押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第426話 わしはあれが欲しいのだ

 

 朝の風が、地図を押さえる重しの脇を抜けた。

 

 アルベルトは書きかけの返書から顔を上げた。

 

 庭では砂利を掃く音がしている。

 

 昨夜、机を離れる前に並べた問いは、そのままだった。

 

 公爵位だけを授けるのか。

 

 新たな所領を伴うのか。

 

 あるいは、今の領を離れることになるのか。

 

 父への祝意を書いた後で、筆が何度も止まっていた。

 

 どの問いも、1行で尋ねられる。

 

 だが、その返事を待つ間にも、王宮では話が進む。

 

「書状では、追いつかんな」

 

 扉の近くに控えていた家令が、わずかに頭を上げた。

 

「急使をお立ていたしますか」

 

「いや。私が行く」

 

 アルベルトは筆を置いた。

 

「真壁殿にも同席してもらいたい。昨日の話を、父上と直接確かめる」

 

「総支配人をお呼びしましょうか」

 

「こちらの都合だけで呼びつけるな。まず、同行を頼めるか尋ねてくれ」

 

 家令がうなずき、伝言を書き留めた。

 

 窓の外を荷車が通る。

 

 車輪の音は、返書を書く間も止まらなかった。

 

「父上と直接話したい。真壁殿にも同席してもらえないだろうか、と」

 

 それだけでは、昨日の自分が真壁へ反論を頼みに行くようにも聞こえそうだった。

 

 アルベルトは、もう一言添えた。

 

「父上のお考えを聞くためだ。条件をこちらで決めるつもりはない」

 

「承知いたしました」

 

「レオンハルトにも知らせてくれ。領内の引継ぎを済ませて、同行してもらう」

 

 家令が退出した後、アルベルトは父の私信を読み直した。

 

 喜ばしい話として知らせてきたのではない。

 

 父もまた、返事を決めかねている。

 

 幼い頃、王都での仕事を終えて帰る父を、玄関で待ったことがあった。

 

 今度は、待っているだけでは済まない。

 

 アルベルトは書きかけの返書を脇へ寄せ、問いを記した控えを畳んだ。

 

 

 

 押入商会の戸口では、荷札を結び直していた従業員が使者へ道を空けた。

 

 真壁は受け取った書状を開き、最後まで目を通した。

 

 澪の机には、昨日の続きの納品書が広がっている。

 

「今度は、真壁さんだけですか?」

 

「王都で宰相閣下とお話ししたいそうだ。アルベルト様が行かれる」

 

「直接聞くんですね」

 

「ええ。手紙を往復させるよりは早い」

 

 真壁は使者へ顔を向けた。

 

「承知いたしました。条件を伺うだけなら、早い方がよろしいでしょうな。午後にお迎えに上がると、お伝えいただけますかな」

 

「ありがとうございます。レオンハルト様もご一緒に、と仰せです」

 

「では、3人ですな」

 

 使者が帰ると、澪は机の向こうへ手を伸ばした。

 

「こっちは、出かける前に見てもらえます?」

 

 真壁の前へ、納品書が1枚滑ってくる。

 

 昨夜の話について、何か言われるかと思った。

 

 澪は既に、別の用紙を揃えていた。

 

「こちらでよい。先方へ送る分も同じ内容になっているかね」

 

「はい。理央さんと見ました」

 

「結構」

 

 紙を返すと、澪は端を合わせて重ねた。

 

「王都ですか。帰ったら、昨日の納品の続きもお願いしますね」

 

「もちろんですとも。そちらの仕事も、忘れてはおりません」

 

「何時に帰るか、まだ分かりませんよね」

 

「閣下のご都合もあるからね。待たされるかもしれない」

 

「じゃあ、今日の分はこちらで進めます。決まったところまで置いておきますから」

 

 声も、仕事の渡し方も、いつもと同じだった。

 

 真壁は机の端に残ったもう1枚を取り、今のうちに目を通した。

 

 

 

 王宮の執務の間には、昼前の日差しが入っていた。

 

 厚い敷物の上で、筆記を終えた官吏が書類を閉じる。

 

 三家から没収した所領の管理について、今日決めるべきことは一通り済んだ。

 

 クラウスは次の案件を差し出そうとした。

 

 国王が、その前に口を開いた。

 

「クラウス。あの件は、考え直したか」

 

 筆記役の手が止まる。

 

 クラウスは書状を膝へ戻した。

 

「陛下。そのお話でしたら、人払いをお願いいたします」

 

 王が短くうなずいた。

 

 官吏たちが礼をして退出し、最後の1人が扉を閉めた。

 

 広い部屋に、遠くの庭仕事の音がかすかに届く。

 

「公爵位を受けぬのか」

 

「ご厚意は身に余ります。ただ、爵位に伴うご意向を承らなければ、お返事はできませぬ」

 

「そなたには、それだけの働きがある」

 

「そのようにお認めいただけるのは、ありがたく存じます」

 

 クラウスは言葉を切った。

 

 王は、続きを待っている。

 

「爵位のみのお話でございましょうか。それとも、所領に関わるご意向もおありでしょうか」

 

「細かなことを気にする」

 

「所領に関わるのであれば、先に備えが要ります」

 

「そなたなら、できよう」

 

 何を、とは仰せにならない。

 

 クラウスは袖口を整え、顔を上げた。

 

「できるかどうかを申し上げるためにも、お考えを承りたく存じます」

 

「公爵にするという話が、気に入らぬのか」

 

「いえ。お受けした後で果たせぬことがあっては、陛下のご厚意に背きます」

 

 王は黙った。

 

 このような時、以前なら、クラウスの案を先に聞くこともあった。

 

 それを退けるにしても、どこが気に入らないのかは仰せになった。

 

 今日は、話が先へ進まない。

 

「わしはあれが欲しいのだ」

 

 クラウスは、すぐには返せなかった。

 

 欲しい、という言葉だけが耳に残った。

 

「……あれ、とは何を指しておいででしょう」

 

「分からぬか」

 

「申し訳ございませぬ。お聞かせ願えますか」

 

「そなたにまで、いちいち説明せねばならぬのか」

 

 責めるような大声ではなかった。

 

 クラウスが説明を求めていることは、通じているはずだった。

 

 それでも王は、その問いを煩わしそうに退けた。

 

 クラウスは、言葉を選び直した。

 

「陛下のご意向を取り違えぬためでございます」

 

 王は返事をしなかった。

 

 クラウスは、手元の書状を開かずに待った。

 

 やがて王が椅子へ深く掛け直す。

 

「もうよい。また考えておけ」

 

「条件をお示しいただけるまで、お返事はお預かりさせてください」

 

「……そなたも頑固になったな」

 

 クラウスは頭を下げた。

 

 その一言に、言い返すべき言葉はなかった。

 

 扉の外へ出ると、次の用務を待つ官吏が身を正した。

 

 クラウスは書状を預け、通常の案件を進めるよう告げる。

 

 取次ぎの者を呼んだのは、それからだった。

 

「侍従次長へ伝えてくれ。お勤めが終わってから、今夜、侯爵邸へお越しいただけるかと」

 

「ご用向きは、どのように」

 

「陛下の政務上のご様子について、個別にお話を伺いたい」

 

 取次ぎが礼をして離れていった。

 

 クラウスは、まだ王の言葉を考えていた。

 

 あれ。

 

 聞き間違えたのではない。

 

 聞き返しても、何を指すかは分からなかった。

 

 

 

 午後、領都の侯爵邸へ着くと、アルベルトは外出の支度を終えていた。

 

 レオンハルトも、扉の脇に立っている。

 

「お待たせいたしました」

 

「急な頼みですまんな」

 

「お話を伺えるなら、私にもありがたいことです」

 

 真壁は2人の足元と、周囲を見た。

 

 余分な荷はない。

 

 アルベルトが控えを懐へ収める。

 

「領内の警備は?」

 

「引継ぎは済ませました」

 

 レオンハルトが答えた。

 

「王都邸では、あちらの警備に従います。到着後の動線も伺っておきます」

 

「着いたら家令に、父上への面会を取り次がせよう」

 

「以前利用した侯爵邸の中継地点を使いましょう」

 

 真壁は、既に訪れた場所を思い浮かべた。

 

 侯爵家で安全に使うための空間であり、人や備品を置く場所ではない。

 

 3人が揃ったところで、《転移》を使った。

 

 窓から差す領都の光が消え、磨かれた木の匂いがした。

 

 到着した場所に人はいなかった。

 

 廊下の向こうで、使用人の足音が遠ざかる。

 

 レオンハルトは2人の姿を確かめ、扉まで歩いた。

 

「3人、揃っております」

 

「ええ。あとは、通常の訪問ですな」

 

 屋敷の家人はアルベルトを見て驚いた。

 

 だが、驚きはすぐに挨拶へ変わった。

 

 家令が来るまでに、椅子も茶も用意された。

 

「父上は王宮か」

 

「はい。お戻りの時刻は、まだ伺っておりません」

 

「今日は内密に話したい。私たちが来ていることだけ、伝えてもらえるか」

 

「使いを出します。お戻りになり次第、改めてお知らせいたします」

 

 アルベルトはうなずいた。

 

 急いで戻すようには言わなかった。

 

 レオンハルトは家令へ、廊下と出入口の取り扱いを尋ねた。

 

 真壁は席を外してもよいか聞き、持参の外套を預ける。

 

 王都へ来ることは、一瞬で済んだ。

 

 宰相との面会は、そうはいかなかった。

 

 借りた地図の上へ、アルベルトが質問の控えを置く。

 

 その脇には、父の私信があった。

 

 真壁は必要な箇所にだけ目を通し、地図を畳んだ。

 

「これを全部、お尋ねになるのですかな」

 

「父上に尋ねるつもりで書いたからな」

 

 アルベルトは少し笑った。

 

「顔を見れば、聞かずに済むものもあるかもしれん」

 

 部屋の壁には、侯爵家の肖像が掛かっていた。

 

 アルベルトがそちらを見上げたので、真壁も顔を向ける。

 

「ここへ来ると、領都の邸とは違うことを思い出す」

 

「どのような?」

 

「幼い頃は、父上がここへ帰ってくるだけで、今日も仕事が済んだのだと思っていた」

 

 アルベルトは私信へ目を戻した。

 

「帰ってからも、考えることはあったのだろうな」

 

 真壁は答えず、相手の控えを返した。

 

 窓の明るさが変わっていく。

 

 最初に出された茶は下げられ、庭を通る馬車の影が長くなった。

 

 レオンハルトが戻ってきた頃、玄関の方で車輪が止まった。

 

 ほどなく家令が顔を出した。

 

「旦那様がお戻りです」

 

 

 

 応接室へ入ったクラウスは、息子の顔を見て足を止めた。

 

「ずいぶん早い返書だな」

 

「書いているうちに、直接伺いたくなりました」

 

 アルベルトが立って礼をする。

 

 レオンハルトと真壁も続いた。

 

「ご厚意の打診については、改めてお祝い申し上げます。ただ、昨日、真壁殿と条件について考えました」

 

 クラウスは上着を脱いで家人へ渡した。

 

「祝いは、お受けすることになってからでよい。今日は何を聞きに来た」

 

 家令が茶を置き、退出した。

 

 アルベルトは控えを父へ差し出した。

 

「爵位だけなのか、所領の加増があるのか、今の領を替えるのか。まず、そこを伺いたくて」

 

 クラウスは座って文面を追った。

 

 読み終えても、クラウスは驚いた様子を見せなかった。

 

「私もその点を伺った。だが、何ひとつ明らかになっておらぬ」

 

「父上にも、ですか」

 

「今日、改めてお聞きしたところだ」

 

 アルベルトが真壁を見た。

 

 真壁は軽く頭を下げた。

 

「昨日、領地替えも可能性の1つとして申し上げました。私の推測で、不安を増やしたかもしれませんな」

 

「いや。この問いをせずに済ませる方が困る」

 

 クラウスは控えを卓上へ置いた。

 

「お受けした後で、話が違ったとは言えぬ」

 

「陛下は、何と仰せに?」

 

「『わしはあれが欲しいのだ』とな」

 

 アルベルトの手が止まった。

 

「……あれ、とは?」

 

「私にも分からぬ。聞き返しても、明言されなんだ」

 

 レオンハルトも、口を開きかけて閉じた。

 

 真壁はクラウスの表情を見た。

 

 言いにくいから伏せている、という顔ではない。

 

「では、陞爵のお話と、そのお言葉がどうつながるのかも」

 

「分からぬ」

 

 クラウスは息子の前で、もう一度同じ答えをした。

 

 アルベルトは筆を取り、問いの脇へ短く書き足した。

 

「保留でございますね」

 

「ああ。条件も聞かずに返事はできぬ」

 

 レオンハルトが背を正した。

 

「仮に所領に関わるのであれば、警備の引継ぎも必要です。兵団を移せば、今日ここを守る者が変わります」

 

「その通りだ」

 

 クラウスはうなずいた。

 

「兵だけではない。役人も、徴税も、畑の用事もある。新たな土地を預かるにせよ、今の土地を離れるにせよ、同じ手順では済まぬ」

 

「マールヴェイン方面の話も、父上抜きで進めるわけにはいきません」

 

「レヴァニアとの往来もな。引継ぎ先を決めずに、人だけ替えればよいものではない」

 

 アルベルトが持ってきた問いの末尾へ指を置いた。

 

 商会の名があった。

 

「こちらは、真壁殿と澪にも話してあります」

 

「二商会の返事まで、そなたがしたのではなかろうな」

 

「いたしません。正式な条件が出れば、その時に相談すると」

 

「よろしい」

 

 真壁は静かに口を挟んだ。

 

「領主が替われば、商売で伺う相手も変わります。ですが、私どもは今日も、今の約束で荷を出しております」

 

「止める必要はない」

 

「ありがとうございます」

 

 クラウスは茶を飲んだ。

 

「そもそも、今は引継ぎを考えるだけの話すら出ておらぬ」

 

 アルベルトは筆を置いた。

 

 持ってきた問いには答えが付かなかった。

 

 それでも、父が何を知らされずにいるかは分かった。

 

「父上。領の方は、今までどおり進めます。何かお受けになる前に、こちらの事情もお聞きください」

 

「そのために来たのであろう」

 

 クラウスの口元が、少しだけ緩んだ。

 

「覚えておく」

 

 真壁は、2人の話が途切れるのを待った。

 

 王の欲しいものを、ここで当てても仕方がない。

 

 もっと手前に、気になることがあった。

 

「宰相閣下。陛下は以前から、あのようなお方でしたかな」

 

 クラウスは持ち上げた茶杯を、そのまま止めた。

 

「どういう意味だ」

 

「ご説明を求めた時に、何も仰せにならず、お受けになることだけを求められる。以前もそうであったのか、伺いたいのです」

 

 アルベルトが父の顔を見た。

 

 クラウスは茶杯を置いた。

 

「元々は、それほど良くも悪くもない為政者だった」

 

 誰も笑わなかった。

 

「進言をすべてお聞きになるわけではない。ご不満もあった。だが、このところ、我を通すところが出てきてな」

 

「変わられたのは、いつ頃からですかな」

 

「断言はできぬ。気がつけば、以前なら聞いてくださった進言が通らなくなっていた」

 

「今日のお話だけではないのですね」

 

「ああ」

 

 クラウスが息をついた。

 

「私も、こちらの言い方が悪いのかと考えた。だが、何を変えればよいのかさえ分からぬ時がある」

 

 真壁は卓上の余った紙を1枚借りた。

 

 筆を取ってから、すぐには書かなかった。

 

「お歳による変化かもしれません」

 

「老い、か」

 

「可能性の1つです。あるいは、誰かの言葉に強く影響されている。暗示のようなものも、考えるだけならできますな」

 

 クラウスの眉が動いた。

 

「術の話をしているのか」

 

「それも含めて、です。情報や認識の境目に関わる境界魔術も、気になります。ただ、陛下の意思を変える術が使われたと申し上げているのではありません」

 

 3つの言葉を書いて、筆を置いた。

 

「それが陛下ご自身の変化なのか、何かに影響されているのか。まだ分かりませんな」

 

 レオンハルトは紙を見たが、手を伸ばさなかった。

 

「それを調べること自体、陛下を疑ったと取られませんか」

 

「取られかねません」

 

 真壁は答えた。

 

「ですから、私の思いつきを誰かの罪にはできない」

 

「この話は、ここだけにしておこう」

 

 クラウスが言った。

 

「アルベルト。今の3つは、領都へ持ち帰って触れて回ることではない」

 

「承知しております」

 

 アルベルトは自分の控えを畳んだ。

 

 真壁の書いた紙は、父の前に残した。

 

「陛下の普段のお身体や、政務でのお返事について、以前と比べられる方はいらっしゃいますかな」

 

「いる。今夜、その話を聞くことになっている」

 

「既にお手配でしたか」

 

「今日、王宮での話が終わってから頼んだ。そなたらが来ていると知る前だ」

 

 クラウスは息子へ向き直った。

 

「夕食は家令に用意させてある。持ってきた問いを、もう一度整理しておいてくれ。私から領都へ頼みたいことも、後で渡す」

 

「分かりました」

 

 アルベルトは席を立ち、父の私信を丁寧にしまった。

 

「父上が何も考えずにお喜びになっているのでなければ、それだけでも伺ってよかった」

 

「私を何だと思っておった」

 

「昨日は、そこまでは考えられませんでした」

 

 父が短く鼻を鳴らした。

 

 アルベルトも、ほんの少し笑った。

 

 レオンハルトは、帰路の出入手順を家令と打ち合わせるため、続いて退出した。

 

 扉が閉まると、クラウスが真壁を見た。

 

「そなたには、もう少し付き合ってもらいたい」

 

「承知いたしました」

 

 

 

 小さな応接室へ移ると、窓に映る灯りの位置が変わった。

 

 家令が3人分の茶を用意して、扉を閉める。

 

 クラウスは、まだ空いた椅子を見た。

 

「王宮の内に、私と同じ違和感を持っている者がいる」

 

「今夜お会いになる方ですな」

 

「ああ。宮中での務めが済むまで待ってもらっている」

 

 真壁はうなずいた。

 

 隣室から、食器を運ぶ音が聞こえた。

 

 しばらくして、家令が来訪を告げた。

 

 入ってきた男は、宮中で働く官吏の服を着ていた。

 

 外套の裾に、わずかな砂埃が付いている。

 

「遅くなりました」

 

「いや。急な頼みをしてすまぬ」

 

 男は真壁へ礼をした。

 

 椅子へ近づく前に、家令が退出した扉を一度見た。

 

「こちらが侍従次長だ」

 

 クラウスが紹介した。

 

「宮中の表の職だけではない。王宮の暗部を預かっておる」

 

 真壁は男へ、改めて礼を返した。

 

 相手は大げさに身構えず、静かに座った。

 

「押入商会の真壁でございます」

 

「お名前は伺っております」

 

「それは、どのように評されているものやら」

 

 侍従次長は微笑を返しただけだった。

 

 真壁も、それ以上は尋ねなかった。

 

「それは心強い。陛下の近頃のご様子について、お尋ねしたい」

 

「私どもも、以前との違いには気づいております。ただ、異常と申し上げる根拠がございません」

 

 用意してきた薄い控えが、卓上に置かれた。

 

 真壁は手を出さず、相手が開くのを待った。

 

「陛下が、一度お決めになったことを変えられない。そこにお気づきでしょうか」

 

「それもある」

 

 クラウスが答えた。

 

「以前なら、条件が違うと分かれば、お聞き直しになった。近頃は、その説明へ戻れぬことがある」

 

「私どもも、政務の後に伝えられる指示を見ています」

 

 侍従次長は指を1本、文面の脇へ置いた。

 

「最初の説明と、後から出された指示を比べました。過去の同じ案件へのご応対も、手元で追える範囲は調べています」

 

「何か分かったか」

 

「最近の方が、再検討を求めた者への返答は短くなっています。ただし、急を要する事情があったのか、説明した者に不備があったのか。それぞれに違います」

 

「短くなったことだけでは、決められませんな」

 

「はい。それに、筆記された言葉だけで、陛下のお気持ちは分かりません」

 

 侍従次長は控えを1枚めくった。

 

「近くに仕える者の話も聞いています。ですが、皆が同じ場にいるわけではありません。同じ返答でも、怒っておられたと聞いた者と、淡々としておられたと聞いた者がおります」

 

 真壁は、午前の王の声を聞いていない。

 

 クラウスの話から分かるのも、クラウスが受け取った印象までだった。

 

「今日のお言葉は、何かの手掛かりになりますかな」

 

 クラウスが、国王との問答を短く伝えた。

 

 侍従次長は最後まで聞き、すぐには筆を取らなかった。

 

「以前にも、同じ言葉を?」

 

「私が聞いたのは今日だ」

 

「では、そのように扱います。他の者の話と混ぜぬように」

 

 彼が書き留めたのは、王の言葉と、クラウスが聞き返した時の応答だった。

 

 何を欲しているか、という欄はなかった。

 

 真壁は、先ほどの紙を相手へ向けた。

 

「私から申し上げたのは、この3つです」

 

「老い、暗示、境界魔術」

 

 侍従次長は読み上げ、顔を上げた。

 

「魔術の働いた形跡を、ご存じなのでしょうか」

 

「いえ。私は陛下の状態を見ておりません」

 

「では、言動から考えられる可能性として」

 

「その通りです。どれか1つを選べるほどのものは、何もありませんな」

 

 男の指が、紙の角から離れた。

 

 真壁は続けた。

 

「暗部に《鑑定》持ちはいるかな?」

 

「はい、多くが持っています」

 

「陛下を鑑定した者はいますかな」

 

「その点は、まだ調べておりません。暗部の者に尋ねます」

 

「では、《鑑定》を持つ方に、陛下の現在の状態を見ていただきたい」

 

 侍従次長はうなずいた。

 

「承知いたしました。私どもで調べます」

 

「何か分かったら、私へ知らせてくれ」

 

 クラウスが言った。

 

「はい」

 

「以前の結果が残っていれば、それもお持ちいただけますかな。変わったところが見つかるかもしれません」

 

「結果は本人に書き写させます。以前のものがあれば、併せてお届けいたしましょう」

 

「ありがとうございます」

 

 侍従次長は、控えへ短く書き加えた。

 

 壁灯の芯が鳴った。

 

 侍従次長は、自分の控えへ書き足した箇所をもう一度読んだ。

 

「真壁殿。境界魔術について、1つ伺えますか」

 

「どうぞ」

 

「人の意思を、このように変える術をお考えなのですか」

 

「既に知っている術を、陛下へ当てはめているのではありません。情報や認識の境目に関わるものがある以上、専門の者なら別の問いを持つかもしれない。今は、その程度ですな」

 

「専門の者、ですか」

 

 クラウスが、かすかに姿勢を変えた。

 

 真壁はその動きに気づいたが、相手の顔を見る前に侍従次長へ答えた。

 

「《鑑定10》と《境界魔術10》を併せ持つ人間がおりましてな」

 

 筆が止まった。

 

「双方とも10でございますか」

 

「ええ」

 

 侍従次長は筆を置き、真壁を見た。

 

 今までとは、問いを待つ間が違った。

 

「その方へ、お話を伺うことはできますか」

 

「私から相談することはできます。短期間、王城に潜ってもらうことも考えられます。ただし、本人が望み、条件が整えばの話ですがね」

 

 クラウスの手が、茶杯から離れた。

 

「……真壁殿。後で少し、2人だけで話せぬか」

 

「もちろんです」

 

 侍従次長は、候補者の名前を尋ねなかった。

 

 代わりに、椅子へ掛け直した。

 

「お引き受けいただけたとして、どうお入りになるかが問題です」

 

「お勤めの口実を、ということですかな」

 

「口実だけでは足りません。立ち入る理由を私どもが説明できなければ、その方が見つかった時、お守りできません」

 

「それを、本人だけの落ち度にはできぬ」

 

 クラウスが言った。

 

「私から頼むなら、私にも責任がある」

 

 侍従次長はうなずいた。

 

「宮中では、出入りする相手も限られます。専門の術者であれば、既にお知り合いの方がいるかもしれません。その方に何を知らせてよいか、先に決めていただきたい」

 

「隠すべきところと、助けを頼む相手を分けねばなりませんな」

 

「はい。何かあった時、誰が退出を手助けするかも」

 

 クラウスは真壁を見た。

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 名前を伏せている今、相手には決められないこともある。

 

「その方が引き受けると、まだ申し上げてはおりません。今日のお話を伝え、その返事を聞いてからです」

 

「承知いたしました。こちらでも、受入れの支度を先に進めることはいたしません」

 

 侍従次長は、書いた控えを畳んだ。

 

「暗部の者に陛下を鑑定させます。政務上の変化も引き続き追います」

 

「頼む。この話を広げぬようにな」

 

「はい」

 

 男は立ち上がり、外套を腕へ掛けた。

 

 真壁へもう一度、礼をする。

 

「ご相談する相手がいることは、ありがたく存じます」

 

「答えをお持ちの方かどうかは、私にも分かりませんがね」

 

「私どもにない問いを持っておられるだけでも」

 

 侍従次長は、そこまで言って言葉を収めた。

 

 クラウスへ退室の礼をした後、家令に案内されて廊下を離れていった。

 

 足音が聞こえなくなっても、クラウスは口を開かなかった。

 

 真壁も、静かに待った。

 

 卓上に残ったのは、3つの可能性を書いた紙だった。

 

「先ほどの人物は、ヴァルト殿であろう」

 

「はい。ヴァルト君です」

 

 クラウスは目を閉じた。

 

「王都を去った者を、また王城へ入れるのか」

 

 真壁は答えを急がなかった。

 

 家令が茶を替えに入り、2人の間へ新しい茶杯を置いた。

 

 用が済むと、すぐに退出する。

 

 クラウスは湯気を見たまま、指を組んだ。

 

「あの者を王命で追わせぬと、私は約束した」

 

「承知しております」

 

「今も、その約束を変えるつもりはない」

 

「私にも、そのつもりはございません」

 

 クラウスが顔を上げた。

 

 真壁は背を椅子へ預けず、言葉を待った。

 

「そなたが知らぬ話がある」

 

「伺いましょう」

 

「王都の子どもたちの一件だ。ヴァルト殿はイザークと組んで、証拠を押さえた」

 

 真壁は一度うなずいた。

 

「保護された子どもたちのことは存じております。ただ、王都での詳しい経緯までは」

 

「私が命じたのではない。あの者が、自分で動いた」

 

 クラウスの声が、少し低くなった。

 

「セブル・ガルドンの一味から、20人を救い出した。子どもたちだけではない。売買の証文、帳面、荷札も押さえていた」

 

 共同商館の教室で、今その子どもたちが学んでいる。

 

 真壁が見ているのは、教室ができてからの姿だった。

 

 そこへ至った経緯を、この部屋で初めて聞いた。

 

「そこから、宰相府でも捜査を続けた。あの時押さえたものと、後から集めたものを突き合わせ、関わった者を追っていった」

 

 クラウスは指を組み直した。

 

「その後の捜査で、オルブライトを更迭できた。事件への介入も封じた」

 

 真壁は茶杯へ伸ばしかけた手を止めた。

 

「……あの一件が、オルブライトの更迭につながっていたとは、存じませんでしたな」

 

「表では、ヴァルト殿の名は出せぬ」

 

「そうでしょう」

 

「だが、宮廷では私の功績ということになっておる」

 

 クラウスは、脇に置かれた書類箱へ目をやった。

 

 封をしたままの箱へ、手は伸ばさない。

 

「私が救い、私が捜査を進め、私がオルブライトを退けた。そういう話だ」

 

「そういう経緯でございましたか」

 

「捜査を進めた者にも働きはある。そこを軽く見るつもりはない。だが、始めに動いてくれた者は、別にいる」

 

 真壁は黙って聞いた。

 

 クラウスの顔に、功績を譲りたいというだけの不満は見えなかった。

 

「ヴァルト殿は、私へ恩を売りに来たのではない」

 

「ええ」

 

「子どもを救うために動いた。その後で、私が助けられた」

 

 クラウスは茶杯を持ったが、飲まずに置き直した。

 

「今のあの者は、教師であろう」

 

「はい。共同商館の2階で教えております」

 

「22人だったな」

 

「はい」

 

「なぜ、また王城へ呼び戻さねばならぬ」

 

 真壁は、その問いを反論とは受け取らなかった。

 

 クラウスは自分に尋ねているようだった。

 

「陛下の様子が近頃おかしいから、潜って調べてほしい、か……」

 

 卓上の3つの言葉へ、宰相の目が戻る。

 

 真壁は紙を裏返さなかった。

 

 頼む理由も、危険も、そこにあった。

 

「閣下がお気に掛けておられることは、よく分かりました」

 

「分かったなら、他の者を探せとは言えぬのか」

 

「同じ力量の持ち主を、私はほかに存じません」

 

 クラウスは唇を結んだ。

 

 真壁は続けた。

 

「だからといって、ヴァルト君が引き受けねばならないとは思っておりません」

 

「そなたが頼めば、断りにくいのではないか」

 

 真壁の返事は、一拍遅れた。

 

 相手の能力を、役に立つものとして数えることは簡単だった。

 

 王宮へ入る理由も、出る方法も、手配できると思えば先へ進めたくなる。

 

 それでも、その間の時間を生きるのは、ヴァルトだった。

 

「そう思われぬ頼み方を、せねばなりませんな」

 

「私は、あの者にまた借りを作るのか」

 

「閣下のお気持ちは、よく分かりました」

 

「それならば……」

 

「そのことも含め、すべてヴァルト君にお伝えしましょう」

 

 クラウスが、口を閉じた。

 

「オルブライトの件も、閣下がためらっておられることも、ヴァルト君に借りがあると感じておられることも」

 

 真壁は相手を見た。

 

「そして、ヴァルト君の判断を聞きます」

 

 廊下の奥で、扉の開く音がした。

 

 誰かが隣の部屋へ入り、また静かになった。

 

「王を調べるのだ。何かあった時、退職した魔術師だったからで済む話ではない」

 

「その危険もお伝えします。先ほどの方がお引き受けになれることと、まだ決まっていないことも」

 

「教室はどうする」

 

「それも、本人に伺わなくては」

 

 クラウスは真壁をしばらく見ていた。

 

 やがて、組んでいた指をほどいた。

 

「……断ったなら、それまでだ。決して無理強いはするな」

 

「承知しております」

 

「断った理由まで、説明させる必要はない」

 

「ええ」

 

 真壁は立ち上がり、礼を整えた。

 

 クラウスの前に置いた紙は、そのまま残す。

 

 欲しいものの正体は、何ひとつ分からない。

 

 王が変わった理由も、これから尋ねる相手の返事も。

 

「ヴァルト君に会って参ります」

 

「明日か」

 

「授業の邪魔にならぬ時を見て、伺います」

 

 クラウスが小さくうなずいた。

 

 真壁は扉へ向かい、取っ手へ手を掛ける前に振り返った。

 

「閣下。ためらっておられたことも、省かずお伝えしますので」

 

 クラウスは、困ったように口元を動かした。

 

「そういうところまで、伝えなくともよかろうに」

 

「すべて、と申し上げましたからな」

 

 返事はなかった。

 

 だが、止められもしなかった。

 

 扉を開けると、廊下にはまだ灯りがあった。

 

 アルベルトとレオンハルトの待つ部屋から、低い話し声が聞こえてくる。

 

 真壁はそちらへ歩き出した。

 

 明日は、教室を訪ねる。

 

 その先を決めるのは、自分ではなかった。

 

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