押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第435話 あれ、セロハンができちゃった

 

 竹の切れ端が卓へ落ち、乾いた音を立てた。

 

 澪は続けて数本を《収納》から取り出し、節のあるものを脇へ寄せた。

 

 箱の板にするには短すぎるものばかりだが、表面は硬く、指で押してもへこまない。

 

 理央はその1本を持ち、切り口を光へ向けた。

 

 縦に走る筋が、端で細かく重なっている。

 

 工房で手に載せてもらった繊維も、もとはこういう竹だった。

 

「これは、両方に使えますか?」

 

「はい。その束は同じ時に切ったものです。まず、似たところを組にしてそろえましょう」

 

 澪が《収納》の中で分けて取り出した小片を、理央は左右の皿へ配った。

 

 長さと厚みを見比べ、できるだけ似ているものを1つずつ置く。

 

 左の札には『繊維を残す』。

 

 右には『溶かして薄くする』と書いた。

 

 澪は比べる分だけを残し、余った竹を《収納》へ戻した。

 

 靄が引くと、同じ色の切れ端が卓の左右に残った。

 

 高い窓から差す朝の光が、皿の縁へ細い影を落としている。

 

 まだ9時を回ったばかりなのに、廊下では荷車が何度も通っていた。

 

 車輪が遠ざかるのと入れ替わりに、真壁が戸口へ顔を出した。

 

「始めたようだね」

 

「はい。今日は同じ竹で、両方試します」

 

 理央は右の皿を手前へ寄せた。

 

 真壁は札を読み、向かい合う2つの皿へ目を移した。

 

「新人たちは、ニャニャミ君と火山へ向かったよ。今日は各自の収納に土砂を集めるところまでだ」

 

「5人とも、一緒に行けたんですね」

 

「ニャニャミ君の《転移》も上がったからね。訓練で通って登録した安全な場所へ、往復してもらう」

 

 理央は、いつも帳簿へ顔を寄せている白いケット・シーを思い浮かべた。

 

 今日はその後ろへ、5人がついていく。

 

「じゃあ、真壁さんはこっちにいられるんですね」

 

「うむ。何かできたら呼びたまえ」

 

 真壁は戸を開けたまま事務机へ戻っていった。

 

 澪が水の入った桶を足元へ寄せ、理央は工房見学のノートを卓の端へ置いた。

 

 工房で濡れた指のまま押さえたところが、乾いて波打っている。

 

 そのすぐ横には、まだ乾いて硬い竹があった。

 

 理央は、工房で買った竹紙を両手で持った。

 

 窓へ向けてたわませると、薄いところだけが明るくなる。

 

 この厚さにそろえるまでにも、あの枠を水平に持たなければならない。

 

 水を含んだ重さで手首が下がったことを、指が覚えていた。

 

「漉かないで、このくらい薄くできれば……」

 

 つぶやきながら見本を脇へ置き、右の皿から竹片を取った。

 

「紙と同じにはならなくても、字を書けるものになるかもしれませんよね」

 

「試してみましょう。繊維を残す方は、そちらに取ってありますから」

 

 澪も同じ皿から小片を選んだ。

 

 理央は自分の試料を《収納》へ入れ、まず《成分分離》で、紙の繊維になる成分を取り分けようとした。

 

 少量を皿へ出してみる。

 

 竹の表面にあった艶はなくなり、淡い色のものが残っていた。

 

 取り除いた側も別に出すと、色の違う小さな塊になった。

 

 澪が取り除いた方を脇へ寄せ、理央も残した淡色の材料をもう一度《収納》へ戻した。

 

 ここから先は、工房とは違う。

 

 細い繊維を水へ広げる代わりに、《溶解》で形を崩し、薄く延ばして《固形化》する。

 

 普段なら使いやすい形へまとめるところを、今日は、向こうが透けない程度の薄い1枚にしたかった。

 

 けれど、その厚さがどのくらいなのかは、まだうまく思い描けない。

 

 理央は収納から取り出したものを、小さな板の上へ置いた。

 

 淡い色の、平たい欠片だった。

 

 指を近づけてから、いったん止める。

 

 竹だった時の形が、どこにもなかった。

 

「私のは、端が厚くなりました」

 

 澪も自分の《収納》で同じ加工を進め、隣へ試料を出した。

 

 理央のものより、いくらか厚く見える。

 

 板を傾けると、縁に沿って光が走る。

 

 理央も自分の板を動かした。

 

「こちらは、もう少し薄いかも。取ってみてもいいですか?」

 

「端から、ゆっくり」

 

 爪で引っかけないよう、指の腹で縁を押した。

 

 平たい欠片が板から浮いた。

 

 取れた、と思った瞬間、指の下でたわむ。

 

 理央は慌ててもう片方の手を添えた。

 

「……薄くは、できました」

 

 嬉しくなって澪へ見せると、澪の視線が、試料を挟んだ指の間で止まった。

 

「理央ちゃん。それ、向こう側が……」

 

 理央は首をかしげ、手の中の薄物を窓へ向けた。

 

 白い紙のように見えていたものの向こうに、窓枠の線が現れる。

 

 下へ添えた指まで見えていた。

 

 端をそっと撫でる。

 

 工房で買った竹紙のような毛羽はなく、どこもつるりとしている。

 

「……薄くしすぎました?」

 

 澪は自分の試料を持ち上げた。

 

 厚いところは白っぽいが、薄い縁ではやはり光が抜けている。

 

「私のも、端は透けていますね」

 

 理央は見本の竹紙を隣へ置いた。

 

 竹から作った。薄くもした。

 

 そこまではいいのに、並べると、似ているところを探す方が難しかった。

 

「薄い紙になると思ったんですけど」

 

「薄いものには、なりましたよ」

 

「そこだけ合ってますね……」

 

 理央が膜を持ったまま黙り込むと、澪が反対側へ回ってきた。

 

 膜の向こうに、面白がっている目が見える。

 

「澪さんまで透けてます」

 

「私が透けているわけではないですよ」

 

 理央は吹き出しかけ、膜を落とさないよう板へ戻した。

 

 紙の繊維になる成分を取り分けたつもりだった。

 

 溶かして固め直したら、その成分まで別のものに変わってしまったのだろうか。

 

 板へ顔を寄せて考え、ふと思い出した。

 

「あ。《鑑定》」

 

 膜へ向けると、理央の視界へ表示が現れた。

 

 材質の欄を読み、形状へ目を移す。

 

 鉛筆を取ろうとしていた手が、そこで止まった。

 

「何て出ました?」

 

「セルロースが主成分で……薄膜、って」

 

 声に出してから、もう一度膜を見る。

 

 ゲンダイで見慣れた、透明な包み。

 

 あれも、もとは植物から作るものだった。

 

 理央はしばらく口を開けたまま考え、ようやく澪へ顔を向けた。

 

「……あれ、セロハンができちゃった」

 

 澪は理央の言葉を聞いてから、板の上へ視線を戻した。

 

「そう言われると、似ていますね」

 

 薄い紙を作るはずが、透明な膜になった。

 

 理央は原料の竹と膜を見比べた。

 

 もう一度やれば同じものができるのか、今すぐ試したくなる。

 

 先ほどまで正体が分からず首をひねっていたことを思い出し、自分で笑ってしまった。

 

「セル画だ……!」

 

 ふと思いついて口にすると、澪が膜を見直した。

 

「透明なところは似ていますね」

 

 理央も、絵を描いた透明なシートを重ねるところを思い浮かべた。

 

 これへ絵を描いて、下へ別の絵を置いたら。

 

 そこで、教室の本棚が浮かんだ。

 

 全部のページが透ける本を、リオに渡すところまで考えてしまう。

 

 後ろの文字も、その後ろの文字も見えそうだった。

 

「……本にするには、ちょっと違いますね」

 

「字が書けるかも、まだ試していませんしね」

 

 澪が板の上で膜の端をそろえると、理央もまた触れたくなった。

 

 全部のページが透ける本は困る。

 

 それでも、竹からこんなものが出てくるなんて、机で製法を調べていた時には考えもしなかった。

 

「紙じゃないですけど……面白いです」

 

「ほんとにセロハンと同じなのかは、まだ分かりませんけどね」

 

 澪も笑い、理央の試料と自分の試料を並べた。

 

 理央はノートの『セロハン』の横へ、小さく『みたいなもの』と足した。

 

 取り出す前には紙のつもりだったものが、今は窓の光を返している。

 

 竹片だった朝には、想像もしなかった眺めだった。

 

 

 

「何やら、面白いものができたようだね」

 

 声に顔を上げると、真壁が戸口に立っていた。

 

 理央は板を持ち、膜が滑らないよう水平のまま差し出した。

 

「薄く固めたら、こんなふうになりました」

 

 真壁は理央から板を受け取ると、膜の端をつまんだ。

 

 下から添えた指を見て、そのまま卓の竹箱へ向かう。

 

「ほう。中身の見える包みに使えるかもしれんね」

 

 蓋をずらし、開いたところへ膜を重ねた。

 

 箱の中の竹片が見えている。

 

 少し位置を直し、箱を傾けて眺め、今度は膜の端から蓋までの幅を目で測った。

 

「真壁さん、紙ですよ! 紙!」

 

「承知しているよ、理央君」

 

 返事はすぐだった。

 

 目は箱から上がらなかった。

 

「細工物など、開けずに見せられればよいね」

 

「それ、紙の話じゃないですよね?」

 

「同じ竹からできたのだろう」

 

「竹の話に戻さないでください」

 

 澪がこらえきれずに笑った。

 

 理央も笑いながら、箱の前へ手を出す。

 

「まず、私の本を作らせてください」

 

「もちろんだとも。こちらは、後で調べよう」

 

 真壁は膜を外したが、最後にもう一度、蓋の開いている箱を見た。

 

 次に顔を上げた時には、もう別の品物を入れるつもりなのではないかと、理央には思えた。

 

 澪が差し出された膜を板へ戻し、理央の分と一緒に受け取った。

 

「では、こちらは私が取っておきます。今のうちに、残した竹を使いましょう」

 

 真壁は理央の手が戻った先を見た。

 

 『繊維を残す』と書いた札の下には、まだ硬い端材があった。

 

「次は、こちらだね」

 

 理央はその端材へ指を置いた。

 

「はい。今度は、紙になる方を」

 

「楽しみにしているよ」

 

 真壁が事務机へ戻ると、廊下で止まっていた荷車がまた動き始めた。

 

 澪が膜を《収納》へ収めるのを見届けてから、理央は次の竹へ手を伸ばした。

 

 

 

 皿へ残った竹を手に取ると、指へ硬い角が当たった。

 

 理央はさっきまで持っていた膜の軽さを思い出し、端材を少し曲げようとした。

 

 力を入れても、ほとんど動かない。

 

「同じ束から取ったのに、もう別物みたいですね」

 

「こちらも全部溶かしていたら、比べるものがなくなるところでした」

 

 澪が未処理の見本を卓の端へ置いた。

 

 理央は工房で買った竹紙を、その隣へ戻す。

 

 硬い竹と、指でたわむ紙。

 

 透明な膜は、その2つの間を通らずに、別の方へ行ってしまったようだった。

 

 理央はその竹を縦に持ち、切り口から続く筋をたどった。

 

 前と同じように成分を取り分けても、その後で全部溶かしてしまえば、また膜になるかもしれない。

 

「今度は、筋を残すんですね」

 

「はい。分けた後、どれくらいほぐれるか見てみましょう」

 

 澪は竹の側面を撫で、指を縦に滑らせた。

 

 理央も真似をすると、先ほど見えた筋が指先へ伝わった。

 

「あの、工房で触ったみたいになればいいんですけど」

 

「最初から同じにはならないかもしれませんね。こちらの竹の方が硬いですし」

 

 澪は節のある小片と、節を避けた小片を、離して置いた。

 

 理央は桶を寄せ、早く次へ進もうと腰を浮かせた。

 

 そこで、腹が鳴った。

 

 手が止まる。

 

 澪が顔を上げ、廊下の方を見た。

 

 どこかで食器が重なり、温かい食事の匂いが戸口まで届いている。

 

「……先に、お昼にしましょうか」

 

「まだ午前のつもりでした」

 

 理央が時刻を確かめると、もう正午に近かった。

 

 膜を持ち上げていた時には、時計のことなど考えもしなかった。

 

 2人で試料を覆い、水のかからないところへノートを移した。

 

 澪が戸口で待っているのに、理央はまだ竹を見ていた。

 

「今度こそ、柔らかくしたいです」

 

「私もです。続きは、食べてから」

 

 返事をした拍子に、腹がもう一度鳴った。

 

 理央は竹から手を離し、澪の後を追った。

 

 

 

 昼食から戻ると、高窓の光が卓の反対側へ移っていた。

 

 理央は覆いを外し、まだ硬い竹片を澪へ渡した。

 

 澪が選んだ竹片を《収納》へ取り込む。

 

 今回は《溶解》を使わず、《成分分離》で、リグニンなどの硬さに関わる成分を取り除く。

 

 澪はその後、材料を水へ浸した状態にして、収納内の時間を進めた。

 

「漬けておくところは、中で待たせられますね」

 

「工房では、ここにずいぶん時間をかけてましたもんね」

 

 成分を分ける操作と、その後に水をなじませる時間は別だった。

 

 澪が外へ出して様子を見、まだ芯まで水が回っていなければ、収納へ戻して中の時間を進める。

 

 理央も自分の分を同じように水へ浸し、収納内で時間を経過させてから取り出した。

 

 室内の時計は、ほとんど進んでいない。

 

 けれど手に取った竹は水を含み、朝のような乾いた艶は失われていた。

 

「変わりましたね」

 

 理央は待ちきれずに両端をつまんだ。

 

 切り口は細かくささくれているのに、曲げようとすると、指が押し返される。

 

「……まだ、硬い」

 

 澪は自分の竹を水へ入れ、縦の筋へ親指を沿わせた。

 

 端が少しほつれたが、節のところへ届くと止まった。

 

「ここだけ、ついてきませんね」

 

 理央も節から離れた端を押すと、そこでは細い筋が浮いた。

 

 同じ竹片でも、すべてが同じ硬さではない。

 

 けれど、ほつれた端を支えて持ち上げれば、まだ塊のままだった。

 

 工房の材料は、指でつまんだだけで柔らかくついてきたのに。

 

 理央はもう一度力を入れかけ、竹の角が指へ食い込む手前で緩めた。

 

「もう少し、分けてみますか?」

 

 言ってから、午前の透明な膜が頭をよぎった。

 

 膜には、なってくれた。

 

 それなら、繊維だってもう少し簡単に出てきてもよさそうなのに。

 

 理央は唇を結び、浮きかけた端だけを指の腹で撫でた。

 

 澪は竹をいったん皿へ戻した。

 

「その前に、節のある方とない方を、別々に比べましょう。同じ処理で、どちらも同じになるとは限りませんから」

 

 澪が同じように水を含ませた未処理の竹を寄せた。

 

 こちらには、ほつれる気配もない。

 

 処理した竹の端だけが、爪を使わずに持ち上がった。

 

「何も変わってないわけじゃ、ないんですね」

 

「ええ。ここが一番ほぐれています」

 

 澪の指が止まったのは、節から離れたところだった。

 

 澪が未処理の原料を《収納》へ戻し、分類し直した。

 

 次に卓へ出てきたのは、縦の筋がそろった小片だった。

 

 節に近い部分と硬い表皮の残るものは、今度は混ぜずに脇へ置く。

 

 理央は先ほどの試料と見比べ、筋を遮っていた節の部分がないことを確かめた。

 

「ここなら、ずっとまっすぐですね」

 

「はい。柔らかくなったのと似た部分を探しました」

 

 澪は似た小片を取り分け、半分を理央へ渡した。

 

「こちらをお願いできますか。私はさっきと同じ分け方でやってみます」

 

「じゃあ私は、分離をもう少し進めてみます」

 

 理央は竹片の側面を指でなぞってから、《収納》へ収めた。

 

 この長い筋を、残したい。

 

 全部を均一なものへ戻すのではなく、筋の間をほぐしやすくしたかった。

 

 《成分分離》で取り除く成分と量を調整した。

 

 澪は先ほどと同じ分け方を試している。

 

 2人とも、水になじませる処理には収納内時間を使い、途中で出して状態を見た。

 

 中の時間を進めても、節まで同じ柔らかさになったわけではない。

 

 今度は節を避けた材料と、分離の進め方の違いを見る。

 

 理央は水を切り、細い竹片を取り出した。

 

 皿に落ちたものは、竹の色をいくらか残していた。

 

 午前の材料ほど均一には見えず、縦の筋が表面へ細く浮いている。

 

 理央は筋に沿って、端へ指を入れた。

 

 曲がった。

 

 もう片方の手で支えると、そこから細い束がゆっくり開いていく。

 

「あ、澪さん。見てください」

 

 理央は手を止め、そのまま差し出した。

 

 澪の作ったものも、節のある試料よりは曲げやすくなっていた。

 

 ただ、理央の方は、分離を進めた分だけ長い束が離れかけている。

 

「つながったまま、取れそうです」

 

 嬉しくて少し引くと、途中の筋が張った。

 

「そこは切れそうです」

 

 澪に言われ、理央は指を緩める。

 

 浮いた束が、柔らかく元の材料へ沿った。

 

「……溶かさないで、ここまで来ました」

 

「ええ。今度は、ほぐす方へ進めそうですね」

 

 理央は自分の皿を見た。

 

 指で触った跡が、細い線になって残っている。

 

 午前中の膜にはなかったものだった。

 

「節のところまで、同じ処理で済ませようとしてたんですね」

 

「全部を同じように処理しようとしていました。節の方は、もう少し別に考えないと」

 

 澪は硬い試料を専用の皿へ寄せた。

 

 理央も、分離で取り除いたものを別の皿へ出した。

 

 こちらは色が濃く、繊維の束には見えない。

 

 リグニンだけが出てきたのかどうかは、見ただけでは分からなかった。

 

 澪が分け方の違いだけをノートへ残す間に、理央は次に使う束を手元へ寄せた。

 

 まだ硬い節の試料と、ほぐれかけた束。

 

 どちらを先に水へ入れたいかは、もう迷わなかった。

 

 澪が温かい水を用意し、理央はほぐれかけた束の入った皿を持ち上げた。

 

 桶へ指を入れると、冷えていた手に水の温かさが伝わった。

 

 理央は繊維の束を沈め、指を離した。

 

 少し揺れた後で、束はそのまま桶の底へ落ち着く。

 

 水へ入れただけで、ふわりと広がるわけではなかった。

 

 理央は束の端を指で突いた。

 

 ひとかたまりのまま底を滑り、また同じところへ戻ってくる。

 

 さっきはほぐれそうだったのに、と手を入れ直した。

 

「まだ、まとまってますね」

 

「工房では、ここを根気よく叩いていましたね」

 

 澪が木の棒を取り、桶の底で束を軽く押した。

 

 理央は反対側から支え、縦の筋に沿って指を滑らせる。

 

 水を含んだ材料が、指の下でぬるりと動いた。

 

 端は開きかけるのに、真ん中はまだ固くまとまっている。

 

 強く引けば、そこから切れそうだった。

 

 理央はいったん手を止め、束を持ち替えた。

 

 工房の案内人が濡れた繊維を指へ載せてくれた時には、力を入れなくても細いものがついてきた。

 

 引く代わりに、ほぐれかけた端を小さく揉んだ。

 

 すぐに開かなくても、いったん水を含ませ、指の位置をずらしてまた押す。

 

 工房で見た手つきを、今度は自分の手でたどってみる。

 

 少しずつ、指が深く入るようになった。

 

 澪も、棒で押す方向を変えている。

 

 桶の水面に細い筋が走り、窓の光がばらばらになった。

 

 廊下の足音が、いつの間にか気にならなくなっていた。

 

 代わりに、木の棒が桶の底へ当たる音が近く聞こえる。

 

 水が手首から袖へ伝ってきて、理央は片手ずつ拭き、袖口をもう少し上へ折った。

 

 桶のそばには薄い湯気が残り、濡れた竹の匂いが漂っている。

 

 乾いた端材を並べていた朝とは、作業場の空気まで変わっていた。

 

 澪も同じように腕をまくっている。

 

 朝には何も付いていなかった卓に、水滴と小さな繊維が散っていた。

 

 まだ硬い部分を取り上げて板へ置き、木の道具で軽く叩く。

 

 こつ、と鳴った最初の一打の後で、湿った音が続いた。

 

 理央は広がった材料を水へ戻し、指で押し分けた。

 

 先ほど引っ張っても離れなかったところへ、水が入り込む。

 

 指の間で何かがほどけた。

 

 さっきまで1つだった束の端が、何本もの細い筋に分かれている。

 

「……あ、これ」

 

 指へ載せ、そっと離そうとする。

 

 細い繊維がまとわりつき、指と指の間へ柔らかくついてきた。

 

「あの時の感触に近いです!」

 

 澪が棒を置き、同じところへ指を添えた。

 

「本当ですね。最初の竹とは、もう違います」

 

 理央は思わず束を持ち上げかけた。

 

 細い繊維が水からついてきたので、今度は切らないよう、両手ごとそっと戻す。

 

 さっきまで待ちきれなかったのに、その部分だけは急ぎたくなかった。

 

「ここまで来たら、もう少し」

 

「ええ。硬いところは分けて、柔らかい方を先に進めましょう」

 

 澪が隣へ水の入った小さな桶を寄せた。

 

 理央はほぐれた部分をそちらへ移し、残った束へ指を戻した。

 

 水の中を漂った細いものが、手首へ触れて通り過ぎる。

 

 さっきは指を押し返していた竹が、今は自分の動かす水についてきた。

 

 理央は肩の力を抜き、もう一度、端から丁寧にほぐし始めた。

 

 木の棒を置いても、水はしばらく回っていた。

 

 その中を、細い繊維がゆっくり動く。

 

 理央は桶へ顔を近づけた。

 

 塊を追っていた目が、いくつもの細い筋を追うようになっていた。

 

 1つが離れて浮き上がり、その向こうで別の繊維が光を受ける。

 

 水面が落ち着くと、底まで続く白っぽい広がりが見えた。

 

「これですよ! これが欲しかったんです!」

 

 声を上げてから、理央は澪を見た。

 

 澪も桶を覗き込み、笑っていた。

 

「工房で見た、紙漉きの前の材料に近いですね」

 

「はい。あの水槽、こうなってました」

 

 理央は両手を水から上げた。

 

 指の間へ残ったものを桶へ戻し、澪から渡された布で手を包む。

 

 水を吸った布の重さに気づいて、ようやく長く立っていた足を動かした。

 

 窓の光は、朝に札を書いたところよりずっと横へ移っている。

 

 澪が、未処理の竹と午前中の膜を出した。

 

 理央は桶の水を飛ばさないように、卓の端へ場所を空けた。

 

 硬い竹片が、小さな音を立てる。

 

 その横へ置かれた透明な膜には、向こうの窓枠が透けて見えた。

 

 理央は桶へ目を戻した。

 

「同じ竹から、全然違うものができるんですね」

 

 膜になった方は、ほとんど手を濡らさずにできた。

 

 こちらは、指を動かし、叩いて、何度も水へ戻した。

 

 早くできた方が、紙には遠かった。

 

 理央は2つの出来上がりを見渡し、桶へ片手を添えた。

 

「膜の方も、なくさないでくださいね」

 

「はい。こちらは、水を含んだまま残しましょう」

 

 澪は膜と、分離した色の濃いものをそれぞれ別に収めた。

 

 繊維の入った桶は卓に残り、理央の手が動くたび、水面が小さく揺れた。

 

「これで、紙を……」

 

 言いかけて、桶を見る。

 

 水の中には繊維があるだけで、まだ持ち上げられる1枚はなかった。

 

 工房で枠を持った時には、その後の水を抜く仕事も、乾かす場所も用意されていた。

 

「明日ですね」

 

「ええ。紙になるところまで、確かめましょう」

 

 澪がうなずいた。

 

 理央はノートの続きへ『漉く』と書いた。

 

 その1語が、朝よりずっと近い作業に思えた。

 

 

 

 真壁が見に来た時には、卓の上に乾いたところが増えていた。

 

 使い終えた皿は脇へ寄せ、理央はノートの下へ新しい布を敷いている。

 

 真壁は桶へ目を落とし、少し身をかがめた。

 

「こちらが、本来の目的だったものだね」

 

「はい。まだ硬い部分もありますけど、ほぐれた方は水に広がるようになりました」

 

 理央が棒をそっと動かすと、細い繊維がゆっくり浮いた。

 

 真壁は水中を見てから、未処理の竹の方へ目を移した。

 

「明日には、紙が見られるのかね」

 

「はい。これを漉いてみます」

 

「それは楽しみだ。写本工房へ持っていけるものになるとよいね」

 

 真壁は身を起こし、理央へ卓の場所を空けた。

 

 澪が桶の中身を、水分を保ったまま《収納》へ収めた。

 

 理央も道具をまとめ、台を拭こうとしたところへ、廊下から声が届いた。

 

「戻ったニャ」

 

 ニャニャミが帳面を抱えて入ってきた。

 

 白い耳を立て、金色の目で真壁を見つけると、まっすぐ隣の事務机へ向かう。

 

「5人とも戻ったニャ。土砂はそれぞれ、自分の《収納》に入れてあるニャ」

 

「ご苦労だったね、ニャニャミ君」

 

 真壁が机を空けるより早く、ニャニャミは帳面を開こうとしていた。

 

 理央も布を置き、そばへ寄る。

 

 ページには5人の名と、回収した量が並んでいた。

 

 数字はそろっていない。

 

「ほう」

 

 真壁の目が、最初の行から次へ動いた。

 

 ニャニャミは、その反応を待っていたように身を乗り出す。

 

「ちゃんと集めたニャ。みんな、自分で入れたニャ」

 

「この量を、5人でかね」

 

「それぞれ違うニャ。でも、誰も手ぶらじゃないニャ」

 

 白い尾の先が、ゆっくり上がった。

 

 理央は数字を見直した。

 

 差はあるが、5人の名の横がどこも埋まっている。

 

 教わった《収納》が、もう土砂を集める仕事に使われていた。

 

「皆、働いてくれたようだね」

 

「そうニャ」

 

 ニャニャミはうなずいた。

 

 真壁がページを戻すと、待ちきれずにもう一言足す。

 

「私が連れていったニャ」

 

「うむ。よくやってくれた、ニャニャミ君」

 

 その言葉で、帳面を押さえていた手がようやく緩んだ。

 

 理央が見ているのに気づき、ニャニャミは少し顎を上げる。

 

 何でもなさそうな顔をしていたが、尾はまだ上がっていた。

 

「土を整えるのは、まだニャ。次は、畑にするニャ」

 

「まず選別して、農地を作るところからだね。そちらも進めよう」

 

 真壁が帳面を返すと、ニャニャミは両手で受け取った。

 

 廊下では荷車の音が途切れ、遠くで仕事を終えた者たちの声がしていた。

 

 理央たちが桶を囲んでいる間に、竹を育てるための土も集まっている。

 

 その土から竹が育ち、ここへ届くところを、理央は思い浮かべた。

 

「こちらも、試作の分は確保できました」

 

 澪が片付けた卓を示すと、ニャニャミは理央へ顔を向けた。

 

「紙はできたかニャ?」

 

「材料までです。紙にするのは、明日」

 

 理央が答えると、ニャニャミは抱え直した帳面の上へ顎を引いた。

 

「じゃあ、明日また見に来るニャ」

 

 ニャニャミが廊下へ出ると、理央は離しておいた雷の原案を取った。

 

 水滴も、竹の欠片も付いていない。

 

 雲の下には短い文が並び、端にはレイニャの歌を書き足す余白が残っている。

 

 指で雲の輪郭をなぞった。

 

 教室の書字板では消えてしまった絵が、明日、この竹の紙に残せるかもしれない。

 

「それを、一番に写してもらうんですね」

 

 空の桶を持った澪が言った。

 

「はい。リオが、小さい子にも読んであげたいって言ってたから」

 

 理央は原案を持ち上げた。

 

 薄い紙の端が揺れる。

 

 リオが本を開き、小さい子たちがその雲を覗き込むところを思い浮かべると、まだできてもいない1冊を、自分まで早く読みたくなった。

 

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