相談をしている。

 

「真壁さん、それは駄目でしょう」

 

 窓から入る光が、真壁の袖を明るく照らしていた。

 

 彼は返事を急がず、澪が次に何を言うかを待っていた。

 

 

 

「正式な調査を待つべきです」

 

「正式な手続きは必要だよ。我々が覗いて、それで調査が済んだことにはできまい」

 

 反論が来ると思っていた澪は、続けかけた言葉を飲み込んだ。

 

「だったら、待てばいいじゃないですか」

 

「待つ間に、資料が別の場所へ動くこともある」

 

「証拠を隠すんですか?」

 

「そこまでは分からん。今夜、何かを焼くと知っているわけでもない」

 

 真壁は受領控えの写しを、澪の方へ向けた。

 

「ただ、この紙の所在は、もう我々が知っている。向こうの原簿がどこにあるかは知らない」

 

「……それで、私が扉を開けるんですね」

 

「君なら、入る前に人の反応を見られる。戻る場所も選べる」

 

 役に立てると言われることと、手を貸してよいことは別だった。

 

 澪は手帳を閉じ、注文票の裏を取った。

 

「無関係な兵士さんと、戦うことになるのは嫌です」

 

「それは避けたいものだね。危険が及ぶなら、そこで引き返そう」

 

「逃げるのも危ないです。私が戻る道を見ていられる所にいてください」

 

「君は入口の近くに残る。奥へ行くのは私だけだ」

 

「先に、クラウスさんへ話してください」

 

「そうしよう」

 

 ペン先が、断るために取った紙へ条件を書き始めていた。

 

 澪はその手を止めた。

 

 何だか、話の進み方がおかしい。

 

「……軍務省の外だけなら、私にも見られます」

 

「結構。まずは外からだ。危険であれば、それまでにしよう」

 

「私、今ちょっと、いいことを言ったつもりなんですけど」

 

「よい条件だと思うがね」

 

 真壁は、取り決めができたという顔をした。

 

 澪は自分の書いた文字を見てから、彼を見た。

 

「……《交渉10》、使いましたよね?」

 

「さて。私は事情を説明しただけのつもりだがね」

 

「それを《交渉10》って言うんですよ!」

 

 声を上げてから、澪は閉じた扉へ目をやった。

 

 廊下の足音は、そのまま遠ざかっていった。

 

 誰かに聞かれた気配はない。

 

 真壁の話には、断るべきところがある。

 

 それなのに、こちらが心配するたび、その心配を減らす方法が返ってくる。

 

 最後に自分で条件を考えたからこそ、簡単に話を取り消せなくなっていた。

 

「条件、まだあります」

 

「伺おうか」

 

「誰も殺さないでください。役所の物をまとめて持ち出すのも駄目です」

 

 もう1つ言う前に、澪はペンを握り直した。

 

 かつて真壁が、人の記憶へ触れた時のことを忘れてはいない。

 

「もし、また記憶を見るなら、仕事に関係するところだけです。家族のこととか、その人の私生活まで見ないでください」

 

「了承した」

 

「見ることと、変えることは別ですからね。記憶を書き換える話まで、私が承知したことにはしないでください」

 

 真壁は笑わず、澪の目を見てうなずいた。

 

「その条件も、承った」

 

 納得してしまった自分が、一番腹立たしかった。

 

 澪は条件を書いた紙を折り、手帳に挟んだ。

 

 帰ってから、その紙を開けるようにしなければならない。

 

 

 

 以前訪れた王都の人目のない場所へ《転移》し、2人は侯爵邸へ向かった。

 

 通りを進んで屋敷へ着く頃には、窓の光が薄くなっていた。

 

 面会を取り次いでもらう間、澪は玄関脇で袖の皺を直した。

 

 ここへ来ることは、紙に書いた条件のうちで最も安心できるものだったはずだ。

 

 けれど、今から何を話すかを考えると、座って待っているだけでも落ち着かなかった。

 

 応接兼執務室には、クラウスが待っていた。

 

 使用人が燭台へ灯を足し、窓際から下がる。

 

「急な訪問のようだね。アルベルトの所からか」

 

「ええ。照会の書状は使者に託しております。我々から、先に写しをお目に掛けたく参りました」

 

 真壁は挨拶を済ませ、紙包みを開いた。

 

 王都軍の原簿が届いていないことを、クラウスはすでに知っている。

 

 問屋の倉庫と、旧兵舎で確かめたことは、真壁が口頭で補った。

 

 クラウスは控えの文言を読み、次に、指定されている納入先へ指を置いた。

 

「穀物を扱い始めた時期は、軍靴の発注より前なのかね」

 

「後期の注文については、そのように読めます。先の注文まで、同じ条件だったとは申せません」

 

「部隊の照合は」

 

「まだできておりません。部署番号と検収番号だけで、去年の派兵回答と結び付けることはできませんな」

 

 クラウスは顔を上げた。

 

 真壁の答えを確かめるように、わずかな間があった。

 

「それで、私に何を求める」

 

「侯爵閣下。今夜、軍務省の中を調べて参ります」

 

 澪の膝が、椅子の下でぴたりと揃った。

 

 止めてもらうために来たという気持ちが、まだどこかに残っていた。

 

「潜入すると、私に宣言しているのかね」

 

「その前に、理由と目的を申し上げに参りました」

 

 クラウスは脇に控えていた使用人へ、退出するよう告げた。

 

 扉が閉まり、廊下の声が遠くなる。

 

「理由と目的を述べなさい」

 

「兵の実態が分からぬまま、王国の軍用船を論じてよいのでしょうか。軍務省が何を持ち、どこで説明が止まっているのか、まず見て参りたい」

 

「私の調査を、待てないと」

 

「閣下が重ねて原簿を求めておられることは、アルベルト様から伺いました」

 

 真壁は、写しから手を離した。

 

「ご自身が何を疑っておいでか。今は、それを伺いたいのです」

 

 クラウスはすぐには答えなかった。

 

 澪には、窓の外を過ぎる荷車の音が聞こえた。

 

「アルベルトには話しておらぬ。まだ疑いの域を出ないからだ」

 

「……何を疑っていらっしゃるんですか?」

 

「王都を守るはずの兵の一部が、帳簿の上にしかいないのではないか、とね」

 

 澪は口を開きかけ、声を出せなかった。

 

 軍靴が届いていないことと、靴を履く人がいないことの間には、大きな隔たりがある。

 

「兵士さんが、いない……?」

 

「全員を疑っているわけではない。定員、兵籍に載る人数、当日動かせる人数も、それぞれ違う」

 

 クラウスは王都と西方の描かれた地図へ目を移した。

 

「兵籍、給金、糧秣、装備の記録を重ねれば分かる。ところが必要な原簿が、何度求めても揃わない」

 

「陛下へは、独立した照合を進言なさいましたか」

 

「した。だが陛下は軍務大臣の説明を待つと仰った。今も確認は進んでおらぬ」

 

 澪は、去年、救援へ向かった兵のことを思った。

 

 王都から約200kmの場所へ、被災の続く侯爵領から約400kmを歩いた人たちがいる。

 

 その1週間を、誰かが帳面の上だけで決めたのかもしれない。

 

「なるほど。では、派遣できなかっただけでなく、派遣して人数を見せたくなかった可能性も残る」

 

「可能性だ。断定するな、真壁君」

 

 クラウスの声が、短く返った。

 

「承知しております」

 

「確証のない疑いを息子に伝えれば、領軍と王都軍の間に、余計な争いを作りかねん」

 

 給金を受け取った兵が、全員その場にいるとは限らない。

 

 糧秣が出た先が、報告された配置と一致するとも限らない。

 

 澪は、紙の上で閉じていた問題の下に、人が立つべき場所があるのをようやく見た気がした。

 

「だから、照合できるものを集める。私が知りたいのは、疑いを信じる者の数ではない」

 

 クラウスは受領控えの写しを、自分の手元へ引き寄せた。

 

 

 

「君たちは、金を稼げる」

 

 クラウスが、真壁へ言った。

 

「王国が危ういと見れば、別の国へ移ることもできるのだろう」

 

 澪の前へ置かれた水には、まだ手をつけていなかった。

 

 杯の縁に、燭台の光が細く映っている。

 

「移ること自体は、できましょう。しかし、我々が持ち出した金貨が、この王国の市場から消えることには、お気づきでしょうか」

 

「売上を外へ持ち出すということかね」

 

「ええ。閣下、押入商会がなぜヴァルディス領へ、これほど投資するのか、お分かりでしょうか」

 

「利潤も商路も得られる。互いに利があるからだろう」

 

「その通りです。ただ、稼いだ金貨を貯め込むだけでは、こちらの客も弱ってしまう」

 

 真壁は、金貨を1枚取り出して机へ置いた。

 

 澪はその指先を見てから、嫌な予感とともに顔を上げた。

 

「さて、澪君。君の専門だね。閣下に、少々ご説明願えるかな」

 

「えっ、私ですか?」

 

 軍務省へ入るのを止める話が、いつの間に大学で学んだことへつながったのだろう。

 

 けれど、今度は真壁の返事を待つ必要がなかった。

 

 澪は水を一口飲み、杯を地図の外へ置いた。

 

「例えば、その金貨で、町の誰かが商品を買いますよね」

 

「そうだね」

 

「受け取った商人は、それで次の商品を仕入れたり、人を雇ったりします。その支払いを受けた人が、今度は食べ物を買います」

 

 真壁が、金貨を手で覆った。

 

 金貨が見えなくなっただけなのに、澪は、その先にいた人たちの手が止まるのを想像した。

 

「私たちが受け取ったまま戻さなければ、そこから先の支払いに回りません」

 

「だが、金貨はそれだけではない」

 

「はい。この1枚だけなら、大したことではありません。ほかの硬貨がよく回れば、補える部分もあります」

 

 澪は手を広げ、金貨を覆っている真壁の手へ向けた。

 

「でも、商会が大きく稼いで、その大部分をしまい込んだままだったら、町で使えるお金が足りなくなるおそれがあります」

 

「売る物は、残っているのにか」

 

「品物があっても、買い手が払えなければ売れません。売れない商人は仕入れを減らします。工房の受注が減れば、職人の仕事や賃金にも響きます」

 

 廊下の向こうで、器が触れ合う音がした。

 

 夕食の支度をしているのだろう。

 

 その食事を作る人も、器を焼いた人も、食材を運んだ人も、誰かから支払いを受けている。

 

「賃金が減れば、また買える物が減ります。まず心配なのは、そういうデフレの圧力です」

 

「インフレではないのかね」

 

「それは別の段階です。お金をしまい込んだだけで、急に全部が値上がりするわけではありません」

 

 クラウスが眉を寄せたので、澪は言葉を選び直した。

 

「国がお金に困って、金銀の少ない貨幣を大量に鋳造したり、戦争や災害で食糧が届かなくなったりすれば、今度は値上がりが起きることがあります」

 

「買う金がなくなる時と、金があっても物が足りぬ時を、分けて考えるわけだ」

 

「はい。貨幣が信用されなくなる問題もあります。ただ、今この国で改鋳が行われていると申し上げているわけではありません」

 

 真壁が手を退け、再び金貨が見えた。

 

「では、澪君。我々は何に支払うべきだろうね」

 

「道や工房です」

 

 澪は地図の道路へ指を伸ばした。

 

「働く人へ賃金が渡るだけでなく、工事が終わった後にも、作る力や運ぶ力が残ります。品物が届くようになれば、買う側も売る側も助かります」

 

「……道路への前貸しは、そういう意味もあったのか」

 

 クラウスの視線が、地図の線を辿った。

 

 金120kg、銀900kgを前貸しした道路整備では、冬に仕事ができ、物が通る道が整えられた。

 

 澪は、工事に来る人の食事や、資材を運ぶ荷車のことを思い出した。

 

「あれは商会からの前貸しです。領の税収が増えたこととは、別ですけれど」

 

「分かっている。領の金と君たちの金を、一緒にはせぬよ」

 

 クラウスの返事に、澪は小さく息をついた。

 

「ただ配ればよい、という話でもないのですな」

 

 真壁は金貨を指で転がすこともなく、そのまま机に残した。

 

「道ができれば、我々にも商いが増える。町が豊かになれば、買ってくれる客も育つ。そのための投資です」

 

 澪はようやく、自分がなぜこの説明を求められたのかに気づいた。

 

 ここで稼いだ物を全部持ち出すことは、荷物をまとめるだけでは終わらない。

 

 クラウスも、もう簡単に別の国へ移ればよいとは言わなかった。

 

 

 

 窓の外が暗くなり、机の上の金貨は、灯を映すだけになった。

 

「商会を移すことができても、領内の職人や農家を、そのままにはできまい」

 

 クラウスは、澪ではなく真壁へ問いを向けた。

 

「働く者たちには、家族もいる」

 

「ええ」

 

 真壁は金貨を手に収めた。

 

「我々が守るのは王家ではない。押入商会と、そこで働く者、我々を信じて取引する者たちです」

 

「……真壁さん?」

 

 いつもなら、澪はその言葉で安心できたはずだった。

 

 仕事を振る時も、危険な所へ行く時も、真壁は人を置き去りにしない。

 

 けれど、続く言葉は、澪が知っている商会の範囲を大きく越えた。

 

「この国が自ら亡国への道を歩むのであれば、私は彼らを守るため、あらゆる手段を取るでしょうな」

 

「ちょっと待ってください。あらゆる手段って、どういう意味ですか?」

 

 膝に置いた手が、知らずに握られていた。

 

「君にも危険を負わせる話だ。だから、いま隠さず申し上げている」

 

「だったら、なおさら、何でもしていいことにはならないです」

 

「無論だ。君との約束を、軽く扱うつもりはないよ」

 

 真壁は澪へ顔を向けた。

 

 機嫌を取るような笑みはなかった。

 

 澪は、総支配人が冗談で怖いことを言っているのではないと知った。

 

「王国を見捨てるという脅しかね」

 

 クラウスの声も、低くなった。

 

「いいえ。立て直す望みがあるなら、商会も投資も続けましょう。しかし軍が帳簿にしかいない国へ、皆の命運を預けるつもりはないのです」

 

「その疑いは、まだ証明されておらぬ」

 

「それゆえ、確かめる必要があるのです」

 

 澪は、工房で働く人の顔を思い浮かべた。

 

 明日の仕事があると思って道具を片付け、家へ帰っていく人たちである。

 

 その人たちに、国の守りがないかもしれないとは、まだ言えない。

 

 真壁が言おうとしていることは分かった。

 

 分かったからこそ、これまで通り頼っていてよいのか、一瞬迷った。

 

「逃げる道を用意するのと、誰かを傷つけていいのとは違います」

 

「無関係な者の犠牲で帳尻を合わせるつもりはないよ」

 

「じゃあ、そこは守ってください」

 

 澪は、膝の上で組んでいた指をほどいた。

 

 真壁が短くうなずくのを、最後まで見た。

 

「……だから軍務省へ行く、と」

 

 クラウスは、受領控えの上を指で押さえた。

 

「ええ。閣下の疑念を確かめる材料が何か、ご教示いただきたい。今夜の潜入を、公務と偽るつもりもありません」

 

「私が許可すればよい話ではない」

 

「承知しております」

 

 クラウスは真壁を見たまま、しばらく黙った。

 

 部屋の外の荷車の音は、いつの間にか消えていた。

 

「兵籍と給金、兵糧と装備。それぞれの受払簿の番号を突き合わせなさい」

 

 真壁は、相槌だけを返した。

 

「兵籍に名があるだけでは、実際に給金を受けた者がいるとは限らぬ。糧秣の出庫と交付先、軍靴の検収と部隊への支給も別だ」

 

「まず、この部署番号と検収番号の行き先ですな」

 

「そうだ。それと、当日の点呼、動員の記録。どこか1つの数字だけを見て、兵がいたとも、いなかったとも決めるな」

 

 クラウスは、該当する記録を扱う窓口と、それを取りまとめる軍務省次官の名も告げた。

 

 偽の命令書も、持ち出しの許可も出さなかった。

 

「私からは、引き続き原簿の提出を求める。必要な照合も、正式に進める」

 

「お話しくださったことに、礼を申し上げます」

 

「だが、私は侵入の許可を出さぬ」

 

「そのお言葉は承りました」

 

「承りました、じゃないですよ……」

 

 澪の声は、思ったより小さかった。

 

 クラウスの指が押さえている紙には、兵士の姿は見えない。

 

 名前を照合する仕事が終わるまで、その空白を想像で埋めてはいけないのだ。

 

「知ったことは、私へ知らせなさい。正式に確かめるべきものと、君が見聞きしたことを分けて、だ」

 

 真壁は、椅子から立ち上がる前に一礼した。

 

 澪も立ち、手帳を入れた鞄を持ち直した。

 

 まだ引き返せる。

 

 扉を開ける時にも、それを忘れないよう、鞄の留め具に触れた。

 

 

 

 侯爵邸を離れて人通りの少ない所へ来ると、風が澪の頬を冷やした。

 

 まだ空の端に薄い明るさが残り、石壁の上だけが青く浮かんでいた。

 

 真壁は持ってきた荷を《収納》から取り出した。

 

 靄が退いた後には、濃い色の服と外套がある。

 

「少々、お待ちいただけるかな」

 

 澪が背を向けている間に、布の擦れる音がした。

 

 会談の言葉がまだ胸に残っていて、何を着るのかまで考えていなかった。

 

 軍務省のそばで待つのなら、自分も目立たない方がよい。

 

 鞄の位置を直し、足元へ目を落とす。

 

「お待たせしたね」

 

 振り返った澪は、そのまま動きを止めた。

 

 襟から肩へ続く線が、真壁の姿勢にぴたりと合っていた。

 

 留め具の光は抑えられているのに、外套を掛けた肩は、普段より広く見える。

 

 革手袋をはめ、袖口を整える指にも迷いがない。

 

 きれいに磨かれた靴の上に立っているだけで、周囲がその人の指示を待ちそうだった。

 

「……真壁さん」

 

「どうかしたかね」

 

「将軍じゃありませんよね?」

 

「少なくとも、この国の軍籍には名を連ねておらんよ」

 

「そこだけなんですか!?」

 

 真壁は帽子の位置を整えた。

 

 階級を説明するつもりはないらしい。

 

 澪は外套の裾から襟元まで見直し、余計なことを口にしそうになった。

 

 似合う、とは言いたくなかった。

 

 言うと、何かを認めてしまう気がする。

 

「それ、かえって目立ちます。帽子を深くかぶっても、目立ちます」

 

「隠れようとして目を引くよりは、ましだと思うがね」

 

「見られたら、不審ではあるんですけど」

 

「見た目で判断する者は、意外と多い。もっとも、見た目だけでは帳簿は読めんがね」

 

 特定の人の名札も、命令書もなかった。

 

 それが安心できる材料なのか、かえって危ないのか、澪には分からない。

 

 真壁は商人の服を片付け、外套の裾を直した。

 

 壁際を抜ける風が、その裾をわずかに持ち上げた。

 

 澪は、ここが式典会場であればどれほどよかったかと思った。

 

 今なら、拍手をする側に回れたかもしれない。

 

「念のためですけど、その服を着ても、入る権限は増えていませんからね」

 

「承知しているとも」

 

 返事まで堂々としているのが、困りものだった。

 

 

 

 軍務省の正面では、退庁する人と、立って見送る衛兵の影が交わっていた。

 

 馬車が通り過ぎると、澪の前からその姿が一度隠れた。

 

 車輪が石を打つ音を聞きながら、2人は建屋の外壁側へ回った。

 

 灯りのついた高い窓が、頭の上に並んでいる。

 

 澪は足を止め、人目がないのを確かめてから《世界地図》を開いた。

 

 壁の向こうを歩く人の反応が、いくつか動いていた。

 

 正面近くで止まっている反応も、奥で動かない反応もある。

 

 そこに映っているものを、すべて衛兵だと思ってはいけない。

 

 仕事を終えて帰る人も、机に向かう人も、同じように人として映るだけだった。

 

「ここ、反応がありません。でも、何の部屋かまでは……」

 

 澪は建屋の端を指した。

 

 真壁は、その位置と窓、壁の角を見比べた。

 

「人がいないことと、安全であることは、別の話だよ」

 

「分かってるなら、やめません?」

 

「まずは、中を覗ける程度に開けていただけるかな」

 

 澪は壁へ近づきすぎない位置を選んだ。

 

 手を伸ばせば冷たい石に触れそうだったが、背中は壁へつけなかった。

 

 人が来れば、動けるようにしておきたい。

 

 《関門接続》で、細い開口を作る。

 

 向こうには、暗い床と壁の下部が見えた。

 

 足の踏み場には、箱も椅子もない。

 

 開口を少し広げると、脇に扉の枠が見え、その先が通路につながっていた。

 

 澪は視線を上げ、動く影がないことを確かめた。

 

 救助で道をつないだ時は、向こうに待つ人がいた。

 

 今回は、誰にも見つからないことを願いながら、同じ能力を使っている。

 

 胸の中に、その違いが重く残った。

 

「床は大丈夫そうです。今なら、人もいません」

 

 真壁は門の前で一度止まり、澪が見た先を自分でも覗いた。

 

「帰り道は君にお任せしよう。危険なら、そこで閉じてもらいたい」

 

「閉じたら真壁さんが帰れません!」

 

「もっともだね。では、閉じる前に私を引き戻していただこう」

 

「最初から、そのつもりでいてください」

 

 澪は人が通れる大きさまで門を広げた。

 

 真壁が先に足を下ろし、通路の方へ顔を向ける。

 

 すぐ進めとは言わなかった。

 

 彼が手で合図をしてから、澪も門をくぐった。

 

 建物の中は、外よりも冷えていた。

 

 石床に靴底が触れた音に、澪は思わず息を止めた。

 

「私はここにいます。人が増えたら、戻ってきてください」

 

「承知した」

 

 開いた門を残せば、それ自体が見つかる。

 

 澪は帰る位置をもう一度見定めてから、接続を閉じた。

 

 誰かが来た時、どこへ退くかを目で辿る。

 

 真壁は、澪のいる区画へ最後に視線を戻してから、廊下へ向かった。

 

 外の車輪の音が途切れ、代わりに建物のどこかで窓を閉める音がした。

 

 

 

 廊下へ出る手前で、真壁が足を止めた。

 

 澪は扉の陰に身を寄せ、彼の肩越しに通路を見た。

 

 別の曲がり角から、衛兵が出てきていた。

 

 先ほど無人だった通路を、今、靴音が近づいてくる。

 

 澪は《世界地図》へ目を移し、動いている反応を捉えた。

 

 地図が間違っていたのではない。

 

 人は、歩くのだ。

 

 当然のことが、今は困る。

 

 真壁が引き返せるよう、澪は脇へ寄った。

 

 けれど、彼は逃げ出さず、廊下に立ったまま相手へ顔を向けた。

 

 衛兵の靴が、石床を強く打った。

 

 次の一歩は、出なかった。

 

 濃い軍服と外套を見た目が、真壁の顔へ上がる。

 

 澪には、衛兵の背中が目に見えて伸びたように感じられた。

 

「……失礼いたしました!」

 

 袖が上がり、敬礼が返ってきた。

 

「ご苦労」

 

 真壁も、短く答礼した。

 

 その腕の角度にも、下ろす時の間にも、ためらいがなかった。

 

 返しちゃった。

 

 しかも、似合っている。

 

 澪は、声が漏れないよう口元を押さえた。

 

 あれは、商会の総支配人である。

 

 少なくともこの軍には籍がないと、つい先ほど本人も言っていた。

 

 それなのに、目の前だけ見れば、衛兵が正しい相手へ敬礼しているようにしか見えなかった。

 

「……あの、どちらの……」

 

 衛兵が言いかけた時、真壁はすでに廊下を進み始めていた。

 

 歩く速さを変えず、階段の方へ向かう。

 

 名も階級も、口にはしなかった。

 

 澪は呼び止めたい気持ちを、息と一緒に飲み込んだ。

 

 今、声を出せば、隠れている自分まで見つかる。

 

 衛兵は真壁の背中を見送り、敬礼した手を一度見た。

 

 帽子の下で眉が寄った。

 

「……部署を、確かめるべきだった」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 彼は、階段へ顔を向けた後、巡回してきた方へ視線を戻した。

 

 そのまま持ち場へ歩き出す足音に、澪は耳を澄ませた。

 

 見過ごしてもらえた、と安心はできなかった。

 

 誰かに尋ねれば、真壁を見たことが伝わるかもしれない。

 

 曲がり角へ衛兵が消えたところで、澪はゆっくり口元から手を下ろした。

 

 おかしかった分だけ、今は胸が早く打っている。

 

 真壁が戻る時、同じ廊下が空いているとは限らなかった。

 

 澪は笑いを抑え、もう一度、地図の反応へ目を向けた。

 

 

 

 階段の下で、真壁は足を止めた。

 

 背後から追ってくる靴音は、まだない。

 

 建物へ《鑑定10》を掛け、得られた構造の情報と目の前の壁を重ねた。

 

 正面の広間と奥の事務区画では、建物の使われ方が違う。

 

 上階には、書類の保管や照合に用いられる区画が続いているらしかった。

 

 だが、そこで軍靴の原簿が見つかるかまでは、鑑定にも分からない。

 

 真壁は、階段脇に寄せられた空の運搬箱へ目をやった。

 

 縁の擦れた箱には、紙の繊維がわずかに残っていた。

 

 壁の低い位置にも、角のある物を運ぶ時についたような擦れ跡がある。

 

 箱の通る側と、人が手すりを使う側は、自然に分かれていた。

 

 日々の仕事が残す跡を辿る方が、今は早い。

 

 手すりの木は、人の手に磨かれて滑らかだった。

 

 真壁はそこへ指を置き、段の中央に残る摩耗を見た。

 

 足を掛ける場所を選び、階段を上った。

 

 服の裾が、段の端をかすめる。

 

 先ほどの衛兵が相手を確かめようとしていることを、計算から外すわけにはいかなかった。

 

 下の廊下に戻る時は、同じ所作で通れるとは限らない。

 

 踊り場から上を見ると、残っている灯りが壁へ淡く届いていた。

 

 掲げられた標示と、鑑定で見た事務区画の位置が合う。

 

「帳票を扱う事務は2階ですな」

 

 つぶやきは、手すりのそばで消えた。

 

 誰かに報告するための声ではなかった。

 

 上り切ると、紙と墨の乾いた匂いがした。

 

 扉の閉まった部屋が並び、消された灯りの跡には薄い煤が残っている。

 

 明るいのは、そのうちの1室だけだった。

 

 真壁は《世界地図1》で、人の反応を探った。

 

 その部屋の位置に、1つだけ反応がある。

 

 名前も、役職も、ここで何をしているかも表示されない。

 

 ただ、無人の部屋ではないということは分かった。

 

 真壁は扉へ近づき、取っ手にはまだ触れなかった。

 

 中から、紙をめくる音がした。

 

 続いて何かを書き、また頁を戻す音が聞こえる。

 

 作業している者は、急いで箱へ品を詰めている様子ではない。

 

 静かな音を2度聞いた後、真壁は廊下へ目を戻した。

 

 この先にある記録を探すには、残っている人間との接触を避けられそうになかった。

 

 

 

 扉を開けると、灯りの下でペンを動かしていた男が顔を上げた。

 

 机には帳簿が開かれ、脇の帳票は参照する順に並べられている。

 

 使い終えたものと、まだ目を通しているものは、取り違えない位置に置かれていた。

 

 真壁は男へ《鑑定10》を掛けた。

 

 本人だけに見える表示に、フリードリヒ・ベルクマンの名が現れた。

 

 クラウスが告げた、軍務省次官の名である。

 

 こんな時刻にも、1人で仕事を続けているのか。

 

 一瞬そう考えた真壁より先に、ベルクマンの目が扉と軍服の襟を見た。

 

 疲れた顔つきでも、視線は鈍っていない。

 

 ペンを置き、椅子を引く動きが、間を置かずに続いた。

 

「……貴様、どこの――」

 

 声を張るために息を吸ったところで、真壁が《重力6》を掛けた。

 

 ベルクマンの肩が落ち、立ち上がりかけた身体が止まる。

 

 真壁は踏み込み、机の角へ頭が向かないよう支えた。

 

 椅子の脚が床を擦り、低い音を立てた。

 

「これは失礼。少々、お静かに願えますかな」

 

 ベルクマンは答えられなかった。

 

 それでも、真壁へ向けた目には、何が起きたかを知ろうとする力があった。

 

 見知らぬ者が官署へ入ったと知って、職務に従い声を上げようとした。

 

 今の反応だけなら、この男に落ち度はない。

 

 真壁は身体を支えたまま、扉を閉めた。

 

 通常の《収納》には、生きた人間をそのまま収められない。

 

 真壁の手が、一拍止まった。

 

 誰も殺さないでください。

 

 澪の声を思い出し、復帰に使うエリクサーの備えを確かめた。

 

 まだ罪も確かめていない男の生命を、情報のために危険へさらす。

 

 支えた身体の重さを受け止めたまま、真壁は、周明宇に用いた方法で身体機能を一時停止させた。

 

 仮死の境界へ達し、腕の中から抵抗が抜ける。

 

 生命維持と復帰に必要な条件を確かめ、わずかな異常もないかを見定めてから、《収納10》を使った。

 

 靄がベルクマンを覆い、姿が収まるまで、真壁は手を添えていた。

 

 無事に身体を戻すまでは、終わっていない。

 

 机の上には、開いた帳簿と、置かれたペンがそのまま残った。

 

 倒れかけた拍子に浮いた紙の端が、ゆっくり元へ戻る。

 

 真壁はそれを押さえることも、束ごと片付けることもしなかった。

 

 軍服の手袋に、小さな皺が寄っていた。

 

 彼は閉じた扉を見て、廊下の音を聞いた。

 

 

 

 遠い足音が、廊下を過ぎていった。

 

 真壁は扉の前から動かず、その音が止むのを待った。

 

 机の灯りが揺れ、ベルクマンの空いた椅子へ影を投げている。

 

 真壁はすぐに《収納》の内へ意識を向けた。

 

 軍籍、検収、去年の出兵。

 

 それらに関わるベルクマンの記憶を辿った。

 

 手袋をはめた手が、外套の脇で止まった。

 

 机の灯りは、先ほどと変わらず燃えている。

 

 開いた頁の端には、椅子から離れた男の影がもう重ならなかった。

 

 けれど、目の前の帳簿へ戻るまでの間が、いつもより長くなった。

 

 真壁は、次に辿ろうとしていたものへ進めずにいた。

 

 一度だけ、呼吸が遅れた。

 

「……これは」

 

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