押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第434話 本を作りたいんです

 

 売れ残った品物を前に、主人公が黙っている。

 

 理央はその直前の台詞を消し、もう少し前の場面へ戻った。

 

 買い付けた時には気づかなかったことを、相手が何気なく口にする。

 

 主人公は聞き流して、値段の安さを喜んでいる。

 

 この後で売れ残りを抱えると知っているだけに、買う前の主人公へ声をかけたくなる。

 

「……うん。こっちの方がいい」

 

 南に相談した直し方が、ようやく自分の文章になった。

 

 続きを書こうと指を戻すと、隣の机から、かり、と硬い音がした。

 

「また引っかかったニャ!」

 

 ニャニャミがペンを持ち上げていた。

 

 白い毛に包まれた小さな手で紙を押さえ、金色の目を帳票へ近づける。

 

 細い罫線の中で、数字の最後だけが黒く太っていた。

 

「間違えたんですか?」

 

「合ってるニャ。書いてる途中で紙につかまったニャ」

 

 見せてもらうと、ペン先に薄い毛羽が付いていた。

 

 ニャニャミはそれを布で拭い、紙を光へ傾ける。

 

「この紙、いつもこうなんですか?」

 

「当たり外れがあるニャ。帳面くらい、気持ちよく書きたいニャ」

 

 ニャニャミは端の余白でペンを滑らせた。

 

 そこでは細く書けるのに、数字の欄へ戻ると、また毛羽を拾ってしまう。

 

 慎重に動いたペンが、同じ数字の横でまた止まる。

 

 自分の画面へ目を戻すと、さっき消した台詞はもう跡形もなかった。

 

 こちらは直した分だけ読みやすくなったのに、隣では丁寧に直そうとするほど、黒い跡が増えていた。

 

 窓から風が入って、机の帳票がめくれかける。

 

 ニャニャミは素早く押さえ、脇の竹箱を重しにした。

 

 乾いた音が、荷車のきしむ音に重なった。

 

「理央ちゃん、ひと息入れませんか。共同商館で何か飲みましょう」

 

 澪が机の帳票を重ね、風で飛ばないよう重しを置いた。

 

 理央も画面から顔を上げ、固まっていた肩を回す。

 

「行きます。今、保存します」

 

 理央は原稿の続きを見てから、ファイルを閉じた。

 

 ここへ戻れば、また同じところから書ける。

 

 PCを《収納》へ収めると、低く響いていたファンの音が消えた。

 

 隣では、紙を擦る音がまだ続いている。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃいニャ」

 

 ニャニャミは顔を上げず、今度こそ細い線を引いた。

 

 

 

 共同商館へ入ると、焼いた肉の匂いがした。

 

 昼の客が残るフードコートでは、食器を返す音と、売り場からの呼び声が入り混じっている。

 

 空いた卓へ腰を下ろし、買ってきた飲み物を置いたところで、手琴の音が聞こえた。

 

 理央は柱の向こうを覗いた。

 

 レイニャが手琴を抱え、食事を終えた客たちへ歌っていた。

 

 集まった子どもたちの中にはリオとメルもいて、並んで弦をつま弾く手を見上げていた。

 

「雲の中では、氷がぶつかるニャ」

 

 レイニャの三毛の耳が、子どもたちへ向く。

 

「ぴかりと光って、音はあとニャ」

 

「どーん!」

 

 待っていた声が重なった。

 

 レイニャの尾が揺れ、離れた卓で食事をしていた客まで顔を上げる。

 

 理央もつられて笑った。

 

 澪が以前見せた科学絵本の話が、すっかりレイニャの歌になっていた。

 

 最後の音が消えると、子どもたちは拍手をし、近くの客もそれに加わった。

 

「もう1回!」

 

「また後でニャ。そろそろ教室へ行く時間じゃないかニャ?」

 

 リオがはっとして立ち、メルも慌てて後を追った。

 

 澪は通りかかった子どもへ声をかけた。

 

「これからヴァルトさんの授業ですか?」

 

「うん。今日はおさらい」

 

 子どもたちは互いを呼びながら階段へ向かった。

 

 理央は飲み物の残りを飲み、カップを置いた。

 

「私たちも、授業を少し見せてもらいませんか。みんな、どのくらい読めるようになったのかな」

 

「いいですね。ヴァルトさんに聞いてみましょう」

 

「あたしも行くニャ。どんな字を書いてるか、見たいニャ」

 

 澪と理央がカップを返す間に、レイニャは聴いていた客へ会釈し、手琴を抱えて立った。

 

 3人で階段を上がると、食べ物の匂いが薄れ、廊下の先から椅子を引く音が聞こえてきた。

 

 戸口で見学を頼むと、ヴァルトは壁際へ席を勧めてくれた。

 

「ちょうど始めるところです。どうぞ」

 

 22人が机に着き、書字板と布を取り出している。

 

 メルがこちらに気づいて手を振り、ヴァルトが前へ立つと、すぐに板へ向き直った。

 

 最初は、覚えた字を書いてみるところからだった。

 

 理央は邪魔をしないように椅子へ腰を下ろした。

 

 子どもたちの間をヴァルトが歩き、手の止まっている子のそばで、字の形をゆっくり示している。

 

 リオは課題を書き終えると、板の空いたところへ大きな雲を描いた。

 

 雲の下から稲妻が伸びる。

 

 描き終えた板をリオがこちらへ向けたので、理央はそばへ寄った。

 

「雷の歌だね」

 

 小声で尋ねると、リオはうなずき、雲の中へ小さな点を足した。

 

「氷もある」

 

「覚えてたニャ」

 

 レイニャがうれしそうに耳を立てた。

 

 隣の子が覗き込み、自分の板にも丸い雲を描く。

 

 窓から入った光が、粉の残る黒い面を照らしていた。

 

 理央はノートを開いて、同じような雲を描いてみた。

 

 歌に添えるなら、長い説明は要らない。

 

 光が先に見え、音が後から届くことを短く書き、声に出さずに読んでみる。

 

「絵を先に見せた方が、分かりやすいかな」

 

「あたしの歌も入れるニャ」

 

 覗き込んだレイニャへ、理央はノートを寄せた。

 

 その向こうで、ヴァルトが計算のおさらいを始めた。

 

 子どもたちが布を取る。

 

 リオの板から、雲の端が消えた。

 

 氷の粒も、布で擦ると黒い面へ戻っていく。

 

 稲妻のところでいったん手が止まったが、リオは新しい問題を書くために、残りも拭いた。

 

 理央は自分のノートを見下ろした。

 

 並んでいたはずの2つの雲は、こちらにだけ残っていた。

 

 計算の後には、短い物語を順番に読む時間があった。

 

 教卓に置かれた本を、子どもたちが前へ出て代わる代わる読む。

 

 リオも自分の番になると席を立ち、開いたページへ指を添えた。

 

 理央はノートを閉じ、覚えた字を一つずつ声にする子どもたちに耳を傾けた。

 

 

 

 授業が終わると、子どもたちは使った布を戻し、椅子を机の下へ押し込んだ。

 

 廊下へ飛び出す足音の後に、レイニャへ歌の続きを尋ねる声が残る。

 

 理央がノートをしまいかけた時、リオはまだ教卓の本のそばにいた。

 

 授業で使った本を開き、文の頭を指で探している。

 

「難しいところがあった?」

 

「ここは、もう読める」

 

 リオは顔を上げ、少し誇らしそうに答えた。

 

 続けて、その短い物語の終わりを読んでくれる。

 

 途中で1度つかえたが、指を戻し、自分で読み直した。

 

「すごい。ちゃんと最後まで読めたね」

 

「これ、孤児院の小さい子にも読んであげたい」

 

 リオは両手を本の端へ添えたまま、ヴァルトを見た。

 

 理央は返事をする前にヴァルトを見た。

 

 教室の棚には本が並んでいるものの、同じものが何冊もあるわけではない。

 

「そのお話は、明日の授業でも使いますからね」

 

 ヴァルトはリオのそばへ来て、開いたページを一緒に見た。

 

「今日は棚へ戻しましょう。次も、続きから読んでくださいね」

 

「うん」

 

 リオは閉じかけた本をもう少しだけ開き、最後の行を目で追ってから両手で持った。

 

 リオが棚へ戻した本の背を、帰りがけの子が指でなでた。

 

 誰も駄々をこねないことが、理央にはかえって気になった。

 

 共用のものだと、子どもたちの方がよく知っている。

 

「歌は覚えて帰れるニャ」

 

 レイニャが椅子から立つと、抱えた手琴の弦がかすかに鳴った。

 

「絵も、残ったらいいニャ」

 

 理央はしまいかけたノートを、もう一度開いた。

 

 雲の中には氷の粒があり、その下へ稲妻が伸びている。

 

 この1枚だけでも渡せたら、帰ってから歌いながら見せられる。

 

 物語もあれば、リオは小さい子に読んであげられる。

 

「みんな、自分の本を持てたらいいのに」

 

「まずは、短いものを作る方法から考えましょう」

 

 澪が隣へ立った。

 

「1枚の話でも、折って持って帰れますよ」

 

「はい。でも、今日渡したら、明日来る子も欲しいですよね」

 

 最初の何枚かなら、自分で書ける。

 

 けれど、渡した後でまた欲しいと言う子がいたら、その分を最初から書くことになる。

 

 理央はノートの雲を見た。

 

 これを何枚も作る方法があればいいのに。

 

 PCにある原稿をゲンダイで出力するにしても、こちらの文字へ直す作業は要る。

 

 理央は、リオが戻した本を指した。

 

「今ある本は、どうやって増やしているんですか?」

 

「写本をする職人に頼むんです」

 

 ヴァルトが答えた。

 

「紙をそろえて、写してもらって、綴じてもらいます」

 

 写本。

 

 聞き覚えのある言葉に、理央はノートの上で指を止めた。

 

 

 

 夕方の事業所で、理央は雷の絵を真壁の前へ広げた。

 

 窓枠の影がノートの真ん中へ落ち、雲が半分だけ暗くなる。

 

「子どもたちに渡せるものを作りたいんです。最初は、この1枚からでも」

 

 真壁は書類へ押していた印を置き、ノートを自分の方へ向けた。

 

「これは、雲かね」

 

「雲ニャ」

 

 レイニャの返事が早かった。

 

「こっちが氷で、こっちが雷ニャ」

 

 説明に合わせ、真壁の指が絵をたどる。

 

 横から見ると、雲の片側が魚の口に少し似ていた。

 

 理央は自分の描いた雲を見直し、鉛筆を取った。

 

「清書では直します」

 

「まだ何も言っておらんよ」

 

 真壁はノートを返し、空いた紙を引き寄せた。

 

「写本工房の仕事を見てみるとよい。何を頼めるか、そこで聞こう」

 

「あ、それです」

 

 理央は椅子の背から身体を起こした。

 

「写本職人。私の転職候補にもあったんです」

 

 商人を選んだ時には、ほかの候補の仕事を、一つずつ見に行くことまでは考えなかった。

 

 あの表示の向こうに、実際に働いている人がいる。

 

 急に、選ばなかった仕事の方が近く感じられた。

 

「ほう。ならば、なおさらだね」

 

 真壁は宛先を書き始めた。

 

「絵も写せるか、聞きたいニャ」

 

「その点も頼んでおこう」

 

 ペン先が紙の上を滑り、理央たちの希望が数行の手紙になっていく。

 

 真壁は見学したい工程と人数を書き、注文品を見せてもらう必要はないと添えた。

 

 真壁はそこでいったん手を止めた。

 

「澪君、実演にはこの下書きを使ってもらうかね」

 

「最初は工房の見本を見せていただく方がよさそうです。私たちの方も、まだ清書ができていませんから」

 

「では、そのように」

 

 真壁は文を足し、作業を割いてもらう対価も支払うと書いた。

 

「見学にも、お金を払うんですね」

 

「職人の手を止めていただくのだよ。その間、仕上がるはずの仕事がある」

 

 理央は自分のノートを閉じた。

 

 1枚書き上げるまでの時間なら、少し分かる。

 

 手紙を託す相手を呼んでいる間にも、真壁は別の紙へ候補の日を書いていた。

 

 数日後、工房から返事が届いた。

 

 見本を使った実演と、紙の比較なら引き受けてもらえる。

 

 理央は知らせを読んで、レイニャと顔を見合わせた。

 

 理央はノートを開き、写してもらう前に直したい文へ鉛筆で印を付けた。

 

 

 

 写本工房の戸を開けると、紙と革の匂いがした。

 

 通りを照らしていた日差しは窓際の台まで入り、そこから奥は、棚の影が幾重にも重なっている。

 

 乾いた紙束を卓へ打ちつける音が、すぐ近くで鳴った。

 

 別の台では、背を丸めた職人が糸を引いていた。

 

 揃えた束の背を指で押さえ、糸が緩んでいないか確かめてから、次の穴へ針を送る。

 

 理央が見ていると、親方が通路を示した。

 

「こちらへ。見本を用意してあります」

 

 注文品の置かれた台を避け、4人は窓際へ進んだ。

 

 短い文章と、花と雲の線画が描かれた原稿がある。

 

 雲の中には、細かな点が打ってあった。

 

 その横へ、若い職人が白紙を置いた。

 

 インクの小皿を寄せ、原稿と白紙に手を添える。

 

 理央は、その次に羽ペンを持つのだと思った。

 

「《転写》」

 

 白紙へ黒い線が現れた。

 

 花の茎が伸び、花びらが重なり、その横へ文字が並ぶ。

 

 どこから書き始めたのか探している間に、原稿と同じ1枚ができていた。

 

「えっ、もう写ったんですか!?」

 

 理央は身を乗り出しかけ、台へ触れる前に手を引いた。

 

 文字の表面に窓の光が映っている。

 

 まだ濡れていた。

 

「絵もいけるニャ!」

 

 レイニャは原稿と写した紙を交互に見た。

 

「花びらまで同じニャ。雲も写るニャ!」

 

「はい。こちらは1枚ずつです」

 

 若い職人は紙の端を持って棚へ運び、次の白紙を台へ置いた。

 

 もう一度《転写》を使うと、同じ花と雲が増える。

 

 元の原稿は、何も変わらず残っていた。

 

「本だと、これを最後のページまで繰り返すんですね」

 

「私なら、そうします」

 

 若い職人が答えると、親方が横から薄い冊子を取り上げた。

 

「写本職人のジョブレベルが上がれば、《写本》が使えるようになります。そちらは、本全体をまとめて写せます」

 

「1冊、全部ですか?」

 

「お見せしましょう」

 

 親方が台を空ける間に、若い職人が冊子に必要な分の白紙を並べた。

 

 小皿のインクも足しておく。

 

 親方は原本の冊子に手を添えた。

 

「《写本》」

 

 並べてあった紙へ、いっせいに文字が現れた。

 

 理央は目の前の紙を見てから、隣へ顔を向けた。

 

 こちらには続きの文章、その先には挿絵がある。

 

 親方がめくって見せた原本と、最後のページまで同じだった。

 

「ほんとに、全部……」

 

 レイニャも黙って、台の端から端まで見ていた。

 

 さっきの1枚でも驚いたのに、本が丸ごと増えている。

 

 親方は原本を閉じ、台に並んだ紙へ目を配った。

 

 けれど、できた方の紙には触れない。

 

 若い職人が端をつまみ、乾燥棚へ運び始めた。

 

「ここからは、どちらも乾かします。綴じるのはその後です」

 

 澪は小皿を見ていた。

 

「インクも、それだけ使うんですね」

 

「ええ。紙とインクは、どちらにも要ります」

 

 底の見えかけた皿へ、黒い液が足される。

 

 真壁の視線は、写ったページから、まだ乾いていない紙の並ぶ棚へ移っていた。

 

 理央は自分のノートを抱え直した。

 

 文章も絵も、頼めば増やしてもらえる。

 

 あの教室で描いた1枚が、子どもたちの机に並ぶところを、初めてはっきり想像できた。

 

 

 

「でも、写すのがこんなに速いなら……」

 

 言いかけて、理央は棚を見た。

 

 高い本ばかりなのは、もっと長い時間をかけて文字を書いているからだと思っていた。

 

 親方は急かさずに待ってくれる。

 

「本って、もう少し安くならないんですか?」

 

「紙にも、インクにも、代金がかかります。こちらを使うと、少し安くできますが」

 

 親方が出した紙は、先ほどより薄茶色で、端の厚みがそろっていなかった。

 

 理央は、ニャニャミの帳票を思い出した。

 

「同じ見本を写していただけますかな。比較に使った分も、お支払いする」

 

 真壁が言うと、親方はうなずき、先ほどの1枚原稿の横へ、その紙を置いた。

 

「この比較なら、《転写》で十分です」

 

 親方が手を添えると、花と文字が現れた。

 

 今度も、最初はきれいだった。

 

 ところが、親方が紙を動かさず待っていると、花の茎が少し太くなった。

 

 細い毛羽を伝って、黒が外へ伸びていく。

 

「あ……にじんでる」

 

 理央は触れないように両手を胸元へ戻し、顔だけを近づけた。

 

 雲の中の小さな点が、隣の点へくっつきかけていた。

 

「氷が大きくなるニャ」

 

 レイニャが低くつぶやく。

 

 上等な紙では分かれていた線が、こちらでは黒い塊になりそうだった。

 

「文字は同じなのに」

 

「読めなくなれば、写し直しです。細かい絵には、特に向きません」

 

 親方は2枚を並べた。

 

 澪がノートを開き、試した紙の違いを書き留める。

 

「折ったり、糸を通したりする時も、差が出ますか?」

 

「出ます。薄ければいいわけでも、厚ければ丈夫というわけでもありません」

 

 親方に促され、理央は乾いた端紙を折ってみた。

 

 指の下で素直に折れるものと、折り目が白く毛羽立つものがある。

 

 どれも紙だと思っていたのに、折るだけでこんなに違う。

 

「では、使える紙が安く手に入れば、納期までに出せる冊数も増えるかね」

 

 真壁の問いに、親方は奥の台を示した。

 

「材料を買える数は増やせます。ただ、《写本》の使い手ばかりではありませんし、乾かして、そろえて綴じる仕事は残ります」

 

 糸を通していた職人が、束の背を押さえ直す。

 

 隣では別の職人が、紙を1枚ずつめくって順序を見ていた。

 

 理央の目の前では一瞬で現れた絵が、まだ奥の棚に寝ている。

 

「なるほど。材料費と、仕上げに要る日数は別だね」

 

 真壁は帳面へ短く書き、親方へ向き直った。

 

「別の紙を持ち込んだ場合も、少量の比較をお願いできますかな」

 

「今お受けしている仕事を先にしますが、それでよろしければ」

 

「結構。その条件で見積りをお願いしたい。試験料は、こちらでお支払いする」

 

 見学代と紙の代金が支払われ、何種類かの見本が包まれた。

 

 理央はその包みを受け取った。

 

 文字が現れた瞬間には、もうできたと思った。

 

 けれど奥の台では、さっきから同じ職人が1冊の背に糸を通している。

 

 理央は包みを抱え、出入口へ向かう途中でもう一度その手元を見た。

 

 

 

 工房を出た後、4人は領都の書店へ寄った。

 

 窓に並ぶ本は少なく、店に入ると、乾いた古い紙の匂いがした。

 

 レイニャは細かな挿絵のある本を見つけ、開いてよいかと店主に尋ねている。

 

 理央は読み書きの手引きらしい薄い本へ手を伸ばした。

 

 教室の本より、だいぶ軽そうだった。

 

 革紐で結ばれた値札を見て、持ち上げかけた手が止まる。

 

 これを、子どもたちの分だけ。

 

 頭の中で数え始めたところへ、店主が来た。

 

「字を教える本をお探しですか?」

 

「子どもたちに渡せるものを、考えているんです」

 

 理央が本から手を離すと、店主はその背をそろえた。

 

「この手の本を、まとめて欲しいというお話はあるんですがね」

 

「揃えるのが難しいのかね」

 

 真壁が隣から尋ねた。

 

「先日も、予算に収まらなかったんです。それに、先方の必要な日までには揃いませんでした」

 

 店主は机に出していた控えを、帳面へ挟み直した。

 

 奥の取り置き棚には、何も載っていない一角があった。

 

「少し遅ければ、受けてもらえたかね」

 

「使いたい時が決まっているそうで。全部揃う前にその日が来てしまうなら、と」

 

 店主は言葉を切り、棚の本へ手を戻した。

 

 そろえたばかりの本へ、店主はまた手を置いた。

 

 欲しいという人がいたのに、ここから渡せなかったのだ。

 

 理央は、最後の行を指でたどっていたリオを思い出した。

 

 読めるようになった今、読んであげたい相手がいる。

 

 いつか渡す、と言ったままにはしたくなかった。

 

「材料が安くなれば、一つは助けになる。だが、日数も要るわけだ」

 

 真壁は工房から持ってきた包みを見た。

 

「澪君。持ち込んで比べる紙に、心当たりはあるかね」

 

「ゲンダイの既製紙なら、少量から買えます」

 

 澪が包みの角を押さえた。

 

「《収納》で運べますし、同じくらいの大きさにして試していただければ。ただ、あのインクでどうなるかは、まだ分かりません」

 

「それなら、まず試せますね」

 

 理央は、いつも使っている白い紙を思い浮かべた。

 

 特別な店へ行かなくても、束で売っている紙。

 

 急に、それが頼もしく思えた。

 

「新しい紙ですか?」

 

 店主の問いに、真壁はうなずいた。

 

「使えるかどうかからだね。価格と冊数、納期の見通しが立ったら、改めて相談させていただこう」

 

「それでしたら、ぜひ」

 

 レイニャが本を閉じ、両手で店主へ返した。

 

 その挿絵を名残惜しそうに見てから、理央のノートへ目を向ける。

 

 理央はうなずき、雲の原案が入った鞄を抱え直した。

 

 

 

「絵も写せたし、本は1冊まとめて写ったニャ!」

 

 事業所へ戻るなり、レイニャはニャニャミへ報告した。

 

 小皿の横に白紙を置く真似をして、両手を開く。

 

「こっちに同じ雲ができるニャ。でも、乾くまで触ったら駄目ニャ」

 

「それは便利ニャ」

 

 ニャニャミは帳簿のペンを休めた。

 

「書きやすい紙なら、こっちにも欲しいニャ」

 

 レイニャが次の用へ出ていった後、澪が買った見本を卓へ並べた。

 

 理央はにじんだ紙を指し、細い線には紙を選ぶことを説明した。

 

 ニャニャミはにじんだ線を眺め、自分の帳票も手元へ寄せた。

 

「紙の足りないところもあるニャ。今、見てみるニャ」

 

 金色の目が帳簿から離れ、何もない宙へ向いた。

 

 理央には文字も数字も見えない。

 

 《千里眼》を使っているニャニャミのペンが再び動き、帳面へ市場の名が書かれた。

 

「白皿丘は、需要88、供給43。新町は77と56ニャ」

 

 それぞれの数字を記してから、ニャニャミは帳面をこちらへ向けた。

 

「でも、紙なら何でもいいわけじゃないニャ。種類と値段は、また見るニャ」

 

「足りない傾向はあっても、どの紙がいくらなら売れるかは、別ですね」

 

 澪が帳面を覗くと、ニャニャミはペンを持ち直した。

 

「そうニャ。私みたいに、引っかからない紙を欲しい人もいるはずニャ」

 

 最後の線を書こうとして、ペン先が止まる。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 ニャニャミは紙を押さえ直し、ゆっくりペンを引いた。

 

「……竹の紙は、どうなったニャ?」

 

 机の脇にあった短い竹を、澪へ向ける。

 

 澪の視線が、見本紙からそちらへ移った。

 

「箱と緩衝材の方が先になっていましたね。試験に使える端材はあります」

 

 澪が《収納》を探り、靄の中から短い竹片を取り出した。

 

 卓へ置かれると、紙とはまるで違う、硬い音がした。

 

 理央はその切り口を見た。

 

 竹で紙ができるとは知っている。

 

 でも、この硬いものを、どこからどうしたら薄い1枚にできるのだろう。

 

「ゲンダイの紙を試しながら、こっちも調べませんか。竹なら、私たちで育てていますし」

 

「うむ。既製紙の試験は工房へ頼める。竹の方も進めたまえ」

 

 真壁は見本を分け、持込み用の紙を置く場所を空けた。

 

 

 

 翌日、理央は澪と《関門接続》を抜け、江古田の事務所へ戻った。

 

 外で買ってきたコピー用紙を開けると、同じ大きさの角がきれいにそろっていた。

 

 指の腹を滑らせても引っかからない。

 

「ニャニャミさん、これを見たら喜びそう」

 

「インクが載るか、先に試してもらいましょう」

 

 澪が購入価格と枚数を控える横で、理央は工房紙を重ねた。

 

 紙の大きさだけをそろえても、厚さや表面の違いは消えなかった。

 

 その隣へ竹を置き、PCを開く。

 

 竹紙を作る工程の写真を探すと、切った竹の次に、水に漬かった材料が現れた。

 

 さらに先では、白っぽい柔らかなものを人が叩いている。

 

 理央は写真を大きくした。

 

「ここで、もう全然違うんですよね」

 

「若竹を使うところもあるんですね。うちの端材とは違います」

 

 澪が卓の竹を取り上げ、表面を親指で押した。

 

 理央は画面の工程をノートへ写した。

 

 長く水に漬け、熱を加えてから水で晒し、叩いて繊維をほぐしている。

 

 説明の中に知らない名前があり、理央はその言葉でも検索し直した。

 

「リグニン……。竹を硬くしている成分の一つで、繊維同士を結びつけているんですね」

 

 画面を澪の方へ向ける。

 

 紙の繊維になるセルロースとは、役割が違うらしい。

 

「これを取り除いて、繊維を取り出すんですね」

 

 澪は説明を読み、卓の竹へ目を戻した。

 

「でも、どこまで取り除くんでしょう。残した方がいいものまで分けてしまわないか、気になります」

 

 理央はリグニンの名をノートへ写し、その下へ、どうやって抜くのか、と書いた。

 

 言葉だけなら順に追えるのに、途中の材料を触った感じがまるで浮かばない。

 

「粉にするのとは違うんですよね。どのくらい、ほぐれていればいいのかな」

 

「作っているところを見せてもらいましょうか」

 

 澪の提案に、理央はすぐ顔を上げた。

 

 探した中には、若狭で竹紙を漉く体験を受け入れている工房があった。

 

 電話で尋ねると、空いている日と料金、それに当日見せてもらえる範囲を教えてくれた。

 

「下処理した材料も、拝見できますか?」

 

 理央は答えを書き留め、澪にノートを見せる。

 

 数日後の予約が取れた。

 

 通話を終えてから、画面に残った繊維の写真をもう一度見た。

 

 今度は、これを実際に触れる。

 

 理央は工房へ持っていくノートに、大きく印を付けた。

 

 

 

 予約した日の朝、理央は澪とゲンダイ側で移動の支度を整えた。

 

 工房近くの、人目を避けられる安全な場所へ《関門接続》を開き、2人が抜けてから扉を閉じる。

 

 そこからは、予約の時間に合わせて道を歩いた。

 

 日差しは明るかったが、道沿いの木の下へ入ると風が涼しかった。

 

 竹の細い葉が触れ合い、頭の上でさらさらと鳴っている。

 

 曲がり角の先に工房が見えた。

 

「お電話した飯島です」

 

 受付で名前を告げ、料金を支払う。

 

 案内人について作業場へ入ると、外で温まっていた腕に、ひやりとした空気が触れた。

 

 戸口の明るさに慣れた目には、奥が少し暗い。

 

 窓から差した光が水槽の縁を照らし、その下の床には、落ちた雫の跡が点々と続いていた。

 

 理央は乾いたところを選んで足を置いた。

 

 湿った植物の匂いがする。

 

 事業所の竹箱にはない匂いだった。

 

 壁際には漉き枠が立てかけられ、使い込まれた木の縁は、角のところほど色が濃くなっていた。

 

 案内人が一つ取り出すと、隣の枠と触れて、こつりと音がした。

 

「足元にお気をつけください。まず、材料をご覧いただきましょう」

 

 卓には竹の見本が並んでいた。

 

 硬いものの隣には、長く水に漬けたもの、煮て晒したもの、さらにほぐした繊維が置かれている。

 

 最後の白っぽい塊を見て、理央は腰をかがめた。

 

 PCの写真では、どこまでが1本なのかも分からなかったものだ。

 

「これが、紙を漉く前の状態ですか?」

 

「そうです。少し触ってみますか」

 

 手を出すと、案内人が濡れた繊維を少量載せてくれた。

 

 ひんやりとした塊は思ったより柔らかく、親指でそっと引くと、細いものがいくつもついてきた。

 

 粒になって崩れるのではなく、濡れたまま指へ沿っている。

 

「竹を粉にするのとは、違うんですね」

 

「繊維を残してほぐすんです。それを水の中で広げて、重なるように漉き取ります」

 

 澪も身をかがめ、理央の手元を見ていた。

 

 硬い竹から、ここまで。

 

 予約を取った日に調べた言葉を思い出しながら、理央は下処理の途中の見本へ目を戻した。

 

「ネットで、リグニンを取り除くって読んだんです。それは、どこで抜くんですか?」

 

 案内人は、煮る前と後の見本を手前へ寄せた。

 

「こちらでは、長く水に漬けた若竹を、ソーダ灰を使って煮て、その後で水に晒します。繊維を固めている成分を取り除き、ほぐれやすくしていくんです」

 

 理央は手に載せてもらっていた繊維を見本の器へ戻し、手を拭いてノートを開いた。

 

 澪が続けて尋ねる。

 

「煮て溶け出したものを、水で洗い流すんですね。リグニンも、そこで取り除いているんですか?」

 

「ええ。ただ、これで全部なくなった、というところまで調べて作っているわけではありません。触って、叩いてみて、繊維がほぐれるかを見ています」

 

 案内人は柔らかくした材料をつまんだ。

 

 指の動きに合わせて、薄い部分が開く。

 

 理央は、調べてきた説明の横へ、煮た後に水に晒す、と書き足した。

 

 名前を知っただけでは、目の前の柔らかさまでは分からない。

 

「ここまでの下ごしらえには、どれくらいかけるんですか?」

 

 澪が尋ねた。

 

「まず、若竹を水に漬けておくのに、こちらでは1年以上かけています」

 

「1年も?」

 

 理央は器に戻した繊維を見た。

 

「じゃあ、今日使うのは、去年から準備していた材料なんですか」

 

「そうなりますね。今日は、下処理の済んだものを使っていただきます」

 

 案内人は若竹の見本を持ち上げた。

 

 澪はその切り口を覗き込み、太さを目で確かめた。

 

「育った竹を箱などに加工した時の、硬い切れ端でも同じようにできますか?」

 

「原料が違えば、柔らかくなり方も変わります。今日の材料と同じようにできるとは、言えませんね」

 

 理央は、ノートの「竹」に「若」と足した。

 

 事業所の端材は、見本の若竹よりずっと硬かった。

 

 同じ時間、同じ処理をすればよいとは、まだ言えない。

 

 案内人が下処理済みの材料を叩いてみせると、湿った鈍い音が響いた。

 

 繊維が卓へ広がり、木槌を上げたところから、細いものが離れて落ちる。

 

 理央は器の中の繊維と見比べた。

 

 木槌が下りるたびに、割れた破片ではなく、ほぐれた繊維が広がっていった。

 

 次に水槽へ移ると、水面には細長い窓が映っていた。

 

 案内人がほぐした繊維を水へ散らし、かき混ぜる。

 

 窓の形が崩れ、その下を白い筋がゆっくり流れた。

 

 細かな繊維が光の届くところへ浮き上がり、また水の奥へ沈んでいく。

 

「枠は、できるだけ水平に持ってください」

 

 理央は教わった位置へ両手を添え、湿った木の縁を握った。

 

 水へ入れた時には軽かったのに、持ち上げると、両手へずしりと重さがかかった。

 

 右手が下がり、白いものがそちらへ寄った。

 

「あっ」

 

「慌てず、もう一度戻してみましょう」

 

 水へ沈めると、片寄っていた繊維がほどけて離れた。

 

 理央は肩の力を抜き、今度は枠の縁と水面を見比べながら持ち上げた。

 

 底から水が流れ落ちる。

 

 やがて流れが細い筋になり、ぽたり、ぽたりと落ちる音に変わった。

 

 その後に、白っぽい薄い層が残っていた。

 

「これ……紙になるところなんですね」

 

 思わず声を落とした。

 

 水槽の中を漂っていたものが、自分の両手の間に集まっている。

 

「まだ水を抜いて、乾かす仕事があります。今は触らないでくださいね」

 

 案内人が受け取ろうと手を出し、理央はゆっくり枠を渡した。

 

 縁の近くは厚いのに真ん中は薄く、小さな泡の跡まで見つかって、理央は顔を近づけた。

 

 ただ持ち上げただけのつもりだったのに、自分の手の傾きがそこに残っていた。

 

 隣では、澪も枠を持ち上げている。

 

 水が片側へ落ちかけ、澪の肘が慌てて上がった。

 

「水平って、難しいですね」

 

「見てる時は、できそうだったんですけど」

 

 理央が答えると、澪は枠を見たまま笑った。

 

 2人の分を置いた後、案内人は乾燥させてある紙を見せてくれた。

 

 理央がそっと端をつまむと、乾いた繊維が指の腹に触れた。

 

 さっきの濡れた塊にはなかった、薄い1枚としての張りがある。

 

 同じ日のうちに硬い竹からここまで来たわけではない。

 

 1年以上前から仕込まれ、煮られ、洗われ、叩かれて、ようやく自分がすくい上げたところへ届いていた。

 

 紙を返した理央は卓の原料へ目を戻し、硬い竹から細い繊維まで、もう一度順に見ていった。

 

 見学を終えてから、販売されていた竹紙の小さな見本と資料を買った。

 

 外へ出ると、葉の擦れる音が作業場の水音に代わった。

 

 日陰でノートを開き、澪と今日のことを振り返る。

 

「リグニンを抜けば終わり、じゃなかったですね」

 

「繊維をほぐして、あの状態にするところまで要るんですね。《成分分離》を試すにしても、残ったものを見ないと」

 

 澪が竹紙を光へかざした。

 

 薄いところを通った光に、細かなむらが浮かぶ。

 

 理央は「繊維を残す」と書き、その横へ、商会の竹は原料が違う、と足した。

 

 帰ったら、まず端材を少しずつ処理して、残る繊維を見比べたい。

 

 ノートを閉じる前に、煮た後に洗う、と書いたところへ印を付けた。

 

 

 

 夕方の事業所で、理央は買ってきた竹紙を真壁の前へ置いた。

 

 写本工房の紙、その横にゲンダイのコピー用紙。

 

 澪が《収納》から竹端材を出して並べると、卓の右端だけが急に厚くなった。

 

「同じ竹でも、見てきた工房は若竹を使っていました。私たちの端材は、そこから違うんです」

 

 理央はノートを開いた。

 

 水の付いた指で押さえたところに、しわが寄っている。

 

「ほぐれた繊維を触らせてもらいました。柔らかいんですけど、粉じゃなくて、指から離そうとすると一緒に付いてきて」

 

 言いながら手を広げると、真壁は竹紙へ目を落とした。

 

「目指す状態は見えたわけだ。どこまでを試せるかね」

 

「まず、あの下処理を短くできるか試したいです。繊維を残せれば、私たちでも漉けるかもしれません」

 

 澪が端材を取り、真壁へ切り口を向けた。

 

「工房では、煮てから洗い流していました。まず《成分分離》でリグニンなどを取り除き、残ったものがほぐれるか見てみましょう。理央ちゃん、前処理を変えたものも並べるので、一緒に見てもらえますか」

 

「はい。それと、工程を思いきり省いた方も、少量だけ比べたいです」

 

 理央はノートのページを半分に分けた。

 

 澪から受け継いだ《溶解》《成分分離》《固形化》は、自分でも使える。

 

 ただ、溶かしてしまえば、あの細い繊維は残らないかもしれない。

 

「溶かして、薄く固めるとどうなるのか。工房と同じにする方とは分けて、比べてみたいです」

 

「よろしい。元の竹も残したまえ。何を変えたか分からなくなっては、次に使えん」

 

 真壁は空の小皿をいくつか取り出し、試料を置く間隔を空けた。

 

 近くに置かれていた紙の束も、別の卓へ移した。

 

「既製紙は予定どおり工房へ頼もう。こちらの出来上がりを待たせる必要はない」

 

 理央は工房へ渡す紙を包み直し、自分たちの試験用の紙とは別の場所へ置いた。

 

 竹の加工に手間取っても、こちらは先に試してもらえる。

 

 真壁の手は、すでに端材を選び分けていた。

 

「ただ、竹の需要はさらに増えるだろう。箱板だけでも不足しているからね」

 

 澪が、竹箱の置かれた方を見た。

 

「また、私の農地を広げますか?」

 

 返事を待つ間に、理央は自分の収納内の栽培を思い浮かべた。

 

 箱にも、緩衝材にも、さらに紙にも使うなら、今の量で足りるだろうか。

 

「その必要はないよ、澪君。以前採用した5人の基礎課程は終わっている」

 

「マティスさんたちですか?」

 

「うむ。イーダ君、ローナ君、ハンノ君、ヨスト君もね」

 

 真壁は帳面を開き、次の実習の欄へペンを置いた。

 

「《鑑定》と《収納》は皆が習得した。訓練用魔石を収め、疲労耐久薬を用いた訓練で、基礎能力も鍛えてある」

 

「もう、そこまで……」

 

 澪が持っていた竹片を卓へ戻した。

 

「次は火山の土砂回収からだ。各自に集めさせ、土を整え、農地を作らせよう」

 

 真壁のペンが予定欄を進んでいく。

 

 理央は卓の竹へ目を落とした。

 

 その栽培を任せられるようになれば、自分たちが紙を試している間にも原料を増やせる。

 

「ただ、生きた竹を入れるには、普通の《収納》だけじゃ……」

 

 澪が言いかけると、真壁は竹片を卓へ置いた。

 

「いや、植物を育てるだけなら、収納内でできるはずだ。微生物を収納でき、中でも活動することは、発酵で確かめている」

 

 理央は顔を上げた。

 

 自分たちは《生体収納》で竹を育てていた。

 

 普通の《収納》でも、発酵は進んでいる。

 

 言われてみれば、その働きの方を考えていなかった。

 

 澪も、少し考えてからうなずく。

 

「では、最初は少量を植えて、育ち方を見るんですね」

 

「うむ。土を集めて、育てる場所を作り、竹育成用魔石を使わせる。そこから彼らの実習にしよう」

 

 真壁は予定欄の手前へ、小規模での栽培試験を書き加えた。

 

「増産を、彼らの次の仕事にしたいのだよ」

 

 澪の肩が下がった。

 

 それから、ノートに書きかけていた「農地の拡張」へ線を引いた。

 

 理央と目が合い、澪は少し照れたように笑う。

 

「じゃあ私たちは、使える紙を作らないとですね」

 

 理央は見本の手前へ、雷の原案を置いた。

 

 雲の輪郭は、もう魚に似ていない。

 

 その下には、教室で書き直した短い文がある。

 

 自分たちで作った紙も、インクもまだない。

 

 理央は原案の文字を目で追い、リオが小さい子へ読んで聞かせる声を思い浮かべた。

 

「最初は、これを作りたいです。歌いながら見られて、持って帰って、小さい子にも読んであげられる……」

 

 理央は原案の角をそろえた。

 

 教室を出ていく22人の手に、それぞれの本がある。

 

「本を作りたいんです!」

 

 真壁が小皿をもう一つ空け、澪が試験用の竹をその横へ置いた。

 

 窓から入った風で原案がめくれかける。

 

 理央は原案の角を押さえ、雲の描かれたページを卓の真ん中へ寄せた。

 

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