押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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ヴァルトに小説の推敲させる理央w


第432話 残った謎

 

 王城を退いた日のうちに、ヴァルトは王都侯爵邸で真壁と合流した。

 

 帰る前に、真壁はひとつだけ尋ねた。

 

「君が閉じた境界は、地図儀を取り除けば直るものだったのかね」

 

「いいえ。綻びは残っていましたから、別に閉じました」

 

「では、何が傷を付けたのだろうな」

 

 ヴァルトは返納した監査証票の入っていた懐へ、無意識に手をやった。

 

 もう、そこには何もない。

 

「そこまでは、確かめられていません」

 

 真壁はそれ以上、引き留めなかった。

 

 《転移》で侯爵領の登録拠点へ戻ると、共同商館には、まだ灯りがあった。

 

 翌日の午後、二階の教室には久しぶりにヴァルトの声が響いていた。

 

 授業を終えた子どもたちが、階段を駆け下りていく。

 

 一人だけ戻ってきて、窓際に置き忘れた板を抱えた。

 

「明日も、先生が教えてくれる?」

 

「ええ。今日の続きをしましょう」

 

 子どもはうなずき、今度こそ教室を出ていった。

 

 ヴァルトは黒板の端に残った計算を消した。

 

 窓の下では木箱を運ぶ者が声を掛け合い、食事を終えた客の笑い声がする。

 

 ここでは、答えを間違えても、もう一度教えればよかった。

 

「もう入ってもいいですか?」

 

 戸口から理央が顔を出した。

 

 腕には作文の下書きを挟んだノートを抱えている。今朝、授業の後で見てもらう約束をしたのだった。

 

「どうぞ。お待たせしました」

 

 理央は小さな椅子に座り、下書きを机へ出した。

 

「言い争うところなんですけど、途中から、何に怒ってるのか分からなくなっちゃって」

 

 長い段落に、何本も線が引かれている。

 

 ヴァルトはそこを読んで、前の頁へ戻った。

 

「この人が何を望んでいたかは、分かります。けれど、相手のどの言葉で怒り始めたのかが、見えにくいですね」

 

「あ、ここで説明に戻っちゃってる」

 

「前後を分けてみましょうか」

 

 そう言ってから、ヴァルトは筆を止めた。

 

 地図儀を取り除いた時と、境界を直した時。

 

 二つを分けて書いた記録が、頭に浮かんでいた。

 

「ヴァルトさん?」

 

「すみません。別のことを思い出しました」

 

「まだ、仕事が残ってるんですか?」

 

「仕事は終わりました。ただ、説明できていないことがあるんです」

 

 場所も人の名も出さず、ヴァルトは白い紙に四つの項目を書いた。

 

 設備のそばで、鑑定が妨げられた。

 

 装置を取り除くと、妨害は止まった。

 

 古い境界の綻びは残っていた。

 

 綻びは、後から修復した。

 

「装置を外すのと、傷を直すのは別だったんですね」

 

「はい。別の原因があったのではないかと思っているのですが」

 

「その装置が、傷も付けたんじゃないですか?」

 

「ヴァルト君。釘を抜いた後の板は、どうなるかね」

 

 戸口から声がした。

 

 真壁が商会の帳面を抱えて立っている。

 

「穴、残りますね」

 

 理央が先に答えた。

 

「そう。外しても傷が残ったというだけでは、原因を分けられぬ」

 

 ヴァルトは四つの項目を見直した。

 

「外した後だけを見て、決めかけていましたね」

 

「じゃあ、装置そのものを調べればいいんですよね。どういう物なのか」

 

 理央は紙を大きな机へ移した。

 

「どこへ傷を付ける仕掛けがあるかとか、何で動くのかとか。使わない状態で見た時と、使った後で違うかも」

 

 真壁は帳面を閉じた。

 

「君、今日の商会の仕事は済んでいるかね」

 

「はい。作文だけです」

 

「では、現物を見に行こう」

 

 理央の筆が止まった。

 

「今からですか?」

 

「返事を待つだけでは、紙の上の釘穴が増えるばかりだ」

 

 ヴァルトが真壁を見た。

 

「物証は、もう王宮へ引き渡しましたよ」

 

「承知している。君を連れ帰った後、私も少々、用事を済ませてきた」

 

 真壁は懐から折った紙を出した。

 

 クラウスの署名がある。

 

「種と魔石の再検査だ。君と私、それから必要な技術協力者を加えると伝えてある。理央君には、これから話すことを商会の外で話さぬよう頼みたい」

 

「王宮の物なんですか?」

 

「国王の身体から取り出した物だ」

 

 理央は、白い紙に書かれた四つの項目を見た。

 

 設備。

 

 装置。

 

 綻び。

 

 そのどこにも、人の身体は書かれていなかった。

 

「……ヴァルトさんが、取り出したんですか」

 

「ええ。《収納》で、人工物だけを」

 

 ヴァルトは片づけたばかりの板へ目を向け、それから理央へ戻した。

 

「急に具合が悪くなられて、怖い思いをしました。今は、落ち着いておられます」

 

 理央は作文の下書きをノートの後ろへ挟んだ。

 

「分かりました。話しません」

 

 真壁はうなずいた。

 

「もうひとつ。王都に、人を雇ってある」

 

「商会の人ですか?」

 

「荷が誰の倉庫へ入るか、どの裏口から人が出るか。そういうことを、調べて飯を食う者だ」

 

 真壁は、許可書とは別の小さな紙を開いた。

 

 紙には工房の印を写した、潰れた楕円があった。

 

「役所が受け取る帳面と、商人が金庫へしまう帳面。同じ物が書かれているとは限らぬからね」

 

 

 

 真壁の《転移》で王都侯爵邸へ着くと、裏の小門に男が待っていた。

 

 帽子を手に持ち、右の靴だけ泥が乾いている。

 

 真壁を見るなり、男は壁際へ寄った。

 

「先に、こっちを」

 

 丸めた紙を差し出す。

 

「細工師の工房です。追加加工の取次をしてた男が、昨日の夕方、ここへ寄りました。荷を運んだのは、商人の倉庫を出入りしてる御者です」

 

「細工師は?」

 

「エーレン・フォルスト。元は王立魔術院にいたそうです。倉庫の方は今朝から警備隊が入ってます。取次の男も、店へ戻っちゃいません」

 

 男は小門の外へ目を向けた。

 

「工房へは、まだ来てない。昼前に荷車が一台、裏へ入りました。箱を出して、空荷で帰ってます。あれ、紙を焼く時に使う油の缶でしたよ」

 

 ヴァルトが顔を上げた。

 

「その工房の場所は、分かるんですね」

 

「この曲がり角に、水桶が三つ。看板は出てません。二階の窓だけ、雨戸が閉まってる」

 

 真壁は紙を受け取った。

 

「よく見てくれた。あとは、倉庫の出入りを続けてくれたまえ。捕まえようとせず、誰に荷が渡るかを見てほしい」

 

 男へ金を渡し、真壁は侯爵邸の使用人を呼んだ。

 

 工房の場所を書いた短い手紙を、警備隊への使いに持たせる。

 

 男も使いも小門を出た後、理央は真壁へ寄った。

 

「紙を焼くって、証拠を消してるんですか?」

 

「その恐れがある。見に行く」

 

「王宮の物は?」

 

「逃げぬ物は後だ」

 

 真壁は工房の周囲を描いた紙を広げた。

 

 理央は《世界地図》を開いた。紙の曲がり角と、水路、隣の染物屋を順に照らし合わせる。

 

 工房の裏には、二軒に挟まれた細い空地がある。

 

「ここなら、道に出ないで行けそうです」

 

「空地へ。中へは、私が先に入る」

 

 理央は壁から離れた場所に《関門接続》を開いた。

 

 板張りの廊下の先に、見知らぬ石壁が現れる。

 

 湿った土の匂いが流れ込んできた。

 

 真壁が先に抜け、ヴァルト、理央と続いた。

 

 扉の向こうは、洗い水の溜まった細い空地だった。

 

 軒の低い木戸が、すぐ脇にある。

 

 真壁は戸板へ手を当て、《鑑定》を使った。

 

「かんぬきだけだ」

 

 赤い靄が戸の合わせ目へ入り込む。

 

 内側のかんぬきが《収納》へ消え、木戸が押し開かれた。

 

 理央は、鍵を回す音さえしなかったことに気づいた。

 

 真壁は振り返り、口元へ指を一本立てた。

 

 机を削るような音が、奥から聞こえる。

 

 ヴァルトが理央を戸口の陰へ寄せた。

 

 室内には細工物の棚が並び、隅の炉で火が燃えていた。男が背を向け、机から掴んだ紙束を炉へ運ぼうとしている。

 

 その腕の下で、小さな冊子が落ちかけた。

 

「それは、燃やさずにいただこう」

 

 真壁の声と同時に、紙束が赤い靄へ包まれた。

 

 男の腕が空を抱く。

 

 燃えていた炉の中からも、紙と薪が消えた。

 

 火の粉が一度、炉口へ散った。

 

 男は机の端へ手を走らせる。

 

 短い杖があった。

 

 握るより早く、それも消えた。

 

「何を――」

 

 真壁が一歩、前へ出た。

 

 男は反対側へ逃げようとして、膝を折った。

 

 《重力》に押さえられ、両手が床へ付く。

 

「顔を上げてくれたまえ。君がエーレン・フォルストかね」

 

 男は真壁を見上げた。

 

 細い頬に、無精髭が伸びている。

 

「……あの商人の、使いか」

 

「金の請求ではない」

 

 真壁は机へ視線を移した。

 

「地図儀に仕込んだ物の話を、聞きに来た」

 

 エーレンの目が、ヴァルトで止まった。

 

 見覚えがある顔を探すように、眉が寄る。

 

「あなたが、種を作ったんですか」

 

 ヴァルトが尋ねた。

 

 エーレンは答えなかった。

 

 床へ付いた右手の下で、細い銅線が動く。

 

「真壁さん、足元!」

 

 理央の《鑑定》に、床板の隙間へ埋めた魔石の名称が出ていた。

 

 発火装置。

 

 真壁の赤い靄が、銅線と魔石を床から抜き去る。

 

 続いて、壁際に置かれた油の缶が消えた。

 

 床に広がりかけていた油も、別に回収された。

 

「工房ごと焼くつもりだったか」

 

 真壁の声は、先ほどより低かった。

 

 エーレンは身をよじったが、膝は上がらない。

 

 ヴァルトが床の残った術式を調べ、触れずに境目を切り離した。

 

「もう、ここから火は入りません」

 

 理央は戸口で息をついた。

 

 真壁は男を椅子へ座らせ、重力の掛け方を変えた。立ち上がれず、腕も卓上へ届かない。

 

 それから、床へ小さな木箱を出した。

 

「理央君、これを」

 

 炉から回収した紙だった。

 

 端は黒く、表紙の紐はすでに焼き切れている。

 

「焦げていない頁を確かめてほしい。炭になった文字まで、戻せるとは思わぬ方がよい」

 

 理央はうなずき、木箱を自分の収納へ入れた。

 

 《収納内工程》で束を分ける。

 

 焦げた表紙と、油の染みた外側。その奥に、火の届かなかった頁が残っていた。

 

 傷めないよう一枚ずつ取り出すと、ヴァルトが受け取って並べた。

 

 何枚目かに、円形の図があった。

 

 小さな切れ目を挟み、両端が向き合っている。

 

 ヴァルトの指が止まった。

 

「……これです」

 

 理央は彼の顔を見た。

 

「種の形ですか?」

 

「私が取り出した物に、よく似ています」

 

 椅子の軋む音がした。

 

 エーレンが、ヴァルトへ顔を向けている。

 

「取り出した?」

 

 ヴァルトは、紙から手を離した。

 

「陛下の身体から、私が収納しました」

 

「……生きているのか」

 

 理央は男へ振り返った。

 

 質問は、小さかった。

 

 真壁の声が、それに重なった。

 

「取り出した後に何が起こるか、君は知っていたのだな」

 

 エーレンは口を閉じた。

 

 真壁が机の引出しを《鑑定》し、底板だけを収納する。

 

 二重底の下から、革包みが現れた。

 

「隠す手間を掛けた物は、拝見せねばなるまい」

 

 包みの中には、細かく折った契約書と、別の研究冊子があった。

 

 外で、靴音が増えた。

 

 使いに伝えた警備隊が来たのだ。

 

 真壁は、引出しの板と、木戸のかんぬきを元の位置へ戻した。

 

 裏口で隊長を迎え、工房の火と床の装置について短く伝える。

 

「書類が灰になる前に、止めた。回収した物は、場所ごとに分けてある。こちらの者は、君たちへ引き渡そう」

 

 隊長は炉と椅子の男を見た。

 

「先に入られたんですか」

 

「そのようですな」

 

 真壁は、とぼけたほど穏やかに答えた。

 

「釈明は後で承ろう。今は、隣の家まで燃やす油があったことを、確かめてくれたまえ」

 

 

 

 工房を出て侯爵邸へ戻った時、理央の指には煤が付いていた。

 

 濡らした布で拭くと、爪の縁だけ黒く残る。

 

 机の上に、助かった研究頁が並んでいた。

 

 警備隊の担当官は、工房でどこから回収したかを控えた後、技術部分の検査に立ち会うことになった。

 

 真壁が隠し底から出した契約を広げる。

 

 新軍創設の正式決裁後、人工物そのものの活動を停止し、宿主の状態を正常に戻す。

 

 署名の片方はエーレン、もう片方は献上品を仲介した軍需商人だった。

 

「商人には、ここで止めると約束していた」

 

 真壁が、決裁後の処置費を指す。

 

「最初の注文を取るために王を急がせ、契約を取ったら元へ戻す。商人の算段は、そういうものだったらしい」

 

「止められるんですか?」

 

 ヴァルトは、炉から救った頁を読んでいた。

 

「それを調べます。地図儀の方にも、細工師は関わっているようです」

 

 装飾環の断面図がある。

 

 針の空洞へ種を送り込む小さな押出し部品と、環の回転量。

 

 加工工房への注文には書かれていなかった、封入の手順まで記されていた。

 

 真壁はそれを、持参した注文記録の寸法と比べた。

 

「外の工房には部品だけを作らせ、ここで中身を入れたのですな」

 

 理央は、種の成長図をめくった。

 

 細い線が円から伸びている。

 

「これ、根みたいですね」

 

 ヴァルトが隣へ椅子を寄せた。

 

「魔素を取り込む経路です。植物の根と同じ物ではありませんが」

 

「何を吸って育つかって、さっき言おうと思ったんです。名前が種だから」

 

 次の頁には、生体側の魔力だけを使う試験と、外から遊離魔素を取り入れる試験が分けてある。

 

 後者の図では、経路の先が外へ抜けていた。

 

 その線を辿って、ヴァルトは紙を引き寄せた。

 

「ここに、城の旧保守口があります」

 

 冊子の中ほどに、古い図面の写しが綴じられていた。

 

 元王立魔術院の細工師が持っていた、保守資料だった。

 

 閉じられた合わせ目へ、種から伸びた線が届く。

 

 真壁は、そこを指で押さえた。

 

「種へ城の見取図を覚えさせたのかね」

 

「いいえ。魔術的な抵抗の小さい方へ伸びる設計です。エーレンは、弱い場所を古い図で見積もっています」

 

「だったら、王様から根が伸びて、城に穴を開けた?」

 

 理央は自分で言って、国王の胸へ手を当てる姿を想像した。

 

 ヴァルトは図を見たままうなずきかけ、止まった。

 

「そういう設計です。ただ、図の通りに働いたかは、まだ別ですね」

 

 真壁が席を立った。

 

「では、その働きも見よう。王宮で預かった三点を、別室へ運んでもらう」

 

 担当官が許可書を確認し、物証を受け取るため王宮へ向かった。

 

 その間に、真壁は収納から小さな金属板と、使っていない魔石を出した。

 

 ヴァルトの描いた試験図を読み、《錬金》で金属板へ細い溝を刻む。

 

 大きさの違う試片が二枚、机に並んだ。

 

「種そのものを、育てるのですか?」

 

「そうはしません」

 

 ヴァルトは成長図を伏せた。

 

「まず、経路を伸ばす部分だけを小さな試片に写します。欲求へ働き掛ける部分も、宿主へ結び付く部分も入れません」

 

 ヴァルトが《魔術式解析》で分けた線を、真壁が試片へ移していく。

 

 一度目は、途中の溝で魔力が途切れた。

 

 ヴァルトが板を傾け、真壁へ戻した。

 

「ここの枝が一本、早く繋がっています」

 

「やれやれ。よく似た線が多い」

 

 真壁は溝を直した。

 

 理央は二人が動かす指を見ながら、ノートへ図を写す。

 

 ようやくできた二枚は、指先に乗るほどの小ささだった。

 

 元の種とは似ても似つかない、平たい銅の片である。

 

 ヴァルトはそれを二つの浅い皿へ置き、《結界》で皿の内外を分けた。

 

 片方には均一な境界を作り、もう片方には、閉じた合わせ目をひとつ残す。

 

「古い保守口を、小さく作ったんですね」

 

「ええ。外へ抜ける仕組みなら、ここへ寄るはずです」

 

 それぞれの外側に、同じ魔石を置いた。

 

 理央は《鑑定》で試片を見て、働き始める前の状態を記す。

 

 ヴァルトが少量の魔力を与えた。

 

 何も光らない。

 

 理央は、目を細めた。

 

 皿の中の銅片は、動いていなかった。

 

 それでも鑑定の項目が変わる。

 

「こっちは、外から魔力が入ってます」

 

 合わせ目のある方を示した。

 

 ヴァルトは《境界》で、試片から伸びる経路を追った。

 

 触れずに皿の端へ指を移す。

 

「合わせ目を通っています。こちらは、まだ通れていません」

 

 均一な方の皿を示す。

 

 真壁が二つの魔石を収納し、供給を断った。

 

 理央は、もう一度《鑑定》を使った。

 

 銅片への流入は止まっている。

 

 ヴァルトは、合わせ目を確かめた。

 

「綻びは、残っています」

 

「釘を抜いた後ですね」

 

「ええ。ただ、今度は穴を開けるところから、見られました」

 

 理央は、最初の仮説の下へ線を引いた。

 

 魔石を取り去っても傷が残ったから、別の原因なのではなかった。

 

 種にある経路形成の術式が、弱い合わせ目を通って外へ出る。

 

 その時に、境界を傷める。

 

 真壁が皿を指した。

 

「魔石の妨害装置も、同じ具合に調べられるかね」

 

「現物の術式と照らします。綻びを使う部分と、綻びを作る部分を、混ぜずに見たいです」

 

 ヴァルトは試片の接続を切り、皿ごと収納した。

 

 理央はノートを閉じず、物証の来る方へ椅子を向けた。

 

 煤の残った指で書いた図が、もう、ただの根の絵ではなくなっていた。

 

 

 

 三つの容器が届く頃には、窓の下の影が伸びていた。

 

 開封の記録を取った後、ヴァルトが別室の作業台へ向かう。

 

 種の容器へ施した自分の封印を確認し、外側に新たな《結界》を置いた。

 

 理央は少し離れた机で、魔石の鑑定結果を書き取った。

 

 自分にしか見えない文字を、二人へ読める形にする。

 

 魔石の装置には、鑑定を妨げる術式と、既存の接続へ結び付く構造がある。

 

 ヴァルトはその部分を解析し、工房の図面、王城で記した自筆図と比べた。

 

「こちらは、通路を利用する仕掛けです。種の試片にあった、弱い境目を押し広げる構造はありません」

 

「魔石が、根を伸ばしたんじゃない」

 

「ええ。種が作った綻びを使って、鑑定の妨害を広げた。その説明が、現物と図面の両方に合います」

 

 真壁が、先ほどの皿の図へ一本線を引いた。

 

 城の内側から外へ伸びる経路と、外から内へ戻る魔素。

 

 理央は矢印を二つ、逆向きに書く。

 

「根の向きと、吸う物の向きが逆なんですね」

 

「種は育つために外の魔素を取り込み、魔石は同じ綻びを使って発見を妨げる。二つを組み合わせたわけだ」

 

 真壁は筆を置いた。

 

「よくできた仕掛けですな。感心したくはないが」

 

 ヴァルトが、種の容器から人工物だけを収納へ移した。

 

 外部へ繋がらない隔離区画に置き、成長図と比較する。

 

 理央は図の切れ目を指した。

 

「ここ、取り出した時も開いてたんですか?」

 

「はい。今も、開いています」

 

 ヴァルトは収納内の輪郭を紙へ写した。

 

 自分の鑑定で捉えた状態も、その脇へ記す。

 

 成長図の最後の段階には、小さな文字で名前があった。

 

 《強欲》。

 

 理央は、そこを読み直した。

 

「これになったら、どうなるんですか」

 

「次の段階の説明を見ます」

 

 ヴァルトは焼け残った頁をめくった。

 

 途中から紙の端が失われ、文の一部は読めない。

 

 それでも、行動に伴う高揚と、欲求を抑えた時の身体症状は残っていた。

 

 望むままに動けば、気分を高揚させる。

 

 踏みとどまれば、頭痛、動悸、血圧の上昇を起こす。

 

 成長が進むほど、その差を強める。

 

「欲しいものを、ただ欲しくさせるだけじゃないんですね」

 

 理央は、最後の行へ指を置いた。

 

「我慢する方を、苦しくする」

 

 ヴァルトはうなずいた。

 

「人の話を聞いて待つことまで、身体には苦痛になります。欲求に沿えば楽になって、また、そちらを選びやすくなる」

 

 国王の手が胸へ上がった瞬間を、ヴァルトは思い出した。

 

 反対側の頁に、急に働きを断った場合の注意がある。

 

 循環への負荷。胸部の圧迫。呼吸の乱れ。

 

「摘出直後の症状と、合います」

 

 ヴァルトはその行を真壁へ示した。

 

「私が取り除いた時、陛下は胸を押さえて、息ができなくなりました」

 

 工房で、エーレンは尋ねた。

 

 生きているのか。

 

 理央は、さっきまで知らなかった言葉の重さを、遅れて受け取った。

 

 真壁は、種を止めるという契約を横へ置いた。

 

「約束どおりに止める機構は、どうかね」

 

 ヴァルトは《魔術式解析》で現物を追った。

 

 育つための経路。

 

 宿主へ作用する部分。

 

 外から停止を受け付ける枝は、読み取れない。

 

 隠し底の研究冊子を開くと、試験の失敗が続いていた。

 

 安全な不活性化には至らず。

 

 成長後の停止方法、未確立。

 

 その日付は、商人との契約より前だった。

 

「契約する前から、止められなかったんですね」

 

 理央が言った。

 

 真壁は署名のある紙へ目を落とした。

 

「止める方法を持つふりをして、金を出させた。商人に見せる帳面と、自分の研究帳は、やはり違っていたか」

 

「でも、どうして。商人さんも困るのに」

 

 真壁は冊子を閉じなかった。

 

「君の言う、その『困る』ことが、目的だったのかもしれぬな」

 

 担当官が、工房から残りの文書を運んできた。

 

 机の上にあった仕事帳、壁の文書箱、商人との相談控え。

 

 真壁が出所を確かめる間、理央は文書箱から出た訴状の控えを見た。

 

 180名。

 

 39名。

 

 見覚えのある領名の下に、妻と娘の二人を失ったと書かれている。

 

 前年6月、ヴァルディス領の増水。

 

 支流沿いの小集落。

 

「……同じ水害だ」

 

 理央は紙へ顔を近づけた。

 

 澪たちが土嚢を積み、市場低地を守った増水だった。

 

 助かった場所の話は、知っている。

 

 その外にあった、この家の話は知らなかった。

 

 娘は9歳だった。

 

 教室で板を抱えて戻ってきた子と、そう違わない年齢である。

 

「180人いたはずなのに、39人しか出せなかったって……」

 

「その数字には、当てがある」

 

 真壁は訴状の受理番号を見た。

 

「軍務の件で見た当時の記録にも、同じ人数があった。応援の見積と、招集できた兵の数ですな」

 

「少ないなら、最初から39人だって言えばよかったのに」

 

「そうすれば、180はどこから出たと問われる」

 

 真壁の指が、回答の控えへ移った。

 

 王都防衛上の必要。

 

 派遣余力なし。

 

 兵員の照合を求めた訴えには、人数の説明がなかった。

 

「書いた者には、隠したい事情があったのだろう。退役、不在、別任務との重複。架空登録がどれだけ混じっていたかも、調べねばならぬ」

 

 理央は180と39の間へ、141と書いた。

 

 その隣に、何も書けず、筆を止める。

 

 エーレンの訴状には、退避路が失われる前の支援を求めていたとある。

 

 水が来てから、王都から走って助けに行く話ではなかった。

 

 警戒の段階で人を出すはずが、人数を確かめるところで止まった。

 

 ヴァルトが、古い研究の表紙をめくった。

 

 疲労した救助者の活動を支える魔術。

 

 意欲の減退を抑え、作業を続けられる時間を延ばす試験。

 

「最初は、こういう研究だったようです」

 

 理央は、種の成長図へ目を戻した。

 

 人を助けるために働き続ける仕組みが、人を追い立てる仕組みになっていた。

 

 相談控えの中には、国王が救援軍を望んだ発言の写しもあった。

 

 商人が、細工師へ持ち込んだものだ。

 

 王は地図儀が来る前から、実際に動かせる兵を欲しがっていた。

 

「種が、軍を作れって命令するわけではないんですね」

 

「ええ。陛下の中にあった願いを使う設計です」

 

 ヴァルトは種を容器へ戻し、封印を施し直した。

 

「細工師も商人も、その願いを知っていた。けれど、願いが強まった後に望んだことは、同じではなかったのでしょう」

 

 真壁は研究冊子の後ろを開いた。

 

 新軍の調達へ商人を食い込ませる計画。

 

 成長した種が、王の支配欲まで際限なく強めるとの見込み。

 

 王命で軍を国内の対立へ向ければ、地方へ回る兵はさらに減る。

 

 冊子の余白に、その先を見込んだ言葉が残っていた。

 

 王のためにだけ動く軍。

 

 理央は、そこから手を離した。

 

「助けに来なかった軍を、誰も助けに行けない軍にするんですか」

 

 真壁は返事をせず、訴状と研究冊子を並べた。

 

 理央は椅子の男を思い出す。

 

 杖を掴めなかった手。

 

 床の銅線を探していた指。

 

 その手で、この図を描いたのだ。

 

 

 

 翌朝、真壁とヴァルトは王都警備隊の取調べ室へ入った。

 

 理央は侯爵邸に残った。

 

 工房では、とっさに声を上げられた。今は、エーレンを前にして何を言うか、うまく決められなかった。

 

 ただ、ひとつだけ尋ねたいことがあり、紙へ書いて真壁に渡した。

 

 取調べ室の卓上には、真壁が回収した契約書と研究冊子があった。

 

 エーレンは、入ってきた二人を見た。

 

「種を、止めたのか」

 

「陛下の身体からは取り除きました。外部との接続を断って、保管しています」

 

 ヴァルトが答える。

 

 エーレンは、その顔をしばらく見ていた。

 

「根を切ったのか」

 

「吸収経路のことなら、城の境界も閉じました。あなたの試験図と同じ構造を、小さな試片で確かめています」

 

 ヴァルトは二つの皿の図を置いた。

 

 エーレンの視線が、合わせ目へ移る。

 

「そこを均一にしておけば、外へは出にくい」

 

「弱い方へ伸びるんですね。城の古い保守口が弱いことは、知っていた」

 

「昔、私もあの資料を扱った」

 

 捜査官が発言を記録した。

 

 封入の指図、中空針の寸法、取次を通した納品の順序を示すと、エーレンは自分の仕事だったと認めた。

 

 真壁が停止処置の契約を、その手前へ滑らせる。

 

「君は、いつ止めるつもりだったのかね」

 

 エーレンは紙を見た。

 

「商人は、契約が取れたらと言っていた」

 

「君のつもりを聞いている」

 

 真壁は研究冊子を開いた。

 

 停止方法、未確立。

 

 日付を押さえる。

 

「これを書いた後で、活動を停止すると約束した。方法がなかったのではないかね」

 

「……なかった」

 

「では、金を出させるための嘘か」

 

「あの男には、軍を買わせればよかった」

 

 別室で商人が述べた内容と、供述が繋がっていく。

 

 新軍創設の契約を取るため、国王の願いを強める工作へ金を出した。

 

 種の働きは後で止められると、商人は考えていた。

 

 エーレンは、その先を説明していなかった。

 

「《強欲》まで育てるつもりだったのですね」

 

 ヴァルトの問いに、エーレンが目を上げた。

 

「あと少しだった」

 

「時間までは、分からないでしょう。外形だけなら、確かに、切れ目が残る段階でした」

 

 ヴァルトは種の輪郭を写した紙を置いた。

 

「摘出の後、陛下は胸を押さえて、呼吸が乱れました。その危険も、研究には書いてあります」

 

「あそこまで育ったものを、急に外すとは思わなかった」

 

「分かっている人が、そばにいなかったんです」

 

 ヴァルトの声は大きくならなかった。

 

 エーレンは、図を見ていた指を引いた。

 

 真壁が、理央の紙を出した。

 

「君の訴えも読んだ。180と39。あの数字が、軍務の記録にも残っている」

 

 エーレンは初めて、椅子の背から身を起こした。

 

「残っていたのか」

 

「残っていた。誰が人数を取り繕い、派遣を遅らせたかは、これから調べる。そこにいる者が、皆、同じ責任を負うとも限らぬ」

 

 真壁は理央の書いた問いを読んだ。

 

「助けに来る兵がいなかったことを恨んだ君が、ほかの人も兵に助けてもらえない国を作ろうとした。そうなることを、承知していたのかね」

 

 エーレンは、すぐには答えなかった。

 

 部屋の外で靴音が遠ざかる。

 

 捜査官の筆が、紙の上で止まっている。

 

「軍があると書いた国が、私の娘を見捨てた」

 

 エーレンは机の木目へ目を落とした。

 

「だから、その軍は、王のためにしか動かないものだと……誰にも、見えるようにしてやりたかった」

 

「次の水害で待つ者にもかね」

 

 真壁が尋ねた。

 

 エーレンの唇が動いた。

 

「分かっていた」

 

 ヴァルトは、訴状の娘の年齢を見た。

 

 昨日、板を忘れて戻ってきた子どもの声が、頭の中に残っている。

 

 また明日も教えてくれるかと、尋ねた声だった。

 

 真壁は、研究冊子を閉じなかった。

 

「君を捕らえたことで、当時の軍務が正しかったことにはならぬ。そちらも調べる。だが、君が作った種で、救われる者がいたのかは、別に聞かねばなるまい」

 

 エーレンは顔を上げなかった。

 

 捜査官が、次の質問へ移った。

 

 訴状は、卓上の端へ残された。

 

 

 

 その日の午後、クラウスは短い報告書を持って国王の寝室へ入った。

 

 小卓には、署名されていない軍の草案がある。

 

 真壁たちが現物と試験で確かめた働き、細工師が認めた封入の手順。商人に約束した停止処置と、実際の研究との食い違い。

 

 国王は、途中で口を挟まなかった。

 

「《強欲》には、まだ変わっていなかったのだな」

 

「はい。次の段階へ進む前に取り除かれました。どれほど時間が残っていたかは、分かっておりません」

 

 国王は胸へ手をやりかけ、寝具の上へ戻した。

 

「わしが欲した軍を、二人とも、自分のために使おうとしたのか」

 

「商人は契約を、細工師は王国が内側から崩れることを狙っていました」

 

 クラウスは、古い訴状の写しを広げた。

 

 180名と39名。

 

 国王の目が、その二つの数字を往復する。

 

「なぜ、これは確かめられなかった」

 

「当時の回答では、王都防衛上の必要とされております。実員を問い直した訴えが、どこで止まったかも調べます」

 

 国王は軍の草案を見た。

 

 兵員欄に、まだ、確認を待つ数がある。

 

「過去の報告も調べよ。都合の悪い数まで、持ってこい」

 

「承知しました」

 

「訴えが正しかったとしても、種を入れたことを許せとは言わぬ。だが、あの者が罪人だからといって、39を180に戻すな」

 

 クラウスは一礼した。

 

 侍医が近づくと、国王は草案へ伸ばしかけた手を引いた。

 

「続きは、報告が来てからだ」

 

 その手に、筆は渡されなかった。

 

 

 

 夕方、三人は真壁の《転移》で侯爵領へ戻った。

 

 翌日の授業が終わると、共同商館二階には、子どもたちの帰る足音が残った。

 

 ヴァルトは黒板の消し残しを拭き、理央は、最初と同じ大きな机に座っていた。

 

 指の煤は、もう落ちている。

 

 ノートを開くと、試片を見ながら書いたところだけ、字が小さく詰まっていた。

 

「分かってたんですね」

 

 理央は、取調べで返ってきた言葉を読んだ。

 

 ヴァルトが黒板から振り返る。

 

「ええ」

 

「知らなかったって言われると思ってました。こんなことになるなんて、って」

 

 理央は、その短い返事の下に何か書こうとして、筆を置いた。

 

 真壁が商会の帳面を抱えて入ってきた。

 

「調査員から、続きが来た。商人が急いで片づけようとした荷の中に、種を使う相談の控えがあったそうだ。本人の説明とも、確かめることになる」

 

「また、頼むんですか?」

 

「しばらくはね。あの者には、荷車の後ろを歩いても、誰も目を留めぬ強みがある」

 

 真壁は帳面を置き、理央のノートを見た。

 

「君が発火装置を見つけなければ、あの工房は焼けていた。助かった紙も、もう少し少なかっただろう」

 

「表示が出たんです。床を見たら」

 

「見たから、出たのだよ」

 

 理央は、最初の四項目へ戻った。

 

 装置が穴を開けたのかもしれない、と考えたところには、疑問符が残っている。

 

 その後に、根と魔素の逆向きの矢印がある。

 

 ヴァルトが隣に腰を下ろした。

 

「あなたが、何で育つのかと聞いてくれたから、あの線を見直せました」

 

「でも、私だけじゃ、根が出るところなんて作れません」

 

「私だけでも、あの工房の場所は分かりませんでしたよ」

 

 ヴァルトは真壁へ目を向けた。

 

「次は、扉を開ける前に一言ください。少々、驚きました」

 

「そうかね。君が城で地図儀を丸ごと収納したと聞いた時も、私は少々、驚いたが」

 

 理央は二人の顔を見比べた。

 

「私、いちばん普通に扉を開けてたんですね」

 

 真壁が片眉を上げる。

 

「君の扉は、王都まで繋がる。普通という言葉は、よく考えて使いたまえ」

 

 理央は笑いかけ、ノートの後ろから作文の下書きを出した。

 

 言い争う登場人物が、何を考えているかばかりを書いた段落だった。

 

 相手のどの言葉で怒ったのか。

 

 どこで手が止まったのか。

 

 そして、その後、自分で何をしたのか。

 

 そちらから書き直そうと、余白へ線を引く。

 

「推理小説にしてみたくなりました」

 

「王国の秘密は伏せたまえ」

 

「もちろんです。王様も、地図儀も出しません。違う事件です」

 

 ヴァルトは翌日の授業に使う板を並べ、真壁は商会の帳面を開いた。

 

 理央は新しい頁を出す。

 

 最初の一行を書いた。

 

『時計が止まっても、誰も困らない家だった。』

 

 少し考え、その横へ小さな疑問符を付けた。

 

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