押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第425話 公爵になりませんか?

 

 内乱の審理が進んでいる間にも、押入商会の荷は出ていった。

 

 朝の荷置き場で、覆い布を畳む音がする。

 

 台車の車輪が戸口の段差を越え、荷札を持った従業員が脇へ身を寄せた。

 

 開いた戸から春の光が入り、机の端へ落ちている。

 

 澪はその明るい所へ納品書を寄せた。

 

「ここ、受け取る方の名前がまだ入ってません」

 

 理央が手を止めた。

 

「それは、先方に書いていただく分です。控えの方には、前回の担当者を入れてあります」

 

 澪は重なった紙を1枚ずつ広げた。

 

「……あ、こっちですね」

 

「はい。紛らわしかったですか?」

 

「私が急いで見たんです。分けておいた方がいいかもしれません」

 

 理央は机の左右へ紙を移し、受け取る方と送る方を離した。

 

 真壁が戻してきた用紙も、そこへ加わる。

 

「月1tの継続分は、この予定で進めてよい。東都へ送る控えは、こちらを使ってくれ」

 

「はい」

 

 理央の鉛筆が、余白へ短い文字を書いた。

 

 澪は次の頁を開いた。

 

 軍務省から呼ばれるたびに途中で置いていった仕事も、ようやく手元へ戻ってきていた。

 

 その時、戸口で従業員が立ち止まった。

 

「侯爵家の使者の方がお見えです」

 

 澪は頁から顔を上げた。

 

 外套の裾を整えた使者が、封書を差し出す。

 

 金属取引の用紙の隣に、封蝋の付いた小さな書状が置かれた。

 

「今度は何か起きたんですか?」

 

「王都から重要な書状が届きました。アルベルト様は、まずお2人へお話ししたいと」

 

 澪は文面を読んだ。

 

 急いで兵を送れとも、負傷者がいるとも書いていない。

 

 それでも、真壁も名指しで招かれていた。

 

「今日、伺えばよいんですね」

 

「はい。ご都合のつく時にと」

 

「では、こちらの納品の引継ぎだけ済ませようか」

 

 真壁が理央へ用紙を渡した。

 

「返ってきた控えは、この箱へ。納品の支度は止めずに進めてくれ」

 

「大丈夫です。次の控えは私が揃えておきます」

 

 理央は2人の書類を奥へ寄せ、自分の机を空けた。

 

 澪も必要な連絡を頼み、鞄を取り上げる。

 

 外へ出ると、車を押す従業員が止まろうとした。

 

「そのままで大丈夫です。いってきます」

 

 台車が再び動き、2人はそれを見送ってから侯爵邸へ向かった。

 

 

 

 侯爵邸の庭では、植込みの下に残った葉を庭師が集めていた。

 

 澪が石段を上ると、箒が砂利を掃く音が背中へ届いた。

 

 執務室の窓は半分開いている。

 

 アルベルトは机の向こうで立ち上がり、2人を迎えた。

 

「商会の仕事中に呼び出してすまんな」

 

「いえ。納品の支度は済んでおります」

 

 真壁が答え、澪と並んで席に着いた。

 

 家令が水差しを置き、文書を机の中央へ揃える。

 

 その後も退室せず、少し離れた壁際へ控えた。

 

 澪は、紙の角が擦れているのを見た。

 

 王都で畳まれ、袋へ入れられ、ここまで運ばれてきたものだった。

 

 アルベルトは茶を勧めてから、表紙を2人へ向けた。

 

「父上から、沙汰が下ったと知らせが届いた」

 

「王国軍の件ですか?」

 

「ああ。裁定は3家に及ぶ」

 

 澪は茶器へ伸ばしかけた手を戻した。

 

「13家、全部ではないんですね」

 

「同じ軍務特権を持っていたというだけで、同じ罪にはならん」

 

 アルベルトは、別に添えられた通知文を示した。

 

「これは陛下が裁可された沙汰の謄本だ。宰相府からの通知と共に届いた。父上が私に説明しただけの話ではない」

 

 真壁は表紙の王印を見た。

 

 その脇には、宰相府を経たことを示す印もある。

 

「ようやく、裁かれる側と裁く側が分かれましたな」

 

「軍務省に、自分たちの報告だけで自分たちを裁かせるわけにはいかなかった」

 

 アルベルトは最初の頁を開いた。

 

 庭で箒が止まった。

 

 窓の外を鳥が横切り、澪は一瞬そちらへ目をやった。

 

 真壁は先を尋ねず、アルベルトが読むのを待った。

 

「まず、フォルケンラート侯爵家だ」

 

 家令の指が、脇に置いた文書の端へ触れた。

 

 アルベルトの声が低くなった。

 

「西営の所在未確認者について、現任として扱うため注記を削除させた」

 

 アルベルトは文面を追う指を止め、2人へ顔を向けた。

 

「審理で署名と改訂の経緯が調べられた。軍務省は警告を知りながら、実員報告を改めなかったと認定されている」

 

 澪は、真壁から聞いた兵の数を思い出した。

 

 紙にはいるのに、救援には来なかった兵たち。

 

 ただ、その全員が最初からいなかったと決まったわけではなかった。

 

「行方が分からない人を、いることにしたんですね」

 

「ああ。分からぬことを、分かっているように直した。単に調べるのが遅れた話ではない」

 

 アルベルトは処分の箇所を読む。

 

「侯爵位剥奪。家門取り潰し」

 

 澪は膝の上で指を握った。

 

 アルベルトは次の家名へ進んだ。

 

「ベルグナー伯爵も、西営480人を全員現任と証明した書面に、自ら署名していた」

 

「その頃には、不一致を知らされていたのでございますね」

 

 真壁が尋ねた。

 

「今回の審理で、本人宛の報告と署名書面が調べられた。未確認162人を含め、全員が正規に配置されているよう扱ったと認定された」

 

 澪は、数字の部分へ目を落とした。

 

 点呼できた226人と、理由のある不在92人。

 

 残り162人には、まだ所在未確認という言葉が付いている。

 

「162人を、全部架空だったとは書いてないんですね」

 

「そこまでの認定ではない。だが、未確認と知って証明してよいことにもならん」

 

 アルベルトは伯爵位剥奪と家門取り潰しを告げた。

 

 その先の頁をめくろうとする指が、少し止まった。

 

「家令の人たちが兵を動かした件も、伯爵の命令だったんですか」

 

 澪の問いに、彼は首を振った。

 

「拘束された後に、本人があの武装行動を命じたとまでは確かめられていない。ここでは、虚偽の証明に対する認定と分けてある」

 

 真壁は頷き、最後の家名を見る。

 

「グライフェルト伯爵。こちらは、王命を知った後の武力排除命令が原本で残っていた」

 

 アルベルトは真壁へ顔を向けた。

 

「君が届けたものだ」

 

「署名も、印章もありました。現地の部隊が、何を命じられていたかも」

 

「その命令と武力行使が結び付けられた。当主自身が、王命への武装抵抗を指示したと認定されている」

 

 アルベルトは続きへ視線を下げた。

 

「爵位剥奪、家門取り潰し。本人には死罪」

 

 澪は顔を上げた。

 

 真壁は動かなかった。

 

 庭で馬が嘶いたが、誰も窓の方を見なかった。

 

「……侯爵家が1つ、伯爵家が2つ、なくなるんですか」

 

「爵位と、家門としての権利が取り上げられる」

 

「家族の人は?」

 

「関与していない者まで同じ刑にはならない。身分や財産の扱いは個別に確かめる」

 

「ほかの2人も、死罪なんですか」

 

「この通知には、その個人の刑罰の詳細はない。家門への裁定だけで、そこまで読んではならん」

 

 澪は小さく頷いた。

 

 家がなくなるという言葉に、屋敷にいる人が全部いなくなるような姿を重ねてしまっていた。

 

「領民まで反逆者にしては、また新しい災いを作るだけでしょう」

 

 真壁の言葉に、アルベルトも頷く。

 

「残る10家の爵位は維持される。ただし、世襲の軍事特権は戻らない。兵の指揮も、任免も、給金も、家の持ち物にはしない」

 

 アルベルトが頁を置いた。

 

 家令は3家の通知を揃え、その脇へ別の紙を差し出した。

 

 アルベルトは椅子を離れ、畳まれた王国地図を机の広い方へ置いた。

 

 折り癖の残る角が浮き上がり、家令が文鎮を添える。

 

「所領も没収され、王領に編入される」

 

 澪は立ち上がり、彼が示した塗り分けを見た。

 

 3家の土地は、どれも小さな点ではなかった。

 

 指で隠せない広がりが、それぞれ異なる家名の下にあった。

 

「領地まで全部、王様のものになるんですか」

 

「領主として管理する権利は王家へ戻る。そこに暮らす人々の家まで好きにしてよい、という意味ではない」

 

 澪は線の内側を見た。

 

 村も、道も、その紙には小さく描かれている。

 

 自分が知る市場のように、野菜を並べている人もいるはずだった。

 

「畑を作っている人は、そのまま作れるんですか」

 

「正当な権利と契約は保護する。国の管理に移るから、暮らしを全部止めろとは命じていない」

 

「今、荷を送っている商人も?」

 

「契約の相手や担当が替わるところはある。だが、合法な取引を一律に奪う話ではない」

 

 澪は、受領印を待っていた御者の話を思い出した。

 

 兵の旗が替わっても、馬にはその日の飼葉が要る。

 

 畑も荷車も、次の命令が書き終わるまで待ってはくれない。

 

「誰が、今日の用事をしてくれるんでしょう」

 

「現地の役人を残して引き継ぐ。臨時の管理官も手配する。父上が人を選んでいるところだ」

 

「領地を得れば、領民を守る役目まで付いて参ります」

 

「代官と役人の手配だけでも、父上は骨が折れるだろう」

 

 真壁は地図の旧所領を順に見た。

 

 澪はアルベルトに道の管理を尋ね、彼は分かる範囲の通知だけを取り上げた。

 

 まだ担当者が着いていない土地もある。

 

 そこを埋める名は、この部屋で作れるものではなかった。

 

 窓から風が入り、地図の角を持ち上げる。

 

 澪が指で押さえると、アルベルトは文鎮を動かした。

 

「広いからといって、その分の金が明日から入るわけではない」

 

「先に、行く人の旅費が要りそうですね」

 

「そういうことだ」

 

 アルベルトの口元がわずかに動いた。

 

 笑ったというほどでもなかったが、澪はようやく肩の力を抜いた。

 

 アルベルトは正式な沙汰を畳み、通知文と共に袋へ戻した。

 

 地図は机に広げたままだった。

 

「ここまでは、領内へも伝える内容だ」

 

 家令は袋を受け取ろうとしたが、アルベルトは自分の側へ置いた。

 

「もう少しここで預かる。後の用意は、外で頼む」

 

「承知いたしました」

 

 家令が茶器を見た。

 

「お茶をお替えいたしましょうか」

 

「後でよい」

 

 一礼して出ていくと、扉が静かに閉まった。

 

 アルベルトはその音が収まるのを待ち、鍵の付いた私信入れへ手を伸ばした。

 

「もう1つ、父上から話がある」

 

「また裁判のお話ですか?」

 

「いや。今度は我が家のことだ」

 

 真壁は地図から手を離した。

 

「それでは、ご家族の話として伺うべきでしょうな」

 

「ああ。まだ公にする話ではない」

 

 アルベルトは封書を開いた。

 

 先ほどの謄本より薄く、机へ置いても折り目が浮かなかった。

 

「父上が、私に相談してきた」

 

 澪は座り直した。

 

 彼の声は、罪状を読んでいた時より少し柔らかい。

 

「軍制の立て直しと、今回の危機への対処を評価して、陛下が我が家へ厚遇を考えておられるそうだ」

 

 アルベルトは手紙の一節を読み直した。

 

 父の働きが国王に認められた。

 

 その喜びが、文面を慎重に選ぶ声の下からのぞいていた。

 

 澪は、ようやく少しよい知らせを聞けるのかと思った。

 

 だが、アルベルトは手紙を伏せず、その先も示した。

 

「父上も、陛下にはまだお返事をしていないそうだ」

 

「お受けになる前に、ご相談なのですね」

 

「私もそう読んだ。だが、喜ばしい話であるはずなのに、父上の書き方が妙に慎重でな」

 

 アルベルトは真壁へ向いた。

 

「君なら、どう受け取るかと思って呼んだ」

 

 真壁はすぐに答えなかった。

 

 冷め始めた茶を一口飲み、茶器を皿へ戻す。

 

「まずは、お話の続きを伺いましょう」

 

 アルベルトは頷き、父の筆跡へ指を添えた。

 

 澪も、手紙の方へ身を寄せた。

 

「陛下は、父上を公爵へ陞爵させるご意向だそうだ」

 

 澪はアルベルトの顔を見た。

 

 今度は爵位を取り上げる話ではなかった。

 

「公爵って、侯爵より上ですよね?」

 

「ああ」

 

「つまり、お父様に『公爵になりませんか』って、国王陛下からお話が来たんですか?」

 

 アルベルトが笑った。

 

「ずいぶん気軽な誘いに聞こえるな。だが、そういうことになる」

 

「すみません。私、爵位のことは、まだあんまり分かってなくて」

 

「いや。その言い方で間違いではない」

 

 彼は父の手紙を見下ろした。

 

「家門にとっては大きなことだ。父上への功労の報いとしては、破格のお話だ」

 

「それは……おめでとうございます」

 

 言ってから、澪は返答前だったことを思い出した。

 

「まだ決まってないんでしたね」

 

「祝ってくれる気持ちはありがたい」

 

 アルベルトは手紙を指先で押さえた。

 

「この家の名を継いできた者たちも、驚くだろうな」

 

 澪は、廊下の壁に掛かっていた肖像を思い浮かべた。

 

 クラウスが公爵になれば、あの人たちから続く家の呼び方も変わる。

 

 アルベルト自身も、いつかその家を担うのかもしれない。

 

 真壁が穏やかに口を開いた。

 

「それはまことにおめでたい。ところで、何をいただけるお話でしょうかな」

 

「爵位だが?」

 

「それは承知しております。爵位のほかに、です」

 

 アルベルトの笑みが薄くなった。

 

 手紙を持ち上げ、続きを探す。

 

「加増地のことか」

 

「所領のお話が添えられているのかと」

 

「いや。ここにはない」

 

 アルベルトは該当の段落を読み上げた。

 

 父への打診と、まだ返答していないという知らせ。

 

 その後は家の用事へ戻っており、新しい領地の名はなかった。

 

 真壁は茶器を脇へ寄せた。

 

「なるほど。まだ条件は出ていない」

 

 その指が、地図の端を引き寄せた。

 

 澪は地図がこちらへ動くのを見た。

 

 祝いの手紙と、さっきまで取り潰された家の土地を見ていた地図が、同じ場所に並んだ。

 

「陞爵だけなら、領地を替える必要はありませんな」

 

 真壁は、ヴァルディスの名がある所へ指を置いた。

 

「今の領地を保ったまま、公爵位をいただくこともできる」

 

「それなら、我が家の仕事は大きく変わらん」

 

「ですが今回は、広い王領が新たに生まれました」

 

 真壁の指が、旧3家の塗り分けへ移った。

 

「その一部を加えて、新しい公爵家の所領とする考えもあるでしょう」

 

 アルベルトは頷いた。

 

「父上が新しい土地の管理まで任されるのなら、厚遇だけを喜んではおられんな」

 

「人も要ります。慣れた領とは違うご苦労もある」

 

「それでも、任せられた仕事なら果たすことになる」

 

 真壁は現在のヴァルディス領へ指を戻した。

 

「もう1つ、考え得る話がございます」

 

 アルベルトがその指先を見た。

 

「爵位のみを上げることもできます。ですが、もし領地をお替えになるなら?」

 

 アルベルトは何も言わなかった。

 

 地図の2か所へ目を移し、真壁へ戻す。

 

「取り潰した家の所領を我が家に与え、この領地を国へ戻すということか」

 

「考え得る筋の1つです」

 

「えっ、じゃあアルベルト様たちも、この町を離れるんですか?」

 

「そう決まったわけではない」

 

 アルベルトは澪へ答えてから、もう一度父の手紙を見た。

 

「この領を返せとは、書かれていない」

 

「ええ。あくまで可能性です」

 

 真壁の声は変わらなかった。

 

 澪は、地図に引かれた領境を見た。

 

 線の内側には、この屋敷も事業所もある。

 

 その線を替えるだけで、アルベルトたちが別の場所へ行ってしまうのかもしれなかった。

 

「住んでいる人まで、一緒に行くんですか」

 

「領民を皆、移すような話ではない。領主家が新たな土地を預かり、こちらは別の管理になる」

 

「町は残るんですね」

 

「当然だ」

 

 澪は屋敷の外を見た。

 

 庭師が刈った枝を抱え、塀の陰へ歩いている。

 

 町が残るなら、あの人の仕事も残る。

 

 だが、その仕事を頼む相手まで同じとは限らない。

 

「エレナ様も、こちらを離れるかもしれないんですか」

 

 アルベルトの指が、手紙の端で止まった。

 

「もし我が家が移るなら、家族の暮らしも変わる。それも含めて考えねばならん」

 

 澪は、ただ広い土地をもらう話ではないのだと分かった。

 

 アルベルトは地図へ手を戻した。

 

 ヴァルディスの名に触れる前に、その指が止まる。

 

 開いた窓から風が通った。

 

 誰も、その沈黙を急かさなかった。

 

「先祖から預かってきたこの領を、名誉のために手放すとは考えていなかった」

 

「クラウス閣下も、まだそのようなご決断はなさっておりません」

 

「分かっている」

 

 返事は少し速かった。

 

 アルベルトは手紙を置き、真壁へ向き直った。

 

「なぜ、交換の方を考えた」

 

「アルベルト様。陛下が欲しておられるのは、広い土地ばかりでしょうかな」

 

「何を言いたい」

 

「もし現在のヴァルディス領が王領になれば、陛下が直接向き合うことになる相手がいる」

 

「領民、街道の商人……倉を使う者たちか」

 

 アルベルトの声が途中で止まった。

 

 真壁は、その続きを受け取った。

 

「押入商会と、リュシア商会です」

 

 澪は椅子の前へ身を寄せた。

 

「うちの商会は、侯爵家の持ち物じゃありませんよ」

 

「そのとおり」

 

 真壁はすぐに答えた。

 

「だが、働く場所や道を誰が管理するかは、商売に少なからぬ影響を与える」

 

 澪はアルベルトを見る。

 

 彼も、商会を家の持ち物に数えていた顔ではなかった。

 

「領主が替わったから商会まで渡す、とは私も言っていない」

 

「はい。でも、公爵にするお礼にうちを差し出すような話なら、困ります」

 

「差し出すというより、直接話が届く所へ置く、と考えた方がよいかもしれんね」

 

 真壁は澪へ向け、今度は少し柔らかく言った。

 

 窓の外で荷車が止まり、御者の声がした。

 

 澪は、朝に戸口を通っていった台車を思い出す。

 

「今なら、土地のことで何かあれば、侯爵家に相談しますよね」

 

「ああ。事業所を広げたい時も、工事に伴う用事も、この領の相手と話している」

 

「それが、国王のところへ?」

 

「王領の役人を相手にすることになるだろう」

 

 真壁はアルベルトの方へ向いた。

 

「施設を置く土地、使う街道と市場、税と営業の手続き。今は御家が間に立っておられる」

 

「治安も、こちらの責任だ」

 

「ええ。それを王家が直接預かるなら、2つの商会に働き掛ける機会は増えるでしょう」

 

 アルベルトは片手を地図へ置いた。

 

「……確証はないな」

 

「ありません。だから条件を伺うのです」

 

「父上への報いを、初めから商会狙いの仕掛けとは扱いたくない」

 

「私も、陛下のお考えを聞いたわけではありません。純粋なご厚意である可能性は、もちろん残ります」

 

 真壁は地図から手を離した。

 

「ただ、善意のお話であっても、こちらが何を手放すかを知らぬまま受けてよいとは限りませんな」

 

 澪は鞄の持ち手を握った。

 

 商会の物は、《収納》で動かせるものが多い。

 

 工房の機材も、在庫も、必要なら別の場所へ運べる。

 

 だが、朝に台車を押していた人を、自分の都合で別の町へ運ぶわけにはいかない。

 

 家族がここにいる人もいる。

 

 近くの店へ寄って帰る人も、この商会へ品物を持ってくる人もいる。

 

「嫌なら引っ越せばいい、だけでは済まないんですね」

 

「君が商会を移すと決めるなら、その相談はできる。だが、まだ移らねばならぬ話が出たわけでもないよ」

 

「そうですね」

 

 澪は持ち手から手を離した。

 

「でも、残ることまで勝手に決めてほしくないです」

 

「無論。押入商会の代表は君だ」

 

 真壁はアルベルトへ顔を戻した。

 

「リュシア商会も同様です。こちらに残るとも、一緒に移るとも、私がお約束することではありません」

 

「彼女には、まだ何も知らせていない」

 

「でしたら、当人がいない所で答えを作るのはやめておきましょう」

 

 アルベルトは頷いた。

 

 澪はようやく椅子へ深く座り直した。

 

 胸に湧いた怒りは、まだ起きてもいないことに向かっていた。

 

 それでも、自分の仕事の扱いを他人に決められたくないという言葉は、引っ込めたくなかった。

 

 アルベルトは地図を少しずらし、白紙を置いた。

 

 筆を持ち上げたが、すぐには書かなかった。

 

「父上への祝意は変わらん」

 

「ええ」

 

「だが、何が含まれる話なのかを聞いてから、返答していただきたい」

 

 澪はその言い方に頷いた。

 

「爵位だけの話か、加増があるのか、領地を替えるのか。それを別々にお尋ねになることです」

 

 真壁が言った。

 

 アルベルトは最初の行へ筆を置いた。

 

「現在の領の扱いが決まらぬうちに、受諾はできんということだな」

 

 筆先が次の行へ進んだ。

 

 澪は、地図にあるヴァルディスの名を見た。

 

 門を初めてくぐった時、自分は領主家とどう話せばよいかも知らなかった。

 

 その後、どれだけの仕事で、この家に相談してきただろう。

 

「私たち、こちらに助けてもらってきたので」

 

 アルベルトが筆を止めた。

 

「それは、君たちも同じだ」

 

「はい。だから、今までの約束がどうなるか、ちゃんと聞きたいです」

 

「新しい管理者になれば何もかも無効、という話にはせん」

 

「押入商会に何かしてほしいなら、私に話してください。リュシアさんにも、ちゃんと」

 

「分かった。父上へも、当事者との相談が必要だと伝える」

 

 アルベルトは、土地と営業に及ぶ変更を問う行を足した。

 

 澪は筆が止まるのを待ち、礼を言った。

 

「返事が来るまでは、今の取引を続けて構いませんね」

 

 真壁が尋ねると、アルベルトは筆を置いた。

 

「もちろんだ。私信にある打診だけで、領内の商売を止められては困る」

 

「理央君にも、そのように伝えましょう」

 

 澪は頷いた。

 

 商会へ戻ったら、朝の続きが待っている。

 

 リュシアには、領地替えが決まったのではなく、条件を尋ねている段階だと伝えよう。

 

 アルベルトはインクが乾くのを待ち、覚え書きの脇へ父の手紙を置いた。

 

「父上も、まだお返事をしていない。それなら、この問いを送る時間はある」

 

 アルベルトは手紙の末尾へもう一度目を通した。

 

 アルベルトは正式な沙汰と私信を、別々の袋へしまった。

 

 家令を呼ぶ前に、新しい用紙を机へ広げる。

 

 最初に父への祝意を書き、それから先ほどの問いへ移った。

 

 真壁が席を立った。

 

「王家のお考えが、私の見込みと違っていれば何よりですな」

 

「そうであってほしい」

 

 アルベルトは筆を置き、2人と共に戸口へ向かった。

 

 廊下の窓から入る光が、床へ長く延びている。

 

「父上には私から尋ねる。君たちに決めてくれとは言わん」

 

「商会のことは、私とリュシアさんにも話してくださいね」

 

「もちろんだ。正式な条件が示された時には、君たちにも知らせよう」

 

 真壁が一礼した。

 

「それでは、ご返事が来るまでは、いつもの商売を続けましょう」

 

 玄関まで来ると、外の明るさに澪は目を細めた。

 

 庭の端には、荷を下ろしたばかりの車が止まっている。

 

 御者が縄をまとめ、下働きの人が空の籠を受け取っていた。

 

 澪は石段を下りてから振り返った。

 

 アルベルトは上に立ち、2人を見送っている。

 

 その向こうに、執務室で話していた家の暮らしがあった。

 

 澪は頭を下げ、真壁と門へ向かった。

 

 隣を歩く男は、先ほどと変わらぬ足取りだった。

 

 軍の不正も、領地替えの可能性も、あの声で話す。

 

 そして、軍務省から帰ってきた夜にも、同じ声で納品書を開いた。

 

 その時、何を考えていたのだろう。

 

 聞けずにいた問いが、また胸へ戻ってきた。

 

 

 

 侯爵邸を出てから、澪は真壁と並んで歩いていた。

 

 昼間の話を思い返しながら、商会へ戻る石畳の道を進む。

 

 角の店から、焼いたパンの香りが流れてきた。

 

 買物籠を抱えた人が前を横切り、澪は少し歩幅を狭めた。

 

 真壁も、その人が通り過ぎるのを待っている。

 

 人影のまばらな道へ入ってから、澪は横顔を見た。

 

「真壁さん、少し聞いてもいいですか」

 

「何かね、澪君」

 

「あの時の戦いのことなんですけど」

 

 真壁の足が止まった。

 

「8人、亡くなったって言いましたよね」

 

「ああ」

 

「……平気なんですか?」

 

 真壁は澪を見た。

 

「平気に見えるかね」

 

「分かりません。真壁さん、いつもどおりだから」

 

「そうか」

 

 真壁は、道の向こうから来る荷車を見た。

 

「澪君。少し、昔の話をしようか」

 

「昔?」

 

「君には、まだ話したことがなかったね」

 

「……ここで聞いても、いいんですか?」

 

「少し長くなる。商会へ戻ってからにしよう」

 

 真壁は荷車が通る側から1歩下がった。

 

 車輪が、さっきまで2人が立っていた石を踏んでいく。

 

 澪は頷き、再び歩き始めた。

 

 今度は昼間の手紙より、隣にいる人の言葉を考えていた。

 

 

 

 事業所へ戻ると、理央が朝の用紙を机へ揃えていた。

 

 留守の間に進んだ仕事を聞き、澪は納品の支度が整っているのを見てほっとした。

 

 夕方の光が、戸口から荷置き場へ長く延びている。

 

 理央が帰る頃には、その光も薄くなっていた。

 

 澪は戸締りをして、机のランプを点けた。

 

 仕事が終わるころ、事業所には澪と真壁だけが残った。

 

 真壁は書類を揃え、引き出しへしまうと、椅子へ腰を下ろした。

 

 真壁は窓の外へ目を向けた。

 

「私が生まれた国は、若い国だった」

 

 澪は鞄を膝から下ろした。

 

 どこの国か、とすぐに尋ねることはしなかった。

 

 澪は黙って続きを待った。

 

「人々は自分たちの国を持ち、自分たちの未来を決めようとしていた。その願いそのものは、決して間違っていなかったと、今でも思っている」

 

「……その国は、どうなったんですか?」

 

「戦争をした」

 

 真壁は短く答えた。

 

「相手は、我々よりはるかに大きな国だった。兵も、物資も、工業力も違う。それでも、勝てると信じた者がいた」

 

「真壁さんも?」

 

「無論だ。私は軍人だったからね」

 

「……軍人?」

 

「大佐という階級にあった。軍の物資や資源を扱い、時には部隊を指揮した」

 

 澪は驚いたように真壁を見た。

 

「本当に軍人だったんですか」

 

「以前、君は私が将軍ではないかと尋ねたね。階級は違うが、あながち的外れでもなかったわけだ」

 

 真壁は小さく笑った。

 

 だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「私は祖国が好きだった。文化も、そこに暮らす人々もね。美しいものを眺めるのが好きで、古い器などを集めていたものだ」

 

「今の真壁さんと、あんまり変わらないですね」

 

「そうかもしれん」

 

 澪は、真壁が店先の器を手に取る時の指を思い出した。

 

 口の薄さや底の形を見てから、静かに戻す。

 

 その手つきと大佐という言葉は、まだうまく重ならなかった。

 

 真壁は自分の手を見た。

 

「だが、戦争は人間を変える。いや、元から持っていたものを、表へ引きずり出すと言った方が正しいか」

 

「……」

 

「私は勝つために、随分と汚い手も使った。敵を欺き、味方を利用し、必要とあれば人を見捨てた」

 

「味方も、ですか?」

 

「ああ」

 

 澪は言葉を失った。

 

「補給を絶てば、兵は戦えない。指揮官を失えば、部隊は動けない。私はそういうことを、よく知っていた」

 

「今回も……」

 

「そうだね。使った考え方は、昔とさほど変わらんよ」

 

 真壁は静かに続けた。

 

「私の国は、敗れた」

 

「……」

 

「敵が強かったことも事実だ。だが、敗れた理由を敵の強さだけに求めるのは、少々都合がよすぎる」

 

 真壁はそこで一度、言葉を切った。

 

「我々には、守るべきものがあった。そのはずなのに、いつの間にか、勝つこと自体が目的になっていた」

 

「それで……真壁さんは?」

 

「最後まで軍人だったよ」

 

 真壁の声は変わらなかった。

 

「負けると分かっていても、退かなかった。私にも、退くべき時はあったのだろうな」

 

「その後は?」

 

「私は、その戦争で死んだ」

 

 澪の指が、椅子の座面の端をつかんだ。

 

 ランプの灯りは変わらず、真壁の袖を照らしている。

 

 澪は顔を上げた。

 

「……え?」

 

「正確には、この身体での話ではない。君にも、前世の記憶を持つ者がいることは分かっているだろう」

 

「はい。でも……」

 

「私も、その1人ということだ」

 

 澪は、真壁の顔を見つめた。

 

 今まで幾度も見てきた顔だった。

 

 けれど、その顔の向こうに、自分の知らない戦場があるのだと思うと、何を尋ねればよいのか分からなくなった。

 

「じゃあ、真壁さんは……昔も、人を?」

 

「殺したよ」

 

 真壁は目を逸らさなかった。

 

「直接手を下した者もいる。私の命令で死んだ者は、それよりずっと多いだろう」

 

「……怖くなかったんですか」

 

「怖かったさ」

 

「でも、戦ったんですよね」

 

「ああ。軍人だったからね」

 

 その答えを聞いても、澪にはまだ理解できなかった。

 

 怖いと知りながら、そこに残る。

 

 何人も死ぬと分かって命令を出す。

 

 自分が明日死ぬかもしれない所へも行く。

 

 それを軍人だったという一言で受け止めるには、澪が知っていることは少なすぎた。

 

「真壁さんは、後悔してるんですか?」

 

 真壁はしばらく黙った。

 

「後悔していることはある。だが、全てが間違っていたと申し上げるつもりもない」

 

「……そうなんですか」

 

「祖国を守りたいと思ったことまで、否定したくはないのでね」

 

 真壁は澪へ向き直った。

 

「ただ、澪君。今になって思うことが1つある」

 

「何ですか?」

 

「私は、勝った後のことを考えるのが足りなかった」

 

 澪は首をかしげた。

 

「勝った後?」

 

「戦争に勝てば国は残る。そう考えていた。だが、国が残ったとして、そこに暮らす者たちが何を失うのか。そこまで考えていたかと言われると、自信がない」

 

 真壁は、机の上の帳面を指した。

 

「君は違う。兵が何人倒れたかより、その後、その人たちがどうなるかを気に掛ける」

 

「……普通のことじゃないですか」

 

「そう思えるのは、悪いことではないよ」

 

 澪は少し考えた。

 

「でも、真壁さんが今回やってくれなかったら、もっとたくさんの人が死んだかもしれないんですよね」

 

「その可能性は高かっただろう」

 

「だったら、私、簡単に責められません」

 

「責めても構わんよ」

 

「そういうことじゃなくて……」

 

 澪は言葉を探した。

 

「真壁さんが、私の知らないところで、そんな大変なことを考えていたんだって……」

 

 そこまで言って、少し俯いた。

 

「私、何にも知らなかったんですね」

 

「知らずに済むことなら、その方がよい場合もある」

 

「でも、真壁さんのことは、知りたいです」

 

 真壁は返事をしなかった。

 

「だって、これからも一緒に仕事するんでしょう?」

 

「ああ。そのつもりだよ」

 

「だったら、少しずつでも教えてください」

 

 以前、守ってもらえなかった約束が、これで消えるわけではない。

 

 知らぬ間に決められることへの不満も残っている。

 

 それでも、この人の話を聞きたくないとは思わなかった。

 

 澪は、真壁がいつものように軽い冗談で返すのではないかと思った。

 

 しかし、真壁は真面目な顔で頷いた。

 

「そうしよう」

 

 窓の外では、荷車の音が遠ざかっていった。

 

 澪は、机の端に置かれた納品書を見た。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「今の国は、好きですか?」

 

 真壁は少し驚いたようだった。

 

 それから、穏やかに笑った。

 

「悪くない国だと思っているよ」

 

「そうですか」

 

「少なくとも、ここには守っておきたいものがある」

 

 澪が顔を上げると、真壁はもう帳面を開いていた。

 

「さて。明日の納品は何時だったかな」

 

「……また仕事の話に戻すんですか」

 

「商人だからね」

 

 澪は、ようやく少し笑った。

 

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