押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第431話 王に戻った日

 

 翌朝、寝室の窓から差した光が、水差しの縁を照らしていた。

 

 枕元から遠ざけられた灯りは、もう消されている。

 

 国王は寝台に身を預けたまま、手首に触れる侍医の指を見ていた。

 

「昨夜から、痛みは再発しておりませんか」

 

「ない。息も苦しくない」

 

「眠れましたか」

 

「途中で目は覚めたがな」

 

 王は、窓へ目を移した。

 

 庭の枝が、明るい空を背に揺れていた。

 

 侍医が脈を取り終え、記録に筆を走らせた。

 

 その脇で待っていたヴァルトへ、国王が顔を向ける。

 

「ヨルド。今朝も、調べるのだな」

 

「はい。昨日、異物があったところを確認させてください」

 

 王がうなずいた。

 

 ヴァルトは《鑑定》を使った。

 

 昨日の位置に、我欲の種はない。

 

 身体異常の情報にも、あの人工物は見当たらなかった。

 

 収納には、昨日取り除いた種が一個ある。

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

「昨日の異物は、今も見当たりません」

 

 侍医が、ヴァルトの所見を書き留めた。

 

 国王の手は寝具の上で緩んでいた。

 

 昨日は胸元の衣服を握りしめていた手だった。

 

 昨日、自分の収納から取り出したエリクサーは、王の身体へ届いた。

 

 それでも、種を抜いた直後の痛みの理由は分からない。

 

「今朝の所見は、落ち着いております」

 

 侍医が国王へ告げた。

 

「ただ、昨日の急変が何だったかは、まだ分かりません。今日も続けて診させていただきます」

 

 王は少し黙ってから尋ねた。

 

「では、政務は、どこまで許される」

 

 侍医が筆を置いた。

 

「寝たまま、短い報告をお聞きになる程度まででございます。長い会議は、お控えください」

 

「ここで聞くならよいのか」

 

「お疲れになる前に、切り上げていただければ」

 

 国王は、寝台の脇にある小卓を見た。

 

 軍の書類は、まだ置かれていない。

 

「分かった。クラウスを呼べ」

 

 侍医は戸口の侍従へ伝え、戻ってきた。

 

 ヴァルトは今朝の所見をノートへ写した。

 

「必要でしたら、お呼びください。控室におります」

 

「うむ」

 

 王は、退出しかけたヴァルトを見た。

 

「昨日は、世話になった」

 

 ヴァルトは一礼した。

 

「お加減が落ち着かれて、何よりです」

 

 それ以上は言わず、寝室を出た。

 

 前室の椅子には、まだ誰も座っていなかった。

 

 扉が閉まると、朝の廊下を行き来する足音が、はっきり聞こえた。

 

 

 

 クラウスは、畳んだ草案を持って寝室へ入った。

 

 侍医が椅子を示し、短い面会に留めるよう、目で念を押した。

 

 宰相は小さくうなずき、寝台の脇へ座る。

 

 王の顔色を見てから、持参した紙を膝の上で開いた。

 

「昨夜、お尋ねになった草案でございます」

 

「見せよ」

 

 クラウスは、王が読みやすい向きへ紙を回した。

 

 国王は一方の端を持ち、折り目を伸ばす。

 

 クラウスは、紙の下から手を添えたまま待った。

 

「わしは、やはり軍が欲しい」

 

 クラウスは答えを急がなかった。

 

 草案の上を、王の視線が動いている。

 

「ベラクルスのようなことが、またあっては困る」

 

「必要なところへ、兵を送れるようにする。そのための軍でございますね」

 

「そうだ。出せると聞いておった兵が、必要な時には出てこぬ。あれでは、待つ者に何も届かぬ」

 

 王の指が、兵員の欄へ下りた。

 

「一昨日、そなたが尋ねておった数だが」

 

 顔を上げる。

 

「この兵は、本当におるのか」

 

 クラウスは、紙の下から支えていた手を少し動かした。

 

 同じ欄を、自分も一昨日指した。

 

 その時には、足りなければ募集すればよいと返された。

 

「以前の軍籍をもとにした数でございます。実員との照合は、済んでおりませぬ」

 

「軍営へ行けば、この数だけ集まるとは言えぬのだな」

 

「はい。所在が分かった者でも、今、招集に応じられるかは別に確かめる必要がございます」

 

 王の口元が引き結ばれた。

 

 兵員の欄に書かれた数字を、もう一度読む。

 

 クラウスは、その沈黙へ説明を重ねなかった。

 

「おらぬ兵を数えて、軍を作ったことにはできぬな」

 

「まず、実際に動かせる数を確かめたく存じます」

 

「装備もか」

 

「装備、糧秣、訓練の状況も調べます。人数が確かでも、明日出られる部隊と、支度に日数の要る部隊を、同じには扱えません」

 

 王は草案の端を持ち直した。

 

 補給拠点から軍営へ引かれた線を、指で辿る。

 

「道だけあっても、兵と食糧が来なければ意味はない」

 

 クラウスはうなずいた。

 

「現にいる兵を調べよ。そこから、動かせる者を分ける。何を揃えれば出られるのか、何日かかるのかもだ」

 

「承知いたしました。費用と指揮系統についても、確認が必要でございます」

 

「それも調べよ」

 

 王の返事は、短かった。

 

 クラウスは、王の持つ端を引き取らず、次の用件を申し出た。

 

「新たな軍を作る案と、今ある軍を整え直す案を、比べてお持ちしてもよろしゅうございますか」

 

 国王は顔を上げた。

 

「わしの案では、足りぬか」

 

「まだ、比べられるだけの報告が揃っておりません。どちらが救援へ早く動けるか、費用を続けて出せるかを確かめたく存じます」

 

 王は少し眉を寄せた。

 

 それから、草案の下の方へ目を移した。

 

「続けて、か」

 

「兵を集めた後も、給金と糧秣を出し続けなくてはなりません」

 

「……そなたの領も、楽ではなかった」

 

「はい」

 

「そこから出させた兵を、毎度当てにするわけにもゆかぬ」

 

 国王は、草案をクラウスの方へ戻した。

 

「比べて持ってこい。ここにある数を、先に確かめてからだ」

 

 戻された草案の決裁欄には、何も書き加えられていなかった。

 

「王都から調べを進めます。軍営の報告が届きましたら、その都度、整理いたします」

 

「全部揃ったふりはするなよ」

 

「分からぬところは、そのままお伝えいたします」

 

 王はうなずき、手を寝具へ戻した。

 

 クラウスは草案を畳んだ。

 

 その下に、もう一つの書類がある。

 

 この件も、宙に浮かせたままにはできない。

 

 侍医がそちらを見た。

 

 クラウスは、用件を短く告げた。

 

「もう一つ、陛下。公爵への陞爵の件は、まだお返事をいたしておりません」

 

 王の目が、畳まれた草案から書類の角へ移った。

 

「そうであったな」

 

 クラウスは、その紙を広げなかった。

 

「軍務の調べを進める前に、ご意向を確かめたく存じます」

 

 国王は一度目を閉じた。

 

 侍医が近づきかけると、片手を少し動かして制した。

 

「考えておるだけだ」

 

「ご無理はなさいませぬよう」

 

 王は目を開け、クラウスを見た。

 

「わしは、そなたを公爵にすれば、この軍を作れると思っておった」

 

 声に、前のような性急さはなかった。

 

「王が後ろにおると示せば、軍務の貴族も話を止められぬ。そのために、位を上げたかったのだ」

 

「陛下のお支えは、ありがたく存じます。ただ、爵位と軍務の指揮権は、別々に整える必要がございます」

 

「特命を出すと言うたな」

 

「はい。その特命で、何を調べ、どこまで指示できるかを定める必要があります。兵を率いる権限とは、また別になります」

 

 王は黙って聞いた。

 

 クラウスは、膝に置いた書類を揃えた。

 

「所領と費用の負担も、位を上げるだけでは決まりません」

 

「……そうであったな」

 

 国王は草案へ目を戻す。

 

 指を伸ばすことは、しなかった。

 

「公爵の話は、取り下げよう」

 

 クラウスは、頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

「軍を立て直す仕事は、引き続き頼む」

 

「調べを進め、改めて案をお持ちいたします」

 

 王の返事を待ってから、クラウスは陞爵の書類を草案とは別にしまった。

 

 侍医が寝台の脇へ寄る。

 

「陛下、今朝はここまでに」

 

 王は侍医を見上げ、うなずいた。

 

「分かった」

 

 クラウスは立ち上がった。

 

 陞爵を再び迫られた時の返答は、用意していた。

 

 それを口にする必要はなかった。

 

 王が横になり直すのを待ち、一礼して退出する。

 

 前室へ出ると、書類を持つ手の力を少し抜いた。

 

 公爵の打診を取り下げたことは、記録へ回さなくてはならない。

 

 軍の調査に出す指示も整える必要がある。

 

 クラウスは書類を抱え直し、執務室へ向かった。

 

 

 

 午前の面会を終えた国王が休んでいる間に、王都警備隊の使者が到着した。

 

 侍従次長が受け取った報告は、昨日のものより厚かった。

 

 クラウスの執務室へ持参し、必要な頁を開く。

 

「工房の注文控えに、装飾環だけの追加加工がございました」

 

 クラウスは、面会の記録を脇へ寄せた。

 

「通常の製作とは別なのか」

 

「はい。ここに、別の加工代が記されています」

 

 侍従次長が指したところには、地図儀の製作とは分けた依頼があった。

 

 細い中空部品を取り付けること。

 

 装飾環を回すと、その先端が外へ出ること。

 

 クラウスは、取り外された針の図を横へ置いた。

 

 仕掛けの形が、注文の指定と合っている。

 

「この注文を、誰が出した」

 

「加工の依頼を取り扱った取次人は、特定できております。加工代の支払いも、記録が見つかりました」

 

 侍従次長は、注文控えと支払記録を並べた。

 

 クラウスが、それぞれに記された名義を読む。

 

「工房は、何のための仕掛けだと聞いていたのだね」

 

「特殊な装飾機構として依頼された、と申しております」

 

「それは、工房側の説明か」

 

「はい。誰が、どの段階で何を知っていたかは、引き続き調べさせます」

 

 侍従次長は、もう一枚の紙を出した。

 

 王宮への献上手続きの控えだった。

 

「この署名とも照合しました。同じ取次人が、献上の手続きに関わっています」

 

 クラウスは、前に見た受領の控えを取り出した。

 

 そこにあった軍需商人の名を、指で押さえる。

 

「受領の控えに名がある商人とは、別の者なのだな」

 

「はい。この取次人が加工を頼み、献上の手続きにも動いていました。軍需商人との取引も、帳簿で確認されています」

 

 工房へ出された注文。

 

 その代金。

 

 王宮へ持ち込むための手続き。

 

 クラウスは、それぞれの紙を、順に読み直した。

 

 同じ商人の名が二つの書類にあった、というだけではなくなった。

 

 注文から支払い、献上まで、人の動きを記録で辿れるようになった。

 

「この商人が、針を仕込めと命じたことまで分かったのか」

 

「そこまでは、確認できておりません。今回の記録で追えたのは、加工を注文した取次と、その支払いの経路です」

 

 クラウスは、針の図へ目を戻した。

 

 針が突出する仕組みは、ヨルドが調べた。

 

 だが、国王の身体にあった種を、この空洞から送り込んだと証明するものは、ここにない。

 

「工房が作った後、誰へ渡ったかも追わせてくれ」

 

「承知しました」

 

「追加加工を頼んだ者と、種を組み込んだ者が同じとは限らぬ。そこを、一つの話にしてしまわぬように」

 

 侍従次長は、報告の余白へ指示を書き添えた。

 

 クラウスは読み終えた頁を伏せず、手元に残した。

 

 報告できる事実は増えたが、種を入れた者の名は、まだ書けなかった。

 

「陛下への報告は、侍医に時間を確かめてからだ。要点をまとめてくれ」

 

 侍従次長が紙を揃える。

 

 クラウスも、国王へ示す分だけを選んだ。

 

 

 

 昼頃、侍医の許しを得て、クラウスと侍従次長が寝室へ入った。

 

 国王は少し休んだ後で、顔を上げて二人を迎えた。

 

「何が分かった」

 

 侍従次長が、地図儀の追加加工と、取次・支払いの記録について短く報告した。

 

 加工の指定を聞くうち、王の口元が引き結ばれた。

 

「わしに仕掛けた者がおるというのか」

 

「不審な加工は確認できましたが、誰が陛下のお身体へ異物を入れたのかは、まだ分かりません」

 

 国王の手が、寝具を押さえた。

 

「献上する品に、そのような注文を付けておった」

 

 声が低くなる。

 

 クラウスは、先を促さずに待った。

 

「関わった者を調べよ。命じた者まで辿るのだ」

 

「王都警備隊に、続きを調べさせます」

 

 侍従次長が答えた。

 

 王は、寝具を押さえていた手を離した。

 

「検めた者は、見つけられなかったのだな」

 

「内部の情報を隠す魔石もありました。取り外され、妨害は止まっております」

 

「ならば、これから同じ見方だけで通すな。献上品を、どう検めるかも見直せ」

 

 クラウスは頭を下げた。

 

「受け入れた経緯とともに、手順を確かめます」

 

 王はうなずき、侍医へ目を向けた。

 

 侍医が診察へ戻れるよう、二人は報告の紙を持って退出した。

 

 

 

 午後、物証を保管する部屋には、三つの容器が用意されていた。

 

 小卓に間隔を空けて並べられ、それぞれの脇に識別用の札がある。

 

 ヴァルトは、入室してから扉が閉まるのを待った。

 

 侍従次長と、受渡しを記録する職員が立ち会っている。

 

「こちらで保管できる形にしたい。中身を取り出しても、安全でしょうか」

 

 ヴァルトは最初の容器へ寄った。

 

「全ての働きまでは分かっていません。容器を確認してから、一つずつ移します」

 

 《鑑定》で材質と構造を調べ、《境界》で内側と外側を辿る。

 

 蓋と本体が合うところも確かめた。

 

 机の脇に用意された書面には、すでに移管者と受領者の欄がある。

 

 ヴァルトは確認を終え、侍従次長へ顔を向けた。

 

「針と魔石は、別にしてください。記録も分けていただければ」

 

「そのつもりで用意してあります」

 

 侍従次長が、残り二つの容器を示した。

 

 ヴァルトは、そちらも確かめた。

 

 三点を受け入れる準備ができてから、収納にある種を捉える。

 

 国王の身体から取り出した、非生物の人工物、一個。

 

 その取り出し先を、最初の容器の内側へ定めた。

 

 薄い靄が生じ、種が移る。

 

 卓上で、何かが転がる音さえしなかった。

 

 侍従次長が、近づきかけて止まった。

 

「これが、陛下のお身体に」

 

「はい。昨日、収納した物です」

 

 ヴァルトは対象を《鑑定》し、移したものを確かめた。

 

 あまりに小さく、ただ覗き込むだけでは確かめづらい。

 

 ノートに書き取っていた輪郭を、容器の札と対応する頁へ写す。

 

 職員はヴァルトの示した文字を読み、受渡しの記録へ書き込んだ。

 

 ヴァルトは《我欲の種》という名称を読み上げ、蓋を合わせた。

 

 《封印術》を使い、保管のための封印を施す。

 

「これで全ての機能を止めたとまでは言えません。開ける時には、改めて扱いを確かめてください」

 

「開封には、正式な許可を要する扱いにします」

 

 侍従次長は職員へ告げ、蓋が閉じたことを確認させた。

 

 次に、ヴァルトは極細針を取り出した。

 

 受ける容器へ直接置き、誰の指にも触れさせない。

 

 中空の針は、取り外した時の状態を保っている。

 

 内部に何か残っているかは、まだ分からなかった。

 

 最後に、地図儀の内蔵魔石を、残る容器へ移した。

 

 針のある方へ寄せず、それぞれを閉じる。

 

 職員は札を読み、容器と書面の対応を確認した。

 

「封印と受渡し、確認いたしました」

 

 ヴァルトがヨルドの名で署名し、侍従次長が受領者として続いた。

 

 受領の署名が済むと、三つの容器は王宮の管理に移された。

 

 侍従次長が保管場所を指示し、鍵を管理する者へ引き継ぐ。

 

 ヴァルトは、収納内に三点が残っていないことを確かめた。

 

 この数日、収納を確かめるたびに意識していた物が、手元を離れた。

 

 書面の控えを受け取ってから、小卓の外へ退いた。

 

「こちらは、昨日の保守接続の確認をまとめたものです」

 

 修復後の記録も差し出した。

 

 前日に渡した報告と照合され、作業の終わった箇所が管理記録へ揃えられる。

 

 侍従次長は紙を受け取り、物証の受領書とは別に綴じた。

 

「これで、ヨルド殿に預かっていただいていた分は、引き継げました」

 

 ヴァルトはうなずき、容器がそれぞれの保管場所へ運ばれるのを見届けた。

 

 

 

 侍従次長の執務室へ戻ると、返納の書面が用意されていた。

 

 ヴァルトは、通行許可証と役目の証票を机へ置いた。

 

 そこには、侍従監査官ヨルドという名が記されている。

 

 侍従次長が物証の受領控えと作業記録を見比べ、最後の欄へ記入した。

 

「侍従監査官ヨルド殿の臨時任務は、これにて終了です」

 

「承知しました」

 

 ヴァルトは返納の記録へ署名した。

 

 侍従次長が許可証を受け取り、机の引き出しへ収める。

 

 もう、保守区画へ行く用事はない。

 

 診察に使ったノートと、受渡しの控えだけを手元へ戻した。

 

「宰相が、少しお話をされたいとのことです。隣へどうぞ」

 

 ヴァルトは示された控室へ入った。

 

 クラウスが立って迎える。

 

 案内した者が退出し、戸が閉まるまで、二人は待った。

 

「ヴァルト殿、このたびは助けられました」

 

 その名で呼ばれると、ヴァルトは外套の襟から手を離した。

 

「陛下が落ち着かれて、何よりです」

 

「今朝は、軍の数を、ご自身から尋ねられたのですよ」

 

 クラウスは、椅子を勧めた。

 

 ヴァルトが腰を下ろすと、自分も向かいへ座る。

 

「草案を、そのまま進めるおつもりではなかった。調べてから、比べて持ってこいと」

 

「お話ができたんですね」

 

「ええ。こちらの説明を、最後まで聞いていただけました」

 

 クラウスは、そこで言葉を切った。

 

 ヴァルトは膝の上でノートを持ち直した。

 

「今朝も種は見当たりませんでした。ただ、昨日の痛みの理由までは、分かっていません。しばらくは、侍医の方で診ていただければ」

 

「心得ております。今日は寝室での短い報告だけにしました」

 

 クラウスは椅子の肘掛けへ手を置いた。

 

「しばらく、王都にお残りになりますか」

 

「いえ、そろそろ帰ります。子どもたちを待たせていますから」

 

 宰相の顔に、小さな笑みが戻った。

 

「お引き留めするわけには、ゆきませんね」

 

「教えることが、まだいろいろあります」

 

 ヴァルトは立ち上がった。

 

 王宮で受け取った控えを、ノートとは分けて収納する。

 

 クラウスも立ち、扉まで見送った。

 

「どうぞ、お気をつけて」

 

「ありがとうございます」

 

 廊下に出ると、メリルが待っていた。

 

「ヨルド様、こちらへ」

 

 その声を聞き、ヴァルトは外套を整えて歩き出す。

 

 行き来する侍従は、それぞれの用件を持っていた。

 

 書類を抱えた侍従が、二人に道を譲って通り過ぎた。

 

 メリルは角を曲がるたびに振り返り、行先を示した。

 

 出口で返納済みの手続きが確認される間、ヴァルトは門の外を見ていた。

 

 城内の石床とは違う道が、その先に続いている。

 

「お世話になりました」

 

 ヴァルトが言うと、メリルは礼をした。

 

「どうぞ、お気をつけてお帰りください」

 

 案内役の足は、門の手前で止まった。

 

 ヴァルトは一人で、その先へ進んだ。

 

 外の風が、外套の裾を動かした。

 

 

 

 夕方、クラウスは、侍医が許した短い報告を終えた。

 

 寝室には灯りが用意され、窓辺には、まだ夕日の色が残っている。

 

 国王は寝台に身を預けて聞いていた。

 

 朝の軍の草案は、小卓へ置かれている。

 

 報告の用紙をしまい、クラウスが椅子を戻す。

 

 国王が、その背へ声を掛けた。

 

「クラウス」

 

「はい、陛下」

 

「そなたは、あの軍を作ることに反対か」

 

 宰相は、椅子から手を離した。

 

 王の目は、草案へ向けられている。

 

「救援に使える軍を整えることには、賛成でございます」

 

「だが、とは言わぬのか」

 

「今の案には、確かめるべきことがございます」

 

 王がクラウスを見た。

 

「申してみよ」

 

 クラウスは、もう一度椅子へ腰を下ろすことはしなかった。

 

 王の負担にならぬよう、要点だけを答えた。

 

「今ある兵へ給金と糧秣を届ける者にも、新しい軍の支度をしてもらうことになります。どこまで担えるか、現場の考えを聞く必要があります」

 

 国王は途中で口を挟まなかった。

 

「軍営と補給の担当者から、今の案を進める場合の難点も聞き、朝の調べと合わせてご報告いたします」

 

 クラウスが言い終える。

 

 王は、草案へ手を伸ばした。

 

 紙の端に触れ、折り目に沿って指を動かす。

 

 宰相は、その手が止まるのを待った。

 

「ならば、反対の意見も省かずに持ってこい」

 

 クラウスは頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

「賛成ばかりでは、何が足りぬか分からぬ」

 

 国王は草案を持ち上げ、小卓の脇へ寄せた。

 

「わしは、救援に使える軍が欲しいのだ」

 

 クラウスは、王の言葉を受けてもう一度礼をした。

 

「そのための案を、整えてまいります」

 

 寝具を直そうとする王へ、侍医が手を添えた。

 

 クラウスは静かに退室した。

 

 小卓の草案には、署名がない。

 

 王は紙から手を離し、寝具を胸元へ引き寄せた。

 

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