麦粒が、敷石の継ぎ目に挟まっていた。
ベルクマンは踏まぬよう足をずらし、西営の兵糧倉へ近づいた。
ベルグナー家の紋入りの錠は、昨夜のまま閉じている。
その前を、官倉から運ばれた袋を担いだ兵が通り過ぎた。
「今朝の炊き出しは間に合いました」
昨日の若い将校が、釜の置かれた方を示した。
湯気の向こうで、配給を受けた兵が椀を持っていた。
「よかった。明日の配給も途切れさせるな」
ベルクマンは扉の脇に立つ倉番へ向いた。
「鍵を持った者は戻ったか?」
「家令様がお持ちです。伯爵様がお戻りになるまで、誰にも開けさせるなと……」
倉番は、国の担当官が持つ引渡し命令を見なかった。
擦り切れた袖の中へ手を引っ込め、閉じた錠を見ている。
「陛下は、兵糧を国の担当官へ引き渡すよう命じておられる。君を責めるために来たわけではない」
「では、私の給金は、これから……」
「この倉で引き続き働くなら、国庫から支給する。嫌なら無理には引き留めない」
倉番の目が、そこで初めてベルクマンへ戻った。
家の紋を付けた使者が、その間へ割って入る。
「伯爵家の倉を、勝手に取り上げるのですか」
「建物と、国費で買った兵糧は別です」
ベルクマンは担当官から受け取った支払いの証憑を開いた。
倉番が毎度受け取っていた袋の数量と、受領の印が並んでいる。
「家の所有だと仰るなら、それを示すものを持ってきてください。兵の食事は止めません」
「家令様へ報告いたします」
「こちらの命令も渡してください」
使者は差し出された書面を受け取った。
王宮警備長が遣わした兵は、使者を捕らえず道を空けた。
その背が曲がり角へ消えると、ベルクマンは倉番へ問いを戻した。
「国が買った袋は、どちらにある?」
「入って右手です。奥の木箱は、家のものです」
担当官がその言葉を聞き、立会いの兵と扉の前へ立った。
「錠前師を呼びます。取り出す際は、あなたにも見ていただきたい」
倉番は返事をしかけ、若い将校の方を見た。
将校の後ろでは、空の椀を受け取った兵が次の当番へ歩いている。
「……右手の袋だけでよろしいのですね」
「はい。私物には触れません」
ベルクマンは担当官へ引渡しを任せ、将校が持ってきた今日の配給人数を受け取った。
昨年の兵籍の数は、そこには足されていなかった。
軍務省の仮執務室へ戻ると、クラウスの前に返書が並んでいた。
倉庫担当官からは、開錠を済ませ、国費で買った兵糧の引渡しを終えたとの報告も届いていた。
真壁は窓辺に立ち、荷車が通るたびに動く影を眺めていた。
「軍務に関わる大貴族は13家。昨日来た者たちだけでも、足並みは揃っておらんね」
クラウスは、薄い受領状をベルクマンへ渡した。
「東営からは、今朝も返事が来た」
「新任命を受けた将校が、部下へ通達しております。兵も当直を続けています」
ベルクマンは受領状を読み、引き継げる将校の名へ目を留めた。
「この者に、収容する兵の指揮を任せたいと存じます」
「エーデルハルト伯爵の推薦した者だが?」
「現に仕事をしております。推薦元だけで外せば、兵が困ります」
クラウスは、昨日大評議室で突きつけられた問いを思い出した。
誰が明日の給金を保証するのか。
「アイゼンヴァルト侯爵は、国境の配置を動かすなと求めている」
ヴィクトル・アイゼンヴァルト侯爵の王都の館から届いた書面を開いた。
領地からの返答は、まだ戻るはずもない。
「国境を空けてまで、内輪の争いをすることもありますまい」
真壁が窓から離れた。
「配置は継続します。任命を改めても、守っている場所まで替える必要はありません」
ベルクマンの答えを、クラウスは侯爵への返書に添えさせた。
その隣にあった厚い紙は、シュタインロート侯爵からの条件だった。
「こちらは、将校の推薦に口を出せるようにしておきたいらしい」
「推薦なら受けます。ただし、任官を決めるのは国の担当官です」
「名前を挙げる自由までは奪えませんからな。採るかどうかは、また別ですが」
真壁は条件書を持ち上げず、クラウスが読むのを待った。
飛行船の図を広げて諸侯を呼んだ時より、宰相の前には多くの要求が集まっている。
「軍の調達に関わるグライフェルト伯爵からは、まだ返事がない」
「補給の引渡しに支障が出るなら、代わりを手配します」
ベルクマンは返書のない欄より、今朝開けさせた倉の引渡先を見た。
「兵が食べてから、相手の言い分を聞けます」
「そちらは君に任せたい」
真壁は、卓の軍区図を引き寄せた。
「私は、ほかの動きを見ておこう」
シュタインロート侯爵の食卓では、皿が下げられても王命の謄本が残っていた。
庭から聞こえる鋏の音に、侯爵は顔を向けなかった。
家の印章を、謄本の隣へ置く。
「昨日まで私が任じた将校へ、今日から知らぬ官吏の命令を聞けという。兵が納得するかね」
「旧来の将校へ、お声を掛けられますか」
執事の問いに、侯爵は印章から指を離した。
「それで兵を集めたら、あの伯爵と同じ穴に落ちる。そんな手を選ぶほど若くはないよ」
「では、王命には?」
「従うさ」
返事をすると、侯爵は紙を裏返した。
兵を率いて戻らなかった一族の名を、自分は覚えている。
それを昨日の一言で片付けられたことは、許しがたかった。
だからといって、今いる者まで同じように送り出すつもりはない。
「従った上で、誰が軍を率いるのか見せてもらおう。任命された者の経歴を集めておきなさい」
執事は、兵を呼ぶための印章を残し、経歴を求める手紙を用意しに行った。
ベルグナー伯爵家の屋敷へ戻った使者は、まだ濡れた靴のまま家令の前へ立った。
倉の鍵が、台所の長机に置かれていた。
家令のリヒャルト・フェルマーは引渡し命令を読み、その鍵を掴んだ。
「倉の鍵まで取り上げる気か。あの次官め……」
「錠前師を呼ぶと申しておりました」
家令は使者を睨んだが、使者は目を伏せた。
自分だけが鍵を持っていても、倉の中身は守れない。
それを知らせに来た男へ、何を怒鳴っても変わらなかった。
「指揮官を呼べ。護衛頭もだ」
しばらくして、旧西営の指揮官ゲオルク・ヴェンクが机の前へ来た。
ベルグナー家の護衛頭ディルク・カイザーは、その横に立った。
「兵は分かれています。王命に従って詰所へ残った者の方が多い」
指揮官が言うと、家令は机に手をついた。
「伯爵様がお戻りになるまで、私がこの家を守る」
「王国軍の兵を、伯爵家の名で動かすのですか」
「ここにいたら、兵籍も倉も全部押さえられる。郊外の駐屯地へ出せ。まだ命令を聞く者だけでいい」
指揮官は、命令を受け取らず家令を見ていた。
「伯爵様への恩は忘れておりません。ですが、王命に逆らうことになります」
「護衛は私が連れていきます」
護衛頭が、指揮官の言葉を遮った。
「伯爵様からお預かりした旗も」
「旗で守ってもらえるものではないぞ」
「ならば、どちらを守るつもりだ?」
護衛頭の手が、腰の剣へ触れた。
指揮官はその手を見てから、鍵を握る家令へ向き直った。
「こちらへ来る兵を、どこへやるのです」
「西の集合場所だ。王都を出れば、まだこちらへ従う部隊もある」
家令は、返答を得ていない相手のことまで言い切った。
「私は屋敷に残る。そちらへの使いは、ここから出す」
指揮官が口を開きかけると、家令は若い従者を呼んだ。
「門が閉まる前に、来る者を集めろ。今夜は泊め、明朝、門が開いてから出す」
泥の付いた馬具が壁際へ放り込まれ、代わりの鞍が厩へ運ばれた。
カイザーは、家の旗を持たせる者を自分で選んだ。
軍務省の窓から、西門へ向かう荷車が見えた。
真壁はそれを眺める顔のまま、《世界地図》を開いていた。
ベルグナー家の屋敷の辺りに、赤い反応がある。
そのうちの幾つかが離れ、街道寄りの駐屯地区へ移っていく。
時間を置いて同じ辺りを見直すと、出発した時より点が増えていた。
「……西の赤い点が、また増えたな」
ベルクマンは、読んでいた引渡し報告を置いた。
「西営ですか」
「伯爵家の辺りから、西門の外へ広がっている」
真壁は紙の軍区図へ、鉛筆で印を付けた。
門を抜けた先にもう一つ置き、その間を短い線で結ぶ。
ベルクマンは、真壁の指の先を追った。
彼の見ている地図そのものは、次官の目には映らない。
「兵が集まっていますか」
「敵対した人間は、赤く見えるんだがね。今、そちらで増えているよ」
「誰が率いているかは?」
「名前は見えんよ。ただ、どこへ向かっているかは分かる」
ベルクマンは、印を付けられた地区の当直を引いた。
東営の将校が近くの通行を扱っている。
「西門の当直へ使いを出します。王命を受けた部隊が動いているのか、それとも……」
「君の報告と合えば、それでいい」
真壁は、軍区図を次官へ渡した。
「まだ慌てることはないさ」
呼ばれた使いが戸口から走り去ると、通りの売り子の声が戻ってきた。
真壁は再び《世界地図》へ目を向ける。
シュタインロート侯爵の館の周囲では、赤が集まる動きはなかった。
東営の官吏や兵のいる所には、青い反応が残っていた。
真壁は赤い点を追い、鉛筆を軍区図の脇へ置いた。
荷車の影が伸びる間にも、西の点は、また別の点を迎えていた。
夕方、ベルクマンは真壁を連絡用の小部屋へ案内した。
机を運び出した床には、脚の跡だけが残っている。
窓から斜めに光が入り、壁際へ寄せた椅子の影を長くした。
「この部屋なら、人の出入りを止められそうだね」
真壁は窓と扉の間を歩き、床の空いた所で足を止めた。
「帰還先として使わせてもらおう」
「管理は軍務省で引き受けます。鍵は担当官に持たせます」
王都東営の当直将校ヘルムート・ヴァイスが、ベルクマンの隣へ来た。
新しい任命を受け取った男の袖には、見慣れた部隊の徽章が付いている。
「兵は隣室で待機させます。こちらには誰も入れないよう命じます」
真壁は登録に使える枠を確かめ、その床を《転移》の帰還地点に定めた。
以前この庁舎へ来た時には、通り過ぎもしなかった部屋だった。
「私が戻ったら、君に知らせる。現地へ送る兵の準備を頼むよ、ベルクマン君」
「拘束はこちらで行います。真壁殿には、制圧までをお願いしたい」
当直将校は、2人の間へ目を往復させた。
「現地へは、どちらの部隊が先に入るのでしょう」
「最初は私だけだ」
真壁が答えると、将校は口を閉じた。
外の巡回兵の足音が、窓の下を通っていった。
「君たちには、その後を受け取ってもらう」
「負傷者が多ければ、軍医が足りなくなるかもしれません」
将校は真壁の人数を問い返す代わりに、ベルクマンへ向き直った。
「軍医と護送用の車を待機させよう。到着してすぐ何をするか、部下へ伝えてくれ」
ベルクマンが軍医の担当を呼ぶと、椅子の隣へ毛布と水が運ばれた。
将校は運んだ兵へ、負傷者を囲まぬよう先に話した。
「武器を置いた者と、怪我で動けぬ者を分ける。指揮官の引取りは私が行う」
「装備はこちらで回収しておく」
真壁が、運ばれてきた毛布の端を持ち上げた。
「素手の兵を引き受けてもらうことになるだろうね」
「それでも監督する兵は必要です。数はまだ読めませんので」
「そのとおり。私の地図で分かるのは、兵籍ではないからな」
ベルクマンは、王の命による執行の担当を将校へ示した。
将校がそれを受け取ると、真壁は部屋の扉を閉じてから振り返った。
「この通路を開く者には、まだ頼んでいない。説明は私からしてくるよ」
夜の事業所では、昼間使われた上着が椅子の背に畳まれていた。
澪は、短くなった鉛筆を机の端から集め、子どもたちの道具箱へ戻していた。
廊下の向こうでは、眠る前の小さな声が途切れかけている。
真壁が入ってきたのに気づき、箱の蓋へ置いた手を止めた。
「澪君。軍務省から協力を頼まれている。君にも話しておきたい」
真壁の手に、王国の印のある紙があった。
昼間ここへ持ち込まれた荷の伝票とは、違う印だった。
「その前に、この前の話、まだ終わってませんからね」
「分かっているよ。君には、私を信用できないだけの理由がある」
「私に黙って人の記憶を書き換えたこと、忘れたわけじゃないですよね」
「君を巻き込んだことを、忘れたわけではないよ」
記憶を変えたのかという問いには、また答えていなかった。
澪は道具箱を閉じた。
真壁の紙を受け取る気には、まだなれなかった。
「じゃあ、何を頼むつもりなんですか」
「王命を拒み、兵を集めようとしている者がいる。武器を向けるなら、私が止める」
真壁は紙を机へ置き、澪の手元へ押しつけなかった。
「君には、現地へ通じる《関門接続》を頼みたい」
「王国の軍隊を運ぶんですか?」
「最初は私だけだ。制圧が済んだら、ベルクマン君の兵を通す」
澪は、軍務省の廊下で扉を開いた時のことを思い出した。
あの時も、真壁が何をするかを聞いていたはずだった。
聞かされていたことの後ろに、別の行動が隠れていた。
「……戦いになるんですよね」
「降伏してくれれば、戦わずに済む。だが、抗戦する者がいれば死人も出るだろう」
真壁はいつもの速さで答えた。
澪は、その迷いのなさから目を逸らさなかった。
「それを、私が手伝うんですか」
「争いが広がれば、守るはずの兵が町を壊す。食事を届ける道も、その間で止まる」
「それは分かります。でも、何をしてもいいってことにはなりません」
「そうだね」
廊下の向こうで、子どもが誰かを呼んだ。
返事をした声が小さくなり、寝具を直す音がした。
真壁の視線が、一度そちらへ向いた。
「澪君、事業所の子どもたちの生命に責任を感じてはいるだろう?」
澪は道具箱から手を離した。
「私も、君の守りたいものを守りたいのさ」
開かれる扉の先にいるのは、今は見知らぬ兵たちだ。
それでも、寝る前に鉛筆を片付けた子どもの顔を思い浮かべれば、断る言葉が喉で止まる。
真壁は、止まる所を知っている。
「……それ、私が断りにくいって分かって言ってますよね」
「そうだな。言い方がずるいことは認めるよ」
「真壁さんのそういうところが、今は嫌なんです」
真壁は答える前に、机の上の印から目を上げた。
「……ああ」
謝れば済むと言ってほしいわけではなかった。
澪は、王国の印を避けるように上着を持ち上げ、椅子へ掛け直した。
ここに暮らす人を守るという言葉まで、真壁だけに預けたくなかった。
「真壁さんがしたことと、今回の話は別です」
自分で言ってから、軍務省の書面へ向き直った。
「王国が責任を持ってやるなら、ベルクマンさんから直接説明を聞きます」
「分かった。明朝、軍務省へ案内しよう」
「まだ、協力するとは言ってません」
「承知しているよ」
真壁は、紙を折らずそのまま置いた。
「何人通すのか、どこにつなぐのか、先に教えてください。危ないと思ったら開けません」
「それでいい」
「捕まえた人を、商会のどこかへ置くのも困ります。事業所の人たちを、兵士の代わりにしないでください」
「拘束も救護も、軍務省が受け持つ。その説明を、君自身で聞いてほしい」
澪はやっと書面を手に取った。
商会の名前が、兵を指揮する欄に入っていないことから読んでいく。
「それから、あの人にしたことも、終わりにしないでくださいね」
「無論だ。君を言いくるめて済む話ではないからね」
澪は返事をせず、紙を自分の前へ置いた。
子どもたちの道具箱は、先に棚へ戻した。
翌朝、軍務省の門へ戻った馬の脚には、泥が跳ねていた。
伝令は下馬すると、歩きながら手袋を外した。
ベルクマンの前へ来た時にも、まだ息が乱れている。
「西営の一部が武器を持って、西門を出ました。新しい当直指揮官からの停止命令にも従っておりません」
「残った兵の詰所は、誰が守っている?」
「王命を受けた将校が指揮しています。配給も続いております」
ベルクマンは、その返事を聞いてから先を促した。
「停止を求めた将校へ、刃を向けました。伯爵家の護衛を含め、60人前後です。荷車も連れています」
東営の当直将校が、伝令へ身を寄せた。
旧西営の指揮官の姿と、どこで別れたかを尋ねる。
真壁はその間に、《世界地図》の西門外を見た。
昨日は離れていた反応が、まとまって街道へ進んでいる。
「西門の外で赤が集まった。街道を進んでいるよ」
「さらに西の部隊と、合流するつもりでしょうか」
「そこまでは分からん」
真壁は、将校が開いた地図へ移動先を示した。
「どのみち、こちらから出向けば済む話だ」
ベルクマンは、宰相から預かった王命執行の書面を手元へ置いた。
「王命を受けた将校へ武器を向けた以上、放置はできません。身柄拘束を命じます」
「分かった。私が現地で降伏を求める。兵を受け取る用意をしておいてくれ」
ベルクマンは東営将校を呼び止めた。
「監視と護送には、待機兵から30人を出す。門の当直は動かすな。軍医と担架を運ぶ者は別に付ける」
「現地を見て足りなければ?」
「関門のこちらにも増員を待たせる。負傷者が多ければ、護送より先に救護へ回せ」
真壁は事業所の帰還地へ《転移》し、澪を迎えに行った。
戻ってきた澪は、自分で開いた軍務省への関門を閉じてから、ベルクマンへ歩み寄った。
隣室には、毛布を持つ兵と、手当ての道具を揃える軍医がいた。
「ベルクマンさん。真壁さんが戻った後、兵士を捕まえて怪我の手当てをするのは、軍務省の仕事なんですね」
「はい。陛下の命令で、我々が行います。軍医も兵もこちらで用意します」
「捕まえた人を、どこへ連れていくんですか」
「軍の収容先へ護送します。負傷者は先に軍医へ渡します。現地に残す監視の兵も、こちらで出します」
澪は、東営将校の部下へ目を向けた。
彼らは澪が来る前から、靴紐を締め、担架を運んでいた。
「現地へ誰を通すか、私が決めてもいいですか」
「もちろんです。危険な接続を無理にお願いするつもりはありません」
「軍務省の方が通る時も、倒れている人や通行人を巻き込む場所には開きません」
ベルクマンは、将校へその条件を伝えた。
将校は部下を呼び、関門へ先に駆け込まぬよう命じる。
澪は返事を聞き、真壁が転記した街道の位置へ目を落とした。
「……分かりました。今回は協力します」
言ってから、真壁を見た。
「前のことまで納得したわけじゃありませんからね」
「分かっているよ」
澪は接続先を街道の脇へ定め、開いた関門の向こうを見た。
丘の陰に人影はなく、乾いた草が風で揺れている。
真壁だけがそこへ足を踏み出した。
澪は、その背が抜けたのを見て扉を閉じた。
真壁は丘の陰から街道へ歩き出た。
冬の名残の枯れ草が靴へ触れ、乾いた土が裾に付いた。
伯爵家の旗の下に、槍を持つ列と弓を背負う列が続いていた。
その後ろを荷車が進み、護衛たちが道の両脇を歩いている。
真壁は、旗の下から最後尾までを見渡した。
報告にあった60人前後という見立てと、大きくは違わなかった。
道の先に民家はなく、通行人の姿もなかった。
前衛の兵が真壁を見つけ、後ろへ声を掛けた。
槍を持つ手が止まり、それにつられて次の列も足を緩める。
「何者だ。道を開けろ!」
ヴェンクが、止まった兵の間から出てきた。
カイザーは、その隣で真壁の顔を見た。
「真壁という。陛下の命令に従って、武器を置いてもらいたい」
真壁は手袋の端を整え、兵を見渡した。
「一人で参りました。話を聞くには、十分でしょう」
前列の兵は、丘の陰へ目を向けた。
続いて出てくる兵はおらず、閉じた関門も見えない。
指揮官の口元が歪んだ。
「王宮での話は聞いている。伯爵様を陥れた商人か!」
「お話が早くて助かります。では、兵を王国軍へお返しいただけますかな」
指揮官は、後ろの兵が自分を見ているのに気づいた。
王命を示された時にも、同じ目があった。
門を出た以上、いまさら従えとは言えなかった。
「黙れ! 捕らえろ!」
「待ってください」
若い副官ユスト・フレーリヒが、畳んだ勅令を握って前へ出た。
昨夜、出発を止められなかった副官は、部下を残して隊列を離れることもできなかった。
手元の勅令は、指揮官を思いとどまらせるために持ってきたものだった。
「陛下の勅令が出ています。ここで戦えば……」
「命令は俺が出す!」
指揮官が真壁へ指を向けた時、その腕が下がった。
踏み出そうとした脚が止まり、膝が土へついた。
「な……何をした!」
《重力》に押さえられた男が、手を地面へ突っ張った。
肩の金具が鳴り、隣の馬が鼻を鳴らして後じさった。
指揮官の息が続いているのを見届け、真壁は前衛を見渡した。
「おや。まだ部下に命令なさいますか」
指揮官は立ち上がろうとし、また膝を落とした。
「彼らの顔をご覧になるとよろしい」
槍を構えていた兵が、先を下げていた。
別の兵は、命じられた相手より隣の兵を見ている。
「隊長を助けろ! あいつを囲め!」
護衛頭が剣を抜いた。
伯爵家の護衛が動くと、国軍の兵の中にもつられて前へ出る者がいた。
副官は両者の間へ入り、声を張った。
「やめろ! 武器を下ろせ! 降伏するんだ!」
「聞こえただろう」
真壁は、兵の手元へ目を向けた。
「今、武器を置く者には何もしない」
最初の槍が地面へ置かれた。
副官はその兵を道の脇へ下がらせ、次に武器を置く者へ手を伸ばした。
護衛頭は退いた兵を睨み、残った護衛へ剣の先を向けた。
「進め。商人は一人だ!」
駆け出した護衛の肩へ、迷っていた兵が押し出された。
後ろの者には、先で武器が置かれたのか、攻撃が始まったのか見えていなかった。
若い副官は横へ退いた兵を止め、その前に身を置いた。
真壁は、彼らと突進してくる者の間へ目を走らせた。
前衛の進路に靄が生じた。
土と小石が消え、道にあった轍が途中で途切れる。
走り出した兵の靴の先から、踏むはずの地面がなくなった。
「前が……道が消えた!」
後ろへ戻ろうとした兵が、隣の盾へぶつかった。
先に踏み込んでいた者は転び、鉄帽と剣のぶつかる音が道の下から響いた。
「止まれ! 前へ出るな!」
副官は、自分の方へ押し寄せる後列を止めた。
土の縁に残った草の根が、兵の足元で揺れている。
「何をしている! 回り込め!」
護衛頭は、まだ剣を下ろさなかった。
「そこから先は来ない方がいい」
真壁が言うと、護衛頭は振り返って弓のある列を指した。
「撃て! あの男を倒せ!」
弓を持つ兵が腕を上げた。
先ほど武器を置いた者は、顔を伏せたまま動かなかった。
真壁は、弓の列へ続く進路にも《収納》を働かせた。
足元を失った前列が下がり、弓を構えかけた兵へぶつかる。
狙いを定めるより先に、列が崩れた。
「落ちるぞ! 後ろへ!」
荷車の馬が頭を振り、御者が綱を引いて離した。
車輪が土の縁で傾くと、兵が荷台へ手を掛けて押し戻す。
進むために揃えた槍は、もう同じ方を向いていなかった。
「降伏しろ! あれを越えて何になる!」
副官は、土の下へ転んだ兵に手を伸ばした。
引き上げられた兵は片脚を押さえ、剣を拾いに戻らなかった。
真壁はその動きを見て、地面を消すのを止めた。
「……まだ戦うつもりか」
「伯爵家の兵が、商人に負けるものか!」
護衛頭は、道の外の下草へ踏み出した。
彼の後ろに続こうとした護衛もいたが、途中で足を止めた。
真壁は、手に武器を残す国軍の兵へ声を向けた。
「君たちは王国から給金をもらっているはずだ。命まで伯爵家へ差し出すことはないよ」
兵が指揮官を見た。
地面へ押さえられた男は、部下へ顔を上げるのにも苦しんでいた。
カイザーは、道の外を回った。
真壁へ向かう途中、武器を置いて退いた兵の一団へぶつかった。
「どけ!」
片脚を庇っていた兵が避けきれず、下草へ倒れた。
副官が助け起こそうとすると、護衛頭はその肩を突き飛ばした。
「王の犬が!」
倒れた兵は、身体を起こせないまま腕で頭を覆った。
カイザーが、その上へ剣を振り上げた。
真壁は外套の下から携行銃を抜き、護衛頭へ向けた。
刃が、兵の頭上へ振り下ろされかけた。
乾いた発砲音がした。
剣は振り切られず、護衛頭の身体が下草へ崩れた。
真壁は銃を下げ、まだ武器を持つ護衛の動きを見た。
続いてくる者はいなかった。
「武器を置け! もう終わりだ!」
副官は、倒れた兵を助け起こし、護衛にも聞こえるよう叫んだ。
前列で剣を持っていた者の手が開き、下草へ刃が落ちた。
旗を支えていた兵は、旗竿を抱えて膝をついた。
土の縁では、まだ動けぬ兵を仲間が支えていた。
こちらへ伸びる槍の先は、もうなかった。
副官は、引き上げた兵の下へ布を敷いた。
水を運んできた者に手渡し、その隣へ次の負傷兵を寝かせる。
指揮官は道の端に座らされ、立ち上がる力の戻った脚を見ていた。
真壁が《重力》を解いても、前へ出る者はなかった。
「武器を置かせました。これ以上は戦いません」
副官が真壁へ向き直った。
「では、ここで待っていてくれ。王国軍の受入部隊を呼ぶ」
「負傷者がいます。手当てをする者だけは動かしてもよろしいでしょうか」
「構わんよ。そこの布と水は残す。ほかの装備は預かる」
真壁の足元に靄が広がった。
地面に置かれた剣と槍が、その中へ消えていく。
盾の束、矢束、鉄帽が続いた。
兵は、拾い直すつもりもなかった武器のなくなった所を見ていた。
「剣が……なくなった」
胸元へ手をやった男が、鎧を探して空を掴む。
「鎧も……靴までか?」
軍服の襟へ触れた手が、もう一度止まった。
下着姿になった兵は腕で胸を押さえ、隣の男へ顔を向けた。
剣を放せずにいた護衛からは、着衣ごと消えた。
着衣を失った男は、腰を落として草の上へ座った。
真壁は、負傷者の敷布へ靄を向けなかった。
指揮官の華美な外套が消えると、彼は留め金のあった所を握った。
「外套を返せ! あれは伯爵様から賜ったものだ!」
「本当に私物なら、後で返してもらえばいい。今は、武器も軍服も不要だろう」
真壁は鎧や武器とは別に、家の紋のある品を収めた。
荷車から兵糧の袋がなくなり、矢と馬具が続いて消えた。
馬は生きたまま道の脇へ残り、副官が兵へなだめるよう命じた。
牽引を外された車両が消えると、抱えられていた旗の布も姿を失った。
兵の手には、旗竿だけが残った。
「寒がっている者もおります」
副官が言うと、真壁は毛布を取り出した。
「下着まで取った者には着せておけ。病人を増やすつもりはない」
副官は受け取り、身体を寄せて座っている者へ配らせた。
毛布を受けた男の手は、まだ震えていた。
「倒れた男は、伯爵家の者かね」
真壁が尋ねると、副官は顔を向けた。
「家の護衛頭です。私たちの上官ではありません」
真壁は男の傍へ膝をつき、呼吸と脈を確かめた。
既に息絶えていた。
副官にもそれを告げ、身に残る武器を回収した。
布を掛けさせ、遺体はその場に残した。
「軍医も連れてくる。怪我人を無理に動かすな」
副官は頷き、指揮官と残った兵の方を見た。
「受入部隊が来るまで、ここを離れないように。君には、指揮官と負傷者も含めて、残っている人数を数えておいてほしい」
副官が引き受けると、真壁は、土の下に兵が残っていないか尋ねた。
「全員、引き上げました。怪我人も道の脇へ移しております」
縁に寄っていた兵を下がらせ、真壁は収納した土と小石を元の場所へ戻した。
途切れた轍の間が埋まり、土の窪みがなくなっていく。
ただ、戻したばかりの土は、もとの道ほど締まっていなかった。
真壁は足を載せて沈み方を見てから、道の脇へ枝を立てさせた。
「荷車は、まだここを通すな。踏み固める者を軍務省から寄越してもらう」
副官が枝の外へ兵を寄せると、真壁は残った武器がないことを見届け、街道脇の空いた地面を覚えた。
返事をした副官の前から、その姿が《転移》で消えた。
帰還室の床へ、外套に付いた土が落ちた。
真壁は扉を開き、待機していた兵へベルクマンを呼ぶよう告げた。
隣室にいた次官は、澪と共にすぐ来た。
「真壁殿。現地はどうなりましたか」
「制圧は終わった。兵は武器を置いているよ。装備も回収した」
澪は真壁の手元から顔へ目を上げた。
怪我をしている様子はない。
詰めていた息が戻りかけたところで、ベルクマンが先を尋ねた。
「負傷者は何名ですか」
「転倒した者が数人。副官が手当てを始めている」
真壁は、用意された担架へ一度視線を落とした。
「それから、降伏した兵を巻き込んで剣を振るった護衛頭を撃った。呼吸と脈は確かめた。亡くなっている」
「……亡くなったんですか」
澪の声に、真壁は目を向けた。
「ああ。隠すつもりはない」
澪は、扉の向こうに揃えられた担架を見た。
真壁から先に言われていた言葉を、そこで聞き直した気がした。
死人が出るかもしれないという言葉は、もう可能性ではなくなっている。
それでも、負傷した人を待たせる理由にはできなかった。
「軍医を先行させます。護衛を付け、その後に収容の兵を通します」
ベルクマンはヴァイスを呼んだ。
「兵の数は、報告と合っていましたか」
「おおよそね。正確な人数は、副官に数えさせている。30人で引き取れるかは、君の将校に見てもらいたい」
真壁は街道の位置を紙へ描き、降伏兵の座る所と負傷者のいる所を示した。
「消した土は戻してある。ただ、まだ荷車を通せる道ではない。枝で囲った区間を止めて、踏み固めてもらう必要がある」
ベルクマンは事務官へ、その区間の通行止めと復旧の人手を手配させた。
「引き取るのは兵だけではない。荷車が通れるまで、街道の当番も置くように」
「遺体はこちらだ。指揮官はその脇。副官が待っている」
澪は、真壁が示した広い地面へ目を向けた。
「道の横の空いた所につなぎます。倒れている人の所には開きません」
《関門接続》を開くと、昼の風が小部屋へ入ってきた。
向こうには下草と、離れた所に座る兵が見える。
澪は入口の先に人がいないことを見て、待つ将校へ合図した。
軍医と護衛が通り、担架を持つ兵が続いた。
ヴァイスは抜けた先で、フレーリヒを呼んだ。
「こちらで引き受ける。動けぬ者はどこだ」
副官が人数と場所を伝える間、軍医は既に負傷者へ膝をついていた。
別の医療係が、布を掛けられた護衛頭の所へ向かう。
槍を持つ兵は、降伏兵へ切先を向けず、周囲を見て持ち場へ分かれた。
関門を通った1人が、裸足の兵を見て足を止めた。
隣の男は毛布を巻き、空になった手をその中へ隠している。
「現地での指揮は、私が取ります」
将校が入口へ戻り、ベルクマンへ告げた。
「人数は、伝令の見立てと大きくは違いません。待機兵で監視と護送を分けられます。指揮官の身柄も引き受けました。負傷者は、軍医が診ております」
「服まで回収なさったのですか」
ベルクマンは、その後ろの兵を見て真壁へ尋ねた。
「軍装はね。靴を失った者もいる。毛布は残した」
「靴と衣類は、必要な分をすぐ渡してください。怪我人もおります」
「分かった。引渡し場所を教えてくれ」
担当官が保管する床を空けると、真壁は軍靴と衣類を先に取り出した。
武器と鎧は、別の保管先へ収める。
国の兵糧と、私物の申し立てがあった外套も、混ぜなかった。
澪は兵が衣類を運ぶのを見て、関門の脇へ寄った。
着替えを渡された男が、下草へ足を置き直した。
少し離れた所では、軍医が担架へ載せるよう指示している。
その間もヴァイスは、フレーリヒから出発までの経緯を聞いていた。
降伏した者の監視と、指揮官の拘束は、同じ輪の中へ押し込められていなかった。
必要な兵が現地へ渡り、負傷者の搬送が始まった。
澪は通行が切れるのを待ち、将校に現地へ残る人数を尋ねた。
返事を受けてから、次の搬送に必要な兵へ道を空ける。
最後の担架が通り終わるまで、真壁へ問いを戻さなかった。
「真壁さん。後で、私にも何があったのか聞かせてください」
「……ああ。君にも話すよ」
澪は頷かず、通行の終わった関門を閉じた。
風が止まり、小部屋の床に付いた土だけが残った。
ベルクマンは収容先へ向かう将校を送り出し、現地から運ばれた兵の処置を軍医へ任せた。
真壁は、その指示を聞きながら《世界地図》を開いた。
西の街道にあった赤の集まりは、もう同じ形ではなかった。
地図を広げていくと、王都から遠く離れた所に、別の赤い反応が集まり始めていた。