押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第430話 それだけを収納します

 

 

 診察室へ向かう廊下で、書類箱を抱えた侍従とすれ違った。

 

 相手は足を止め、箱を抱え直して道を空けた。

 

 メリルが、その先の扉を開ける。

 

「ヨルド様をお連れしました」

 

 ヨルドに扮したヴァルトは、室内へ一礼した。

 

 窓から差す朝日が、診察台に掛けられた布を白く照らしていた。

 

 国王は、その脇の椅子に腰を下ろしている。

 

 クラウスは少し離れた位置に座り、侍医が広げる記録を見ていた。

 

 昨日の軍の草案は、ここにはない。

 

 ヴァルトは小卓の端へノートを置いた。

 

 メリルが静かに退出し、扉を閉める。

 

「昨日お伝えした異物について、詳しいことが分かりました」

 

 侍医が記録を押さえ、国王へ向き直った。

 

「私の診察では、今朝も脈や呼吸に大きな変化は見られませんでした。ただ、ヨルド様が調べられた異物は、そのまま残っております」

 

 国王の目が、ヴァルトへ移る。

 

「何であった」

 

 ヴァルトは、ノートを国王に読める向きへ回した。

 

 名称の下に、分類と、調べた範囲の形を記してある。

 

「《我欲の種》と読めました。生き物ではなく、魔術の仕組みを持つ、ごく小さな人工物です」

 

「我欲」

 

 王が、その二文字を口にした。

 

 ノートには手を伸ばさず、椅子の肘掛けを握った。

 

「随分な名だな」

 

「《鑑定》で出た名称を、そのまま写したものです」

 

「それで、何をする物だ」

 

 ヴァルトは、読み取れた術式の部分へ指を添えた。

 

 複雑な線を見せるだけでは、説明にはならない。

 

 顔を上げ、国王の目を見た。

 

「身体に入れられた人が、元から持っている欲求へ働き掛ける構造が見えました。その欲求を、強めている可能性があります」

 

 王の眉が寄った。

 

「昨日、わしが軍の話を先にしたからか」

 

「それも、気になったことの一つです。ただ、全ての働きが分かったわけではありません」

 

「わしの考えまで、偽物だと言うのか」

 

 クラウスの椅子が、わずかに軋んだ。

 

 ヴァルトは口を開きかけ、宰相が国王へ向き直るのを待った。

 

「救援へ兵を送れる軍が必要だというお考えを、私どもが否定するものではございません」

 

「ならば、なぜ、その話になる」

 

「陛下は昨日、ベラクルスへの救援から考えておられたと仰せでした。軍籍に載る人数と、動かせる兵の数が合わぬ。その問題は、現にございます」

 

 クラウスは、膝の上で重ねた手をほどいた。

 

「そこを正す仕事は、必要です。ですが、そのお考えに、陛下の知らぬところで何かが働き掛けているなら、放置はできませぬ」

 

 国王は、肘掛けを握ったまま黙った。

 

 侍医の記録紙が、窓から入る風で少し浮く。

 

 侍医が指を置いて押さえた。

 

「誰かが、わしに命じておるということか」

 

 今度の問いは、ヴァルトへ向けられた。

 

「外から命令を受け取る構造は、読み取れた範囲にはありませんでした」

 

「では、わしが軍を欲しがったのは」

 

「陛下ご自身が望まれたことだと伺っています。私に、そのお考えの中身まで見えるわけではありません」

 

 王はノートへ目を下ろした。

 

 小さな人工物の輪郭を描いた線の上で、視線が止まる。

 

「このようなものを、入れられておったのか」

 

「お身体にあることは、確認できました。誰が、いつ入れたかまでは、まだ分かりません」

 

 国王は片手を肘掛けから離し、自分の胸元へ置いた。

 

 指先で服の布を押さえ、何も感じないことを確かめるようにした。

 

 クラウスは、その手を見ていた。

 

 昨日は、身体の話からすぐに軍の書類へ戻った。

 

 今朝の王は、ノートから目を離さなかった。

 

「取り出せるのだな」

 

「方法は考えております。ご説明します」

 

 ヴァルトは椅子を少し引き、小卓と国王の間を空けた。

 

「《収納》で、この人工物だけを取り除きます」

 

「身体の中からか」

 

「はい。今のお身体を改めて調べ、その物と周りの組織の境目を確かめてから、対象を選びます」

 

 王は、ノートにある輪郭と、ヴァルトの手元を見比べた。

 

「切るのではないのか」

 

「刃を入れずに取り出す方法です」

 

「肉まで持っていくことは」

 

「そうならないよう、人工物だけを指定します。境目を確かめられなければ、そのまま進めません」

 

 王の指が、胸元から膝へ下りた。

 

 侍医は、国王の手首へ触れられる位置に寄った。

 

「傷を付けぬなら、抜けば済むのではないか」

 

「その後のお身体に、何が起きるかは分かりません」

 

 ヴァルトが答えると、侍医もうなずいた。

 

「異物が長く身体にあった場合、取り除いた後の反応を診る必要がございます。今回は、同じ物を摘出した後の経過も分かっておりません」

 

「今は何ともないぞ」

 

「はい。ですから、その状態を記録して、摘出の前後で比べます」

 

 侍医は、国王の手首へ指を置いた。

 

 王は手を引かなかった。

 

 ヴァルトは、収納に保管しているエリクサーを意識した。

 

 昨日、急変した時に使える薬があると侍医には伝えた。

 

 何を持っているか、後ほど伺うという返事も覚えている。

 

 まだ、その話は済んでいなかった。

 

 侍医はいま、国王の脈を取り、処置前の様子を記録することに手を使っている。

 

 ヴァルトはノートの次の頁を開いた。

 

 薬の相談は、必要になればするつもりだった。

 

 その前に、国王へ伝えなくてはならないことが残っていた。

 

「途中で痛みや苦しさを感じられたら、お知らせください。対象を収納する前でしたら、手を止められます」

 

「取り出した後は」

 

「侍医にお身体を診ていただきます。私も、その場を離れません」

 

 侍医は国王の手をそっと戻した。

 

「少し動かずにいられる姿勢を取っていただきます。こちらでお支えしますので、ご無理に力を入れないでください」

 

「……それを抜けば、軍を欲しがる気持ちも消えるのか」

 

 王は、クラウスではなくヴァルトを見て尋ねた。

 

「その点は、保証できません。取り除くのは、体内の人工物だけです」

 

「抜かぬ方がよいことも、あるのか」

 

 ヴァルトは、一度ノートへ目を落とした。

 

 分からないところを空欄のままにしていた紙だった。

 

 そこを、都合のよい言葉で埋めることはできなかった。

 

「抜いた後の危険を、今、全てお話しすることはできません。ただ、身体へ働き掛けている疑いのある人工物を、そのままにしておくことも勧められません」

 

 王は長く黙った。

 

 クラウスは声を掛けず、膝の上へ両手を戻した。

 

 診察室の外で、箱を床に下ろす低い音がした。

 

 国王が顔を上げる。

 

「わしが望んだ軍は、わしが考える」

 

「はい」

 

「その種には、任せぬ」

 

 王は、ヴァルトへ短くうなずいた。

 

「ならば、やってみよ」

 

 侍医が記録へ筆を入れた。

 

 クラウスはようやく息を吐き、立ち上がった。

 

 王の答えを促すための言葉は、使わずに済んだ。

 

 ヴァルトはノートを引き寄せ、頁の端を揃えた。

 

「支度を整えてから、もう一度、お身体を確認します」

 

 王は椅子から立ち、侍医に示された診察台へ向かった。

 

 その足取りを、クラウスがすぐ後ろから見守った。

 

 

 

 侍従次長の机に、王都警備隊からの報告が届いた。

 

 使者は、薄い封書を差し出したまま待っていた。

 

 侍従次長は書面を開き、地図儀の工房について記された箇所を読む。

 

「追加加工の指示と支払い先は、まだ確認中か」

 

「はい。工房の帳簿と、注文の経緯を調べております」

 

「引き続き調べてくれ。返事は、ここへ」

 

 使者が退出すると、保守担当を呼び入れた。

 

 机の脇には、旧保守区画の鍵が用意されている。

 

「問題の区画は、当面、立入りと通常の保守操作を止める。今ある作業記録も残しておけ」

 

「誰も入れぬよう、手配いたします。接続条件そのものの修復は、いかがいたしましょう」

 

「ヨルド殿へ、陛下の処置の後で頼む」

 

 侍従次長は、入域と立会いの許可を書き添えた。

 

「それまでは、止めたから直ったと思わぬように」

 

「承知しました」

 

 保守担当が鍵を受け取り、指示の書面とともに持っていく。

 

 侍従次長は、工房の報告を献上品の控えへ挟んだ。

 

 軍の調達案にある商人の名も、同じ束の中に残っている。

 

 どちらの書類にも、まだ、犯人と書き込める箇所はなかった。

 

 

 

 侍医が診察台の布を整え、国王の肩の位置を確かめた。

 

 上体を支える姿勢が決まると、王は肘に入れていた力を抜いた。

 

 ヴァルトは小卓へノートを置き、昨日の輪郭が描かれた頁を開く。

 

 クラウスが、診察台の足元寄りへ移った。

 

 そこなら、王の顔を見ることができる。

 

 侍医とヴァルトが動く場所も塞がない。

 

「脈と呼吸を確認しました」

 

 侍医は、国王の手首から指を離さずに言った。

 

 ヴァルトは国王へ向き直った。

 

「改めて、異物の位置を調べます」

 

「任せる」

 

 王の声は、はっきりしていた。

 

 ヴァルトは《鑑定》を使った。

 

 身体異常の情報を追い、昨日と同じ人工物を見つける。

 

 我欲の種。

 

 非生物であることを確かめ、存在する位置へ意識を絞った。

 

 昨日の記録をいったん頭から離す。

 

 そこにあるはずだと思って見るのではなく、いま見えている輪郭を辿る。

 

 王が息を吸い、診察台の布がわずかに動いた。

 

 ヴァルトは、その動きが収まるのを待った。

 

 《境界》で、人工物と、生体の組織との違いを追う。

 

 小さなものだった。

 

 ノートには大きく描いたが、身体にある実物は、紙へ置いた筆の先よりもずっと小さい。

 

 人工物の輪郭を辿り、周囲の組織との境目を確かめた。

 

 王の目が、ヴァルトの顔へ向けられていた。

 

 どう進んでいるのかを、知りたいのだろう。

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

「昨日見えた物を、今も確認できています」

 

「そこにあるのだな」

 

「はい。境目を、もう少し確かめます」

 

 国王はうなずき、顎を少し引いた。

 

 侍医が肩へ手を添える。

 

「その姿勢のままでお願いいたします」

 

 王は言われた通りにした。

 

 ヴァルトは、人工物へ意識を戻した。

 

 周囲の血液も、身体を作る組織も、対象には含めない。

 

 取り出そうとする一個の外側を、輪郭に沿って切り分ける。

 

 普段、品物を収納する時なら、手早く終える操作だった。

 

 その正確さを、今は人の身体の中で求められている。

 

 ヴァルトは、指先を小卓の縁から離した。

 

 侍医の指が、王の手首に触れている。

 

 クラウスは、両手を身体の横へ下ろして待っていた。

 

 王が先ほど承諾した声を、ヴァルトは覚えている。

 

 確認を求められた危険に、全て答えられたわけではない。

 

 それでも、王は任せると決めた。

 

 非生物の人工物、一個。

 

 ヴァルトは王へ告げた。

 

「それだけを収納します」

 

 薄い靄が、わずかに生じた。

 

 《収納》の対象を、我欲の種へ定める。

 

 輪郭が消えた。

 

 ヴァルトはすぐ、国王の身体を見直した。

 

 先ほどまで人工物が存在したところに、その物はない。

 

 周囲の組織が一緒に失われた様子もなかった。

 

 続いて、自分の収納内を確かめる。

 

 我欲の種が、一個、入っていた。

 

 他の所持品とは分けて、その存在を捉える。

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

「取り出せました」

 

「……そうか」

 

 王の声を聞いて、クラウスの肩が少し下がった。

 

 その息が抜けきる前に、国王の手が胸へ上がった。

 

「……ぐっ」

 

 服の布を掴む。

 

 指が折れ、襟元が強く引かれた。

 

 侍医が、身体を支えていた手を動かす。

 

「陛下」

 

 国王の上体が前へ倒れかけた。

 

 侍医は肩を受け、診察台の上で支え直した。

 

 短い息が、喉から漏れる。

 

「胸が……」

 

 その先の言葉は、続かなかった。

 

「陛下、聞こえますか」

 

 侍医の指が、手首の脈を追った。

 

 王は口を開き、息を吸おうとした。

 

 胸が小刻みに動いている。

 

 クラウスが一歩踏み出した。

 

 侍医が国王の肩の位置を変えるのを見て、足を止める。

 

 椅子を自分の後ろへ引き、身体を退いた。

 

「陛下!」

 

 王の目がそちらへ向いたが、返事はなかった。

 

 ヴァルトは《鑑定》を続けていた。

 

 種は身体に戻っていない。

 

 指定した周囲を巻き込んでもいない。

 

 確認を終えるのと同時に、血管の位置へ意識を移した。

 

 この苦しみを、いま止めなくてはならない。

 

 収納には、常備しているエリクサーがある。

 

 侍医の前で薬瓶を出し、説明している余裕はない。

 

 ヴァルトは《鑑定》で、下大静脈の位置を捉えた。

 

 血管の外側ではなく、その内側を、取り出し先に定める。

 

 収納にある小瓶から、エリクサーの薬液だけを選んだ。

 

 そして、下大静脈の内部へ直接、取り出した。

 

 瓶は、収納の中に残る。

 

 ヴァルトの手は、何も持っていなかった。

 

 薬液は血流へ入り、国王の身体へ働き始めた。

 

「陛下、少しこちらへ」

 

 侍医が支える肩に合わせ、王の姿勢が変わった。

 

 ヴァルトは《鑑定》から意識を外さなかった。

 

 エリクサーを使えたことだけで、終わりにはできない。

 

 侍医の手元と、王の身体を見続ける。

 

 国王は胸元の服を握っていた。

 

 その指の間から、布が少しずつ戻った。

 

 荒い息は、まだ聞こえる。

 

 だが、吸おうとして途中で詰まっていた呼吸に、長さが戻ってきた。

 

 次の息が続く。

 

 その次も、続いた。

 

 侍医が王の顔を覗き込む。

 

「お声が聞こえますか」

 

 国王の目が動いた。

 

 少し遅れて、顎が下がる。

 

「……聞こえる」

 

 クラウスは、引いた椅子の背へ手を置いた。

 

 椅子を戻すことも、そこへ座ることもしなかった。

 

「呼吸が落ち着いてきました。そのままで、もう少し」

 

 侍医は脈を見る指を離さなかった。

 

 ヴァルトは、国王の身体の変化を確かめた。

 

 投与したエリクサーが効いている。

 

 胸痛を引き起こした理由は分からないが、呼吸の乱れは弱まっていた。

 

 王の額に浮いていた汗を、侍医が布で押さえた。

 

 国王はその布を嫌がらず、目を閉じた。

 

「痛みはいかがですか」

 

「……さっきほどではない」

 

「苦しさは」

 

 国王は、今度はすぐに答えなかった。

 

 一度息を吸い、吐いてから、声を出した。

 

「息は、できる」

 

 侍医が小さくうなずいた。

 

 クラウスは、椅子の背を握っていた手をほどく。

 

 ヴァルトも、ようやく息を吐いた。

 

 指先に力を入れたまま立っていたことに、その時、気づいた。

 

 

 

 国王が、薄く目を開いた。

 

「……クラウス」

 

 宰相はすぐ、診察台の脇へ寄った。

 

 侍医の手が動く場所だけは、空けておく。

 

「陛下」

 

 呼ばれた名へ返した声が、少し掠れた。

 

 王は、その顔を見た。

 

「そこにおったか」

 

「はい。ここにおります」

 

 国王の手が、胸元から診察台の布へ下りた。

 

 握っていた服に、深い皺が残っている。

 

 クラウスはその手へ触れかけ、侍医が再び脈を取るのを待った。

 

「しばらくお休みいただきます」

 

 侍医が言った。

 

「もう一度痛みや苦しさがありましたら、すぐお知らせください」

 

 国王は目を閉じ、うなずいた。

 

 侍医が顔を上げる。

 

「ヨルド様。異物は、取り出されたままなのですね」

 

「はい。私の収納にあります。お身体の中には、見えていません」

 

 ヴァルトは、確認したことだけを伝えた。

 

 侍医は小卓へ手を伸ばし、記録に短く書き付けた。

 

「取り出した後の、あの痛みは……」

 

 国王が、目を閉じたまま尋ねる。

 

 侍医は筆を置いた。

 

「原因は、今のところ分かりません。呼吸と脈は落ち着いてきておりますが、続けて診させてください」

 

 その返事を聞いて、王は動かなかった。

 

 ヴァルトは診察台から半歩離れた。

 

 自分の所見を書き留めるため、ヴァルトはノートを開いた。

 

 種を収納した時のことと、その後に生じた身体の変化を記す。

 

 小卓へ戻したノートの脇に、侍医の記録が置かれる。

 

 そこには、異物除去後の胸痛と呼吸の乱れ、そして改善の経過が書かれていた。

 

 侍医は、いつまで安静にするかをクラウスへ話している。

 

 ヴァルトはノートを閉じた。

 

「あの軍は……」

 

 クラウスが身を寄せた。

 

 国王は続きを言おうとしたが、息を吐き、目を閉じた。

 

「お話は明朝、お身体を診ていただいてからにいたしましょう」

 

 返事を求めず、クラウスは侍医へ向き直った。

 

「今日の政務は止める。明日の予定も、診察を終えてからだ」

 

 侍医はうなずき、記録の余白へ書き添えた。

 

 侍医は診察台の布を整え、休む部屋へ移る支度を始めた。

 

 ヴァルトは、人工物が一個、収納にあることをもう一度確かめる。

 

 これを出して調べる仕事は残っている。

 

 今は、外へ出さなかった。

 

 クラウスが国王に付き添い、侍医の指示で静かに部屋を移った。

 

 診察室に残ったヴァルトは、国王の服を掴んだ手と、薬の投与先を思い返した。

 

 エリクサーは役に立った。

 

 だが、あの痛みがなぜ起きたかという空欄は、ノートに残っている。

 

 小卓の上に散っていた紙を揃え、持ち上げた。

 

 

 

 午後、国王の呼吸が落ち着いたままであることを、ヴァルトは侍医に確かめた。

 

「こちらで続けて診ております。変化があれば、お呼びします」

 

 その返事を受けてから、メリルの案内で保守区画へ向かった。

 

 侍従次長が、入口で許可の書面を保守担当へ示した。

 

「ヨルド殿に、問題の接続を確認していただく」

 

 保守担当が鍵を開け、先に入った。

 

 午前の指示により、通常の操作は止めてある。

 

 作業記録も、手を加えずに残されていた。

 

 ヴァルトは、《境界》で旧保守系統の接続条件を辿った。

 

 人の出入りを止めても、術式に残る綻びは閉じていない。

 

 先に確認した箇所を、記録と照らし合わせる。

 

 必要な設備へ通じる部分を残し、問題の接続だけに手を入れた。

 

 以前の保守で扱った仕組みだった。

 

 周囲へ広げず、一つずつ条件を閉じていく。

 

 終えてから、同じ箇所を別の側から確かめ直した。

 

 不適切な接続は、通らなくなっている。

 

 保守担当に正規の操作を確かめてもらい、周辺設備へ支障が出ていないことも確認した。

 

「問題の接続は閉じました。ほかの設備にも、影響はありません」

 

 ヴァルトは結果を書き留め、侍従次長へ渡した。

 

 用紙を受け取った相手が、その顔を見る。

 

「この後は、控室へ」

 

「はい。呼ばれれば、すぐに伺います」

 

 メリルが待つ廊下へ出ると、窓から入る光が朝とは違う角度で床を照らしていた。

 

 

 

 夕刻、クラウスは机の上の草案を畳んだ。

 

 端に付いた折り目へ、指が引っ掛かる。

 

 昨日、国王から押し渡された紙だった。

 

 今日も、その編成案に決裁はない。

 

 陞爵に関する書類は、別に揃えて脇へ置いた。

 

 侍従次長が入ってきた。

 

「境界の修復は済みました。工房の調査は、継続中です」

 

 クラウスは、差し出された報告を受け取った。

 

 修復の確認には、ヨルドの名が記されている。

 

「陛下への報告は、明日の診察後にしよう」

 

「承知いたしました」

 

 クラウスは軍の草案と報告を、重ねずに置いた。

 

 朝、国王はその種には任せぬと言った。

 

 あの声で命じられた仕事を、ヴァルトは果たした。

 

 その後の、胸元を握った指も思い出す。

 

 クラウスは草案へ伸ばしかけた手を戻し、国王の休む部屋へ行くために立ち上がった。

 

 

 

 夜、侍医は寝台の脇で、国王の手首へ指を置いていた。

 

 灯りは枕元から少し遠ざけてある。

 

 午前中、衣服を掴んでいた手は、今は寝具の上で緩んでいた。

 

「お加減はいかがですか」

 

「痛みは、もうない」

 

 侍医は呼吸を確かめ、手を戻した。

 

「明朝、改めて診させていただきます」

 

 国王は短くうなずいた。

 

 侍医が筆を取り、今の受け答えを記録する。

 

 外の廊下を、夜の当番が通っていった。

 

「……あの軍の草案は、どうなっておる」

 

 侍医の筆が止まった。

 

「宰相がお預かりしております」

 

 国王は、その返事を聞いて目を閉じた。

 

「そうか」

 

 侍医は、続く言葉を待った。

 

 寝具が、王の息に合わせて静かに動いている。

 

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