売れ残った品物を前に、主人公が黙っている。
理央はその直前の台詞を消し、もう少し前の場面へ戻った。
買い付けた時には気づかなかったことを、相手が何気なく口にする。
主人公は聞き流して、値段の安さを喜んでいる。
この後で売れ残りを抱えると知っているだけに、買う前の主人公へ声をかけたくなる。
「……うん。こっちの方がいい」
南に相談した直し方が、ようやく自分の文章になった。
続きを書こうと指を戻すと、隣の机から、かり、と硬い音がした。
「また引っかかったニャ!」
ニャニャミがペンを持ち上げていた。
白い毛に包まれた小さな手で紙を押さえ、金色の目を帳票へ近づける。
細い罫線の中で、数字の最後だけが黒く太っていた。
「間違えたんですか?」
「合ってるニャ。書いてる途中で紙につかまったニャ」
見せてもらうと、ペン先に薄い毛羽が付いていた。
ニャニャミはそれを布で拭い、紙を光へ傾ける。
「この紙、いつもこうなんですか?」
「当たり外れがあるニャ。帳面くらい、気持ちよく書きたいニャ」
ニャニャミは端の余白でペンを滑らせた。
そこでは細く書けるのに、数字の欄へ戻ると、また毛羽を拾ってしまう。
慎重に動いたペンが、同じ数字の横でまた止まる。
自分の画面へ目を戻すと、さっき消した台詞はもう跡形もなかった。
こちらは直した分だけ読みやすくなったのに、隣では丁寧に直そうとするほど、黒い跡が増えていた。
窓から風が入って、机の帳票がめくれかける。
ニャニャミは素早く押さえ、脇の竹箱を重しにした。
乾いた音が、荷車のきしむ音に重なった。
「理央ちゃん、ひと息入れませんか。共同商館で何か飲みましょう」
澪が机の帳票を重ね、風で飛ばないよう重しを置いた。
理央も画面から顔を上げ、固まっていた肩を回す。
「行きます。今、保存します」
理央は原稿の続きを見てから、ファイルを閉じた。
ここへ戻れば、また同じところから書ける。
PCを《収納》へ収めると、低く響いていたファンの音が消えた。
隣では、紙を擦る音がまだ続いている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいニャ」
ニャニャミは顔を上げず、今度こそ細い線を引いた。
共同商館へ入ると、焼いた肉の匂いがした。
昼の客が残るフードコートでは、食器を返す音と、売り場からの呼び声が入り混じっている。
空いた卓へ腰を下ろし、買ってきた飲み物を置いたところで、手琴の音が聞こえた。
理央は柱の向こうを覗いた。
レイニャが手琴を抱え、食事を終えた客たちへ歌っていた。
集まった子どもたちの中にはリオとメルもいて、並んで弦をつま弾く手を見上げていた。
「雲の中では、氷がぶつかるニャ」
レイニャの三毛の耳が、子どもたちへ向く。
「ぴかりと光って、音はあとニャ」
「どーん!」
待っていた声が重なった。
レイニャの尾が揺れ、離れた卓で食事をしていた客まで顔を上げる。
理央もつられて笑った。
澪が以前見せた科学絵本の話が、すっかりレイニャの歌になっていた。
最後の音が消えると、子どもたちは拍手をし、近くの客もそれに加わった。
「もう1回!」
「また後でニャ。そろそろ教室へ行く時間じゃないかニャ?」
リオがはっとして立ち、メルも慌てて後を追った。
澪は通りかかった子どもへ声をかけた。
「これからヴァルトさんの授業ですか?」
「うん。今日はおさらい」
子どもたちは互いを呼びながら階段へ向かった。
理央は飲み物の残りを飲み、カップを置いた。
「私たちも、授業を少し見せてもらいませんか。みんな、どのくらい読めるようになったのかな」
「いいですね。ヴァルトさんに聞いてみましょう」
「あたしも行くニャ。どんな字を書いてるか、見たいニャ」
澪と理央がカップを返す間に、レイニャは聴いていた客へ会釈し、手琴を抱えて立った。
3人で階段を上がると、食べ物の匂いが薄れ、廊下の先から椅子を引く音が聞こえてきた。
戸口で見学を頼むと、ヴァルトは壁際へ席を勧めてくれた。
「ちょうど始めるところです。どうぞ」
22人が机に着き、書字板と布を取り出している。
メルがこちらに気づいて手を振り、ヴァルトが前へ立つと、すぐに板へ向き直った。
最初は、覚えた字を書いてみるところからだった。
理央は邪魔をしないように椅子へ腰を下ろした。
子どもたちの間をヴァルトが歩き、手の止まっている子のそばで、字の形をゆっくり示している。
リオは課題を書き終えると、板の空いたところへ大きな雲を描いた。
雲の下から稲妻が伸びる。
描き終えた板をリオがこちらへ向けたので、理央はそばへ寄った。
「雷の歌だね」
小声で尋ねると、リオはうなずき、雲の中へ小さな点を足した。
「氷もある」
「覚えてたニャ」
レイニャがうれしそうに耳を立てた。
隣の子が覗き込み、自分の板にも丸い雲を描く。
窓から入った光が、粉の残る黒い面を照らしていた。
理央はノートを開いて、同じような雲を描いてみた。
歌に添えるなら、長い説明は要らない。
光が先に見え、音が後から届くことを短く書き、声に出さずに読んでみる。
「絵を先に見せた方が、分かりやすいかな」
「あたしの歌も入れるニャ」
覗き込んだレイニャへ、理央はノートを寄せた。
その向こうで、ヴァルトが計算のおさらいを始めた。
子どもたちが布を取る。
リオの板から、雲の端が消えた。
氷の粒も、布で擦ると黒い面へ戻っていく。
稲妻のところでいったん手が止まったが、リオは新しい問題を書くために、残りも拭いた。
理央は自分のノートを見下ろした。
並んでいたはずの2つの雲は、こちらにだけ残っていた。
計算の後には、短い物語を順番に読む時間があった。
教卓に置かれた本を、子どもたちが前へ出て代わる代わる読む。
リオも自分の番になると席を立ち、開いたページへ指を添えた。
理央はノートを閉じ、覚えた字を一つずつ声にする子どもたちに耳を傾けた。
授業が終わると、子どもたちは使った布を戻し、椅子を机の下へ押し込んだ。
廊下へ飛び出す足音の後に、レイニャへ歌の続きを尋ねる声が残る。
理央がノートをしまいかけた時、リオはまだ教卓の本のそばにいた。
授業で使った本を開き、文の頭を指で探している。
「難しいところがあった?」
「ここは、もう読める」
リオは顔を上げ、少し誇らしそうに答えた。
続けて、その短い物語の終わりを読んでくれる。
途中で1度つかえたが、指を戻し、自分で読み直した。
「すごい。ちゃんと最後まで読めたね」
「これ、孤児院の小さい子にも読んであげたい」
リオは両手を本の端へ添えたまま、ヴァルトを見た。
理央は返事をする前にヴァルトを見た。
教室の棚には本が並んでいるものの、同じものが何冊もあるわけではない。
「そのお話は、明日の授業でも使いますからね」
ヴァルトはリオのそばへ来て、開いたページを一緒に見た。
「今日は棚へ戻しましょう。次も、続きから読んでくださいね」
「うん」
リオは閉じかけた本をもう少しだけ開き、最後の行を目で追ってから両手で持った。
リオが棚へ戻した本の背を、帰りがけの子が指でなでた。
誰も駄々をこねないことが、理央にはかえって気になった。
共用のものだと、子どもたちの方がよく知っている。
「歌は覚えて帰れるニャ」
レイニャが椅子から立つと、抱えた手琴の弦がかすかに鳴った。
「絵も、残ったらいいニャ」
理央はしまいかけたノートを、もう一度開いた。
雲の中には氷の粒があり、その下へ稲妻が伸びている。
この1枚だけでも渡せたら、帰ってから歌いながら見せられる。
物語もあれば、リオは小さい子に読んであげられる。
「みんな、自分の本を持てたらいいのに」
「まずは、短いものを作る方法から考えましょう」
澪が隣へ立った。
「1枚の話でも、折って持って帰れますよ」
「はい。でも、今日渡したら、明日来る子も欲しいですよね」
最初の何枚かなら、自分で書ける。
けれど、渡した後でまた欲しいと言う子がいたら、その分を最初から書くことになる。
理央はノートの雲を見た。
これを何枚も作る方法があればいいのに。
PCにある原稿をゲンダイで出力するにしても、こちらの文字へ直す作業は要る。
理央は、リオが戻した本を指した。
「今ある本は、どうやって増やしているんですか?」
「写本をする職人に頼むんです」
ヴァルトが答えた。
「紙をそろえて、写してもらって、綴じてもらいます」
写本。
聞き覚えのある言葉に、理央はノートの上で指を止めた。
夕方の事業所で、理央は雷の絵を真壁の前へ広げた。
窓枠の影がノートの真ん中へ落ち、雲が半分だけ暗くなる。
「子どもたちに渡せるものを作りたいんです。最初は、この1枚からでも」
真壁は書類へ押していた印を置き、ノートを自分の方へ向けた。
「これは、雲かね」
「雲ニャ」
レイニャの返事が早かった。
「こっちが氷で、こっちが雷ニャ」
説明に合わせ、真壁の指が絵をたどる。
横から見ると、雲の片側が魚の口に少し似ていた。
理央は自分の描いた雲を見直し、鉛筆を取った。
「清書では直します」
「まだ何も言っておらんよ」
真壁はノートを返し、空いた紙を引き寄せた。
「写本工房の仕事を見てみるとよい。何を頼めるか、そこで聞こう」
「あ、それです」
理央は椅子の背から身体を起こした。
「写本職人。私の転職候補にもあったんです」
商人を選んだ時には、ほかの候補の仕事を、一つずつ見に行くことまでは考えなかった。
あの表示の向こうに、実際に働いている人がいる。
急に、選ばなかった仕事の方が近く感じられた。
「ほう。ならば、なおさらだね」
真壁は宛先を書き始めた。
「絵も写せるか、聞きたいニャ」
「その点も頼んでおこう」
ペン先が紙の上を滑り、理央たちの希望が数行の手紙になっていく。
真壁は見学したい工程と人数を書き、注文品を見せてもらう必要はないと添えた。
真壁はそこでいったん手を止めた。
「澪君、実演にはこの下書きを使ってもらうかね」
「最初は工房の見本を見せていただく方がよさそうです。私たちの方も、まだ清書ができていませんから」
「では、そのように」
真壁は文を足し、作業を割いてもらう対価も支払うと書いた。
「見学にも、お金を払うんですね」
「職人の手を止めていただくのだよ。その間、仕上がるはずの仕事がある」
理央は自分のノートを閉じた。
1枚書き上げるまでの時間なら、少し分かる。
手紙を託す相手を呼んでいる間にも、真壁は別の紙へ候補の日を書いていた。
数日後、工房から返事が届いた。
見本を使った実演と、紙の比較なら引き受けてもらえる。
理央は知らせを読んで、レイニャと顔を見合わせた。
理央はノートを開き、写してもらう前に直したい文へ鉛筆で印を付けた。
写本工房の戸を開けると、紙と革の匂いがした。
通りを照らしていた日差しは窓際の台まで入り、そこから奥は、棚の影が幾重にも重なっている。
乾いた紙束を卓へ打ちつける音が、すぐ近くで鳴った。
別の台では、背を丸めた職人が糸を引いていた。
揃えた束の背を指で押さえ、糸が緩んでいないか確かめてから、次の穴へ針を送る。
理央が見ていると、親方が通路を示した。
「こちらへ。見本を用意してあります」
注文品の置かれた台を避け、4人は窓際へ進んだ。
短い文章と、花と雲の線画が描かれた原稿がある。
雲の中には、細かな点が打ってあった。
その横へ、若い職人が白紙を置いた。
インクの小皿を寄せ、原稿と白紙に手を添える。
理央は、その次に羽ペンを持つのだと思った。
「《転写》」
白紙へ黒い線が現れた。
花の茎が伸び、花びらが重なり、その横へ文字が並ぶ。
どこから書き始めたのか探している間に、原稿と同じ1枚ができていた。
「えっ、もう写ったんですか!?」
理央は身を乗り出しかけ、台へ触れる前に手を引いた。
文字の表面に窓の光が映っている。
まだ濡れていた。
「絵もいけるニャ!」
レイニャは原稿と写した紙を交互に見た。
「花びらまで同じニャ。雲も写るニャ!」
「はい。こちらは1枚ずつです」
若い職人は紙の端を持って棚へ運び、次の白紙を台へ置いた。
もう一度《転写》を使うと、同じ花と雲が増える。
元の原稿は、何も変わらず残っていた。
「本だと、これを最後のページまで繰り返すんですね」
「私なら、そうします」
若い職人が答えると、親方が横から薄い冊子を取り上げた。
「写本職人のジョブレベルが上がれば、《写本》が使えるようになります。そちらは、本全体をまとめて写せます」
「1冊、全部ですか?」
「お見せしましょう」
親方が台を空ける間に、若い職人が冊子に必要な分の白紙を並べた。
小皿のインクも足しておく。
親方は原本の冊子に手を添えた。
「《写本》」
並べてあった紙へ、いっせいに文字が現れた。
理央は目の前の紙を見てから、隣へ顔を向けた。
こちらには続きの文章、その先には挿絵がある。
親方がめくって見せた原本と、最後のページまで同じだった。
「ほんとに、全部……」
レイニャも黙って、台の端から端まで見ていた。
さっきの1枚でも驚いたのに、本が丸ごと増えている。
親方は原本を閉じ、台に並んだ紙へ目を配った。
けれど、できた方の紙には触れない。
若い職人が端をつまみ、乾燥棚へ運び始めた。
「ここからは、どちらも乾かします。綴じるのはその後です」
澪は小皿を見ていた。
「インクも、それだけ使うんですね」
「ええ。紙とインクは、どちらにも要ります」
底の見えかけた皿へ、黒い液が足される。
真壁の視線は、写ったページから、まだ乾いていない紙の並ぶ棚へ移っていた。
理央は自分のノートを抱え直した。
文章も絵も、頼めば増やしてもらえる。
あの教室で描いた1枚が、子どもたちの机に並ぶところを、初めてはっきり想像できた。
「でも、写すのがこんなに速いなら……」
言いかけて、理央は棚を見た。
高い本ばかりなのは、もっと長い時間をかけて文字を書いているからだと思っていた。
親方は急かさずに待ってくれる。
「本って、もう少し安くならないんですか?」
「紙にも、インクにも、代金がかかります。こちらを使うと、少し安くできますが」
親方が出した紙は、先ほどより薄茶色で、端の厚みがそろっていなかった。
理央は、ニャニャミの帳票を思い出した。
「同じ見本を写していただけますかな。比較に使った分も、お支払いする」
真壁が言うと、親方はうなずき、先ほどの1枚原稿の横へ、その紙を置いた。
「この比較なら、《転写》で十分です」
親方が手を添えると、花と文字が現れた。
今度も、最初はきれいだった。
ところが、親方が紙を動かさず待っていると、花の茎が少し太くなった。
細い毛羽を伝って、黒が外へ伸びていく。
「あ……にじんでる」
理央は触れないように両手を胸元へ戻し、顔だけを近づけた。
雲の中の小さな点が、隣の点へくっつきかけていた。
「氷が大きくなるニャ」
レイニャが低くつぶやく。
上等な紙では分かれていた線が、こちらでは黒い塊になりそうだった。
「文字は同じなのに」
「読めなくなれば、写し直しです。細かい絵には、特に向きません」
親方は2枚を並べた。
澪がノートを開き、試した紙の違いを書き留める。
「折ったり、糸を通したりする時も、差が出ますか?」
「出ます。薄ければいいわけでも、厚ければ丈夫というわけでもありません」
親方に促され、理央は乾いた端紙を折ってみた。
指の下で素直に折れるものと、折り目が白く毛羽立つものがある。
どれも紙だと思っていたのに、折るだけでこんなに違う。
「では、使える紙が安く手に入れば、納期までに出せる冊数も増えるかね」
真壁の問いに、親方は奥の台を示した。
「材料を買える数は増やせます。ただ、《写本》の使い手ばかりではありませんし、乾かして、そろえて綴じる仕事は残ります」
糸を通していた職人が、束の背を押さえ直す。
隣では別の職人が、紙を1枚ずつめくって順序を見ていた。
理央の目の前では一瞬で現れた絵が、まだ奥の棚に寝ている。
「なるほど。材料費と、仕上げに要る日数は別だね」
真壁は帳面へ短く書き、親方へ向き直った。
「別の紙を持ち込んだ場合も、少量の比較をお願いできますかな」
「今お受けしている仕事を先にしますが、それでよろしければ」
「結構。その条件で見積りをお願いしたい。試験料は、こちらでお支払いする」
見学代と紙の代金が支払われ、何種類かの見本が包まれた。
理央はその包みを受け取った。
文字が現れた瞬間には、もうできたと思った。
けれど奥の台では、さっきから同じ職人が1冊の背に糸を通している。
理央は包みを抱え、出入口へ向かう途中でもう一度その手元を見た。
工房を出た後、4人は領都の書店へ寄った。
窓に並ぶ本は少なく、店に入ると、乾いた古い紙の匂いがした。
レイニャは細かな挿絵のある本を見つけ、開いてよいかと店主に尋ねている。
理央は読み書きの手引きらしい薄い本へ手を伸ばした。
教室の本より、だいぶ軽そうだった。
革紐で結ばれた値札を見て、持ち上げかけた手が止まる。
これを、子どもたちの分だけ。
頭の中で数え始めたところへ、店主が来た。
「字を教える本をお探しですか?」
「子どもたちに渡せるものを、考えているんです」
理央が本から手を離すと、店主はその背をそろえた。
「この手の本を、まとめて欲しいというお話はあるんですがね」
「揃えるのが難しいのかね」
真壁が隣から尋ねた。
「先日も、予算に収まらなかったんです。それに、先方の必要な日までには揃いませんでした」
店主は机に出していた控えを、帳面へ挟み直した。
奥の取り置き棚には、何も載っていない一角があった。
「少し遅ければ、受けてもらえたかね」
「使いたい時が決まっているそうで。全部揃う前にその日が来てしまうなら、と」
店主は言葉を切り、棚の本へ手を戻した。
そろえたばかりの本へ、店主はまた手を置いた。
欲しいという人がいたのに、ここから渡せなかったのだ。
理央は、最後の行を指でたどっていたリオを思い出した。
読めるようになった今、読んであげたい相手がいる。
いつか渡す、と言ったままにはしたくなかった。
「材料が安くなれば、一つは助けになる。だが、日数も要るわけだ」
真壁は工房から持ってきた包みを見た。
「澪君。持ち込んで比べる紙に、心当たりはあるかね」
「ゲンダイの既製紙なら、少量から買えます」
澪が包みの角を押さえた。
「《収納》で運べますし、同じくらいの大きさにして試していただければ。ただ、あのインクでどうなるかは、まだ分かりません」
「それなら、まず試せますね」
理央は、いつも使っている白い紙を思い浮かべた。
特別な店へ行かなくても、束で売っている紙。
急に、それが頼もしく思えた。
「新しい紙ですか?」
店主の問いに、真壁はうなずいた。
「使えるかどうかからだね。価格と冊数、納期の見通しが立ったら、改めて相談させていただこう」
「それでしたら、ぜひ」
レイニャが本を閉じ、両手で店主へ返した。
その挿絵を名残惜しそうに見てから、理央のノートへ目を向ける。
理央はうなずき、雲の原案が入った鞄を抱え直した。
「絵も写せたし、本は1冊まとめて写ったニャ!」
事業所へ戻るなり、レイニャはニャニャミへ報告した。
小皿の横に白紙を置く真似をして、両手を開く。
「こっちに同じ雲ができるニャ。でも、乾くまで触ったら駄目ニャ」
「それは便利ニャ」
ニャニャミは帳簿のペンを休めた。
「書きやすい紙なら、こっちにも欲しいニャ」
レイニャが次の用へ出ていった後、澪が買った見本を卓へ並べた。
理央はにじんだ紙を指し、細い線には紙を選ぶことを説明した。
ニャニャミはにじんだ線を眺め、自分の帳票も手元へ寄せた。
「紙の足りないところもあるニャ。今、見てみるニャ」
金色の目が帳簿から離れ、何もない宙へ向いた。
理央には文字も数字も見えない。
《千里眼》を使っているニャニャミのペンが再び動き、帳面へ市場の名が書かれた。
「白皿丘は、需要88、供給43。新町は77と56ニャ」
それぞれの数字を記してから、ニャニャミは帳面をこちらへ向けた。
「でも、紙なら何でもいいわけじゃないニャ。種類と値段は、また見るニャ」
「足りない傾向はあっても、どの紙がいくらなら売れるかは、別ですね」
澪が帳面を覗くと、ニャニャミはペンを持ち直した。
「そうニャ。私みたいに、引っかからない紙を欲しい人もいるはずニャ」
最後の線を書こうとして、ペン先が止まる。
誰も何も言わなかった。
ニャニャミは紙を押さえ直し、ゆっくりペンを引いた。
「……竹の紙は、どうなったニャ?」
机の脇にあった短い竹を、澪へ向ける。
澪の視線が、見本紙からそちらへ移った。
「箱と緩衝材の方が先になっていましたね。試験に使える端材はあります」
澪が《収納》を探り、靄の中から短い竹片を取り出した。
卓へ置かれると、紙とはまるで違う、硬い音がした。
理央はその切り口を見た。
竹で紙ができるとは知っている。
でも、この硬いものを、どこからどうしたら薄い1枚にできるのだろう。
「ゲンダイの紙を試しながら、こっちも調べませんか。竹なら、私たちで育てていますし」
「うむ。既製紙の試験は工房へ頼める。竹の方も進めたまえ」
真壁は見本を分け、持込み用の紙を置く場所を空けた。
翌日、理央は澪と《関門接続》を抜け、江古田の事務所へ戻った。
外で買ってきたコピー用紙を開けると、同じ大きさの角がきれいにそろっていた。
指の腹を滑らせても引っかからない。
「ニャニャミさん、これを見たら喜びそう」
「インクが載るか、先に試してもらいましょう」
澪が購入価格と枚数を控える横で、理央は工房紙を重ねた。
紙の大きさだけをそろえても、厚さや表面の違いは消えなかった。
その隣へ竹を置き、PCを開く。
竹紙を作る工程の写真を探すと、切った竹の次に、水に漬かった材料が現れた。
さらに先では、白っぽい柔らかなものを人が叩いている。
理央は写真を大きくした。
「ここで、もう全然違うんですよね」
「若竹を使うところもあるんですね。うちの端材とは違います」
澪が卓の竹を取り上げ、表面を親指で押した。
理央は画面の工程をノートへ写した。
長く水に漬け、熱を加えてから水で晒し、叩いて繊維をほぐしている。
説明の中に知らない名前があり、理央はその言葉でも検索し直した。
「リグニン……。竹を硬くしている成分の一つで、繊維同士を結びつけているんですね」
画面を澪の方へ向ける。
紙の繊維になるセルロースとは、役割が違うらしい。
「これを取り除いて、繊維を取り出すんですね」
澪は説明を読み、卓の竹へ目を戻した。
「でも、どこまで取り除くんでしょう。残した方がいいものまで分けてしまわないか、気になります」
理央はリグニンの名をノートへ写し、その下へ、どうやって抜くのか、と書いた。
言葉だけなら順に追えるのに、途中の材料を触った感じがまるで浮かばない。
「粉にするのとは違うんですよね。どのくらい、ほぐれていればいいのかな」
「作っているところを見せてもらいましょうか」
澪の提案に、理央はすぐ顔を上げた。
探した中には、若狭で竹紙を漉く体験を受け入れている工房があった。
電話で尋ねると、空いている日と料金、それに当日見せてもらえる範囲を教えてくれた。
「下処理した材料も、拝見できますか?」
理央は答えを書き留め、澪にノートを見せる。
数日後の予約が取れた。
通話を終えてから、画面に残った繊維の写真をもう一度見た。
今度は、これを実際に触れる。
理央は工房へ持っていくノートに、大きく印を付けた。
予約した日の朝、理央は澪とゲンダイ側で移動の支度を整えた。
工房近くの、人目を避けられる安全な場所へ《関門接続》を開き、2人が抜けてから扉を閉じる。
そこからは、予約の時間に合わせて道を歩いた。
日差しは明るかったが、道沿いの木の下へ入ると風が涼しかった。
竹の細い葉が触れ合い、頭の上でさらさらと鳴っている。
曲がり角の先に工房が見えた。
「お電話した飯島です」
受付で名前を告げ、料金を支払う。
案内人について作業場へ入ると、外で温まっていた腕に、ひやりとした空気が触れた。
戸口の明るさに慣れた目には、奥が少し暗い。
窓から差した光が水槽の縁を照らし、その下の床には、落ちた雫の跡が点々と続いていた。
理央は乾いたところを選んで足を置いた。
湿った植物の匂いがする。
事業所の竹箱にはない匂いだった。
壁際には漉き枠が立てかけられ、使い込まれた木の縁は、角のところほど色が濃くなっていた。
案内人が一つ取り出すと、隣の枠と触れて、こつりと音がした。
「足元にお気をつけください。まず、材料をご覧いただきましょう」
卓には竹の見本が並んでいた。
硬いものの隣には、長く水に漬けたもの、煮て晒したもの、さらにほぐした繊維が置かれている。
最後の白っぽい塊を見て、理央は腰をかがめた。
PCの写真では、どこまでが1本なのかも分からなかったものだ。
「これが、紙を漉く前の状態ですか?」
「そうです。少し触ってみますか」
手を出すと、案内人が濡れた繊維を少量載せてくれた。
ひんやりとした塊は思ったより柔らかく、親指でそっと引くと、細いものがいくつもついてきた。
粒になって崩れるのではなく、濡れたまま指へ沿っている。
「竹を粉にするのとは、違うんですね」
「繊維を残してほぐすんです。それを水の中で広げて、重なるように漉き取ります」
澪も身をかがめ、理央の手元を見ていた。
硬い竹から、ここまで。
予約を取った日に調べた言葉を思い出しながら、理央は下処理の途中の見本へ目を戻した。
「ネットで、リグニンを取り除くって読んだんです。それは、どこで抜くんですか?」
案内人は、煮る前と後の見本を手前へ寄せた。
「こちらでは、長く水に漬けた若竹を、ソーダ灰を使って煮て、その後で水に晒します。繊維を固めている成分を取り除き、ほぐれやすくしていくんです」
理央は手に載せてもらっていた繊維を見本の器へ戻し、手を拭いてノートを開いた。
澪が続けて尋ねる。
「煮て溶け出したものを、水で洗い流すんですね。リグニンも、そこで取り除いているんですか?」
「ええ。ただ、これで全部なくなった、というところまで調べて作っているわけではありません。触って、叩いてみて、繊維がほぐれるかを見ています」
案内人は柔らかくした材料をつまんだ。
指の動きに合わせて、薄い部分が開く。
理央は、調べてきた説明の横へ、煮た後に水に晒す、と書き足した。
名前を知っただけでは、目の前の柔らかさまでは分からない。
「ここまでの下ごしらえには、どれくらいかけるんですか?」
澪が尋ねた。
「まず、若竹を水に漬けておくのに、こちらでは1年以上かけています」
「1年も?」
理央は器に戻した繊維を見た。
「じゃあ、今日使うのは、去年から準備していた材料なんですか」
「そうなりますね。今日は、下処理の済んだものを使っていただきます」
案内人は若竹の見本を持ち上げた。
澪はその切り口を覗き込み、太さを目で確かめた。
「育った竹を箱などに加工した時の、硬い切れ端でも同じようにできますか?」
「原料が違えば、柔らかくなり方も変わります。今日の材料と同じようにできるとは、言えませんね」
理央は、ノートの「竹」に「若」と足した。
事業所の端材は、見本の若竹よりずっと硬かった。
同じ時間、同じ処理をすればよいとは、まだ言えない。
案内人が下処理済みの材料を叩いてみせると、湿った鈍い音が響いた。
繊維が卓へ広がり、木槌を上げたところから、細いものが離れて落ちる。
理央は器の中の繊維と見比べた。
木槌が下りるたびに、割れた破片ではなく、ほぐれた繊維が広がっていった。
次に水槽へ移ると、水面には細長い窓が映っていた。
案内人がほぐした繊維を水へ散らし、かき混ぜる。
窓の形が崩れ、その下を白い筋がゆっくり流れた。
細かな繊維が光の届くところへ浮き上がり、また水の奥へ沈んでいく。
「枠は、できるだけ水平に持ってください」
理央は教わった位置へ両手を添え、湿った木の縁を握った。
水へ入れた時には軽かったのに、持ち上げると、両手へずしりと重さがかかった。
右手が下がり、白いものがそちらへ寄った。
「あっ」
「慌てず、もう一度戻してみましょう」
水へ沈めると、片寄っていた繊維がほどけて離れた。
理央は肩の力を抜き、今度は枠の縁と水面を見比べながら持ち上げた。
底から水が流れ落ちる。
やがて流れが細い筋になり、ぽたり、ぽたりと落ちる音に変わった。
その後に、白っぽい薄い層が残っていた。
「これ……紙になるところなんですね」
思わず声を落とした。
水槽の中を漂っていたものが、自分の両手の間に集まっている。
「まだ水を抜いて、乾かす仕事があります。今は触らないでくださいね」
案内人が受け取ろうと手を出し、理央はゆっくり枠を渡した。
縁の近くは厚いのに真ん中は薄く、小さな泡の跡まで見つかって、理央は顔を近づけた。
ただ持ち上げただけのつもりだったのに、自分の手の傾きがそこに残っていた。
隣では、澪も枠を持ち上げている。
水が片側へ落ちかけ、澪の肘が慌てて上がった。
「水平って、難しいですね」
「見てる時は、できそうだったんですけど」
理央が答えると、澪は枠を見たまま笑った。
2人の分を置いた後、案内人は乾燥させてある紙を見せてくれた。
理央がそっと端をつまむと、乾いた繊維が指の腹に触れた。
さっきの濡れた塊にはなかった、薄い1枚としての張りがある。
同じ日のうちに硬い竹からここまで来たわけではない。
1年以上前から仕込まれ、煮られ、洗われ、叩かれて、ようやく自分がすくい上げたところへ届いていた。
紙を返した理央は卓の原料へ目を戻し、硬い竹から細い繊維まで、もう一度順に見ていった。
見学を終えてから、販売されていた竹紙の小さな見本と資料を買った。
外へ出ると、葉の擦れる音が作業場の水音に代わった。
日陰でノートを開き、澪と今日のことを振り返る。
「リグニンを抜けば終わり、じゃなかったですね」
「繊維をほぐして、あの状態にするところまで要るんですね。《成分分離》を試すにしても、残ったものを見ないと」
澪が竹紙を光へかざした。
薄いところを通った光に、細かなむらが浮かぶ。
理央は「繊維を残す」と書き、その横へ、商会の竹は原料が違う、と足した。
帰ったら、まず端材を少しずつ処理して、残る繊維を見比べたい。
ノートを閉じる前に、煮た後に洗う、と書いたところへ印を付けた。
夕方の事業所で、理央は買ってきた竹紙を真壁の前へ置いた。
写本工房の紙、その横にゲンダイのコピー用紙。
澪が《収納》から竹端材を出して並べると、卓の右端だけが急に厚くなった。
「同じ竹でも、見てきた工房は若竹を使っていました。私たちの端材は、そこから違うんです」
理央はノートを開いた。
水の付いた指で押さえたところに、しわが寄っている。
「ほぐれた繊維を触らせてもらいました。柔らかいんですけど、粉じゃなくて、指から離そうとすると一緒に付いてきて」
言いながら手を広げると、真壁は竹紙へ目を落とした。
「目指す状態は見えたわけだ。どこまでを試せるかね」
「まず、あの下処理を短くできるか試したいです。繊維を残せれば、私たちでも漉けるかもしれません」
澪が端材を取り、真壁へ切り口を向けた。
「工房では、煮てから洗い流していました。まず《成分分離》でリグニンなどを取り除き、残ったものがほぐれるか見てみましょう。理央ちゃん、前処理を変えたものも並べるので、一緒に見てもらえますか」
「はい。それと、工程を思いきり省いた方も、少量だけ比べたいです」
理央はノートのページを半分に分けた。
澪から受け継いだ《溶解》《成分分離》《固形化》は、自分でも使える。
ただ、溶かしてしまえば、あの細い繊維は残らないかもしれない。
「溶かして、薄く固めるとどうなるのか。工房と同じにする方とは分けて、比べてみたいです」
「よろしい。元の竹も残したまえ。何を変えたか分からなくなっては、次に使えん」
真壁は空の小皿をいくつか取り出し、試料を置く間隔を空けた。
近くに置かれていた紙の束も、別の卓へ移した。
「既製紙は予定どおり工房へ頼もう。こちらの出来上がりを待たせる必要はない」
理央は工房へ渡す紙を包み直し、自分たちの試験用の紙とは別の場所へ置いた。
竹の加工に手間取っても、こちらは先に試してもらえる。
真壁の手は、すでに端材を選び分けていた。
「ただ、竹の需要はさらに増えるだろう。箱板だけでも不足しているからね」
澪が、竹箱の置かれた方を見た。
「また、私の農地を広げますか?」
返事を待つ間に、理央は自分の収納内の栽培を思い浮かべた。
箱にも、緩衝材にも、さらに紙にも使うなら、今の量で足りるだろうか。
「その必要はないよ、澪君。以前採用した5人の基礎課程は終わっている」
「マティスさんたちですか?」
「うむ。イーダ君、ローナ君、ハンノ君、ヨスト君もね」
真壁は帳面を開き、次の実習の欄へペンを置いた。
「《鑑定》と《収納》は皆が習得した。訓練用魔石を収め、疲労耐久薬を用いた訓練で、基礎能力も鍛えてある」
「もう、そこまで……」
澪が持っていた竹片を卓へ戻した。
「次は火山の土砂回収からだ。各自に集めさせ、土を整え、農地を作らせよう」
真壁のペンが予定欄を進んでいく。
理央は卓の竹へ目を落とした。
その栽培を任せられるようになれば、自分たちが紙を試している間にも原料を増やせる。
「ただ、生きた竹を入れるには、普通の《収納》だけじゃ……」
澪が言いかけると、真壁は竹片を卓へ置いた。
「いや、植物を育てるだけなら、収納内でできるはずだ。微生物を収納でき、中でも活動することは、発酵で確かめている」
理央は顔を上げた。
自分たちは《生体収納》で竹を育てていた。
普通の《収納》でも、発酵は進んでいる。
言われてみれば、その働きの方を考えていなかった。
澪も、少し考えてからうなずく。
「では、最初は少量を植えて、育ち方を見るんですね」
「うむ。土を集めて、育てる場所を作り、竹育成用魔石を使わせる。そこから彼らの実習にしよう」
真壁は予定欄の手前へ、小規模での栽培試験を書き加えた。
「増産を、彼らの次の仕事にしたいのだよ」
澪の肩が下がった。
それから、ノートに書きかけていた「農地の拡張」へ線を引いた。
理央と目が合い、澪は少し照れたように笑う。
「じゃあ私たちは、使える紙を作らないとですね」
理央は見本の手前へ、雷の原案を置いた。
雲の輪郭は、もう魚に似ていない。
その下には、教室で書き直した短い文がある。
自分たちで作った紙も、インクもまだない。
理央は原案の文字を目で追い、リオが小さい子へ読んで聞かせる声を思い浮かべた。
「最初は、これを作りたいです。歌いながら見られて、持って帰って、小さい子にも読んであげられる……」
理央は原案の角をそろえた。
教室を出ていく22人の手に、それぞれの本がある。
「本を作りたいんです!」
真壁が小皿をもう一つ空け、澪が試験用の竹をその横へ置いた。
窓から入った風で原案がめくれかける。
理央は原案の角を押さえ、雲の描かれたページを卓の真ん中へ寄せた。