押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第433話 真壁さん、何をしたんですか!?

 

 渋谷駅を出たはずなのに、理央はまた渋谷駅にいた。

 

 さっき見た案内板とは違う。

 

 けれど、頭上には同じような矢印があり、同じような人の流れがあり、どちらへ進んでも階段があった。

 

 スマホを持ち直す。

 

 画面の中では、目的地へ向かう線が素直に伸びていた。

 

 理央本人だけが、その線の上にいない。

 

 少し前に渡った連絡通路が、ガラス越しに見えた。

 

 そこへ戻ると、さっき降りた階段へまた案内されそうだった。

 

「商才って、出口までは教えてくれないんですね……」

 

 異世界では町をつなぐ関門を開ける。

 

 ゲンダイでは、駅の出口にたどり着けない。

 

 誰かに知られる前に何とかしたかった。

 

 引き返し、案内板をもう一度見て、ようやく外へ出た。

 

 雨上がりの歩道に、ビルのガラスが白く映っている。

 

 車が通るたび、縁石に残った水が細かく揺れた。

 

 菓子店の前を通ると、バターの甘い匂いがした。

 

 足を緩めかけたが、スマホの時刻を見て歩き直す。

 

 今寄れば、確実に遅れる。

 

 薄手のカーディガンの裾を直して、出版社の入ったビルへ急いだ。

 

 今日は、2冊目の打合せだった。

 

 受付で名前を告げると、女性が笑顔で席を勧めてくれた。

 

 壁際の棚には、最近刊行された本が並んでいる。

 

 その中に、自分の本があった。

 

 何度も見ている表紙なのに、ここに置かれていると違って見えた。

 

 自分の机から出ていった話が、ほかの人の本と同じ棚に立っている。

 

 鞄の取っ手を握る指が緩んだ。

 

 2冊目も、ここへ並べたい。

 

 理央はノートを開いた。

 

 読者からもらった感想と、自分で考えた直し方が書いてある。

 

 商談の失敗を、もう少し早く見せる。

 

 主人公が工夫する場面は、削りたくない。

 

「飯島様、お待たせしました」

 

 呼ばれて立ち、ノートを閉じた。

 

「よろしくお願いします」

 

 駅の出口は分からなかった。

 

 今日話したいことは、ちゃんと分かっていた。

 

 

 

「商売の話を減らしましょう」

 

 三田は、机に置いた原稿へ黄色い付箋を貼った。

 

 付箋には、大きく『カット!』と書いてある。

 

 理央は、その下の場面を見た。

 

 主人公が初めて仕入れを失敗し、余った品物の売り方を考えるところだった。

 

「ここですか?」

 

「全体的にです」

 

 三田は湯飲みを持ち上げた。

 

「数字が多いと、読者を選ぶんですよ」

 

「でも、ここは一番感想をいただいているところなんです」

 

 理央はノートを横に置いた。

 

 面白かったという感想ばかりではない。

 

 失敗した理由が後から分かるので、最初は主人公がうっかりしているように見えた、という指摘もあった。

 

 そこは自分でも気になっていた。

 

 《商才》を使い、三田の案で誰が本を買いたくなるのかを考えてみる。

 

 今の読者が楽しんでいる商談を減らすなら、代わりに何が面白くなるのだろう。

 

 新しい読者へ届かせるにしても、何を楽しんでもらうのか聞いておきたかった。

 

「なので、失敗の理由を先に少し見せたらどうでしょう?」

 

「うん、まあ、それもあるでしょうけど」

 

「後で工夫するところは、残したいです」

 

 三田は付箋を指で押さえた。

 

「恋愛を増やした方が売れます」

 

 理央の頭の中で、いくつかの場面が並んだ。

 

 仕入れの失敗から、その後の売り方、仲間との関係まで。

 

 《並行思考》で筋を追ってみても、ここを半分削ると、次の工夫だけが突然出てくる。

 

 恋愛を入れるなら、別のところに余地があった。

 

「どの人物との場面を増やすんですか?」

 

「そこは、飯島さんが考えてください」

 

「商談の後の仲直りのところなら、少し長くできそうです」

 

「そういう方向ですね」

 

「あの場面は読んでいただけました?」

 

 三田が原稿をめくった。

 

 先へ行き、戻り、もう一度先へ行く。

 

 理央は該当のページを開いた。

 

「ここです」

 

「……そこは検討しましょう」

 

 三田は湯飲みを口へ運び、少し傾けた。

 

 何も出てこなかったらしい。

 

 無言で元の位置へ戻した。

 

 理央は自分の茶を見た。

 

 まだ半分残っている。

 

 相手の湯飲みまで気にしている場合ではない、と原稿へ目を戻した。

 

「削るところと、残すところを分けて考えたいです」

 

 三田の指が、黄色い付箋から離れた。

 

「分かりました」

 

 理央は鉛筆を取った。

 

 ところが三田は、原稿を閉じた。

 

「その前に、宣伝の話をしましょう」

 

 

 

 入ってきた2人の男は、どちらも原稿を見なかった。

 

 三田が紹介したのは、映像会社の代表、大河内と、営業責任者の戸塚だった。

 

 大河内は丁寧に名刺を差し出した。

 

 戸塚は鞄から厚い書類を出し、理央の原稿の上へ置いた。

 

 自分が直そうとしていたページが隠れた。

 

「若い作家さんの素顔を紹介する、特別な企画です」

 

 大河内が言う。

 

「読者との距離も近くなります」

 

 理央は最初のページを読んだ。

 

 書籍の紹介だけではなかった。

 

 顔や名前の利用。

 

 住所や普段の活動場所に関する情報。

 

 映像の二次利用。

 

 会員向けの催しへの出演。

 

 撮影後にどこまで使われるのか、読んでもはっきりしないところがあった。

 

「これ、出版社の広報なんですか?」

 

「私のつながりですよ」

 

 三田は、そう答えた。

 

「君が売れるためなら、こういうことも必要でしょう」

 

 理央は書類の表紙へ戻った。

 

 出版社の企画書ではない。

 

「私、小説の打合せに来たんですけど」

 

「もちろん、だからこその宣伝です」

 

 戸塚が別の紙を出した。

 

 撮影日程が入っている。

 

 まだ相談もしていない日の欄に、理央の名前があった。

 

「こちらの日でしたら、夕方から対応できますよね」

 

「分かりません」

 

「ご予定に合わせて、開始時刻は調整できます」

 

「出演するって言ってません」

 

 戸塚の指が、日付の上で止まった。

 

 大河内が椅子を少し前へ寄せる。

 

「販売先との日程が、もう動いておりまして」

 

「それは、私が決めたことじゃないです」

 

 自分の声が、思ったより細かった。

 

 理央はカーディガンのポケットへ手を添えた。

 

 スマホがある。

 

 鞄は椅子の横に置いていた。

 

「両親にも話していませんし、ここで決められません」

 

「説明なら、後から私がします」

 

 三田は署名欄を指した。

 

「まず方向性だけ、ね」

 

 理央はペンを取らなかった。

 

 換気口から冷たい風が下りてきた。

 

 廊下では誰かが笑い、コピー機の作動音が続いている。

 

 すぐ外に普通の仕事があるのに、この部屋だけ違うところにあるようだった。

 

「会社として決まっている企画なら、会社の窓口から説明をお願いします」

 

 三田の顔から笑みが薄くなった。

 

「飯島さん」

 

 原稿の端を、指で叩く。

 

「断るなら、2冊目の話も見直しになるかもしれないよ」

 

 胸の奥が縮んだ。

 

 棚に並んでいた自分の本を思い出した。

 

 その隣に置きたかった、次の本。

 

 大河内は何も言わなかった。

 

 戸塚も日程表を引っ込めない。

 

 理央は口を開き、すぐ閉じた。

 

 この3人へ、今うまく説明できる気がしなかった。

 

「……お手洗いに行かせてください」

 

 三田が腕時計を見た。

 

「戻ったら、もう少し話しましょう」

 

 理央は立った。

 

 鞄を持つと、止められるかもしれない。

 

 椅子の横へ置いたまま、扉へ向かった。

 

 署名欄は、空白のままだった。

 

 

 

 女子トイレの個室へ入り、掛け金を掛けた。

 

 理央は扉へ手を置いて、息を吐いた。

 

 指が震えていた。

 

 このまま受付へ行けばいい。

 

 そう思ったのに、廊下へ出て三田と会う場面が頭に浮かんだ。

 

 2冊目。

 

 見直しになるかもしれない。

 

 その声が、まだ耳に残っている。

 

 理央はポケットのスマホを握った。

 

 江古田の事務所を思い出す。

 

 倉庫へ続く棚の脇。

 

 いつも物を置かないようにしている、あの床。

 

 そこなら、安全に立てる。

 

「お願い、使えますように……!」

 

 《関門接続》を使った。

 

 狭い壁の前に、小さな扉が現れる。

 

 向こうに木の棚が見えた。

 

 見慣れた紙袋も、箱の隅もある。

 

 床には誰もいなかった。

 

 理央は片足を動かしかけて、止めた。

 

 掛け金。

 

 このままいなくなったら、個室がずっと使用中になる。

 

 外を歩く足音がした。

 

 手を洗う水音が続く。

 

 理央は待った。

 

 水が止まり、出入口の扉が閉まった。

 

 廊下側からも、人の気配はしない。

 

 そっと掛け金を外した。

 

 個室の扉を閉じた位置に戻し、身体を横にして関門をくぐる。

 

 棚に肩が触れた。

 

 足の裏に、事務所の床があった。

 

 関門を閉じると、換気扇の音が消えた。

 

 代わりに、奥から聞き慣れた声がした。

 

「その箱は、そちらへ置きたまえ」

 

 理央は、その場へ座り込んだ。

 

「おや」

 

 真壁が棚の角から顔を出す。

 

「理央君、出版社ではなかったかね」

 

「真壁さん……私、あんな契約、してません!」

 

 何の契約かも言えないまま、声が大きくなった。

 

 澪が椅子を引いて駆け寄ってきた。

 

「どうしたんですか?」

 

「本の話をするはずで、でも、違う会社の人が来て……」

 

 理央はそこまで言って、鞄がないことを思い出した。

 

「鞄、置いてきちゃいました」

 

「鞄は後です」

 

 澪はしゃがんで、理央の顔をのぞき込んだ。

 

「まず、お水を飲んでください」

 

 コップを受け取ると、今度は両手が震えた。

 

 水面が小さく揺れる。

 

 真壁は棚の脇から椅子を持ってきた。

 

「ここには、その人たちはおらんよ」

 

 理央はうなずいた。

 

 もう一度うなずいて、水を飲んだ。

 

 両親へ電話する声は、まだ途中で詰まった。

 

 澪が隣へ座り、言葉が出るまで待ってくれた。

 

 出版社へは、代表窓口から連絡を入れた。

 

 打合せは終了したこと。

 

 本人は安全な場所にいること。

 

 鞄と原稿を保管してほしいこと。

 

 受付の女性は、すぐに確認します、と答えた。

 

 どこから逃げたのかは、話さなかった。

 

 

 

 翌朝、事務所の机に4枚の紙が並んだ。

 

 3枚には、それぞれ男の名が書いてある。

 

 残る1枚には、『理央君が売っていないもの』。

 

「私、売るつもりもなかったです」

 

「うむ」

 

 真壁は最後の紙を、手前へ寄せた。

 

「だから、これはここにある」

 

 理央の両親とも話し、真壁は相談役を頼まれていた。

 

 出版社の窓口は編集長の相馬へ変わった。

 

 三田の映像斡旋は、会社として承認した企画ではないという。

 

 鞄と原稿も確保され、誰が預かったかまで知らせてくれた。

 

 鞄と原稿は正式な窓口から返送してもらうことになった。

 

 会議室に残された映像の契約案は、出版社が調査用の資料として別に保管するという。

 

 澪はその返信を読んで、口を結んだ。

 

「だったら、出版だけ守れれば終わりですよね」

 

「理央君の出版は守る」

 

 真壁は大河内の名の下に、『前受金』と書いた。

 

「ただ、あちらはもう売り先を動かしているようだ」

 

「私が断ったら、向こうが困るんですか?」

 

「困る約束をしたのなら、そうなる」

 

 理央は、あの日の日程表を思い出した。

 

 自分が一度もうなずいていないのに、日付だけ決まっていた。

 

「すみません、皆さんまで」

 

「理央君」

 

 真壁が鉛筆を置いた。

 

「承諾していない、と言えたのだろう」

 

「はい」

 

「なら、その点は動かさんことだ」

 

 真壁は次の電話をかけた。

 

 頼んだのは、民間の調査員だった。

 

 映像会社が外へ出している広告と、これまで取引した相手の話を調べてほしい、と告げる。

 

 電話を切る前に、費用の見積もりも聞いた。

 

「それでは、その範囲で頼む」

 

 理央が顔を上げた。

 

「調査する人まで頼むんですか?」

 

「私は出版社の中も、映像業界の隅々も知らんからね」

 

 真壁は3枚の紙を少しずつ離した。

 

 三田が欲しい紹介料。

 

 大河内が返したくない金。

 

 戸塚が守りたい営業成績。

 

 真壁は理央の話と出版社の返信を見比べ、3人の頼み先を紙へ書いた。

 

 三田は刊行の話で著者を動かそうとし、大河内は販売先の日程を理由に承諾を急がせた。

 

 戸塚が持っていたのは撮影日程で、理央が空いているかどうかさえ確認していない。

 

 真壁は大河内の名から購入先へ線を引き、調査員にはまず販売案内を確認するよう伝えた。

 

 紹介する側と、金を受け取る側の説明が一致するかを先に調べる。

 

 戸塚が会社の指示を持ち出した場合に備え、契約条件を誰が決めたかも確認事項に加えた。

 

 連絡の担当を分け、澪には本人と保護者の意思と受信メールの確認を頼む。

 

 調査員には公開された販売案内と協力者の話、相馬には会議室の利用と社内承認の記録を頼んだ。

 

 真壁は回答を日付順に並べ、直接確認した事実と、まだ誰かの説明に留まる話を分けて控えた。

 

「任せておきたまえ」

 

 そう言って、真壁は湯飲みに手を伸ばした。

 

 澪が、急須を持ち上げる。

 

「でも理央さんを、あの人たちに会わせるのは嫌です」

 

「その必要はない」

 

 理央は、ようやく背もたれに寄りかかった。

 

 

 

 3日後、正式な窓口から、理央の両親宛てに鞄と原稿が返送された。

 

 理央は自宅で鞄を開き、ノートも筆箱もそろっていると確かめて、ようやく息をついた。

 

 後の連絡では、映像の契約案は調査用に保管していると確認できた。

 

 その翌日、理央は戻ってきたノートを事務所で開き、2枚の紙を並べていた。

 

 1枚は、ある配信会社が送ってきた契約の抜粋だった。

 

 映像会社の案内を見た購入先が、出版社へ正式な協力企画なのか確かめたという。

 

 そこから、理央本人の出演同意も確認されることになった。

 

 本人は承諾していない。

 

 出版社も協力を認めていない。

 

 そう答えると、購入先の法務担当から、自分たちが保証された内容が示された。

 

 もう1枚は、翌日に別の配信会社から届いた照会だった。

 

 こちらも、同じ映像を自社だけが配信できると聞いていた。

 

 理央は、片方を読み、もう片方へ目を移した。

 

 最初は、地域が違うのかと思った。

 

 次は、期間が違うのかと思った。

 

 《並行思考》で条件を別々に追っていく。

 

 撮る人は同じ。

 

 映像も同じ企画。

 

 日本国内。

 

 配信する期間も重なっている。

 

 理央の鉛筆が止まった。

 

「真壁さん、独占って2つあっていいんですか?」

 

「対象や時期が違えば、あり得る」

 

「じゃあ、どっちも日本全部で、同じ期間で、同じ映像だったら?」

 

 真壁が椅子ごと向き直った。

 

「見せたまえ」

 

 理央は該当の行を指した。

 

「どっちも、自分の会社だけって」

 

 理央は《商才》を使って、照会の文面をもう一度追った。

 

 売りたいという話と、売って代金を受け取った話は違う。

 

 日程表があるだけで出演を決められなかったのと同じで、案内だけなら契約したとは限らない。

 

「これ、まだ提案しているだけですか?それとも契約済みなんですか?」

 

 真壁が2枚を読み比べた。

 

「片方は契約条項を示している。もう片方は、まず問い合わせだね」

 

「じゃあ、そちらにも契約したか聞きたいです。お金を払ったのかと、何を納めてもらう約束なのかも」

 

 理央はノートに3つの確認事項を書き、同じ映像を指す行へ鉛筆を戻した。

 

「もし両方とも、これで契約していたら……」

 

「同じ約束を、両社へ果たせるかという話になる」

 

「それに、これ」

 

 理央は紙を少し遠ざけた。

 

「私、まだ撮られてもいません」

 

「そうだったね」

 

「出演した人が0人なのに、独占する会社が2社あります」

 

 澪が、湯飲みを置きかけて止まった。

 

「どういう数え方ですか、それ」

 

「私も分からないです」

 

 真壁が紙の端をそろえた。

 

「商売の目は、よく働いているようだ」

 

 理央は、ノートへ2つの『独占』を書いた。

 

 どちらにも丸を付ける。

 

 その下に、自分の承諾を書く欄を作った。

 

 書くことがないので、空けておいた。

 

 

 

 確かめてみると、2社とも代金を払っていた。

 

 契約書の体裁は違っていた。

 

 振込日も違う。

 

 それなのに、独占する対象と期間だけが一致する。

 

 真壁は届いた資料を、別々の封筒へ入れた。

 

 買い手は、それぞれ自分の前払金を守るために動いていた。

 

 契約の必要な箇所と支払控えを、本人側の窓口へ見せる。

 

 さらに映像会社との協議でどこまで示してよいか、各社から別に了解を得た。

 

 理央は紙を読む途中で、眉を寄せた。

 

「出演する承諾も、出版社の協力も、もう取れているって書いてあります」

 

「買い手は、それを信じて払ったのだろうね」

 

「まだ会ってもいなかったのに」

 

 あの部屋で言われた『もう動いている』の意味が、少し分かった。

 

 先に売った。

 

 その後で、自分に署名させようとした。

 

 理央は空白の欄があるノートを閉じた。

 

 澪が封筒を見た。

 

「払った会社の人たちも、困っていますよね」

 

「だから、各社が自分の契約を調べている」

 

 真壁は資料鞄の口を開いた。

 

 人目のない事務所で、控えだけを《収納》へ移す。

 

 靄が紙の角を覆い、机から消えた。

 

 閲覧だけの控えと、協議で示せる抜粋は分けてある。

 

 必要な紙を探すたびに、全部の封筒をひっくり返す必要はなかった。

 

 理央には羨ましい整理の仕方だった。

 

「それ、原稿にも使いたいです」

 

「原稿は、まず版を分けたまえ」

 

「分けてます」

 

「名前は?」

 

「直したものと、もっと直したものと……」

 

 澪が理央を見た。

 

 理央は、契約書の方へ話を戻した。

 

「この2社の紙は、混ぜないんですね」

 

「うむ、そこは君の原稿と同じにしてはいかん」

 

 その日の夕方、調査員からも報告が来た。

 

 以前、同じ会社から取材の話を受けた成人の作家がいた。

 

 その人も、売り先へ示された内容と自分が聞いた話が違ったという。

 

 出演の承諾はしていないのに、三田からは出版社も協力する企画だと説明されていた。

 

 その作家はすでに渋谷署へ事情を話しており、代金を払った企業からも相談が出ているという。

 

 真壁は、必要な話を本人から聞ける窓口を作った。

 

 新たに確認できた購入先の契約書や送金記録は、その企業から直接警察へ渡してもらう。

 

 事務所の仕事と並行して、別の場所でも確認が進んでいた。

 

 

 

 理央が出版社から逃れた日から、2週間余りが過ぎた。

 

 朝夕に着ていた上着が、昼には邪魔になり始めている。

 

 大河内から、真壁へ協議を願うメールが来た。

 

 文面の最初には『穏便な解決』とあった。

 

 最後には『本人および出版側のご協力』とある。

 

 真壁は、間に並んだ条件を読んだ。

 

 配信会社の一方は説明期限を切り、もう一方は新たな販売を止めるよう求めていた。

 

 映像会社は、内容を正式な書籍宣伝へ絞る案を出している。

 

 理央の承諾を得て、出版社も協力するなら、購入先との契約変更を相談できるという考えだった。

 

「私、出ません」

 

 理央は言った。

 

「うむ」

 

 真壁は返信へ、その意思を書き入れた。

 

 理央本人は出席しない。

 

 真壁にも、出演を承諾する権限はない。

 

 取引の状況を確認する協議なら、応じる。

 

 返事は、その日のうちに来た。

 

 代表、営業責任者、紹介した編集者の3人で出席するという。

 

 記録の取り方や資料の範囲についても、確認してきた。

 

「それでも来るんですか?」

 

 澪が聞いた。

 

「来ねば困るのは、向こうのようだ」

 

 真壁は手帳へ予定を記した。

 

 会場は、渋谷の貸会議室だった。

 

 出版社には、映像会社が三田の権限を頼りにしていることを知らせた。

 

 相馬は会社として説明するため、管理担当とともに近くの別室で待つと答えた。

 

 警察へも、求められていた協議日と出席予定者を伝える。

 

 以前からの事件について、どう動くかは捜査員が決めることだった。

 

 真壁は持参する紙を選んだ。

 

 《収納》から、提示を認められた抜粋だけを取り出す。

 

 金額やほかの取引情報は伏せ、権利の対象と保証の部分を残す。

 

 封筒を閉じる前に、理央の顔を見た。

 

「何か、伝えておきたいことはあるかね」

 

 理央は考えた。

 

 言いたいことなら、たくさんあった。

 

 なぜ原稿を読んでいないのか。

 

 なぜ自分の名前が勝手に日程表にあったのか。

 

 それでも、最後に口から出たのは短い言葉だった。

 

「私、小説の話がしたかったです」

 

 真壁はうなずいた。

 

「それは、先方に覚えておいてもらおう」

 

 

 

 会議室には、水のボトルが4本並んでいた。

 

 真壁は1本のキャップを緩め、まだ飲まずに置いた。

 

 向かいには、大河内と戸塚。

 

 三田は少し離れた椅子に座っている。

 

「本日は、協力条件についてのお話ということで」

 

 大河内が先に言った。

 

「ご本人の出演を、ここで承諾することはできません」

 

 真壁も先に答えた。

 

「承知しています」

 

 大河内の返事は早かった。

 

 戸塚は日程表を取り出したが、机には置かなかった。

 

「では、すでにある2件の取引を確認しましょう」

 

 真壁は封筒を開けた。

 

 購入先が協議への提示を認めた抜粋を、それぞれ机へ置く。

 

 戸塚の目が紙へ落ちた。

 

「2社と成約なさった」

 

「ええ」

 

「立派な営業成績ですな」

 

 戸塚の肩が、わずかに戻った。

 

「契約も入金も済んでいます」

 

 真壁は自分の紙に、『2件』と書いた。

 

「ならば、同じ順で、何を納品する予定か教えていただきたい」

 

「作家の取材映像です」

 

「片方には、日本国内で、その会社だけが配信できる映像を」

 

「はい」

 

「もう片方にも、日本国内で、その会社だけが配信できる映像を」

 

 戸塚の視線が大河内へ動いた。

 

 大河内は手を組んだ。

 

「条件は、変更をお願いする予定です」

 

「変更されて、両社が納得した条件は?」

 

「そのためにも、まず出演の調整を」

 

 真壁は『2件』の右へ、小さく欄を作った。

 

「いまの約束のままで納められるものは、どちらですかな」

 

 ペン先が止まる。

 

 戸塚の口が開いたが、声は出なかった。

 

 真壁は待った。

 

 《交渉》を使いながら、真壁は戸塚が件数を認められた時だけ顔を上げたことに目を留めた。

 

 販売件数の紙はそのままにし、横へ2社の納品条件を置く。

 

 2件とも成約したという戸塚の説明を受けて、納品の問いも2件に分けた。

 

 戸塚は件数の欄を見てから、右隣の紙を見た。

 

「営業としては、予定していた納期で……」

 

「その納期に、どちらへ独占の映像を渡すのですかな」

 

 戸塚は片方へ指を伸ばしかけ、もう片方を見て引っ込めた。

 

 真壁のペンは、まだ答えを待っていた。

 

 大河内がボトルを取った。

 

「制作費も動かしています」

 

「前受金から?」

 

「資金の判断は、私がしています」

 

「では、代表の判断で制作へ進められた」

 

「会社ですから、当然でしょう」

 

 大河内の声に力が入った。

 

 真壁は、うなずいた。

 

「なるほど、責任あるお立場だ」

 

 戸塚が、そこで口を挟んだ。

 

「保証書も代表の決裁です」

 

 大河内の横顔が動いた。

 

「営業の条件を説明しているんだろう」

 

「社内で確認した条件です」

 

 戸塚は大河内を見るのをやめ、保証書の欄を指した。

 

「私が勝手に保証を付けたわけではありません」

 

「それは誰も聞いておらん」

 

 大河内は言ったが、戸塚の指は離れなかった。

 

 真壁は戸塚の指す決裁欄を確かめ、並べた2枚をめくって権利保証の箇所を示した。

 

「出演と出版社協力は取得済み、という保証がありますな」

 

「そこは三田さんが調整する話です」

 

 大河内の指が、三田へ向いた。

 

「調整中、と」

 

 真壁は筆を止めた。

 

「取得済みとの違いは、買い手へ説明できておりますか」

 

 大河内はボトルに口を付けた。

 

 戸塚は、日程表を鞄へ戻した。

 

 

 

「著者との関係は、私が持っています」

 

 三田が姿勢を正した。

 

「そもそも、飯島さんを出版へつなげたのは私ですから」

 

 真壁は三田を見た。

 

「お若い作家を育てられたお手柄は、あなたのものというわけですな」

 

「そうです」

 

 大河内がうなずく。

 

「出版社側の協力については、三田さんが」

 

「私が担当している以上、そこは進められます」

 

 三田は、ようやく自分の番が来たように話し始めた。

 

「2冊目も私が見ていますし、著者には宣伝の大切さを分かってもらう必要があるんですよ」

 

「先日の打合せでは、小説の話をしたかったそうだが」

 

「だから、そのための宣伝です」

 

 真壁はペンを置き、三田を見た。

 

「では、編集担当の立場で取れる承認を、会社にも確認しましょう」

 

 出版社側へ説明を求め、相馬と管理担当が入ってきた。

 

 三田の手が、膝の上で止まった。

 

「編集長」

 

 相馬は空いている椅子へ座った。

 

 管理担当が、持参した書類をその前へ置く。

 

「当社は、この映像企画を承認していません」

 

 相馬は大河内へ言った。

 

「会社名義の協力も、装丁や書籍素材の使用も認めていません」

 

 大河内の視線が、三田へ戻る。

 

「社内で調整できるというお話でしたが」

 

「まだ、進行中で」

 

「三田さんに、その承認権限はありません」

 

 相馬の声は変わらなかった。

 

 三田は机へ手を置いた。

 

「現場では、こういう宣伝の機会も必要なんです」

 

「著者は、出演を承諾していません」

 

「そこは私が話します」

 

「話した結果、刊行を見直すと言ったのですか」

 

 三田の唇が動いた。

 

「あれは、企画全体についての」

 

「当社が、その映像出演を刊行の条件にしたことはありません」

 

 相馬は一度、管理担当の書類へ目を下ろした。

 

「飯島さんの担当からは、今日付で外れてもらいます」

 

「私が育てた作家ですよ!」

 

 三田の声が大きくなった。

 

「2冊目だって、私が進めなければ」

 

「作品は、あなたの所有物ではありません」

 

 相馬は、三田の声へ声を重ねなかった。

 

 言い終わるのを待ち、短く答えた。

 

「出版企画は継続します」

 

 三田の手の下で、紙の端が折れた。

 

 真壁は、それを直さなかった。

 

「出版社が協力するという前提は、ここで確認できましたな」

 

 大河内は返事をせず、三田を見ていた。

 

 

 

「個人的に、応援するという意味でした」

 

 三田が言った。

 

 大河内が、ボトルを置いた。

 

「こちらは、出演も進められると聞いていたんです」

 

「売る判断をしたのは、そちらでしょう」

 

 戸塚が保証書の抜粋を持ち上げる。

 

「だから、代表の決裁を取っています」

 

「何度も同じことを言うな」

 

 大河内の声が尖った。

 

 真壁は口を挟まず、紙に3つの欄を作った。

 

 三田の紹介。

 

 戸塚の販売。

 

 大河内の決裁。

 

 3人の目が、それぞれ別の欄へ向く。

 

 戸塚は決裁欄を手放さず、大河内は三田に話を戻そうとしている。

 

 真壁は、いま返金を問えば大河内が営業へ責任を押すだろうと、保証書と3人の発言から見当をつけた。

 

 先に誰が出演を用意するはずだったかを確かめるため、決裁の紙を大河内の側へ寄せ、三田の紹介についての問いを残した。

 

 大河内は、三田の方へ身体を向けた。

 

「先生との関係は、そちらの役目だったはずです」

 

「だから、今まで私が担当して」

 

 三田は言いかけ、相馬のいる方を見た。

 

 言い直す言葉を探したが、相馬は応じなかった。

 

 三田は椅子の背へ寄りかかりかけ、途中で姿勢を戻した。

 

 戸塚は保証書を置いた。

 

「営業としては、確認済みの条件で売っています」

 

「その売上を誇っていたのは君だろう」

 

「売上に入れろと言ったのは社長です」

 

 真壁が、ようやく顔を上げた。

 

「どなたのお手柄かは、よく分かりました」

 

 3人の声が止まる。

 

「では、いま買い手へ渡せるものは、誰が用意なさる?」

 

 大河内が三田を見た。

 

 三田は戸塚を見たが、戸塚は保証書を机へ戻した。

 

 乾いた紙の音がした。

 

 戸塚の指は、代表の決裁欄を押さえたままだった。

 

 大河内が息を吸う。

 

 三田は先に目をそらし、資料を入れた鞄を膝へ引き寄せた。

 

 誰も、自分が用意すると言わなかった。

 

 真壁は答えを急がせず、3人の前へ空いている欄を向けた。

 

 廊下で扉の閉まる音がして、また空調の音だけになった。

 

「別の企画を立てれば」

 

 大河内が言った。

 

「それを購入先2社が受け入れるかは、各社へ相談することですな」

 

「そのためにも、飯島さんの協力を」

 

「出演しないという意思は、お伝えした通りです」

 

 三田が椅子を引いた。

 

「大げさなんですよ」

 

 相馬を見ずに言った。

 

「撮影の説明が少し足りなかっただけで、ここまで」

 

 真壁は、理央が出演を断ると明記した紙を手前へ置いた。

 

 三田の指が机を叩くのを止めた。

 

「説明を増やしても、承諾が増えるわけではありません」

 

 大河内が目を閉じた。

 

 戸塚の鞄から、日程表の角がのぞいている。

 

 撮影する日の欄だけは、最後まで埋まっていた。

 

 誰を撮るかは、もう決められない。

 

「私にできる権利の確認は、以上です」

 

 真壁は紙をまとめた。

 

「返金や契約の変更は、それぞれの買い手へ相談なさってください」

 

 相馬と管理担当は、会社の回答を終えて席を立った。

 

 戸口で相馬が一度振り返る。

 

「飯島さんへの連絡は、当社の窓口を通してください」

 

 三田は答えなかった。

 

 

 

 出版社の2人が出た後、大河内は三田へ低い声で話しかけた。

 

「紹介した側として、説明してもらわないと困ります」

 

「私は販売先と契約していない」

 

 戸塚は鞄の口を閉じ、2人の間から椅子を引いた。

 

「今日の話は、社内で整理します」

 

 立ち上がろうとした時、扉が開いた。

 

 入ってきたのは、さっきの2人ではなかった。

 

 複数の靴音が入り、出入口の脇にも人が立つ。

 

 捜査員は3人それぞれの側につき、廊下にも別の捜査員が待っていた。

 

 先頭の男が、身分を示した。

 

「警視庁渋谷警察署です」

 

 戸塚の腰が、椅子へ戻った。

 

 警察は協議日を把握し、会場の使用者の了承を得て別室に入っていた。

 

 3人の所在と廊下の安全を確かめ、出版社側の社員が退いたところで、捜査員自身が入室を判断したのだった。

 

「大河内さんですね」

 

 大河内は背を伸ばし、名刺入れへ手をやった。

 

「私は、この会社の代表ですが」

 

「以前の独占取材権の販売に関する詐欺の疑いで、逮捕状が出ています」

 

 差し出された紙を見ても、大河内の指は名刺入れを挟んでいた。

 

 捜査員が令状を示し、対象となる取引を告げる。

 

 日付も企画も、今日話した理央のものではなかった。

 

「権利を取得していないと知りながら、販売を決裁した疑いです」

 

 大河内の指が、名刺入れの縁を押した。

 

「その件なら、会社で対応しています」

 

 大河内は椅子から腰を浮かせた。

 

「担当者を呼びますから、少し」

 

「ご本人についての令状です。内容を確認してください」

 

 大河内の腰が止まった。

 

 担当者を呼ぶために持ち上げたスマホを、ゆっくり机へ置く。

 

 手の中に残った名刺入れだけが、開いたままだった。

 

 以前、出演を承諾していない作家の企画を、承諾済みとして企業へ売った事件があった。

 

 買い手に残る契約書と送金記録に、出演を断った作家の証言が重なっていた。

 

 社内のやり取りも調べられ、令状は今日の協議より前に発付されていた。

 

「戸塚さん」

 

 別の捜査員が、もう1枚の令状を示す。

 

 戸塚は自分の名前を見た後、被疑事実の中にある取引先の名を追った。

 

 覚えている相手だった。

 

「その契約は……」

 

 戸塚の手が鞄へ伸びた。

 

「私は営業で、決裁は代表が」

 

 保証の承認欄を指そうとして、いま手元にあるのは別の企画の抜粋だと気づいた。

 

 紙を出しかけたまま、大河内を振り返る。

 

 大河内は、戸塚の方を見なかった。

 

「あなたについての逮捕状です」

 

 捜査員は、虚偽の権利保証を付けて販売を進めた疑いを告げた。

 

 戸塚はもう一度令状を見て、紙を鞄へ戻した。

 

 取っ手を握ろうとした指が滑り、金具に爪が当たった。

 

 三田が立った。

 

「私は、映像会社の人間ではありません」

 

 自分の鞄を取り、椅子の横へ出ようとする。

 

「出版社の編集者です。こちらの会社の話は、こちらで」

 

「三田さんですね」

 

 出口の脇にいた捜査員が声を掛け、本人を確認した上で令状を示した。

 

「あなたについても逮捕状があります」

 

 三田は、令状より先に大河内を見た。

 

 次に戸塚を見たが、どちらも何も言わない。

 

「私は作家を紹介しただけです」

 

 捜査員は、以前の作家の出演承諾と出版社協力について、虚偽の説明をした疑いを告げた。

 

 紙を示したまま、確認を促す。

 

 三田の名も、そこにあった。

 

 大河内の紙でも、戸塚の紙でもなかった。

 

 三田は鞄を下ろし、空いた手で上着の裾を直した。

 

 しわを伸ばしても、目の前の捜査員の態度は変わらない。

 

「真壁さん」

 

 今度は真壁へ顔を向けた。

 

「何とか言ってください。こちらは、話合いに来たんですよ」

 

 真壁は椅子から立ち、捜査員の動きを妨げないよう脇へ寄った。

 

「私は、権利の所在を確かめに来たのだがね」

 

 三田の口が動いたが、続く言葉は出なかった。

 

 大河内は捜査員に促され、ようやく名刺入れを閉じた。

 

 代表として先に出るつもりで戸口へ向いたものの、進む方向を示したのは隣の捜査員だった。

 

 戸塚は椅子を戻そうとして手を止め、担当の捜査員に付き添われて歩き出した。

 

 廊下で一度、大河内の背中を見た。

 

 大河内は振り返らない。

 

 三田も別の捜査員と戸口へ向かった。

 

 そこでまた真壁を見たが、真壁は自分の資料をそろえていた。

 

 3人は、それぞれ別の担当に連行された。

 

 残った机では、大河内のボトルがほとんど空になっていた。

 

 戸塚の水は、キャップさえ開いていない。

 

 真壁は、自分の紙だけを鞄へ収めた。

 

 窓の外では車列が動き、午後の光が机に差していた。

 

 最初に書いた『2件』の右の欄を見て、ペンをしまう。

 

 そこへ書き込む答えは、最後まで出なかった。

 

 

 

 それから数週間が過ぎた。

 

 理央は半袖の上に薄い羽織りを着るようになり、事務所の窓を開ける日が増えた。

 

 出版社から届いた連絡を、理央は両親と一緒に読んだ。

 

 三田の私的な斡旋、外部業者の会議室利用、利益の受領、刊行を持ち出した圧力について、社内の調査と本人への確認が終わったという。

 

 会社の規程に基づき、懲戒解雇を決定したと記されていた。

 

 逮捕の後、すぐに届いた連絡ではなかった。

 

 会社が調べ、弁明の機会も設けて判断した結果だった。

 

 理央は『担当』という文字へ、少し長く目を留めた。

 

 以前は、その人の名前がメールにあるだけで緊張した。

 

 今は、その名前の下に新しい窓口が書かれている。

 

 相馬との面談には、澪も付き添ってくれた。

 

「もう、あの方が理央さんの出版を止めることはないんですね」

 

「担当からは外しています」

 

 相馬は答えた。

 

「会社としての判断も終えました」

 

 理央は、膝の上で手を組んだ。

 

「本は……」

 

「企画は継続します」

 

 相馬が、新しい打合せ予定を差し出した。

 

「今度は、原稿の話をしましょう」

 

 江古田へ戻ると、真壁にも別の連絡が来ていた。

 

 配信会社の2社は、それぞれ保証の不履行などを確認し、契約を解除したという。

 

 新たな取引も止める。

 

 前受金の返還請求は、各社の窓口で進めることになっていた。

 

「全部のお金が戻ったんですか?」

 

「そこは、これからだね」

 

 真壁は答えた。

 

 理央は、2社分の封筒を見た。

 

 同じものを売った2件が、別々の返金の話になっている。

 

「営業成績って、後まで残るんですね」

 

「買い手の帳面にも残るからね」

 

 真壁は3枚の紙を重ね、脇へ置いた。

 

 理央は、膝の上の鞄を机へ載せた。

 

 返却されてから、打合せ用のノートを入れたまま置いていた鞄だった。

 

 中の原稿には、まだ直せるところがたくさんある。

 

 

 

 新しい編集担当の南は、原稿を開いたまま待っていた。

 

 机には理央の分のお茶もある。

 

 冷める前に、小説の話が始まった。

 

「商談の場面は、残しましょう」

 

 理央は顔を上げた。

 

「残して、いいんですか?」

 

「ここで失敗するから、後の工夫が面白いので」

 

 南が、ページの端を指した。

 

 赤字がある。

 

 大きな削除線ではなく、文と文の間へ入れる短い案だった。

 

「この仕入れの時に、品物を買う人が少ない理由を半ページだけ先に出しませんか」

 

「私も、それは考えていました」

 

「主人公は気づかず、読者には少し分かるくらいで」

 

 理央は、前のページをめくった。

 

 この位置なら、後の場面を壊さずに入れられる。

 

 余った品物を抱えた時の、主人公の驚きも残る。

 

「こっちの会話を、少し変えたらどうでしょう」

 

「いいですね」

 

 南が鉛筆を取った。

 

「ただ、その次で理由を全部説明すると、工夫する楽しみが減ります」

 

「じゃあ、気づくところは後に残して」

 

 理央も鉛筆を持った。

 

 同じページを、2人で見ている。

 

 指摘されたことを考えて、直せそうなところを見つける。

 

 自分の小説を読んだ人と話すのは、こういう感じだった。

 

「こういう直し方なら、やってみたいです」

 

 南が笑った。

 

「次は、その後の仲直りの場面です」

 

 理央は、もう迷わず該当のページを開いた。

 

 帰りには、駅で少し迷った。

 

 それでも、今度は菓子店へ寄る余裕があった。

 

 江古田の事務所へ着くと、澪が包みを見て目を輝かせた。

 

「どうでした?」

 

「原稿、いっぱい直したいところができました」

 

 理央は鞄からノートを出した。

 

 その横で、真壁が残っていた連絡の控えをしまっている。

 

「独占が2つあると気づいたのは、君だったね」

 

「でも、私、それを見つけただけですよ」

 

「大事な発見だった」

 

 理央は椅子へ座り、菓子の包みを開けた。

 

 少し崩れた端を見つけ、自分の皿へ載せる。

 

 逮捕されたと聞いた時も、処分の連絡が来た時も、理央は詳しく聞けなかった。

 

 あの会議室の続きを想像すると、また原稿を書けなくなりそうだったからだ。

 

 今日は、南と次の場面を相談できた。

 

 ノートには、自分で試したい直し方が並んでいる。

 

 理央は崩れた菓子をひと口食べ、ようやく真壁へ顔を向けた。

 

「真壁さん、何をしたんですか!?」

 

 真壁が手を止める。

 

「あの人たち、話合いの後で刑事さんに連れていかれたんですよね?」

 

「私は取引の前提を確かめたのだよ」

 

 真壁は、穏やかに答えた。

 

「警察の方々は、別のご用件だったがね」

 

 澪がお茶を置く手を止め、真壁を見た。

 

「それ、別のご用件で済ませる話ですか!?」

 

 理央はノートの空いているページを開いた。

 

 思い浮かんだ題名を書き留めると、澪が隣からのぞいた。

 

『渋谷女子トイレ脱出事件』

 

 澪がノートを指し、理央へ声を上げた。

 

「それだけはタイトルにしないで!」

 

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