押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第429話 王が欲しかった軍

 

 扉の手前で、メリルが足を止めた。

 

「こちらです、ヨルド様」

 

 中から、侍医を呼ぶ声がした。

 

 ヨルドに扮したヴァルトは外套の襟を整え、侍医の後に続いた。

 

 朝の光が、国王の執務机へ差している。

 

 机の脇には、診察に使う小卓が用意されていた。

 

 クラウスが針の図を置くと、国王の手が書状から離れた。

 

「献上された地図儀から、針と不審な魔術装置が見つかりました」

 

「わしが触れた品に、そのようなものを仕込んだというのか」

 

 国王は図へ顔を近づけた。

 

 細い針と、その先が出る孔。

 

 輪のどこにあるかを、クラウスが示す。

 

「この装飾環を動かすと、針が出る仕掛けでございます」

 

「誰が受け入れた」

 

「受領の経緯は、侍従次長が調べております」

 

「検めた者は、何を見ておったのだ」

 

 低い声が、部屋に残った。

 

 ヴァルトは、クラウスから合図されるまで待った。

 

「こちらが現物を調べた、侍従監査官のヨルドです」

 

「ヨルドと申します」

 

 礼をして顔を上げる。

 

 国王は図からヴァルトへ目を移した。

 

「隠してあったのか」

 

「はい。内部の情報を《鑑定》から隠す働きもありました。現在、魔石と針は取り外して保管しております」

 

「地図儀は」

 

「危険な部品を抜いて、元の展示台へ戻してあります。城の保守系統の綻びについては、別に修復が必要です」

 

 国王の指が、針先を描いたところで止まった。

 

 侍医が前へ進んだ。

 

「念のため、お身体を調べさせてください」

 

「わしは、痛みなど覚えておらぬぞ」

 

「今のご様子を、確かめたく存じます」

 

 王は少し黙り、それから椅子へ掛け直した。

 

「よい。調べよ」

 

 侍医が脈を取り、呼吸や顔色を見た。

 

 王は問いへ答え、言われた通りに手を差し出す。

 

 目の前で普通の診察が進んでいる。

 

 ヴァルトは侍医が手を離すのを待った。

 

「魔術的な異常がないか、私も確認します」

 

 王が短くうなずいた。

 

 ヴァルトは《鑑定》を使った。

 

 目に入る情報を追い、身体の異常のところで止まる。

 

 体内に、通常の組織とは異なるものがあった。

 

 極めて小さい。

 

 まず位置の概略を書き、その周囲を《境界》で観察する。

 

 生体の続きとして見えるものとは、境が違っていた。

 

 ヴァルトは、見えた範囲をノートへ写した。

 

 侍医へ向けると、その目が紙へ落ちる。

 

「こちらに、異物らしいものが見えます」

 

「身体の組織とは、違うのですね」

 

「はい。もう少し詳しく調べたいんです」

 

 侍医は転記と、自分の診察の控えを見比べた。

 

 国王が指先で小卓を叩いた。

 

「何だ」

 

「原因の分からない異物がございます。さらに調べさせていただきたいのですが」

 

「急を要するのでなければ、後でよい。それより、クラウス」

 

 ヴァルトの筆が止まった。

 

 侍医も、すぐには返事をしなかった。

 

 王はもう、執務机の方へ向き直っている。

 

「公爵の件だ」

 

 クラウスが一歩寄った。

 

「陛下。お身体のことを先に」

 

「今、ここにいる。話もできる。そちらは後で調べればよかろう」

 

 王は、机の上の書類を自分の前へ引き寄せた。

 

 ノートへ書き取った所見については、それ以上問われなかった。

 

 侍医は、今得た所見をまとめている。

 

 クラウスは2人へ、隣室で待つよう告げた。

 

 ヴァルトはノートを持って退出した。

 

 扉が閉まるまで、王は執務机から顔を上げなかった。

 

 

 

 クラウスは、診察道具のなくなった小卓を見た。

 

 王の声が、それを追いかけるように響く。

 

「そなたも考えたであろう。そろそろ返事を聞きたい」

 

「陛下。何のために公爵位を賜るのでございましょう」

 

「まだ、それを言うか」

 

「ご意向を承らずには、お受けできませぬ」

 

 王は書状を1枚持ち上げ、戻した。

 

 さらにその下へ手を入れる。

 

 折り畳まれた地図と、書き込みのある草案が出てきた。

 

「見よ」

 

 クラウスは机へ近づいた。

 

 王都、補給の拠点、旧三家の軍営。

 

 線で結ばれた場所の脇に、編成案が記されている。

 

「王直属の機動軍でございますか」

 

「あの時から考えておった。王が命じれば、確かに動く軍が必要だとな」

 

 国王は古い救援の控えを広げた。

 

 指が、ベラクルスの名へ置かれる。

 

「王都はベラクルスへ近かった。それでも、十分な援軍が出せなかった」

 

 クラウスは、東側のヴァルディスを見た。

 

 そこからベラクルスへは、約400km。

 

 王都からなら、約200kmだった。

 

「そなたの領も、寒波や水害、魔物の被害で疲弊しておった。そこから兵を出した」

 

「はい」

 

「こちらでは、出せるという兵の数ばかりが届いた。必要なところへ、十分には届かなんだ」

 

 クラウスは、王が指す控えへ目を下ろした。

 

 軍籍の人数と、実際の兵が合わない。

 

 その不一致を把握していた軍務大臣が、実員の照合を進めなかった。

 

 援軍を運ぶ前に、運ぶはずの兵がどれだけいるかすら曖昧だった。

 

「兵の実態は、今も調べております」

 

「だから、実際に動く軍を作るのだ」

 

 王は新しい草案を、古い控えの上へ重ねた。

 

「軍務の貴族が話を止める。名簿は整っても、兵は出てこぬ。そのたびに王が待つ軍では困る」

 

 クラウスは黙って聞いた。

 

 王が草案の中央を押さえる。

 

「わしは、あれが欲しいのだ」

 

 今度は、何を指すのか分かった。

 

 クラウスは草案へ手を置いた。

 

「必要な時に、救援へ動かせる軍を」

 

「そうだ」

 

 国王の声が、初めて少し明るくなった。

 

 クラウスは、先ほどの「あの時から」という言葉を思い返した。

 

 王がいつから願っていたかも、今日、本人の口から聞くことができた。

 

 草案の線だけでなく、その声にも熱があった。

 

「では、その軍を作るために、私へ」

 

「旧三家の軍営も、兵站の拠点も、王のものとなった。あれを使え。そなたに特命を与える」

 

 王は紙を押さえる手を動かさなかった。

 

「公爵となれば、王がそなたを支えていると分かろう。反対する者へも、はっきり示せる」

 

「陞爵を、後ろ盾としてお考えなのですね」

 

「ようやく分かったか」

 

 クラウスは頭を下げた。

 

 分かったのは、王の望みだった。

 

 それを実現する手順は、まだ紙の上に揃っていない。

 

「爵位の件と、軍務の特命は別に整える必要がございます」

 

「特命も与えると言っておる」

 

「指揮する部隊と、費用を負担するところをお定めいただきたく存じます。所領を伴うお話かどうかも、まだ承っておりません」

 

 王が草案の隅へ目を移した。

 

「その辺りは、そなたと詰めればよい」

 

「でしたら、今は陞爵のお返事もお預かりいたします」

 

 クラウスは次の紙へ進んだ。

 

 兵員の欄に、以前の軍籍をもとにした数字が並んでいる。

 

 その人数を裏付ける実員調査の記録は、添えられていなかった。

 

「陛下。この人数は、実際に招集できると確認されたものでございましょうか」

 

「軍営にいる者を集める。足りなければ募集すればよい」

 

「この数字には、所在の調査が済んでいない者も含まれます」

 

 王は欄の上へ指を置き、クラウスの言葉を追った。

 

「ならば、不足分を入れればよかろう」

 

「訓練と補給の支度には、時間が必要でございます」

 

 王は筆を取った。

 

 不足分を集める、と書きかけた先が止まる。

 

「給金も、糧秣も、今の兵への支給を続けながら用意しなくてはなりません」

 

「承知しておる。だからこそ、そなたへ任せたいのだ」

 

 言葉は通じていた。

 

 不足しているものが何かも、王は聞いている。

 

 クラウスが続きを話そうとした時、王の筆が紙から離れた。

 

「ならば、そなたが公爵となって進めればよかろう」

 

 話が、同じところへ戻った。

 

 クラウスは兵員の欄から手を離さなかった。

 

 紙に加えた文字だけでは、次の救援に出す兵は現れない。

 

「陛下のご意向は承りました。実際に動かせる形へ整える案を、改めてお持ちいたします」

 

「急げ」

 

「はい。ただし、陞爵をお受けしたという返事ではございません」

 

 王は眉を寄せた。

 

 やがて、草案をクラウスへ押しやる。

 

「持ってゆけ。見ておけ」

 

 クラウスは、その紙を受け取った。

 

 隣室の侍医たちを呼び戻すよう、扉の外へ伝える。

 

 王は、もう次の書類に手を掛けていた。

 

 

 

 ヴァルトは、侍医とともに執務室の前へ戻った。

 

 クラウスが扉の脇で待っている。

 

「陛下は、救援に動かせる軍を望んでおられた。献上品より前からの願いだと、御自身で仰せになった」

 

 ヴァルトはうなずいた。

 

「ただ、今日も、その実現を非常に急いでおられる。身体のことより先に進めたい、とね」

 

「そのご様子も含めて、考えます」

 

 ヴァルトが受け取ったのは、それだけだった。

 

 草案は、クラウスの持つ書類の中にある。

 

 執務室へ入ると、侍医が王へ声を掛けた。

 

「陛下、先ほどの異物をもう少し調べさせていただけますか」

 

「長くはかけるな」

 

 王は手元の書類を脇へ寄せた。

 

 袖を整え、診察用の小卓へ向き直る。

 

 ヴァルトは、最初に見た位置をノートで確かめた。

 

 同じ異物を対象に、《鑑定》を使う。

 

 その周囲と生体との境を、《境界》で辿る。

 

 名称が出た。

 

 我欲の種。

 

 分類は、非生物だった。

 

 ヴァルトは、その文字をそのまま写した。

 

 名前を見ただけで、働きまで分かったわけではない。

 

 次に、輪郭と存在位置を記す。

 

 極微小な、人工の物だった。

 

 さらに、その実物へ《魔術式解析》を使った。

 

 読み取れた構造の断片を、順にノートへ残す。

 

 ヴァルトは顔を上げず、手を動かした。

 

 王の指が小卓へ置かれている。

 

 さっきまでの性急な声は、今はしなかった。

 

 侍医が脈と呼吸を見て、検査を終える頃合いを確かめる。

 

「ここまででございます」

 

 ヴァルトは筆を置いた。

 

 国王が椅子から立ち、執務机へ戻る。

 

 今度の検査は、最後まで受けてもらえた。

 

 ノートには、最初の時にはなかった名称と、魔術構造の一部が残った。

 

 ヴァルトは侍医へ紙を向け、今得た部分を示した。

 

「詳しく整理して、改めてご報告します」

 

 侍医はうなずき、記した位置へ目を留めた。

 

 

 

 午後、侍従次長の机へ、新軍の調達案が運ばれてきた。

 

「こちらは、新しい軍の調達案として預かったものです」

 

 担当者が、提出の控えを添える。

 

 侍従次長は、地図儀の受領番号を記した紙の横へ置いた。

 

 献上の取次欄にある名を読み、次の提出者の欄へ移る。

 

 指が止まった。

 

「地図儀の取次人と同じか」

 

「名義は一致しています」

 

 軍需を扱う商人だった。

 

 宮中へ品物を取り次ぐことも、新しい軍へ調達を提案することも、それだけなら珍しくない。

 

 侍従次長は、同じ名に印を付けた。

 

 昨夜までに見つかったのは、台座の内蔵魔石と、装飾環に隠れた針だった。

 

 どちらも、ヴァルトが別々に保管している。

 

 受領した経路を追う書類は、ここにある。

 

「同じ者だから仕掛けを知っていた、とはまだ言えない」

 

 担当者がうなずいた。

 

「地図儀を作った工房と、発注した者を調べたい。支払いの経緯も含めて、王都警備隊へ依頼を出してくれ」

 

「承知いたしました」

 

 侍従次長は書類を元へ返さず、保存する分と写す分へ分けた。

 

 すべての答えが宮中にあるわけではない。

 

 使者が出ていくのを見送り、手元に残った調達案を開いた。

 

 

 

 午後の監査室には、細く開けた窓から庭の葉擦れが届いていた。

 

 ヴァルトは、午前の診察で書き取った紙を机に広げた。

 

 名称だけで分かることは少ない。

 

 我欲の種。

 

 そう読めたからといって、どのように働くかまで分かったわけではなかった。

 

 身体にあったものは、生き物ではない。

 

 ごく小さな人工物で、ヴァルトが目にした術式の一部は、その周囲へ働き掛ける形をしていた。

 

 その先に続くものを、知っている術式と一つずつ比べていく。

 

 外から別の命令を受け取るための構造は、少なくとも見えた部分にはなかった。

 

 だからといって、見えていない部分に何もないと言い切ることもできない。

 

 ヴァルトは、書き掛けた説明の末尾を消した。

 

 分かったことより先へ、言葉だけを走らせたくなかった。

 

「……元からあるものへ、働き掛けるのなら」

 

 今朝の国王を思い出す。

 

 自分の身体に異物が見つかっても、陛下は公爵の話を優先された。

 

 クラウスからは、救援軍の実現を非常に急いでおられるとも聞いた。

 

 それほど強く、一つのことを望み続けるのはなぜか。

 

 侍従次長が語っていた以前の国王と、今朝の姿の間にあるものは何なのか。

 

 ヴァルトは、収納していた針を取り出した。

 

 細い金属を、用意した布の上へ静かに置く。

 

 針は曲げていない。

 

 付着しているものも、まだ拭き取ってはいなかった。

 

 《鑑定》を使う。

 

 内部の細い空洞と、その奥に残る微かな魔力の痕跡へ注意を絞る。

 

 午前に書き取った術式の一部と、共通する特徴があった。

 

 ヴァルトは紙を引き寄せ、針を調べた結果を別の欄へ書いた。

 

 身体の中にあった人工物の大きさなら、この空洞を通る可能性はある。

 

 しかし、通ることと、実際に通ったことは違う。

 

 針の仕組みだけでは、誰に使われたかも、いつ使われたかも分からなかった。

 

 針が輪の回転で突き出す仕組みは分かっている。

 

 だが、中の空洞を通じて何がどのように送り込まれたのかは、まだ分からなかった。

 

 戸を叩く音がした。

 

「ヨルド様。お頼みの紙をお持ちしました」

 

「ありがとうございます。こちらへお願いします」

 

 メリルが、折り目のない紙を机の端へ置いた。

 

 広げられた診察の控えへ目を滑らせず、受け取った用件だけを済ませる。

 

「侍医の方から、後ほどお時間を頂きたいとのことです」

 

「分かりました。こちらも、お伝えしたいことがあります」

 

 メリルは返事をして、戸口へ戻った。

 

 その後ろで、ヴァルトは針を再び収納した。

 

 まだ、国王の身体から何かを取り出したわけではない。

 

 机の上に残った紙をまとめる指に、自然と力が入った。

 

 

 

 クラウスは、侍医とヴァルトを迎えるため、次の面会を少し遅らせた。

 

 執務室の壁際では、使者が運んできた封書を側近がより分けている。

 

 急ぐ仕事なら、ほかにもいくらでもあった。

 

 だが、午前の国王の声が、まだ耳に残っていた。

 

「身体の中に、人工物があったのだね」

 

「はい。名称は、我欲の種と読めました」

 

 ヴァルトが控えを置いた。

 

「生き物ではありません。非常に小さな、魔術を組み込まれた物体です」

 

 クラウスは、名前の書かれた箇所を見た。

 

 我欲。

 

 今朝の国王の言葉を、そのまま名にしたようだった。

 

 それだけに、名前に引かれて結論を急ぐのは危険だと思った。

 

「それが、陛下のお考えを変えていると?」

 

「可能性はあります。ただし、作用の全てが読み取れたわけではありません」

 

「どこまで分かりました」

 

 侍医が尋ねた。

 

「見えた術式の一部からは、宿主が元から持っている欲求へ働き掛けていると考えられます。別人に変えてしまうものとは、構造が違います」

 

 ヴァルトは、今朝の様子を思い返すように言葉を選んだ。

 

「陛下は会話も政務も続けておられます。その上で、ある願いに、以前より強く引かれておられるのではないでしょうか」

 

 クラウスは、椅子の肘掛けに置いた手を動かさなかった。

 

 救援に出せる軍が欲しい。

 

 国王は、その願いは地図儀が来る以前からあったと語った。

 

 その言葉を、今のところ裏付けられるものが揃っているわけではない。

 

 しかし、ベラクルスへ兵を送れなかったことを話す声まで、偽物だったとは思いたくなかった。

 

「陛下の願いを、全て異物のせいにするわけではないのだね」

 

「はい。その物体の作用を受けているとしても、何を望んでいたかまで消えてしまうとは考えておりません」

 

「そうか」

 

 クラウスは、そこでようやく息を吐いた。

 

 国王が望む軍を、必要ないとして片付ければ済む話ではなかった。

 

 救援を待つ者がいた。

 

 送り出せるはずの兵が、帳簿の中にしか見つからなかった。

 

 そこへ手を付ける仕事は、国王の身体を治した後にも残る。

 

「針についても、お伝えします」

 

 ヴァルトが、別の紙を示した。

 

「内部に魔力の残留がありました。身体の異物と、術式の一部に共通する特徴があります」

 

 クラウスの目が上がった。

 

「地図儀に仕込まれていた、あの針か」

 

「はい。異物は針の内部を通れる大きさです。ただ、これを使って陛下へ入れたと断定するには、まだ足りません」

 

「誰が使ったかも、分からぬ」

 

「そのとおりです」

 

 侍医は、身体の中の物体を示した紙へ戻った。

 

「取り出すことは可能ですか」

 

「収納の対象として選べる可能性はあります。ですが、身体への影響を診ずに行うつもりはありません」

 

「ならば、私の方でも準備しましょう」

 

 侍医の返答は早かった。

 

「明朝、陛下に結果をご説明する時間を頂きます。その場で方法もお伝えして、ご本人のお考えを伺いたい」

 

 クラウスはうなずいた。

 

「私も同席しよう。明日の政務は、開始を遅らせる」

 

 側近へ告げる声は、いつもの宰相のものに戻っていた。

 

 

 

 侍医が用意した部屋には、診察台のほかに、小さな机と背の低い椅子があった。

 

 ヴァルトは、午前に書き取った位置と輪郭を侍医へ説明した。

 

 朝、自分が見たものを、明日の診察でどのように捉え直すかを話していた。

 

「対象は、その小さな物体だけです」

 

「周囲の組織も一緒に取り去ることは?」

 

「そうならないよう、境目を捉えます。当日、見え方が変わっていれば、ここでの話だけを頼りに進めることはできません」

 

 侍医は、紙の輪郭へ指を添えた。

 

「物体が抜けた後、身体に何が起こるかも、まだ分からないわけですね」

 

「はい。取り出せることと、無事に済むことは、別です」

 

 ヴァルトは、そこを曖昧にしたくなかった。

 

 収納なら、刃を入れずに済む。

 

 だが、傷を付けなければ問題が起きないとまでは言えない。

 

 その物体が、身体にどう関わっているかを、全部知っているわけではなかった。

 

「陛下には、なるべく動かずにいて頂きたいと思います。姿勢は、そちらで診やすいものに合わせます」

 

「意識、呼吸、脈を見ながら進めましょう。こちらから声を掛けた時は、手を止められますか」

 

「対象を取り出す前なら止めます。出した後は、まず陛下をお願いします」

 

 侍医がうなずいた。

 

 ヴァルトは、収納の中に持っている薬のことを思い出した。

 

 自分の《収納》に保管してあるエリクサー。

 

 明日、それが必要になるかは分からない。

 

 必要になったとしても、今から無事を約束できるものではなかった。

 

「急に具合を悪くされた場合、使える薬は私も持っています。その時は、症状を診て判断して頂けますか」

 

「もちろんです。何をお持ちか、後ほど伺っておきましょう」

 

 侍医は、机の位置を少し動かした。

 

 診察台の脇を、人が通れるだけ広く空ける。

 

 ヴァルトも椅子を引き、互いの動きを邪魔しない場所を確かめた。

 

 教室で子どもたちの魔術を見ている時とは、違う緊張だった。

 

 失敗したらやり直せばよい、と言える仕事ではない。

 

「説明を聞いて、陛下が別の方法を望まれた場合は?」

 

「その時は、改めて考えます」

 

 ヴァルトは答えた。

 

「異物の名前も、考えられる作用も、まだ陛下にはお伝えしていませんから」

 

 侍医は、用意した紙をまとめた。

 

 明朝、まず話す。

 

 今の二人に決められるのは、そこまでだった。

 

 

 

 夕刻、侍従次長がクラウスの執務室を訪れた。

 

 窓の向こうで、庭に置かれた鉢の影が長く伸びている。

 

 持ってきたのは、献上品の控えではなく、軍の調達案だった。

 

「王都警備隊へは、調べを依頼しました。工房や発注元からの返事は、まだです」

 

「そうだろうね。今夜のうちに答えが出るとは思っておらぬ」

 

 クラウスは書類を受け取った。

 

 侍従次長が、その中の数枚を開く。

 

「こちらをご覧ください。軍服、武器、食糧、それに輸送用の資材です」

 

 品目ごとに、納めるまでの期間が付いていた。

 

 それらをまとめて引き受けるという申し出まである。

 

「随分、用意がよい」

 

「陛下が急がれる場合、この商人の申し出は便利に見えるでしょう」

 

 クラウスは、調達案の隣へ軍の編成案を置いた。

 

 人数の見込みはある。

 

 しかし、その全てを、現地の兵に結び付けるところまでは済んでいない。

 

 誰を動かせるのかが定まる前に、軍服を何着揃えるかという話が先へ進んでいた。

 

「陛下は、既存の兵だけで足りなければ募集もすると仰せだった」

 

「でしたら、なおさら、納期を先に約束するのは難しいかと」

 

「そのとおりだ」

 

 クラウスは、短い納期が並ぶ箇所を読み返した。

 

 急げば、ほかの商人から見積もりを取り寄せる時間がなくなる。

 

 軍服だけならともかく、武器も食糧も運ぶ物もまとめて同じ相手へ頼むことになる。

 

 王が早く軍を欲しがるほど、好都合になる者がいた。

 

「利益があるから、仕掛けたとは言えぬがね」

 

「はい。それでも、急がせることが誰の得になるかは、調べる必要があります」

 

 侍従次長は、献上品を仲介した商人の名が書かれた箇所を押さえた。

 

 昼に見つけた一致が、夕方になって別の重さを持っていた。

 

「陛下が軍を望まれたこと自体は、間違いではない」

 

 クラウスは言った。

 

「私は、そこまで否定したくはないのだよ」

 

「分かります」

 

「動かせる兵を揃え、給金を払い、救援へ送り出す。それは、この国がせねばならぬ仕事だ。だが、誰かの売りたい物を買うために軍を作るわけではない」

 

 侍従次長は、小さく頭を下げた。

 

 クラウスは、陞爵に関する紙を調達案の上へ重ねず、脇へ置いた。

 

 公爵になる返答は、まだしていない。

 

 明日の国王が、この紙をどのように読むかも、まだ分からなかった。

 

「今夜は、今ある物を残してくれ。人も、書類も、勝手に動かされぬように」

 

「承知いたしました」

 

 侍従次長が退室した後、クラウスは明朝の予定を開いた。

 

 最初に記された政務の時刻へ線を引き、その前に侍医との面会を書き入れる。

 

 軍のことを急がねばならないからこそ、明日は、その前に会う必要があった。

 

 

 

 王城の廊下に灯りがともる頃、ヴァルトは明日の診察に持っていく紙を揃えていた。

 

 針と魔石は、それぞれ別に収納したままだった。

 

 身体の中に見えた輪郭を、もう一度、書き取った線で追う。

 

 明日は、陛下ご自身に説明する。

 

 名前を聞くだけでも、愉快な気分にはならないだろう。

 

 それでも、知って頂かなくては始められなかった。

 

 外の廊下では、夜の当番に替わった侍従の足音がしていた。

 

 ヴァルトは紙を閉じ、机の端へ置いた。

 

 子どもたちの授業に戻る前に、国王の身体に残るあの種を、何とかして取り除きたかった。

 

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