押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第420話 皆様に船をご用意しましょう

 クラウスは、昨年の出動回答を机の端へ押しやった。

 

 温め直された茶には、もう湯気がなかった。

 

「軍務系の伯爵や侯爵が、どの部隊を握っているかなど承知している」

 

 クラウスは、提出された資料からベルクマンへ目を移した。

 

「今さら派閥の名簿を見せられても困るよ。私が知りたいのは、次に救援を求められた時、誰が兵を集められるかだ」

 

「隠されていたのは名前ではありません。王命が出た時に、実際に動ける兵の数です」

 

「王都に出動命令を下せば、誰が応じる?」

 

「部隊長でございます。ただし、兵を呼び集める者、将校を任じる者、給金を渡す者は、各家の管理者です」

 

 ベルクマンは、部隊長の名が載った欄へ指を置いた。

 

 その下には、違う筆跡で別の名が添えられている。

 

「この将校に命じても、兵を集めるにはこちらの者を通す、と」

 

「はい」

 

 クラウスの指が止まった。

 

 息子が救援を待つ間に受け取ったのは、この名を通して戻った言葉だった。

 

「人数の裏付けは?」

 

「添えられておりませんでした」

 

「そして金は渡していた」

 

 ベルクマンは答える前に、給金の支給元を開いた。

 

「国庫から各部隊へ出しております。受け取る窓口は、家ごとの管理者です」

 

 真壁は、重なった欄を眺めてから茶碗を置いた。

 

「陛下の命令に従う軍なのか、貴族のお許しを待つ軍なのか。ずいぶん奇妙なことですな」

 

「真壁君。奇妙だからといって、皆が虚偽を申し立てたわけではないよ」

 

「無論です。正直な者まで、同じ所で待たされるのでしょう」

 

 クラウスは、ベルクマンが押さえている部隊長の名を見た。

 

 この者がいくら兵を出そうとしても、給金と任命を握る相手に逆らえば、次には自分の席がなくなる。

 

「君が、私に見せたかったのはこれかね」

 

「はい。人数だけを直しても、同じ回答が戻ってまいります」

 

 ベルクマンは鞄に残していた紙を取り出した。

 

「先に、ご覧いただきたいものがございます」

 

 

 

 ベルクマンが広げた2枚の紙は、同じ部隊を扱っていた。

 

 片方では、王宮から引かれた線が軍務省で分かれ、幾つもの家名を通って兵へ届く。

 

 もう片方には、その家名がなかった。

 

「陛下の軍である以上、誰が養い、誰が任じ、誰が動かすのかを一つにすべきです」

 

 クラウスは新しい図を自分の方へ寄せた。

 

「家々が受け取っていた金は?」

 

「まとめて預ける慣行を廃します。国の支給官が、本人へ渡すようにいたします」

 

 クラウスは、紙から顔を上げた。

 

「指揮官を外せば、その家に従って帰る兵もいるだろう」

 

「兵に罪はありません。役目も給金も続くと、現場の将校から伝えます」

 

「将校にも伯爵家の者がいる」

 

「能力があるなら任官を継続すればよろしいかと。ただし、官職を家督と一緒に相続させてはなりません」

 

「名門のご子息にも、働いていただける」

 

 ベルクマンは真壁にも、候補者の名を隠さなかった。

 

 クラウスは、商人へそこまで見せる次官を一度見直した。

 

 ベルクマンは、その中から王都の当直指揮官を示した。

 

「こちらは現に兵を率いている者です。発令官と支給官も、今ある官署の者を任じ直します」

 

「各地の兵糧まで、同じ朝に引き継げるわけではあるまい」

 

「遠方へは使者が運びます。その間も守備と給金を止めぬよう、引渡しを受ける担当を添えて送り出します」

 

「それなら、近い部隊から順に……」

 

「命令は、一度に出していただかねばなりません」

 

 ベルクマンの指が、家名のない図を押さえた。

 

「次に外される家へ備える時間を与えれば、担当官を送っても門を開けてはもらえません」

 

「君は、大臣の席だけを替えるつもりではないのだね」

 

「補給庫の鍵を旧家が持ったままでは、誰を任じても兵を動かせません」

 

 真壁は、給金の受渡先と倉庫の欄を指でたどった。

 

「首を替えるより、鍵と財布を移す方が手間でしょうな」

 

「これは軍務大臣へ提出した案かね?」

 

「いいえ。以前の案は、実員に合わせた再編までです」

 

 ベルクマンは、古い方の図を折った。

 

「こちらは、その先を考えたものでございます」

 

 

 

 クラウスは椅子の背から身体を起こし、昨年の救援経路を開いた。

 

 王都とベラクルスの間を指でたどると、紙の折り目が爪に触れた。

 

「君の案には筋が通っている」

 

 ベルクマンへそう言ってから、家名の並ぶ古い図を見直した。

 

「だが、諸侯を順に外せば、残る者たちは手を組むだろう。兵を出せぬという返答なら困るが、今度はこちらへ兵を向けられる」

 

「順に外す必要などありますまい」

 

 真壁は、経路図の浮いた端を押さえた。

 

「皆、軍を握っておるのだよ。君はそれを承知で言うのかね」

 

「ええ。だからこそ、彼らは国家に巣食う害虫なのですな」

 

 クラウスの眉が動いた。

 

「……真壁君」

 

「お気に障りましたかな。では、ベラクルスの折に何が起きたか、お考えいただきたい」

 

 真壁の指は、王都から動かなかった。

 

「国庫から給金と装備を受け取り、王国が兵を求めれば『動かせぬ』と申す。実に立派な軍務貴族ではありませんか」

 

「だからといって、全員を罪人にすることはできぬ」

 

「清廉な方なら、陛下へ軍をお返しするのに何の不都合がありましょう?」

 

 クラウスは口を開きかけ、経路図へ目を落とした。

 

「兵士の生活は守らねばなりません」

 

 ベルクマンが、給金の紙を2人の間へ戻した。

 

「命じる者を外したために、兵が食べられなくなっては……」

 

「そこは君に任せたい」

 

 真壁はベルクマンを見た。

 

「兵を守ることと、兵を私物にする者を守ることは別でしょう」

 

「だからこそ、支給を先に用意いたします」

 

 ベルクマンの声は低かったが、引かなかった。

 

 クラウスは、経路図の王都を見つめた。

 

「国が暴力を独占する。だが、その国へ向けて刃を向けられれば?」

 

「軍とは、国家が責任を負って行使する暴力です。貴族の方々の持ち物にするには、少々危険すぎる」

 

 真壁は紙から手を離した。

 

「禍根を残せば、また同じことです。いずれこの王国を、亡国へと導きましょうな」

 

 クラウスが家名を目で追う間、真壁は返事を待たなかった。

 

「相談してはいけませんな。互いに示し合わせる時間を与えるだけですから」

 

「まさか、王都へ全員集めて捕らえようと?」

 

「一網打尽になさることです」

 

 真壁は、家名のある図を持ち上げた。

 

「必要なのは、首だけではありません。ご自慢の指揮権も、金庫も、印章も、同じ日に手放していただくことですよ」

 

「爵位を持つ者を皆、拘束するわけではありませんな」

 

 ベルクマンが念を押した。

 

「無論。真っ当な方には、真っ当な仕事を続けていただけばよい。家の名前で兵を動かす仕事だけは終わりですがね」

 

 クラウスは、折られた古い図を受け取った。

 

「いつから、それほど軍政に詳しくなったのかね」

 

「少々、昔の職業病でしてね。もっとも、学費の高い勉強ではありましたが」

 

 真壁はそれ以上語らず、茶碗を持ち上げた。

 

「そんな日に、諸侯が素直に1か所へ集まるものか」

 

 クラウスが尋ねると、真壁は茶を飲む前に目を戻した。

 

「それは、集まりたくなるお話を差し上げれば済むことです」

 

 

 

 午後の王宮では、廊下の石床に高窓の光が落ちていた。

 

 国王の机には祝宴の招待状が置かれている。

 

 クラウスはベルクマンを伴い、軍籍の対照表をその脇へ差し出した。

 

「軍務大臣の話は、まだ聞いておらぬぞ」

 

「それを待っていた結果が、この空欄でございます」

 

 国王は表を引き寄せ、数字のない欄を見た。

 

「王都は守られておる。兵がいないと言うのか」

 

「いないとは申しません」

 

 ベルクマンは、玉座ではなく王の手元へ目を向けて答えた。

 

「おります。しかし、王宮からの出動命令で何人を集められるか、保証できませぬ」

 

「軍務省の次官が、それを知らぬのか?」

 

「報告の人数なら申し上げられます。現に集められる人数をお尋ねでしたら、同じ数をお答えすることはできません」

 

 王は招待状を裏返した。

 

 遠くで警備兵の装具が触れ合い、その音へ一度顔を向ける。

 

「では、もし今夜王宮に何かあったら?」

 

「宮内の警備兵はおります。ただ、その周囲の軍が何人応じるか、確かめておりません」

 

「……余の城の守りまで、諸侯が決めるのか?」

 

「陛下がお命じになった人数を、臣下が示せぬ状況でございます」

 

 クラウスは返答を急がず、王が表を置くのを待った。

 

「軍務大臣を呼べ!」

 

「お呼びになれば、この数字を持つ者たちは動きます」

 

 王の手が呼鈴の前で止まった。

 

「先に、国王陛下の印で保管庫を封じさせてください」

 

「証拠を隠すとでも言うのか」

 

「その疑いを生まぬためにも、今ある原本を、今あるまま守る必要がございます」

 

 王は、ベルクマンの顔を見た。

 

「……そこまでだ。調べるのはよい。諸侯への処分を勝手に決めるな」

 

「仰せのとおり。処分は、改めて陛下にご判断いただきます」

 

 クラウスは、保全と立会いを求める書面を開いた。

 

 王が筆を取る間、ベルクマンは机の端から招待状をずらし、署名する欄の下を空けた。

 

 乾くのを待って受け取った王の印は、今朝のどの報告より重かった。

 

 

 

 数日後、侯爵邸の小応接室に財務大臣が訪れた。

 

 卓上には、真壁が持ち込んだ簡素な図が広げられていた。

 

「反対派を一度に呼ぶ方法は?」

 

 クラウスの問いに、真壁は図を差し向けた。

 

「皆様に船をご用意しましょう」

 

 財務大臣が、持ち上げた茶碗を途中で止めた。

 

「買う金の話を、またここでするのですか」

 

「先方が欲しくてたまらぬものを差し出すのが、いちばん穏当ですよ」

 

「穏当という言葉を、今ここで使うのですか」

 

 真壁は動じず、図の船体を指した。

 

「小型飛行船の軍用導入について、ご相談を受けてもよろしいかと」

 

 ベルクマンは、図の下に書かれた用途へ目を走らせた。

 

 連絡、偵察、少人数の移動。

 

「この型式は、実際に完成しているのですか?」

 

「いいえ。用途に応じた設計と供給の可能性を話す段階です」

 

「そんな話に、諸侯が来るものかね」

 

「国王陛下の御前で、将来の優先協議先を選ぶ」

 

 真壁は、招集文の候補を図へ重ねた。

 

「競争相手だけが席に着くのを、皆様が黙って見ておられるとは思えませんな」

 

「代理を寄越したら?」

 

「用途も部隊も、その場で決められる方に来ていただく。持ち帰って伺う方には、次の席をお待ちいただけばよい」

 

「価格は書いてありませんね」

 

「どのような軍に、何を運ぶか。それを伺う前には決められませんから」

 

「ならば、運用する部隊と動員人数を書いていただきたい」

 

 ベルクマンが招集文の末尾を示した。

 

「軍務省にある数字だけでなく、運用を決める方の回答を添えていただきます」

 

「まことに結構。欲しい船の話をするなら、乗せる人間の話もしていただかねば」

 

 クラウスは、真壁の方へ向き直った。

 

「商会の名で、納期や販売を確約することは?」

 

「いたしません。代表の決裁を代わって下す話ではありませんので。最初に聞くのは、皆様の希望です」

 

 財務大臣が、図の上から茶碗を退けた。

 

「しかし君の話は、単なる説明会には見えませんね」

 

「さて。商売を始める前に、国の側で片付けていただきたいことがあるだけですよ」

 

 クラウスは招集文を手元へ寄せた。

 

「王の臨席は、私が取りつける。次官、随行の扱いを警備長と詰めてくれ」

 

「承知いたしました」

 

「諸侯を集めても、軍務省から命令を出せるなら意味がありませんな」

 

 真壁の言葉に、ベルクマンがもう1枚を取り出した。

 

 王都の発令官と、国庫の支給官の担当が書かれていた。

 

 クラウスは図を閉じず、その紙を隣へ置かせた。

 

 

 

 王宮の保管室は、日が高くなっても冷えていた。

 

 棚から出された綴りに顔を寄せると、乾いた糊の匂いがする。

 

 ベルクマンは、昨年の西営の報告を開いた。

 

「兵籍は480名です」

 

 財務大臣が、すぐに横の欄へ目を移した。

 

「こちらは226名」

 

「点呼で確かめられた者です。病欠や異動など、事情を追える不在が92名。残る162名は、所在を調べきれておりませんでした」

 

 クラウスは合計の欄を見てから、次官が書き添えた文字を読んだ。

 

 所在照合未了。

 

「この注記が、陛下への報告にはない」

 

「はい」

 

 ベルクマンは王宮側が保管していた最終報告を並べた。

 

 同じ西営の名の下で、162名は王都守備に充当された人数へ加えられていた。

 

 財務大臣が、2枚の間へ指を置いた。

 

「所在の分からぬ者が、こちらでは王都を守っていたことになっている?」

 

「私が提出したものでは、未了といたしました」

 

 転記を担当した官吏が、軍務省から持参された指示控えを差し出した。

 

「大臣官房から、これが戻ってまいりました」

 

「読んでくれるかね」

 

「『所在照合未了の162名も、王都守備充当欄へ算入せよ』」

 

 ベルクマンには見慣れた署名だった。

 

「あなたが、このとおりに直した?」

 

「はい。こちらが転記の控えです。未了の注記も、その時に落としました」

 

 削られた欄へ置かれた官吏の指が、紙をこすった。

 

 ベルクマンは自分の原案を引き寄せた。

 

「私は、差し戻しを求めておりました。所在の分からぬ者を、守備に就いていると申告してはならないと」

 

「その報告を大臣が受けた日と、指示の日を照らしてくれ」

 

 官吏が受領の綴りを開くと、元の報告、書き換えの指示、王宮の受領の順に日付が並んだ。

 

「ほう。兵を集めるより、数字を動かす方がお得意だったようですな」

 

 財務大臣は、署名の脇へ指を置いた。

 

「未確認者の所在と、公金の横領は別の話です。ですが、王へ示す兵力を変えた命令者は、これではっきりしました」

 

 ベルクマンは返事をせず、元の注記を見つめた。

 

 去年、伝わらなかったのではないかと何度も考えた言葉が、ここには読める形で残っていた。

 

 読んだ上で消すよう命じられている。

 

 その午後、軍務省の保管部署へ、大臣官房の側近が来た。

 

 外套には雨の匂いが残っていた。

 

「年度整理のため、西営の綴りを官房へ移す。係の者に運ばせろ」

 

 受け取った官吏は、棚の扉へ目を向けた。

 

 そこには王の印のある封が掛かっている。

 

 監査官が書状を読み、棚の前へ立った。

 

「こちらは、陛下の命により保全しております」

 

「軍務大臣の命に背くつもりか!」

 

 側近は、廊下から来たベルクマンを見つけた。

 

「次官。貴様の差し金か。兵務の原簿を、誰の権限で留め置く!」

 

「国王陛下の保全命令によります」

 

 ベルクマンは封へ手を触れず、側近が持参した書状を示した。

 

「大臣閣下の命令を無かったことにはいたしません。こちらも、そのまま保管させていただきます」

 

 側近の手が伸びかけた。

 

 監査官が受け取った書状を、卓上へ置く。

 

 廊下の向こうで、衛兵の金具が鳴った。

 

「……覚えておけ」

 

「何を命じられたかは、もう残りました」

 

 側近は棚を睨み、外套を翻した。

 

 夕方、侯爵邸で報告を受けたクラウスは、数字の綴りより先に移送の書状を読んだ。

 

「移したものはないのだね」

 

「はい。王印をお示しし、止めました」

 

「ベルグナー伯爵の方は?」

 

 財務大臣が尋ねると、監査官は別の証明書を開いた。

 

「伯爵が自署した『全員現任』の証明です。前日の点呼不一致の報告を届けた者と、伯爵家で受け取った担当者の説明も得ました」

 

「署名は本人のものか」

 

「ほかの署名資料とも一致しております。ただし、報告をどう受け止めたかは、本人に聞かねばなりません」

 

「そこまででよい。裁くのは後だ」

 

 クラウスは大臣の書状と伯爵の証明を、別々に置かせた。

 

「相手は調査を察した。次の使いを待つ余裕はないね」

 

 ベルクマンは、王都の当直指揮官へ渡す職務案を開いた。

 

 財務大臣も、支給窓口の担当を書き込んだ紙を取り出す。

 

 クラウスは2人を見て、招集の文面を机の中央へ置いた。

 

 

 

 王の招集は、雨上がりの王都から騎馬の使者が運んだ。

 

 軍務大臣を務めるヴォルフラム・フォルケンラート侯爵は、招集状を読み、側近へ差し戻した。

 

「やっと私の進言が通ったか。小型船なら王都軍に回すのが筋だ」

 

「閣下、あくまで協議とございます」

 

「知っておる。だから私が出るのだ。ほかの侯爵家に先んじられてたまるものか」

 

 側近は、礼装を用意する者へ目配せしてから声を落とした。

 

「それと、例の保管庫ですが……王印があり、綴りを移せませんでした」

 

 大臣の指が、招集状の端を折った。

 

「陛下の印だと? クラウスめ……」

 

 大臣は窓の外へ顔を向け、それから書面を机に伏せた。

 

「西営の指揮官へ私の名で伝えろ。何かあれば、命を待つようにな」

 

「通常の伝令で、でございますね」

 

「ほかに何がある。余計な文は残すな」

 

 別の屋敷では、古参のアルブレヒト・シュタインロート侯爵が招集状を卓へ投げた。

 

 同席していたフェリクス・ヴェスターネル伯爵が、閉じた紙を拾う。

 

「小型船の話に、宰相と財務大臣まで座るとは妙ですな」

 

「買う金は国庫から出すのでしょう」

 

「金の話なら、先に軍務省へ出せば済む。本人に来いというのも気に入らぬ」

 

「では、お断りに?」

 

 侯爵は答えず、運用希望を書く欄へ目を落とした。

 

 ヴェスターネル伯爵が卓の向こうから、その欄を指す。

 

「あの家だけが先に空の足を持っても、よろしいのですか」

 

「……行って、何を企んでいるか聞いた方が早い」

 

 一方、西営を預かるエーミール・ベルグナー伯爵は、供給希望書の控えを引き寄せていた。

 

「部隊の数字を書けというのは、ベルクマンの差し金か?」

 

「ご指示の定員を添えて、既に提出いたしました」

 

「勝手なことを……」

 

「ならば私が出向かねばならん」

 

 十日余りのうちに、王都へ向かう馬車が増えた。

 

 シュタインロート侯爵は王都の館へ着くと、招集状をもう一度取り出した。

 

 機数も納期も、どこにも書いていない。

 

「飛行船とは、まだ形も知らぬのに皆をよく動かすものよ」

 

 言ってから、侯爵は翌日の軍議に着る服を出させた。

 

 

 

 特別軍議の朝、国王の机には3つの書面が並んだ。

 

 クラウスが署名欄を開く前に、王は昨年の報告を叩いた。

 

「余には、王都を守る兵が揃っていると報告したではないか!」

 

「その数には、所在の分からぬ162名が含まれておりました」

 

 クラウスは、軍務大臣の指示を隣へ置いた。

 

「それを承知で、『守備に充当』と書かせたのが、この命令です」

 

 王は署名へ顔を近づけた。

 

「なぜ、そんなことを!」

 

「動員できる人数が露見するのを恐れたのかもしれません。ただし、動機は本人に問わねばなりません」

 

 ベルクマンの答えに、王は苛立ったように椅子へ戻った。

 

「では、余は今、誰の兵に守られておる!」

 

「宮内の警備は、陛下の直属でございます」

 

 王宮警備長が一歩前へ出た。

 

「近隣軍の増援は、旧系統へ頼んだままでは保証できません」

 

「軍務大臣を外せば、何とかなるのだな」

 

「給金と軍糧を各家が握ったままでは、任じ直した将校も兵を集められません」

 

 ベルクマンは、暫定の担当者を任じる書面を開いた。

 

「王都の発令官、支給官、当直指揮官へ、陛下の命令を直接お渡しいただきます」

 

「本当に従うのか」

 

「本人から受領の署名を取ります」

 

 クラウスが、軍議を開くまでの報告先を示した。

 

「届けたという返事だけでは、席を開きませぬ」

 

「伯爵どもが剣を抜いたら?」

 

「王宮内で武器を抜くことは許されません。随行の者は宮門の外で待たせます」

 

 警備長は、王から目を逸らさず答えた。

 

「大評議室は、私が責任を持ちます」

 

 王は筆を取ったが、まだ紙へ下ろさなかった。

 

「陛下。ここで取りやめれば、誰が何を隠したかを調べたことだけが、大臣へ伝わります」

 

 王の目が大臣の署名へ戻った。

 

 長く見つめてから、自分の筆を動かした。

 

「……余の名で命じる。軍は、余の軍だ」

 

 家名による軍の指揮、任免、給金の取扱いを終わらせる勅令へ、王の署名が入った。

 

 次の任命書にも署名が入り、クラウスは最後の書面を置いた。

 

 最後に置かれた拘束令は、前の2枚より短かった。

 

「大臣とベルグナー伯爵に限り、理由と証拠を別紙に記しました」

 

「証拠のない者は捕らえるな。だが、軍を勝手に動かすことは許さん」

 

 王は2つの名を読み、拘束令にも署名した。

 

 ベルクマンは、新たな職務を命じる書面を受け取った。

 

「承知いたしました。軍務省の実務は、私が引き受けます」

 

 廊下では、待っていた伝令がそれぞれの宛先を確かめ、足早に分かれた。

 

 控室の真壁は、運ばれていく封書を見送った。

 

 地方へ向かう使者も宮門を出たが、その返答は今日のうちには戻らない。

 

 昼前、クラウスのもとへ受領書が戻った。

 

 発令官、国庫の支給官、当直指揮官。

 

 クラウスは署名をたどり、警備長へ大評議室を開くよう命じた。

 

 

 

 大評議室の高窓から、長い卓へ光が落ちていた。

 

 金糸の袖が動くたび、磨かれた卓上に家紋が映る。

 

 真壁は円筒から図を抜き、国王の席からも見える向きに広げた。

 

 ベルクマンは、自分の前へ希望書を重ねた。

 

 その一番上に、西営の名がある。

 

「王都の即応にこそ、新しい船が要る」

 

 軍務大臣は、真壁が手を離す前に図へ指を伸ばした。

 

「供給枠は軍務省へ優先すべきだ」

 

「何を仰る。王都軍ばかり増強して、我が領をどうする」

 

 向かいのヴェスターネル伯爵が、図の反対側を引いた。

 

 紙が卓上で斜めになり、真壁は両端を押さえ直した。

 

「皆様のご熱意、ありがたいことです。使い道を伺ってもよろしいかな」

 

「既に申告書を出したはずだ!」

 

「もちろん。立派な人数が並んでおりました」

 

 真壁は図を置いたまま、ベルクマンの前の紙へ目を移した。

 

「ただ……これは、定員のお話ですな」

 

「同じことだ。兵を乗せるために買うのであろう」

 

「どの部隊の何人を、誰の命令で乗せるのか。そのお話を伺いたいのですよ」

 

 大臣はベルクマンへ顎を向けた。

 

「次官。説明してやれ」

 

 ベルクマンは西営の希望書を退け、昨年の点呼を開いた。

 

「西営で実際に点呼できた者は226名です」

 

 ベルグナー伯爵が、椅子の肘掛けを握った。

 

「理由の分かる不在92名を除き、162名は所在を説明できませんでした」

 

「私の兵を、そのように数えるつもりか!」

 

「ここにあるのは、部隊側が出した点呼の控えでございます」

 

 伯爵は紙へ手を伸ばしたが、ベルクマンは渡す代わりに卓へ開いた。

 

 隣の諸侯にも、書かれた数字が見えた。

 

「昨年のことを、なぜ今ここで……」

 

「今朝の兵も、定員を書くだけでは集まりません」

 

 真壁は伯爵の伸ばした手が戻るのを待った。

 

「船は便利なものでしてね。名簿だけを乗せて飛ばすわけにも参りません」

 

「ベルクマン! 今は飛行船の協議だ!」

 

「はい。その飛行船に何人を乗せられるかを申し上げております」

 

 シュタインロート侯爵が、卓へ置いていた手を引いた。

 

「……待て。宰相閣下。今日は何を決めるおつもりか」

 

 周囲で上がりかけた声へ、侯爵は顔を向けた。

 

「黙れ。聞かねば、何も分からぬ」

 

「飛行船の使い道を決める前に、軍を誰が管理するのかを決めておく」

 

「何を……?」

 

「陛下は、王国軍の指揮権を国の官職へ一本化することをお命じになった」

 

 椅子が床を擦り、大臣の膝が卓へぶつかった。

 

 侯爵だけは動かず、上座の国王を見た。

 

 

 

 クラウスは、王の印のある勅令を開いた。

 

 卓の端へ封蝋の欠片が落ちた。

 

「家格に付属していた部隊への指揮、将校の任免、給金の取扱いを停止する。以後、王国軍は陛下の任じる官職により動かす」

 

「我々を欺いたのか!」

 

 大臣は立ったまま王へ向いた。

 

「陛下、このような命令、撤回していただきたい!」

 

「余が命じた。そなたたちが、国の兵を動かせぬと申すのでな」

 

「それは、各地の事情が……」

 

 王が返事をしないと、大臣は隣の次官へ身を乗り出した。

 

「ベルクマン! 貴様、何を吹き込んだ! 今ここで解任する!」

 

 ベルクマンは、受け取ったばかりの任命書を開いた。

 

「お言葉ですが、その権限は陛下の勅令により、すでにお持ちではございません」

 

「何だと……」

 

 側近が大臣の背へ近づき、声を落とした。

 

「軍務省へ知らせましょう。発令官を集めさせます」

 

「行け! 旧兵務司令をここへ呼べ!」

 

 側近は足早に扉へ向かった。

 

 壁際の警備長が先へ出て、扉の前で足を止めた。

 

「宛先と用件を伺います」

 

「大臣閣下の命だ。軍務省へ急ぐ」

 

「その命令は、私が承りました」

 

 警備長は側近を通さず、国王へ向いた。

 

「この場の命令は陛下より承ります。宮門から私用の軍令はお通しできません」

 

「私用だと? これは軍務大臣の命令だぞ!」

 

 大臣の勲章が胸元でぶつかり合った。

 

 ベルクマンは、受領書をその前へ置いた。

 

「王都の発令官からの返答です。主計の支給官、当直部隊の指揮官からも届いております」

 

「今朝、陛下の新たな命令を受けております。官署には王宮の警備が立ち会い、旧命令を取り次がぬよう申し渡されております」

 

 側近が、受領時刻へ目を落とした。

 

 今ここで命じられた指示より、先だった。

 

「紙を受け取っただけで、軍が従うものか!」

 

「紙1枚で動かぬ軍に、随分とお金を掛けてこられたようですな」

 

 真壁の声は、大臣の声が響き終えてから届いた。

 

「ところで、大臣」

 

 クラウスが、昨年の書状を開いた。

 

「西営の報告には、説明いただきたいことがある」

 

「今は軍制の話をしておる!」

 

「所在を確かめていない162名を、『王都守備に充当』と報告させた。こちらは、あなたの署名で間違いないかね?」

 

 大臣の視線が、そこで初めて紙へ落ちた。

 

「王都を守るためだ。兵籍にある者を守備兵として扱うのは、大臣の裁量だ!」

 

「所在も分からぬ者を、現に王都を守っていると陛下に申し上げる。それも、あなたの裁量だと言うのかね?」

 

 大臣は、上座を見た。

 

 王は署名入りの指示を睨んでいた。

 

 ベルクマンが、元の報告を隣へ置いた。

 

「私は、所在を確かめられぬ162名は照合未了と報告いたしました。その注記を除き、守備充当へ算入するよう命じたのが、こちらの書状でございます」

 

「ベルクマン……お前は……」

 

 次官は、紙の一角を押さえて大臣を見た。

 

「お渡しした報告を、今も覚えております」

 

「余を欺いたかどうかは、これから調べさせる」

 

 国王の手が肘掛けを握った。

 

「だが、もう軍の命令を出すことは許さぬ!」

 

 シュタインロート侯爵が立ち上がった。

 

 警備兵を見てから、クラウスへ向き直る。

 

「宰相閣下。私も拘束されるのですかな」

 

「あなたについての拘束令はない。しかし軍務貴族の指揮特権は、例外なく終わりだ」

 

「領の将校へ渡す命令を寄越していただきたい。彼らに空腹を強いる改革なら、わしは承知せぬぞ」

 

「支給担当官の任命と、引渡しの命令を添えております」

 

 ベルクマンが謄本を差し出した。

 

「……読むだけは読もう」

 

 大臣は、その手にある王の印へ目を向けた。

 

 さっきまで船を奪い合っていた相手が、自分ではなく次官から命令を受け取っている。

 

「衛兵! ベルクマンを捕らえよ!」

 

 壁際の兵は、国王を見ていた。

 

 槍の石突が床へ触れたが、次官へ近づく者はいなかった。

 

 大臣は兵の顔を順に見た。

 

「聞こえぬのか!」

 

「捕らえる相手は違う」

 

 国王の声に、警備長が一歩を踏み出した。

 

「クラウス。命じたとおりにせよ」

 

 クラウスは、2通の拘束令を開いた。

 

「フォルケンラート侯爵、ベルグナー伯爵。昨年の虚偽の守備報告に関する関与を調べるため、陛下の命により身柄を確保する」

 

 ベルグナー伯爵が立ちかけたところへ、監査官が自署の証明を差し出した。

 

 その脇には、前日に届いた点呼不一致の報告と、受領者の説明が添えられていた。

 

「それは家の者が……」

 

「その説明は、別の席で伺う」

 

「皆様は勅命の謄本を受け取り、私的な軍令を出さず帰邸していただく」

 

 警備兵が、大臣の左右へ立った。

 

 大臣は側近を探したが、側近も扉の前で動けずにいた。

 

「この私を……連れて行くつもりか!」

 

 返事の代わりに、警備長が行く先の扉を示した。

 

 大臣が歩き始めると、勲章の音が廊下へ移っていった。

 

 シュタインロート侯爵は謄本を畳み、真壁の前の図へ目を向けた。

 

「船を買いに来たはずなのだがな」

 

 真壁は円筒の蓋を閉じた。

 

「いやはや。船の出番は、どうやら先になりそうですな」

 

 

 

 軍務省へ戻る頃には、王都の屋根に夕日が当たっていた。

 

 門番が交代し、裏手から煮炊きの匂いが流れてくる。

 

 小さな執務室へクラウスたちを迎えたところで、戸口に若い将校が現れた。

 

 靴には泥が付き、受け取った命令書を片手に握っていた。

 

「ベルクマン次官! 西営の食糧倉庫が開きません」

 

 ベルクマンは、置きかけた書面を卓へ下ろした。

 

「伯爵家の使いが鍵を持って行ってしまって……」

 

「明朝、何人分足りなくなる?」

 

「詰めている兵の人数を、こちらに。番兵たちは、今夜も任務についております」

 

 差し出された紙をベルクマンは開いた。

 

 去年の定員ではなく、今夜食べる人間を数えたものだった。

 

「本日の配給は?」

 

「既に出しております。しかし、次の分が取り出せません」

 

 財務大臣が、将校の横へ来た。

 

「国の倉から回せる分を調べます。運ぶ人手もこちらで持ちましょう」

 

「一晩だけ食べさせても、明後日は続きません」

 

 ベルクマンは、倉庫の引渡先を書いた紙を取り出した。

 

「支給窓口と倉の引渡しを、一緒に進めます」

 

 クラウスは将校へ尋ねた。

 

「伯爵家の管理者は?」

 

「鍵を持ったまま、屋敷へ戻りました。昼頃に手紙を受け、旧大臣の指示を待てと……」

 

 将校は言い淀み、ベルクマンの顔を見た。

 

「それが最後の返事でした」

 

「王の命令は、見せたのだね」

 

「はい。それでも、鍵は家の預かりだと」

 

 クラウスは、将校が握っていた紙を見た。

 

「ほう。爵位は立派でも、ずいぶん小さなものをお持ち帰りになった」

 

 真壁の言葉へ、ベルクマンが顔を上げた。

 

「鍵がなければ、兵は腹を減らします。笑い事ではありません」

 

 真壁は将校の靴へ目を落とし、姿勢を正した。

 

「失礼。まったく、そのとおりだよ」

 

 ベルクマンは、卓上の任命書を将校の報告へ重ねた。

 

「今夜のうちに、国の倉から明朝の分を回します。詰所で受け取る者と、運ぶ荷車を揃えてください」

 

「はい」

 

「明朝は、王の委任を受けた倉庫担当者が鍵の引渡しを求めます。応じぬなら、警備長に立会いを頼みます」

 

 クラウスは使いを呼び、官倉と警備長のもとへ走らせた。

 

 財務大臣が費用の書面を引き受けると、ベルクマンは将校へ紙を返した。

 

「先に詰所へお戻りください。番兵には、交代と配給を続けると伝えていただきたい」

 

 将校の肩が下がった。

 

「……承知しました!」

 

 泥の付いた靴が廊下を遠ざかり、戸口からまた煮炊きの匂いが入ってきた。

 

 ベルクマンは、残った引渡しの書面を開いた。

 

「君は、休むつもりがないのかね」

 

 クラウスが尋ねると、次官は筆を取ったまま答えた。

 

「王宮では軍が変わりました。現場は、まだ変わっておりませんので」

 

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