6月に入ると、六畳間の空気は毎朝少しずつ重くなった。
窓の外では、細い雨が隣の建物の壁を濡らしている。ベランダの手すりに細かい水滴が並び、物干し竿から落ちる雫が、一定の間を置いて床を叩いた。天気予報の画面には、傘の印がずらりと並んでいる。
澪はローテーブルの上で、会社用のレシート封筒を指で押した。
しんなりしていた。
「……封筒が、やる気を失ってる」
白金インゴット1kgを売って、合同会社押入商会の口座には大きな入金があった。役員借入金の返済、役員報酬、扶養から外れる連絡、学費返済。会社のお金と自分のお金の間に線を引いたばかりだった。
その翌々日、代表社員の篠原澪が朝から見つめているのは銀行アプリではない。
湿気で端が浮いたラベルである。
段ボール箱の角も、少し柔らかい。記録帳の紙は、指でなぞるとわずかに波打っていた。油性ペンの横に置いたラベルシールの袋は無事だったが、紙箱の表面が湿っぽい。
澪は、カッパを手に取った。
隣には長靴。
会社のお金と自分のお金を分けたら、今度は乾いた紙と湿った紙を分けることになった。
「白金があっても、湿気には勝てない……」
澪は小さく呟き、長靴の口に靴下を突っ込んだ。カッパを着て、収納の中身を確認する。いつもの補充品は少しだけある。けれど今日は、まず向こう側の様子を見るだけのつもりだった。
押し入れの襖に手をかける。
少し湿った木の匂いがした。
襖を開けると、向こう側から濡れた風が流れ込んできた。
六畳間の湿気とは違う。石と土と木の匂いを含んだ、冷たい雨の匂いだった。
澪は足元を確認し、長靴のまま押し入れを越えた。
異世界側も、雨だった。
石畳は濡れて黒く光り、軒先から落ちる雨水が細い筋になって通りの端を流れている。普段なら店の声や荷車の音が混じる市場の方から、今日は低く大きい水音と、人の声が聞こえた。
ただの雨ではない。
澪はカッパのフードを押さえ、リュシアの店の方へ急いだ。
通りの途中で、何人もの大人が川の方を見ていた。顔つきが違う。雨宿りしているだけの顔ではない。
その時、濡れた髪を額に貼りつかせたトトが、泥を跳ねながら走ってきた。
「川、やばい」
息を切らしながら、トトはリュシアの店先に飛び込むように止まった。リュシアは店の庇の下から身を乗り出した。
「どのくらい」
「いつも見える石が、もうない」
その一言で、リュシアの顔が変わった。
澪も胸の奥が冷えるのを感じた。
いつも見える石がない。
それが、この町の人にとって、どれほどまずい合図なのか、澪にも分かった。
市場裏の川は、いつもの細い流れではなかった。
水は茶色く濁り、枝や葉がぐるぐる回りながら流れている。川べりの石がいくつも水に隠れ、土手の一部は水に削られて斜めに崩れていた。そこから細い水筋が市場側へ伸び、濡れた石畳の上を蛇のように進んでいる。
アルベルト・ヴァルディスは、雨の中に立っていた。
泥が跳ねた外套を羽織り、護衛や市場組合の者へ短く指示を出している。豪華な服で晴れた庭を歩く若様ではない。雨具の裾を泥で汚しながら、水の流れと人の動きを同時に見ている現場の責任者だった。
少し離れた場所に、エレナがいた。
少年服の膝元は泥で汚れ、帽子の下から赤毛が湿ってこぼれている。川の近くへ行こうとして、アルベルトに止められていた。
「エレナ、川の縁へ近づくな。声をかけるなら、土手から離れた場所でやれ」
「分かっています、兄様。でも、あの子たち、どこへ運べばいいか分からないのです」
エレナが指した先では、市場の子どもたちが空の木箱や布包みを抱えたまま立ち尽くしていた。いつもの遊び半分の顔ではない。大人たちの声が飛び交う中で、何をすればいいのか分からずにいた。
リュシアは土手の削れた部分を見て、舌打ちした。
「若様、袋と土が足りない。水が入る口を押さえられない」
アルベルトは濁った水の流れを見たまま、すぐに答えた。
「板と石を集めろ。荷物は低い側から上げる。人は川縁に寄せすぎるな」
それから、リュシアの視線が澪へ向いた。
澪は自分の収納を意識した。今ある袋では足りない。手持ちのビニール袋でどうこうできる規模ではなかった。
市場の低い側へ水が入れば、屋台の荷、薬、容器、孤児院へ向かう道、セルマ工房への通路まで影響する。
雨の日の商品保護どころではない。
市場そのものが、水にやられそうになっている。
「戻ります」
澪は言った。
リュシアが眉を寄せる。
「どこへ」
「あたしの国の資材屋です。使えそうなものを買ってきます」
アルベルトが澪を見る。
「どのくらいで戻れる」
「急ぎます」
具体的な時間を言えなかった。言ったら嘘になる。けれど、戻るしかない。
エレナが泥のついた靴で一歩近づく。
「澪さん、何を持ってくるのですか」
「袋と、青い布と、道具です。たぶん、たくさん」
トトが目を丸くする。
「袋で川と喧嘩するのか」
「喧嘩じゃなくて、時間稼ぎ」
澪はそう言って、押し入れの方へ走った。
長靴でよかった。
普通の靴なら、ここで終わっていた。
六畳間へ戻った澪は、カッパを脱がなかった。
床に水滴が落ちる。長靴の泥がビニールシートの上に小さく残る。いつもなら雑巾を持つところだが、今はそれどころではない。
スマホで近くのホームセンターを検索する。
営業時間、在庫、距離。
会社の口座にはお金がある。
ただし、これから買うものは、薬草でも容器でもグリセリンでもない。
澪は財布と法人カードを確認し、カッパ姿のまま部屋を出た。
ホームセンターの入口に立った時点で、澪は自分が何屋なのか少し分からなくなっていた。
最初はブルーシートと袋を買うつもりだった。
しかし、売り場を歩くたびに川沿いの土手が目に浮かぶ。茶色い水。削れた土。市場の低い側。荷物を上げる人。水が入りそうな口。孤児院側の低い道。セルマ工房の薬棚。
カートは1台では足りなかった。
大判ブルーシートをありったけ。
中判も小判もありったけ。
吸水式土嚢袋の棚を見つけると、澪は説明書きを読んで足を止めた。
水で膨らむ。
土を詰めなくていい。
玄関、敷居、低い入口。
「ありったけ」
棚にある分をカートへ入れた。
土嚢袋、UV土のう袋、ガラ袋、厚手ビニール袋、大型ゴミ袋。袋という袋を積んでいく。ロープ、杭、ペグ、結束バンド、防水テープ、養生テープ。軍手、ゴム手袋。長靴、レインウェア、レインポンチョ。スコップ、角スコップ、折りたたみスコップ。
カートは2台になった。
それでも足りない。
園芸資材売り場の端で、一輪車が並んでいた。
いわゆるネコ。
土、砂利、土嚢、濡れた資材。人が抱えるより、絶対に早い。
澪は3台買った。
その時点で、カートは完全に災害対策本部の備品倉庫だった。
台車、バケツ、タライ、プラ舟、コンテナボックス、折りたたみ作業台、LED作業灯、ヘッドライト、防水ライト、防水ケース、チャック袋、タオル、雑巾、簡易救急用品。
積めるものは積んだ。
会計の金額は、約1,000,000円。
レシートは長かった。
とても長かった。
澪はそれを見て、明石さんの顔を思い出した。
「防災用品です。会社に必要な防災用品です」
誰に向かって言っているのか分からない。
けれど、言わないと耐えられなかった。
レシートと領収書は会社用封筒へ入れた。さらにスマホで、カートに積んだ資材の写真を撮った。ブルーシートの山。袋の束。ロープ。一輪車。
会社は証拠でできている。
覚えたくない言葉ほど、役に立つ。
一輪車3台は、普通に持ち帰れるものではなかった。
澪はホームセンターの駐車場脇、資材置き場の陰へ一輪車を押していった。雨は小降りになっていたが、空は暗い。濡れたアスファルトが車のライトを反射している。
周囲を見る。
右。
左。
店員はいない。
客もいない。
ただ、防犯カメラの位置が気になった。
「見られてない。たぶん見られてない」
たぶん、という言葉が自分で怖い。
澪は一輪車の取っ手を握り、収納へ登録した。
消える。
1台目。
2台目。
3台目。
人目のない駐車場の隅で、一輪車が次々と消えていく光景は、自分でやっていてもかなり怪しかった。
「防犯カメラは……考えるな」
最後の一輪車を収納した後、澪はカッパのフードを深くかぶった。
「会社の仕入れというより、夜逃げの逆みたい……」
買ったものを持って逃げるのではない。
買ったものを、見えないところへ消してから、別の世界へ持っていく。
説明できない。
明石さんにも、親にも、絶対に説明できない。
澪は資材を抱えたふりをして、ホームセンターを後にした。
六畳間は、一度、青くなった。
ブルーシートを分類しようとして広げたら、床がほぼ全部青になった。澪はその上で正座し、しばらく動けなかった。
「これは部屋じゃなくて工事現場……」
吸水式土嚢袋は、水に濡らさないよう別にする。土嚢袋と厚手ビニール袋はサイズ別に分ける。ロープと結束バンド、テープ、軍手、スコップ、ヘッドライト、防水ライト、救急用品は用途別にまとめる。段ボール箱は水に当てない。空のまま収納登録する。
収納は便利だ。
だが、分類しないと便利にならない。
澪は一つひとつ手で触りながら、用途を意識した。
土嚢用袋。
吸水式土嚢袋。
荷物保護用シート。
水除け用シート。
運搬用箱。
現場道具一式。
雨具予備。
作業灯。
救急用品。
収納へ入れるたび、頭の中の棚が増えていく。物を入れているのに、部屋は片づき、頭の中は散らかっていく気がした。
「押入商会、そろそろ倉庫会社も名乗れるかもしれない」
名乗りたくはなかった。
澪は最後に、会社用封筒へレシートを入れ、濡れないようチャック袋へ入れた。封筒そのものが湿気でしんなりしていたので、会社用封筒のための防水袋が必要だと気づく。
また買うものが増えた。
考えないことにして、澪は押し入れを開けた。
川沿いへ戻ると、水音がさらに大きくなっていた。
土手の削れた口から、市場側へ細い水が流れ出している。まだ大きな流れではない。だが放っておけば、すぐ太くなるのが分かる。
澪は収納から、まずブルーシートの束を出した。
青い塊が濡れた石畳に積まれる。
次に土嚢袋、厚手袋、ロープ、杭、軍手、スコップ、バケツ、タライ、プラ舟、コンテナボックス、作業灯。次々と出すたび、周囲の人が一歩引いた。
最後に、一輪車を3台出した。
浅い鉄の受け皿に車輪が1つ、長い取っ手が2本。見慣れない道具に、荷運び人たちが黙った。
アルベルトが近づき、一輪車の取っ手を握って前へ押した。
「土を運ぶ道具か」
「はい。土も、砂利も、土嚢も運べます。重いものを抱えなくて済みます」
リュシアがすぐに荷運び人を呼んだ。
「これを使える者を3人。泥の道で倒すなよ。高い」
澪は小さく言った。
「高いんですけど、今は使ってください」
エレナはブルーシートを指でつまみ、雨に濡れても水を吸わないことに目を丸くした。
「布ではないのですか」
「布みたいに使える、水を通しにくいシートです」
「しーと」
「青い防水布で大丈夫です」
アルベルトは広げかけたブルーシートを見て、驚くより早く用途を決めた。
「澪殿。これは、店をひとつ持ってきたのか」
「ホームセンターの一角です」
「ほーむ……?」
「資材屋です。大きい資材屋」
アルベルトは短く頷いた。
「なら、資材屋の中身をこちらで使わせてもらう」
その声で、周囲の大人たちの目つきが変わった。
澪は土嚢袋の束を持ち上げる。
「袋に土を入れて、壁にします」
「土を運ぶためではなく、置いて水をそらすのか」
「はい。止めるというより、水の流れをそらします」
トトが一輪車の取っ手に手をかけようとして、リュシアに首根っこをつかまれた。
「お前はそれじゃない。空袋と紐だ」
「俺も土嚢やる」
「重いのは大人。走るのはお前」
トトは不満そうだったが、すぐに空袋の束を抱えた。軽いものだけ。大人が見ているところで、短く走る。
エレナも市場の子どもたちへ声をかけた。
「あなたたちは、タオルと札をこちらへ。川の方へは行かないで。兄様に叱られるのは私だけで十分です」
子どもたちは少し笑い、それで動き始めた。
アルベルトは資材を見て、迷わなかった。
「大判の青い布は川側だ。水を受けて横へ逃がす。中判は荷物置き場へ敷け。小さいものは薬と容器の上にかけろ」
護衛と市場組合の者が動く。青いシートが雨の中で広げられ、濡れた地面の上に異様なほど鮮やかな色を落とした。
リュシアは吸水式土嚢袋の束を見た。
「吸う袋は店の入口と荷置き場。本線には土入りを使う」
アルベルトも続ける。
「ネコは土場へ回せ。押して運べる者を3人つける。台車は濡らしたくない荷物だ。プラ舟は土と砂利の仮置き。灯りは暗くなった時まで残せ」
澪はその指示を聞きながら、ほっとした。
道具を持ってきたのは澪だ。
でも、現場を動かしているのはアルベルトたちだった。
どこへ置くか。
誰が運ぶか。
どの道を空けるか。
どの商品を先に上げるか。
それは、澪だけでは分からない。
リュシアは市場側を振り返り、店ごとの荷を見て指示を出している。
「あっちの布包みを先に上げる。紙札は濡れる前に外せ。薬と容器は青い布の上だ。木箱は高い台へ。水売りの桶は通路を塞ぐな」
澪は、自分が持ってきた資材が、この町の人の手で使われ始めるのを見た。
少しだけ、胸が熱くなった。
その直後、最初の袋が破れた。
犯人は澪だった。
急いでいた。焦っていた。土嚢は重いほど強いと思った。
厚手袋へ土を詰める。もっと入る。まだ入る。そう思って袋いっぱいにした。持ち上げた瞬間、底が伸びた。
嫌な音がした。
泥が漏れた。
袋の端から茶色い水が垂れ、澪の長靴にべちゃりと落ちた。
周囲が一瞬固まる。
澪の顔が熱くなった。
「入れすぎだね」
リュシアの声は冷静だった。
「土嚢って、たくさん入れれば強いんじゃ」
「持てない袋は、壁になる前に荷物になるよ」
アルベルトが破れた袋を見て、すぐに指示を出した。
「半分から7割だ。平たく置ける重さにしろ。袋は立てるな。寝かせて積む」
荷運び人の一人が、土を少なめに入れた袋を地面に置いて、手のひらで平たくならした。
「こうだ。腹を作る。丸いままだと水に押される」
澪は頷いた。
「腹を作る……」
「袋にも腹があるんだよ」
リュシアが言う。
分かったような、分からないような言い方だったが、現物を見ると分かった。
土を入れすぎた袋は持ちにくい。置きにくい。積みにくい。平たく置ける程度の方が、水を受ける面を作れる。
澪は収納の中で、袋と土と砂利と泥を意識し直した。
入れすぎない。
平たく。
持てる重さ。
積める厚み。
同じ形。
同じくらいの重さ。
土、砂利、泥を収納へ入れる。
厚手ビニール袋を二重にする。
土嚢袋も登録する。
袋ごとに約60%。
平たく置ける形。
出す。
ドサ。
ドサ。
ドサ。
泥の匂いをまとった即席土嚢が、澪の足元に次々と出た。袋の腹は平たく、持ち手の近くに少し余裕がある。積むための形になっている。
澪は鑑定した。
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即席土嚢
外装:厚手ビニール袋 二重
内容:土、砂利、泥
充填率:約60%
形状:平積み向き
用途:越水防止、水流誘導
注意:鋭利な石、過充填、流木の直撃
----------------------------------
「流木の直撃……」
澪は青ざめた。
アルベルトがすぐ反応した。
「流れてくる枝が当たる場所には板を置け。石で押さえる。袋だけを前に出すな」
護衛が板を運ぶ。荷運び人が一輪車で土を運ぶ。リュシアが袋を惜しむなと言う。エレナが子どもたちを川から遠ざけ、空袋とタオルだけを運ばせる。
澪は土嚢を出し続けた。
ドサ。
ドサ。
ドサ。
収納の中で、土と袋が形になっていく。
ただ詰めているのではない。
使える形に整えている。
吸水式土嚢袋は、思ったよりも奇妙だった。
澪は薄い袋を1枚取り出し、水たまりに沈めた。最初は頼りないほど薄かった袋が、水を吸って、じわじわと厚くなっていく。
トトが目を丸くした。
「袋が太った」
「太ったんじゃなくて、水を吸ったの」
エレナもしゃがみ込み、濡れた手で袋の端をつついた。
「水を止めるために、水を吸わせるのですか」
「そうです。川と正面から喧嘩するんじゃなくて、入口とか隙間を塞ぐ用です」
エレナは、膨らんだ袋を真剣に見た。
「水を敵にしながら、水を味方にするのですね」
澪は少し考えた。
「たぶん、そうです」
「たぶん?」
「この手の道具は、使い方を間違えると負けます」
アルベルトは膨らんだ吸水式土嚢袋を一度持ち上げ、重さと柔らかさを確かめた。
「工房の入口、孤児院側の低い敷居、荷物置き場の周囲へ回せ。川沿いの本線には土入りを使う」
指示が飛ぶ。
吸水式土嚢袋は、水の細い侵入を止める場所へ運ばれた。店の入口。荷物置き場の周囲。セルマ工房へ向かう低い敷居。孤児院側の道の端。
川と正面からぶつかる場所には、土入り土嚢。
隙間には、吸水式土嚢袋。
道具の役割が分かれていく。
澪は胸の中で小さく頷いた。
万能ではない。
でも、使いどころが合えば強い。
土嚢列は、人の手で形になった。
アルベルトが人員を配置する。護衛は板と石。市場組合の者はロープと杭。荷運び人は一輪車で土嚢を運ぶ。職人は板を切り、濡れた手でロープを結ぶ。リュシアは市場側の荷を上げる順番を決め、店の者へ怒鳴る。
「紙札は外せ。濡れる前に上へ。薬と容器は青い布の上だ。木箱は端へ寄せるな。通路を空けろ」
エレナは子どもたちを集め、空袋とタオルと軽い札だけを運ばせた。
「重いものは大人に任せなさい。あなたはその紐を、あちらのリュシアさんへ。走らない。滑るから歩く」
トトは伝令として走りたがったが、リュシアに襟首をつかまれた。
「走る道を選べ。泥のとこで転んだら、お前が荷物になる」
「俺、荷物じゃない」
「転んだら荷物だよ」
トトは口を尖らせながらも、乾いた布を抱えて別の通路へ走った。
澪は即席土嚢を出し続ける。
土嚢は互い違いに積まれた。ブルーシートは土嚢列の内側に敷かれ、端を板と石で押さえられる。ロープが杭へ結ばれ、流されないように固定される。
澪は一度、土嚢を積む向きを間違えた。
「それだと水を受ける」
現場の大人がすぐに直した。
澪は素直に下がった。
「すみません」
「道具を出してくれりゃ十分だ。水の癖はこっちが見る」
水の癖。
その言葉が、妙に現場らしかった。
アルベルトも土嚢列の前に立ち、水の流れを見ている。澪の道具を使っているが、現場の組み立ては彼らの判断だった。
その時、土手の削れた場所から、ひときわ強い水が入り込んだ。
土嚢列に当たる。
袋が少し動く。
「追加!」
アルベルトの声が飛ぶ。
澪は収納から土嚢を出した。荷運び人が一輪車へ積む。リュシアが置き場所を指す。ブルーシートが水を受け、流れを横へ逃がす。
完全には止まらない。
水は土嚢列の前で泡立ち、隙間を探すように揺れた。
だが、市場へまっすぐ入る勢いは弱まった。
リュシアが顔を上げた。
「荷を上げる時間はできた。急げ!」
店の者たちが木箱を持ち上げる。布包みが高い台へ移される。容器の入った箱が青いシートの上へ置かれる。紙札は濡れる前に外され、別の箱へ放り込まれる。
エレナが一瞬、顔を明るくした。
「兄様、止まりました」
アルベルトは首を横に振った。
「止めたのではない。時間を買っただけだ」
澪は土嚢列を見た。
「時間を買うための袋ですね」
リュシアは濡れた髪をかき上げ、にやりとした。
「高い袋だが、市場が沈むより安い」
トトが戻ってきた時、息は上がっていたが、目はしっかりしていた。
「孤児院の方、低い道にも水が来そう」
澪はすぐに追加の即席土嚢を出した。重いものは大人が運ぶ。子どもたちは空袋と紐とタオルだけ。エレナが何度も念を押す。
「川へは近づかない。重い袋は持たない。滑る場所は歩かない」
孤児院側の低い道では、水が細く流れ始めていた。澪は吸水式土嚢袋をいくつか膨らませ、入口の低い敷居に置く。大人たちが土入り土嚢を運び、道の端へ並べる。
シスターがウォーターバッグを高い棚へ移していた。濡れた床の近くに置けば、泥のついた足が触れる。雨水があるからといって、清潔な水袋を泥に近づけてよいわけではない。
「そこ、もう1段上です」
澪が言うと、シスターは頷き、別の棚を空けた。
「水はあるのに、水を守るのですね」
「はい。雨の水と、清潔な水袋は別です」
言いながら、澪は自分でも少し驚いた。
水を持ち込んだ時より、ずっと自然に言えた。
水は、ただあればいいわけではない。
どう置くか。
どう守るか。
どう使うか。
その全部が、商売や暮らしにつながっていた。
セルマ工房では、セルマがすでに薬を高い棚へ移していた。
澄み手当て一式。グリセリン。透明ボトル。20mlクリームケース。月塩。蜜晶。
防水袋、防水ラベル、乾燥剤、密閉ケースが役に立っていた。飲用と塗布用の区別は濡れても分かる。薬の外袋は青いシートの上に置かれ、床から離されている。
セルマは濡れた外套の肩を払う澪を見て、工房の外の水音へ耳を向けた。
「薬瓶が濡れなくても、道が水に沈めば届かないのね」
澪はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「薬を売るって、瓶だけ守ればいいわけじゃないんですね」
「そうね。薬を作るのは工房の中だけれど、薬が届くのは道の上だわ」
セルマは棚に並んだ容器を見た。
「今日は、道も薬の一部だったのね」
澪は泥のついた長靴を見た。
薬を守るために、川の水まで少しだけ押し返している。
押入商会が、また変な方向へ広がっている。
でも、間違ってはいない気がした。
雨は、夕方近くになって少し弱まった。
土嚢列は泥まみれだった。袋のいくつかはこすれ、ブルーシートの端には小枝が引っかかっている。それでも、まだ持っている。
市場の低い側は濡れたが、完全には水没しなかった。荷物の大半は上げられた。薬と容器も守られた。孤児院側の低い道も、土嚢と吸水式土嚢袋でどうにか持ちこたえている。
アルベルトは土嚢列を確認し、澪へ向き直った。
「澪殿、助かった。だが、これはあなた一人の手柄ではないと、こちらで記録する」
澪は慌てて首を振った。
「はい。私だけでは積めませんでした。どこに置くかも、全然分かってなかったです」
アルベルトは少しだけ口元を緩めた。
「道具は、持ってくる者と、使う者がそろって初めて役に立つ」
リュシアが横から言った。
「その道具が高いことも、忘れないでおくれよ」
「忘れたいです」
「忘れたら請求するよ」
澪は笑う気力が少しだけ戻った。
エレナは、澪の長靴とカッパ、それから一輪車を順番に見ていた。
「澪さん、その長靴は泥が入らないのですね」
「ある程度は」
「この青い布も、水を吸わない」
「はい」
「ネコも、押すと土が運べる」
「はい」
エレナの目が輝いた。
「兄様、これは防災備品として侯爵家に」
「エレナ、まず今日使った分の後始末だ」
「はい、兄様」
リュシアはブルーシートの束を見ながら、すでに商売の顔をしていた。
「これは売れるね」
「まずは防災備品です」
「分かってるよ。まずは、ね」
その「まずは」が怖い。
澪は何か言い返そうとしたが、足元がふらついた。
濡れた石畳に手をついた。
膝が笑っている。腕も重い。収納から何十個も即席土嚢を出し、土、砂利、泥、袋、形、重さを意識し続けたせいで、頭の奥が熱い。
澪は泥のついた長靴のまま、座り込みかけた。
その時、視界の端に鑑定表示が浮かんだ。
----------------------------------
篠原澪
体力:大きく低下
集中:高
鑑定:6
収納:8
錬金:4
商才:上昇中
手仕事:成長中
彫金:1
新規経験:緊急物資供給
新規経験:複合素材充填
新規経験:用途別整形
備考:収納内で、素材を現場で使える形へ整えた
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澪は表示を見て、しばらく黙った。
「……土嚢を作ったら、錬金が上がった」
声がかすれていた。
セルマが近づき、表示を覗き込むように澪の顔を見た。もちろんセルマには鑑定表示そのものは見えない。ただ、澪の反応で何かが起きたことは分かったらしい。
「何が上がったの」
「収納が8になって、錬金が4になりました」
リュシアが吹き出した。
「押し入れが今度は土木屋になったか」
「なってません」
澪はすぐに収納を鑑定した。
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収納:8
新規理解:工程収納
大容量登録:強化
重量調整:強化
複合素材充填:可能
同一規格出庫:可能
連続出庫:強化
新規機能:整形
登録履歴保持:可能
備考:保管・分離だけでなく、用途に合わせて形を整えられる
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「整形……土嚢専用じゃない」
澪はそこに少しほっとした。
土嚢だけの能力だったら、押入商会の未来が本当に土木屋になってしまう。
さらに錬金を鑑定する。
----------------------------------
錬金:4
新規理解:素材整形
溶解:補助
固形化:補助
整形:補助
備考:素材を用途に合わせて扱う感覚が強化された
----------------------------------
セルマは黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「素材を用途に合わせて形作るのなら、それは錬金術の入り口でもあるわ」
「土と袋ですよ」
「土と袋でも、形と重さと使い道をそろえたのでしょう」
澪は土嚢列を見た。
袋に土を入れただけではない。
重さをそろえ、平たさを作り、積めるように出した。
使う場所に合わせて、形を整えた。
整形。
言葉は地味だったが、妙にしっくり来た。
「薬材とか、包装とか、粘土とか、金属塊にも使えるかもしれないですね」
言ってから、自分で少し怖くなった。
リュシアが笑う。
「便利そうなことを言ったね」
「聞かなかったことにしてください」
「無理だね」
澪は泥のついた手袋を見た。
今日はもう、何も考えたくなかった。
現代側へ戻った時、六畳間は静かだった。
窓の外では、まだ雨が降っている。こちら側の雨は、異世界の川の水音に比べればずっと細い。けれど、澪のカッパから落ちる泥水は、はっきりと六畳間の床を汚した。
長靴も泥だらけ。
腕はだるい。
収納を使ったのに、体力と集中はしっかり削れていた。
澪はローテーブルの前に座り、会社用封筒を出した。約1,000,000円分のホームセンターのレシートは、まだ長い。封筒から少しはみ出している。
スマホには、資材の写真が保存されている。
ブルーシート。
吸水式土嚢袋。
土嚢袋。
一輪車。
ロープ。
スコップ。
長いレシート。
明石さんへの用途説明メモを書かなければならない。
澪は記録帳を開き、ペンを持った。
洪水応急資材。
市場保全。
納品経路保護。
薬品保管場所防水。
水袋保護。
作業安全用品。
そこまで書くつもりだった。
だが、ペン先は「作業安」まで書いたところで止まった。
まぶたが重い。
ローテーブルの木目が近づいてくる。
泥のついた長靴が、視界の端にある。
ホームセンターの長いレシートが、封筒からだらりとはみ出している。
澪は最後に、明石さんの顔を思い出した。
用途説明。
証拠。
会社は証拠でできている。
分かっている。
分かっているけれど、眠い。
白金インゴットを売った押入商会は、防水ラベルと乾燥剤だけでは足りなかった。
次に帳面へ書き込まれたのは、厚手ビニール袋、吸水式土嚢袋、ブルーシート、ロープ、一輪車、折りたたみスコップ。
そして澪は、明石さんへの用途説明メモを「作業安」まで書いたところで、泥のついた長靴の横に突っ伏して眠ってしまった。