王城を退いた日のうちに、ヴァルトは王都侯爵邸で真壁と合流した。
帰る前に、真壁はひとつだけ尋ねた。
「君が閉じた境界は、地図儀を取り除けば直るものだったのかね」
「いいえ。綻びは残っていましたから、別に閉じました」
「では、何が傷を付けたのだろうな」
ヴァルトは返納した監査証票の入っていた懐へ、無意識に手をやった。
もう、そこには何もない。
「そこまでは、確かめられていません」
真壁はそれ以上、引き留めなかった。
《転移》で侯爵領の登録拠点へ戻ると、共同商館には、まだ灯りがあった。
翌日の午後、二階の教室には久しぶりにヴァルトの声が響いていた。
授業を終えた子どもたちが、階段を駆け下りていく。
一人だけ戻ってきて、窓際に置き忘れた板を抱えた。
「明日も、先生が教えてくれる?」
「ええ。今日の続きをしましょう」
子どもはうなずき、今度こそ教室を出ていった。
ヴァルトは黒板の端に残った計算を消した。
窓の下では木箱を運ぶ者が声を掛け合い、食事を終えた客の笑い声がする。
ここでは、答えを間違えても、もう一度教えればよかった。
「もう入ってもいいですか?」
戸口から理央が顔を出した。
腕には作文の下書きを挟んだノートを抱えている。今朝、授業の後で見てもらう約束をしたのだった。
「どうぞ。お待たせしました」
理央は小さな椅子に座り、下書きを机へ出した。
「言い争うところなんですけど、途中から、何に怒ってるのか分からなくなっちゃって」
長い段落に、何本も線が引かれている。
ヴァルトはそこを読んで、前の頁へ戻った。
「この人が何を望んでいたかは、分かります。けれど、相手のどの言葉で怒り始めたのかが、見えにくいですね」
「あ、ここで説明に戻っちゃってる」
「前後を分けてみましょうか」
そう言ってから、ヴァルトは筆を止めた。
地図儀を取り除いた時と、境界を直した時。
二つを分けて書いた記録が、頭に浮かんでいた。
「ヴァルトさん?」
「すみません。別のことを思い出しました」
「まだ、仕事が残ってるんですか?」
「仕事は終わりました。ただ、説明できていないことがあるんです」
場所も人の名も出さず、ヴァルトは白い紙に四つの項目を書いた。
設備のそばで、鑑定が妨げられた。
装置を取り除くと、妨害は止まった。
古い境界の綻びは残っていた。
綻びは、後から修復した。
「装置を外すのと、傷を直すのは別だったんですね」
「はい。別の原因があったのではないかと思っているのですが」
「その装置が、傷も付けたんじゃないですか?」
「ヴァルト君。釘を抜いた後の板は、どうなるかね」
戸口から声がした。
真壁が商会の帳面を抱えて立っている。
「穴、残りますね」
理央が先に答えた。
「そう。外しても傷が残ったというだけでは、原因を分けられぬ」
ヴァルトは四つの項目を見直した。
「外した後だけを見て、決めかけていましたね」
「じゃあ、装置そのものを調べればいいんですよね。どういう物なのか」
理央は紙を大きな机へ移した。
「どこへ傷を付ける仕掛けがあるかとか、何で動くのかとか。使わない状態で見た時と、使った後で違うかも」
真壁は帳面を閉じた。
「君、今日の商会の仕事は済んでいるかね」
「はい。作文だけです」
「では、現物を見に行こう」
理央の筆が止まった。
「今からですか?」
「返事を待つだけでは、紙の上の釘穴が増えるばかりだ」
ヴァルトが真壁を見た。
「物証は、もう王宮へ引き渡しましたよ」
「承知している。君を連れ帰った後、私も少々、用事を済ませてきた」
真壁は懐から折った紙を出した。
クラウスの署名がある。
「種と魔石の再検査だ。君と私、それから必要な技術協力者を加えると伝えてある。理央君には、これから話すことを商会の外で話さぬよう頼みたい」
「王宮の物なんですか?」
「国王の身体から取り出した物だ」
理央は、白い紙に書かれた四つの項目を見た。
設備。
装置。
綻び。
そのどこにも、人の身体は書かれていなかった。
「……ヴァルトさんが、取り出したんですか」
「ええ。《収納》で、人工物だけを」
ヴァルトは片づけたばかりの板へ目を向け、それから理央へ戻した。
「急に具合が悪くなられて、怖い思いをしました。今は、落ち着いておられます」
理央は作文の下書きをノートの後ろへ挟んだ。
「分かりました。話しません」
真壁はうなずいた。
「もうひとつ。王都に、人を雇ってある」
「商会の人ですか?」
「荷が誰の倉庫へ入るか、どの裏口から人が出るか。そういうことを、調べて飯を食う者だ」
真壁は、許可書とは別の小さな紙を開いた。
紙には工房の印を写した、潰れた楕円があった。
「役所が受け取る帳面と、商人が金庫へしまう帳面。同じ物が書かれているとは限らぬからね」
真壁の《転移》で王都侯爵邸へ着くと、裏の小門に男が待っていた。
帽子を手に持ち、右の靴だけ泥が乾いている。
真壁を見るなり、男は壁際へ寄った。
「先に、こっちを」
丸めた紙を差し出す。
「細工師の工房です。追加加工の取次をしてた男が、昨日の夕方、ここへ寄りました。荷を運んだのは、商人の倉庫を出入りしてる御者です」
「細工師は?」
「エーレン・フォルスト。元は王立魔術院にいたそうです。倉庫の方は今朝から警備隊が入ってます。取次の男も、店へ戻っちゃいません」
男は小門の外へ目を向けた。
「工房へは、まだ来てない。昼前に荷車が一台、裏へ入りました。箱を出して、空荷で帰ってます。あれ、紙を焼く時に使う油の缶でしたよ」
ヴァルトが顔を上げた。
「その工房の場所は、分かるんですね」
「この曲がり角に、水桶が三つ。看板は出てません。二階の窓だけ、雨戸が閉まってる」
真壁は紙を受け取った。
「よく見てくれた。あとは、倉庫の出入りを続けてくれたまえ。捕まえようとせず、誰に荷が渡るかを見てほしい」
男へ金を渡し、真壁は侯爵邸の使用人を呼んだ。
工房の場所を書いた短い手紙を、警備隊への使いに持たせる。
男も使いも小門を出た後、理央は真壁へ寄った。
「紙を焼くって、証拠を消してるんですか?」
「その恐れがある。見に行く」
「王宮の物は?」
「逃げぬ物は後だ」
真壁は工房の周囲を描いた紙を広げた。
理央は《世界地図》を開いた。紙の曲がり角と、水路、隣の染物屋を順に照らし合わせる。
工房の裏には、二軒に挟まれた細い空地がある。
「ここなら、道に出ないで行けそうです」
「空地へ。中へは、私が先に入る」
理央は壁から離れた場所に《関門接続》を開いた。
板張りの廊下の先に、見知らぬ石壁が現れる。
湿った土の匂いが流れ込んできた。
真壁が先に抜け、ヴァルト、理央と続いた。
扉の向こうは、洗い水の溜まった細い空地だった。
軒の低い木戸が、すぐ脇にある。
真壁は戸板へ手を当て、《鑑定》を使った。
「かんぬきだけだ」
赤い靄が戸の合わせ目へ入り込む。
内側のかんぬきが《収納》へ消え、木戸が押し開かれた。
理央は、鍵を回す音さえしなかったことに気づいた。
真壁は振り返り、口元へ指を一本立てた。
机を削るような音が、奥から聞こえる。
ヴァルトが理央を戸口の陰へ寄せた。
室内には細工物の棚が並び、隅の炉で火が燃えていた。男が背を向け、机から掴んだ紙束を炉へ運ぼうとしている。
その腕の下で、小さな冊子が落ちかけた。
「それは、燃やさずにいただこう」
真壁の声と同時に、紙束が赤い靄へ包まれた。
男の腕が空を抱く。
燃えていた炉の中からも、紙と薪が消えた。
火の粉が一度、炉口へ散った。
男は机の端へ手を走らせる。
短い杖があった。
握るより早く、それも消えた。
「何を――」
真壁が一歩、前へ出た。
男は反対側へ逃げようとして、膝を折った。
《重力》に押さえられ、両手が床へ付く。
「顔を上げてくれたまえ。君がエーレン・フォルストかね」
男は真壁を見上げた。
細い頬に、無精髭が伸びている。
「……あの商人の、使いか」
「金の請求ではない」
真壁は机へ視線を移した。
「地図儀に仕込んだ物の話を、聞きに来た」
エーレンの目が、ヴァルトで止まった。
見覚えがある顔を探すように、眉が寄る。
「あなたが、種を作ったんですか」
ヴァルトが尋ねた。
エーレンは答えなかった。
床へ付いた右手の下で、細い銅線が動く。
「真壁さん、足元!」
理央の《鑑定》に、床板の隙間へ埋めた魔石の名称が出ていた。
発火装置。
真壁の赤い靄が、銅線と魔石を床から抜き去る。
続いて、壁際に置かれた油の缶が消えた。
床に広がりかけていた油も、別に回収された。
「工房ごと焼くつもりだったか」
真壁の声は、先ほどより低かった。
エーレンは身をよじったが、膝は上がらない。
ヴァルトが床の残った術式を調べ、触れずに境目を切り離した。
「もう、ここから火は入りません」
理央は戸口で息をついた。
真壁は男を椅子へ座らせ、重力の掛け方を変えた。立ち上がれず、腕も卓上へ届かない。
それから、床へ小さな木箱を出した。
「理央君、これを」
炉から回収した紙だった。
端は黒く、表紙の紐はすでに焼き切れている。
「焦げていない頁を確かめてほしい。炭になった文字まで、戻せるとは思わぬ方がよい」
理央はうなずき、木箱を自分の収納へ入れた。
《収納内工程》で束を分ける。
焦げた表紙と、油の染みた外側。その奥に、火の届かなかった頁が残っていた。
傷めないよう一枚ずつ取り出すと、ヴァルトが受け取って並べた。
何枚目かに、円形の図があった。
小さな切れ目を挟み、両端が向き合っている。
ヴァルトの指が止まった。
「……これです」
理央は彼の顔を見た。
「種の形ですか?」
「私が取り出した物に、よく似ています」
椅子の軋む音がした。
エーレンが、ヴァルトへ顔を向けている。
「取り出した?」
ヴァルトは、紙から手を離した。
「陛下の身体から、私が収納しました」
「……生きているのか」
理央は男へ振り返った。
質問は、小さかった。
真壁の声が、それに重なった。
「取り出した後に何が起こるか、君は知っていたのだな」
エーレンは口を閉じた。
真壁が机の引出しを《鑑定》し、底板だけを収納する。
二重底の下から、革包みが現れた。
「隠す手間を掛けた物は、拝見せねばなるまい」
包みの中には、細かく折った契約書と、別の研究冊子があった。
外で、靴音が増えた。
使いに伝えた警備隊が来たのだ。
真壁は、引出しの板と、木戸のかんぬきを元の位置へ戻した。
裏口で隊長を迎え、工房の火と床の装置について短く伝える。
「書類が灰になる前に、止めた。回収した物は、場所ごとに分けてある。こちらの者は、君たちへ引き渡そう」
隊長は炉と椅子の男を見た。
「先に入られたんですか」
「そのようですな」
真壁は、とぼけたほど穏やかに答えた。
「釈明は後で承ろう。今は、隣の家まで燃やす油があったことを、確かめてくれたまえ」
工房を出て侯爵邸へ戻った時、理央の指には煤が付いていた。
濡らした布で拭くと、爪の縁だけ黒く残る。
机の上に、助かった研究頁が並んでいた。
警備隊の担当官は、工房でどこから回収したかを控えた後、技術部分の検査に立ち会うことになった。
真壁が隠し底から出した契約を広げる。
新軍創設の正式決裁後、人工物そのものの活動を停止し、宿主の状態を正常に戻す。
署名の片方はエーレン、もう片方は献上品を仲介した軍需商人だった。
「商人には、ここで止めると約束していた」
真壁が、決裁後の処置費を指す。
「最初の注文を取るために王を急がせ、契約を取ったら元へ戻す。商人の算段は、そういうものだったらしい」
「止められるんですか?」
ヴァルトは、炉から救った頁を読んでいた。
「それを調べます。地図儀の方にも、細工師は関わっているようです」
装飾環の断面図がある。
針の空洞へ種を送り込む小さな押出し部品と、環の回転量。
加工工房への注文には書かれていなかった、封入の手順まで記されていた。
真壁はそれを、持参した注文記録の寸法と比べた。
「外の工房には部品だけを作らせ、ここで中身を入れたのですな」
理央は、種の成長図をめくった。
細い線が円から伸びている。
「これ、根みたいですね」
ヴァルトが隣へ椅子を寄せた。
「魔素を取り込む経路です。植物の根と同じ物ではありませんが」
「何を吸って育つかって、さっき言おうと思ったんです。名前が種だから」
次の頁には、生体側の魔力だけを使う試験と、外から遊離魔素を取り入れる試験が分けてある。
後者の図では、経路の先が外へ抜けていた。
その線を辿って、ヴァルトは紙を引き寄せた。
「ここに、城の旧保守口があります」
冊子の中ほどに、古い図面の写しが綴じられていた。
元王立魔術院の細工師が持っていた、保守資料だった。
閉じられた合わせ目へ、種から伸びた線が届く。
真壁は、そこを指で押さえた。
「種へ城の見取図を覚えさせたのかね」
「いいえ。魔術的な抵抗の小さい方へ伸びる設計です。エーレンは、弱い場所を古い図で見積もっています」
「だったら、王様から根が伸びて、城に穴を開けた?」
理央は自分で言って、国王の胸へ手を当てる姿を想像した。
ヴァルトは図を見たままうなずきかけ、止まった。
「そういう設計です。ただ、図の通りに働いたかは、まだ別ですね」
真壁が席を立った。
「では、その働きも見よう。王宮で預かった三点を、別室へ運んでもらう」
担当官が許可書を確認し、物証を受け取るため王宮へ向かった。
その間に、真壁は収納から小さな金属板と、使っていない魔石を出した。
ヴァルトの描いた試験図を読み、《錬金》で金属板へ細い溝を刻む。
大きさの違う試片が二枚、机に並んだ。
「種そのものを、育てるのですか?」
「そうはしません」
ヴァルトは成長図を伏せた。
「まず、経路を伸ばす部分だけを小さな試片に写します。欲求へ働き掛ける部分も、宿主へ結び付く部分も入れません」
ヴァルトが《魔術式解析》で分けた線を、真壁が試片へ移していく。
一度目は、途中の溝で魔力が途切れた。
ヴァルトが板を傾け、真壁へ戻した。
「ここの枝が一本、早く繋がっています」
「やれやれ。よく似た線が多い」
真壁は溝を直した。
理央は二人が動かす指を見ながら、ノートへ図を写す。
ようやくできた二枚は、指先に乗るほどの小ささだった。
元の種とは似ても似つかない、平たい銅の片である。
ヴァルトはそれを二つの浅い皿へ置き、《結界》で皿の内外を分けた。
片方には均一な境界を作り、もう片方には、閉じた合わせ目をひとつ残す。
「古い保守口を、小さく作ったんですね」
「ええ。外へ抜ける仕組みなら、ここへ寄るはずです」
それぞれの外側に、同じ魔石を置いた。
理央は《鑑定》で試片を見て、働き始める前の状態を記す。
ヴァルトが少量の魔力を与えた。
何も光らない。
理央は、目を細めた。
皿の中の銅片は、動いていなかった。
それでも鑑定の項目が変わる。
「こっちは、外から魔力が入ってます」
合わせ目のある方を示した。
ヴァルトは《境界》で、試片から伸びる経路を追った。
触れずに皿の端へ指を移す。
「合わせ目を通っています。こちらは、まだ通れていません」
均一な方の皿を示す。
真壁が二つの魔石を収納し、供給を断った。
理央は、もう一度《鑑定》を使った。
銅片への流入は止まっている。
ヴァルトは、合わせ目を確かめた。
「綻びは、残っています」
「釘を抜いた後ですね」
「ええ。ただ、今度は穴を開けるところから、見られました」
理央は、最初の仮説の下へ線を引いた。
魔石を取り去っても傷が残ったから、別の原因なのではなかった。
種にある経路形成の術式が、弱い合わせ目を通って外へ出る。
その時に、境界を傷める。
真壁が皿を指した。
「魔石の妨害装置も、同じ具合に調べられるかね」
「現物の術式と照らします。綻びを使う部分と、綻びを作る部分を、混ぜずに見たいです」
ヴァルトは試片の接続を切り、皿ごと収納した。
理央はノートを閉じず、物証の来る方へ椅子を向けた。
煤の残った指で書いた図が、もう、ただの根の絵ではなくなっていた。
三つの容器が届く頃には、窓の下の影が伸びていた。
開封の記録を取った後、ヴァルトが別室の作業台へ向かう。
種の容器へ施した自分の封印を確認し、外側に新たな《結界》を置いた。
理央は少し離れた机で、魔石の鑑定結果を書き取った。
自分にしか見えない文字を、二人へ読める形にする。
魔石の装置には、鑑定を妨げる術式と、既存の接続へ結び付く構造がある。
ヴァルトはその部分を解析し、工房の図面、王城で記した自筆図と比べた。
「こちらは、通路を利用する仕掛けです。種の試片にあった、弱い境目を押し広げる構造はありません」
「魔石が、根を伸ばしたんじゃない」
「ええ。種が作った綻びを使って、鑑定の妨害を広げた。その説明が、現物と図面の両方に合います」
真壁が、先ほどの皿の図へ一本線を引いた。
城の内側から外へ伸びる経路と、外から内へ戻る魔素。
理央は矢印を二つ、逆向きに書く。
「根の向きと、吸う物の向きが逆なんですね」
「種は育つために外の魔素を取り込み、魔石は同じ綻びを使って発見を妨げる。二つを組み合わせたわけだ」
真壁は筆を置いた。
「よくできた仕掛けですな。感心したくはないが」
ヴァルトが、種の容器から人工物だけを収納へ移した。
外部へ繋がらない隔離区画に置き、成長図と比較する。
理央は図の切れ目を指した。
「ここ、取り出した時も開いてたんですか?」
「はい。今も、開いています」
ヴァルトは収納内の輪郭を紙へ写した。
自分の鑑定で捉えた状態も、その脇へ記す。
成長図の最後の段階には、小さな文字で名前があった。
《強欲》。
理央は、そこを読み直した。
「これになったら、どうなるんですか」
「次の段階の説明を見ます」
ヴァルトは焼け残った頁をめくった。
途中から紙の端が失われ、文の一部は読めない。
それでも、行動に伴う高揚と、欲求を抑えた時の身体症状は残っていた。
望むままに動けば、気分を高揚させる。
踏みとどまれば、頭痛、動悸、血圧の上昇を起こす。
成長が進むほど、その差を強める。
「欲しいものを、ただ欲しくさせるだけじゃないんですね」
理央は、最後の行へ指を置いた。
「我慢する方を、苦しくする」
ヴァルトはうなずいた。
「人の話を聞いて待つことまで、身体には苦痛になります。欲求に沿えば楽になって、また、そちらを選びやすくなる」
国王の手が胸へ上がった瞬間を、ヴァルトは思い出した。
反対側の頁に、急に働きを断った場合の注意がある。
循環への負荷。胸部の圧迫。呼吸の乱れ。
「摘出直後の症状と、合います」
ヴァルトはその行を真壁へ示した。
「私が取り除いた時、陛下は胸を押さえて、息ができなくなりました」
工房で、エーレンは尋ねた。
生きているのか。
理央は、さっきまで知らなかった言葉の重さを、遅れて受け取った。
真壁は、種を止めるという契約を横へ置いた。
「約束どおりに止める機構は、どうかね」
ヴァルトは《魔術式解析》で現物を追った。
育つための経路。
宿主へ作用する部分。
外から停止を受け付ける枝は、読み取れない。
隠し底の研究冊子を開くと、試験の失敗が続いていた。
安全な不活性化には至らず。
成長後の停止方法、未確立。
その日付は、商人との契約より前だった。
「契約する前から、止められなかったんですね」
理央が言った。
真壁は署名のある紙へ目を落とした。
「止める方法を持つふりをして、金を出させた。商人に見せる帳面と、自分の研究帳は、やはり違っていたか」
「でも、どうして。商人さんも困るのに」
真壁は冊子を閉じなかった。
「君の言う、その『困る』ことが、目的だったのかもしれぬな」
担当官が、工房から残りの文書を運んできた。
机の上にあった仕事帳、壁の文書箱、商人との相談控え。
真壁が出所を確かめる間、理央は文書箱から出た訴状の控えを見た。
180名。
39名。
見覚えのある領名の下に、妻と娘の二人を失ったと書かれている。
前年6月、ヴァルディス領の増水。
支流沿いの小集落。
「……同じ水害だ」
理央は紙へ顔を近づけた。
澪たちが土嚢を積み、市場低地を守った増水だった。
助かった場所の話は、知っている。
その外にあった、この家の話は知らなかった。
娘は9歳だった。
教室で板を抱えて戻ってきた子と、そう違わない年齢である。
「180人いたはずなのに、39人しか出せなかったって……」
「その数字には、当てがある」
真壁は訴状の受理番号を見た。
「軍務の件で見た当時の記録にも、同じ人数があった。応援の見積と、招集できた兵の数ですな」
「少ないなら、最初から39人だって言えばよかったのに」
「そうすれば、180はどこから出たと問われる」
真壁の指が、回答の控えへ移った。
王都防衛上の必要。
派遣余力なし。
兵員の照合を求めた訴えには、人数の説明がなかった。
「書いた者には、隠したい事情があったのだろう。退役、不在、別任務との重複。架空登録がどれだけ混じっていたかも、調べねばならぬ」
理央は180と39の間へ、141と書いた。
その隣に、何も書けず、筆を止める。
エーレンの訴状には、退避路が失われる前の支援を求めていたとある。
水が来てから、王都から走って助けに行く話ではなかった。
警戒の段階で人を出すはずが、人数を確かめるところで止まった。
ヴァルトが、古い研究の表紙をめくった。
疲労した救助者の活動を支える魔術。
意欲の減退を抑え、作業を続けられる時間を延ばす試験。
「最初は、こういう研究だったようです」
理央は、種の成長図へ目を戻した。
人を助けるために働き続ける仕組みが、人を追い立てる仕組みになっていた。
相談控えの中には、国王が救援軍を望んだ発言の写しもあった。
商人が、細工師へ持ち込んだものだ。
王は地図儀が来る前から、実際に動かせる兵を欲しがっていた。
「種が、軍を作れって命令するわけではないんですね」
「ええ。陛下の中にあった願いを使う設計です」
ヴァルトは種を容器へ戻し、封印を施し直した。
「細工師も商人も、その願いを知っていた。けれど、願いが強まった後に望んだことは、同じではなかったのでしょう」
真壁は研究冊子の後ろを開いた。
新軍の調達へ商人を食い込ませる計画。
成長した種が、王の支配欲まで際限なく強めるとの見込み。
王命で軍を国内の対立へ向ければ、地方へ回る兵はさらに減る。
冊子の余白に、その先を見込んだ言葉が残っていた。
王のためにだけ動く軍。
理央は、そこから手を離した。
「助けに来なかった軍を、誰も助けに行けない軍にするんですか」
真壁は返事をせず、訴状と研究冊子を並べた。
理央は椅子の男を思い出す。
杖を掴めなかった手。
床の銅線を探していた指。
その手で、この図を描いたのだ。
翌朝、真壁とヴァルトは王都警備隊の取調べ室へ入った。
理央は侯爵邸に残った。
工房では、とっさに声を上げられた。今は、エーレンを前にして何を言うか、うまく決められなかった。
ただ、ひとつだけ尋ねたいことがあり、紙へ書いて真壁に渡した。
取調べ室の卓上には、真壁が回収した契約書と研究冊子があった。
エーレンは、入ってきた二人を見た。
「種を、止めたのか」
「陛下の身体からは取り除きました。外部との接続を断って、保管しています」
ヴァルトが答える。
エーレンは、その顔をしばらく見ていた。
「根を切ったのか」
「吸収経路のことなら、城の境界も閉じました。あなたの試験図と同じ構造を、小さな試片で確かめています」
ヴァルトは二つの皿の図を置いた。
エーレンの視線が、合わせ目へ移る。
「そこを均一にしておけば、外へは出にくい」
「弱い方へ伸びるんですね。城の古い保守口が弱いことは、知っていた」
「昔、私もあの資料を扱った」
捜査官が発言を記録した。
封入の指図、中空針の寸法、取次を通した納品の順序を示すと、エーレンは自分の仕事だったと認めた。
真壁が停止処置の契約を、その手前へ滑らせる。
「君は、いつ止めるつもりだったのかね」
エーレンは紙を見た。
「商人は、契約が取れたらと言っていた」
「君のつもりを聞いている」
真壁は研究冊子を開いた。
停止方法、未確立。
日付を押さえる。
「これを書いた後で、活動を停止すると約束した。方法がなかったのではないかね」
「……なかった」
「では、金を出させるための嘘か」
「あの男には、軍を買わせればよかった」
別室で商人が述べた内容と、供述が繋がっていく。
新軍創設の契約を取るため、国王の願いを強める工作へ金を出した。
種の働きは後で止められると、商人は考えていた。
エーレンは、その先を説明していなかった。
「《強欲》まで育てるつもりだったのですね」
ヴァルトの問いに、エーレンが目を上げた。
「あと少しだった」
「時間までは、分からないでしょう。外形だけなら、確かに、切れ目が残る段階でした」
ヴァルトは種の輪郭を写した紙を置いた。
「摘出の後、陛下は胸を押さえて、呼吸が乱れました。その危険も、研究には書いてあります」
「あそこまで育ったものを、急に外すとは思わなかった」
「分かっている人が、そばにいなかったんです」
ヴァルトの声は大きくならなかった。
エーレンは、図を見ていた指を引いた。
真壁が、理央の紙を出した。
「君の訴えも読んだ。180と39。あの数字が、軍務の記録にも残っている」
エーレンは初めて、椅子の背から身を起こした。
「残っていたのか」
「残っていた。誰が人数を取り繕い、派遣を遅らせたかは、これから調べる。そこにいる者が、皆、同じ責任を負うとも限らぬ」
真壁は理央の書いた問いを読んだ。
「助けに来る兵がいなかったことを恨んだ君が、ほかの人も兵に助けてもらえない国を作ろうとした。そうなることを、承知していたのかね」
エーレンは、すぐには答えなかった。
部屋の外で靴音が遠ざかる。
捜査官の筆が、紙の上で止まっている。
「軍があると書いた国が、私の娘を見捨てた」
エーレンは机の木目へ目を落とした。
「だから、その軍は、王のためにしか動かないものだと……誰にも、見えるようにしてやりたかった」
「次の水害で待つ者にもかね」
真壁が尋ねた。
エーレンの唇が動いた。
「分かっていた」
ヴァルトは、訴状の娘の年齢を見た。
昨日、板を忘れて戻ってきた子どもの声が、頭の中に残っている。
また明日も教えてくれるかと、尋ねた声だった。
真壁は、研究冊子を閉じなかった。
「君を捕らえたことで、当時の軍務が正しかったことにはならぬ。そちらも調べる。だが、君が作った種で、救われる者がいたのかは、別に聞かねばなるまい」
エーレンは顔を上げなかった。
捜査官が、次の質問へ移った。
訴状は、卓上の端へ残された。
その日の午後、クラウスは短い報告書を持って国王の寝室へ入った。
小卓には、署名されていない軍の草案がある。
真壁たちが現物と試験で確かめた働き、細工師が認めた封入の手順。商人に約束した停止処置と、実際の研究との食い違い。
国王は、途中で口を挟まなかった。
「《強欲》には、まだ変わっていなかったのだな」
「はい。次の段階へ進む前に取り除かれました。どれほど時間が残っていたかは、分かっておりません」
国王は胸へ手をやりかけ、寝具の上へ戻した。
「わしが欲した軍を、二人とも、自分のために使おうとしたのか」
「商人は契約を、細工師は王国が内側から崩れることを狙っていました」
クラウスは、古い訴状の写しを広げた。
180名と39名。
国王の目が、その二つの数字を往復する。
「なぜ、これは確かめられなかった」
「当時の回答では、王都防衛上の必要とされております。実員を問い直した訴えが、どこで止まったかも調べます」
国王は軍の草案を見た。
兵員欄に、まだ、確認を待つ数がある。
「過去の報告も調べよ。都合の悪い数まで、持ってこい」
「承知しました」
「訴えが正しかったとしても、種を入れたことを許せとは言わぬ。だが、あの者が罪人だからといって、39を180に戻すな」
クラウスは一礼した。
侍医が近づくと、国王は草案へ伸ばしかけた手を引いた。
「続きは、報告が来てからだ」
その手に、筆は渡されなかった。
夕方、三人は真壁の《転移》で侯爵領へ戻った。
翌日の授業が終わると、共同商館二階には、子どもたちの帰る足音が残った。
ヴァルトは黒板の消し残しを拭き、理央は、最初と同じ大きな机に座っていた。
指の煤は、もう落ちている。
ノートを開くと、試片を見ながら書いたところだけ、字が小さく詰まっていた。
「分かってたんですね」
理央は、取調べで返ってきた言葉を読んだ。
ヴァルトが黒板から振り返る。
「ええ」
「知らなかったって言われると思ってました。こんなことになるなんて、って」
理央は、その短い返事の下に何か書こうとして、筆を置いた。
真壁が商会の帳面を抱えて入ってきた。
「調査員から、続きが来た。商人が急いで片づけようとした荷の中に、種を使う相談の控えがあったそうだ。本人の説明とも、確かめることになる」
「また、頼むんですか?」
「しばらくはね。あの者には、荷車の後ろを歩いても、誰も目を留めぬ強みがある」
真壁は帳面を置き、理央のノートを見た。
「君が発火装置を見つけなければ、あの工房は焼けていた。助かった紙も、もう少し少なかっただろう」
「表示が出たんです。床を見たら」
「見たから、出たのだよ」
理央は、最初の四項目へ戻った。
装置が穴を開けたのかもしれない、と考えたところには、疑問符が残っている。
その後に、根と魔素の逆向きの矢印がある。
ヴァルトが隣に腰を下ろした。
「あなたが、何で育つのかと聞いてくれたから、あの線を見直せました」
「でも、私だけじゃ、根が出るところなんて作れません」
「私だけでも、あの工房の場所は分かりませんでしたよ」
ヴァルトは真壁へ目を向けた。
「次は、扉を開ける前に一言ください。少々、驚きました」
「そうかね。君が城で地図儀を丸ごと収納したと聞いた時も、私は少々、驚いたが」
理央は二人の顔を見比べた。
「私、いちばん普通に扉を開けてたんですね」
真壁が片眉を上げる。
「君の扉は、王都まで繋がる。普通という言葉は、よく考えて使いたまえ」
理央は笑いかけ、ノートの後ろから作文の下書きを出した。
言い争う登場人物が、何を考えているかばかりを書いた段落だった。
相手のどの言葉で怒ったのか。
どこで手が止まったのか。
そして、その後、自分で何をしたのか。
そちらから書き直そうと、余白へ線を引く。
「推理小説にしてみたくなりました」
「王国の秘密は伏せたまえ」
「もちろんです。王様も、地図儀も出しません。違う事件です」
ヴァルトは翌日の授業に使う板を並べ、真壁は商会の帳面を開いた。
理央は新しい頁を出す。
最初の一行を書いた。
『時計が止まっても、誰も困らない家だった。』
少し考え、その横へ小さな疑問符を付けた。