扉の手前で、メリルが足を止めた。
「こちらです、ヨルド様」
中から、侍医を呼ぶ声がした。
ヨルドに扮したヴァルトは外套の襟を整え、侍医の後に続いた。
朝の光が、国王の執務机へ差している。
机の脇には、診察に使う小卓が用意されていた。
クラウスが針の図を置くと、国王の手が書状から離れた。
「献上された地図儀から、針と不審な魔術装置が見つかりました」
「わしが触れた品に、そのようなものを仕込んだというのか」
国王は図へ顔を近づけた。
細い針と、その先が出る孔。
輪のどこにあるかを、クラウスが示す。
「この装飾環を動かすと、針が出る仕掛けでございます」
「誰が受け入れた」
「受領の経緯は、侍従次長が調べております」
「検めた者は、何を見ておったのだ」
低い声が、部屋に残った。
ヴァルトは、クラウスから合図されるまで待った。
「こちらが現物を調べた、侍従監査官のヨルドです」
「ヨルドと申します」
礼をして顔を上げる。
国王は図からヴァルトへ目を移した。
「隠してあったのか」
「はい。内部の情報を《鑑定》から隠す働きもありました。現在、魔石と針は取り外して保管しております」
「地図儀は」
「危険な部品を抜いて、元の展示台へ戻してあります。城の保守系統の綻びについては、別に修復が必要です」
国王の指が、針先を描いたところで止まった。
侍医が前へ進んだ。
「念のため、お身体を調べさせてください」
「わしは、痛みなど覚えておらぬぞ」
「今のご様子を、確かめたく存じます」
王は少し黙り、それから椅子へ掛け直した。
「よい。調べよ」
侍医が脈を取り、呼吸や顔色を見た。
王は問いへ答え、言われた通りに手を差し出す。
目の前で普通の診察が進んでいる。
ヴァルトは侍医が手を離すのを待った。
「魔術的な異常がないか、私も確認します」
王が短くうなずいた。
ヴァルトは《鑑定》を使った。
目に入る情報を追い、身体の異常のところで止まる。
体内に、通常の組織とは異なるものがあった。
極めて小さい。
まず位置の概略を書き、その周囲を《境界》で観察する。
生体の続きとして見えるものとは、境が違っていた。
ヴァルトは、見えた範囲をノートへ写した。
侍医へ向けると、その目が紙へ落ちる。
「こちらに、異物らしいものが見えます」
「身体の組織とは、違うのですね」
「はい。もう少し詳しく調べたいんです」
侍医は転記と、自分の診察の控えを見比べた。
国王が指先で小卓を叩いた。
「何だ」
「原因の分からない異物がございます。さらに調べさせていただきたいのですが」
「急を要するのでなければ、後でよい。それより、クラウス」
ヴァルトの筆が止まった。
侍医も、すぐには返事をしなかった。
王はもう、執務机の方へ向き直っている。
「公爵の件だ」
クラウスが一歩寄った。
「陛下。お身体のことを先に」
「今、ここにいる。話もできる。そちらは後で調べればよかろう」
王は、机の上の書類を自分の前へ引き寄せた。
ノートへ書き取った所見については、それ以上問われなかった。
侍医は、今得た所見をまとめている。
クラウスは2人へ、隣室で待つよう告げた。
ヴァルトはノートを持って退出した。
扉が閉まるまで、王は執務机から顔を上げなかった。
クラウスは、診察道具のなくなった小卓を見た。
王の声が、それを追いかけるように響く。
「そなたも考えたであろう。そろそろ返事を聞きたい」
「陛下。何のために公爵位を賜るのでございましょう」
「まだ、それを言うか」
「ご意向を承らずには、お受けできませぬ」
王は書状を1枚持ち上げ、戻した。
さらにその下へ手を入れる。
折り畳まれた地図と、書き込みのある草案が出てきた。
「見よ」
クラウスは机へ近づいた。
王都、補給の拠点、旧三家の軍営。
線で結ばれた場所の脇に、編成案が記されている。
「王直属の機動軍でございますか」
「あの時から考えておった。王が命じれば、確かに動く軍が必要だとな」
国王は古い救援の控えを広げた。
指が、ベラクルスの名へ置かれる。
「王都はベラクルスへ近かった。それでも、十分な援軍が出せなかった」
クラウスは、東側のヴァルディスを見た。
そこからベラクルスへは、約400km。
王都からなら、約200kmだった。
「そなたの領も、寒波や水害、魔物の被害で疲弊しておった。そこから兵を出した」
「はい」
「こちらでは、出せるという兵の数ばかりが届いた。必要なところへ、十分には届かなんだ」
クラウスは、王が指す控えへ目を下ろした。
軍籍の人数と、実際の兵が合わない。
その不一致を把握していた軍務大臣が、実員の照合を進めなかった。
援軍を運ぶ前に、運ぶはずの兵がどれだけいるかすら曖昧だった。
「兵の実態は、今も調べております」
「だから、実際に動く軍を作るのだ」
王は新しい草案を、古い控えの上へ重ねた。
「軍務の貴族が話を止める。名簿は整っても、兵は出てこぬ。そのたびに王が待つ軍では困る」
クラウスは黙って聞いた。
王が草案の中央を押さえる。
「わしは、あれが欲しいのだ」
今度は、何を指すのか分かった。
クラウスは草案へ手を置いた。
「必要な時に、救援へ動かせる軍を」
「そうだ」
国王の声が、初めて少し明るくなった。
クラウスは、先ほどの「あの時から」という言葉を思い返した。
王がいつから願っていたかも、今日、本人の口から聞くことができた。
草案の線だけでなく、その声にも熱があった。
「では、その軍を作るために、私へ」
「旧三家の軍営も、兵站の拠点も、王のものとなった。あれを使え。そなたに特命を与える」
王は紙を押さえる手を動かさなかった。
「公爵となれば、王がそなたを支えていると分かろう。反対する者へも、はっきり示せる」
「陞爵を、後ろ盾としてお考えなのですね」
「ようやく分かったか」
クラウスは頭を下げた。
分かったのは、王の望みだった。
それを実現する手順は、まだ紙の上に揃っていない。
「爵位の件と、軍務の特命は別に整える必要がございます」
「特命も与えると言っておる」
「指揮する部隊と、費用を負担するところをお定めいただきたく存じます。所領を伴うお話かどうかも、まだ承っておりません」
王が草案の隅へ目を移した。
「その辺りは、そなたと詰めればよい」
「でしたら、今は陞爵のお返事もお預かりいたします」
クラウスは次の紙へ進んだ。
兵員の欄に、以前の軍籍をもとにした数字が並んでいる。
その人数を裏付ける実員調査の記録は、添えられていなかった。
「陛下。この人数は、実際に招集できると確認されたものでございましょうか」
「軍営にいる者を集める。足りなければ募集すればよい」
「この数字には、所在の調査が済んでいない者も含まれます」
王は欄の上へ指を置き、クラウスの言葉を追った。
「ならば、不足分を入れればよかろう」
「訓練と補給の支度には、時間が必要でございます」
王は筆を取った。
不足分を集める、と書きかけた先が止まる。
「給金も、糧秣も、今の兵への支給を続けながら用意しなくてはなりません」
「承知しておる。だからこそ、そなたへ任せたいのだ」
言葉は通じていた。
不足しているものが何かも、王は聞いている。
クラウスが続きを話そうとした時、王の筆が紙から離れた。
「ならば、そなたが公爵となって進めればよかろう」
話が、同じところへ戻った。
クラウスは兵員の欄から手を離さなかった。
紙に加えた文字だけでは、次の救援に出す兵は現れない。
「陛下のご意向は承りました。実際に動かせる形へ整える案を、改めてお持ちいたします」
「急げ」
「はい。ただし、陞爵をお受けしたという返事ではございません」
王は眉を寄せた。
やがて、草案をクラウスへ押しやる。
「持ってゆけ。見ておけ」
クラウスは、その紙を受け取った。
隣室の侍医たちを呼び戻すよう、扉の外へ伝える。
王は、もう次の書類に手を掛けていた。
ヴァルトは、侍医とともに執務室の前へ戻った。
クラウスが扉の脇で待っている。
「陛下は、救援に動かせる軍を望んでおられた。献上品より前からの願いだと、御自身で仰せになった」
ヴァルトはうなずいた。
「ただ、今日も、その実現を非常に急いでおられる。身体のことより先に進めたい、とね」
「そのご様子も含めて、考えます」
ヴァルトが受け取ったのは、それだけだった。
草案は、クラウスの持つ書類の中にある。
執務室へ入ると、侍医が王へ声を掛けた。
「陛下、先ほどの異物をもう少し調べさせていただけますか」
「長くはかけるな」
王は手元の書類を脇へ寄せた。
袖を整え、診察用の小卓へ向き直る。
ヴァルトは、最初に見た位置をノートで確かめた。
同じ異物を対象に、《鑑定》を使う。
その周囲と生体との境を、《境界》で辿る。
名称が出た。
我欲の種。
分類は、非生物だった。
ヴァルトは、その文字をそのまま写した。
名前を見ただけで、働きまで分かったわけではない。
次に、輪郭と存在位置を記す。
極微小な、人工の物だった。
さらに、その実物へ《魔術式解析》を使った。
読み取れた構造の断片を、順にノートへ残す。
ヴァルトは顔を上げず、手を動かした。
王の指が小卓へ置かれている。
さっきまでの性急な声は、今はしなかった。
侍医が脈と呼吸を見て、検査を終える頃合いを確かめる。
「ここまででございます」
ヴァルトは筆を置いた。
国王が椅子から立ち、執務机へ戻る。
今度の検査は、最後まで受けてもらえた。
ノートには、最初の時にはなかった名称と、魔術構造の一部が残った。
ヴァルトは侍医へ紙を向け、今得た部分を示した。
「詳しく整理して、改めてご報告します」
侍医はうなずき、記した位置へ目を留めた。
午後、侍従次長の机へ、新軍の調達案が運ばれてきた。
「こちらは、新しい軍の調達案として預かったものです」
担当者が、提出の控えを添える。
侍従次長は、地図儀の受領番号を記した紙の横へ置いた。
献上の取次欄にある名を読み、次の提出者の欄へ移る。
指が止まった。
「地図儀の取次人と同じか」
「名義は一致しています」
軍需を扱う商人だった。
宮中へ品物を取り次ぐことも、新しい軍へ調達を提案することも、それだけなら珍しくない。
侍従次長は、同じ名に印を付けた。
昨夜までに見つかったのは、台座の内蔵魔石と、装飾環に隠れた針だった。
どちらも、ヴァルトが別々に保管している。
受領した経路を追う書類は、ここにある。
「同じ者だから仕掛けを知っていた、とはまだ言えない」
担当者がうなずいた。
「地図儀を作った工房と、発注した者を調べたい。支払いの経緯も含めて、王都警備隊へ依頼を出してくれ」
「承知いたしました」
侍従次長は書類を元へ返さず、保存する分と写す分へ分けた。
すべての答えが宮中にあるわけではない。
使者が出ていくのを見送り、手元に残った調達案を開いた。
午後の監査室には、細く開けた窓から庭の葉擦れが届いていた。
ヴァルトは、午前の診察で書き取った紙を机に広げた。
名称だけで分かることは少ない。
我欲の種。
そう読めたからといって、どのように働くかまで分かったわけではなかった。
身体にあったものは、生き物ではない。
ごく小さな人工物で、ヴァルトが目にした術式の一部は、その周囲へ働き掛ける形をしていた。
その先に続くものを、知っている術式と一つずつ比べていく。
外から別の命令を受け取るための構造は、少なくとも見えた部分にはなかった。
だからといって、見えていない部分に何もないと言い切ることもできない。
ヴァルトは、書き掛けた説明の末尾を消した。
分かったことより先へ、言葉だけを走らせたくなかった。
「……元からあるものへ、働き掛けるのなら」
今朝の国王を思い出す。
自分の身体に異物が見つかっても、陛下は公爵の話を優先された。
クラウスからは、救援軍の実現を非常に急いでおられるとも聞いた。
それほど強く、一つのことを望み続けるのはなぜか。
侍従次長が語っていた以前の国王と、今朝の姿の間にあるものは何なのか。
ヴァルトは、収納していた針を取り出した。
細い金属を、用意した布の上へ静かに置く。
針は曲げていない。
付着しているものも、まだ拭き取ってはいなかった。
《鑑定》を使う。
内部の細い空洞と、その奥に残る微かな魔力の痕跡へ注意を絞る。
午前に書き取った術式の一部と、共通する特徴があった。
ヴァルトは紙を引き寄せ、針を調べた結果を別の欄へ書いた。
身体の中にあった人工物の大きさなら、この空洞を通る可能性はある。
しかし、通ることと、実際に通ったことは違う。
針の仕組みだけでは、誰に使われたかも、いつ使われたかも分からなかった。
針が輪の回転で突き出す仕組みは分かっている。
だが、中の空洞を通じて何がどのように送り込まれたのかは、まだ分からなかった。
戸を叩く音がした。
「ヨルド様。お頼みの紙をお持ちしました」
「ありがとうございます。こちらへお願いします」
メリルが、折り目のない紙を机の端へ置いた。
広げられた診察の控えへ目を滑らせず、受け取った用件だけを済ませる。
「侍医の方から、後ほどお時間を頂きたいとのことです」
「分かりました。こちらも、お伝えしたいことがあります」
メリルは返事をして、戸口へ戻った。
その後ろで、ヴァルトは針を再び収納した。
まだ、国王の身体から何かを取り出したわけではない。
机の上に残った紙をまとめる指に、自然と力が入った。
クラウスは、侍医とヴァルトを迎えるため、次の面会を少し遅らせた。
執務室の壁際では、使者が運んできた封書を側近がより分けている。
急ぐ仕事なら、ほかにもいくらでもあった。
だが、午前の国王の声が、まだ耳に残っていた。
「身体の中に、人工物があったのだね」
「はい。名称は、我欲の種と読めました」
ヴァルトが控えを置いた。
「生き物ではありません。非常に小さな、魔術を組み込まれた物体です」
クラウスは、名前の書かれた箇所を見た。
我欲。
今朝の国王の言葉を、そのまま名にしたようだった。
それだけに、名前に引かれて結論を急ぐのは危険だと思った。
「それが、陛下のお考えを変えていると?」
「可能性はあります。ただし、作用の全てが読み取れたわけではありません」
「どこまで分かりました」
侍医が尋ねた。
「見えた術式の一部からは、宿主が元から持っている欲求へ働き掛けていると考えられます。別人に変えてしまうものとは、構造が違います」
ヴァルトは、今朝の様子を思い返すように言葉を選んだ。
「陛下は会話も政務も続けておられます。その上で、ある願いに、以前より強く引かれておられるのではないでしょうか」
クラウスは、椅子の肘掛けに置いた手を動かさなかった。
救援に出せる軍が欲しい。
国王は、その願いは地図儀が来る以前からあったと語った。
その言葉を、今のところ裏付けられるものが揃っているわけではない。
しかし、ベラクルスへ兵を送れなかったことを話す声まで、偽物だったとは思いたくなかった。
「陛下の願いを、全て異物のせいにするわけではないのだね」
「はい。その物体の作用を受けているとしても、何を望んでいたかまで消えてしまうとは考えておりません」
「そうか」
クラウスは、そこでようやく息を吐いた。
国王が望む軍を、必要ないとして片付ければ済む話ではなかった。
救援を待つ者がいた。
送り出せるはずの兵が、帳簿の中にしか見つからなかった。
そこへ手を付ける仕事は、国王の身体を治した後にも残る。
「針についても、お伝えします」
ヴァルトが、別の紙を示した。
「内部に魔力の残留がありました。身体の異物と、術式の一部に共通する特徴があります」
クラウスの目が上がった。
「地図儀に仕込まれていた、あの針か」
「はい。異物は針の内部を通れる大きさです。ただ、これを使って陛下へ入れたと断定するには、まだ足りません」
「誰が使ったかも、分からぬ」
「そのとおりです」
侍医は、身体の中の物体を示した紙へ戻った。
「取り出すことは可能ですか」
「収納の対象として選べる可能性はあります。ですが、身体への影響を診ずに行うつもりはありません」
「ならば、私の方でも準備しましょう」
侍医の返答は早かった。
「明朝、陛下に結果をご説明する時間を頂きます。その場で方法もお伝えして、ご本人のお考えを伺いたい」
クラウスはうなずいた。
「私も同席しよう。明日の政務は、開始を遅らせる」
側近へ告げる声は、いつもの宰相のものに戻っていた。
侍医が用意した部屋には、診察台のほかに、小さな机と背の低い椅子があった。
ヴァルトは、午前に書き取った位置と輪郭を侍医へ説明した。
朝、自分が見たものを、明日の診察でどのように捉え直すかを話していた。
「対象は、その小さな物体だけです」
「周囲の組織も一緒に取り去ることは?」
「そうならないよう、境目を捉えます。当日、見え方が変わっていれば、ここでの話だけを頼りに進めることはできません」
侍医は、紙の輪郭へ指を添えた。
「物体が抜けた後、身体に何が起こるかも、まだ分からないわけですね」
「はい。取り出せることと、無事に済むことは、別です」
ヴァルトは、そこを曖昧にしたくなかった。
収納なら、刃を入れずに済む。
だが、傷を付けなければ問題が起きないとまでは言えない。
その物体が、身体にどう関わっているかを、全部知っているわけではなかった。
「陛下には、なるべく動かずにいて頂きたいと思います。姿勢は、そちらで診やすいものに合わせます」
「意識、呼吸、脈を見ながら進めましょう。こちらから声を掛けた時は、手を止められますか」
「対象を取り出す前なら止めます。出した後は、まず陛下をお願いします」
侍医がうなずいた。
ヴァルトは、収納の中に持っている薬のことを思い出した。
自分の《収納》に保管してあるエリクサー。
明日、それが必要になるかは分からない。
必要になったとしても、今から無事を約束できるものではなかった。
「急に具合を悪くされた場合、使える薬は私も持っています。その時は、症状を診て判断して頂けますか」
「もちろんです。何をお持ちか、後ほど伺っておきましょう」
侍医は、机の位置を少し動かした。
診察台の脇を、人が通れるだけ広く空ける。
ヴァルトも椅子を引き、互いの動きを邪魔しない場所を確かめた。
教室で子どもたちの魔術を見ている時とは、違う緊張だった。
失敗したらやり直せばよい、と言える仕事ではない。
「説明を聞いて、陛下が別の方法を望まれた場合は?」
「その時は、改めて考えます」
ヴァルトは答えた。
「異物の名前も、考えられる作用も、まだ陛下にはお伝えしていませんから」
侍医は、用意した紙をまとめた。
明朝、まず話す。
今の二人に決められるのは、そこまでだった。
夕刻、侍従次長がクラウスの執務室を訪れた。
窓の向こうで、庭に置かれた鉢の影が長く伸びている。
持ってきたのは、献上品の控えではなく、軍の調達案だった。
「王都警備隊へは、調べを依頼しました。工房や発注元からの返事は、まだです」
「そうだろうね。今夜のうちに答えが出るとは思っておらぬ」
クラウスは書類を受け取った。
侍従次長が、その中の数枚を開く。
「こちらをご覧ください。軍服、武器、食糧、それに輸送用の資材です」
品目ごとに、納めるまでの期間が付いていた。
それらをまとめて引き受けるという申し出まである。
「随分、用意がよい」
「陛下が急がれる場合、この商人の申し出は便利に見えるでしょう」
クラウスは、調達案の隣へ軍の編成案を置いた。
人数の見込みはある。
しかし、その全てを、現地の兵に結び付けるところまでは済んでいない。
誰を動かせるのかが定まる前に、軍服を何着揃えるかという話が先へ進んでいた。
「陛下は、既存の兵だけで足りなければ募集もすると仰せだった」
「でしたら、なおさら、納期を先に約束するのは難しいかと」
「そのとおりだ」
クラウスは、短い納期が並ぶ箇所を読み返した。
急げば、ほかの商人から見積もりを取り寄せる時間がなくなる。
軍服だけならともかく、武器も食糧も運ぶ物もまとめて同じ相手へ頼むことになる。
王が早く軍を欲しがるほど、好都合になる者がいた。
「利益があるから、仕掛けたとは言えぬがね」
「はい。それでも、急がせることが誰の得になるかは、調べる必要があります」
侍従次長は、献上品を仲介した商人の名が書かれた箇所を押さえた。
昼に見つけた一致が、夕方になって別の重さを持っていた。
「陛下が軍を望まれたこと自体は、間違いではない」
クラウスは言った。
「私は、そこまで否定したくはないのだよ」
「分かります」
「動かせる兵を揃え、給金を払い、救援へ送り出す。それは、この国がせねばならぬ仕事だ。だが、誰かの売りたい物を買うために軍を作るわけではない」
侍従次長は、小さく頭を下げた。
クラウスは、陞爵に関する紙を調達案の上へ重ねず、脇へ置いた。
公爵になる返答は、まだしていない。
明日の国王が、この紙をどのように読むかも、まだ分からなかった。
「今夜は、今ある物を残してくれ。人も、書類も、勝手に動かされぬように」
「承知いたしました」
侍従次長が退室した後、クラウスは明朝の予定を開いた。
最初に記された政務の時刻へ線を引き、その前に侍医との面会を書き入れる。
軍のことを急がねばならないからこそ、明日は、その前に会う必要があった。
王城の廊下に灯りがともる頃、ヴァルトは明日の診察に持っていく紙を揃えていた。
針と魔石は、それぞれ別に収納したままだった。
身体の中に見えた輪郭を、もう一度、書き取った線で追う。
明日は、陛下ご自身に説明する。
名前を聞くだけでも、愉快な気分にはならないだろう。
それでも、知って頂かなくては始められなかった。
外の廊下では、夜の当番に替わった侍従の足音がしていた。
ヴァルトは紙を閉じ、机の端へ置いた。
子どもたちの授業に戻る前に、国王の身体に残るあの種を、何とかして取り除きたかった。