押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第43話 ポーションより先に石鹸です

 

 六畳間の床には、まだ泥の気配が残っていた。

 

 昨夜、澪は長靴を玄関先で洗い、カッパを風呂場に吊るし、ホームセンターの長いレシートを会社用封筒に入れたところで力尽きた。朝になっても、長靴の溝には細かい土が残り、風呂場の床には薄い茶色の水跡があった。

 

 ローテーブルの上には、会社用封筒、スマホ、電卓、記録帳が並んでいる。

 

 封筒から、前話の原因そのものみたいなホームセンターのレシートが少しはみ出していた。ブルーシート、吸水式土嚢袋、土嚢袋、ロープ、スコップ、一輪車、作業灯、手袋。文字が小さく、長く、現実だった。

 

 澪はその封筒を両手で押さえ、スマホの通話画面を見た。

 

 明石さんの声は、いつも通り落ち着いていた。

 

「ここから先は、スポット相談では対応できません」

 

「スポット相談」

 

 澪は、聞き慣れない言葉をそのまま繰り返した。

 

「単発の相談です。法人化、口座、最初の帳簿。そこまでは個別相談でも見られます。でも、白金素材の売却、法人口座、役員借入金、役員報酬、給与処理、決算、証憑整理、大型支出の整理。ここまで来ると、継続して見ないと危険です」

 

 澪はローテーブルの上を見た。

 

 白金素材売却の明細。

 

 法人カードの明細。

 

 役員報酬のメモ。

 

 扶養から外れる連絡メモ。

 

 そして、昨日のホームセンターの長いレシート。

 

 どれも、黙ってこちらを見ている気がした。

 

「正式な顧問契約、ということですか」

 

「はい」

 

 澪はペンを持った。

 

 紙に、税理士顧問契約、と書く。書いた瞬間、六畳間の空気が少しだけ重くなった気がした。

 

「月額顧問料は60,000円。税込で66,000円です」

 

「毎月……」

 

「毎月です。毎月の帳簿を見ます。白金素材の売却、仕入れ、法人カード、役員報酬、源泉、証憑の残し方。そこを放っておくと、決算の時に崩れます」

 

「崩れる」

 

「はい。帳簿は、最後にまとめて作るものではありません」

 

 澪は反論できなかった。

 

 すでに、まとめて作れそうにない量になっている。

 

 記録帳に、税理士顧問料 66,000円/月、と書いた。

 

「決算申告料は300,000円。税込330,000円」

 

「年1回のやつですよね」

 

「はい。その年1回のために、毎月整えます」

 

 決算申告料 330,000円。

 

 数字を書くだけで、手首が少し重くなる。

 

「澪さんに役員報酬を出すなら、給与処理、源泉、年末調整、法定調書が必要です。そこは年間100,000円。税込110,000円」

 

「役員報酬をもらうにも、会社側で処理がいるんですね」

 

「いります」

 

 短い返事だった。

 

 澪は、年末調整・給与処理 110,000円、と書いた。

 

「さらに、白金素材売却、証憑整理、大型支出の判断、追加相談対応枠として年間200,000円。税込220,000円です」

 

「追加相談対応枠……」

 

「澪さんの場合、普通の雑貨販売より、説明が必要な取引が多いです」

 

 澪は黙った。

 

 心当たりしかない。

 

「合計で、税別1,320,000円。税込1,452,000円です」

 

 ペンが止まった。

 

「年間、1,452,000円」

 

「はい」

 

「税理士さんって、高いんですね」

 

「税金と帳簿を間違えた時の方が高いです」

 

 その言葉は、少しも脅しに聞こえなかった。

 

 むしろ、昨日の土嚢列よりずっと現実的に怖かった。

 

 澪は電卓を叩いた。

 

 1,452,000円を12で割る。

 

 121,000円。

 

「月に直すと、121,000円くらい……」

 

「そうです」

 

「高いけど、白金素材を毎月売るなら、払えない金額じゃない」

 

「払えない金額ではありません。ただし、払う前提で資金繰りを組んでください」

 

 澪は、固定費欄に新しい行を作った。

 

 税理士顧問料・決算等 年間1,452,000円。

 

 書いてしまうと、少しだけ落ち着いた。

 

 高い。

 

 でも、見えない不安よりはいい。

 

 白金素材を売るたびに、澪ひとりで、これは経費か、これは仕入れか、これは役員借入金か、と悩み続ける方が怖い。

 

「分かりました。正式にお願いします」

 

「承知しました。変な処理をしそうになったら止めます」

 

「かなり止めるんですか」

 

「かなり止めます」

 

「かなり……」

 

「澪さんの会社は、止めるところを間違えると、後で大きく崩れます」

 

 澪は、ホームセンターのレシートがはみ出した封筒を見た。

 

 崩れる。

 

 その言葉は、洪水後の土手より怖かった。

 

「会社は証拠でできているんですよね」

 

「はい」

 

「会社は顧問料でもできている……」

 

「そこまでは言っていません」

 

 明石さんが少しだけ笑った。

 

 澪は税込1,452,000円をもう一度丸で囲んだ。

 

 押入商会は、白金素材を売る会社になった。

 

 薬を作る会社にもなりかけている。

 

 そして今日、ちゃんと税理士に毎月お金を払う会社にもなった。

 

 

 

 

 

「それで、昨日のホームセンターのレシートですが」

 

 明石さんの声が、少しだけ事務的になった。

 

 澪は封筒を見た。

 

 長いレシート。

 

 青いシートと袋とスコップと一輪車でできた、約1,000,000円の紙。

 

「洪水応急資材です。市場保全、納品経路保護、薬品保管場所防水、水袋保護、作業安全用品です」

 

 澪は昨日書いた用途メモを見ながら言った。

 

 途中で眠ってしまったので、「作業安」で止まっている。朝になってから「全用品」と書き足したが、ペンの色が少し違っていた。

 

「洪水止めたんですよ」

 

「分かります。ただ、会社の経費として通るかは別です」

 

「別……」

 

 澪の声が小さくなった。

 

「会社の売上や納品に直接関わるもの、保管資材として説明できるものは残します。例えば、薬品保管場所の防水、納品経路の保護、在庫の保全に関わるものは説明できます。ただ、全量を会社経費にするのは難しいです。寄付、災害支援、個人判断に近いものも混ざっています」

 

 澪は黙ってレシートを見た。

 

 一輪車3台。

 

 ブルーシートありったけ。

 

 吸水式土嚢袋ありったけ。

 

 スコップ、ロープ、作業灯、軍手、バケツ、台車。

 

 たしかに、薬屋の仕入れとしては強すぎる。

 

「説明できないものは戻してください」

 

「戻すって、あたしの口座からですか」

 

「はい」

 

 澪はスマホの銀行アプリを開いた。

 

 会社口座。

 

 個人口座。

 

 法人口座に戻すべき金額を、明石さんと一つずつ分けていく。会社に残せるもの、保管資材として説明できるもの、説明が難しいもの。

 

 白金で増えたはずのお金が、個人口座から会社口座へ戻っていく。

 

 涙目になった。

 

「会社のために使ったのに……」

 

「分かります。ただ、帳簿で説明できる形にしましょう」

 

「川は説明できるのに」

 

「税務署は地元の川が氾濫していない事を言ってくるでしょう」

 

 澪は反論できなかった。

 

 異世界の川は、写真にも領収書にもならない。

 

 昨日の泥だけが、長靴に残っている。

 

「戻しました」

 

「確認します」

 

 明石さんの声は静かだった。

 

 澪はスマホを置き、しばらくレシート封筒を見つめた。

 

 薬を濡らさないために買った袋。

 

 市場を守るために広げた青いシート。

 

 それでも帳簿では、全部が会社経費になるわけではない。

 

 会社は証拠でできている。

 

 そして、証拠にならない正義は、個人財布から出る。

 

 澪は記録帳の隅に小さく書いた。

 

 涙目経費。

 

 すぐに二重線で消した。

 

 

 

 

 

 押し入れの向こうでは、雨は弱まっていた。

 

 市場裏の土嚢列はまだ残っている。泥を吸った袋は重く、ブルーシートの端には枝と葉が絡んでいた。川の水はまだ濁っているが、昨日ほどの勢いはない。

 

 アルベルトは土手を見て、護衛と市場組合の者へ指示を出していた。

 

「ここは仮のままにするな。板を増やせ。川側は石を入れ直す。水が引いたからといって、袋をすぐ外すな」

 

 泥のついた外套のまま、彼は現場を歩いている。若様と呼ばれているが、雨上がりの泥の中では、誰よりも実務の人だった。

 

 リュシアは市場側で濡れた荷と避難させた荷を分けている。

 

「紙札が濡れた箱はこっち。中身が無事なら、札を作り直す。布包みは開けるな。先に干す場所を決めるよ」

 

 エレナは子どもたちに軽い片づけをさせていた。重い土嚢には触らせない。紐を集める、乾いた布を運ぶ、濡れていない木札を箱へ戻す。その程度の作業を、言葉をかけながら進めている。

 

 澪は少し安心した。

 

 壊滅はしていない。

 

 市場は濡れたが、立っている。

 

 その時、荷運び人の一人が、土嚢のそばでしゃがみ込んだ。

 

「腹が……」

 

 大きな手で腹を押さえ、顔をしかめている。

 

 リュシアが近づいた。

 

「冷えたかい」

 

 男は答えようとして、また腹を押さえた。

 

 澪は足を止めた。

 

 冷え。

 

 疲れ。

 

 昨日の雨。

 

 泥かき。

 

 それだけならいい。

 

 でも、こういう時に嫌な予感は当たる。

 

「ちょっと見ます」

 

 澪は男の前にしゃがみ、手袋越しに様子を見た。

 

 顔色は悪い。額には汗。水を飲んだ形跡がある。足元の桶には、昨日までどこに置いてあったのか分からない柄杓が突っ込まれていた。

 

 澪の喉が少し鳴った。

 

 その時、トトが走ってきた。

 

「腹痛いって子、孤児院にもいる」

 

 澪は顔を上げた。

 

「何人?」

 

「3人。あと、熱っぽい子も」

 

 リュシアの目が細くなる。

 

「冷えだけじゃなさそうだね」

 

 澪は男を鑑定した。

 

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患者鑑定

 症状:腹痛、下痢、軽度発熱

 原因候補:汚れた水、冷え、疲労

 危険:脱水

 ポーション適性:低

 適合:正露丸、ポカリ

 補助:ビオフェルミン

 非適合:葛根湯、ロキソニン

 推奨:水分補給、安静、服薬記録

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 ポーション適性、低。

 

 澪は表示を見て、息を止めた。

 

 傷薬ではない。

 

 水と腹の問題だ。

 

 けれど、今回は止まらない。

 

 薬を使わない方向へ逃げない。

 

 正露丸。

 

 ポカリ。

 

 ビオフェルミン。

 

 鑑定は、出している。

 

「セルマさんの工房を、仮の診る場所にできますか」

 

 澪が言うと、リュシアはすぐ頷いた。

 

「できる。人数を集める」

 

「勝手に水を飲ませないでください。桶も、柄杓も、分けたいです」

 

「若様に言うよ」

 

 アルベルトがこちらを見た。リュシアが短く事情を伝えると、彼は迷わず頷いた。

 

「澪殿、必要なものは」

 

「あたしの国から薬と、熱を見る道具と、石鹸を持ってきます」

 

「石鹸?」

 

「たぶん今回は、薬と同じくらい大事です」

 

 澪は立ち上がった。

 

 個人口座から会社へ戻したばかりの財布が、胸の奥で泣いている気がした。

 

 でも、行くしかない。

 

 

 

 

 

 ドラッグストアの入口で、澪はカゴを持って固まった。

 

 棚が多すぎる。

 

 整腸剤、胃腸薬、風邪薬、解熱鎮痛薬、スポーツドリンク、体温計、衛生用品。

 

 普段ならここで検索して、悩んで、比較して、時間を溶かす。

 

 だが今日は、鑑定が仕事をした。

 

 棚の一部が、ふっと淡く光った。

 

 澪は目を瞬いた。

 

「光った」

 

 正露丸の箱が光っている。

 

 ビオフェルミンの棚も光っている。

 

 漢方胃腸薬も、葛根湯も、カコナールも、ロキソニンも。

 

 ポカリの箱買いコーナーまで、やたらと頼もしい光を放っている。

 

 非接触体温計の棚にも光が乗った。

 

 薬局の棚が、ダンジョンの宝箱みたいになっていた。

 

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洪水後対応候補

 腹痛・下痢:正露丸

 腸内回復補助:ビオフェルミン

 胃部不快感:漢方胃腸薬

 寒気・風邪初期:葛根湯

 発熱・頭痛:カコナール

 強い痛み・発熱:ロキソニン

 水分・塩分補給:ポカリ

 体温確認:非接触体温計

 衛生対策:石鹸、手袋、消毒用品、清掃用品

 備考:購入後、患者ごとに再鑑定

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 澪はカゴを持ち直した。

 

「分かった。光ったもの、買う」

 

 正露丸。

 

 ビオフェルミン。

 

 漢方胃腸薬。

 

 葛根湯。

 

 カコナール。

 

 ロキソニン。

 

 ポカリ。

 

 非接触体温計。

 

 予備電池。

 

 患者記録ノート。

 

 番号札。

 

 油性ペン。

 

 片っ端からカゴへ入れる。

 

 ただし、鑑定はもう一つ表示を出した。

 

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注意

 購入候補:適合可能性あり

 使用判断:患者ごとの再鑑定必須

 同一薬の一律配布:非推奨

 記録:必須

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 澪は小さくうなずいた。

 

「買うのは今。飲ませるのは向こうで鑑定してから」

 

 これで迷いは消えた。

 

 しかし、カゴはすぐにいっぱいになった。

 

 ポカリを箱で入れた時点で、腕が終わった。

 

 澪はカートを取りに戻った。

 

 薬だけではない。

 

 衛生用品売り場へ行くと、そこでも鑑定が光った。

 

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衛生対策候補

 手洗い:石鹸

 汚物・泥対応:使い捨て手袋、ゴミ袋

 患者対応:マスク、ペーパータオル

 清掃:清掃ブラシ、バケツ、雑巾

 表面清掃:アルコールシート、消毒液

 床・桶外側清掃:次亜塩素酸系衛生用品

 配布管理:スプレーボトル、水場用札、番号札

 備考:飲用水へ直接使用不可

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 石鹸が光る。

 

 使い捨て手袋が光る。

 

 ペーパータオルが光る。

 

 スプレーボトルが光る。

 

 バケツが光る。

 

 次亜塩素酸系の衛生用品まで光る。

 

「また買い占めだ……」

 

 澪はカートを押しながら、目の奥が熱くなるのを感じた。

 

 前回の100万円レシートの一部を、個人口座から会社へ戻したばかりである。

 

 その直後に、薬と石鹸と消毒用品でカートが埋まっていく。

 

「会社のため。街のため。薬を売るため。でも財布はあたし……」

 

 レジへ向かう頃には、カートは保健所の出張所みたいになっていた。

 

 会計後、澪はレシートを会社用封筒へ入れた。今回は最初から用途メモも書く。

 

 洪水後衛生対策。

 

 患者対応用品。

 

 体温測定器。

 

 服薬記録用品。

 

 手洗い用品。

 

 水場清掃用品。

 

 明石さんの顔が浮かぶ前に、澪は封筒を閉じた。

 

 浮かんでいたけれど、見なかったことにした。

 

 

 

 

 

 セルマ工房は、仮の診分け場所になっていた。

 

 作業台の上には布が敷かれ、患者記録ノートと番号札が並ぶ。壁際には水桶が置かれているが、すでにリュシアが飲用、手洗い、汚れ物用と札を分けていた。

 

 アルベルトは工房の入口で、列を整理している。

 

「腹痛の者、熱のある者、怪我の者を分けろ。勝手に薬を飲ませるな」

 

 澪は収納から非接触体温計を出した。

 

 セルマがすぐに目を留める。

 

「それは何だい」

 

「額に向けると、熱があるか分かる道具です」

 

「触らないのに?」

 

「はい。何人も続けて見られます」

 

 澪は荷運び人の額へ向け、ボタンを押した。

 

 ピッ。

 

 小さな音が鳴る。

 

 光る小窓に数字が出た。

 

 セルマが目を細める。

 

「その印で、熱が分かるのね」

 

「はい。これは微熱です」

 

 澪は数字を読み、言葉に直す。

 

 セルマもアルベルトも、数字を読めるわけではない。だから澪が「高い熱」「微熱」「平熱に近い」と言い換える。

 

 エレナとトトは、ピッという音にびくっとした。

 

 トトが額を差し出す。

 

「俺も」

 

 リュシアが後ろから肩をつかんだ。

 

「並べ」

 

「俺、伝令」

 

「伝令も並べ」

 

 トトは不満そうに番号札を受け取った。

 

 エレナは番号札の束を持ち、列の前で声を張った。

 

「手を洗ってからです。手を洗わない人は後ろです。額を見る道具に触らないでください」

 

 体温計を、額を見る道具。

 

 澪は少し笑いそうになったが、すぐに薬箱を作業台へ並べた。

 

 正露丸。

 

 ビオフェルミン。

 

 漢方胃腸薬。

 

 葛根湯。

 

 カコナール。

 

 ロキソニン。

 

 ポカリ。

 

 異世界側の工房に、現代の薬箱が並ぶ。

 

 セルマとリュシアが、じっと見る。

 

 薬の箱の色、文字、包装、瓶。どれもこの世界にはない整い方をしていた。

 

 澪は薬箱を鑑定した。

 

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現代常備薬セット

 正露丸:腹痛と下痢向け

 ビオフェルミン:腸の調子を整える補助

 漢方胃腸薬:胃の不快感、食欲不振向け

 葛根湯:寒気、風邪の初期向け

 カコナール:発熱、頭痛の補助

 ロキソニン:強い痛み、発熱の補助

 ポカリ:水分と塩分の補給

 備考:患者ごとの鑑定が必要

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「全部、腹の薬じゃないのかい」

 

 リュシアが聞いた。

 

「違います。腹の薬、熱の薬、冷えの薬、痛みの薬、水分を戻す飲み物です」

 

 セルマがゆっくり頷く。

 

「症状ごとに道を分ける薬なのね」

 

「はい。なので、勝手に配れません。1人ずつ鑑定します」

 

 アルベルトはそれを聞いて、すぐに外へ声を飛ばした。

 

「薬は澪殿とセルマを通せ。勝手に飲むな。飲んだ者は時刻と名前を残す」

 

 リュシアが続けた。

 

「腹が痛いなら勝手に飲むな。まず並べ」

 

 薬箱の前で、澪は深く息を吸った。

 

 薬を持ってきた。

 

 使う。

 

 でも、同じものを全員に渡すのではない。

 

 

 

 

 

 最初の荷運び人は、腹痛と下痢、軽い熱だった。

 

 額を測る。

 

 微熱。

 

 鑑定する。

 

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患者鑑定

 症状:腹痛、下痢、軽度発熱

 体温:微熱

 原因候補:汚れた水、冷え、疲労

 適合:正露丸、ポカリ

 補助:ビオフェルミン

 推奨:服薬後、休息、水分補給

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 澪は正露丸の瓶を開けた。

 

 匂いが、工房の空気を一瞬で変えた。

 

 リュシアが眉を寄せる。

 

「強い匂いだね」

 

「効きそうな匂いです」

 

「その言い方は信用していいのかい」

 

「鑑定は適合って出てます」

 

 澪は鑑定に出た用量を確認し、荷運び人に飲ませた。ポカリも少しずつ飲ませる。セルマは横で患者名、時刻、症状、飲ませたものを書き残す。

 

 すぐに完治するわけではない。

 

 けれど、しばらくすると、荷運び人の顔の歪みが少し緩んだ。

 

「差し込むのが……少し、ましだ」

 

 横になれる。

 

 それだけで、周囲の空気が変わった。

 

 リュシアが小さく言う。

 

「効いた」

 

「まだ記録中です」

 

 澪は慌てて言った。

 

 効いた、だけで終わらせてはいけない。

 

 何を飲んだか。

 

 いつ飲んだか。

 

 どう変わったか。

 

 全部残す。

 

 

 

 

 

 孤児院側の子どもたちは、軽い腹下しと食欲低下が多かった。

 

 シスターが不安そうに見守る中、澪は1人ずつ額を測り、鑑定した。

 

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患者鑑定

 症状:軽い腹下し、食欲低下

 体温:平熱に近い

 原因候補:水の変化、疲労

 適合:ビオフェルミン、ポカリ

 補助:休息、温かい食事

 推奨:経過観察

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「この子はビオフェルミンとポカリです」

 

 澪が言うと、トトが横から顔を出した。

 

「俺もそれがいい」

 

「トトも見る」

 

 トトは少しだけ腹を押さえながら、額を出した。

 

 ピッ。

 

「平熱に近いです。鑑定します」

 

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患者鑑定

 症状:軽い腹部不快感、疲労

 体温:平熱に近い

 原因候補:復旧作業後の疲労、水分不足

 適合:ポカリ

 補助:ビオフェルミン

 推奨:休息、伝令仕事の制限

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「伝令仕事の制限」

 

 澪が読むと、リュシアが笑った。

 

「ほら見ろ」

 

「鑑定が言うなら仕方ない」

 

 トトはポカリを受け取り、一口飲んで目を丸くした。

 

「甘い水」

 

「水分と塩分を戻す飲み物です」

 

「甘い水」

 

「そうとも言います」

 

 子どもたちの顔が少しだけ明るくなった。

 

 シスターは、ポカリの容器を両手で持ち、澪へ頭を下げた。

 

「水の薬、ですか」

 

「薬というより、体に戻す水です」

 

 澪はそう言いながら、自分でもその言葉がしっくり来るのを感じた。

 

 薬ではない。

 

 でも必要。

 

 

 

 

 

 市場の復旧作業者の中には、腹ではなく寒気を訴える者もいた。

 

 雨に濡れ、泥をかき、肩がこわばり、鼻がぐずつく。

 

 澪は額を測る。

 

 微熱。

 

 鑑定する。

 

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患者鑑定

 症状:寒気、頭痛、肩のこわばり

 体温:微熱

 原因候補:雨中作業後の冷え

 適合:葛根湯、ポカリ

 補助:毛布、休息

 非適合:正露丸

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「この人は葛根湯です」

 

 澪がスティックを出すと、作業者は紙包みを不思議そうに見た。

 

 湯に溶かし、飲ませる。

 

 顔が歪んだ。

 

「苦い」

 

「効く薬はだいたい苦いです」

 

 澪が言うと、セルマが少しだけ頷いた。

 

「それは、分かるわ」

 

 リュシアは笑った。

 

「苦くて高いなら、効かなきゃ困るね」

 

 しばらくして、作業者の背中に汗がにじみ始めた。震えが少し落ち着き、毛布にくるまって横になる。

 

 腹痛ではない。

 

 寒気には寒気の薬。

 

 鑑定が症状を分けていく。

 

 

 

 

 

 泥かき後に食欲が落ち、胃が重いと訴える者もいた。

 

 熱は平熱に近い。

 

 腹下しではない。

 

 けれど顔色が悪い。

 

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患者鑑定

 症状:胃の重さ、吐き気、食欲不振

 体温:平熱に近い

 原因候補:疲労、冷え、食事不調

 適合:漢方胃腸薬

 補助:温かい飲み物、休息

 非適合:ロキソニン

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「漢方胃腸薬です」

 

 澪が渡すと、男は用心深く飲んだ。

 

 しばらくして、やはり顔をしかめた。

 

「これも苦い」

 

「効く薬はだいたい苦いです」

 

「さっきも言ってたね」

 

 リュシアが笑う。

 

 セルマは薬の箱を見ながら言った。

 

「同じ腹の具合でも、下へ出る者と、胃で止まる者で薬が違うのね」

 

「そうみたいです」

 

「みたい、で使えるのが怖いわね」

 

「鑑定がなかったら、怖くて無理です」

 

 澪は本音を言った。

 

 現代の薬箱は便利だ。

 

 けれど、便利なものほど、間違えると怖い。

 

 

 

 

 

 セルマ工房の奥には、高い熱で眠れない者が寝かされていた。

 

 額へ体温計を向ける。

 

 数字が出る。

 

 澪はそれを見て、息を詰めた。

 

「高い熱です」

 

 セルマの顔が引き締まる。

 

 鑑定する。

 

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患者鑑定

 症状:発熱、頭痛、全身のだるさ

 体温:高い熱

 原因候補:雨中作業後の消耗

 適合:カコナール、ポカリ

 補助:休息、体を冷やしすぎない

 経過観察:必要

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「カコナールとポカリ。飲ませます」

 

 澪は水分を少しずつ取らせながら、薬を飲ませた。セルマが時刻を記録する。エレナが番号札を確認する。

 

 別の大人の作業者は、腰と膝を押さえていた。熱はない。だが、痛みで立てない。

 

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患者鑑定

 症状:腰の強い痛み、膝の痛み

 体温:平熱に近い

 原因候補:復旧作業による筋肉・関節負担

 条件付き適合:ロキソニン

 補助:食事、水分、休息

 服薬記録:必須

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 ロキソニン。

 

 箱を手に取った瞬間、セルマの目が鋭くなった。

 

「それは強い薬?」

 

「強いです。だから、この人だけ。鑑定で条件付き適合が出た人だけです。記録します」

 

「飲んだら休ませるわ」

 

「はい。痛みが引いても作業に戻さないでください」

 

 作業者は薬を飲み、しばらくして顔を上げた。

 

「痛みが……引いた」

 

 周囲がざわついた。

 

 セルマがすぐに言う。

 

「動くな」

 

「いや、動けそうで」

 

「動くな」

 

 錬金術師の声は、かなり怖かった。

 

 リュシアが笑いをこらえながら言う。

 

「効きすぎる薬は、働かせちゃいけない薬だね」

 

 澪は記録帳へ赤で書いた。

 

 ロキソニン服薬者、作業禁止。

 

 

 

 

 

 薬だけでは、足りなかった。

 

 澪は石鹸の箱を開けた。

 

 工房の入口、市場の井戸周り、孤児院、荷置き場。人が集まる場所へ石鹸を配る。使い捨て手袋、ペーパータオル、ゴミ袋、清掃ブラシ、バケツ、スプレーボトルも出す。

 

 リュシアが石鹸の山を見て、片眉を上げた。

 

「薬より先に石鹸かい」

 

「薬より先に石鹸です。たぶん今回は、石鹸が一番強いです」

 

 セルマが静かに言う。

 

「ポーションで治す前に、増やさないのね」

 

「はい。ポーションで治す前に、石鹸で増やさない」

 

 飲用桶、手洗い桶、汚れ物用桶を分ける。

 

 柄杓に札をつける。

 

 水場用札を立てる。

 

 汚れた床は清掃ブラシでこすり、泥のついた桶の外側を拭く。使い捨て手袋は、汚れたものを扱う者に渡す。ペーパータオルは患者対応用に分け、布と混ぜない。

 

 次亜塩素酸系の衛生用品を出した時、セルマは匂いだけで眉を寄せた。

 

「これは、薬ではないわね」

 

「掃除用です。鑑定します」

 

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次亜塩素酸系衛生用品

 用途:汚れた床、桶外側、泥の付着した道具の清掃補助

 飲用水への直接使用:不可

 薬への混入:不可

 注意:濃いまま使用注意、換気、手袋使用

 推奨:清掃用に限定

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「飲み水に入れない。薬に混ぜない。床、桶の外側、汚れた道具の清掃だけです」

 

 澪は強く言った。

 

 スプレーボトルには、清掃用、と大きく札をつける。

 

 アルベルトはそれを見て、すぐに人を割り振った。

 

「薬は澪殿とセルマを通せ。水は札のある桶からだ。柄杓を混ぜるな」

 

 リュシアが市場側へ怒鳴る。

 

「腹が痛いなら勝手に飲むな。まず並べ」

 

 エレナが番号札を配りながら声を上げた。

 

「手を洗ってからです。手を洗わない人は後ろです」

 

 トトが手伝って札を配る。

 

「手洗った人、こっち。洗ってない人、あっち」

 

「トト、走らない」

 

「歩いてる!」

 

「走りかけてる」

 

 こんな時でも、少しだけ笑いが出る。

 

 でも、その笑いの横で、桶は分けられ、水は分けられ、薬は記録されていった。

 

 

 

 

 

 数時間後、工房の中の空気は少し変わった。

 

 正露丸を飲んだ荷運び人は、腹の差し込みが弱まり、横になれていた。

 

 ビオフェルミンとポカリを飲んだ子は、頬に少し色が戻っている。

 

 葛根湯を飲んだ作業者は汗をかき、震えが落ち着いた。

 

 カコナールを飲んだ発熱者は、ようやく眠れた。

 

 ロキソニンを飲んだ大人は痛みが引き、起き上がろうとしてセルマに怒られている。

 

 薬は効いた。

 

 けれど、勝手に効いたわけではない。

 

 患者記録ノートには、番号札、名前、症状、体温、飲ませた薬、時刻、反応が並んでいる。

 

 澪はそのページを見た。

 

 誰に、いつ、何を、どれだけ、どうなったか。

 

 記録が増えている。

 

 薬箱の中身は、同じように見えるのに、渡す相手で意味が変わる。

 

 最後の子どもがポカリを少しずつ飲み、腹を押さえていた荷運び人が眠り、熱の高かった者が毛布の中で息を落ち着けた頃、澪はセルマ工房の椅子に座った。

 

 薬箱を見下ろす。

 

 正露丸。

 

 ビオフェルミン。

 

 漢方胃腸薬。

 

 葛根湯。

 

 カコナール。

 

 ロキソニン。

 

 ポカリ。

 

 同じ薬箱の中に入っているのに、誰にでも同じようには渡せなかった。

 

 澪は疲れた指で、自分を鑑定した。

 

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篠原澪

 体力:低下

 集中:高

 鑑定:7

 収納:8

 錬金:4

 薬学:1

 商才:上昇中

 手仕事:成長中

 彫金:1

 新規経験:症状別服薬判断

 新規経験:患者別投与記録

 新規経験:水分補給と薬効の併用

 備考:薬を作るだけでなく、使う相手を選ぶ経験を得た

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 澪は、しばらく表示を見つめた。

 

「薬学……」

 

 とうとう生えた。

 

 嫌ではない。

 

 でも、軽く喜べるものでもなかった。

 

 さらに鑑定を見る。

 

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鑑定:7

 新規理解:生体状態鑑定

 症状判定:強化

 原因候補表示:強化

 服薬適合判定:可能

 禁忌警告:可能

 投与量目安:補助表示

 経過観察記録:可能

 備考:薬品・患者・水分状態を合わせて判定できる

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 続けて薬学。

 

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薬学:1

 新規理解:症状別投薬

 薬品分類:初級

 服薬記録:可能

 副作用警戒:初級

 備考:鑑定に依存しつつ、薬の使い分けを学び始めた

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 ポーションを作れるようになった時より、澪は少し怖かった。

 

 薬は、あるだけでは足りない。

 

 誰に、いつ、何を、どれだけ渡すかを間違えたら、薬は薬ではなくなる。

 

 セルマが、薬箱を見下ろす澪の横に立った。

 

「怖い顔をしているわ」

 

「怖いです」

 

「効いたのに?」

 

「効いたから、怖いです」

 

 セルマは少し黙り、それから頷いた。

 

「それなら、いい薬師になれるかもしれないわね」

 

「薬師じゃないです。押入商会です」

 

「今夜は、薬師の仕事をしたわ」

 

 澪は返事ができなかった。

 

 押入商会は、傷薬を作るだけの商会ではなくなっていく。

 

 薬を選び、水を分け、手を洗わせ、記録を残す商会になりかけている。

 

 どこへ向かっているのか、やっぱり分からない。

 

 

 

 

 

 現代側へ戻ると、六畳間はまたレシートでいっぱいになった。

 

 ドラッグストアのレシート。

 

 ホームセンターのレシート。

 

 石鹸、手袋、体温計、薬、ポカリ、消毒用品、バケツ、スプレーボトル。

 

 会社経費にできるものと、微妙なものが混ざっている。

 

 前回の100万円レシートで個人口座から会社へ戻したばかりなのに、また領収書が増えた。

 

 澪は財布を見た。

 

 法人口座を見た。

 

 個人口座を見た。

 

 涙目になった。

 

「薬を売るために、薬より石鹸を買っている……」

 

 記録帳を開く。

 

 ペンを持つ。

 

 明石さんに説明するものが、また増えた。

 

 澪はその夜、記録帳に大きく書いた。

 

 ポーションで治す前に、石鹸で増やさないこと。

 

 押入商会は、傷薬を作る商会から、薬を選び、水を分け、手を洗わせる商会へ一歩進んでしまった。

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