竹の切れ端が卓へ落ち、乾いた音を立てた。
澪は続けて数本を《収納》から取り出し、節のあるものを脇へ寄せた。
箱の板にするには短すぎるものばかりだが、表面は硬く、指で押してもへこまない。
理央はその1本を持ち、切り口を光へ向けた。
縦に走る筋が、端で細かく重なっている。
工房で手に載せてもらった繊維も、もとはこういう竹だった。
「これは、両方に使えますか?」
「はい。その束は同じ時に切ったものです。まず、似たところを組にしてそろえましょう」
澪が《収納》の中で分けて取り出した小片を、理央は左右の皿へ配った。
長さと厚みを見比べ、できるだけ似ているものを1つずつ置く。
左の札には『繊維を残す』。
右には『溶かして薄くする』と書いた。
澪は比べる分だけを残し、余った竹を《収納》へ戻した。
靄が引くと、同じ色の切れ端が卓の左右に残った。
高い窓から差す朝の光が、皿の縁へ細い影を落としている。
まだ9時を回ったばかりなのに、廊下では荷車が何度も通っていた。
車輪が遠ざかるのと入れ替わりに、真壁が戸口へ顔を出した。
「始めたようだね」
「はい。今日は同じ竹で、両方試します」
理央は右の皿を手前へ寄せた。
真壁は札を読み、向かい合う2つの皿へ目を移した。
「新人たちは、ニャニャミ君と火山へ向かったよ。今日は各自の収納に土砂を集めるところまでだ」
「5人とも、一緒に行けたんですね」
「ニャニャミ君の《転移》も上がったからね。訓練で通って登録した安全な場所へ、往復してもらう」
理央は、いつも帳簿へ顔を寄せている白いケット・シーを思い浮かべた。
今日はその後ろへ、5人がついていく。
「じゃあ、真壁さんはこっちにいられるんですね」
「うむ。何かできたら呼びたまえ」
真壁は戸を開けたまま事務机へ戻っていった。
澪が水の入った桶を足元へ寄せ、理央は工房見学のノートを卓の端へ置いた。
工房で濡れた指のまま押さえたところが、乾いて波打っている。
そのすぐ横には、まだ乾いて硬い竹があった。
理央は、工房で買った竹紙を両手で持った。
窓へ向けてたわませると、薄いところだけが明るくなる。
この厚さにそろえるまでにも、あの枠を水平に持たなければならない。
水を含んだ重さで手首が下がったことを、指が覚えていた。
「漉かないで、このくらい薄くできれば……」
つぶやきながら見本を脇へ置き、右の皿から竹片を取った。
「紙と同じにはならなくても、字を書けるものになるかもしれませんよね」
「試してみましょう。繊維を残す方は、そちらに取ってありますから」
澪も同じ皿から小片を選んだ。
理央は自分の試料を《収納》へ入れ、まず《成分分離》で、紙の繊維になる成分を取り分けようとした。
少量を皿へ出してみる。
竹の表面にあった艶はなくなり、淡い色のものが残っていた。
取り除いた側も別に出すと、色の違う小さな塊になった。
澪が取り除いた方を脇へ寄せ、理央も残した淡色の材料をもう一度《収納》へ戻した。
ここから先は、工房とは違う。
細い繊維を水へ広げる代わりに、《溶解》で形を崩し、薄く延ばして《固形化》する。
普段なら使いやすい形へまとめるところを、今日は、向こうが透けない程度の薄い1枚にしたかった。
けれど、その厚さがどのくらいなのかは、まだうまく思い描けない。
理央は収納から取り出したものを、小さな板の上へ置いた。
淡い色の、平たい欠片だった。
指を近づけてから、いったん止める。
竹だった時の形が、どこにもなかった。
「私のは、端が厚くなりました」
澪も自分の《収納》で同じ加工を進め、隣へ試料を出した。
理央のものより、いくらか厚く見える。
板を傾けると、縁に沿って光が走る。
理央も自分の板を動かした。
「こちらは、もう少し薄いかも。取ってみてもいいですか?」
「端から、ゆっくり」
爪で引っかけないよう、指の腹で縁を押した。
平たい欠片が板から浮いた。
取れた、と思った瞬間、指の下でたわむ。
理央は慌ててもう片方の手を添えた。
「……薄くは、できました」
嬉しくなって澪へ見せると、澪の視線が、試料を挟んだ指の間で止まった。
「理央ちゃん。それ、向こう側が……」
理央は首をかしげ、手の中の薄物を窓へ向けた。
白い紙のように見えていたものの向こうに、窓枠の線が現れる。
下へ添えた指まで見えていた。
端をそっと撫でる。
工房で買った竹紙のような毛羽はなく、どこもつるりとしている。
「……薄くしすぎました?」
澪は自分の試料を持ち上げた。
厚いところは白っぽいが、薄い縁ではやはり光が抜けている。
「私のも、端は透けていますね」
理央は見本の竹紙を隣へ置いた。
竹から作った。薄くもした。
そこまではいいのに、並べると、似ているところを探す方が難しかった。
「薄い紙になると思ったんですけど」
「薄いものには、なりましたよ」
「そこだけ合ってますね……」
理央が膜を持ったまま黙り込むと、澪が反対側へ回ってきた。
膜の向こうに、面白がっている目が見える。
「澪さんまで透けてます」
「私が透けているわけではないですよ」
理央は吹き出しかけ、膜を落とさないよう板へ戻した。
紙の繊維になる成分を取り分けたつもりだった。
溶かして固め直したら、その成分まで別のものに変わってしまったのだろうか。
板へ顔を寄せて考え、ふと思い出した。
「あ。《鑑定》」
膜へ向けると、理央の視界へ表示が現れた。
材質の欄を読み、形状へ目を移す。
鉛筆を取ろうとしていた手が、そこで止まった。
「何て出ました?」
「セルロースが主成分で……薄膜、って」
声に出してから、もう一度膜を見る。
ゲンダイで見慣れた、透明な包み。
あれも、もとは植物から作るものだった。
理央はしばらく口を開けたまま考え、ようやく澪へ顔を向けた。
「……あれ、セロハンができちゃった」
澪は理央の言葉を聞いてから、板の上へ視線を戻した。
「そう言われると、似ていますね」
薄い紙を作るはずが、透明な膜になった。
理央は原料の竹と膜を見比べた。
もう一度やれば同じものができるのか、今すぐ試したくなる。
先ほどまで正体が分からず首をひねっていたことを思い出し、自分で笑ってしまった。
「セル画だ……!」
ふと思いついて口にすると、澪が膜を見直した。
「透明なところは似ていますね」
理央も、絵を描いた透明なシートを重ねるところを思い浮かべた。
これへ絵を描いて、下へ別の絵を置いたら。
そこで、教室の本棚が浮かんだ。
全部のページが透ける本を、リオに渡すところまで考えてしまう。
後ろの文字も、その後ろの文字も見えそうだった。
「……本にするには、ちょっと違いますね」
「字が書けるかも、まだ試していませんしね」
澪が板の上で膜の端をそろえると、理央もまた触れたくなった。
全部のページが透ける本は困る。
それでも、竹からこんなものが出てくるなんて、机で製法を調べていた時には考えもしなかった。
「紙じゃないですけど……面白いです」
「ほんとにセロハンと同じなのかは、まだ分かりませんけどね」
澪も笑い、理央の試料と自分の試料を並べた。
理央はノートの『セロハン』の横へ、小さく『みたいなもの』と足した。
取り出す前には紙のつもりだったものが、今は窓の光を返している。
竹片だった朝には、想像もしなかった眺めだった。
「何やら、面白いものができたようだね」
声に顔を上げると、真壁が戸口に立っていた。
理央は板を持ち、膜が滑らないよう水平のまま差し出した。
「薄く固めたら、こんなふうになりました」
真壁は理央から板を受け取ると、膜の端をつまんだ。
下から添えた指を見て、そのまま卓の竹箱へ向かう。
「ほう。中身の見える包みに使えるかもしれんね」
蓋をずらし、開いたところへ膜を重ねた。
箱の中の竹片が見えている。
少し位置を直し、箱を傾けて眺め、今度は膜の端から蓋までの幅を目で測った。
「真壁さん、紙ですよ! 紙!」
「承知しているよ、理央君」
返事はすぐだった。
目は箱から上がらなかった。
「細工物など、開けずに見せられればよいね」
「それ、紙の話じゃないですよね?」
「同じ竹からできたのだろう」
「竹の話に戻さないでください」
澪がこらえきれずに笑った。
理央も笑いながら、箱の前へ手を出す。
「まず、私の本を作らせてください」
「もちろんだとも。こちらは、後で調べよう」
真壁は膜を外したが、最後にもう一度、蓋の開いている箱を見た。
次に顔を上げた時には、もう別の品物を入れるつもりなのではないかと、理央には思えた。
澪が差し出された膜を板へ戻し、理央の分と一緒に受け取った。
「では、こちらは私が取っておきます。今のうちに、残した竹を使いましょう」
真壁は理央の手が戻った先を見た。
『繊維を残す』と書いた札の下には、まだ硬い端材があった。
「次は、こちらだね」
理央はその端材へ指を置いた。
「はい。今度は、紙になる方を」
「楽しみにしているよ」
真壁が事務机へ戻ると、廊下で止まっていた荷車がまた動き始めた。
澪が膜を《収納》へ収めるのを見届けてから、理央は次の竹へ手を伸ばした。
皿へ残った竹を手に取ると、指へ硬い角が当たった。
理央はさっきまで持っていた膜の軽さを思い出し、端材を少し曲げようとした。
力を入れても、ほとんど動かない。
「同じ束から取ったのに、もう別物みたいですね」
「こちらも全部溶かしていたら、比べるものがなくなるところでした」
澪が未処理の見本を卓の端へ置いた。
理央は工房で買った竹紙を、その隣へ戻す。
硬い竹と、指でたわむ紙。
透明な膜は、その2つの間を通らずに、別の方へ行ってしまったようだった。
理央はその竹を縦に持ち、切り口から続く筋をたどった。
前と同じように成分を取り分けても、その後で全部溶かしてしまえば、また膜になるかもしれない。
「今度は、筋を残すんですね」
「はい。分けた後、どれくらいほぐれるか見てみましょう」
澪は竹の側面を撫で、指を縦に滑らせた。
理央も真似をすると、先ほど見えた筋が指先へ伝わった。
「あの、工房で触ったみたいになればいいんですけど」
「最初から同じにはならないかもしれませんね。こちらの竹の方が硬いですし」
澪は節のある小片と、節を避けた小片を、離して置いた。
理央は桶を寄せ、早く次へ進もうと腰を浮かせた。
そこで、腹が鳴った。
手が止まる。
澪が顔を上げ、廊下の方を見た。
どこかで食器が重なり、温かい食事の匂いが戸口まで届いている。
「……先に、お昼にしましょうか」
「まだ午前のつもりでした」
理央が時刻を確かめると、もう正午に近かった。
膜を持ち上げていた時には、時計のことなど考えもしなかった。
2人で試料を覆い、水のかからないところへノートを移した。
澪が戸口で待っているのに、理央はまだ竹を見ていた。
「今度こそ、柔らかくしたいです」
「私もです。続きは、食べてから」
返事をした拍子に、腹がもう一度鳴った。
理央は竹から手を離し、澪の後を追った。
昼食から戻ると、高窓の光が卓の反対側へ移っていた。
理央は覆いを外し、まだ硬い竹片を澪へ渡した。
澪が選んだ竹片を《収納》へ取り込む。
今回は《溶解》を使わず、《成分分離》で、リグニンなどの硬さに関わる成分を取り除く。
澪はその後、材料を水へ浸した状態にして、収納内の時間を進めた。
「漬けておくところは、中で待たせられますね」
「工房では、ここにずいぶん時間をかけてましたもんね」
成分を分ける操作と、その後に水をなじませる時間は別だった。
澪が外へ出して様子を見、まだ芯まで水が回っていなければ、収納へ戻して中の時間を進める。
理央も自分の分を同じように水へ浸し、収納内で時間を経過させてから取り出した。
室内の時計は、ほとんど進んでいない。
けれど手に取った竹は水を含み、朝のような乾いた艶は失われていた。
「変わりましたね」
理央は待ちきれずに両端をつまんだ。
切り口は細かくささくれているのに、曲げようとすると、指が押し返される。
「……まだ、硬い」
澪は自分の竹を水へ入れ、縦の筋へ親指を沿わせた。
端が少しほつれたが、節のところへ届くと止まった。
「ここだけ、ついてきませんね」
理央も節から離れた端を押すと、そこでは細い筋が浮いた。
同じ竹片でも、すべてが同じ硬さではない。
けれど、ほつれた端を支えて持ち上げれば、まだ塊のままだった。
工房の材料は、指でつまんだだけで柔らかくついてきたのに。
理央はもう一度力を入れかけ、竹の角が指へ食い込む手前で緩めた。
「もう少し、分けてみますか?」
言ってから、午前の透明な膜が頭をよぎった。
膜には、なってくれた。
それなら、繊維だってもう少し簡単に出てきてもよさそうなのに。
理央は唇を結び、浮きかけた端だけを指の腹で撫でた。
澪は竹をいったん皿へ戻した。
「その前に、節のある方とない方を、別々に比べましょう。同じ処理で、どちらも同じになるとは限りませんから」
澪が同じように水を含ませた未処理の竹を寄せた。
こちらには、ほつれる気配もない。
処理した竹の端だけが、爪を使わずに持ち上がった。
「何も変わってないわけじゃ、ないんですね」
「ええ。ここが一番ほぐれています」
澪の指が止まったのは、節から離れたところだった。
澪が未処理の原料を《収納》へ戻し、分類し直した。
次に卓へ出てきたのは、縦の筋がそろった小片だった。
節に近い部分と硬い表皮の残るものは、今度は混ぜずに脇へ置く。
理央は先ほどの試料と見比べ、筋を遮っていた節の部分がないことを確かめた。
「ここなら、ずっとまっすぐですね」
「はい。柔らかくなったのと似た部分を探しました」
澪は似た小片を取り分け、半分を理央へ渡した。
「こちらをお願いできますか。私はさっきと同じ分け方でやってみます」
「じゃあ私は、分離をもう少し進めてみます」
理央は竹片の側面を指でなぞってから、《収納》へ収めた。
この長い筋を、残したい。
全部を均一なものへ戻すのではなく、筋の間をほぐしやすくしたかった。
《成分分離》で取り除く成分と量を調整した。
澪は先ほどと同じ分け方を試している。
2人とも、水になじませる処理には収納内時間を使い、途中で出して状態を見た。
中の時間を進めても、節まで同じ柔らかさになったわけではない。
今度は節を避けた材料と、分離の進め方の違いを見る。
理央は水を切り、細い竹片を取り出した。
皿に落ちたものは、竹の色をいくらか残していた。
午前の材料ほど均一には見えず、縦の筋が表面へ細く浮いている。
理央は筋に沿って、端へ指を入れた。
曲がった。
もう片方の手で支えると、そこから細い束がゆっくり開いていく。
「あ、澪さん。見てください」
理央は手を止め、そのまま差し出した。
澪の作ったものも、節のある試料よりは曲げやすくなっていた。
ただ、理央の方は、分離を進めた分だけ長い束が離れかけている。
「つながったまま、取れそうです」
嬉しくて少し引くと、途中の筋が張った。
「そこは切れそうです」
澪に言われ、理央は指を緩める。
浮いた束が、柔らかく元の材料へ沿った。
「……溶かさないで、ここまで来ました」
「ええ。今度は、ほぐす方へ進めそうですね」
理央は自分の皿を見た。
指で触った跡が、細い線になって残っている。
午前中の膜にはなかったものだった。
「節のところまで、同じ処理で済ませようとしてたんですね」
「全部を同じように処理しようとしていました。節の方は、もう少し別に考えないと」
澪は硬い試料を専用の皿へ寄せた。
理央も、分離で取り除いたものを別の皿へ出した。
こちらは色が濃く、繊維の束には見えない。
リグニンだけが出てきたのかどうかは、見ただけでは分からなかった。
澪が分け方の違いだけをノートへ残す間に、理央は次に使う束を手元へ寄せた。
まだ硬い節の試料と、ほぐれかけた束。
どちらを先に水へ入れたいかは、もう迷わなかった。
澪が温かい水を用意し、理央はほぐれかけた束の入った皿を持ち上げた。
桶へ指を入れると、冷えていた手に水の温かさが伝わった。
理央は繊維の束を沈め、指を離した。
少し揺れた後で、束はそのまま桶の底へ落ち着く。
水へ入れただけで、ふわりと広がるわけではなかった。
理央は束の端を指で突いた。
ひとかたまりのまま底を滑り、また同じところへ戻ってくる。
さっきはほぐれそうだったのに、と手を入れ直した。
「まだ、まとまってますね」
「工房では、ここを根気よく叩いていましたね」
澪が木の棒を取り、桶の底で束を軽く押した。
理央は反対側から支え、縦の筋に沿って指を滑らせる。
水を含んだ材料が、指の下でぬるりと動いた。
端は開きかけるのに、真ん中はまだ固くまとまっている。
強く引けば、そこから切れそうだった。
理央はいったん手を止め、束を持ち替えた。
工房の案内人が濡れた繊維を指へ載せてくれた時には、力を入れなくても細いものがついてきた。
引く代わりに、ほぐれかけた端を小さく揉んだ。
すぐに開かなくても、いったん水を含ませ、指の位置をずらしてまた押す。
工房で見た手つきを、今度は自分の手でたどってみる。
少しずつ、指が深く入るようになった。
澪も、棒で押す方向を変えている。
桶の水面に細い筋が走り、窓の光がばらばらになった。
廊下の足音が、いつの間にか気にならなくなっていた。
代わりに、木の棒が桶の底へ当たる音が近く聞こえる。
水が手首から袖へ伝ってきて、理央は片手ずつ拭き、袖口をもう少し上へ折った。
桶のそばには薄い湯気が残り、濡れた竹の匂いが漂っている。
乾いた端材を並べていた朝とは、作業場の空気まで変わっていた。
澪も同じように腕をまくっている。
朝には何も付いていなかった卓に、水滴と小さな繊維が散っていた。
まだ硬い部分を取り上げて板へ置き、木の道具で軽く叩く。
こつ、と鳴った最初の一打の後で、湿った音が続いた。
理央は広がった材料を水へ戻し、指で押し分けた。
先ほど引っ張っても離れなかったところへ、水が入り込む。
指の間で何かがほどけた。
さっきまで1つだった束の端が、何本もの細い筋に分かれている。
「……あ、これ」
指へ載せ、そっと離そうとする。
細い繊維がまとわりつき、指と指の間へ柔らかくついてきた。
「あの時の感触に近いです!」
澪が棒を置き、同じところへ指を添えた。
「本当ですね。最初の竹とは、もう違います」
理央は思わず束を持ち上げかけた。
細い繊維が水からついてきたので、今度は切らないよう、両手ごとそっと戻す。
さっきまで待ちきれなかったのに、その部分だけは急ぎたくなかった。
「ここまで来たら、もう少し」
「ええ。硬いところは分けて、柔らかい方を先に進めましょう」
澪が隣へ水の入った小さな桶を寄せた。
理央はほぐれた部分をそちらへ移し、残った束へ指を戻した。
水の中を漂った細いものが、手首へ触れて通り過ぎる。
さっきは指を押し返していた竹が、今は自分の動かす水についてきた。
理央は肩の力を抜き、もう一度、端から丁寧にほぐし始めた。
木の棒を置いても、水はしばらく回っていた。
その中を、細い繊維がゆっくり動く。
理央は桶へ顔を近づけた。
塊を追っていた目が、いくつもの細い筋を追うようになっていた。
1つが離れて浮き上がり、その向こうで別の繊維が光を受ける。
水面が落ち着くと、底まで続く白っぽい広がりが見えた。
「これですよ! これが欲しかったんです!」
声を上げてから、理央は澪を見た。
澪も桶を覗き込み、笑っていた。
「工房で見た、紙漉きの前の材料に近いですね」
「はい。あの水槽、こうなってました」
理央は両手を水から上げた。
指の間へ残ったものを桶へ戻し、澪から渡された布で手を包む。
水を吸った布の重さに気づいて、ようやく長く立っていた足を動かした。
窓の光は、朝に札を書いたところよりずっと横へ移っている。
澪が、未処理の竹と午前中の膜を出した。
理央は桶の水を飛ばさないように、卓の端へ場所を空けた。
硬い竹片が、小さな音を立てる。
その横へ置かれた透明な膜には、向こうの窓枠が透けて見えた。
理央は桶へ目を戻した。
「同じ竹から、全然違うものができるんですね」
膜になった方は、ほとんど手を濡らさずにできた。
こちらは、指を動かし、叩いて、何度も水へ戻した。
早くできた方が、紙には遠かった。
理央は2つの出来上がりを見渡し、桶へ片手を添えた。
「膜の方も、なくさないでくださいね」
「はい。こちらは、水を含んだまま残しましょう」
澪は膜と、分離した色の濃いものをそれぞれ別に収めた。
繊維の入った桶は卓に残り、理央の手が動くたび、水面が小さく揺れた。
「これで、紙を……」
言いかけて、桶を見る。
水の中には繊維があるだけで、まだ持ち上げられる1枚はなかった。
工房で枠を持った時には、その後の水を抜く仕事も、乾かす場所も用意されていた。
「明日ですね」
「ええ。紙になるところまで、確かめましょう」
澪がうなずいた。
理央はノートの続きへ『漉く』と書いた。
その1語が、朝よりずっと近い作業に思えた。
真壁が見に来た時には、卓の上に乾いたところが増えていた。
使い終えた皿は脇へ寄せ、理央はノートの下へ新しい布を敷いている。
真壁は桶へ目を落とし、少し身をかがめた。
「こちらが、本来の目的だったものだね」
「はい。まだ硬い部分もありますけど、ほぐれた方は水に広がるようになりました」
理央が棒をそっと動かすと、細い繊維がゆっくり浮いた。
真壁は水中を見てから、未処理の竹の方へ目を移した。
「明日には、紙が見られるのかね」
「はい。これを漉いてみます」
「それは楽しみだ。写本工房へ持っていけるものになるとよいね」
真壁は身を起こし、理央へ卓の場所を空けた。
澪が桶の中身を、水分を保ったまま《収納》へ収めた。
理央も道具をまとめ、台を拭こうとしたところへ、廊下から声が届いた。
「戻ったニャ」
ニャニャミが帳面を抱えて入ってきた。
白い耳を立て、金色の目で真壁を見つけると、まっすぐ隣の事務机へ向かう。
「5人とも戻ったニャ。土砂はそれぞれ、自分の《収納》に入れてあるニャ」
「ご苦労だったね、ニャニャミ君」
真壁が机を空けるより早く、ニャニャミは帳面を開こうとしていた。
理央も布を置き、そばへ寄る。
ページには5人の名と、回収した量が並んでいた。
数字はそろっていない。
「ほう」
真壁の目が、最初の行から次へ動いた。
ニャニャミは、その反応を待っていたように身を乗り出す。
「ちゃんと集めたニャ。みんな、自分で入れたニャ」
「この量を、5人でかね」
「それぞれ違うニャ。でも、誰も手ぶらじゃないニャ」
白い尾の先が、ゆっくり上がった。
理央は数字を見直した。
差はあるが、5人の名の横がどこも埋まっている。
教わった《収納》が、もう土砂を集める仕事に使われていた。
「皆、働いてくれたようだね」
「そうニャ」
ニャニャミはうなずいた。
真壁がページを戻すと、待ちきれずにもう一言足す。
「私が連れていったニャ」
「うむ。よくやってくれた、ニャニャミ君」
その言葉で、帳面を押さえていた手がようやく緩んだ。
理央が見ているのに気づき、ニャニャミは少し顎を上げる。
何でもなさそうな顔をしていたが、尾はまだ上がっていた。
「土を整えるのは、まだニャ。次は、畑にするニャ」
「まず選別して、農地を作るところからだね。そちらも進めよう」
真壁が帳面を返すと、ニャニャミは両手で受け取った。
廊下では荷車の音が途切れ、遠くで仕事を終えた者たちの声がしていた。
理央たちが桶を囲んでいる間に、竹を育てるための土も集まっている。
その土から竹が育ち、ここへ届くところを、理央は思い浮かべた。
「こちらも、試作の分は確保できました」
澪が片付けた卓を示すと、ニャニャミは理央へ顔を向けた。
「紙はできたかニャ?」
「材料までです。紙にするのは、明日」
理央が答えると、ニャニャミは抱え直した帳面の上へ顎を引いた。
「じゃあ、明日また見に来るニャ」
ニャニャミが廊下へ出ると、理央は離しておいた雷の原案を取った。
水滴も、竹の欠片も付いていない。
雲の下には短い文が並び、端にはレイニャの歌を書き足す余白が残っている。
指で雲の輪郭をなぞった。
教室の書字板では消えてしまった絵が、明日、この竹の紙に残せるかもしれない。
「それを、一番に写してもらうんですね」
空の桶を持った澪が言った。
「はい。リオが、小さい子にも読んであげたいって言ってたから」
理央は原案を持ち上げた。
薄い紙の端が揺れる。
リオが本を開き、小さい子たちがその雲を覗き込むところを思い浮かべると、まだできてもいない1冊を、自分まで早く読みたくなった。