押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第427話 侍従監査官ヨルド

 

「本日から、宮中の備品と設備の監査を担当する。侍従監査官のヨルド殿だ」

 

 侍従長の声に、並んでいた者たちが顔を上げた。

 

 ヴァルトは濃色の外套の襟を押さえ、一歩前へ出た。

 

 高い窓から入る春の光が、拭き上げられた床に伸びている。

 

 壁にはまだ、夜の冷えが残っていた。

 

「ヨルドです。よろしくお願いいたします」

 

 礼をすると、幾人かが静かに会釈を返した。

 

 知らぬ顔ばかりだ。

 

 少なくとも、今ここで名を呼びそうな者はいない。

 

「各担当は監査に協力するように。通常の用務との調整は、案内係を通すこと」

 

 侍従長が、女官たちの列へ目を向けた。

 

「メリル。案内と各部署への取次ぎを頼む」

 

「承知いたしました」

 

 若い女官が進み出た。

 

 すっと背筋が通り、整った顔立ちが朝の光に浮かぶ。

 

 髪も衣服も、働く時に邪魔にならないようまとめられていた。

 

 彼女は挨拶をしながら、隣の女官へ持っていた札を渡した。

 

「メリルと申します。よろしくお願いいたします、ヨルド様」

 

「こちらこそ。お世話になります」

 

 聞き慣れぬ名で呼ばれると、返事がわずかに遅れる。

 

 メリルは気にした様子もなく、手元の控えを開いた。

 

 朝礼が終わり、揃っていた列が解ける。

 

 袖が擦れ、靴音がいくつもの方向へ分かれた。

 

 ヴァルトはその中に、ヨルドとして立っていた。

 

 昨日のこの時刻には、まだ子どもたちの計算を見ていた。

 

 

 

 共同商館2階の教室では、ラウが年少の子の紙を覗き込んでいた。

 

「ここで、どうして引いたんだ?」

 

「残った数を出すから」

 

「何が残るんだ?」

 

 問われた子が、紙に描いた丸を指で追う。

 

 ヴァルトは答えを教えずに待った。

 

「配った方を引くんじゃなくて、配ってない方を……」

 

 言いかけた子が、手を止めた。

 

「同じ?」

 

「何と何が同じなのか、もう少し話してみよう」

 

 ヴァルトが促すと、子どもは最初の数へ指を戻した。

 

 窓の外では荷車が動いている。

 

 御者の掛け声が届き、教室の中の1人が一瞬そちらを見た。

 

 すぐに紙へ向き直る。

 

 扉の向こうに真壁が来たのは、その時だった。

 

 片手を上げたので、ヴァルトも小さくうなずいた。

 

 真壁は入ってこない。

 

 廊下で、窓の外へ顔を向けて待っている。

 

「つまり、配った後に残った数を出すんだ」

 

 子どもが言い直した。

 

「では、その式でよいね」

 

 ヴァルトはうなずき、ラウへも顔を向けた。

 

「答えを言わずに説明させたのは、よかった」

 

 ラウが、少し照れたように紙を揃えた。

 

 最後の問いを終え、片付けを告げる。

 

 22人分の椅子が動くと、いつもの教室の音になった。

 

 誰かが鉛筆を忘れかけ、別の子に呼び止められる。

 

 ヴァルトは、置き去りにされた計算用紙を持ち主へ返した。

 

 子どもたちが出ていくのを待って、真壁が戸口へ寄った。

 

「先生のお時間を拝借できるかな」

 

「授業が終わるまで待ってくれたんですね」

 

 ヴァルトは机の上を片付けた。

 

「今日は、生徒になりに来たわけではなさそうですね」

 

「私にも、教えていただきたいことはあるよ」

 

「それは、ここで話せることですか」

 

 真壁の笑みが、少しだけ薄くなった。

 

「2人の方がよい」

 

 ヴァルトは次の授業に使う教材を重ね、隣の小部屋へ案内した。

 

 

 

 扉を閉めても、遠くの荷役の声は聞こえた。

 

 ヴァルトは採点する紙を机の端へ置いた。

 

 真壁は手袋を外し、その向こうへ座る。

 

「昨日、宰相閣下に会ってきた。公爵への陞爵を、内々に打診されているそうだ」

 

「公爵に、ですか」

 

「ええ。ただ、まだお返事はなさっていない。条件が分からないそうだ」

 

 真壁は、公爵位の打診と、それについて王が説明を避けたことを伝えた。

 

 欲しいものがあるとだけ、王は口にしたという。

 

「わしはあれが欲しいのだ、と」

 

「あれ?」

 

「閣下にも分からない。聞き返しても、何を指すかは仰せにならなかった」

 

 ヴァルトは椅子へ掛け直した。

 

「そんなに、話の通じない方でしたか」

 

「閣下も、それを気にしておられた。以前なら聞き直したことでも、このところはご自分のお考えを通されるそうだ」

 

「最近になって変わった、ということですか」

 

「うむ。お歳による変化か、暗示のような影響か。それとも、境界に関わる魔術なのか」

 

 真壁がそこで言葉を切った。

 

「どれか分かったわけではないよ。私が考えた可能性だ」

 

「それで、私に?」

 

 真壁はうなずいた。

 

「君の《鑑定》と《境界》で、調べられることがないか相談したい」

 

「宰相閣下が私を?」

 

「そこへ返事をする前に、伝えておくことがある」

 

 ヴァルトは机の上へ出しかけた筆を戻した。

 

 真壁は、すぐに話を先へ進めなかった。

 

「君を王命で追わせないという約束は、今も変えるつもりがない。閣下はそう仰った」

 

「……そうですか」

 

 ヴァルトは、廊下へ続く扉を見た。

 

 子どもの足音が通り過ぎた。

 

 王都を離れた時には、その音を聞く生活が自分に来るとは思っていなかった。

 

「その約束をした相手に、また王城へ入ってほしいと頼む。それだけでも、閣下はためらっておられた」

 

「真壁さんが頼みに来たからといって、約束がなくなるわけではないのに」

 

「ええ。もう1つ、君に借りがあると感じておられる」

 

 ヴァルトは真壁へ向き直った。

 

「君とイザークが、王都で子どもたちを救い出した一件だ」

 

「あの時のことを、閣下が?」

 

「私も、政治的な後日談は昨夜初めて伺った。君たちが押さえた証文や帳面、荷札をもとに、その後も捜査が続いたそうだ」

 

 ヴァルトの目が、採点用の紙へ落ちた。

 

 救い出した20人は、今、地元の2人と一緒に学んでいる。

 

「オルブライト子爵を職務から更迭し、事件への介入も封じた。そこまで進められたそうだ」

 

「オルブライトを」

 

 初めて聞くことだった。

 

 ヴァルトは、しばらく黙った。

 

 イザークと押さえた物が、その後どこまで役に立ったのか。

 

 分からないまま、子どもたちの方を見て暮らしていた。

 

「宮廷では、それが閣下の功績として扱われている」

 

「私の名は、表に出せませんからね」

 

「そうだね。捜査を進めた人々にも働きはある。閣下は、それも話しておられた。ただ、最初に君が動いたことで自分が助けられたと」

 

 真壁は手袋へ手を置いた。

 

「君が恩を売るためにしたことではない。それも分かっておられる」

 

「それはそうですよ」

 

 ヴァルトは思わず返し、少しだけ口元を緩めた。

 

「子どもたちを、あそこへ置いてはおけませんでした」

 

「だからこそ、また君に頼むのをためらっておられた」

 

 真壁は、昨夜聞いた言葉を伝えた。

 

「断ったなら、それまでだ。理由を説明させる必要もない、と」

 

 ヴァルトは、紙に残る子どもの筆跡を見た。

 

 答えを書き直したところが、少し黒くなっている。

 

 最初に教室へ来た頃は、間違えたことを隠す子もいた。

 

 今は、考え直した跡をそのまま残してくれる。

 

「ずいぶん、気を遣わせてしまいましたね」

 

「私は、そのことも省かず伝えると約束した」

 

「真壁さんらしいですね」

 

 ヴァルトは紙を重ねた。

 

 閣下が借りと感じているから、その埋め合わせを引き受ける。

 

 そういう話ではない。

 

 教室の予定を開くと、明日以降に扱う問いが並んでいた。

 

 子どもたちに、自分で考えてもらうためのものもある。

 

「王城の境界は、以前、私が保守していました」

 

 真壁は静かに聞いていた。

 

「今、どうなっているのかは見ていません。陛下のおかしな言動と関わるかも分かりません」

 

 ヴァルトは、窓の外へ顔を向けた。

 

 商館の中庭を、荷車がゆっくり横切っている。

 

「でも、確かめたいんです」

 

 机へ向き直り、予定を畳んだ。

 

「行って確かめます」

 

 真壁の手が、手袋から離れた。

 

「閣下へ、君の返事を伝えよう」

 

「その前に、教室の方を整えてきます。留守の間は、この課題を進めてもらえますから」

 

 ヴァルトは教材と予定を持って立った。

 

 不在の間を課題学習に振り替えることを生徒と商館へ伝え、午後の移動までに仕事を片付けた。

 

 自分が戻って見なくてはならない紙を、机の上へ残していく。

 

 

 

 王都侯爵邸へは、真壁の《転移》で移った。

 

 到着したのは、以前から使われている安全な中継地点だった。

 

 廊下へ出ると、領都とは違う磨かれた木の匂いがした。

 

 その日のうちに、クラウスと侍従次長に会うことになった。

 

 人払いされた応接室で、ヴァルトはクラウスへ礼をした。

 

「ヴァルト殿。真壁殿から、どこまで聞いた」

 

「王命で私を追わせないというお約束も、オルブライトの件も伺いました」

 

 クラウスが、真壁へ目を向けた。

 

 真壁は、涼しい顔で受け止めている。

 

「閣下が私に借りを感じておられることも」

 

「……本当に、すべて話したのだな」

 

「そう申し上げましたので」

 

 真壁が答えた。

 

 ヴァルトは笑いそうになるのを収めて、クラウスへ向き直った。

 

「私は、教室へ戻るつもりで来ました。調べるために、自分で決めたことです」

 

 クラウスはしばらくその顔を見てから、うなずいた。

 

「無理に続ける必要はない」

 

「はい」

 

 侍従次長が、卓上へ衣装と封書を置いた。

 

 ヴァルトの素性については、本人の了承を得て、この場の者だけで共有した。

 

 宮中の職員へ伝える名は別だった。

 

「宮中では、侍従監査官ヨルドとして勤務します」

 

「ヨルド」

 

 ヴァルトは、用紙に書かれた名を読んだ。

 

「備品と設備の監査です。明朝、侍従長から紹介いたします」

 

 侍従次長が濃色の外套を広げた。

 

 高い襟と、髪をまとめる帽子が添えられている。

 

 鏡の前で身に着けると、見慣れた服より肩が堅く見えた。

 

 顔の出る角度も違う。

 

 それでも、マティアスと近くで会えば、これだけで分からなくなるとは思えなかった。

 

「案内は、宮廷女官のメリルに頼んであります。部署への取次ぎも彼女が行います」

 

 侍従長の承認、警備側への登録、必要な魔術検査の手配は、その日のうちに済んだ。

 

「こちらが最初の監査対象です」

 

 ヴァルトは控えを読み、最初に歩く区画を頭へ入れた。

 

 王の居室へ向かう仕事ではない。

 

 まずは、備品と設備を見る。

 

「侯爵邸へ伝えることがあれば、使いをお願いできますか」

 

「お取り次ぎいたします」

 

 侍従次長が答えた。

 

 真壁は王城へ同行せず、ここで待つという。

 

 話が終わると、クラウスと侍従次長はそれぞれの用務へ戻った。

 

 ヴァルトは鏡へ顔を寄せ、襟を少し直した。

 

「似合っていますか」

 

「先生には見えないね」

 

「なら、よかったです」

 

 真壁が手袋をはめた。

 

 芝居がかった声で、片手を差し出す。

 

「では、任務の成功を祈る。ボンド君」

 

 ヴァルトは笑った。

 

「また、インテリジェンス活動ですか。」

 

「今回は、よい案内役もいるそうだ」

 

「その点は、真壁さんより心強いかもしれませんね」

 

 差し出された手を短く握り、ヴァルトは離した。

 

 鏡に映る男へ、もう一度目を向けた。

 

 明日、この男はヨルドと呼ばれる。

 

 

 

「ヨルド様、最初は備品管理の区画からでよろしいでしょうか」

 

 メリルの声に、ヴァルトは顔を上げた。

 

 朝礼を終えた職員たちが、廊下へ出ていくところだった。

 

 彼女は、昨日渡された控えと同じ順序の予定を持っている。

 

「ええ。そちらからお願いします」

 

「管理人には来訪を伝えてあります。今のうちでしたら、出庫の用務と重なりません」

 

 メリルは、すぐには歩き出さなかった。

 

 横切る侍従の列を先に通し、空いた廊下へ向かう。

 

 ヴァルトも後に続いた。

 

 ここで働いていた頃とは、自分の歩く側が違った。

 

 女官に案内され、備品の監査へ行く。

 

 慣れた曲がり角でも、相手を追い越さないようにした。

 

「途中で、立ち止まりたい場所があるかもしれません」

 

「承知いたしました。お伝えいただければ、先方の用務と合わせます」

 

 メリルは立ち止まり、通路の脇へ身を寄せた。

 

 掃除用の道具を運ぶ者が、2人の間を抜けていく。

 

 彼女は、その先にいる担当者へ短く声を掛けた。

 

 返事を待つ間に、控えを必要な頁へ開いている。

 

「お待たせいたしました。こちらです」

 

 扉の前で紹介を済ませると、管理人が中へ招いた。

 

 部屋には細かな備品の棚が並んでいた。

 

 留め具、木製の台、使われなくなった金属の取っ手。

 

 窓の近くにだけ、春の光が差している。

 

「修繕に回すものは、奥へ分けております」

 

 管理人が説明を始めた。

 

 ヴァルトは、その話を聞きながら棚を見た。

 

 メリルは持ち出す監査用紙を取りに、いったん隣の空いた部屋へ戻った。

 

 

 

 監査用紙を揃えたメリルは、綴じ具の留まりが甘いことに気づいた。

 

 金具へ《鑑定》を使うと、噛み合う部分が摩耗していた。

 

 交換用の綴じ具を取り、持ち歩いても紙が抜けないように留め直す。

 

 王宮暗部に属する彼女には、新任監査官の案内とは別の報告先もあった。

 

 ヨルドの容姿と役割は侍従次長から聞いており、会った男も説明と一致していたため、本人を鑑定する必要は感じなかった。

 

 ただし、その男がかつて誰だったかは知らない。

 

 名を聞いたのも、紹介されたのも、ヨルドだった。

 

 メリルは女官の控えを閉じ、備品室へ戻った。

 

 

 

 ヴァルトは、管理人から渡された小さな金属製の留め具を調べていた。

 

 摩耗した部分はあったが、割れてはいない。

 

 《鑑定》で見た材質を、紙へ短く書き写す。

 

 次の1つを取ろうとして、手を止めた。

 

 今の結果には、状態の項目が出ていなかった。

 

 留め具を裏返し、もう一度見る。

 

 やはり欠けている。

 

「何かございましたか」

 

 戻ってきたメリルが尋ねた。

 

「こちらでは、修繕を要するものだけを置いているのですか」

 

「いえ」

 

 管理人が答えた。

 

「未使用のものもあります。そこは予備です」

 

 ヴァルトは隣の箱から、別の留め具を借りた。

 

 こちらも同じだった。

 

 名称と材質は見える。

 

 だが、状態についての情報が欠けている。

 

 金属の表面を、窓からの光が滑った。

 

「この2つを、向こうへ持っていってもよろしいでしょうか」

 

 ヴァルトが指したのは、隣の区画にある作業台だった。

 

 メリルが管理人へ目を向ける。

 

「戻す物が分かるようにいたします」

 

「ええ。それでしたら」

 

 管理人が小さな箱を出した。

 

 2つを入れて、作業台まで運ぶ。

 

 そこで《鑑定》を使うと、先ほど欠けていた項目が現れた。

 

 摩耗した方と、未使用の方の状態も違う。

 

 ヴァルトは、紙を1枚加えた。

 

「こちらでは、読めますね」

 

「場所を変えたから、でしょうか」

 

 メリルは、彼の書いた紙を見ていた。

 

 ヴァルトに見える表示を、彼女が覗き込んでいるわけではない。

 

「戻してみましょう」

 

 同じ箱を、同じ棚の前へ運んだ。

 

 結果から、再び状態の情報が欠けた。

 

 箱の置き方を変えても、留め具を入れ替えても同じだった。

 

 窓の光の下で、管理人が首を傾げる。

 

「物が、悪いのですか」

 

「備品の問題なら、場所を変えても同じはずです」

 

 ヴァルトは2つを並べた。

 

「磨いたわけでも、直したわけでもありません。運んで、戻しただけです」

 

 メリルが紙を揃え、作業台で書いたものを右へ置いた。

 

 棚の前で書いたものを、その隣に並べる。

 

 同じ物について、空いているところが違っていた。

 

「この部屋で、ほかにも調べたいところがあります」

 

 ヴァルトは留め具から手を離した。

 

 調べるべきものは、棚の中だけではなさそうだった。

 

 

 

 備品室を出ると、廊下の石床がひんやりしていた。

 

 ヴァルトは、曲がり角の手前で足を止めた。

 

 ここは、境界の系統が分かれるところだ。

 

 以前、保守に来た時の構成を思い出す。

 

 その時の状態が、今も続いているとは限らない。

 

 《境界》を使って、目の前の結節点を調べた。

 

 人が通る時の条件とは別に、保守のために設けられた接続がある。

 

 その境目の一部が、きちんと閉じていなかった。

 

 幅広く開いているのではない。

 

 必要な時にだけ通すはずのところが、緩んでいる。

 

「ヨルド様?」

 

「この継ぎ目も、監査に加えてください」

 

 メリルが控えへ書き足した。

 

「設備の不具合ですか」

 

「まだ1か所です。次も見たい」

 

 通り過ぎる女官たちを待ち、2人は次の廊下へ移った。

 

 日の差す窓の前では、職員が布を畳んでいる。

 

 ヴァルトはその用務が済んだところで、仕切り扉の脇へ立った。

 

 2つ目の結節点にも、似た緩みがあった。

 

 少し離れた別の継ぎ目は、閉じている。

 

 ヴァルトは2つを比べ、図面へ位置を書き込んだ。

 

 その先の曲がり角で、3つ目を見つけた。

 

「うわぁ、境界の節々に穴がある。」

 

 思わず、小さな声が漏れた。

 

「穴、ですか?」

 

 メリルが石壁を見た。

 

 表面には、割れも隙間もない。

 

「ええ。結界の継ぎ目が、いくつか不安定になっています」

 

 ヴァルトは声を落ち着けた。

 

「この壁を、物が通り抜けるという意味ではありません。魔術の側の通過条件です」

 

「先ほどの備品室のことも、それで?」

 

「関係するかもしれません。ですが、それはまだ分かりません」

 

 閉じるべきところは、分かる。

 

 だが、すぐに修復するのはやめた。

 

 どうして複数の場所が同じように緩んでいるのか。

 

 何とつながっているのか。

 

 閉じる前に、見ておきたかった。

 

 メリルが図面を支え、ヴァルトは調べた地点を順に印した。

 

 無関係に見えた曲がり角と、備品室の近くの継ぎ目。

 

 線を辿ると、旧来の保守系統の一部に沿っていた。

 

 他の系統では、同じ緩みは見つかっていない。

 

「この辺りに、最近入った設備はありますか」

 

「担当に聞きます。魔道具の入替えでしたら、控えがあります」

 

「その前に、侍従次長へ今の状態を伝えたいんです」

 

「承知いたしました」

 

 メリルは通路の担当者を呼んだ。

 

 点検した継ぎ目の場所を、設備監査の不具合として伝える。

 

 国王のことは、一言も口にしなかった。

 

 付近の点検を続けているうちに、メリルの取り次いだ報告を受けて侍従次長が来た。

 

 ヴァルトが差し出した図面と転記を並べて見る。

 

「同じ留め具を動かしたのですね」

 

「はい。ここでは欠け、こちらでは読めました。元へ戻すと、また欠けます」

 

 ヴァルトが指す2つの地点を、侍従次長が追った。

 

「境界については、この印の箇所に同じような綻びがあります」

 

「どこかから侵入されたということでしょうか」

 

「今の段階では、何が通るかも、通ったかも分かりません。ただ、継ぎ目がこうなっている理由を知りたい」

 

 侍従次長は図面を戻した。

 

「調査を続けてください。必要な部署には、私から話を通します」

 

 ヴァルトはうなずいた。

 

 向かう先が、少しずつ絞れてきていた。

 

 

 

 昼過ぎの管理区画には、綴じた台帳が運ばれてきた。

 

 担当官が机へ置き、対象となる廊下と備品室の分を開いた。

 

 ヴァルトは、その書式を覚えていた。

 

 更新されたものを追えばよい。

 

 だが、魔道具の入替えだけでは、気になる接続へ行き当たらなかった。

 

 古いものをそのまま使っている区画もある。

 

 担当官が、首をひねった。

 

「大きな設備は替えておりません。修繕も、こちらにある分です」

 

 ヴァルトは図面へ戻った。

 

 綻びのある系統は、この区画で終わっていない。

 

 その先には、調度品の置かれた場所があった。

 

「設備として入ったものだけを見ていましたね」

 

「はい。魔道具はこちらです」

 

「献上品は、別ですか」

 

「美術品や調度は、別の帳面にございます」

 

 ヴァルトはメリルへ顔を向けた。

 

「魔道具の台帳だけでなく、献上品も確かめたいんです」

 

 メリルは図面の先を見た。

 

「この系統にある区画へ入ったものですね」

 

「ええ。まず、そこを」

 

 彼女が取次ぎを済ませ、別の担当者が帳面を持ってきた。

 

 椅子も、飾り棚も、壁に掛ける織物も入っている。

 

 高価そうな品名を読むたびに、ヴァルトは置かれた場所を図面で確かめた。

 

 違う系統のものは、脇へ分ける。

 

 残した品には、普通の家具も多かった。

 

 ある頁で、指が止まる。

 

 王国全図を表した卓上地図儀。

 

 受領した印があり、設置場所も記されていた。

 

 ちょうど、綻びを辿った先の区画だった。

 

「これは、どのようなものですか」

 

「天球儀のような輪を使った細工です。王国の地図を、卓上で見られるようにしてあります」

 

「魔道具としては、扱われていないのですね」

 

「美術品として受け入れております」

 

 ヴァルトは品名と置き場所を書き取った。

 

 帳面だけでは、中がどうなっているかは分からない。

 

 ただ、見に行く物ができた。

 

 メリルが受領番号の控えを持ち、侍従次長へ取次ぎを頼んだ。

 

 ほどなく、調度品区画への案内が整った。

 

「現物を見て、今の図面と比べてください」

 

 侍従次長の伝言は、それだけだった。

 

 ヴァルトは借りた帳面を返し、控えと図面を持って立った。

 

 

 

「こちらが、記録にあった地図儀です」

 

 メリルが示した展示台へ、窓からの光が当たっていた。

 

 真鍮の細い輪が重なり、その内側に地名を刻んだ盤がある。

 

 輪の影が、台座の上へ幾重にも落ちていた。

 

 ヴァルトは、まず受領番号を比べた。

 

 帳面で見た物と、目の前の物は同じだった。

 

 近くへ寄ると、細工の丁寧さがよく分かる。

 

 地名を刻む文字は小さいが、潰れていない。

 

 輪を支える接合も目立たず、見る方向によって盤の印象が変わった。

 

「見事ですね」

 

「はい。ご覧になる方も、まず細工をお褒めになります」

 

 立ち会った係官が答えた。

 

 ヴァルトはうなずき、目を台座へ下ろした。

 

 底へ近づくにつれ、光の当たり方が変わる。

 

 外周の接合部に、わずかな工具の跡があった。

 

 それだけなら、作る時に付いたものかもしれない。

 

 ヴァルトは触れずに、展示台の周囲を歩いた。

 

 《鑑定》で読める部分を控え、《境界》で台座の近くを調べる。

 

 そこに、保守用の接続に似た形があった。

 

 輪や盤の装飾とは違う。

 

 床側の系統から、台座の付近へ向かっている。

 

 ヴァルトは膝を少し曲げ、見える位置を変えた。

 

 図面で辿ったものが、ここで終わるように見えた。

 

「台座に、何かございますか」

 

 メリルが尋ねた。

 

「美術品ですが、設備として見ても気になる部分があります」

 

「壊れているのでしょうか」

 

 係官の声が固くなった。

 

「まだ、そこまでは分かりません。見た目の傷を調べているだけではないんです」

 

 ヴァルトは姿勢を戻した。

 

 綻びの形と、台座の付近の接続。

 

 似ているところはあった。

 

 だが、それが何のためのものなのかは、外から見ただけでは言えない。

 

 輪へ手を伸ばしかけ、やめた。

 

 ここで持ち上げれば、接続の状態も変わるかもしれなかった。

 

「台座の内部を調べるため、もう少し時間をいただけますか」

 

「点検の手配をいたします」

 

 メリルは、控えを開いた。

 

「今日はこの位置のまま、保管するよう伝えてよろしいでしょうか」

 

「お願いします。場所を変えず、輪も動かさずに」

 

 係官が展示台の脇へ寄った。

 

 今度は、美しい細工より下を見ている。

 

 ヴァルトは侍従次長への報告に、内部点検を求める旨を書き加えた。

 

 これまで見つけた綻びと、地図儀の台座にある接続を並べる。

 

 メリルがその紙を受け取り、取次ぎへ渡した。

 

 ヴァルトは、もう一度展示台を見た。

 

 誰も、門を破って持ち込んだのではない。

 

 受領され、名を記され、ここへ置かれている。

 

 きれいな輪の影が、台座へ落ちていた。

 

 次に見るべきところは、その影の下だった。

 

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