押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第423話 あの命令は、取り消せません

 

 家令は、返書のために出した紙を持ち直した。

 

 荷を動かした者と、兵を動かした者。

 

 どちらの名を求められたかと問われても、軍務省の照会には両方が書かれていた。

 

「運送契約の写しを揃えましょうか」

 

 アルノルト・グライフェルトは、手元の契約書を閉じなかった。

 

「揃えるのはよい。だが、あの者たちは、運賃を払った手より、兵を動かした手を知りたがっている」

 

 指が、護送指揮官の交替を問う行で止まった。

 

 家令の目が、そこへ落ちる。

 

 食堂から最後の皿を下げる音がした。

 

 廊下では家人が燭台を持ち、いつもの順に灯を落としている。

 

 伯爵はその足音が遠ざかるのを聞いてから、机の脇にある革箱を開けた。

 

「朝までに、明日の輸送と支払い先を揃えろ。私も見る」

 

「軍務省へお渡しするのですか」

 

「私が持っていく」

 

 家令は、照会状をもう一度見た。

 

「出頭のお召しではございません」

 

「だからこそ、こちらから行く」

 

 アルノルトは、脇へ寄せた皿の肉に手を付けなかった。

 

 脂が白く固まり、暖炉の熾火から離れた所では湯気も出ていない。

 

 屋敷の外で、馬車を屋根の下へ入れる車輪が鳴った。

 

「明朝、あの車を出しておけ」

 

 家令が一礼し、戸口へ向かった。

 

 アルノルトは、革箱から取り出した書面を日付順に重ねた。

 

 ラウフェンの名を記した紙の下に、西方へ兵を配した時の控えがあった。

 

 その紙を出した日は、まだ飛行船の招待状に返事をしていなかった。

 

 

 

 10日余り前、王宮から招集状が届いた時、屋敷の石段には雨が残っていた。

 

 カール・ザイフェルトは、濡れた外套を脱いで小間へ入った。

 

 伯爵の机には、飛行船を小さく描いた紙と、出席を求める書面があった。

 

「船の供給について、当主自ら来いという」

 

 アルノルトは、招集状の一部をザイフェルトへ向けた。

 

 運用を希望する兵の数と所属も、示すよう求めている。

 

「輸送する人数が分からねば、船の大きさも決められません」

 

「船を売る話に、陛下までお出ましかね」

 

 ザイフェルトは答えず、窓の外へ目をやった。

 

 積荷を載せた車が石段の脇を通り、鉄輪で水を跳ねた。

 

 アルノルトは招集状を伏せ、街道地図を広げた。

 

「兵籍の原帳も押さえているらしい。兵の数を出せば、麦を買う数も問われる」

 

「兵と糧秣を、西へ集め直しますか」

 

「合法な手続きを残せ。あちらが急いでも、動いている荷はすぐには戻らん」

 

 ザイフェルトは、地図の西側に置かれた糸を引いた。

 

 国軍の補給警護兵220人ほどを集め、伯爵家の護衛60人ほどを付ける。

 

 途中で替える馬と、泊める場所も要った。

 

「出席されるまでには、向こうへ入れます。だが、何のために」

 

「軍には、立っている場所より、明日食べる場所があるのだよ」

 

 アルノルトは、王都へ戻る補給路の所へ重しを置いた。

 

 ザイフェルトには、その重しが何を止めようとしているのか分かった。

 

 だが、渡された指示の表題は、西方補給路の臨時再配置だった。

 

 国軍の倉を襲えとは、まだどこにも書かれていなかった。

 

「先に向かえ。車列は、集まったものから出す」

 

「ラウフェンからの荷も、こちらへ?」

 

「陸送の手配は進めてある。西へ向かう分の積替え先は、別紙で渡す」

 

 ザイフェルトは紙を畳み、命令筒へ収めた。

 

 軍の補給を預かる伯爵が、軍の兵を配置する。

 

 これまで幾度もそうしてきた。

 

 屋敷を出ると、先ほどの荷車は角を曲がっていた。

 

 歩兵も荷も、遠くへ出せば数日は戻ってこない。

 

 ザイフェルトは、雨の残る石段を下りて馬へ近づいた。

 

 

 

 特別軍議から戻った夜、アルノルトは同じ机へ国王の勅令を置いた。

 

 家令は、外套を受け取ったまま立っていた。

 

 軍務大臣フォルケンラートと、ベルグナー伯爵は帰っていない。

 

 王国軍への指揮特権は停止され、支給の窓口も国へ移る。

 

 アルノルトは、その文面を端から端まで読んだ。

 

 次に、自分の印章を手元へ引いた。

 

「ザイフェルトへ使いを出す」

 

「配置の中止でございますか」

 

 返事の代わりに、伯爵の筆が動いた。

 

 予定の確保を実行すること。

 

 西方集積地の外積場と出入り口を押さえ、新しい支給官の命令を受けないこと。

 

 抗する国軍守備兵は、武装で排除すること。

 

 家令は途中で息を吸い、筆が止まるのを待った。

 

「陛下の勅令に、逆らうことになります」

 

「読んだとも」

 

 アルノルトは、机の勅令を動かさなかった。

 

 それを見れば、命令を書いた時に知らなかったとは言えない。

 

「内乱に加わった貴族は、1人として助命されておりません」

 

 筆先が、日付の下で一度止まった。

 

 家令はその手を見ていた。

 

「旦那様お1人の命では済みませぬ。御一族も、家そのものも……」

 

「分かっている」

 

「でしたら、どうか……」

 

「ならば、負けるわけにはいかん」

 

「……お取り消しを」

 

「取り消せば、あの勅令がなかったことになるのかね」

 

 アルノルトは署名を済ませた。

 

 蝋へ押した自分の印は、王の印より小さかった。

 

 小さくても、遠方にある馬と麦と兵を動かせる。

 

 それが動いている間に、王都から兵を出せなくすればよい。

 

 王へ嘆願するための紙を、伯爵は用意しなかった。

 

「宿駅の替馬は契約してある。途中で使いを替えろ。返事を待って進めるな」

 

 家令は書状を受け取り、庭へ出た。

 

 使いが粥の椀を置き、革袋を開いた。

 

 継走先と、受け渡す者を家令が告げる間、馬の鼻息が白く揺れた。

 

 王の勅令は軍務省から各地の官署へ送られ、そこから守備隊へ届けられる。

 

 伯爵の書状が向かう先は、ザイフェルトただ1人だった。

 

 その道には、兵を西へ出した時から替馬と次の走者が待ち、官署での引継ぎを待たずに書状を送り続けられた。

 

 替馬を用意した駅を辿り、使いを替えながら進んだ命令は、2日後の夕刻、西方集積地へ着いた。

 

 その夜、外積場で国軍の盾と伯爵家の刃がぶつかった。

 

 

 

 朝の台所では、軍務省へ出る伯爵のために湯が用意された。

 

 アルノルトは、昨夜から開いていた契約を革箱へ戻した。

 

 正規の駐屯地へ届ける麦と馬糧、薬品を運ぶ車の一覧は、上へ置く。

 

 旧支給名義の切替について届いていた事務照会も、その脇へ挟んだ。

 

 契約を一括で止めるなら、明日の便が止まる。

 

 その便を請け負う商人は、伯爵へ知らせを運び、替馬も手配する者たちだった。

 

 アルノルトは手袋を着け、革箱を閉じた。

 

「代理にお任せください。閣下ご自身では危険です」

 

 家令が、馬車寄せで言った。

 

「使者が数字を知っていても、明日の麦をどの馬車で運ぶかは答えられまい」

 

「資料なら持たせられます」

 

「支払い先を変えろと言われた時、持たせた紙だけでは答えられん」

 

 家令は、伯爵の外套の襟へ手を掛けた。

 

 曲がってはいなかったが、指で撫でて直した。

 

「お戻りになれますか」

 

「戻るために行く」

 

 アルノルトは馬車の踏み台へ足を載せた。

 

 革箱は随員へ渡さず、自分で持った。

 

「兵の飯を止めると脅されて黙るほど、王都の役人も愚かではあるまい」

 

 扉が閉まると、家令の顔は窓の下へ隠れた。

 

 アルノルトは膝の箱を押さえた。

 

 西から返事が来るには、まだ時間がある。

 

 外積場を押さえ、予定の相手へ荷を渡せば、王都の軍を止める手が増える。

 

 ここで請負人が散り、馬を引き上げれば、その手まで失う。

 

 軍務省の入口へ着く頃、通りでは薪を載せた荷車が動き始めていた。

 

 受付の官吏は、伯爵の顔を見て姿勢を改めた。

 

「照会に答えに参った。契約の件もある。担当へ取り次いでくれ」

 

 拘束を告げられることはなかった。

 

 応接室へ通され、革箱を机へ置く。

 

 伯爵は、家令が置きかけていた返書より多くのものを、自分の手で持ち込んでいた。

 

 

 

 軍務省の地図室では、真壁の指が西へ動いていた。

 

 ベルクマンの前に広げられた紙では、集積地の印と街道の分岐が離れている。

 

 真壁が見ている《世界地図》では、その間を大きな集団が進んでいた。

 

「倉の所に残っている者もいる。動いている方は、西だよ」

 

 ベルクマンは、補給警護隊の編成を引き寄せた。

 

 食事の染みの付いた紙に、国軍兵の所属が並んでいる。

 

「この部隊なら、国軍が220人ほど。伯爵家の護衛が60人ほどです」

 

「合わせて280か」

 

「現地で揃っているかは、まだ分かりません」

 

 真壁は紙に、進む集団の長さと、その先の曲がりを示した。

 

 前方と後方で、赤の密度は同じではなかった。

 

「280を相手にするつもりはないよ。国の兵を返してもらうだけだ」

 

 現地へ行く将校が、地図へ身を寄せた。

 

「分遣隊長へ命令を渡せれば、小隊を動かせます」

 

「命令を聞く前に、家兵が斬りかかれば?」

 

 ベルクマンが尋ねると、真壁は集団の前へ短い線を引いた。

 

「だから前と後ろを同時に止める。私が前を引き受ける間、君の将校に後ろを返してもらおう」

 

「御者と兵の逃げ道も要ります」

 

「ああ。荷より命だ」

 

 将校は北の草地を指し、続いて宿駅へ戻る道をなぞった。

 

 合流へ向かう道は別に警戒し、車列から離れた者は北へ受け入れる。

 

 ベルクマンは、それぞれの担当を将校に決めさせた。

 

「増派は60人ほどだ。西営とラウフェンの収容兵は使わない。軍医と支給官も同行させる」

 

 戸口にいた官吏が、応接室へ伯爵が来たと告げた。

 

 ベルクマンは契約担当に先の聞き取りを任せ、派遣命令へ署名した。

 

 真壁が見つけた点の動きだけを、攻撃の根拠にはしなかった。

 

 国軍分遣隊へ届く命令は、前進停止と護衛任務の解除、指定地点での待機だった。

 

「王命と、君の任命書も持っていく。帰ってくる兵の支払いも、こちらで引き受ける」

 

 将校が書面を受け取ると、真壁は紙図を畳んだ。

 

「澪君に話してこよう。最初に現地を見るのは私だ」

 

 

 

 事業所では、朝の搬入を告げる声がしていた。

 

 澪は伝票を机へ置き、作業着の袖を片付けた。

 

 昨日からそこにある布を畳み直すと、ようやく自分の仕事へ戻れた気がした。

 

 その時、真壁が戸を叩いた。

 

「西へ行く用件ができた。話を聞いてもらえるかね」

 

 澪は立ち上がらず、椅子を向けた。

 

「また戦うんですか」

 

「戦わせるためだけではない。戦いから引き離すために、兵を送る」

 

 真壁は西方へ進む車列と、そこに国軍の補給警護兵が含まれる見込みを話した。

 

 王の命令を持った将校が、兵を伯爵家の隊列から切り離す。

 

 だが、家の護衛がそれを許すとは限らない。

 

「御者に刃が向けば、止める必要がある。送った兵も戦うことになるだろう」

 

 澪は、伝票を押さえる指に力を入れた。

 

 安全だと言われるより、その答えの方が考えられた。

 

「その扉を通る人の命まで、知らないふりはできません」

 

「私も、知らぬ顔はしないよ」

 

「現地の安全は誰が確かめるんですか」

 

「最初に私が行く。戻って報告する」

 

 澪は伝票を伏せ、軍務省へ行く関門を開いた。

 

 真壁と通って閉じると、待機室には担架と水、兵へ渡す糧食が用意されていた。

 

 ベルクマンと派遣将校は、現地での退避と救護を引き受けると説明した。

 

「移送が終われば、関門は閉じていただいて構いません。以後は現地で勤務します」

 

「国軍の兵を受け取った後は?」

 

「こちらの指揮に戻します。家の護衛と一緒に捕らえるつもりはありません。ただし、攻撃に加わった者は別に調べます」

 

 澪は、将校が持つ待機地点の図を見た。

 

 関門は、街道から外れた北の高所の外縁へ開く。

 

 向こうの乾いた草と、誰もいない地面を見てから真壁を通した。

 

「ここへ兵を送れるか、見てきてください」

 

「ああ。君を待たせるための扉は、残さなくていい」

 

 真壁の背が丘へ向かうと、澪は関門を閉じた。

 

 真壁は高所から車列の位置と草地を見て、街道へ下りた。

 

 分岐の先へ進む旗とは逆に、集積地の本倉には国軍の旗が残っている。

 

 彼は《移動加速》を使って本倉へ回った。

 

 国印のある扉の前で、包帯を巻いた兵が槍を持っていた。

 

「軍務省から来た。ここの将校はいるかね」

 

 呼ばれた守備将校は、外積場を夜に奪われたと話した。

 

 倉から数百歩離れた広場の囲柵は開けられ、荷車と積み出した軍糧の一部が持ち去られている。

 

「ここまで追ってきた者には抵抗しました。兵が数人、傷を受けています」

 

「倉は渡していないんだね」

 

「はい。朝から車列は西へ。ザイフェルトが率いています」

 

 真壁は軍務省の帰還室へ《転移》した。

 

 澪は空き部屋の戸口で待っていた。

 

「兵を置く草地は空いている。本倉はまだ国軍が守っているが、外積場を武器で奪われた。軍医も、そちらへ送ってほしい」

 

 将校が車列の進む時刻を聞き、配置を急がせた。

 

 澪は安全な高所へ改めて関門を開いた。

 

 入口を警戒する兵の後へ、将校、支給官、軍医が通る。

 

 約60人の部隊が渡る間、澪は向こうの地面を見ていた。

 

 誰も、関門からそのまま車列へ駆け下りなかった。

 

 真壁が最後に通り、将校が引継ぎの合図を送ると、澪は扉を閉じた。

 

 待機室が空いたのを見届け、帰宅用の関門で事業所へ戻り、扉を閉じた。

 

 机の伝票は、伏せたままだった。

 

 

 

 応接室の会計官は、伯爵の前へ停止案を置いた。

 

 旧支払名義による取引を止め、担当の任命を待って契約を引き継ぐ。

 

 アルノルトは、持参した一覧をその隣へ寄せた。

 

「ここで1枚切れば、西の兵は明日から麦を買えません」

 

「旧貴族の窓口をそのままにはできませぬ」

 

「残せとは言っておりません。こちらの車は、明朝の駐屯地へ入ります。支払いの相手がないまま、商人が馬を出すとお考えか」

 

 伯爵は、麦の便を指した。

 

 続けて馬糧と薬品の欄も示す。

 

 会計官は、停止案から手を離した。

 

「その分だけ、先に切り替える必要がございますな」

 

「その分だけ、と言われるたびに御者を呼び戻すのですか。替馬を出す宿駅も同じ契約に入っております」

 

 補給官が伯爵の紙を受け取り、駐屯地の配給予定と重ねた。

 

 朝に届くはずの袋がなくなれば、次の便まで待たねばならない。

 

 ベルクマンは、会計官の停止案へ筆を入れた。

 

「名義は今日から国へ。荷は止めず、支払いを国が保証する」

 

 アルノルトは、訂正された行を読んだ。

 

「……よろしい。それなら兵は飢えません」

 

「国の監督下で履行させます。発注を伯爵家に任せ続ける、という意味ではありません」

 

「承知しております。納入日を変えないなら、請負人も答えられましょう」

 

 会計官は、一斉停止の通達を手元から退けた。

 

 代わりに、契約者ごとに国の担当を立ち会わせる指示が書かれる。

 

 アルノルトは手袋を緩めた。

 

 王都から商流を一度に断ち切らせずに済んだ。

 

 西へ走る馬も、麦を載せる車も、まだ使える。

 

 廊下を、軍靴の音が通った。

 

「王都から兵を出すには、兵が必要ですからな」

 

 伯爵が言うと、ベルクマンは戸口の官吏へ書面を渡した。

 

「ですから、今いる兵に命令します」

 

 アルノルトは、窓へ目をやった。

 

 王都から西へ、普通の軍を出すなら数日は要る。

 

 その間に何ができるかは、すでにザイフェルトへ伝えてあった。

 

 ベルクマンが席を立つと、補給官がその椅子へ近づいた。

 

「請負人への通知に、立会いをお願いしたい箇所があります」

 

 アルノルトは帰ると告げず、革箱からもう一束出した。

 

「こちらも見ていただこう。数字だけでは、運べる荷は分かりませんのでね」

 

 

 

 街道の荷車は、緩い坂へ入っていた。

 

 前方に伯爵家の旗があり、30人ほどの護衛がザイフェルトを囲んでいる。

 

 車列の中ほどには18人ほどが付き、御者の言葉へ口を出していた。

 

 後ろを行き来する監視と伝令は、12人ほどだった。

 

 国軍の補給警護兵は、車列の後半と外側を守っている。

 

 国軍分遣隊長は、側衛の小隊長を呼んだ。

 

「前の指示で、兵を散らすな。御者の側から離れないように」

 

 小隊長は前方を見てから頷いた。

 

 昨夜、外積場で家の護衛が守備兵を押し倒すのを見た。

 

 追えと言われた時、隊長は追撃を命じなかった。

 

 狭い囲柵の中には、荷を載せていた人夫と馬がいた。

 

 盾を組んだ国軍兵を寄せ、退く守備兵と、その後を追う護衛の間へ立たせた。

 

 そのまま斬り合わせれば、人夫は荷車の下にも逃げられなかった。

 

 今、国軍分遣隊長が車列に残した小隊は、御者の脇を歩いていた。

 

「私の合図まで隊列を崩すな。御者に武器を向ける者がいれば、その場で止めろ」

 

 隊長は次の小隊長にも伝え、前へ歩いた。

 

「守備兵を傷つけたのは誰の命令だ」

 

 ザイフェルトは、車輪の動きから顔を上げた。

 

「邪魔をする者を退けただけだ。荷を守れ」

 

「私の兵は荷を守る。御者へ剣を向ける者まで守るとは言っていない」

 

「ならば余計なことはするな」

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 隊長は、手綱へ触ろうとした護衛の前に立った。

 

 御者は息を吐き、馬へ声を掛けた。

 

 ザイフェルトは、隊長へ掴みかからなかった。

 

 国軍兵は220人ほどいる。

 

 ここで隊長を斬れば、護送そのものが崩れる。

 

 前へ進み、予定の相手へ荷を渡す方が先だった。

 

「車を止めるな」

 

 命じて前へ戻ったザイフェルトの背を、国軍分遣隊長は見送った。

 

 北の高所では、真壁が実際の旗と隊形を見ていた。

 

 先頭から最後尾まで、同じ色の反応が揃っているわけではなかった。

 

 彼の脇を、国王の旗を持つ兵が通った。

 

 

 

 坂を上り切る少し手前で、先頭の騎兵が馬を止めた。

 

 街道に、武器を抜いていない男が立っていた。

 

 その後ろの分岐には、王国軍の旗がある。

 

 北へ回る道にも、小盾を持つ兵が散っていた。

 

「道を開けろ。伯爵閣下の荷だ」

 

 ザイフェルトの声に、真壁は車列へ一度目をやった。

 

「積み荷の持ち主なら、国王陛下にお尋ねになるべきですな」

 

「輸送の邪魔をするな」

 

「こちらも、荷を無事に届けたいと考えております」

 

 馬が首を振った。

 

 前へ出ようとした蹄を、乗り手が手綱で抑えた。

 

 分岐を塞ぐ兵は、家紋の旗を見ても道を譲らない。

 

「貴様は何者だ」

 

「押入商会の真壁と申します」

 

「商人が軍の道を塞ぐのか」

 

「御者にご用なら、商人の方が話が通じることもございます」

 

 ザイフェルトは笑わなかった。

 

 伯爵から聞いた名だった。

 

 小型の船について話を持ち込んだ男が、なぜ西の街道にいる。

 

 朝の伝令が王都へ着くには、まだ何度も馬を替えねばならないはずだった。

 

「貴様1人で止めるつもりか」

 

「私が止めるのは、前だけだよ」

 

 真壁が答えた頃、車列の後方では、国軍分遣隊長の前へ派遣将校が進み出ていた。

 

 護衛が差し出す王国軍の旗を見て、隊長は槍を下げさせた。

 

 それでも、差し出された命令をすぐには受け入れなかった。

 

「所属と、命令を」

 

 将校は名乗り、勅令の謄本と軍務省からの指令を開いた。

 

 隊長は指令を押さえ、国王印のある箇所から読んだ。

 

 小隊長たちが、彼の肩越しに文字を追った。

 

「……世襲の指揮権を、停止する」

 

「既に陛下がお命じになった。あなたの隊には、護送停止と指揮の移管を命ずる」

 

「御者はどうする。ここで兵だけを抜けば、家兵が荷を動かすぞ」

 

「北の草地を確保している。御者も荷も、国が保護する」

 

 隊長は、包帯を巻いた荷役人へ目をやった。

 

 男は車輪の横にしゃがみ、誰の声が次に自分を立たせるのか、待っていた。

 

「給金の窓口も変わるのか」

 

 小隊長の1人が尋ねた。

 

 派遣将校は、彼だけでなく周りの兵へ聞こえる声で答えた。

 

「国王の兵は、国王の命令で動く。給金も明日の飯も、国が引き受ける」

 

 隊長は命令を畳んだ。

 

「承知した。御者を先に下がらせる」

 

 呼び寄せた小隊長へ、指で北を示す。

 

「後ろから順に止めろ。弓を下げさせ、車の間へ入るな。御者をこちらへ通せ」

 

 最初の小隊が足を止めた。

 

 次の小隊へ、短い声が渡った。

 

 巻かれていた国軍旗がほどかれ、風を受ける。

 

 後方監視の家兵が、その旗を見た。

 

 車列の外側を、男が走り出した。

 

 

 

 

「隊長! 後ろの国軍が離れています!」

 

 ザイフェルトは、真壁の肩越しに北の草地を見た。

 

 荷車の後ろへ続いていた槍が、横を向いている。

 

 御者が1人、国軍兵の間を通って草地へ移った。

 

「分遣隊長を捕らえろ。荷を前へ!」

 

 前衛の家兵が数人、馬首を返した。

 

 残った前衛も分岐へ進もうとしたが、そこに立つ王国軍の槍は下がらなかった。

 

 中ほどでは、家兵が御者の手綱を掴んだ。

 

「席へ戻れ! 馬を出せ!」

 

「前が塞がってるんだ!」

 

 御者が抵抗すると、家兵は剣を抜いた。

 

 その切っ先が胸へ向くより先に、横から盾が割って入った。

 

「国王の命令だ。御者を下がらせろ。剣を向ける者は止める!」

 

 国軍分遣隊長の号令を受け、側衛の兵が車列へ向き直った。

 

 家兵は御者を離さず、盾の向こうへ剣を差し込もうとした。

 

 真壁は《移動加速》で車列の脇へ踏み込み、御者と馬から離れた刃だけを狙った。

 

 刃の先へ、靄が触れた。

 

 握りが軽くなる。

 

 家兵は空になった手を見て、それから、いつの間にか車輪の脇にいる真壁を見た。

 

 坂の前にいたはずの男だった。

 

「手綱を放していただこう」

 

 隣の家兵が弓を上げた。

 

 弓も、次に抜かれた剣も、靄の中へ消えた。

 

 真壁は馬から離れた3人に《重力》を掛けた。

 

 膝が地面に落ち、手綱を掴んでいた指がほどけた。

 

 御者を盾の内へ引いた国軍兵が、真壁の顔を見上げた。

 

「こちらへ」

 

 草地から来た増援兵が御者を呼び、別の2人が膝をついた家兵の腕を取った。

 

 馬には、国軍兵が静かに声を掛けている。

 

 前衛から戻ってきた騎兵は、既に車列の脇へ立った盾の列に止められた。

 

「どけ。隊長を引き渡せ!」

 

「その隊長は、陛下の命令を受けている」

 

 派遣将校が国王の旗の下に立った。

 

 家兵の後ろでは、分岐を守る兵も前へ出ていた。

 

 ザイフェルトが追いつき、左右を見た。

 

 国軍分遣隊長を押さえれば、まだ隊列を戻せる。

 

 そう考えて送り出した兵が、今は盾と槍の間で動けずにいた。

 

「押し通せ!」

 

 剣を抜いた家兵が、盾の縁を叩いた。

 

 続こうとした男の槍が消え、横から肩を押さえられる。

 

 別の兵は盾にぶつかり、馬の脚へ倒れかけた。

 

 国軍兵が襟を掴んで引き戻し、増援兵へ渡した。

 

「馬を驚かせるな。御者を通せ!」

 

 隊長の声に、盾の間がわずかに開く。

 

 御者がそこを抜け、負傷した荷役人が肩を貸されて続いた。

 

 真壁はザイフェルトへ歩み寄った。

 

「荷だけで行軍はできません。御者も馬も、君の兵ではない」

 

「これは伯爵閣下の命令だ」

 

「では、その命令を拝見しましょう」

 

 ザイフェルトは、腰の命令筒へ左手を当てた。

 

 そこにある原本を示すために持ってきた。

 

 関所でも、引渡し先でも、伯爵の印があれば荷の権限を通せるはずだった。

 

 今、この男へ渡すためのものではなかった。

 

 右手の剣を、真壁へ向ける。

 

 靄が刃を包んだ。

 

 次の瞬間、片膝が土へ押しつけられた。

 

 命令筒を抱える腕だけは、まだ離さなかった。

 

「拘束をお願いします」

 

 真壁が派遣将校へ言った。

 

 伯爵家の旗を持つ兵は、旗竿を握ったまま立っていた。

 

 その隣で、1人が剣を地面へ置いた。

 

「もう、車は出せません」

 

 ザイフェルトは答えなかった。

 

 後方から来る小隊が、国王の旗の下へ次々に並ぶ。

 

 まだ武器を振り上げる家兵が数人いたが、彼らの周囲へ盾が寄った。

 

 後方の監視兵が車列の外へ逃れようとしたが、北の草地を守る増援兵に止められた。

 

 逃げ道を探す間にも、側衛の国軍兵が車列から離れ、彼らの前へ盾を並べた。

 

 武器を置いた者から拘束され、派遣将校が部下に人数を数えさせた。

 

 国軍兵のうち、家兵と共に剣を振るった者も、武器を取り上げられて別の列へ移された。

 

 最後の剣が落ちるまで、真壁は馬の脚から十分に離れた場所で立っていた。

 

 

 

 

 草地に、濡らした布と水桶が並べられた。

 

 切り傷を負った家兵が、布を受け取る前に国軍兵の顔を見た。

 

「押さえておけ。血が止まらんぞ」

 

 軍医に叱られ、男は黙って傷へ布を当てた。

 

 盾で打たれた兵と、家兵の剣で腕を切られた国軍兵が、少し離れて座っている。

 

 御者の1人は水を飲み、空になった椀を両手で抱えていた。

 

 派遣将校は、拘束された家兵の武器を集めさせた。

 

 国軍分遣隊長も、昨夜の襲撃に加わった可能性のある兵を別に呼んだ。

 

「今朝の離脱に従ったから、昨夜のことが消えるわけではない。見たことを聞く。勝手に列を離れるな」

 

 何人かが顔を伏せた。

 

 その後ろでは、馬が草を食んでいた。

 

 車から外すのは、落ち着いてからでよかった。

 

 荷役人に急げと怒鳴る者は、もういなかった。

 

 ザイフェルトの命令筒は、派遣将校が護衛を立ち会わせて開いた。

 

 伯爵家の私印と署名がある原本が取り出された。

 

 筒の外袋には、折り畳まれた急使の受取片が残っていた。

 

 国軍分遣隊長は、原本を初めて手に取った。

 

「……新支給官を拒め」

 

 読み進めた指が止まった。

 

「抗する守備兵は、武力をもって排除する」

 

 隊長は、ザイフェルトを見た。

 

「私へ渡した輸送命令には、これはなかった」

 

「全ての将校へ、同じものを渡す必要はない」

 

「だから昨夜、守備兵を追えと命じたのか」

 

 ザイフェルトは唇を閉じた。

 

 派遣将校が原本の日付を指した。

 

 王都で勅令が下った、その夜だった。

 

 受取片には、前夜、西の宿継ぎで急使から受け取った時刻がある。

 

 夜のうちに外積場へ入り、朝には荷を出していた。

 

 真壁は、その短い時間を指で辿った。

 

「私が見た本倉は、まだ守られていた。あちらへ軍医を送っていただけるかね。外積場を襲われた時の話も、守備将校から直接聞いてほしい」

 

「護衛を付けて向かわせます」

 

 派遣将校は部下を呼んだ。

 

 止めた車列には当面の警護を残し、分遣隊の小隊長と共に荷を数え直す。

 

 私物を包んだ御者の袋は、軍の積み荷と分けられた。

 

 伯爵家の馬だという申立ても、その場で馬を奪う理由にはしなかった。

 

 ザイフェルトは、原本が再び命令筒へ収められるのを見ていた。

 

 派遣将校の封が、筒の口を覆った。

 

「なぜ原本を持ち歩いた」

 

 隊長が尋ねると、ザイフェルトは顔を上げた。

 

「盗人として荷を運んだのではない」

 

「昨夜、倉の兵へ剣を向けることまで、権限だと思ったのか」

 

 ザイフェルトは答えなかった。

 

 草地を渡る風が、横たえられた伯爵家の旗を揺らした。

 

 

 

 

 午後、軍務省の応接室では、伯爵が運送契約の更新月を説明していた。

 

 昼に出された茶は、半分ほど残っている。

 

 担当官が次の頁へ手を掛けた時、扉が開いた。

 

 ベルクマンと共に入ってきた真壁を見て、伯爵は手を止めた。

 

「まだ、王都におられたのですか」

 

「戻って参りました、閣下」

 

「どちらから」

 

「西からです」

 

 伯爵は椅子の背から身体を離した。

 

「西だと……?」

 

 真壁は、茶を勧められるのを待たなかった。

 

 帰還室へ《転移》して伝えたのは、指揮官の拘束と、原本にある伯爵の命令だった。

 

 筒はまだ、派遣将校が現地で保持している。

 

 ベルクマンはその速報を受け、帰還室の隣の空き室を護送のために空けさせた。

 

「関係する方に、ここへ来ていただきます」

 

 ベルクマンが告げた。

 

 伯爵の指が、契約書の角を揃えた。

 

「西の者を、今日、ここへ?」

 

「お待ちください」

 

 真壁は一礼し、部屋を出た。

 

 事業所へ《転移》すると、澪は戻したばかりの荷札を束ねていた。

 

 真壁を見るなり、その手が止まる。

 

「終わったんですか」

 

「現地の戦闘は止まった。御者も保護できたよ。負傷者は軍医が診ている」

 

「亡くなった人は」

 

「今回の戦闘で、死者は出ていない」

 

 澪は息を吐いた。

 

 しかし真壁は、続けて言った。

 

「もう1度、護送のために扉を頼みたい。指揮官1人と、その人が持っていた命令の原本を軍務省へ運ぶ」

 

「兵を襲わせた命令ですか」

 

「ええ。守備兵が抵抗したら武力で排除せよ、とある。現地の将校が封をして持ってくる」

 

「その人だけを連れてくるんですね」

 

「護衛と将校も通る。ほかの家兵は、現地で王国軍が収容する」

 

 澪は荷札を箱へ置いた。

 

「私も、渡し終わるところまで見ます」

 

 事業所から軍務省へ開いた関門を2人で通り、澪はすぐに閉じた。

 

 専用の空き室には護衛が立ち、床の中央が空けられていた。

 

 真壁が見てきた収容空地へ、次の関門が開く。

 

 向こうでは派遣将校が護衛を並べ、ザイフェルトを立たせていた。

 

 軍医を本倉へ送った一行も戻っていた。

 

 派遣将校は守備将校の報告を受け取り、命令筒と共に抱えて関門を通った。

 

 次に、両腕を拘束されたザイフェルトが入った。

 

 泥の付いた靴が、磨かれた床を踏む。

 

 男は振り返ったが、澪は最後の護衛を待って扉を閉じた。

 

「引き渡しました」

 

 澪は受入将校へ告げた。

 

 それから真壁へ向き直る。

 

「この先は、国の仕事ですよね」

 

「そうだよ」

 

「では、仕事へ戻ります」

 

 事業所へつなぎ直した扉を通り、澪は姿を消した。

 

 その背が向こうへ出ると、扉も閉じた。

 

 机に残した荷札は、まだ途中の並びのままだった。

 

 

 

 

 応接室の扉が開いた時、伯爵は契約書から目を上げた。

 

 先に見えたのは、泥を付けた革靴だった。

 

 顔まで視線を上げ、伯爵は動かなくなった。

 

「……ザイフェルト? お前は西にいたはずだ」

 

「閣下、申し訳ありません」

 

 ザイフェルトは主の前で背を伸ばそうとした。

 

 しかし、拘束された腕がそれを妨げた。

 

「何日で……」

 

 伯爵は言葉を切った。

 

 王都を出る馬車の音が、窓の外から聞こえた。

 

 その車が西の街道へ入る頃には、この男はまだ、分岐へ向かって進んでいるはずだった。

 

「いや。いつから私の軍を見ていた?」

 

「見てから参りました」

 

 真壁は静かに答えた。

 

 伯爵は彼を見た。

 

「220人は?」

 

「閣下の軍が減ったのではありません。国王の兵が、帰っただけです」

 

 伯爵は袖口を直そうとした。

 

 指が釦を滑り、袖の縁を掴み直した。

 

「……こちらへ来たのか」

 

「兵は西におります。国王の指揮の下で、御者と荷を守っています」

 

 ベルクマンが答えた。

 

 派遣将校は、封印した命令筒を机へ置いた。

 

 筒と封の状態を伯爵へ示してから開き、原本を広げる。

 

 その脇には、勅令を伯爵本人が受領した際の控えが置かれた。

 

「こちらの署名と印は、閣下のもので相違ありませんか」

 

 伯爵は、赤い私印を見た。

 

 家令が消そうとした灯りを止め、あの夜、自分の手で押したものだった。

 

「私のものだ」

 

「外積場の守備将校から、襲撃と負傷者について報告が届いています。ザイフェルトがこの命令を受け、武力によって外積場へ入り、今朝、荷を搬出しました」

 

 伯爵の目が、原本の日付へ落ちた。

 

「出頭されたのは今日です。挙兵を命じたのは、陛下の勅令を聞いた夜でございます」

 

「それは承知している」

 

 伯爵はベルクマンを遮るように答えた。

 

「私が知らせを得る前に、なぜお前たちが西へ行けたのだ」

 

 真壁は、伯爵の顔を見た。

 

「閣下がお待ちになった知らせより、先に見えるものがございました」

 

 伯爵はそれ以上尋ねなかった。

 

 自分には駅馬があり、宿継ぎがあり、沿道の顔役がいた。

 

 王都の軍が西へ進むなら、誰より先に知るはずだった。

 

 その道を、相手は使っていなかった。

 

 ベルクマンが護衛へ合図した。

 

「ザイフェルトを別室へ。発動命令と現地での行動について、引き続き聴取する」

 

 ザイフェルトは、伯爵へもう1度頭を下げた。

 

 伯爵は男が出ていくまで、声を掛けなかった。

 

 扉が閉まると、ベルクマンは机の上の契約書を原本から離した。

 

「グライフェルト伯爵。国王の命に反して国軍の倉へ武力を向けた嫌疑により、身柄を確保いたします」

 

 護衛が伯爵の両脇へ進んだ。

 

 伯爵は立ち上がった。

 

 椅子を戻す手だけが、普段より少し遅かった。

 

 

 

 

 廊下の窓から、馬車寄せが見えた。

 

 朝、伯爵を乗せてきた馬車がまだ待っている。

 

 御者は誰かが窓へ近づいたのに気づき、手綱を持ち直した。

 

 しかし、馬車の扉を開ける者は来なかった。

 

 伯爵は立ち止まり、窓の下を見た。

 

「使者に撤回を命じたところで、あの兵たちが倉へ戻るわけではないな」

 

「起こされた軍を止めることはできました」

 

 ベルクマンが答えた。

 

 伯爵は、小さく顎を引いた。

 

 あの夜、家令は命令を取り消すよう勧めていた。

 

 自分は、その手で別の命令を選んだ。

 

「……あの命令は、取り消せません」

 

 護衛が奥の部屋の扉を開けた。

 

 伯爵は窓から離れ、そこへ入った。

 

 応接室には契約書が残っていた。

 

 会計官がそれを受け取る時、ベルクマンは今朝の決定を取り消さなかった。

 

「履行中の食料輸送は続ける。西の兵への支払いも、命じたとおりに」

 

「承知しました。運送人には、新しい受領窓口を伝えます」

 

 担当官が契約書を抱えて出ていく。

 

 その後ろから入ったクラウスへ、ベルクマンは命令の原本と守備将校の報告を差し出した。

 

 クラウスは日付を読み、伯爵の署名へ目を留めた。

 

「陛下へ報告する。屋敷と関係先については、調査と保全の王命を得る。支給に必要なものまで、まとめて閉じるな」

 

「はい。明日の配給を担う契約は、別に扱います」

 

 クラウスは頷き、原本を持つ将校を伴って部屋を出た。

 

 真壁は窓際で《世界地図》を開いた。

 

 西の大きな塊は、先ほどまでとは違う色の混じり方になっている。

 

 その向こうにも、動く赤い点があった。

 

「まだ動いている部隊がある。次は合流させる前に動きたい」

 

 真壁は紙地図を引き寄せ、見えている位置と進む方角を示した。

 

 ベルクマンは、ラウフェンから先に出た陸送の送り状を並べた。

 

 3件のうち、西へ向かった1件には、今回の車列へつながる手掛かりがある。

 

 残る2件は、まだ受け取った部隊の名がなかった。

 

「こちらの荷を待つ兵も、いるかもしれません」

 

「今夜、どこで受け取るつもりなのか。それを知りたいね」

 

 ベルクマンは将校を呼び、西の部隊に残した兵力と、次に動かせる小隊を尋ねた。

 

 御者を守る兵も、傷の手当てを受ける兵も、今の任務から消せるわけではなかった。

 

 返答を聞いてから、ベルクマンは新しい指示を出した。

 

「西の分遣隊は、現地で当直を交代させてください。食事を済ませた小隊から、次の命令を待たせる」

 

 将校が部屋を出ると、真壁は地図の端を押さえた。

 

「次の扉は、澪君にも改めて話してからだ」

 

「はい。こちらも、通す兵と、その先で守るものを決めておきます」

 

 西の空の明るさが、窓の縁に残っていた。

 

 ベルクマンは紙地図を、将校たちが囲める机の中央へ移した。

 

 真壁は、受領者の名がない2枚の送り状へ目を落とした。

 

「さて。次は、荷を待っている方にお会いしようか」

 

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