遠くの赤い反応は、川に沿って動いていた。
真壁は《世界地図》の範囲を狭め、西の街道とは離れた集まりを追った。
青い点のすぐそばで、赤が細く伸びている。
川を渡るのではなく、1つの場所を両側から挟もうとしているように見えた。
「……これは西営とは別だな。ずいぶん遠くにいる」
ベルクマンは、軍医へ渡しかけていた書面を担当官に託した。
「軍の部隊でしょうか」
「赤い点から、制服までは分からんよ」
隣室では、水桶を下ろす音がした。
運ばれてきた兵の靴から落ちた土が、まだ敷石に残っている。
ベルクマンはその土を跨ぎ、壁際の地図を机へ広げた。
「位置を教えてください。そこに何を置いているかなら、こちらに地図があります」
真壁の指が、紙の上で川筋を辿った。
曲がり角を2つ過ぎ、細い支流が本流へ入る所で止まる。
ベルクマンは地図の端を引き寄せた。
「ラウフェン河岸補給所です」
「軍の倉かね」
「兵糧と装備を置いています。川下の部隊へ送るための施設です」
ベルクマンが示した倉の印の西側に、真壁は短い線を引いた。
実際に見えている点を、紙へ1つずつ写すことはしなかった。
「多いのはこちらだよ。倉の近くにも人がいる。互いに寄ってきているな」
ベルクマンは紙を押さえたまま、窓の外の伝令を見た。
男は革袋を鞍へ結び、水を飲んでいる馬の首を撫でていた。
「昨日出した使いでは、まだ着きません」
「新しい命令を聞いて集まったわけではない、ということか」
「少なくとも、こちらから送った勅令を読んだとは考えられません」
澪は、戸口で2人の会話を聞いていた。
もう一度関門が必要になるかもしれないと思うと、帰ると言い出す声が小さくなった。
それでも、ここで立ったまま待つつもりにはなれなかった。
「私は事業所へ戻ります。真壁さん、後で話してくださいね」
「ああ。そちらへ行くよ」
澪は隣の空き部屋に関門を開いた。
事業所の床と、片付けかけた作業着が見える。
向こうへ踏み出し、王都の兵が行き交う音を背にして扉を閉じた。
ベルクマンは、机に残った川筋へ目を戻した。
補給所の古い配給図には、船の印が幾つも付いていた。
ベルクマンは川下へ続く送り先を指し、途中にある倉の印を指で叩いた。
「ここを止めれば、先の駐屯地で食糧が足りなくなります」
「今、止まっているかどうかは分からんがね」
「はい。守備将校が物資を守っているのか、荷を出せずにいるのかも、まだ分かりません」
ベルクマンは、真壁の引いた線の向こうへ紙をずらした。
倉庫と船着き場の間には空地があり、西へ出る道に小さな橋の印がある。
「守備隊の任務は?」
「国費で買った物を保管し、受領する王国軍の担当者へ渡すことです」
「取引先が取りに来れば、渡してよいのかね」
「運ぶ者と、受け取る部隊は別です。運送人だけが決まっていても出せません」
答えながら、ベルクマンは待機命令の用紙を取った。
真壁はその手元を見た。
「新しい王命が届くまで、待つつもりかね」
「いいえ。王命がまだ届かぬなら、救援の命令をこちらから出します」
呼ばれた担当官が、椅子の後ろで足を止めた。
「西営へ送った者は動かすな。交代を終えた部隊から、60人ほど出せるようにしておけ。軍医と担架も要る」
「現地へ出発させますか」
「まだだ。現地の状況が分かってから出す」
担当官が戸口へ向かうと、別の官吏が当直の一覧を差し出した。
ベルクマンは門の担当に線を引かず、勤務を終えた者の名前を選んだ。
真壁は、勅令の謄本を持ち上げた。
「これは借りていくよ。私が着く前から争っているなら、何を命じられているか聞いてみよう」
「私の書面も付けます」
「相手が刃を向けるなら止める。捕らえた後の扱いは、君に任せるよ」
「王国軍で引き受けます」
ベルクマンは署名を済ませ、2つの書面を革筒へ入れた。
真壁がそれを受け取った時、廊下で軍医を呼ぶ声が上がった。
先ほどの救護の水桶が、まだ片付いていない。
ベルクマンは空いた桶を指し、担当官に洗って用意するよう命じた。
ラウフェンの川べりでは、濡れた綱を引く手が止まっていた。
船頭は、荷役桟橋の杭へ綱を巻き直した。
川下へ出すはずの麦袋は揃っているのに、広場で怒鳴り合う男たちが通路を塞いでいた。
「そっちの車を動かしてくれ。袋を担いで通れん」
船頭の声に、オスカー・リーメルは振り返った。
こめかみに汗が溜まり、作業帽の縁を暗くしている。
「すぐ空ける」
オスカーはそう答え、荷車の前に立つ将校へ送り状を差し出した。
「船の分は通しただろう。陸の分も通してくれ」
「いつもの船へ運ぶ分は通した。前の陸送分には倉の承認印があった。だが、この荷車はどこへ行く」
エリアス・ゼルナーは、差し出された紙を受け取らなかった。
その後ろで、人夫が箱を荷台の縁へ載せたまま止まっている。
王国軍の検収印の上から、運送人の木札がぶら下がっていた。
「陸路の積替え場だ。行き先は先方で決める」
「受領する部隊も、今回の出庫承認も書かれていません」
「俺は手紙の通りに運ぶ。着いた先で受け取る者がいれば、それでよかろう」
「その者が、王国軍の物を受け取ってよいのかは?」
オスカーは紙を折りかけ、もう一度開いた。
受領者の欄は、さっき見た時と同じように白かった。
「こちらで決めることじゃない」
「私が倉を空ける時には要るのです」
箱を支えていた人夫が、腕を揺すった。
「置いていいですか。肩が……」
「下ろせ。追加分は積むな」
ゼルナーの指示で箱が地面へ戻ると、オスカーの脇から武装した男が進み出た。
「倉の前から兵を退けろ。ここで荷を止められては困る」
ブルーノ・クレッツは、守備兵の盾を指した。
「邪魔になるから警護を付けたのではない」
「倉を守るために立たせています」
ゼルナーが答えると、クレッツは広場の西側へ合図した。
石橋の東詰で旗が持ち上がり、槍を持つ兵が集まってくる。
オスカーはそちらを見て、送り状を胸元へ戻した。
少し前まで、護送兵のために宿と食事を数えていた。
今、何を数えればよいのか分からなかった。
「人夫は桟橋脇へ。積込みを止めろ」
ゼルナーの部下が、荷台に残った男へ手を伸ばした。
人夫たちが下りると、荷車の間にいた若い守備兵も持ち場へ戻った。
盾の留め革を締める手が、途中で引っ掛かった。
彼は槍の穂先を見てから、もう一度その革を引いた。
クレッツの前に並ぶ兵は、倉の守備兵よりはるかに多い。
旗の下に残る者も、倉の北壁へ回る者もいた。
オスカーは荷台の下へ下ろされた箱を跨ぎ、御者へ出発の用意だけは済ませるよう言った。
御者は、行く手に揃った盾を見て、手綱を緩めなかった。
事業所の小部屋に戻っても、澪は作業着を広げられなかった。
畳まれた袖へ手を載せたまま、王都の床に残っていた土を思い出していた。
廊下では誰かが笑い、すぐに別の足音がそれを追った。
帰ってきた時に安心したはずの音が、今は遠かった。
戸を叩く音がした。
「入っていいかね」
「はい」
真壁は、軍務省から持ってきた革筒を机の端へ置いた。
そのまま新しい場所の話を始めるかと思ったが、椅子を1つ引いた。
「さっきの街道のことから話そう。約束したからね」
澪は作業着から手を離した。
「カイザーという護衛頭が、武器を置いた兵へ剣を振り上げた。私は、その男を撃った」
真壁の指は、机の上で動かなかった。
足元の土を消して進軍を止めたこと、転んだ兵を副官が助けたことも話した。
その後で起きた剣の動きを、曖昧な言葉に変えなかった。
「……別の止め方は、できなかったんですか」
「ほかの手はあったかもしれん。だが、あの場で私は撃つと決めた」
澪は膝の上で手を合わせた。
撃たれた男が悪かった、と言って終えることはできなかった。
顔も知らない男の死を、納得するための理由だけで包みたくなかった。
「亡くなったことは、軍にも伝えましたね」
「ああ。遺体は軍医に渡した。負傷者は手当てを受けている。靴と衣類も、ベルクマン君の指示で返した」
澪は、毛布を巻いて立っていた兵を思い浮かべた。
あの人たちが寒さを堪えずに済んだことには、息をつけた。
それで真壁への不信が消えるわけではなかった。
「それで、また戦いに行くんですか」
「まだ何が起きているかも分からん。川べりの補給所で、人が集まっている」
真壁は紙図を開いた。
新しい勅令が普通の伝令ではまだ届いていない場所だと聞き、澪は川筋へ目を落とした。
知らない兵士に、知らない倉がある。
そこへつなげてほしいと言われれば、これまでの澪は先に扉を探していたかもしれない。
「扉を開けるのは私です。知らないまま開けるのは、もう嫌なんです」
真壁は、紙の端を押さえていた手を止めた。
「……ああ。今度は君が判断できるように話すよ」
「記憶のことも、なくなったとは思っていません」
「分かっているよ」
その答えの先を、澪は待った。
真壁は言葉を足さず、彼女が次の問いを出すまで座っていた。
「最初は真壁さんだけです。何が起きているか分かったら、戻って話してください。兵を送るかは、それからです」
「軍務省の帰還室へ戻る。その後、ここへ来よう」
「つなぐ場所も、私が見て決めます」
「無論。君の扉だからね」
澪は《世界地図》を開き、紙図に示された川の近くを探した。
人の集まりから離れた高台に、足を置けそうな地面があった。
真壁は出発前、保管していた工業用の耐圧容器を数基、器具とともに《収納》へ収めた。
丸みのある金属の胴へ澪が目を留めると、真壁は空気を蓄えた容器だと答えた。
「中身は、前に詰めておいたものだよ」
「使ったら、何が起こるんですか」
「強い風になる。使う場所は選ぶ」
澪は容器が消えた床を見てから、立ち上がった。
関門の向こうでは、草が一方へ倒れていた。
澪は入口の脇から地面を見て、人も荷物もないことを見届けた。
「ここです。丘を越えた先に補給所があります」
真壁が踏み出すと、靴の下で乾いた茎が折れた。
振り向いた時には、澪はまだ事業所の床に立っていた。
「戻ってきたら、先に報告を」
「ああ」
扉が消えると、川から来る風の音が大きくなった。
真壁は丘のふちまで歩いた。
石造りの長い倉が、低い屋根を川へ向けている。
南側の本流には木製の桟橋が張り出し、そこへ繋がれた荷船が岸の陰で揺れていた。
西の細い支流を跨ぐ石橋は、荷車が一台ずつ渡る幅しかない。
その東詰に旗があり、広場を横切って倉へ向かう兵の後ろに別の集団が控えている。
真壁は地図の反応と、実際の盾の列を重ねた。
前へ出ている者だけで70人ほど。
旗の周囲には50人近くが残り、倉の北側へ回り込む20人ほどの姿も見えた。
倉の前と周りを守る兵は、合わせても40人ほどだろう。
南側へ退いた作業着の男たちは、25人ほどに見えた。
運ぶ者のいなくなった荷車が、広場の中途で止まっている。
これほど人と荷が詰まっている場所なら、商人としては積み順を変えたくなる。
だが、今の渋滞は車輪の向きでは解けそうになかった。
「その荷車を動かすな!」
丘を下ると、倉の前から声が届いた。
「作業員を下げろ!」
湿った土の匂いに、麦の埃が混ざっていた。
真壁は馬のいる区画を避け、誰も立っていない荷車の間を抜けた。
盾越しにこちらを見る守備兵へ、両手を見せる。
「倉を預かっている将校に、話をしたいのだがね」
兵の1人が、扉の前に立つ男を呼んだ。
ゼルナーの肩に、倉の軒が影を落としていた。
真壁が近づくと、彼は倉を背にしたまま向き直った。
「この倉を預かっているのは君かね」
「はい。エリアス・ゼルナーです。ご用件は」
「軍務省から、様子を見に来た。こちらの荷は、出すところかね」
「止めているところです」
オスカーが、2人の間に紙を差し出した。
「だから、止める理由を聞いている。王宮から新しい命令でも来たのか。そんな話は聞いていないぞ」
ゼルナーは、オスカーの胸元にある送り状を見た。
「まだ王命は届いていません。ですが、王の倉を明け渡せという命令も、届いておりません」
箱の後ろで、人夫が握っていた梃子を下ろした。
オスカーは、その音へ顔を向けた。
「明け渡せなんて言っていない。運ばせろと言っているんだ」
「受け取る者の名がない荷を、出すわけにはいきません」
ゼルナーは荷台へ半ば載った箱を指した。
検収印の縁には、梃子で擦った新しい傷がある。
「これを出せば、ここには戻りません。私の倉から、誰に渡したことになりますか」
「グライフェルト伯爵と取引のある会社が運ぶ荷だ。運賃も決まっている」
真壁が、送り状の角へ指を添えた。
「伯爵家と商いをしていれば、陛下の倉まで開くのですか。ずいぶん便利ですな」
「伯爵の荷だとは言っておらん!」
「では、なおさら受け取る王国軍の名が要りましょう」
オスカーは紙を引こうとしたが、真壁は手を放した。
白い受領欄だけが、斜めの日差しを受けて光った。
真壁は革筒から勅令の謄本を取り出した。
「ゼルナー君。届いていなかった王命を、今ここで渡すよ」
ゼルナーは王宮の印を見て、姿勢を改めた。
読んでいる間も、守備兵の1人が荷車と扉の間に立ち続けていた。
国が将校を任じ、給金と軍需品を扱う。
爵位に伴う指揮の特権は停止する。
ゼルナーは自分の手に残った倉の鍵を握り直した。
「この倉の保管は、継続してよいのですね」
「ベルクマン君からも、そのための書面を預かっている」
真壁はもう1通を開き、ゼルナーへ渡した。
クレッツは、印よりも真壁の顔を見ていた。
「こちらの都合など、王都の商人には分からん」
「荷の受領先なら、商人にも読めますがね」
返答を待たず、クレッツは近くの兵へ顎を振った。
槍の柄が倉の横扉に寄る。
「扉から離れてください」
ゼルナーが命じた。
兵は槍を引き、クレッツを見た。
クレッツは、その兵ではなく、石橋東詰の旗持ちへ腕を上げた。
旗が広場へ向いて傾いた。
前衛の盾が上がると、その向こうにあった石橋が見えなくなった。
クレッツは東詰へ戻り、旗の脇から倉を指した。
「前へ出ろ! 入口を空けさせる!」
前列の1人は、盾の向こうの守備兵を見て動かなかった。
「クレッツ殿。あれも国の兵です」
「こちらも国の仕事をしている!」
背後の盾が詰まり、止まっていた男の足が一歩出た。
オスカーが御者へ手を振る。
「車を橋へ向けろ!」
「向けたら、あの兵に当たる!」
御者は馬の鼻先を荷車へ寄せ、動かそうとしなかった。
南の桟橋では、船頭が櫂を船内へ置いた。
桟橋の付け根に集まった人夫の間から、籠を取りに戻る男が出た。
「それは置いていけ!」
ゼルナーの声に、男は籠を持ちかけた手を離した。
守備兵が彼の背を押し、川べりの空地へ走らせる。
真壁は盾列の横へ出た。
「国の倉を守る兵へ刃を向けるのか」
「荷を動かせという命令を受けている!」
クレッツの声が、旗の下から返った。
「誰が命じたかは、後で聞きます。今は兵を下げてください」
ゼルナーが謄本を掲げた。
前へ出た兵の数人が、足を止めようとする。
「王都の紙切れ1枚で、ここにいる兵が止められると思うか!」
クレッツが剣の柄を叩いた。
旗の下で、弓が上がった。
ゼルナーの脇にいた若い兵が、盾を寄せた。
その身体が、半歩遅れて折れた。
胸の脇から出た矢柄に手を伸ばし、届く前に膝が落ちる。
「盾を寄せろ!」
仲間が男の腕を掴み、引きずって倉へ下がった。
血が石の継ぎ目へ落ちた。
「布を! 壁の陰へ運べ!」
ゼルナーは扉から離れず、運ぶ兵へ道を空けた。
若い兵の口が動いたが、言葉にならなかった。
隣の男が顔を寄せ、濡れた布を傷へ押し当てた。
真壁は、石橋の方へ目を上げた。
弓は何張りもあり、どの手から矢が出たのかは見分けられなかった。
「……君の言い分は聞いた」
前衛が、盾を揃えたまま迫っていた。
守備隊は、倒れた兵を運んだ分だけ薄くなっている。
真壁は人夫の避難した方を見てから、荷役の通路へ足を移した。
盾の縁が、守備兵の槍へ触れた。
槍先を下げた男の背へ、後ろの兵がぶつかる。
真壁は倉の斜め前、荷車を回すために空けられた地面へ進んだ。
「こちらへ寄るな。倉の側へ下がってくれ」
ゼルナーは兵の肩を叩き、真壁の立つ方から退かせた。
そこへ靄が流れ、金属の丸い胴が幾つか現れた。
容器を支える器具の脚が、地面へ沈む。
「何を出した!」
クレッツは石橋東詰から怒鳴った。
先頭の盾は止まらず、真壁へ向きを変えた。
その背に続く兵の足が、もう一度揃う。
「盾を上げろ! 止まるな!」
真壁は容器のそばへ手を下ろした。
「紙では止まらんか。では、少々風向きを変えよう」
外套の裾が跳ねた。
低く唸る音とともに、土埃が西へ走った。
最前列の盾の縁が、横から押された。
盾を支えた腕が開き、身体の脇が露わになる。
男は顔を庇い、その足へ隣の兵の踵が掛かった。
「風だ! 何だ、この風は!」
数人がよろめき、1人が尻餅をついた。
後ろの槍先が、その男の肩へ触れかけた。
「下がれ、踏むぞ!」
倒れた味方を跨げず、後列の兵が足を止めた。
さらに後ろから押され、盾で隣の男を支えようとする。
合図の旗は、土埃の向こうへ隠れていた。
真壁が手を戻すと、噴き出す音が止んだ。
前列の男が立ちかけるところへ、別の容器から短い風が渡った。
盾が裏返り、留め革を握っていた手が離れた。
「隣が見えない! 押すな!」
後列は、前の兵を潰さぬよう自分から退き始めた。
旗へ戻ろうとする者と、怪我人を支える者の足がぶつかる。
脇にあった空の木枠が転がった。
木片が1つ跳ねたところで、真壁は放出を止めた。
川べりの人夫の衣服は、同じようには揺れていなかった。
風の通り道から外れた馬が音に驚き、頭を振った。
御者は綱を掴み、荷車の脇へ寄って宥めた。
倉壁の陰では、兵が傷口へ布を重ねていた。
「息をしてる。おい、こっちを見ろ」
若い守備兵の目が、呼び掛ける男の方へ僅かに動いた。
真壁と倉の間には、ようやく空いた地面ができていた。
先頭から退いた兵は、石橋東詰の予備にぶつかって止まった。
70人ほどの前衛が戻ると、控えていた50人ほどの間にも盾と槍が入り込んだ。
打った肘を押さえた男が、槍を持つ仲間へ悪態をついた。
クレッツは、乱れた隊列の横を通って旗持ちに近づいた。
「裏はどうなった!」
北壁に沿って走ってきた伝令が、息を切らして止まった。
「まだ扉を開けておりません!」
「何をしている。そこから開けさせろ!」
旗の下には、まだ武器を持つ兵が大勢いた。
真壁は器具を回収し、倉の北側へ向かった。
金属の胴が消えた地面に、脚の跡が幾つか残った。
北壁を回ると、川の風が急に弱くなった。
湿った板の上に、縄を握った人夫が座り込んでいた。
扉に鍵を入れるよう迫られているが、その手には縄しかない。
「開けろと言われても、鍵はあの将校が……」
「なら、留めてあるものを外せ!」
護送兵が剣の柄を持ち上げた。
人夫は顔を伏せ、両手で頭を覆った。
柄を上げた男の肘が、そのまま止まった。
濡れた袖から、細い腕が覗いていた。
「鍵を持っていないと言っているよ」
真壁が声を掛けた。
護送兵は振り向き、後ろにいた仲間へ半歩寄った。
裏口には20人ほどいる。
扉の前まで来た者は、前の男が振り下ろすと思っていた剣を見ていた。
「誰に渡す荷か、聞いているのかね」
「俺たちは、運ぶ車を守れと……」
男の言葉を遮り、狭い道の奥から声がした。
「何をしている! 荷を運び出せ!」
クレッツが北壁沿いの道を歩いてきた。
東詰の旗を後ろに残し、荷車の轍を避けて裏の搬入口へ出る。
「そこを開ければ運べる! 早くしろ!」
人夫の前にいた兵は、剣を下ろした。
「俺たちは荷を守りに来たんです。倉を奪うためじゃない!」
彼が床へ置いた刃に、湿った泥が付いた。
隣の男も、槍の石突を地面へ載せた。
「命令違反だぞ!」
クレッツが剣を抜いた。
兵は拾い直すために屈まず、後ろの人夫を押して扉から離した。
真壁の靄が、その間へ広がった。
クレッツの剣が消えた。
手を振り上げた腕だけが残り、握り直した指が空を切った。
「その兵の言う通りだよ。君たちは、もう武器を置いた方がいい」
「商人が、軍の命令に口を出すな!」
「その剣で、誰を守るつもりだったのかね」
裏口の端で、弓へ手を掛けた護衛がいた。
弦を引く前に弓がなくなり、腰から抜こうとした短剣も消えた。
人夫が木樽へ背をぶつけ、載っていた灯火が傾いた。
真壁はその下へ水を出し、床へ落ちた火を消した。
濡れた板を、人夫が靴底で踏み直した。
「立てるかね」
男は頷き、兵の差し出した手を取った。
クレッツが後ろを見ようとすると、裏口班の兵が彼から離れた。
真壁は、その足の向きを見た。
「そこを動かないでくれ。守備隊の将校に来てもらう」
剣を置いた兵が、北壁の道にいる仲間を呼んだ。
「石橋の連中にも伝えてくれ。こっちで何があったか、隠すな!」
呼ばれた男は、クレッツを一度見てから道へ走り出た。
靴音が石壁に反響し、広場の喧騒に紛れていった。
倉の正面へ戻る途中、真壁は壁の陰で屈んでいる守備兵を見た。
布を押し当てていた手が、傷口から離れていた。
「……息をしてない」
呼び掛ける男の声に、もう1人が顔を寄せた。
若い兵は、二度目の呼び掛けにも目を開かなかった。
仲間は胸元へ手を添え、しばらくそのまま動かなかった。
北壁を走った男は、石橋東詰の旗の下で足を止めた。
息を継ぐより先に、周囲の兵へ声を張った。
「倉裏の連中は武器を置いた! 隊長も、もう剣を持っていない!」
「捕らえられたのか!」
「人夫に剣を向けたんだ。扉を開けろと、鍵も持っていない男に!」
打った腕を抱えた兵が、隣の男を見た。
旗持ちは、旗を下げるべきか分からず、柄を両手で握っていた。
前衛をまとめていた伍長格の男が、盾の列の間へ入った。
「何のためにここへ来た。王国の倉を奪うためか」
「俺たちは護衛に来たんだ……」
「なら、倉へ向けた槍を下ろせ」
男は、自分の槍を先に地面へ置いた。
後ろで弓の弦を外す音がし、盾が1枚裏返った。
倉の側にいた守備兵は、降伏し始めた者へ進まなかった。
その間に、真壁が広場を横切った。
幾つかの部隊で槍が下がり、武器を置くための場所が空いていく。
「旗を下げるな! まだ終わっていない!」
軍服の上へ別の紋を付けた護衛が、剣を構えた。
同じ紋の男たちが彼の脇へ寄り、数人は石橋へ足を向けた。
真壁は東詰の入口へ立った。
「終わりにするなら、今だよ」
護衛が剣を突き出すと、その刃を靄が覆った。
柄まで消え、男の腕が真壁へ伸びたまま止まる。
隣の弓も、橋へ向かう男の槍もなくなった。
誰も真壁の脇を押し通ろうとはしなかった。
「降伏した者に手を出すな! 負傷者を先に運べ!」
ゼルナーの命令に、守備兵が広場の端へ散った。
武器を置いた者は橋の手前と空いた荷車場に座らされ、倉裏の兵も見通せる所へ連れてこられた。
クレッツだけは離され、守備兵が両側に立った。
地面の槍や盾が靄へ消え、立っている者の鎧も回収された。
真壁は濡れた敷布と手当ての布を残し、軍装と馬具を別に収めた。
馬は御者に引かせ、荷車を空けてから取り込む。
「上着まで取るのか」
腕を抱えた護送兵へ、ゼルナーが余っていた布を渡した。
「後で衣類を出させる。今はここにいろ」
倉の裏からも、武器を持つ者はいなくなったと報告が来た。
140人ほどの護送隊は、幾つかの集まりに分かれて座っていた。
ゼルナーは倉の鍵を部下へ預け、負傷者を診ていた兵の所へ行った。
男は、血の付いた手を膝から離した。
「戻りませんでした。呼吸も……」
言葉を継げない部下の肩に、ゼルナーは手を置いた。
若い兵の顔へ布を掛けると、最後に見えていた頬が隠れた。
ゼルナーは、その脇へ膝をついた。
「この兵は、新しい王命を知りませんでした」
真壁は、床に落ちた盾の留め革を見た。
「……だが、何を守るべきかは知っていた」
ゼルナーは布の端を直し、その上へ手を置いたまま動かなかった。
鍵を預かった兵が近くに立っていたが、将校を急かさなかった。
やがてゼルナーは立ち上がり、倉を守る兵と、座っている護送兵の間へ戻った。
「医者を、ここへ呼べますか」
「王都から呼んでくる。君たちだけで見ている時間は、短くするよ」
真壁は、桟橋脇に空いた地面の位置を覚えた。
軍務省の帰還室は、出発した時と同じように空いていた。
真壁が戸を開けると、隣室から軍医の箱を持った兵が出てきた。
ベルクマンは、その後ろで待機していた。
「真壁殿。現地は」
「護送側が140人ほど。守備隊は40人ほどだ。倉から荷を出すことで争っていた」
ベルクマンは担当官を呼び、地図を開かせた。
「今は、誰が倉を守っていますか」
「ゼルナーという将校だ。護送隊は武装を解いた。国軍の兵も混じっている」
「負傷者は」
「守備側と、風で転んだ護送側にもいる。それから、倉を守る兵が1人、矢を受けて亡くなった」
軍医の箱を持つ兵が、ベルクマンを見た。
「武器は取り戻せます。死んだ兵は戻りません。軍医を先に」
ベルクマンは先遣の将校へ命じ、救護の用意を進めさせた。
「60人の準備はできています。現地の守備と分担し、護送側は補給所で一時収容します」
「では、澪君に話してくるよ」
真壁は帰還室へ戻り、事業所へ《転移》した。
小部屋の戸を叩くと、澪はすぐに立ち上がった。
机の作業着は、まだ畳まれたままだった。
「何があったんですか」
真壁は倉の将校が荷を止めた理由と、護送隊が刃を向けた経過を話した。
風で前進を止めたこと、裏口で兵が命令を拒んだことも続けた。
「死んだ人は、どちらの兵なんですか」
「倉を守っていた方だ。矢を受けた。護送側にも転倒した負傷者がいる」
澪は、真壁の外套に付いた麦の埃へ目を落とした。
布で覆われた顔が、まだ見えていないのに浮かんだ。
「軍医を通すんですね」
「ああ。ベルクマン君が待っている」
「私も軍務省へ行きます。場所と、通す人を聞きます」
澪は事業所から軍務省へ関門を開き、真壁と通って閉じた。
隣室には担架が並び、王国軍の将校が待っていた。
ベルクマンは現地の拘束と救護を軍で引き受けると、澪本人へ説明した。
「最初に軍医と護衛。その後で、監視と倉の保全をする兵を通します」
「捕らえた人を、ここで全員受け取るんですか」
「いいえ。現地で守備隊と分担して見ます。移送は、収容先を用意してから行います」
澪は真壁の描いた広場を見た。
倉の扉、座っている護送兵、血の付いた布を置いた所は、入口に選ばなかった。
「開く場所は私が決めます。倉庫の中や怪我人の所へは開きません」
「はい。それでお願いします」
関門の向こうに、夕方の河岸が現れた。
空地の足元を見た先遣の将校が、護衛へ合図した。
軍医が通り、その後ろへ担架と水を持つ兵が続く。
真壁も現地へ戻り、ゼルナーを呼んだ。
「軍務省からです。負傷者はどこに」
将校の問いにゼルナーが倉壁を指し、軍医はそちらへ歩いた。
澪には、盾を脇へ立てかける守備兵の手が見えた。
血の付いた手を拭うより先に、軍医のために敷布を寄せている。
続いて拘束を引き受ける兵が渡り、先遣将校の指示で広場へ散った。
真壁は指定された空地へ衣類と靴を出し、武器や鎧は兵の立つ別の場所へ戻した。
最後の担当隊が通ると、将校が澪へ手を上げた。
「引継ぎました。こちらで続けます」
澪は、その言葉を聞いて関門を閉じた。
王都の部屋へ川の風が入らなくなった。
ベルクマンへ帰ることを伝え、澪は事業所への関門を開いた。
向こうへ歩いてから閉じると、作業着の置かれた机は、同じ所にあった。
澪はその袖を広げ、しばらく両手で押さえていた。
河岸の灯が点く頃には、広場の武器と軍装は国の兵に引き渡されていた。
私物だと申し立てられた品は、王国軍の装備と別の所へ置かれている。
真壁は空になった荷車を出し終え、兵が車輪を留めるのを待った。
ゼルナーは、派遣将校を倉の出庫係の箱へ案内した。
オスカーも呼ばれ、事務机の脇へ立った。
灯の下に並んだ送り状には、麦を運ぶ通常便、数日前の陸送、今日の追加分があった。
「今日の車は、ここから出ていないのだな」
派遣将校の問いに、ゼルナーは答えた。
「はい。積込みの途中で止めました。荷は倉へ戻しています」
「こちらの3件は?」
「数日前に、陸路へ出しました。倉の承認印がありましたので、受領先も審査済みだと思って通しました」
ゼルナーが紙の下端を指すと、将校は通常便をその隣へ寄せた。
船の分には、受け取る部隊と担当者の名もある。
ゼルナーは先行した陸送分の裏を返した。
積替え地の先を辿ろうとした指が、白い欄で止まった。
「……こちらにも、受領する者の名がありません」
「印を出した者には、後で説明してもらう。君は今、通した分を隠さず出してくれ」
ゼルナーは紙を揃え直さず、そのまま将校へ渡した。
オスカーが、運賃請負の札を胸から出した。
「俺が受けたのは、この仕事です。兵を動かせとは言っていない」
「グライフェルト伯爵が運べと命じた、という文書はあるか」
「伯爵本人からではありません。仕事を受けたのは、下請の取りまとめ役です」
オスカーは札を置き、指で業者の印を示した。
「伯爵家とも取引する。だから、間違った荷だとは……」
「では、その荷車を誰が受け取る予定だったのか」
将校が尋ねた。
オスカーは札から手を離した。
灯が揺れ、印の上を影が通った。
「積替え場で、次の運送人が」
「その先で、王国軍の誰が受け取る?」
オスカーは答えず、帽子を握った。
外では、麦袋を倉へ戻す声がしていた。
今日の追加分が下ろされる一方、通常便の袋は桟橋脇へ残されている。
将校は、クレッツを兵に任せたまま、オスカーの受けた依頼を聴き始めた。
ゼルナーは倉の鍵を握り、以前の承認印を見ていた。
守った荷のすぐ隣に、もうここにはない荷の控えがある。
真壁は机へ入らず、戸口で待った。
ゼルナーと派遣将校が初動の報告を作り、送り状の写しを添えた。
まだ聴いていない相手の欄は、書き足されなかった。
封じられた書面を将校が差し出すと、真壁は革筒へ収めた。
「ベルクマン君へ渡すよ」
「現地の聴取は、こちらで続けます」
真壁は川べりの灯を一度見てから、軍務省の帰還室へ《転移》した。
ベルクマンの机に置かれた革筒は、河岸の湿気を含んでいた。
彼は封を切り、通常便の写しを先に開いた。
次に、先行した陸送分を3枚、その脇へ並べる。
「今日の追加荷は、補給所を出る前に止められました。ですが、数日前に出た荷は、すでに3つの積替え先へ向かっています」
真壁は紙の上の日付を見た。
「王命が出る前から、か」
「はい」
ベルクマンは、それぞれ異なる積替え地の名を指した。
その先にあるはずの受領者欄は、3枚とも空いている。
「先行陸送の送り状には、国軍の受領担当者が1人も書かれていません」
「積替え先が違うだけなら、商人としては珍しくないがね」
「その先で誰に渡すかまで、どの便にもない。そこを追います」
官吏が紙の間から、小さな添付を抜いた。
護送責任者交替と書かれ、その下に新たな担当の指定がある。
ベルクマンはそれを読み、送り状の隣へ置いた。
「兵への指示も、先に動いています」
真壁は椅子の背から手を離した。
「風で兵を止めても、荷を動かした命令までは止まらんか」
「だから、命じた者を追います」
ベルクマンは官吏へ、グライフェルト伯爵の王都屋敷に使いを出すよう命じた。
新勅令の受領状に加え、運送契約の発注者と受領先、護送隊への指示を問う書面を付ける。
官吏が、伯爵の名の所で筆を止めた。
「業者を拘束する命令も出しますか」
「仕事を受けた者から話を聴く。伯爵についても同じだ。逮捕状を届けるのではない」
真壁は《世界地図》へ目を向けかけ、官吏が書面を折るのを待った。
「君が呼ぶなら、私も話を聞こう」
廊下へ出た使者の靴音が、夜の軍務省を遠ざかっていった。
アルノルト・グライフェルトは、下げられかけた皿へ手を上げた。
「それは置いておいてくれ」
家人は皿を戻し、食堂の扉へ下がった。
伯爵は食事を再開せず、隣の執務室から持ってきた契約書を開いていた。
暖炉の火は弱まり、袖の金具に細い赤が映っている。
旧来の契約相手の名を見てから、新しい王命の謄本を寄せた。
誰に話を通せばよいのかが変わる。
支払いまで止まるとは書かれていなかったが、これまでの相手が返事をできるとも限らなかった。
「旦那様」
家人が戻ってきた。
「軍務省からです。今夜のうちにお届けしたいと」
「今夜か。彼らも休む暇がないらしい」
アルノルトは契約書の端を押さえ、封書を受け取った。
印を見て、封蝋刀を入れる。
「新しい軍の取引について、御返事を求めているのでしょうか」
「取引なら話せる。軍令を私に出せと言われても困るがね」
開いた紙の初めには、勅令への受領状を求める文があった。
続けて、ラウフェン河岸補給所の輸送について問うている。
アルノルトの指が、契約書の端で止まった。
運送契約を発注した者と、最後に荷を受け取る者。
さらに、護送隊を編成し、指揮官へ指示を与えた者。
彼は封書を灯へ寄せ、途中で折れた行を読み直した。
家人は返書用の紙を置いたが、伯爵はまだ筆を取らなかった。
「どのようにお返事を?」
アルノルトは、新しい書面の受領者という語へ目を戻した。
「彼らが知りたいのは、荷を動かした者の名か。それとも、兵を動かした者の名かね」