内乱の審理が進んでいる間にも、押入商会の荷は出ていった。
朝の荷置き場で、覆い布を畳む音がする。
台車の車輪が戸口の段差を越え、荷札を持った従業員が脇へ身を寄せた。
開いた戸から春の光が入り、机の端へ落ちている。
澪はその明るい所へ納品書を寄せた。
「ここ、受け取る方の名前がまだ入ってません」
理央が手を止めた。
「それは、先方に書いていただく分です。控えの方には、前回の担当者を入れてあります」
澪は重なった紙を1枚ずつ広げた。
「……あ、こっちですね」
「はい。紛らわしかったですか?」
「私が急いで見たんです。分けておいた方がいいかもしれません」
理央は机の左右へ紙を移し、受け取る方と送る方を離した。
真壁が戻してきた用紙も、そこへ加わる。
「月1tの継続分は、この予定で進めてよい。東都へ送る控えは、こちらを使ってくれ」
「はい」
理央の鉛筆が、余白へ短い文字を書いた。
澪は次の頁を開いた。
軍務省から呼ばれるたびに途中で置いていった仕事も、ようやく手元へ戻ってきていた。
その時、戸口で従業員が立ち止まった。
「侯爵家の使者の方がお見えです」
澪は頁から顔を上げた。
外套の裾を整えた使者が、封書を差し出す。
金属取引の用紙の隣に、封蝋の付いた小さな書状が置かれた。
「今度は何か起きたんですか?」
「王都から重要な書状が届きました。アルベルト様は、まずお2人へお話ししたいと」
澪は文面を読んだ。
急いで兵を送れとも、負傷者がいるとも書いていない。
それでも、真壁も名指しで招かれていた。
「今日、伺えばよいんですね」
「はい。ご都合のつく時にと」
「では、こちらの納品の引継ぎだけ済ませようか」
真壁が理央へ用紙を渡した。
「返ってきた控えは、この箱へ。納品の支度は止めずに進めてくれ」
「大丈夫です。次の控えは私が揃えておきます」
理央は2人の書類を奥へ寄せ、自分の机を空けた。
澪も必要な連絡を頼み、鞄を取り上げる。
外へ出ると、車を押す従業員が止まろうとした。
「そのままで大丈夫です。いってきます」
台車が再び動き、2人はそれを見送ってから侯爵邸へ向かった。
侯爵邸の庭では、植込みの下に残った葉を庭師が集めていた。
澪が石段を上ると、箒が砂利を掃く音が背中へ届いた。
執務室の窓は半分開いている。
アルベルトは机の向こうで立ち上がり、2人を迎えた。
「商会の仕事中に呼び出してすまんな」
「いえ。納品の支度は済んでおります」
真壁が答え、澪と並んで席に着いた。
家令が水差しを置き、文書を机の中央へ揃える。
その後も退室せず、少し離れた壁際へ控えた。
澪は、紙の角が擦れているのを見た。
王都で畳まれ、袋へ入れられ、ここまで運ばれてきたものだった。
アルベルトは茶を勧めてから、表紙を2人へ向けた。
「父上から、沙汰が下ったと知らせが届いた」
「王国軍の件ですか?」
「ああ。裁定は3家に及ぶ」
澪は茶器へ伸ばしかけた手を戻した。
「13家、全部ではないんですね」
「同じ軍務特権を持っていたというだけで、同じ罪にはならん」
アルベルトは、別に添えられた通知文を示した。
「これは陛下が裁可された沙汰の謄本だ。宰相府からの通知と共に届いた。父上が私に説明しただけの話ではない」
真壁は表紙の王印を見た。
その脇には、宰相府を経たことを示す印もある。
「ようやく、裁かれる側と裁く側が分かれましたな」
「軍務省に、自分たちの報告だけで自分たちを裁かせるわけにはいかなかった」
アルベルトは最初の頁を開いた。
庭で箒が止まった。
窓の外を鳥が横切り、澪は一瞬そちらへ目をやった。
真壁は先を尋ねず、アルベルトが読むのを待った。
「まず、フォルケンラート侯爵家だ」
家令の指が、脇に置いた文書の端へ触れた。
アルベルトの声が低くなった。
「西営の所在未確認者について、現任として扱うため注記を削除させた」
アルベルトは文面を追う指を止め、2人へ顔を向けた。
「審理で署名と改訂の経緯が調べられた。軍務省は警告を知りながら、実員報告を改めなかったと認定されている」
澪は、真壁から聞いた兵の数を思い出した。
紙にはいるのに、救援には来なかった兵たち。
ただ、その全員が最初からいなかったと決まったわけではなかった。
「行方が分からない人を、いることにしたんですね」
「ああ。分からぬことを、分かっているように直した。単に調べるのが遅れた話ではない」
アルベルトは処分の箇所を読む。
「侯爵位剥奪。家門取り潰し」
澪は膝の上で指を握った。
アルベルトは次の家名へ進んだ。
「ベルグナー伯爵も、西営480人を全員現任と証明した書面に、自ら署名していた」
「その頃には、不一致を知らされていたのでございますね」
真壁が尋ねた。
「今回の審理で、本人宛の報告と署名書面が調べられた。未確認162人を含め、全員が正規に配置されているよう扱ったと認定された」
澪は、数字の部分へ目を落とした。
点呼できた226人と、理由のある不在92人。
残り162人には、まだ所在未確認という言葉が付いている。
「162人を、全部架空だったとは書いてないんですね」
「そこまでの認定ではない。だが、未確認と知って証明してよいことにもならん」
アルベルトは伯爵位剥奪と家門取り潰しを告げた。
その先の頁をめくろうとする指が、少し止まった。
「家令の人たちが兵を動かした件も、伯爵の命令だったんですか」
澪の問いに、彼は首を振った。
「拘束された後に、本人があの武装行動を命じたとまでは確かめられていない。ここでは、虚偽の証明に対する認定と分けてある」
真壁は頷き、最後の家名を見る。
「グライフェルト伯爵。こちらは、王命を知った後の武力排除命令が原本で残っていた」
アルベルトは真壁へ顔を向けた。
「君が届けたものだ」
「署名も、印章もありました。現地の部隊が、何を命じられていたかも」
「その命令と武力行使が結び付けられた。当主自身が、王命への武装抵抗を指示したと認定されている」
アルベルトは続きへ視線を下げた。
「爵位剥奪、家門取り潰し。本人には死罪」
澪は顔を上げた。
真壁は動かなかった。
庭で馬が嘶いたが、誰も窓の方を見なかった。
「……侯爵家が1つ、伯爵家が2つ、なくなるんですか」
「爵位と、家門としての権利が取り上げられる」
「家族の人は?」
「関与していない者まで同じ刑にはならない。身分や財産の扱いは個別に確かめる」
「ほかの2人も、死罪なんですか」
「この通知には、その個人の刑罰の詳細はない。家門への裁定だけで、そこまで読んではならん」
澪は小さく頷いた。
家がなくなるという言葉に、屋敷にいる人が全部いなくなるような姿を重ねてしまっていた。
「領民まで反逆者にしては、また新しい災いを作るだけでしょう」
真壁の言葉に、アルベルトも頷く。
「残る10家の爵位は維持される。ただし、世襲の軍事特権は戻らない。兵の指揮も、任免も、給金も、家の持ち物にはしない」
アルベルトが頁を置いた。
家令は3家の通知を揃え、その脇へ別の紙を差し出した。
アルベルトは椅子を離れ、畳まれた王国地図を机の広い方へ置いた。
折り癖の残る角が浮き上がり、家令が文鎮を添える。
「所領も没収され、王領に編入される」
澪は立ち上がり、彼が示した塗り分けを見た。
3家の土地は、どれも小さな点ではなかった。
指で隠せない広がりが、それぞれ異なる家名の下にあった。
「領地まで全部、王様のものになるんですか」
「領主として管理する権利は王家へ戻る。そこに暮らす人々の家まで好きにしてよい、という意味ではない」
澪は線の内側を見た。
村も、道も、その紙には小さく描かれている。
自分が知る市場のように、野菜を並べている人もいるはずだった。
「畑を作っている人は、そのまま作れるんですか」
「正当な権利と契約は保護する。国の管理に移るから、暮らしを全部止めろとは命じていない」
「今、荷を送っている商人も?」
「契約の相手や担当が替わるところはある。だが、合法な取引を一律に奪う話ではない」
澪は、受領印を待っていた御者の話を思い出した。
兵の旗が替わっても、馬にはその日の飼葉が要る。
畑も荷車も、次の命令が書き終わるまで待ってはくれない。
「誰が、今日の用事をしてくれるんでしょう」
「現地の役人を残して引き継ぐ。臨時の管理官も手配する。父上が人を選んでいるところだ」
「領地を得れば、領民を守る役目まで付いて参ります」
「代官と役人の手配だけでも、父上は骨が折れるだろう」
真壁は地図の旧所領を順に見た。
澪はアルベルトに道の管理を尋ね、彼は分かる範囲の通知だけを取り上げた。
まだ担当者が着いていない土地もある。
そこを埋める名は、この部屋で作れるものではなかった。
窓から風が入り、地図の角を持ち上げる。
澪が指で押さえると、アルベルトは文鎮を動かした。
「広いからといって、その分の金が明日から入るわけではない」
「先に、行く人の旅費が要りそうですね」
「そういうことだ」
アルベルトの口元がわずかに動いた。
笑ったというほどでもなかったが、澪はようやく肩の力を抜いた。
アルベルトは正式な沙汰を畳み、通知文と共に袋へ戻した。
地図は机に広げたままだった。
「ここまでは、領内へも伝える内容だ」
家令は袋を受け取ろうとしたが、アルベルトは自分の側へ置いた。
「もう少しここで預かる。後の用意は、外で頼む」
「承知いたしました」
家令が茶器を見た。
「お茶をお替えいたしましょうか」
「後でよい」
一礼して出ていくと、扉が静かに閉まった。
アルベルトはその音が収まるのを待ち、鍵の付いた私信入れへ手を伸ばした。
「もう1つ、父上から話がある」
「また裁判のお話ですか?」
「いや。今度は我が家のことだ」
真壁は地図から手を離した。
「それでは、ご家族の話として伺うべきでしょうな」
「ああ。まだ公にする話ではない」
アルベルトは封書を開いた。
先ほどの謄本より薄く、机へ置いても折り目が浮かなかった。
「父上が、私に相談してきた」
澪は座り直した。
彼の声は、罪状を読んでいた時より少し柔らかい。
「軍制の立て直しと、今回の危機への対処を評価して、陛下が我が家へ厚遇を考えておられるそうだ」
アルベルトは手紙の一節を読み直した。
父の働きが国王に認められた。
その喜びが、文面を慎重に選ぶ声の下からのぞいていた。
澪は、ようやく少しよい知らせを聞けるのかと思った。
だが、アルベルトは手紙を伏せず、その先も示した。
「父上も、陛下にはまだお返事をしていないそうだ」
「お受けになる前に、ご相談なのですね」
「私もそう読んだ。だが、喜ばしい話であるはずなのに、父上の書き方が妙に慎重でな」
アルベルトは真壁へ向いた。
「君なら、どう受け取るかと思って呼んだ」
真壁はすぐに答えなかった。
冷め始めた茶を一口飲み、茶器を皿へ戻す。
「まずは、お話の続きを伺いましょう」
アルベルトは頷き、父の筆跡へ指を添えた。
澪も、手紙の方へ身を寄せた。
「陛下は、父上を公爵へ陞爵させるご意向だそうだ」
澪はアルベルトの顔を見た。
今度は爵位を取り上げる話ではなかった。
「公爵って、侯爵より上ですよね?」
「ああ」
「つまり、お父様に『公爵になりませんか』って、国王陛下からお話が来たんですか?」
アルベルトが笑った。
「ずいぶん気軽な誘いに聞こえるな。だが、そういうことになる」
「すみません。私、爵位のことは、まだあんまり分かってなくて」
「いや。その言い方で間違いではない」
彼は父の手紙を見下ろした。
「家門にとっては大きなことだ。父上への功労の報いとしては、破格のお話だ」
「それは……おめでとうございます」
言ってから、澪は返答前だったことを思い出した。
「まだ決まってないんでしたね」
「祝ってくれる気持ちはありがたい」
アルベルトは手紙を指先で押さえた。
「この家の名を継いできた者たちも、驚くだろうな」
澪は、廊下の壁に掛かっていた肖像を思い浮かべた。
クラウスが公爵になれば、あの人たちから続く家の呼び方も変わる。
アルベルト自身も、いつかその家を担うのかもしれない。
真壁が穏やかに口を開いた。
「それはまことにおめでたい。ところで、何をいただけるお話でしょうかな」
「爵位だが?」
「それは承知しております。爵位のほかに、です」
アルベルトの笑みが薄くなった。
手紙を持ち上げ、続きを探す。
「加増地のことか」
「所領のお話が添えられているのかと」
「いや。ここにはない」
アルベルトは該当の段落を読み上げた。
父への打診と、まだ返答していないという知らせ。
その後は家の用事へ戻っており、新しい領地の名はなかった。
真壁は茶器を脇へ寄せた。
「なるほど。まだ条件は出ていない」
その指が、地図の端を引き寄せた。
澪は地図がこちらへ動くのを見た。
祝いの手紙と、さっきまで取り潰された家の土地を見ていた地図が、同じ場所に並んだ。
「陞爵だけなら、領地を替える必要はありませんな」
真壁は、ヴァルディスの名がある所へ指を置いた。
「今の領地を保ったまま、公爵位をいただくこともできる」
「それなら、我が家の仕事は大きく変わらん」
「ですが今回は、広い王領が新たに生まれました」
真壁の指が、旧3家の塗り分けへ移った。
「その一部を加えて、新しい公爵家の所領とする考えもあるでしょう」
アルベルトは頷いた。
「父上が新しい土地の管理まで任されるのなら、厚遇だけを喜んではおられんな」
「人も要ります。慣れた領とは違うご苦労もある」
「それでも、任せられた仕事なら果たすことになる」
真壁は現在のヴァルディス領へ指を戻した。
「もう1つ、考え得る話がございます」
アルベルトがその指先を見た。
「爵位のみを上げることもできます。ですが、もし領地をお替えになるなら?」
アルベルトは何も言わなかった。
地図の2か所へ目を移し、真壁へ戻す。
「取り潰した家の所領を我が家に与え、この領地を国へ戻すということか」
「考え得る筋の1つです」
「えっ、じゃあアルベルト様たちも、この町を離れるんですか?」
「そう決まったわけではない」
アルベルトは澪へ答えてから、もう一度父の手紙を見た。
「この領を返せとは、書かれていない」
「ええ。あくまで可能性です」
真壁の声は変わらなかった。
澪は、地図に引かれた領境を見た。
線の内側には、この屋敷も事業所もある。
その線を替えるだけで、アルベルトたちが別の場所へ行ってしまうのかもしれなかった。
「住んでいる人まで、一緒に行くんですか」
「領民を皆、移すような話ではない。領主家が新たな土地を預かり、こちらは別の管理になる」
「町は残るんですね」
「当然だ」
澪は屋敷の外を見た。
庭師が刈った枝を抱え、塀の陰へ歩いている。
町が残るなら、あの人の仕事も残る。
だが、その仕事を頼む相手まで同じとは限らない。
「エレナ様も、こちらを離れるかもしれないんですか」
アルベルトの指が、手紙の端で止まった。
「もし我が家が移るなら、家族の暮らしも変わる。それも含めて考えねばならん」
澪は、ただ広い土地をもらう話ではないのだと分かった。
アルベルトは地図へ手を戻した。
ヴァルディスの名に触れる前に、その指が止まる。
開いた窓から風が通った。
誰も、その沈黙を急かさなかった。
「先祖から預かってきたこの領を、名誉のために手放すとは考えていなかった」
「クラウス閣下も、まだそのようなご決断はなさっておりません」
「分かっている」
返事は少し速かった。
アルベルトは手紙を置き、真壁へ向き直った。
「なぜ、交換の方を考えた」
「アルベルト様。陛下が欲しておられるのは、広い土地ばかりでしょうかな」
「何を言いたい」
「もし現在のヴァルディス領が王領になれば、陛下が直接向き合うことになる相手がいる」
「領民、街道の商人……倉を使う者たちか」
アルベルトの声が途中で止まった。
真壁は、その続きを受け取った。
「押入商会と、リュシア商会です」
澪は椅子の前へ身を寄せた。
「うちの商会は、侯爵家の持ち物じゃありませんよ」
「そのとおり」
真壁はすぐに答えた。
「だが、働く場所や道を誰が管理するかは、商売に少なからぬ影響を与える」
澪はアルベルトを見る。
彼も、商会を家の持ち物に数えていた顔ではなかった。
「領主が替わったから商会まで渡す、とは私も言っていない」
「はい。でも、公爵にするお礼にうちを差し出すような話なら、困ります」
「差し出すというより、直接話が届く所へ置く、と考えた方がよいかもしれんね」
真壁は澪へ向け、今度は少し柔らかく言った。
窓の外で荷車が止まり、御者の声がした。
澪は、朝に戸口を通っていった台車を思い出す。
「今なら、土地のことで何かあれば、侯爵家に相談しますよね」
「ああ。事業所を広げたい時も、工事に伴う用事も、この領の相手と話している」
「それが、国王のところへ?」
「王領の役人を相手にすることになるだろう」
真壁はアルベルトの方へ向いた。
「施設を置く土地、使う街道と市場、税と営業の手続き。今は御家が間に立っておられる」
「治安も、こちらの責任だ」
「ええ。それを王家が直接預かるなら、2つの商会に働き掛ける機会は増えるでしょう」
アルベルトは片手を地図へ置いた。
「……確証はないな」
「ありません。だから条件を伺うのです」
「父上への報いを、初めから商会狙いの仕掛けとは扱いたくない」
「私も、陛下のお考えを聞いたわけではありません。純粋なご厚意である可能性は、もちろん残ります」
真壁は地図から手を離した。
「ただ、善意のお話であっても、こちらが何を手放すかを知らぬまま受けてよいとは限りませんな」
澪は鞄の持ち手を握った。
商会の物は、《収納》で動かせるものが多い。
工房の機材も、在庫も、必要なら別の場所へ運べる。
だが、朝に台車を押していた人を、自分の都合で別の町へ運ぶわけにはいかない。
家族がここにいる人もいる。
近くの店へ寄って帰る人も、この商会へ品物を持ってくる人もいる。
「嫌なら引っ越せばいい、だけでは済まないんですね」
「君が商会を移すと決めるなら、その相談はできる。だが、まだ移らねばならぬ話が出たわけでもないよ」
「そうですね」
澪は持ち手から手を離した。
「でも、残ることまで勝手に決めてほしくないです」
「無論。押入商会の代表は君だ」
真壁はアルベルトへ顔を戻した。
「リュシア商会も同様です。こちらに残るとも、一緒に移るとも、私がお約束することではありません」
「彼女には、まだ何も知らせていない」
「でしたら、当人がいない所で答えを作るのはやめておきましょう」
アルベルトは頷いた。
澪はようやく椅子へ深く座り直した。
胸に湧いた怒りは、まだ起きてもいないことに向かっていた。
それでも、自分の仕事の扱いを他人に決められたくないという言葉は、引っ込めたくなかった。
アルベルトは地図を少しずらし、白紙を置いた。
筆を持ち上げたが、すぐには書かなかった。
「父上への祝意は変わらん」
「ええ」
「だが、何が含まれる話なのかを聞いてから、返答していただきたい」
澪はその言い方に頷いた。
「爵位だけの話か、加増があるのか、領地を替えるのか。それを別々にお尋ねになることです」
真壁が言った。
アルベルトは最初の行へ筆を置いた。
「現在の領の扱いが決まらぬうちに、受諾はできんということだな」
筆先が次の行へ進んだ。
澪は、地図にあるヴァルディスの名を見た。
門を初めてくぐった時、自分は領主家とどう話せばよいかも知らなかった。
その後、どれだけの仕事で、この家に相談してきただろう。
「私たち、こちらに助けてもらってきたので」
アルベルトが筆を止めた。
「それは、君たちも同じだ」
「はい。だから、今までの約束がどうなるか、ちゃんと聞きたいです」
「新しい管理者になれば何もかも無効、という話にはせん」
「押入商会に何かしてほしいなら、私に話してください。リュシアさんにも、ちゃんと」
「分かった。父上へも、当事者との相談が必要だと伝える」
アルベルトは、土地と営業に及ぶ変更を問う行を足した。
澪は筆が止まるのを待ち、礼を言った。
「返事が来るまでは、今の取引を続けて構いませんね」
真壁が尋ねると、アルベルトは筆を置いた。
「もちろんだ。私信にある打診だけで、領内の商売を止められては困る」
「理央君にも、そのように伝えましょう」
澪は頷いた。
商会へ戻ったら、朝の続きが待っている。
リュシアには、領地替えが決まったのではなく、条件を尋ねている段階だと伝えよう。
アルベルトはインクが乾くのを待ち、覚え書きの脇へ父の手紙を置いた。
「父上も、まだお返事をしていない。それなら、この問いを送る時間はある」
アルベルトは手紙の末尾へもう一度目を通した。
アルベルトは正式な沙汰と私信を、別々の袋へしまった。
家令を呼ぶ前に、新しい用紙を机へ広げる。
最初に父への祝意を書き、それから先ほどの問いへ移った。
真壁が席を立った。
「王家のお考えが、私の見込みと違っていれば何よりですな」
「そうであってほしい」
アルベルトは筆を置き、2人と共に戸口へ向かった。
廊下の窓から入る光が、床へ長く延びている。
「父上には私から尋ねる。君たちに決めてくれとは言わん」
「商会のことは、私とリュシアさんにも話してくださいね」
「もちろんだ。正式な条件が示された時には、君たちにも知らせよう」
真壁が一礼した。
「それでは、ご返事が来るまでは、いつもの商売を続けましょう」
玄関まで来ると、外の明るさに澪は目を細めた。
庭の端には、荷を下ろしたばかりの車が止まっている。
御者が縄をまとめ、下働きの人が空の籠を受け取っていた。
澪は石段を下りてから振り返った。
アルベルトは上に立ち、2人を見送っている。
その向こうに、執務室で話していた家の暮らしがあった。
澪は頭を下げ、真壁と門へ向かった。
隣を歩く男は、先ほどと変わらぬ足取りだった。
軍の不正も、領地替えの可能性も、あの声で話す。
そして、軍務省から帰ってきた夜にも、同じ声で納品書を開いた。
その時、何を考えていたのだろう。
聞けずにいた問いが、また胸へ戻ってきた。
侯爵邸を出てから、澪は真壁と並んで歩いていた。
昼間の話を思い返しながら、商会へ戻る石畳の道を進む。
角の店から、焼いたパンの香りが流れてきた。
買物籠を抱えた人が前を横切り、澪は少し歩幅を狭めた。
真壁も、その人が通り過ぎるのを待っている。
人影のまばらな道へ入ってから、澪は横顔を見た。
「真壁さん、少し聞いてもいいですか」
「何かね、澪君」
「あの時の戦いのことなんですけど」
真壁の足が止まった。
「8人、亡くなったって言いましたよね」
「ああ」
「……平気なんですか?」
真壁は澪を見た。
「平気に見えるかね」
「分かりません。真壁さん、いつもどおりだから」
「そうか」
真壁は、道の向こうから来る荷車を見た。
「澪君。少し、昔の話をしようか」
「昔?」
「君には、まだ話したことがなかったね」
「……ここで聞いても、いいんですか?」
「少し長くなる。商会へ戻ってからにしよう」
真壁は荷車が通る側から1歩下がった。
車輪が、さっきまで2人が立っていた石を踏んでいく。
澪は頷き、再び歩き始めた。
今度は昼間の手紙より、隣にいる人の言葉を考えていた。
事業所へ戻ると、理央が朝の用紙を机へ揃えていた。
留守の間に進んだ仕事を聞き、澪は納品の支度が整っているのを見てほっとした。
夕方の光が、戸口から荷置き場へ長く延びている。
理央が帰る頃には、その光も薄くなっていた。
澪は戸締りをして、机のランプを点けた。
仕事が終わるころ、事業所には澪と真壁だけが残った。
真壁は書類を揃え、引き出しへしまうと、椅子へ腰を下ろした。
真壁は窓の外へ目を向けた。
「私が生まれた国は、若い国だった」
澪は鞄を膝から下ろした。
どこの国か、とすぐに尋ねることはしなかった。
澪は黙って続きを待った。
「人々は自分たちの国を持ち、自分たちの未来を決めようとしていた。その願いそのものは、決して間違っていなかったと、今でも思っている」
「……その国は、どうなったんですか?」
「戦争をした」
真壁は短く答えた。
「相手は、我々よりはるかに大きな国だった。兵も、物資も、工業力も違う。それでも、勝てると信じた者がいた」
「真壁さんも?」
「無論だ。私は軍人だったからね」
「……軍人?」
「大佐という階級にあった。軍の物資や資源を扱い、時には部隊を指揮した」
澪は驚いたように真壁を見た。
「本当に軍人だったんですか」
「以前、君は私が将軍ではないかと尋ねたね。階級は違うが、あながち的外れでもなかったわけだ」
真壁は小さく笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「私は祖国が好きだった。文化も、そこに暮らす人々もね。美しいものを眺めるのが好きで、古い器などを集めていたものだ」
「今の真壁さんと、あんまり変わらないですね」
「そうかもしれん」
澪は、真壁が店先の器を手に取る時の指を思い出した。
口の薄さや底の形を見てから、静かに戻す。
その手つきと大佐という言葉は、まだうまく重ならなかった。
真壁は自分の手を見た。
「だが、戦争は人間を変える。いや、元から持っていたものを、表へ引きずり出すと言った方が正しいか」
「……」
「私は勝つために、随分と汚い手も使った。敵を欺き、味方を利用し、必要とあれば人を見捨てた」
「味方も、ですか?」
「ああ」
澪は言葉を失った。
「補給を絶てば、兵は戦えない。指揮官を失えば、部隊は動けない。私はそういうことを、よく知っていた」
「今回も……」
「そうだね。使った考え方は、昔とさほど変わらんよ」
真壁は静かに続けた。
「私の国は、敗れた」
「……」
「敵が強かったことも事実だ。だが、敗れた理由を敵の強さだけに求めるのは、少々都合がよすぎる」
真壁はそこで一度、言葉を切った。
「我々には、守るべきものがあった。そのはずなのに、いつの間にか、勝つこと自体が目的になっていた」
「それで……真壁さんは?」
「最後まで軍人だったよ」
真壁の声は変わらなかった。
「負けると分かっていても、退かなかった。私にも、退くべき時はあったのだろうな」
「その後は?」
「私は、その戦争で死んだ」
澪の指が、椅子の座面の端をつかんだ。
ランプの灯りは変わらず、真壁の袖を照らしている。
澪は顔を上げた。
「……え?」
「正確には、この身体での話ではない。君にも、前世の記憶を持つ者がいることは分かっているだろう」
「はい。でも……」
「私も、その1人ということだ」
澪は、真壁の顔を見つめた。
今まで幾度も見てきた顔だった。
けれど、その顔の向こうに、自分の知らない戦場があるのだと思うと、何を尋ねればよいのか分からなくなった。
「じゃあ、真壁さんは……昔も、人を?」
「殺したよ」
真壁は目を逸らさなかった。
「直接手を下した者もいる。私の命令で死んだ者は、それよりずっと多いだろう」
「……怖くなかったんですか」
「怖かったさ」
「でも、戦ったんですよね」
「ああ。軍人だったからね」
その答えを聞いても、澪にはまだ理解できなかった。
怖いと知りながら、そこに残る。
何人も死ぬと分かって命令を出す。
自分が明日死ぬかもしれない所へも行く。
それを軍人だったという一言で受け止めるには、澪が知っていることは少なすぎた。
「真壁さんは、後悔してるんですか?」
真壁はしばらく黙った。
「後悔していることはある。だが、全てが間違っていたと申し上げるつもりもない」
「……そうなんですか」
「祖国を守りたいと思ったことまで、否定したくはないのでね」
真壁は澪へ向き直った。
「ただ、澪君。今になって思うことが1つある」
「何ですか?」
「私は、勝った後のことを考えるのが足りなかった」
澪は首をかしげた。
「勝った後?」
「戦争に勝てば国は残る。そう考えていた。だが、国が残ったとして、そこに暮らす者たちが何を失うのか。そこまで考えていたかと言われると、自信がない」
真壁は、机の上の帳面を指した。
「君は違う。兵が何人倒れたかより、その後、その人たちがどうなるかを気に掛ける」
「……普通のことじゃないですか」
「そう思えるのは、悪いことではないよ」
澪は少し考えた。
「でも、真壁さんが今回やってくれなかったら、もっとたくさんの人が死んだかもしれないんですよね」
「その可能性は高かっただろう」
「だったら、私、簡単に責められません」
「責めても構わんよ」
「そういうことじゃなくて……」
澪は言葉を探した。
「真壁さんが、私の知らないところで、そんな大変なことを考えていたんだって……」
そこまで言って、少し俯いた。
「私、何にも知らなかったんですね」
「知らずに済むことなら、その方がよい場合もある」
「でも、真壁さんのことは、知りたいです」
真壁は返事をしなかった。
「だって、これからも一緒に仕事するんでしょう?」
「ああ。そのつもりだよ」
「だったら、少しずつでも教えてください」
以前、守ってもらえなかった約束が、これで消えるわけではない。
知らぬ間に決められることへの不満も残っている。
それでも、この人の話を聞きたくないとは思わなかった。
澪は、真壁がいつものように軽い冗談で返すのではないかと思った。
しかし、真壁は真面目な顔で頷いた。
「そうしよう」
窓の外では、荷車の音が遠ざかっていった。
澪は、机の端に置かれた納品書を見た。
「真壁さん」
「何かね」
「今の国は、好きですか?」
真壁は少し驚いたようだった。
それから、穏やかに笑った。
「悪くない国だと思っているよ」
「そうですか」
「少なくとも、ここには守っておきたいものがある」
澪が顔を上げると、真壁はもう帳面を開いていた。
「さて。明日の納品は何時だったかな」
「……また仕事の話に戻すんですか」
「商人だからね」
澪は、ようやく少し笑った。