クラウスは、昨年の出動回答を机の端へ押しやった。
温め直された茶には、もう湯気がなかった。
「軍務系の伯爵や侯爵が、どの部隊を握っているかなど承知している」
クラウスは、提出された資料からベルクマンへ目を移した。
「今さら派閥の名簿を見せられても困るよ。私が知りたいのは、次に救援を求められた時、誰が兵を集められるかだ」
「隠されていたのは名前ではありません。王命が出た時に、実際に動ける兵の数です」
「王都に出動命令を下せば、誰が応じる?」
「部隊長でございます。ただし、兵を呼び集める者、将校を任じる者、給金を渡す者は、各家の管理者です」
ベルクマンは、部隊長の名が載った欄へ指を置いた。
その下には、違う筆跡で別の名が添えられている。
「この将校に命じても、兵を集めるにはこちらの者を通す、と」
「はい」
クラウスの指が止まった。
息子が救援を待つ間に受け取ったのは、この名を通して戻った言葉だった。
「人数の裏付けは?」
「添えられておりませんでした」
「そして金は渡していた」
ベルクマンは答える前に、給金の支給元を開いた。
「国庫から各部隊へ出しております。受け取る窓口は、家ごとの管理者です」
真壁は、重なった欄を眺めてから茶碗を置いた。
「陛下の命令に従う軍なのか、貴族のお許しを待つ軍なのか。ずいぶん奇妙なことですな」
「真壁君。奇妙だからといって、皆が虚偽を申し立てたわけではないよ」
「無論です。正直な者まで、同じ所で待たされるのでしょう」
クラウスは、ベルクマンが押さえている部隊長の名を見た。
この者がいくら兵を出そうとしても、給金と任命を握る相手に逆らえば、次には自分の席がなくなる。
「君が、私に見せたかったのはこれかね」
「はい。人数だけを直しても、同じ回答が戻ってまいります」
ベルクマンは鞄に残していた紙を取り出した。
「先に、ご覧いただきたいものがございます」
ベルクマンが広げた2枚の紙は、同じ部隊を扱っていた。
片方では、王宮から引かれた線が軍務省で分かれ、幾つもの家名を通って兵へ届く。
もう片方には、その家名がなかった。
「陛下の軍である以上、誰が養い、誰が任じ、誰が動かすのかを一つにすべきです」
クラウスは新しい図を自分の方へ寄せた。
「家々が受け取っていた金は?」
「まとめて預ける慣行を廃します。国の支給官が、本人へ渡すようにいたします」
クラウスは、紙から顔を上げた。
「指揮官を外せば、その家に従って帰る兵もいるだろう」
「兵に罪はありません。役目も給金も続くと、現場の将校から伝えます」
「将校にも伯爵家の者がいる」
「能力があるなら任官を継続すればよろしいかと。ただし、官職を家督と一緒に相続させてはなりません」
「名門のご子息にも、働いていただける」
ベルクマンは真壁にも、候補者の名を隠さなかった。
クラウスは、商人へそこまで見せる次官を一度見直した。
ベルクマンは、その中から王都の当直指揮官を示した。
「こちらは現に兵を率いている者です。発令官と支給官も、今ある官署の者を任じ直します」
「各地の兵糧まで、同じ朝に引き継げるわけではあるまい」
「遠方へは使者が運びます。その間も守備と給金を止めぬよう、引渡しを受ける担当を添えて送り出します」
「それなら、近い部隊から順に……」
「命令は、一度に出していただかねばなりません」
ベルクマンの指が、家名のない図を押さえた。
「次に外される家へ備える時間を与えれば、担当官を送っても門を開けてはもらえません」
「君は、大臣の席だけを替えるつもりではないのだね」
「補給庫の鍵を旧家が持ったままでは、誰を任じても兵を動かせません」
真壁は、給金の受渡先と倉庫の欄を指でたどった。
「首を替えるより、鍵と財布を移す方が手間でしょうな」
「これは軍務大臣へ提出した案かね?」
「いいえ。以前の案は、実員に合わせた再編までです」
ベルクマンは、古い方の図を折った。
「こちらは、その先を考えたものでございます」
クラウスは椅子の背から身体を起こし、昨年の救援経路を開いた。
王都とベラクルスの間を指でたどると、紙の折り目が爪に触れた。
「君の案には筋が通っている」
ベルクマンへそう言ってから、家名の並ぶ古い図を見直した。
「だが、諸侯を順に外せば、残る者たちは手を組むだろう。兵を出せぬという返答なら困るが、今度はこちらへ兵を向けられる」
「順に外す必要などありますまい」
真壁は、経路図の浮いた端を押さえた。
「皆、軍を握っておるのだよ。君はそれを承知で言うのかね」
「ええ。だからこそ、彼らは国家に巣食う害虫なのですな」
クラウスの眉が動いた。
「……真壁君」
「お気に障りましたかな。では、ベラクルスの折に何が起きたか、お考えいただきたい」
真壁の指は、王都から動かなかった。
「国庫から給金と装備を受け取り、王国が兵を求めれば『動かせぬ』と申す。実に立派な軍務貴族ではありませんか」
「だからといって、全員を罪人にすることはできぬ」
「清廉な方なら、陛下へ軍をお返しするのに何の不都合がありましょう?」
クラウスは口を開きかけ、経路図へ目を落とした。
「兵士の生活は守らねばなりません」
ベルクマンが、給金の紙を2人の間へ戻した。
「命じる者を外したために、兵が食べられなくなっては……」
「そこは君に任せたい」
真壁はベルクマンを見た。
「兵を守ることと、兵を私物にする者を守ることは別でしょう」
「だからこそ、支給を先に用意いたします」
ベルクマンの声は低かったが、引かなかった。
クラウスは、経路図の王都を見つめた。
「国が暴力を独占する。だが、その国へ向けて刃を向けられれば?」
「軍とは、国家が責任を負って行使する暴力です。貴族の方々の持ち物にするには、少々危険すぎる」
真壁は紙から手を離した。
「禍根を残せば、また同じことです。いずれこの王国を、亡国へと導きましょうな」
クラウスが家名を目で追う間、真壁は返事を待たなかった。
「相談してはいけませんな。互いに示し合わせる時間を与えるだけですから」
「まさか、王都へ全員集めて捕らえようと?」
「一網打尽になさることです」
真壁は、家名のある図を持ち上げた。
「必要なのは、首だけではありません。ご自慢の指揮権も、金庫も、印章も、同じ日に手放していただくことですよ」
「爵位を持つ者を皆、拘束するわけではありませんな」
ベルクマンが念を押した。
「無論。真っ当な方には、真っ当な仕事を続けていただけばよい。家の名前で兵を動かす仕事だけは終わりですがね」
クラウスは、折られた古い図を受け取った。
「いつから、それほど軍政に詳しくなったのかね」
「少々、昔の職業病でしてね。もっとも、学費の高い勉強ではありましたが」
真壁はそれ以上語らず、茶碗を持ち上げた。
「そんな日に、諸侯が素直に1か所へ集まるものか」
クラウスが尋ねると、真壁は茶を飲む前に目を戻した。
「それは、集まりたくなるお話を差し上げれば済むことです」
午後の王宮では、廊下の石床に高窓の光が落ちていた。
国王の机には祝宴の招待状が置かれている。
クラウスはベルクマンを伴い、軍籍の対照表をその脇へ差し出した。
「軍務大臣の話は、まだ聞いておらぬぞ」
「それを待っていた結果が、この空欄でございます」
国王は表を引き寄せ、数字のない欄を見た。
「王都は守られておる。兵がいないと言うのか」
「いないとは申しません」
ベルクマンは、玉座ではなく王の手元へ目を向けて答えた。
「おります。しかし、王宮からの出動命令で何人を集められるか、保証できませぬ」
「軍務省の次官が、それを知らぬのか?」
「報告の人数なら申し上げられます。現に集められる人数をお尋ねでしたら、同じ数をお答えすることはできません」
王は招待状を裏返した。
遠くで警備兵の装具が触れ合い、その音へ一度顔を向ける。
「では、もし今夜王宮に何かあったら?」
「宮内の警備兵はおります。ただ、その周囲の軍が何人応じるか、確かめておりません」
「……余の城の守りまで、諸侯が決めるのか?」
「陛下がお命じになった人数を、臣下が示せぬ状況でございます」
クラウスは返答を急がず、王が表を置くのを待った。
「軍務大臣を呼べ!」
「お呼びになれば、この数字を持つ者たちは動きます」
王の手が呼鈴の前で止まった。
「先に、国王陛下の印で保管庫を封じさせてください」
「証拠を隠すとでも言うのか」
「その疑いを生まぬためにも、今ある原本を、今あるまま守る必要がございます」
王は、ベルクマンの顔を見た。
「……そこまでだ。調べるのはよい。諸侯への処分を勝手に決めるな」
「仰せのとおり。処分は、改めて陛下にご判断いただきます」
クラウスは、保全と立会いを求める書面を開いた。
王が筆を取る間、ベルクマンは机の端から招待状をずらし、署名する欄の下を空けた。
乾くのを待って受け取った王の印は、今朝のどの報告より重かった。
数日後、侯爵邸の小応接室に財務大臣が訪れた。
卓上には、真壁が持ち込んだ簡素な図が広げられていた。
「反対派を一度に呼ぶ方法は?」
クラウスの問いに、真壁は図を差し向けた。
「皆様に船をご用意しましょう」
財務大臣が、持ち上げた茶碗を途中で止めた。
「買う金の話を、またここでするのですか」
「先方が欲しくてたまらぬものを差し出すのが、いちばん穏当ですよ」
「穏当という言葉を、今ここで使うのですか」
真壁は動じず、図の船体を指した。
「小型飛行船の軍用導入について、ご相談を受けてもよろしいかと」
ベルクマンは、図の下に書かれた用途へ目を走らせた。
連絡、偵察、少人数の移動。
「この型式は、実際に完成しているのですか?」
「いいえ。用途に応じた設計と供給の可能性を話す段階です」
「そんな話に、諸侯が来るものかね」
「国王陛下の御前で、将来の優先協議先を選ぶ」
真壁は、招集文の候補を図へ重ねた。
「競争相手だけが席に着くのを、皆様が黙って見ておられるとは思えませんな」
「代理を寄越したら?」
「用途も部隊も、その場で決められる方に来ていただく。持ち帰って伺う方には、次の席をお待ちいただけばよい」
「価格は書いてありませんね」
「どのような軍に、何を運ぶか。それを伺う前には決められませんから」
「ならば、運用する部隊と動員人数を書いていただきたい」
ベルクマンが招集文の末尾を示した。
「軍務省にある数字だけでなく、運用を決める方の回答を添えていただきます」
「まことに結構。欲しい船の話をするなら、乗せる人間の話もしていただかねば」
クラウスは、真壁の方へ向き直った。
「商会の名で、納期や販売を確約することは?」
「いたしません。代表の決裁を代わって下す話ではありませんので。最初に聞くのは、皆様の希望です」
財務大臣が、図の上から茶碗を退けた。
「しかし君の話は、単なる説明会には見えませんね」
「さて。商売を始める前に、国の側で片付けていただきたいことがあるだけですよ」
クラウスは招集文を手元へ寄せた。
「王の臨席は、私が取りつける。次官、随行の扱いを警備長と詰めてくれ」
「承知いたしました」
「諸侯を集めても、軍務省から命令を出せるなら意味がありませんな」
真壁の言葉に、ベルクマンがもう1枚を取り出した。
王都の発令官と、国庫の支給官の担当が書かれていた。
クラウスは図を閉じず、その紙を隣へ置かせた。
王宮の保管室は、日が高くなっても冷えていた。
棚から出された綴りに顔を寄せると、乾いた糊の匂いがする。
ベルクマンは、昨年の西営の報告を開いた。
「兵籍は480名です」
財務大臣が、すぐに横の欄へ目を移した。
「こちらは226名」
「点呼で確かめられた者です。病欠や異動など、事情を追える不在が92名。残る162名は、所在を調べきれておりませんでした」
クラウスは合計の欄を見てから、次官が書き添えた文字を読んだ。
所在照合未了。
「この注記が、陛下への報告にはない」
「はい」
ベルクマンは王宮側が保管していた最終報告を並べた。
同じ西営の名の下で、162名は王都守備に充当された人数へ加えられていた。
財務大臣が、2枚の間へ指を置いた。
「所在の分からぬ者が、こちらでは王都を守っていたことになっている?」
「私が提出したものでは、未了といたしました」
転記を担当した官吏が、軍務省から持参された指示控えを差し出した。
「大臣官房から、これが戻ってまいりました」
「読んでくれるかね」
「『所在照合未了の162名も、王都守備充当欄へ算入せよ』」
ベルクマンには見慣れた署名だった。
「あなたが、このとおりに直した?」
「はい。こちらが転記の控えです。未了の注記も、その時に落としました」
削られた欄へ置かれた官吏の指が、紙をこすった。
ベルクマンは自分の原案を引き寄せた。
「私は、差し戻しを求めておりました。所在の分からぬ者を、守備に就いていると申告してはならないと」
「その報告を大臣が受けた日と、指示の日を照らしてくれ」
官吏が受領の綴りを開くと、元の報告、書き換えの指示、王宮の受領の順に日付が並んだ。
「ほう。兵を集めるより、数字を動かす方がお得意だったようですな」
財務大臣は、署名の脇へ指を置いた。
「未確認者の所在と、公金の横領は別の話です。ですが、王へ示す兵力を変えた命令者は、これではっきりしました」
ベルクマンは返事をせず、元の注記を見つめた。
去年、伝わらなかったのではないかと何度も考えた言葉が、ここには読める形で残っていた。
読んだ上で消すよう命じられている。
その午後、軍務省の保管部署へ、大臣官房の側近が来た。
外套には雨の匂いが残っていた。
「年度整理のため、西営の綴りを官房へ移す。係の者に運ばせろ」
受け取った官吏は、棚の扉へ目を向けた。
そこには王の印のある封が掛かっている。
監査官が書状を読み、棚の前へ立った。
「こちらは、陛下の命により保全しております」
「軍務大臣の命に背くつもりか!」
側近は、廊下から来たベルクマンを見つけた。
「次官。貴様の差し金か。兵務の原簿を、誰の権限で留め置く!」
「国王陛下の保全命令によります」
ベルクマンは封へ手を触れず、側近が持参した書状を示した。
「大臣閣下の命令を無かったことにはいたしません。こちらも、そのまま保管させていただきます」
側近の手が伸びかけた。
監査官が受け取った書状を、卓上へ置く。
廊下の向こうで、衛兵の金具が鳴った。
「……覚えておけ」
「何を命じられたかは、もう残りました」
側近は棚を睨み、外套を翻した。
夕方、侯爵邸で報告を受けたクラウスは、数字の綴りより先に移送の書状を読んだ。
「移したものはないのだね」
「はい。王印をお示しし、止めました」
「ベルグナー伯爵の方は?」
財務大臣が尋ねると、監査官は別の証明書を開いた。
「伯爵が自署した『全員現任』の証明です。前日の点呼不一致の報告を届けた者と、伯爵家で受け取った担当者の説明も得ました」
「署名は本人のものか」
「ほかの署名資料とも一致しております。ただし、報告をどう受け止めたかは、本人に聞かねばなりません」
「そこまででよい。裁くのは後だ」
クラウスは大臣の書状と伯爵の証明を、別々に置かせた。
「相手は調査を察した。次の使いを待つ余裕はないね」
ベルクマンは、王都の当直指揮官へ渡す職務案を開いた。
財務大臣も、支給窓口の担当を書き込んだ紙を取り出す。
クラウスは2人を見て、招集の文面を机の中央へ置いた。
王の招集は、雨上がりの王都から騎馬の使者が運んだ。
軍務大臣を務めるヴォルフラム・フォルケンラート侯爵は、招集状を読み、側近へ差し戻した。
「やっと私の進言が通ったか。小型船なら王都軍に回すのが筋だ」
「閣下、あくまで協議とございます」
「知っておる。だから私が出るのだ。ほかの侯爵家に先んじられてたまるものか」
側近は、礼装を用意する者へ目配せしてから声を落とした。
「それと、例の保管庫ですが……王印があり、綴りを移せませんでした」
大臣の指が、招集状の端を折った。
「陛下の印だと? クラウスめ……」
大臣は窓の外へ顔を向け、それから書面を机に伏せた。
「西営の指揮官へ私の名で伝えろ。何かあれば、命を待つようにな」
「通常の伝令で、でございますね」
「ほかに何がある。余計な文は残すな」
別の屋敷では、古参のアルブレヒト・シュタインロート侯爵が招集状を卓へ投げた。
同席していたフェリクス・ヴェスターネル伯爵が、閉じた紙を拾う。
「小型船の話に、宰相と財務大臣まで座るとは妙ですな」
「買う金は国庫から出すのでしょう」
「金の話なら、先に軍務省へ出せば済む。本人に来いというのも気に入らぬ」
「では、お断りに?」
侯爵は答えず、運用希望を書く欄へ目を落とした。
ヴェスターネル伯爵が卓の向こうから、その欄を指す。
「あの家だけが先に空の足を持っても、よろしいのですか」
「……行って、何を企んでいるか聞いた方が早い」
一方、西営を預かるエーミール・ベルグナー伯爵は、供給希望書の控えを引き寄せていた。
「部隊の数字を書けというのは、ベルクマンの差し金か?」
「ご指示の定員を添えて、既に提出いたしました」
「勝手なことを……」
「ならば私が出向かねばならん」
十日余りのうちに、王都へ向かう馬車が増えた。
シュタインロート侯爵は王都の館へ着くと、招集状をもう一度取り出した。
機数も納期も、どこにも書いていない。
「飛行船とは、まだ形も知らぬのに皆をよく動かすものよ」
言ってから、侯爵は翌日の軍議に着る服を出させた。
特別軍議の朝、国王の机には3つの書面が並んだ。
クラウスが署名欄を開く前に、王は昨年の報告を叩いた。
「余には、王都を守る兵が揃っていると報告したではないか!」
「その数には、所在の分からぬ162名が含まれておりました」
クラウスは、軍務大臣の指示を隣へ置いた。
「それを承知で、『守備に充当』と書かせたのが、この命令です」
王は署名へ顔を近づけた。
「なぜ、そんなことを!」
「動員できる人数が露見するのを恐れたのかもしれません。ただし、動機は本人に問わねばなりません」
ベルクマンの答えに、王は苛立ったように椅子へ戻った。
「では、余は今、誰の兵に守られておる!」
「宮内の警備は、陛下の直属でございます」
王宮警備長が一歩前へ出た。
「近隣軍の増援は、旧系統へ頼んだままでは保証できません」
「軍務大臣を外せば、何とかなるのだな」
「給金と軍糧を各家が握ったままでは、任じ直した将校も兵を集められません」
ベルクマンは、暫定の担当者を任じる書面を開いた。
「王都の発令官、支給官、当直指揮官へ、陛下の命令を直接お渡しいただきます」
「本当に従うのか」
「本人から受領の署名を取ります」
クラウスが、軍議を開くまでの報告先を示した。
「届けたという返事だけでは、席を開きませぬ」
「伯爵どもが剣を抜いたら?」
「王宮内で武器を抜くことは許されません。随行の者は宮門の外で待たせます」
警備長は、王から目を逸らさず答えた。
「大評議室は、私が責任を持ちます」
王は筆を取ったが、まだ紙へ下ろさなかった。
「陛下。ここで取りやめれば、誰が何を隠したかを調べたことだけが、大臣へ伝わります」
王の目が大臣の署名へ戻った。
長く見つめてから、自分の筆を動かした。
「……余の名で命じる。軍は、余の軍だ」
家名による軍の指揮、任免、給金の取扱いを終わらせる勅令へ、王の署名が入った。
次の任命書にも署名が入り、クラウスは最後の書面を置いた。
最後に置かれた拘束令は、前の2枚より短かった。
「大臣とベルグナー伯爵に限り、理由と証拠を別紙に記しました」
「証拠のない者は捕らえるな。だが、軍を勝手に動かすことは許さん」
王は2つの名を読み、拘束令にも署名した。
ベルクマンは、新たな職務を命じる書面を受け取った。
「承知いたしました。軍務省の実務は、私が引き受けます」
廊下では、待っていた伝令がそれぞれの宛先を確かめ、足早に分かれた。
控室の真壁は、運ばれていく封書を見送った。
地方へ向かう使者も宮門を出たが、その返答は今日のうちには戻らない。
昼前、クラウスのもとへ受領書が戻った。
発令官、国庫の支給官、当直指揮官。
クラウスは署名をたどり、警備長へ大評議室を開くよう命じた。
大評議室の高窓から、長い卓へ光が落ちていた。
金糸の袖が動くたび、磨かれた卓上に家紋が映る。
真壁は円筒から図を抜き、国王の席からも見える向きに広げた。
ベルクマンは、自分の前へ希望書を重ねた。
その一番上に、西営の名がある。
「王都の即応にこそ、新しい船が要る」
軍務大臣は、真壁が手を離す前に図へ指を伸ばした。
「供給枠は軍務省へ優先すべきだ」
「何を仰る。王都軍ばかり増強して、我が領をどうする」
向かいのヴェスターネル伯爵が、図の反対側を引いた。
紙が卓上で斜めになり、真壁は両端を押さえ直した。
「皆様のご熱意、ありがたいことです。使い道を伺ってもよろしいかな」
「既に申告書を出したはずだ!」
「もちろん。立派な人数が並んでおりました」
真壁は図を置いたまま、ベルクマンの前の紙へ目を移した。
「ただ……これは、定員のお話ですな」
「同じことだ。兵を乗せるために買うのであろう」
「どの部隊の何人を、誰の命令で乗せるのか。そのお話を伺いたいのですよ」
大臣はベルクマンへ顎を向けた。
「次官。説明してやれ」
ベルクマンは西営の希望書を退け、昨年の点呼を開いた。
「西営で実際に点呼できた者は226名です」
ベルグナー伯爵が、椅子の肘掛けを握った。
「理由の分かる不在92名を除き、162名は所在を説明できませんでした」
「私の兵を、そのように数えるつもりか!」
「ここにあるのは、部隊側が出した点呼の控えでございます」
伯爵は紙へ手を伸ばしたが、ベルクマンは渡す代わりに卓へ開いた。
隣の諸侯にも、書かれた数字が見えた。
「昨年のことを、なぜ今ここで……」
「今朝の兵も、定員を書くだけでは集まりません」
真壁は伯爵の伸ばした手が戻るのを待った。
「船は便利なものでしてね。名簿だけを乗せて飛ばすわけにも参りません」
「ベルクマン! 今は飛行船の協議だ!」
「はい。その飛行船に何人を乗せられるかを申し上げております」
シュタインロート侯爵が、卓へ置いていた手を引いた。
「……待て。宰相閣下。今日は何を決めるおつもりか」
周囲で上がりかけた声へ、侯爵は顔を向けた。
「黙れ。聞かねば、何も分からぬ」
「飛行船の使い道を決める前に、軍を誰が管理するのかを決めておく」
「何を……?」
「陛下は、王国軍の指揮権を国の官職へ一本化することをお命じになった」
椅子が床を擦り、大臣の膝が卓へぶつかった。
侯爵だけは動かず、上座の国王を見た。
クラウスは、王の印のある勅令を開いた。
卓の端へ封蝋の欠片が落ちた。
「家格に付属していた部隊への指揮、将校の任免、給金の取扱いを停止する。以後、王国軍は陛下の任じる官職により動かす」
「我々を欺いたのか!」
大臣は立ったまま王へ向いた。
「陛下、このような命令、撤回していただきたい!」
「余が命じた。そなたたちが、国の兵を動かせぬと申すのでな」
「それは、各地の事情が……」
王が返事をしないと、大臣は隣の次官へ身を乗り出した。
「ベルクマン! 貴様、何を吹き込んだ! 今ここで解任する!」
ベルクマンは、受け取ったばかりの任命書を開いた。
「お言葉ですが、その権限は陛下の勅令により、すでにお持ちではございません」
「何だと……」
側近が大臣の背へ近づき、声を落とした。
「軍務省へ知らせましょう。発令官を集めさせます」
「行け! 旧兵務司令をここへ呼べ!」
側近は足早に扉へ向かった。
壁際の警備長が先へ出て、扉の前で足を止めた。
「宛先と用件を伺います」
「大臣閣下の命だ。軍務省へ急ぐ」
「その命令は、私が承りました」
警備長は側近を通さず、国王へ向いた。
「この場の命令は陛下より承ります。宮門から私用の軍令はお通しできません」
「私用だと? これは軍務大臣の命令だぞ!」
大臣の勲章が胸元でぶつかり合った。
ベルクマンは、受領書をその前へ置いた。
「王都の発令官からの返答です。主計の支給官、当直部隊の指揮官からも届いております」
「今朝、陛下の新たな命令を受けております。官署には王宮の警備が立ち会い、旧命令を取り次がぬよう申し渡されております」
側近が、受領時刻へ目を落とした。
今ここで命じられた指示より、先だった。
「紙を受け取っただけで、軍が従うものか!」
「紙1枚で動かぬ軍に、随分とお金を掛けてこられたようですな」
真壁の声は、大臣の声が響き終えてから届いた。
「ところで、大臣」
クラウスが、昨年の書状を開いた。
「西営の報告には、説明いただきたいことがある」
「今は軍制の話をしておる!」
「所在を確かめていない162名を、『王都守備に充当』と報告させた。こちらは、あなたの署名で間違いないかね?」
大臣の視線が、そこで初めて紙へ落ちた。
「王都を守るためだ。兵籍にある者を守備兵として扱うのは、大臣の裁量だ!」
「所在も分からぬ者を、現に王都を守っていると陛下に申し上げる。それも、あなたの裁量だと言うのかね?」
大臣は、上座を見た。
王は署名入りの指示を睨んでいた。
ベルクマンが、元の報告を隣へ置いた。
「私は、所在を確かめられぬ162名は照合未了と報告いたしました。その注記を除き、守備充当へ算入するよう命じたのが、こちらの書状でございます」
「ベルクマン……お前は……」
次官は、紙の一角を押さえて大臣を見た。
「お渡しした報告を、今も覚えております」
「余を欺いたかどうかは、これから調べさせる」
国王の手が肘掛けを握った。
「だが、もう軍の命令を出すことは許さぬ!」
シュタインロート侯爵が立ち上がった。
警備兵を見てから、クラウスへ向き直る。
「宰相閣下。私も拘束されるのですかな」
「あなたについての拘束令はない。しかし軍務貴族の指揮特権は、例外なく終わりだ」
「領の将校へ渡す命令を寄越していただきたい。彼らに空腹を強いる改革なら、わしは承知せぬぞ」
「支給担当官の任命と、引渡しの命令を添えております」
ベルクマンが謄本を差し出した。
「……読むだけは読もう」
大臣は、その手にある王の印へ目を向けた。
さっきまで船を奪い合っていた相手が、自分ではなく次官から命令を受け取っている。
「衛兵! ベルクマンを捕らえよ!」
壁際の兵は、国王を見ていた。
槍の石突が床へ触れたが、次官へ近づく者はいなかった。
大臣は兵の顔を順に見た。
「聞こえぬのか!」
「捕らえる相手は違う」
国王の声に、警備長が一歩を踏み出した。
「クラウス。命じたとおりにせよ」
クラウスは、2通の拘束令を開いた。
「フォルケンラート侯爵、ベルグナー伯爵。昨年の虚偽の守備報告に関する関与を調べるため、陛下の命により身柄を確保する」
ベルグナー伯爵が立ちかけたところへ、監査官が自署の証明を差し出した。
その脇には、前日に届いた点呼不一致の報告と、受領者の説明が添えられていた。
「それは家の者が……」
「その説明は、別の席で伺う」
「皆様は勅命の謄本を受け取り、私的な軍令を出さず帰邸していただく」
警備兵が、大臣の左右へ立った。
大臣は側近を探したが、側近も扉の前で動けずにいた。
「この私を……連れて行くつもりか!」
返事の代わりに、警備長が行く先の扉を示した。
大臣が歩き始めると、勲章の音が廊下へ移っていった。
シュタインロート侯爵は謄本を畳み、真壁の前の図へ目を向けた。
「船を買いに来たはずなのだがな」
真壁は円筒の蓋を閉じた。
「いやはや。船の出番は、どうやら先になりそうですな」
軍務省へ戻る頃には、王都の屋根に夕日が当たっていた。
門番が交代し、裏手から煮炊きの匂いが流れてくる。
小さな執務室へクラウスたちを迎えたところで、戸口に若い将校が現れた。
靴には泥が付き、受け取った命令書を片手に握っていた。
「ベルクマン次官! 西営の食糧倉庫が開きません」
ベルクマンは、置きかけた書面を卓へ下ろした。
「伯爵家の使いが鍵を持って行ってしまって……」
「明朝、何人分足りなくなる?」
「詰めている兵の人数を、こちらに。番兵たちは、今夜も任務についております」
差し出された紙をベルクマンは開いた。
去年の定員ではなく、今夜食べる人間を数えたものだった。
「本日の配給は?」
「既に出しております。しかし、次の分が取り出せません」
財務大臣が、将校の横へ来た。
「国の倉から回せる分を調べます。運ぶ人手もこちらで持ちましょう」
「一晩だけ食べさせても、明後日は続きません」
ベルクマンは、倉庫の引渡先を書いた紙を取り出した。
「支給窓口と倉の引渡しを、一緒に進めます」
クラウスは将校へ尋ねた。
「伯爵家の管理者は?」
「鍵を持ったまま、屋敷へ戻りました。昼頃に手紙を受け、旧大臣の指示を待てと……」
将校は言い淀み、ベルクマンの顔を見た。
「それが最後の返事でした」
「王の命令は、見せたのだね」
「はい。それでも、鍵は家の預かりだと」
クラウスは、将校が握っていた紙を見た。
「ほう。爵位は立派でも、ずいぶん小さなものをお持ち帰りになった」
真壁の言葉へ、ベルクマンが顔を上げた。
「鍵がなければ、兵は腹を減らします。笑い事ではありません」
真壁は将校の靴へ目を落とし、姿勢を正した。
「失礼。まったく、そのとおりだよ」
ベルクマンは、卓上の任命書を将校の報告へ重ねた。
「今夜のうちに、国の倉から明朝の分を回します。詰所で受け取る者と、運ぶ荷車を揃えてください」
「はい」
「明朝は、王の委任を受けた倉庫担当者が鍵の引渡しを求めます。応じぬなら、警備長に立会いを頼みます」
クラウスは使いを呼び、官倉と警備長のもとへ走らせた。
財務大臣が費用の書面を引き受けると、ベルクマンは将校へ紙を返した。
「先に詰所へお戻りください。番兵には、交代と配給を続けると伝えていただきたい」
将校の肩が下がった。
「……承知しました!」
泥の付いた靴が廊下を遠ざかり、戸口からまた煮炊きの匂いが入ってきた。
ベルクマンは、残った引渡しの書面を開いた。
「君は、休むつもりがないのかね」
クラウスが尋ねると、次官は筆を取ったまま答えた。
「王宮では軍が変わりました。現場は、まだ変わっておりませんので」