真壁が辿っていた記憶の中で、厚い帳簿が開かれた。
紙の縁には、何度も同じ箇所へ戻った跡がある。
欄を埋める人数と、招集の場で数えられた人数は、一致していなかった。
負傷、病欠、別の任務への移動。
理由を添えられた行もあるが、それらを除いてなお、所在の説明がつかない名が残る。
同じ軍務系貴族の管理する部隊に、その空白が偏っていた。
真壁は、ベルクマンが手を掛けた頁を辿った。
本人が見た帳簿と、本人が聞いた返答である。
その時、室内の窓の外には雨が降り、廊下を渡る靴の音が湿っていた。
「閣下。兵籍にある人数と、実際に招集できる人数が一致しておりません」
記憶の中で、ベルクマンが進言書を差し出した。
「負傷者もおれば遠征中の者もいる。数字が違うことなど珍しくあるまい」
軍務大臣は、表紙をめくっただけでそう答えた。
「事情の判明している者は除いております。それでも、所在の説明がつかぬ兵が残ります」
「では部隊長へ問い合わせよ」
「既に照会いたしました。書面上の定員を繰り返すだけで、点呼の実績が提出されません」
ベルクマンは、問い合わせた文書の控えを、報告の脇へ置いた。
大臣の指が、その宛先で止まった。
「伯爵家の軍務管理に、次官が直接口を出すつもりか」
「爵位の問題ではございません。国庫が養っているはずの兵が、出動できるかという問題です」
「諸侯が反発すれば、軍全体が乱れる」
「現に乱れております。報告書の上ではなく、招集の現場で」
大臣は帳簿を閉じた。
その手の下には、欠員を踏まえた臨時の編成案が残っていた。
「……今日のところは差し戻せ」
「差し戻すのであれば、実員確認だけでも命じていただきたい。問題のない部隊まで止める必要はありません」
「今は諸侯を刺激する時期ではないと言っておる」
「では、いつがよろしいのでしょう」
雨が窓を叩き、返事のない間を埋めた。
「下がれ、ベルクマン」
次に辿った記憶には、ベラクルスへの救援について集められた報告があった。
先ほどより慌ただしい声と、開かれたまま重ねられる紙の束がある。
「王都守備を残してなお送れる兵が、予定数に届きません」
報告官の声に、ベルクマンが顔を向けた。
「届かない理由を部隊ごとに示してください。通常の守備と、所在不明を同じ理由にしてはなりません」
「王命はヴァルディスへ伝わっておる。こちらは王都の守りを固める」
軍務大臣は、机の上の報告を脇へ押した。
「閣下、数字の差は消えません」
「分かっておる!」
声が途切れ、真壁の前へ、今夜の執務室が戻った。
ベルクマンの椅子は空いており、机の灯りは燃えている。
廊下を来る足音に、真壁は顔を上げた。
音は扉の前を通り、そのまま遠ざかった。
「知らなかったのではない。手を下さなかった、ということか」
真壁は、差し戻された進言書の受領番号を覚えた。
全軍の実数が、ここで分かったわけではない。
だが、実数を確かめる案を受け取り、実行しなかった者へ辿る道は見えた。
ベルクマンの記憶には、差し戻された書類の後にも、仕事の続きがあった。
招集できる兵だけで編成を組み直し、王都防衛に残す者と、救援へ回す者を分ける。
糧秣の割付も、帳面の定員ではなく、実際に食べる人数へ合わせようとしていた。
調査が終わるまで、何もできないと諦めた案ではない。
真壁は収納内のベルクマンへ、改めて詳しい《鑑定10》を掛けた。
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フリードリヒ・ベルクマン
分類:人間
現在ジョブ:軍政官
レベル:17
前職:兵站官 Lv14
前々職:文官 Lv11
状態:仮死
身体異常:心肺停止
----------------------------------
基礎能力値
体力:72
筋力:53
器用:106
知力:129
判断:133
精神:125
集中:137
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既得スキル
兵站:10
行政:10
書類読解:10
監査:9
組織管理:9
軍略:9
指揮:8
政策立案:9
交渉:8
会計:9
鑑定:6
礼法:7
----------------------------------
表示を読む真壁の眉が、わずかに上がった。
「軍を動かすには、まず糧と人員。よく分かっているようだ」
兵站と行政に並ぶ数値を見て、先ほどの再編案を思い返す。
別々の保管部署から根拠を集め、必要な兵と物を揃え、決裁できる形へまとめる。
ただ数字の間違いを探すだけなら、ここまでの腕は要らない。
「報告だけで終わらず、再編の順序まで組んでいるとはね」
灯りの下の机には、大臣宛ての書類が置かれている。
真壁はそれを手に取らず、表紙へ目を落とした。
仕事を進める力がある者と、進める許しを出す者が、別々にいる。
平民の次官が用意した案は、爵位を持つ者へ配慮する言葉の下で止まっていた。
真壁の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
これほどの人物なら、副官に欲しい。
だが、商会へ迎えるだけでは、王都の軍は変わらない。
むしろ、次の軍務大臣へ。
その考えを、本人に話すつもりはまだなかった。
任命を決めるのは真壁ではなく、今ここで椅子を替えることもできない。
彼は手袋の指を揃え、鑑定表示から意識を外した。
まずは、目の前の男の仕事を動かす。
必要な原簿の所在は、ベルクマンの記憶にあった。
しかし、それを順に盗み出しただけでは、部署をまたぐ数字の意味まで揃わない。
真壁は、差し戻された進言書に関わる記憶へ戻った。
「君の仕事は、まだ終わっていないようだね」
収納内の男は、返事をしない。
真壁はその記憶へ干渉し、今夜、先送りされた是正報告を仕上げるよう、一度限りの暗示を加えた。
次官が自ら照会し、閲覧できる記録を集め、真壁へ渡す。
翌朝にはクラウスへ、本人が説明する。
その一連の仕事を、以前から進めていた報告の続きを終えるものとして認識させた。
今夜の整理と翌朝の報告を終えるまで、真壁を信頼できる協力者と認め、必要な資料の複写を受け入れるようにも干渉した。
拘束され、仮死となり、収納された出来事と、暗示の由来は想起させない。
古い職務知識を消したり、以後の忠誠を作り替えたりはしなかった。
それでも、ただ記憶を読んだだけではない。
真壁は短く息を整え、収納からベルクマンを取り出した。
椅子へ身体を支え、備えていたエリクサーを使う。
止まっていた胸が動き、脈が戻った。
呼吸が続くのを確かめてから、真壁は手を離した。
「……あれ。私は、何を……」
ベルクマンは、机と自分の手を見た。
真壁へ目を上げても、先ほどの警戒は戻らなかった。
なぜこの男がここにいるのかという疑問は、報告をまとめる協力者だという認識に押し退けられた。
「ずいぶんお疲れのようですな。ご無理はなさらぬことだ」
「……進言書が、まだ整理できていない」
ベルクマンの指が、机の端の控えへ伸びた。
「では、整理なさるがよい。必要であれば、私が資料の取りまとめをお手伝いしましょう」
「今夜のうちに確認します。軍務省の記録は、持ち出した写しだけでは足りません」
「結構。必要な部分は、あなたにお任せする」
ベルクマンは紙を開き、次に参照する綴りを選んだ。
その手つきは、記憶で見たものと同じだった。
真壁は裏手で資料を受け取る場所を告げ、翌朝の集合場所と時刻も、言葉で取り決めた。
ベルクマンは短く復唱し、紙の余白へ書き留める。
身体を動かし、机に向かって仕事を続けられることを見届けてから、真壁は扉へ向かった。
澪は、まだ入口で待っている。
彼女との約束に反する作業を終えた手で、真壁は取っ手を下げた。
入口近くへ戻ると、澪が鞄を抱えたまま立っていた。
真壁の姿を見て、肩から力が抜ける。
それからすぐ、廊下へ目を向けた。
「今なら、人がいません」
澪は《関門接続》を開き、先の路地を覗いた。
真壁を通してから、自分も外へ出る。
接続が閉じると、壁の向こうの足音は聞こえなくなった。
冷えた夜風を吸って、澪はようやく長く息を吐いた。
真壁は歩き出し、軍務省から離れた路地で足を止めた。
「ご心配をお掛けしたね、澪君。御覧のとおり、私は無事だ」
革手袋を外しかけた手を、澪は見ていた。
「……見てたんですけど」
「ほう。《世界地図》かね」
「赤い人が現れて、急に灰色になって、消えたんです。そのあと、同じ所に青い反応が出ました」
真壁の手が止まった。
澪は鞄の留め金へ指を掛けたまま、返事を待った。
「そうか。では、隠し立てもできんな」
「隠せると思ってたんですか?」
「いや。少々、見込みが甘かった」
「人が1人、消えたんですよ。途中で。あれ、心臓を止めて収納したんですよね」
「ええ。幸い、もう回復している」
無事だという言葉が、澪の胸の奥へ遅れて届いた。
消えたままだったら、何をするつもりで待っていればよかったのか。
「前に周さんにしたのと同じですよね。あの時も、私、横にいましたよ」
「あの時のことを忘れたわけではないよ」
「じゃあ、分かりますよね。心臓を止めたあと、真壁さんが何をできるか」
「……何を尋ねたいのかは、分かる」
「記憶を見たんですか」
「見た」
「書き換えました?」
真壁は否定しなかった。
いつもの薄い笑みも、浮かべなかった。
「今は、その問いにお答えすることはできない」
「……つまり、答えられないことをしたんですね」
「君には、そう受け取られても仕方があるまい」
路地の口を馬車が通った。
澪は一度そちらを見て、人影がこちらへ曲がらないのを確かめた。
声を大きくすれば届いてしまう距離だった。
「私、言いましたよね。記憶を見ることと変えることは別だって」
「聞いていたとも」
「なのに、やったんですか?」
「言い訳をすれば、よけいに君を侮ることになる。少なくとも、そういう話だ」
「言い訳じゃなくて、説明してください」
留め金から指を離すと、押さえていた跡が残っていた。
「できるところまで、いずれ説明しよう。だが今は、相手の身柄と仕事を守る必要がある」
「その人、何か悪いことをした人なんですか?」
「悪人と決めてはおらん。むしろ、この国には必要な人材かもしれん」
「……だったら、どうしてそんなことをするんですか」
「この国の軍に、ひどく面倒な穴がある。穴を隠したまま、次の災害を迎えさせるわけにはいかんのでね」
「人を勝手に変えていい理由にはなりません」
「正しいことをした、と申し上げる気はありませんな」
澪には、自分の声が震えずに出ていることが不思議だった。
その分、言葉を1つずつ選べた。
「分かってるなら、なおさらです。私に《関門接続》を頼んだ時、約束したじゃないですか」
「その責は私にある。君に被せるつもりはない」
「私に扉を開けさせておいて、『責任は私に』って、それで終わりですか?」
真壁の返事が止まった。
遠くで商店の戸を閉める音がした。
「……終わりにはできんだろうな」
「じゃあ、これから何をするのか、ちゃんと教えてください」
「軍籍と給金、装備の記録を揃える。昨年の派兵で何が起きたのか、侯爵閣下に報告するためだ」
「それは分かりました。……その人には、何をさせるんですか?」
「本人の扱える記録を、整理してもらう」
「『本人が』そうしたいって言ったんですか?」
また、間があった。
「今夜は、その先まで話せない」
「……やっぱり、何か隠してる」
「君には腹を立てるだけの理由がある。否定はせんよ」
澪は軍服の襟から、真壁の顔へ目を戻した。
戻ってきてくれてよかったと、今も思っている。
その気持ちを取り消せないことが、つらかった。
「真壁さんが帰って来なくなるんじゃないかと思ったんです。だから、無事でよかった。でも……」
「……ああ」
「無事だったら何をしてもいい、なんて思えません」
「そうだな」
澪は鞄を持ち直した。
「これからは、私が知らないことのために、扉を開けさせないでください」
真壁は、外しかけていた手袋を下ろした。
「承知した」
「……明日、帰ってきたら、続きを聞きます。逃げないでくださいよ」
「無論。君を言いくるめて済む話ではないからね」
澪は事業所へ《関門接続》を開いた。
真壁も一緒に通り、彼女がゲンダイへ帰るところまで見届けた。
別れの挨拶はしたが、澪は笑わなかった。
戸を閉じてからも、手帳に挟んだ、潜入前の約束を書いた紙を捨てる気にはなれなかった。
軍務省の記録棚で、ベルクマンは以前の控えを開いた。
「去年の動員記録を先に。平時の定員を見ても、出せた人数は分からん」
机へ置いた紙に帳簿番号を控え、欠員の理由欄を辿る。
病欠には報告の所在があり、異動には別の部隊へ送られた日付があった。
「では、この空白は何だ……」
その行を埋めるために、隣の棚から給金の綴りを出した。
申請額だけで支払い済みとはせず、受領の署名がある簿冊を選び直す。
今夜こそ報告をまとめなければならないという気持ちが、仕事を急がせていた。
それを自分の決心だと思うベルクマンは、その由来を振り返らなかった。
閲覧できる原簿を部署ごとに台車へ並べ、提出できる自分の控えは別にした。
差し戻された進言書には、大臣側の受領記録も残っていた。
ベルクマンは、その頁にも札を挟んだ。
真壁が王都の既訪地点へ戻り、裏手の合流場所へ歩いて来た時、ベルクマンは台車を引いていた。
真壁は軍服をしまい、商人の服と地味な外套へ戻っている。
「お待たせした。首尾はいかがかな」
「主要な照合に必要な綴りは揃いました。ただし、原簿を全部ここから動かすのは適切ではありません」
「無論だ。出どころの分かる写しと、元の場所へ戻れる順序が欲しい」
「兵籍は兵務、給金は主計、軍靴の発注は装備です。部隊番号だけでは同じ部隊へつながりません」
「同じ数字を使っている所も注意が要ります。定員を出動人数へ、そのまま転記している可能性があります」
「どの頁でしょう」
ベルクマンが綴りを2つ開いた。
「こちらは昨年の点呼。こちらは同じ部隊の、前月の在籍一覧です。照合欄が空白のままになっています」
「責任者が署名していない」
「この頁だけでは実員を証明できません。別の帳簿に署名があるかを確かめます」
真壁は、用意していた札へ出典を書き付けた。
「軍靴については、どうですかな」
「検収官署の帳簿には受領があります。しかし、部隊への支給記録が見当たりません」
「受領した靴が、問屋の倉庫に残っている可能性もある」
「そうであれば、何の名目で預けたかの記録が要ります。預託自体を不正と決めてはいけません」
「次官であっても、諸官署の原簿を独断で外へ持ち出す権限はございません」
「ここで順に拝見し、写しを取らせていただく。照合の鍵になる頁を、選んでいただけますかな」
「表紙、日付、該当頁、それに次の綴りへ続く番号を外さず記録してください」
真壁は綴りを1つずつ《収納》へ収めた。
収納内のスキャナで表紙と該当頁を読み取り、裏面や訂正箇所も画像へ残す。
終われば、その場で原本を戻した。
ベルクマンは頁と札を見比べ、受け取った帳簿を元の束へ置く。
「この紙は、こちらではなく次の綴りです」
真壁が差し込みかけた札を、次官が止めた。
「同じ日の報告でも、受けた部署が違います」
「失礼。では、分けておこう」
肩書への遠慮より、間違いを止める方が先に来る。
真壁は札を書き直し、返した原簿の所在と同じ番号を画像側にも付けた。
原簿を返す手は慎重なのに、外部の商人へ機密を複写させることへの警戒は薄れていた。
今回の協力者なら見せてよいという認識も、真壁が与えたものだった。
その干渉で、資料を提供する正式な権限まで生じたわけではない。
「明朝、宰相閣下には、未確認の箇所も含めて報告いたします」
「結構。分からない箇所まで、隠す必要はありませんよ」
原簿が元の束へ戻ると、ベルクマンは提出できる控えを、自分の鞄へ分けた。
待ち合わせの場所と時刻を、2人はもう一度口に出して確かめた。
台車が建物の中へ戻っていく音を聞いてから、真壁は外套を合わせた。
侯爵領を経由して押し入れの戸を通り、ゲンダイ側の作業場所へ戻ると、真壁はPCを起動した。
ファンの音が、夜の部屋へ広がる。
軍務省で作った画像を移し、ベルクマンから聞いた出典と突き合わせた。
収納した順ではなく、原簿を開く順に画像を並べ直した。
同じ日付の動員報告が、別の部署から2つ出ていた。
真壁はファイルを分け、取り違えないよう保管部署を名前に加えた。
収納内でスキャンした進言書の控えには、折り目にかかる文字がある。
手元へ出してその頁を伸ばし、もう一度読み取った。
既に使っている異世界文書の翻訳処理へ画像を通すと、画面には日本語の行と列が並び始めた。
画像を拡大し、訂正前の数字が集計へ残っていないかを見た。
LLMへ表の差分候補を抽出させ、確認できるものと、推定にとどまるものを分けさせる。
整形された表では、空白だった理由欄に、未申告という語が入っていた。
「空欄は空欄だ。欠員と断ずるには早い」
元の画像を横へ出し、読み取りが欠けた下線と欄の境を直した。
再処理した行から、余計な語が消える。
次に開いた給金の表では、請求額が支払額と同じ列へ入っていた。
「こちらは請求した額。受け取ったとは書いておらんな」
請求、支払、受領を別の列へ置かせ、署名の所在も添えた。
病欠の理由や番号の違いを、機械がまとめて消していないかも調べた。
軍靴の帳簿と問屋の受領控えを並べると、検収番号から辿れる部分と、まだ部隊へ結び付かない部分が分かれた。
出典番号から原画像へ戻り、転記の違いを直していく。
机の端の水を飲んだ時には、部屋へ戻ってから随分経っていた。
要旨の後へ不一致の候補を並べ、原簿の所在、進言書の受領控え、追加の確認事項を続ける。
提出用の文書には、自作して使ってきた異世界文字フォントを指定した。
プリンタが紙を送り、異世界の文字が黒く並んで出てきた。
真壁は最初の頁を取り、原簿番号と脚注を読んだ。
印刷が止まると、普通に用紙を補充した。
真壁は最後の束が出るまで、画面と紙を交互に見続けた。
窓が白み始めた時、真壁は最後の対照表を開いた。
帳簿上の定員、点呼で確かめられた人数、救援時に動員可能とされた人数。
並んだ列の間には、まだ説明のつかない空白が残っている。
「兵がいない。あるいは、王都にはいない。それを調べる権限は、確かにあの大臣にあった」
昨年の派兵不能についての回答を、隣へ置いた。
王都防衛に充当しているという説明と、次官が提出した実員確認の案を読み比べる。
案を受領した日付は、救援要請より前にある。
真壁はその箇所を指で押さえ、薄く笑った。
「なるほど……軍を立て直すこともせず、今度は船を欲しがるとは」
侯爵領の兵を運ぶ時には、飛行船は役に立った。
乗り込む人間も、その人間へ命じる者も、そこにいたからである。
「実に結構なことですな。存在せぬ兵まで運べる船があるのなら、ぜひ拝見したいものだ」
皮肉を口にした後、真壁は対照表を閉じた。
架空だと確定していない欄には、要実査の注記を残してある。
原簿の所在と部隊番号の対応を別に綴じ、ベルクマンの進言控えを添えた。
その男の名前を見て、手が一度止まる。
数字を取り違えた札を、次官はためらわずに止めた。
大臣へ反発する言葉より先に、まだ実行できる再編案を用意していた。
副官に置くには、惜しい。
軍務大臣の席を任せたいという考えが、真壁の中で形になっていた。
「次は、働く大臣であっていただきたい」
その人事案を、報告書に書き加えることはしなかった。
今朝、宰相へ渡すのは、原簿へ辿るための資料である。
真壁は束の端を揃えて綴じ、身なりを整えた。
窓の光が、机に残った小さな紙片を照らしていた。
王都へ戻り、取り決めた場所でベルクマンと合流すると、真壁は侯爵邸へ向かった。
次官は自分の控えを入れた鞄を持ち、歩く間も提出する順序を口の中で確かめていた。
軍務省の昨夜の灯りとは違う、朝の日が、その袖のインク跡を照らしている。
応接兼執務室へ通されると、クラウスは来客を交互に見た。
「真壁君。昨夜はずいぶん大胆な話をしていたが……今日は次官までお連れかね」
「おはようございます、閣下。ご所望のものを、少々早くお届けに上がりました」
真壁は《収納》から報告書を出し、机へ置いた。
束が重なる音に、クラウスの目が下りた。
「私が欲しいのは、見栄えのよい報告書ではない。確かめられる記録だよ」
「無論。その点は、こちらの方が私よりよほど詳しい」
真壁が一歩引くと、ベルクマンが進み出た。
「軍務省次官、フリードリヒ・ベルクマンでございます。昨年の動員に関する報告と、兵籍・給金・装備の照合に必要な記録を持参いたしました」
「私が何度も提出を求めた資料かね」
「はい。ただ、全件の照合が終わったわけではございません。提出できる控えと、原本の所在を示した一覧を分けております」
クラウスは使用人を退出させ、文書を開いた。
「一晩で、何が変わった?」
「数字の根拠を確認する順序が揃いました。実際の点呼、給金の請求と受領、装備の検収と支給までを対照しております」
「では、軍務省の正式な実員確定表ではないのだね」
「ございません。照合のための整理表です。原簿の立会い確認が必要な欄には、そのように記しました」
クラウスは印字の整った表をめくり、脚注を読んだ。
「よろしい。最初に、何を見ればよい?」
「この2冊です。去年の動員実績と、実際の点呼記録に関わる写しでございます」
ベルクマンは別々の出典番号を示した。
「表題に並ぶ人数を比べるだけでは、不正は分かりません」
「病欠や、ほかの任務があるからか」
「はい。それらを差し引いても、説明の付かない欄が残ります」
クラウスの指が、行の途中で止まった。
「ここだね。部隊長の証明は?」
「空白でございます。署名された別の帳簿があるか、保管部署で確かめる必要があります」
「兵がいなかったと断定するには早い。しかし、いたとも答えられない」
「そのとおりでございます」
クラウスは椅子に深く座り直した。
真壁はその間を待って、口を開いた。
「その空白を、王都防衛に充当したの一言で埋めるわけには参りますまい」
「……昨年のアルベルトへの回答か」
「ええ。どの兵がどこにいたのか。閣下も、それをお知りになりたいのでしょう」
「知りたいからこそ、勝手な結論で埋めてはならぬ」
「ごもっとも」
真壁が一礼すると、クラウスは次の綴りへ手を伸ばした。
薄い控えの表紙には、大臣宛ての宛名があった。
「こちらは、進言書かね?」
「兵籍の照合と、動員不能の理由調査、補給の再編を進言したものです」
「受領されている。いつ提出した?」
「昨年の災害以前でございます。補足の再提出も行いました」
クラウスは受領の痕跡と、差し戻しの記載を見比べた。
「ベラクルスの救援要請より前から、問題を知っていた者がいた」
「少なくとも私は把握しておりました。そして報告は差し上げました」
「軍務大臣は?」
「ここに受領記録がございます。再編の実施は、諸侯との調整を理由に見送られました」
「君は、その判断に異議を申し立てたのかね」
「実員確認だけでも先行するよう求めました。しかし次官には、諸侯の指揮系統へ直接命じる権限がございません」
ベルクマンは、再提出した控えを並べた。
声を強めるより、日付と宛先を示す方が早かった。
「……確認しなければ、救援が必要な時に兵は集まらん」
「はい。船の速さでは、兵籍の不一致は埋まりません」
「運ぶための船より先に、運ばれる兵を数える必要があったわけですな」
クラウスは真壁を見た。
「君は、どこまで知っていた?」
「必要な資料がどこにあるか、それを教えていただきました。私が整理したのは、その写しです。判断は閣下にお任せします」
「昨夜、君の潜入を許可した覚えはないよ」
「ええ。承知しております」
「承知している男の返答には、とても聞こえぬね」
真壁は微笑まず、姿勢を保った。
「そうお叱りいただくのも、もっともです。ですが、この資料に目を通していただく価値はあると思いましてね」
「資料に価値があることと、その入手の仕方は別だ」
クラウスは真壁から目を離し、ベルクマンへ問いを戻した。
「この報告書を、元の記録と確かめるには?」
「原簿の番号、保管部署、転記の所在が末尾にございます。正式な照合を行うなら、私が原本の位置をご案内いたします」
クラウスは末尾の所在表を開いた。
原簿へ戻る番号が、印刷された表の各欄へつながっている。
机の脇の封蝋を退け、所在表を自分の前へ置いた。
「保全に必要な正式な権限は、私が先に確保する」
クラウスは、給金の請求と支払いに関わる所在を、原簿の一覧と見比べた。
「責任者を立ち会わせ、原簿と支払記録を保全する。照合も、その場で行う」
「承知いたしました」
「大臣への通告と事情聴取は、保全が済んでからだ」
ベルクマンが、開いた綴りへ目を戻した。
「進言書と受領記録の原本が、どこにあるか分かるね?」
「はい。いずれも所在を確認しております」
「よろしい。そこも外さず押さえる。帳簿を確かめる前に、人や記録を動かされては困るのでね」
ベルクマンは閉じかけた鞄から、自分の控えをもう一度出した。
今度は差し戻される束へではなく、宰相が指定した側へ置く。
真壁は、その手の動きを見ていた。
次官に、自分の仕事がようやく進んだという手応えはあるだろう。
そこへ至る最初の一歩を、誰が選ばせたかは知らない。
「真壁君」
クラウスが、真壁へ向き直った。
「これほどのことを、一夜でしてのけた目的は何かね」
「以前、閣下に申し上げましたとおりです。商会と、その関係者が安心して暮らせる国であっていただきたい。それだけですよ」
「君が、それだけと言う時は、特に用心しなければならぬようだ」
「……恐縮です」
真壁の微笑は、短かった。
クラウスは返事をせず、原簿の所在表へ目を戻した。
ベルクマンがその脇へ立ち、最初に向かう保管部署を指で示す。
真壁は一歩引いたまま、その姿を眺めた。
いずれ、軍務大臣の席へ。
誰にも告げない考えを残して、彼は朝日の入る窓から視線を戻した。