家令は、返書のために出した紙を持ち直した。
荷を動かした者と、兵を動かした者。
どちらの名を求められたかと問われても、軍務省の照会には両方が書かれていた。
「運送契約の写しを揃えましょうか」
アルノルト・グライフェルトは、手元の契約書を閉じなかった。
「揃えるのはよい。だが、あの者たちは、運賃を払った手より、兵を動かした手を知りたがっている」
指が、護送指揮官の交替を問う行で止まった。
家令の目が、そこへ落ちる。
食堂から最後の皿を下げる音がした。
廊下では家人が燭台を持ち、いつもの順に灯を落としている。
伯爵はその足音が遠ざかるのを聞いてから、机の脇にある革箱を開けた。
「朝までに、明日の輸送と支払い先を揃えろ。私も見る」
「軍務省へお渡しするのですか」
「私が持っていく」
家令は、照会状をもう一度見た。
「出頭のお召しではございません」
「だからこそ、こちらから行く」
アルノルトは、脇へ寄せた皿の肉に手を付けなかった。
脂が白く固まり、暖炉の熾火から離れた所では湯気も出ていない。
屋敷の外で、馬車を屋根の下へ入れる車輪が鳴った。
「明朝、あの車を出しておけ」
家令が一礼し、戸口へ向かった。
アルノルトは、革箱から取り出した書面を日付順に重ねた。
ラウフェンの名を記した紙の下に、西方へ兵を配した時の控えがあった。
その紙を出した日は、まだ飛行船の招待状に返事をしていなかった。
10日余り前、王宮から招集状が届いた時、屋敷の石段には雨が残っていた。
カール・ザイフェルトは、濡れた外套を脱いで小間へ入った。
伯爵の机には、飛行船を小さく描いた紙と、出席を求める書面があった。
「船の供給について、当主自ら来いという」
アルノルトは、招集状の一部をザイフェルトへ向けた。
運用を希望する兵の数と所属も、示すよう求めている。
「輸送する人数が分からねば、船の大きさも決められません」
「船を売る話に、陛下までお出ましかね」
ザイフェルトは答えず、窓の外へ目をやった。
積荷を載せた車が石段の脇を通り、鉄輪で水を跳ねた。
アルノルトは招集状を伏せ、街道地図を広げた。
「兵籍の原帳も押さえているらしい。兵の数を出せば、麦を買う数も問われる」
「兵と糧秣を、西へ集め直しますか」
「合法な手続きを残せ。あちらが急いでも、動いている荷はすぐには戻らん」
ザイフェルトは、地図の西側に置かれた糸を引いた。
国軍の補給警護兵220人ほどを集め、伯爵家の護衛60人ほどを付ける。
途中で替える馬と、泊める場所も要った。
「出席されるまでには、向こうへ入れます。だが、何のために」
「軍には、立っている場所より、明日食べる場所があるのだよ」
アルノルトは、王都へ戻る補給路の所へ重しを置いた。
ザイフェルトには、その重しが何を止めようとしているのか分かった。
だが、渡された指示の表題は、西方補給路の臨時再配置だった。
国軍の倉を襲えとは、まだどこにも書かれていなかった。
「先に向かえ。車列は、集まったものから出す」
「ラウフェンからの荷も、こちらへ?」
「陸送の手配は進めてある。西へ向かう分の積替え先は、別紙で渡す」
ザイフェルトは紙を畳み、命令筒へ収めた。
軍の補給を預かる伯爵が、軍の兵を配置する。
これまで幾度もそうしてきた。
屋敷を出ると、先ほどの荷車は角を曲がっていた。
歩兵も荷も、遠くへ出せば数日は戻ってこない。
ザイフェルトは、雨の残る石段を下りて馬へ近づいた。
特別軍議から戻った夜、アルノルトは同じ机へ国王の勅令を置いた。
家令は、外套を受け取ったまま立っていた。
軍務大臣フォルケンラートと、ベルグナー伯爵は帰っていない。
王国軍への指揮特権は停止され、支給の窓口も国へ移る。
アルノルトは、その文面を端から端まで読んだ。
次に、自分の印章を手元へ引いた。
「ザイフェルトへ使いを出す」
「配置の中止でございますか」
返事の代わりに、伯爵の筆が動いた。
予定の確保を実行すること。
西方集積地の外積場と出入り口を押さえ、新しい支給官の命令を受けないこと。
抗する国軍守備兵は、武装で排除すること。
家令は途中で息を吸い、筆が止まるのを待った。
「陛下の勅令に、逆らうことになります」
「読んだとも」
アルノルトは、机の勅令を動かさなかった。
それを見れば、命令を書いた時に知らなかったとは言えない。
「内乱に加わった貴族は、1人として助命されておりません」
筆先が、日付の下で一度止まった。
家令はその手を見ていた。
「旦那様お1人の命では済みませぬ。御一族も、家そのものも……」
「分かっている」
「でしたら、どうか……」
「ならば、負けるわけにはいかん」
「……お取り消しを」
「取り消せば、あの勅令がなかったことになるのかね」
アルノルトは署名を済ませた。
蝋へ押した自分の印は、王の印より小さかった。
小さくても、遠方にある馬と麦と兵を動かせる。
それが動いている間に、王都から兵を出せなくすればよい。
王へ嘆願するための紙を、伯爵は用意しなかった。
「宿駅の替馬は契約してある。途中で使いを替えろ。返事を待って進めるな」
家令は書状を受け取り、庭へ出た。
使いが粥の椀を置き、革袋を開いた。
継走先と、受け渡す者を家令が告げる間、馬の鼻息が白く揺れた。
王の勅令は軍務省から各地の官署へ送られ、そこから守備隊へ届けられる。
伯爵の書状が向かう先は、ザイフェルトただ1人だった。
その道には、兵を西へ出した時から替馬と次の走者が待ち、官署での引継ぎを待たずに書状を送り続けられた。
替馬を用意した駅を辿り、使いを替えながら進んだ命令は、2日後の夕刻、西方集積地へ着いた。
その夜、外積場で国軍の盾と伯爵家の刃がぶつかった。
朝の台所では、軍務省へ出る伯爵のために湯が用意された。
アルノルトは、昨夜から開いていた契約を革箱へ戻した。
正規の駐屯地へ届ける麦と馬糧、薬品を運ぶ車の一覧は、上へ置く。
旧支給名義の切替について届いていた事務照会も、その脇へ挟んだ。
契約を一括で止めるなら、明日の便が止まる。
その便を請け負う商人は、伯爵へ知らせを運び、替馬も手配する者たちだった。
アルノルトは手袋を着け、革箱を閉じた。
「代理にお任せください。閣下ご自身では危険です」
家令が、馬車寄せで言った。
「使者が数字を知っていても、明日の麦をどの馬車で運ぶかは答えられまい」
「資料なら持たせられます」
「支払い先を変えろと言われた時、持たせた紙だけでは答えられん」
家令は、伯爵の外套の襟へ手を掛けた。
曲がってはいなかったが、指で撫でて直した。
「お戻りになれますか」
「戻るために行く」
アルノルトは馬車の踏み台へ足を載せた。
革箱は随員へ渡さず、自分で持った。
「兵の飯を止めると脅されて黙るほど、王都の役人も愚かではあるまい」
扉が閉まると、家令の顔は窓の下へ隠れた。
アルノルトは膝の箱を押さえた。
西から返事が来るには、まだ時間がある。
外積場を押さえ、予定の相手へ荷を渡せば、王都の軍を止める手が増える。
ここで請負人が散り、馬を引き上げれば、その手まで失う。
軍務省の入口へ着く頃、通りでは薪を載せた荷車が動き始めていた。
受付の官吏は、伯爵の顔を見て姿勢を改めた。
「照会に答えに参った。契約の件もある。担当へ取り次いでくれ」
拘束を告げられることはなかった。
応接室へ通され、革箱を机へ置く。
伯爵は、家令が置きかけていた返書より多くのものを、自分の手で持ち込んでいた。
軍務省の地図室では、真壁の指が西へ動いていた。
ベルクマンの前に広げられた紙では、集積地の印と街道の分岐が離れている。
真壁が見ている《世界地図》では、その間を大きな集団が進んでいた。
「倉の所に残っている者もいる。動いている方は、西だよ」
ベルクマンは、補給警護隊の編成を引き寄せた。
食事の染みの付いた紙に、国軍兵の所属が並んでいる。
「この部隊なら、国軍が220人ほど。伯爵家の護衛が60人ほどです」
「合わせて280か」
「現地で揃っているかは、まだ分かりません」
真壁は紙に、進む集団の長さと、その先の曲がりを示した。
前方と後方で、赤の密度は同じではなかった。
「280を相手にするつもりはないよ。国の兵を返してもらうだけだ」
現地へ行く将校が、地図へ身を寄せた。
「分遣隊長へ命令を渡せれば、小隊を動かせます」
「命令を聞く前に、家兵が斬りかかれば?」
ベルクマンが尋ねると、真壁は集団の前へ短い線を引いた。
「だから前と後ろを同時に止める。私が前を引き受ける間、君の将校に後ろを返してもらおう」
「御者と兵の逃げ道も要ります」
「ああ。荷より命だ」
将校は北の草地を指し、続いて宿駅へ戻る道をなぞった。
合流へ向かう道は別に警戒し、車列から離れた者は北へ受け入れる。
ベルクマンは、それぞれの担当を将校に決めさせた。
「増派は60人ほどだ。西営とラウフェンの収容兵は使わない。軍医と支給官も同行させる」
戸口にいた官吏が、応接室へ伯爵が来たと告げた。
ベルクマンは契約担当に先の聞き取りを任せ、派遣命令へ署名した。
真壁が見つけた点の動きだけを、攻撃の根拠にはしなかった。
国軍分遣隊へ届く命令は、前進停止と護衛任務の解除、指定地点での待機だった。
「王命と、君の任命書も持っていく。帰ってくる兵の支払いも、こちらで引き受ける」
将校が書面を受け取ると、真壁は紙図を畳んだ。
「澪君に話してこよう。最初に現地を見るのは私だ」
事業所では、朝の搬入を告げる声がしていた。
澪は伝票を机へ置き、作業着の袖を片付けた。
昨日からそこにある布を畳み直すと、ようやく自分の仕事へ戻れた気がした。
その時、真壁が戸を叩いた。
「西へ行く用件ができた。話を聞いてもらえるかね」
澪は立ち上がらず、椅子を向けた。
「また戦うんですか」
「戦わせるためだけではない。戦いから引き離すために、兵を送る」
真壁は西方へ進む車列と、そこに国軍の補給警護兵が含まれる見込みを話した。
王の命令を持った将校が、兵を伯爵家の隊列から切り離す。
だが、家の護衛がそれを許すとは限らない。
「御者に刃が向けば、止める必要がある。送った兵も戦うことになるだろう」
澪は、伝票を押さえる指に力を入れた。
安全だと言われるより、その答えの方が考えられた。
「その扉を通る人の命まで、知らないふりはできません」
「私も、知らぬ顔はしないよ」
「現地の安全は誰が確かめるんですか」
「最初に私が行く。戻って報告する」
澪は伝票を伏せ、軍務省へ行く関門を開いた。
真壁と通って閉じると、待機室には担架と水、兵へ渡す糧食が用意されていた。
ベルクマンと派遣将校は、現地での退避と救護を引き受けると説明した。
「移送が終われば、関門は閉じていただいて構いません。以後は現地で勤務します」
「国軍の兵を受け取った後は?」
「こちらの指揮に戻します。家の護衛と一緒に捕らえるつもりはありません。ただし、攻撃に加わった者は別に調べます」
澪は、将校が持つ待機地点の図を見た。
関門は、街道から外れた北の高所の外縁へ開く。
向こうの乾いた草と、誰もいない地面を見てから真壁を通した。
「ここへ兵を送れるか、見てきてください」
「ああ。君を待たせるための扉は、残さなくていい」
真壁の背が丘へ向かうと、澪は関門を閉じた。
真壁は高所から車列の位置と草地を見て、街道へ下りた。
分岐の先へ進む旗とは逆に、集積地の本倉には国軍の旗が残っている。
彼は《移動加速》を使って本倉へ回った。
国印のある扉の前で、包帯を巻いた兵が槍を持っていた。
「軍務省から来た。ここの将校はいるかね」
呼ばれた守備将校は、外積場を夜に奪われたと話した。
倉から数百歩離れた広場の囲柵は開けられ、荷車と積み出した軍糧の一部が持ち去られている。
「ここまで追ってきた者には抵抗しました。兵が数人、傷を受けています」
「倉は渡していないんだね」
「はい。朝から車列は西へ。ザイフェルトが率いています」
真壁は軍務省の帰還室へ《転移》した。
澪は空き部屋の戸口で待っていた。
「兵を置く草地は空いている。本倉はまだ国軍が守っているが、外積場を武器で奪われた。軍医も、そちらへ送ってほしい」
将校が車列の進む時刻を聞き、配置を急がせた。
澪は安全な高所へ改めて関門を開いた。
入口を警戒する兵の後へ、将校、支給官、軍医が通る。
約60人の部隊が渡る間、澪は向こうの地面を見ていた。
誰も、関門からそのまま車列へ駆け下りなかった。
真壁が最後に通り、将校が引継ぎの合図を送ると、澪は扉を閉じた。
待機室が空いたのを見届け、帰宅用の関門で事業所へ戻り、扉を閉じた。
机の伝票は、伏せたままだった。
応接室の会計官は、伯爵の前へ停止案を置いた。
旧支払名義による取引を止め、担当の任命を待って契約を引き継ぐ。
アルノルトは、持参した一覧をその隣へ寄せた。
「ここで1枚切れば、西の兵は明日から麦を買えません」
「旧貴族の窓口をそのままにはできませぬ」
「残せとは言っておりません。こちらの車は、明朝の駐屯地へ入ります。支払いの相手がないまま、商人が馬を出すとお考えか」
伯爵は、麦の便を指した。
続けて馬糧と薬品の欄も示す。
会計官は、停止案から手を離した。
「その分だけ、先に切り替える必要がございますな」
「その分だけ、と言われるたびに御者を呼び戻すのですか。替馬を出す宿駅も同じ契約に入っております」
補給官が伯爵の紙を受け取り、駐屯地の配給予定と重ねた。
朝に届くはずの袋がなくなれば、次の便まで待たねばならない。
ベルクマンは、会計官の停止案へ筆を入れた。
「名義は今日から国へ。荷は止めず、支払いを国が保証する」
アルノルトは、訂正された行を読んだ。
「……よろしい。それなら兵は飢えません」
「国の監督下で履行させます。発注を伯爵家に任せ続ける、という意味ではありません」
「承知しております。納入日を変えないなら、請負人も答えられましょう」
会計官は、一斉停止の通達を手元から退けた。
代わりに、契約者ごとに国の担当を立ち会わせる指示が書かれる。
アルノルトは手袋を緩めた。
王都から商流を一度に断ち切らせずに済んだ。
西へ走る馬も、麦を載せる車も、まだ使える。
廊下を、軍靴の音が通った。
「王都から兵を出すには、兵が必要ですからな」
伯爵が言うと、ベルクマンは戸口の官吏へ書面を渡した。
「ですから、今いる兵に命令します」
アルノルトは、窓へ目をやった。
王都から西へ、普通の軍を出すなら数日は要る。
その間に何ができるかは、すでにザイフェルトへ伝えてあった。
ベルクマンが席を立つと、補給官がその椅子へ近づいた。
「請負人への通知に、立会いをお願いしたい箇所があります」
アルノルトは帰ると告げず、革箱からもう一束出した。
「こちらも見ていただこう。数字だけでは、運べる荷は分かりませんのでね」
街道の荷車は、緩い坂へ入っていた。
前方に伯爵家の旗があり、30人ほどの護衛がザイフェルトを囲んでいる。
車列の中ほどには18人ほどが付き、御者の言葉へ口を出していた。
後ろを行き来する監視と伝令は、12人ほどだった。
国軍の補給警護兵は、車列の後半と外側を守っている。
国軍分遣隊長は、側衛の小隊長を呼んだ。
「前の指示で、兵を散らすな。御者の側から離れないように」
小隊長は前方を見てから頷いた。
昨夜、外積場で家の護衛が守備兵を押し倒すのを見た。
追えと言われた時、隊長は追撃を命じなかった。
狭い囲柵の中には、荷を載せていた人夫と馬がいた。
盾を組んだ国軍兵を寄せ、退く守備兵と、その後を追う護衛の間へ立たせた。
そのまま斬り合わせれば、人夫は荷車の下にも逃げられなかった。
今、国軍分遣隊長が車列に残した小隊は、御者の脇を歩いていた。
「私の合図まで隊列を崩すな。御者に武器を向ける者がいれば、その場で止めろ」
隊長は次の小隊長にも伝え、前へ歩いた。
「守備兵を傷つけたのは誰の命令だ」
ザイフェルトは、車輪の動きから顔を上げた。
「邪魔をする者を退けただけだ。荷を守れ」
「私の兵は荷を守る。御者へ剣を向ける者まで守るとは言っていない」
「ならば余計なことはするな」
「それはこちらの台詞だ」
隊長は、手綱へ触ろうとした護衛の前に立った。
御者は息を吐き、馬へ声を掛けた。
ザイフェルトは、隊長へ掴みかからなかった。
国軍兵は220人ほどいる。
ここで隊長を斬れば、護送そのものが崩れる。
前へ進み、予定の相手へ荷を渡す方が先だった。
「車を止めるな」
命じて前へ戻ったザイフェルトの背を、国軍分遣隊長は見送った。
北の高所では、真壁が実際の旗と隊形を見ていた。
先頭から最後尾まで、同じ色の反応が揃っているわけではなかった。
彼の脇を、国王の旗を持つ兵が通った。
坂を上り切る少し手前で、先頭の騎兵が馬を止めた。
街道に、武器を抜いていない男が立っていた。
その後ろの分岐には、王国軍の旗がある。
北へ回る道にも、小盾を持つ兵が散っていた。
「道を開けろ。伯爵閣下の荷だ」
ザイフェルトの声に、真壁は車列へ一度目をやった。
「積み荷の持ち主なら、国王陛下にお尋ねになるべきですな」
「輸送の邪魔をするな」
「こちらも、荷を無事に届けたいと考えております」
馬が首を振った。
前へ出ようとした蹄を、乗り手が手綱で抑えた。
分岐を塞ぐ兵は、家紋の旗を見ても道を譲らない。
「貴様は何者だ」
「押入商会の真壁と申します」
「商人が軍の道を塞ぐのか」
「御者にご用なら、商人の方が話が通じることもございます」
ザイフェルトは笑わなかった。
伯爵から聞いた名だった。
小型の船について話を持ち込んだ男が、なぜ西の街道にいる。
朝の伝令が王都へ着くには、まだ何度も馬を替えねばならないはずだった。
「貴様1人で止めるつもりか」
「私が止めるのは、前だけだよ」
真壁が答えた頃、車列の後方では、国軍分遣隊長の前へ派遣将校が進み出ていた。
護衛が差し出す王国軍の旗を見て、隊長は槍を下げさせた。
それでも、差し出された命令をすぐには受け入れなかった。
「所属と、命令を」
将校は名乗り、勅令の謄本と軍務省からの指令を開いた。
隊長は指令を押さえ、国王印のある箇所から読んだ。
小隊長たちが、彼の肩越しに文字を追った。
「……世襲の指揮権を、停止する」
「既に陛下がお命じになった。あなたの隊には、護送停止と指揮の移管を命ずる」
「御者はどうする。ここで兵だけを抜けば、家兵が荷を動かすぞ」
「北の草地を確保している。御者も荷も、国が保護する」
隊長は、包帯を巻いた荷役人へ目をやった。
男は車輪の横にしゃがみ、誰の声が次に自分を立たせるのか、待っていた。
「給金の窓口も変わるのか」
小隊長の1人が尋ねた。
派遣将校は、彼だけでなく周りの兵へ聞こえる声で答えた。
「国王の兵は、国王の命令で動く。給金も明日の飯も、国が引き受ける」
隊長は命令を畳んだ。
「承知した。御者を先に下がらせる」
呼び寄せた小隊長へ、指で北を示す。
「後ろから順に止めろ。弓を下げさせ、車の間へ入るな。御者をこちらへ通せ」
最初の小隊が足を止めた。
次の小隊へ、短い声が渡った。
巻かれていた国軍旗がほどかれ、風を受ける。
後方監視の家兵が、その旗を見た。
車列の外側を、男が走り出した。
「隊長! 後ろの国軍が離れています!」
ザイフェルトは、真壁の肩越しに北の草地を見た。
荷車の後ろへ続いていた槍が、横を向いている。
御者が1人、国軍兵の間を通って草地へ移った。
「分遣隊長を捕らえろ。荷を前へ!」
前衛の家兵が数人、馬首を返した。
残った前衛も分岐へ進もうとしたが、そこに立つ王国軍の槍は下がらなかった。
中ほどでは、家兵が御者の手綱を掴んだ。
「席へ戻れ! 馬を出せ!」
「前が塞がってるんだ!」
御者が抵抗すると、家兵は剣を抜いた。
その切っ先が胸へ向くより先に、横から盾が割って入った。
「国王の命令だ。御者を下がらせろ。剣を向ける者は止める!」
国軍分遣隊長の号令を受け、側衛の兵が車列へ向き直った。
家兵は御者を離さず、盾の向こうへ剣を差し込もうとした。
真壁は《移動加速》で車列の脇へ踏み込み、御者と馬から離れた刃だけを狙った。
刃の先へ、靄が触れた。
握りが軽くなる。
家兵は空になった手を見て、それから、いつの間にか車輪の脇にいる真壁を見た。
坂の前にいたはずの男だった。
「手綱を放していただこう」
隣の家兵が弓を上げた。
弓も、次に抜かれた剣も、靄の中へ消えた。
真壁は馬から離れた3人に《重力》を掛けた。
膝が地面に落ち、手綱を掴んでいた指がほどけた。
御者を盾の内へ引いた国軍兵が、真壁の顔を見上げた。
「こちらへ」
草地から来た増援兵が御者を呼び、別の2人が膝をついた家兵の腕を取った。
馬には、国軍兵が静かに声を掛けている。
前衛から戻ってきた騎兵は、既に車列の脇へ立った盾の列に止められた。
「どけ。隊長を引き渡せ!」
「その隊長は、陛下の命令を受けている」
派遣将校が国王の旗の下に立った。
家兵の後ろでは、分岐を守る兵も前へ出ていた。
ザイフェルトが追いつき、左右を見た。
国軍分遣隊長を押さえれば、まだ隊列を戻せる。
そう考えて送り出した兵が、今は盾と槍の間で動けずにいた。
「押し通せ!」
剣を抜いた家兵が、盾の縁を叩いた。
続こうとした男の槍が消え、横から肩を押さえられる。
別の兵は盾にぶつかり、馬の脚へ倒れかけた。
国軍兵が襟を掴んで引き戻し、増援兵へ渡した。
「馬を驚かせるな。御者を通せ!」
隊長の声に、盾の間がわずかに開く。
御者がそこを抜け、負傷した荷役人が肩を貸されて続いた。
真壁はザイフェルトへ歩み寄った。
「荷だけで行軍はできません。御者も馬も、君の兵ではない」
「これは伯爵閣下の命令だ」
「では、その命令を拝見しましょう」
ザイフェルトは、腰の命令筒へ左手を当てた。
そこにある原本を示すために持ってきた。
関所でも、引渡し先でも、伯爵の印があれば荷の権限を通せるはずだった。
今、この男へ渡すためのものではなかった。
右手の剣を、真壁へ向ける。
靄が刃を包んだ。
次の瞬間、片膝が土へ押しつけられた。
命令筒を抱える腕だけは、まだ離さなかった。
「拘束をお願いします」
真壁が派遣将校へ言った。
伯爵家の旗を持つ兵は、旗竿を握ったまま立っていた。
その隣で、1人が剣を地面へ置いた。
「もう、車は出せません」
ザイフェルトは答えなかった。
後方から来る小隊が、国王の旗の下へ次々に並ぶ。
まだ武器を振り上げる家兵が数人いたが、彼らの周囲へ盾が寄った。
後方の監視兵が車列の外へ逃れようとしたが、北の草地を守る増援兵に止められた。
逃げ道を探す間にも、側衛の国軍兵が車列から離れ、彼らの前へ盾を並べた。
武器を置いた者から拘束され、派遣将校が部下に人数を数えさせた。
国軍兵のうち、家兵と共に剣を振るった者も、武器を取り上げられて別の列へ移された。
最後の剣が落ちるまで、真壁は馬の脚から十分に離れた場所で立っていた。
草地に、濡らした布と水桶が並べられた。
切り傷を負った家兵が、布を受け取る前に国軍兵の顔を見た。
「押さえておけ。血が止まらんぞ」
軍医に叱られ、男は黙って傷へ布を当てた。
盾で打たれた兵と、家兵の剣で腕を切られた国軍兵が、少し離れて座っている。
御者の1人は水を飲み、空になった椀を両手で抱えていた。
派遣将校は、拘束された家兵の武器を集めさせた。
国軍分遣隊長も、昨夜の襲撃に加わった可能性のある兵を別に呼んだ。
「今朝の離脱に従ったから、昨夜のことが消えるわけではない。見たことを聞く。勝手に列を離れるな」
何人かが顔を伏せた。
その後ろでは、馬が草を食んでいた。
車から外すのは、落ち着いてからでよかった。
荷役人に急げと怒鳴る者は、もういなかった。
ザイフェルトの命令筒は、派遣将校が護衛を立ち会わせて開いた。
伯爵家の私印と署名がある原本が取り出された。
筒の外袋には、折り畳まれた急使の受取片が残っていた。
国軍分遣隊長は、原本を初めて手に取った。
「……新支給官を拒め」
読み進めた指が止まった。
「抗する守備兵は、武力をもって排除する」
隊長は、ザイフェルトを見た。
「私へ渡した輸送命令には、これはなかった」
「全ての将校へ、同じものを渡す必要はない」
「だから昨夜、守備兵を追えと命じたのか」
ザイフェルトは唇を閉じた。
派遣将校が原本の日付を指した。
王都で勅令が下った、その夜だった。
受取片には、前夜、西の宿継ぎで急使から受け取った時刻がある。
夜のうちに外積場へ入り、朝には荷を出していた。
真壁は、その短い時間を指で辿った。
「私が見た本倉は、まだ守られていた。あちらへ軍医を送っていただけるかね。外積場を襲われた時の話も、守備将校から直接聞いてほしい」
「護衛を付けて向かわせます」
派遣将校は部下を呼んだ。
止めた車列には当面の警護を残し、分遣隊の小隊長と共に荷を数え直す。
私物を包んだ御者の袋は、軍の積み荷と分けられた。
伯爵家の馬だという申立ても、その場で馬を奪う理由にはしなかった。
ザイフェルトは、原本が再び命令筒へ収められるのを見ていた。
派遣将校の封が、筒の口を覆った。
「なぜ原本を持ち歩いた」
隊長が尋ねると、ザイフェルトは顔を上げた。
「盗人として荷を運んだのではない」
「昨夜、倉の兵へ剣を向けることまで、権限だと思ったのか」
ザイフェルトは答えなかった。
草地を渡る風が、横たえられた伯爵家の旗を揺らした。
午後、軍務省の応接室では、伯爵が運送契約の更新月を説明していた。
昼に出された茶は、半分ほど残っている。
担当官が次の頁へ手を掛けた時、扉が開いた。
ベルクマンと共に入ってきた真壁を見て、伯爵は手を止めた。
「まだ、王都におられたのですか」
「戻って参りました、閣下」
「どちらから」
「西からです」
伯爵は椅子の背から身体を離した。
「西だと……?」
真壁は、茶を勧められるのを待たなかった。
帰還室へ《転移》して伝えたのは、指揮官の拘束と、原本にある伯爵の命令だった。
筒はまだ、派遣将校が現地で保持している。
ベルクマンはその速報を受け、帰還室の隣の空き室を護送のために空けさせた。
「関係する方に、ここへ来ていただきます」
ベルクマンが告げた。
伯爵の指が、契約書の角を揃えた。
「西の者を、今日、ここへ?」
「お待ちください」
真壁は一礼し、部屋を出た。
事業所へ《転移》すると、澪は戻したばかりの荷札を束ねていた。
真壁を見るなり、その手が止まる。
「終わったんですか」
「現地の戦闘は止まった。御者も保護できたよ。負傷者は軍医が診ている」
「亡くなった人は」
「今回の戦闘で、死者は出ていない」
澪は息を吐いた。
しかし真壁は、続けて言った。
「もう1度、護送のために扉を頼みたい。指揮官1人と、その人が持っていた命令の原本を軍務省へ運ぶ」
「兵を襲わせた命令ですか」
「ええ。守備兵が抵抗したら武力で排除せよ、とある。現地の将校が封をして持ってくる」
「その人だけを連れてくるんですね」
「護衛と将校も通る。ほかの家兵は、現地で王国軍が収容する」
澪は荷札を箱へ置いた。
「私も、渡し終わるところまで見ます」
事業所から軍務省へ開いた関門を2人で通り、澪はすぐに閉じた。
専用の空き室には護衛が立ち、床の中央が空けられていた。
真壁が見てきた収容空地へ、次の関門が開く。
向こうでは派遣将校が護衛を並べ、ザイフェルトを立たせていた。
軍医を本倉へ送った一行も戻っていた。
派遣将校は守備将校の報告を受け取り、命令筒と共に抱えて関門を通った。
次に、両腕を拘束されたザイフェルトが入った。
泥の付いた靴が、磨かれた床を踏む。
男は振り返ったが、澪は最後の護衛を待って扉を閉じた。
「引き渡しました」
澪は受入将校へ告げた。
それから真壁へ向き直る。
「この先は、国の仕事ですよね」
「そうだよ」
「では、仕事へ戻ります」
事業所へつなぎ直した扉を通り、澪は姿を消した。
その背が向こうへ出ると、扉も閉じた。
机に残した荷札は、まだ途中の並びのままだった。
応接室の扉が開いた時、伯爵は契約書から目を上げた。
先に見えたのは、泥を付けた革靴だった。
顔まで視線を上げ、伯爵は動かなくなった。
「……ザイフェルト? お前は西にいたはずだ」
「閣下、申し訳ありません」
ザイフェルトは主の前で背を伸ばそうとした。
しかし、拘束された腕がそれを妨げた。
「何日で……」
伯爵は言葉を切った。
王都を出る馬車の音が、窓の外から聞こえた。
その車が西の街道へ入る頃には、この男はまだ、分岐へ向かって進んでいるはずだった。
「いや。いつから私の軍を見ていた?」
「見てから参りました」
真壁は静かに答えた。
伯爵は彼を見た。
「220人は?」
「閣下の軍が減ったのではありません。国王の兵が、帰っただけです」
伯爵は袖口を直そうとした。
指が釦を滑り、袖の縁を掴み直した。
「……こちらへ来たのか」
「兵は西におります。国王の指揮の下で、御者と荷を守っています」
ベルクマンが答えた。
派遣将校は、封印した命令筒を机へ置いた。
筒と封の状態を伯爵へ示してから開き、原本を広げる。
その脇には、勅令を伯爵本人が受領した際の控えが置かれた。
「こちらの署名と印は、閣下のもので相違ありませんか」
伯爵は、赤い私印を見た。
家令が消そうとした灯りを止め、あの夜、自分の手で押したものだった。
「私のものだ」
「外積場の守備将校から、襲撃と負傷者について報告が届いています。ザイフェルトがこの命令を受け、武力によって外積場へ入り、今朝、荷を搬出しました」
伯爵の目が、原本の日付へ落ちた。
「出頭されたのは今日です。挙兵を命じたのは、陛下の勅令を聞いた夜でございます」
「それは承知している」
伯爵はベルクマンを遮るように答えた。
「私が知らせを得る前に、なぜお前たちが西へ行けたのだ」
真壁は、伯爵の顔を見た。
「閣下がお待ちになった知らせより、先に見えるものがございました」
伯爵はそれ以上尋ねなかった。
自分には駅馬があり、宿継ぎがあり、沿道の顔役がいた。
王都の軍が西へ進むなら、誰より先に知るはずだった。
その道を、相手は使っていなかった。
ベルクマンが護衛へ合図した。
「ザイフェルトを別室へ。発動命令と現地での行動について、引き続き聴取する」
ザイフェルトは、伯爵へもう1度頭を下げた。
伯爵は男が出ていくまで、声を掛けなかった。
扉が閉まると、ベルクマンは机の上の契約書を原本から離した。
「グライフェルト伯爵。国王の命に反して国軍の倉へ武力を向けた嫌疑により、身柄を確保いたします」
護衛が伯爵の両脇へ進んだ。
伯爵は立ち上がった。
椅子を戻す手だけが、普段より少し遅かった。
廊下の窓から、馬車寄せが見えた。
朝、伯爵を乗せてきた馬車がまだ待っている。
御者は誰かが窓へ近づいたのに気づき、手綱を持ち直した。
しかし、馬車の扉を開ける者は来なかった。
伯爵は立ち止まり、窓の下を見た。
「使者に撤回を命じたところで、あの兵たちが倉へ戻るわけではないな」
「起こされた軍を止めることはできました」
ベルクマンが答えた。
伯爵は、小さく顎を引いた。
あの夜、家令は命令を取り消すよう勧めていた。
自分は、その手で別の命令を選んだ。
「……あの命令は、取り消せません」
護衛が奥の部屋の扉を開けた。
伯爵は窓から離れ、そこへ入った。
応接室には契約書が残っていた。
会計官がそれを受け取る時、ベルクマンは今朝の決定を取り消さなかった。
「履行中の食料輸送は続ける。西の兵への支払いも、命じたとおりに」
「承知しました。運送人には、新しい受領窓口を伝えます」
担当官が契約書を抱えて出ていく。
その後ろから入ったクラウスへ、ベルクマンは命令の原本と守備将校の報告を差し出した。
クラウスは日付を読み、伯爵の署名へ目を留めた。
「陛下へ報告する。屋敷と関係先については、調査と保全の王命を得る。支給に必要なものまで、まとめて閉じるな」
「はい。明日の配給を担う契約は、別に扱います」
クラウスは頷き、原本を持つ将校を伴って部屋を出た。
真壁は窓際で《世界地図》を開いた。
西の大きな塊は、先ほどまでとは違う色の混じり方になっている。
その向こうにも、動く赤い点があった。
「まだ動いている部隊がある。次は合流させる前に動きたい」
真壁は紙地図を引き寄せ、見えている位置と進む方角を示した。
ベルクマンは、ラウフェンから先に出た陸送の送り状を並べた。
3件のうち、西へ向かった1件には、今回の車列へつながる手掛かりがある。
残る2件は、まだ受け取った部隊の名がなかった。
「こちらの荷を待つ兵も、いるかもしれません」
「今夜、どこで受け取るつもりなのか。それを知りたいね」
ベルクマンは将校を呼び、西の部隊に残した兵力と、次に動かせる小隊を尋ねた。
御者を守る兵も、傷の手当てを受ける兵も、今の任務から消せるわけではなかった。
返答を聞いてから、ベルクマンは新しい指示を出した。
「西の分遣隊は、現地で当直を交代させてください。食事を済ませた小隊から、次の命令を待たせる」
将校が部屋を出ると、真壁は地図の端を押さえた。
「次の扉は、澪君にも改めて話してからだ」
「はい。こちらも、通す兵と、その先で守るものを決めておきます」
西の空の明るさが、窓の縁に残っていた。
ベルクマンは紙地図を、将校たちが囲める机の中央へ移した。
真壁は、受領者の名がない2枚の送り状へ目を落とした。
「さて。次は、荷を待っている方にお会いしようか」