「本日から、宮中の備品と設備の監査を担当する。侍従監査官のヨルド殿だ」
侍従長の声に、並んでいた者たちが顔を上げた。
ヴァルトは濃色の外套の襟を押さえ、一歩前へ出た。
高い窓から入る春の光が、拭き上げられた床に伸びている。
壁にはまだ、夜の冷えが残っていた。
「ヨルドです。よろしくお願いいたします」
礼をすると、幾人かが静かに会釈を返した。
知らぬ顔ばかりだ。
少なくとも、今ここで名を呼びそうな者はいない。
「各担当は監査に協力するように。通常の用務との調整は、案内係を通すこと」
侍従長が、女官たちの列へ目を向けた。
「メリル。案内と各部署への取次ぎを頼む」
「承知いたしました」
若い女官が進み出た。
すっと背筋が通り、整った顔立ちが朝の光に浮かぶ。
髪も衣服も、働く時に邪魔にならないようまとめられていた。
彼女は挨拶をしながら、隣の女官へ持っていた札を渡した。
「メリルと申します。よろしくお願いいたします、ヨルド様」
「こちらこそ。お世話になります」
聞き慣れぬ名で呼ばれると、返事がわずかに遅れる。
メリルは気にした様子もなく、手元の控えを開いた。
朝礼が終わり、揃っていた列が解ける。
袖が擦れ、靴音がいくつもの方向へ分かれた。
ヴァルトはその中に、ヨルドとして立っていた。
昨日のこの時刻には、まだ子どもたちの計算を見ていた。
共同商館2階の教室では、ラウが年少の子の紙を覗き込んでいた。
「ここで、どうして引いたんだ?」
「残った数を出すから」
「何が残るんだ?」
問われた子が、紙に描いた丸を指で追う。
ヴァルトは答えを教えずに待った。
「配った方を引くんじゃなくて、配ってない方を……」
言いかけた子が、手を止めた。
「同じ?」
「何と何が同じなのか、もう少し話してみよう」
ヴァルトが促すと、子どもは最初の数へ指を戻した。
窓の外では荷車が動いている。
御者の掛け声が届き、教室の中の1人が一瞬そちらを見た。
すぐに紙へ向き直る。
扉の向こうに真壁が来たのは、その時だった。
片手を上げたので、ヴァルトも小さくうなずいた。
真壁は入ってこない。
廊下で、窓の外へ顔を向けて待っている。
「つまり、配った後に残った数を出すんだ」
子どもが言い直した。
「では、その式でよいね」
ヴァルトはうなずき、ラウへも顔を向けた。
「答えを言わずに説明させたのは、よかった」
ラウが、少し照れたように紙を揃えた。
最後の問いを終え、片付けを告げる。
22人分の椅子が動くと、いつもの教室の音になった。
誰かが鉛筆を忘れかけ、別の子に呼び止められる。
ヴァルトは、置き去りにされた計算用紙を持ち主へ返した。
子どもたちが出ていくのを待って、真壁が戸口へ寄った。
「先生のお時間を拝借できるかな」
「授業が終わるまで待ってくれたんですね」
ヴァルトは机の上を片付けた。
「今日は、生徒になりに来たわけではなさそうですね」
「私にも、教えていただきたいことはあるよ」
「それは、ここで話せることですか」
真壁の笑みが、少しだけ薄くなった。
「2人の方がよい」
ヴァルトは次の授業に使う教材を重ね、隣の小部屋へ案内した。
扉を閉めても、遠くの荷役の声は聞こえた。
ヴァルトは採点する紙を机の端へ置いた。
真壁は手袋を外し、その向こうへ座る。
「昨日、宰相閣下に会ってきた。公爵への陞爵を、内々に打診されているそうだ」
「公爵に、ですか」
「ええ。ただ、まだお返事はなさっていない。条件が分からないそうだ」
真壁は、公爵位の打診と、それについて王が説明を避けたことを伝えた。
欲しいものがあるとだけ、王は口にしたという。
「わしはあれが欲しいのだ、と」
「あれ?」
「閣下にも分からない。聞き返しても、何を指すかは仰せにならなかった」
ヴァルトは椅子へ掛け直した。
「そんなに、話の通じない方でしたか」
「閣下も、それを気にしておられた。以前なら聞き直したことでも、このところはご自分のお考えを通されるそうだ」
「最近になって変わった、ということですか」
「うむ。お歳による変化か、暗示のような影響か。それとも、境界に関わる魔術なのか」
真壁がそこで言葉を切った。
「どれか分かったわけではないよ。私が考えた可能性だ」
「それで、私に?」
真壁はうなずいた。
「君の《鑑定》と《境界》で、調べられることがないか相談したい」
「宰相閣下が私を?」
「そこへ返事をする前に、伝えておくことがある」
ヴァルトは机の上へ出しかけた筆を戻した。
真壁は、すぐに話を先へ進めなかった。
「君を王命で追わせないという約束は、今も変えるつもりがない。閣下はそう仰った」
「……そうですか」
ヴァルトは、廊下へ続く扉を見た。
子どもの足音が通り過ぎた。
王都を離れた時には、その音を聞く生活が自分に来るとは思っていなかった。
「その約束をした相手に、また王城へ入ってほしいと頼む。それだけでも、閣下はためらっておられた」
「真壁さんが頼みに来たからといって、約束がなくなるわけではないのに」
「ええ。もう1つ、君に借りがあると感じておられる」
ヴァルトは真壁へ向き直った。
「君とイザークが、王都で子どもたちを救い出した一件だ」
「あの時のことを、閣下が?」
「私も、政治的な後日談は昨夜初めて伺った。君たちが押さえた証文や帳面、荷札をもとに、その後も捜査が続いたそうだ」
ヴァルトの目が、採点用の紙へ落ちた。
救い出した20人は、今、地元の2人と一緒に学んでいる。
「オルブライト子爵を職務から更迭し、事件への介入も封じた。そこまで進められたそうだ」
「オルブライトを」
初めて聞くことだった。
ヴァルトは、しばらく黙った。
イザークと押さえた物が、その後どこまで役に立ったのか。
分からないまま、子どもたちの方を見て暮らしていた。
「宮廷では、それが閣下の功績として扱われている」
「私の名は、表に出せませんからね」
「そうだね。捜査を進めた人々にも働きはある。閣下は、それも話しておられた。ただ、最初に君が動いたことで自分が助けられたと」
真壁は手袋へ手を置いた。
「君が恩を売るためにしたことではない。それも分かっておられる」
「それはそうですよ」
ヴァルトは思わず返し、少しだけ口元を緩めた。
「子どもたちを、あそこへ置いてはおけませんでした」
「だからこそ、また君に頼むのをためらっておられた」
真壁は、昨夜聞いた言葉を伝えた。
「断ったなら、それまでだ。理由を説明させる必要もない、と」
ヴァルトは、紙に残る子どもの筆跡を見た。
答えを書き直したところが、少し黒くなっている。
最初に教室へ来た頃は、間違えたことを隠す子もいた。
今は、考え直した跡をそのまま残してくれる。
「ずいぶん、気を遣わせてしまいましたね」
「私は、そのことも省かず伝えると約束した」
「真壁さんらしいですね」
ヴァルトは紙を重ねた。
閣下が借りと感じているから、その埋め合わせを引き受ける。
そういう話ではない。
教室の予定を開くと、明日以降に扱う問いが並んでいた。
子どもたちに、自分で考えてもらうためのものもある。
「王城の境界は、以前、私が保守していました」
真壁は静かに聞いていた。
「今、どうなっているのかは見ていません。陛下のおかしな言動と関わるかも分かりません」
ヴァルトは、窓の外へ顔を向けた。
商館の中庭を、荷車がゆっくり横切っている。
「でも、確かめたいんです」
机へ向き直り、予定を畳んだ。
「行って確かめます」
真壁の手が、手袋から離れた。
「閣下へ、君の返事を伝えよう」
「その前に、教室の方を整えてきます。留守の間は、この課題を進めてもらえますから」
ヴァルトは教材と予定を持って立った。
不在の間を課題学習に振り替えることを生徒と商館へ伝え、午後の移動までに仕事を片付けた。
自分が戻って見なくてはならない紙を、机の上へ残していく。
王都侯爵邸へは、真壁の《転移》で移った。
到着したのは、以前から使われている安全な中継地点だった。
廊下へ出ると、領都とは違う磨かれた木の匂いがした。
その日のうちに、クラウスと侍従次長に会うことになった。
人払いされた応接室で、ヴァルトはクラウスへ礼をした。
「ヴァルト殿。真壁殿から、どこまで聞いた」
「王命で私を追わせないというお約束も、オルブライトの件も伺いました」
クラウスが、真壁へ目を向けた。
真壁は、涼しい顔で受け止めている。
「閣下が私に借りを感じておられることも」
「……本当に、すべて話したのだな」
「そう申し上げましたので」
真壁が答えた。
ヴァルトは笑いそうになるのを収めて、クラウスへ向き直った。
「私は、教室へ戻るつもりで来ました。調べるために、自分で決めたことです」
クラウスはしばらくその顔を見てから、うなずいた。
「無理に続ける必要はない」
「はい」
侍従次長が、卓上へ衣装と封書を置いた。
ヴァルトの素性については、本人の了承を得て、この場の者だけで共有した。
宮中の職員へ伝える名は別だった。
「宮中では、侍従監査官ヨルドとして勤務します」
「ヨルド」
ヴァルトは、用紙に書かれた名を読んだ。
「備品と設備の監査です。明朝、侍従長から紹介いたします」
侍従次長が濃色の外套を広げた。
高い襟と、髪をまとめる帽子が添えられている。
鏡の前で身に着けると、見慣れた服より肩が堅く見えた。
顔の出る角度も違う。
それでも、マティアスと近くで会えば、これだけで分からなくなるとは思えなかった。
「案内は、宮廷女官のメリルに頼んであります。部署への取次ぎも彼女が行います」
侍従長の承認、警備側への登録、必要な魔術検査の手配は、その日のうちに済んだ。
「こちらが最初の監査対象です」
ヴァルトは控えを読み、最初に歩く区画を頭へ入れた。
王の居室へ向かう仕事ではない。
まずは、備品と設備を見る。
「侯爵邸へ伝えることがあれば、使いをお願いできますか」
「お取り次ぎいたします」
侍従次長が答えた。
真壁は王城へ同行せず、ここで待つという。
話が終わると、クラウスと侍従次長はそれぞれの用務へ戻った。
ヴァルトは鏡へ顔を寄せ、襟を少し直した。
「似合っていますか」
「先生には見えないね」
「なら、よかったです」
真壁が手袋をはめた。
芝居がかった声で、片手を差し出す。
「では、任務の成功を祈る。ボンド君」
ヴァルトは笑った。
「また、インテリジェンス活動ですか。」
「今回は、よい案内役もいるそうだ」
「その点は、真壁さんより心強いかもしれませんね」
差し出された手を短く握り、ヴァルトは離した。
鏡に映る男へ、もう一度目を向けた。
明日、この男はヨルドと呼ばれる。
「ヨルド様、最初は備品管理の区画からでよろしいでしょうか」
メリルの声に、ヴァルトは顔を上げた。
朝礼を終えた職員たちが、廊下へ出ていくところだった。
彼女は、昨日渡された控えと同じ順序の予定を持っている。
「ええ。そちらからお願いします」
「管理人には来訪を伝えてあります。今のうちでしたら、出庫の用務と重なりません」
メリルは、すぐには歩き出さなかった。
横切る侍従の列を先に通し、空いた廊下へ向かう。
ヴァルトも後に続いた。
ここで働いていた頃とは、自分の歩く側が違った。
女官に案内され、備品の監査へ行く。
慣れた曲がり角でも、相手を追い越さないようにした。
「途中で、立ち止まりたい場所があるかもしれません」
「承知いたしました。お伝えいただければ、先方の用務と合わせます」
メリルは立ち止まり、通路の脇へ身を寄せた。
掃除用の道具を運ぶ者が、2人の間を抜けていく。
彼女は、その先にいる担当者へ短く声を掛けた。
返事を待つ間に、控えを必要な頁へ開いている。
「お待たせいたしました。こちらです」
扉の前で紹介を済ませると、管理人が中へ招いた。
部屋には細かな備品の棚が並んでいた。
留め具、木製の台、使われなくなった金属の取っ手。
窓の近くにだけ、春の光が差している。
「修繕に回すものは、奥へ分けております」
管理人が説明を始めた。
ヴァルトは、その話を聞きながら棚を見た。
メリルは持ち出す監査用紙を取りに、いったん隣の空いた部屋へ戻った。
監査用紙を揃えたメリルは、綴じ具の留まりが甘いことに気づいた。
金具へ《鑑定》を使うと、噛み合う部分が摩耗していた。
交換用の綴じ具を取り、持ち歩いても紙が抜けないように留め直す。
王宮暗部に属する彼女には、新任監査官の案内とは別の報告先もあった。
ヨルドの容姿と役割は侍従次長から聞いており、会った男も説明と一致していたため、本人を鑑定する必要は感じなかった。
ただし、その男がかつて誰だったかは知らない。
名を聞いたのも、紹介されたのも、ヨルドだった。
メリルは女官の控えを閉じ、備品室へ戻った。
ヴァルトは、管理人から渡された小さな金属製の留め具を調べていた。
摩耗した部分はあったが、割れてはいない。
《鑑定》で見た材質を、紙へ短く書き写す。
次の1つを取ろうとして、手を止めた。
今の結果には、状態の項目が出ていなかった。
留め具を裏返し、もう一度見る。
やはり欠けている。
「何かございましたか」
戻ってきたメリルが尋ねた。
「こちらでは、修繕を要するものだけを置いているのですか」
「いえ」
管理人が答えた。
「未使用のものもあります。そこは予備です」
ヴァルトは隣の箱から、別の留め具を借りた。
こちらも同じだった。
名称と材質は見える。
だが、状態についての情報が欠けている。
金属の表面を、窓からの光が滑った。
「この2つを、向こうへ持っていってもよろしいでしょうか」
ヴァルトが指したのは、隣の区画にある作業台だった。
メリルが管理人へ目を向ける。
「戻す物が分かるようにいたします」
「ええ。それでしたら」
管理人が小さな箱を出した。
2つを入れて、作業台まで運ぶ。
そこで《鑑定》を使うと、先ほど欠けていた項目が現れた。
摩耗した方と、未使用の方の状態も違う。
ヴァルトは、紙を1枚加えた。
「こちらでは、読めますね」
「場所を変えたから、でしょうか」
メリルは、彼の書いた紙を見ていた。
ヴァルトに見える表示を、彼女が覗き込んでいるわけではない。
「戻してみましょう」
同じ箱を、同じ棚の前へ運んだ。
結果から、再び状態の情報が欠けた。
箱の置き方を変えても、留め具を入れ替えても同じだった。
窓の光の下で、管理人が首を傾げる。
「物が、悪いのですか」
「備品の問題なら、場所を変えても同じはずです」
ヴァルトは2つを並べた。
「磨いたわけでも、直したわけでもありません。運んで、戻しただけです」
メリルが紙を揃え、作業台で書いたものを右へ置いた。
棚の前で書いたものを、その隣に並べる。
同じ物について、空いているところが違っていた。
「この部屋で、ほかにも調べたいところがあります」
ヴァルトは留め具から手を離した。
調べるべきものは、棚の中だけではなさそうだった。
備品室を出ると、廊下の石床がひんやりしていた。
ヴァルトは、曲がり角の手前で足を止めた。
ここは、境界の系統が分かれるところだ。
以前、保守に来た時の構成を思い出す。
その時の状態が、今も続いているとは限らない。
《境界》を使って、目の前の結節点を調べた。
人が通る時の条件とは別に、保守のために設けられた接続がある。
その境目の一部が、きちんと閉じていなかった。
幅広く開いているのではない。
必要な時にだけ通すはずのところが、緩んでいる。
「ヨルド様?」
「この継ぎ目も、監査に加えてください」
メリルが控えへ書き足した。
「設備の不具合ですか」
「まだ1か所です。次も見たい」
通り過ぎる女官たちを待ち、2人は次の廊下へ移った。
日の差す窓の前では、職員が布を畳んでいる。
ヴァルトはその用務が済んだところで、仕切り扉の脇へ立った。
2つ目の結節点にも、似た緩みがあった。
少し離れた別の継ぎ目は、閉じている。
ヴァルトは2つを比べ、図面へ位置を書き込んだ。
その先の曲がり角で、3つ目を見つけた。
「うわぁ、境界の節々に穴がある。」
思わず、小さな声が漏れた。
「穴、ですか?」
メリルが石壁を見た。
表面には、割れも隙間もない。
「ええ。結界の継ぎ目が、いくつか不安定になっています」
ヴァルトは声を落ち着けた。
「この壁を、物が通り抜けるという意味ではありません。魔術の側の通過条件です」
「先ほどの備品室のことも、それで?」
「関係するかもしれません。ですが、それはまだ分かりません」
閉じるべきところは、分かる。
だが、すぐに修復するのはやめた。
どうして複数の場所が同じように緩んでいるのか。
何とつながっているのか。
閉じる前に、見ておきたかった。
メリルが図面を支え、ヴァルトは調べた地点を順に印した。
無関係に見えた曲がり角と、備品室の近くの継ぎ目。
線を辿ると、旧来の保守系統の一部に沿っていた。
他の系統では、同じ緩みは見つかっていない。
「この辺りに、最近入った設備はありますか」
「担当に聞きます。魔道具の入替えでしたら、控えがあります」
「その前に、侍従次長へ今の状態を伝えたいんです」
「承知いたしました」
メリルは通路の担当者を呼んだ。
点検した継ぎ目の場所を、設備監査の不具合として伝える。
国王のことは、一言も口にしなかった。
付近の点検を続けているうちに、メリルの取り次いだ報告を受けて侍従次長が来た。
ヴァルトが差し出した図面と転記を並べて見る。
「同じ留め具を動かしたのですね」
「はい。ここでは欠け、こちらでは読めました。元へ戻すと、また欠けます」
ヴァルトが指す2つの地点を、侍従次長が追った。
「境界については、この印の箇所に同じような綻びがあります」
「どこかから侵入されたということでしょうか」
「今の段階では、何が通るかも、通ったかも分かりません。ただ、継ぎ目がこうなっている理由を知りたい」
侍従次長は図面を戻した。
「調査を続けてください。必要な部署には、私から話を通します」
ヴァルトはうなずいた。
向かう先が、少しずつ絞れてきていた。
昼過ぎの管理区画には、綴じた台帳が運ばれてきた。
担当官が机へ置き、対象となる廊下と備品室の分を開いた。
ヴァルトは、その書式を覚えていた。
更新されたものを追えばよい。
だが、魔道具の入替えだけでは、気になる接続へ行き当たらなかった。
古いものをそのまま使っている区画もある。
担当官が、首をひねった。
「大きな設備は替えておりません。修繕も、こちらにある分です」
ヴァルトは図面へ戻った。
綻びのある系統は、この区画で終わっていない。
その先には、調度品の置かれた場所があった。
「設備として入ったものだけを見ていましたね」
「はい。魔道具はこちらです」
「献上品は、別ですか」
「美術品や調度は、別の帳面にございます」
ヴァルトはメリルへ顔を向けた。
「魔道具の台帳だけでなく、献上品も確かめたいんです」
メリルは図面の先を見た。
「この系統にある区画へ入ったものですね」
「ええ。まず、そこを」
彼女が取次ぎを済ませ、別の担当者が帳面を持ってきた。
椅子も、飾り棚も、壁に掛ける織物も入っている。
高価そうな品名を読むたびに、ヴァルトは置かれた場所を図面で確かめた。
違う系統のものは、脇へ分ける。
残した品には、普通の家具も多かった。
ある頁で、指が止まる。
王国全図を表した卓上地図儀。
受領した印があり、設置場所も記されていた。
ちょうど、綻びを辿った先の区画だった。
「これは、どのようなものですか」
「天球儀のような輪を使った細工です。王国の地図を、卓上で見られるようにしてあります」
「魔道具としては、扱われていないのですね」
「美術品として受け入れております」
ヴァルトは品名と置き場所を書き取った。
帳面だけでは、中がどうなっているかは分からない。
ただ、見に行く物ができた。
メリルが受領番号の控えを持ち、侍従次長へ取次ぎを頼んだ。
ほどなく、調度品区画への案内が整った。
「現物を見て、今の図面と比べてください」
侍従次長の伝言は、それだけだった。
ヴァルトは借りた帳面を返し、控えと図面を持って立った。
「こちらが、記録にあった地図儀です」
メリルが示した展示台へ、窓からの光が当たっていた。
真鍮の細い輪が重なり、その内側に地名を刻んだ盤がある。
輪の影が、台座の上へ幾重にも落ちていた。
ヴァルトは、まず受領番号を比べた。
帳面で見た物と、目の前の物は同じだった。
近くへ寄ると、細工の丁寧さがよく分かる。
地名を刻む文字は小さいが、潰れていない。
輪を支える接合も目立たず、見る方向によって盤の印象が変わった。
「見事ですね」
「はい。ご覧になる方も、まず細工をお褒めになります」
立ち会った係官が答えた。
ヴァルトはうなずき、目を台座へ下ろした。
底へ近づくにつれ、光の当たり方が変わる。
外周の接合部に、わずかな工具の跡があった。
それだけなら、作る時に付いたものかもしれない。
ヴァルトは触れずに、展示台の周囲を歩いた。
《鑑定》で読める部分を控え、《境界》で台座の近くを調べる。
そこに、保守用の接続に似た形があった。
輪や盤の装飾とは違う。
床側の系統から、台座の付近へ向かっている。
ヴァルトは膝を少し曲げ、見える位置を変えた。
図面で辿ったものが、ここで終わるように見えた。
「台座に、何かございますか」
メリルが尋ねた。
「美術品ですが、設備として見ても気になる部分があります」
「壊れているのでしょうか」
係官の声が固くなった。
「まだ、そこまでは分かりません。見た目の傷を調べているだけではないんです」
ヴァルトは姿勢を戻した。
綻びの形と、台座の付近の接続。
似ているところはあった。
だが、それが何のためのものなのかは、外から見ただけでは言えない。
輪へ手を伸ばしかけ、やめた。
ここで持ち上げれば、接続の状態も変わるかもしれなかった。
「台座の内部を調べるため、もう少し時間をいただけますか」
「点検の手配をいたします」
メリルは、控えを開いた。
「今日はこの位置のまま、保管するよう伝えてよろしいでしょうか」
「お願いします。場所を変えず、輪も動かさずに」
係官が展示台の脇へ寄った。
今度は、美しい細工より下を見ている。
ヴァルトは侍従次長への報告に、内部点検を求める旨を書き加えた。
これまで見つけた綻びと、地図儀の台座にある接続を並べる。
メリルがその紙を受け取り、取次ぎへ渡した。
ヴァルトは、もう一度展示台を見た。
誰も、門を破って持ち込んだのではない。
受領され、名を記され、ここへ置かれている。
きれいな輪の影が、台座へ落ちていた。
次に見るべきところは、その影の下だった。