桶が空だった。
理央は縁を両手でつかみ、底まで覗き込んだ。
昨日あれほど苦労してほぐした繊維が、1本も浮いていない。
「ない……!」
「私のところにありますよ」
背後から声がして、理央は振り返った。
戸口に澪が立っている。
その顔を見たところで、昨日の片付けを思い出した。
水を含んだまま、澪が《収納》へ収めてくれたのだった。
「……ありましたね」
「まだ出していません」
澪は笑いながら袖をまくった。
理央も手を離し、照れ隠しに卓の布を直す。
桶の底には、乾いた繊維の細い筋が残っていた。
それを見たら、急に昨日の木の棒の感触まで手首へ戻ってくる。
「今日は、これを紙にするんです」
「はい。私も楽しみです」
澪が《収納》から昨日の繊維を出すと、水の中へ白っぽい塊が広がった。
理央は用意してあった漉き枠を持ち上げた。
現地で手に入る木材に細かな網を張った、簡単なものだ。
工房で使った枠より、縁の手触りが新しい。
指の位置を決めて、水槽の方へ身を寄せる。
「澪さん、早く始めましょう」
「その前に、そこを通してもらえますか」
「え?」
「繊維を入れる桶が、通れません」
理央は自分が水槽の前をふさいでいることに気づき、慌てて脇へ寄った。
澪が繊維を水へ散らし、固まっているところを軽くほぐす。
水を足すと、底へ沈んでいた細い筋が揺れ、薄く広がった。
廊下では、朝の荷を下ろす声がしていた。
木の床を車輪が転がり、作業室の戸が小さく震える。
今日も商会の仕事は始まっている。
理央は卓の端を見た。
雷の原案を、そこへ置いてある。
昨日できた透明膜の見本は、離れたところに収めてあった。
今日は、向こうの文字が透けない紙を作る。
理央は枠の左右を握り直し、水の中へ沈めた。
底から持ち上げると、思ったより重かった。
理央は右手へ力を入れ、傾きかけた枠を戻した。
今度は反対側が下がる。
白い繊維が左へ寄り、右の網が薄く透けて見えた。
「……寄りました」
「もう一度、水へ戻しましょう」
澪が向かい側から手を添えてくれた。
沈めると、枠に載っていた繊維がほどけて水へ離れる。
理央は息をつき、自分の手首を見た。
工房でも傾けたのに、今日はうまくできそうな気がしていた。
昨日、自分たちで繊維を作れたからだろうか。
材料が自分のものになっても、枠が勝手に水平になるわけではなかった。
「なんであの人、あんなに簡単そうに持ってたんでしょう」
「何年もやっているからでしょうね」
澪が木の縁へ指をずらす。
「理央ちゃん、今度はそっちが下がっています」
「今、私の手が原因だって分かりました……」
理央は枠だけを見ず、水面と縁の間も見た。
澪が向かいでうなずく。
2人でゆっくり引き上げた。
網の下から水が流れ落ち、細い筋になって水槽へ戻っていく。
その上に、淡い竹色の層が残っていた。
端から端まで、今度は繊維がつながっている。
理央は口を開きかけ、そのまま息を止めた。
今、喜んで動いたら、また片側へ寄せそうだった。
澪も枠を持ったまま動かない。
水の落ちる音だけが、しばらく続いた。
「……載ってますね」
「はい。こちら、下ろしますよ」
澪の声に合わせて、理央も腕を下げた。
枠を置くと、持ち上げていた間の力が肩から抜ける。
水滴が腕を伝い、まくった袖の端で冷たく止まった。
理央は濡れた繊維の面へ顔を近づけた。
指でほぐしていた時には、ただの柔らかい塊だった。
今は、同じものが四角く集まっている。
「これを、破らずに移すんですね」
声をひそめると、澪まで小声になった。
「まず、布を寄せましょうか」
用意した布へそっと伏せ、枠を少しずつ離す。
端が網へ残りかけたので、理央はすぐに手を止めた。
澪がそこを支え直し、ようやく薄い層が布へ移った。
角の一つが、少し波打っていた。
それでも、四角いままだった。
上からもう1枚の布を重ね、掌でゆっくり押さえた。
下の布へ水が移り、繊維の濡れ色が少し薄くなる。
理央は端から順に掌をずらした。
押したところがくぼまないか、つい顔まで近づいてしまう。
「理央ちゃん、袖が」
「あっ」
慌てて肘を上げた。
せっかく移せた紙へ、自分の袖を漉き込むところだった。
理央は層の端へ指を添えかけ、途中で引っ込めた。
持ち上げるには、まだ頼りない。
澪も同じところを見ていた。
「板で支えたまま、扱いましょう」
2人で乾燥用の板へ移し、澪が板ごと《収納》へ収めた。
澪は《成分分離》で、繊維の層を崩さずに余分な水分を取り除いた。
さらに《収納》内の時間を調整し、板に載せた紙の乾燥を進める。
理央は空いた布を絞った。
水槽へ落ちる水の量を見ると、さっきまであの薄い層がどれだけ水を抱えていたか分かる。
手を拭いて戻ると、澪が板を卓へ出したところだった。
光の当たった表面は、もう濡れて光っていない。
白というより、淡い竹の色だった。
「理央ちゃん、端から」
理央は爪を立てず、浮いている角へ指の腹を差し入れた。
ひっついたところを少しずつ離していく。
持ち上がった。
理央は下へ手を添えた。
昨日も、ここまではできた。
けれど今日は、向こうへ置いた筆も、澪の指も見えない。
表面を撫でると、細かな繊維のざらつきが返ってきた。
「できました」
言ってから、急に声が大きくなった。
「澪さん、紙です! ちゃんと紙ですよ!」
「ええ。これは紙ですね」
理央が勢いよく向けたので、澪はそっと端へ手を添えた。
2人の間で、1枚の紙がたわむ。
理央が少し指を動かすと、澪の側まで小さく揺れた。
濡れた時とは違う、かさりという音がした。
いつもなら気にも留めない音だった。
理央はもう一度だけ端を曲げ、同じ音を聞いてから、澪の顔を見た。
澪も笑っていた。
窓の光へかざせば、薄い部分の繊維が見えた。
それを下ろせば、また竹色の1枚になる。
少し波打った角も、平らではない表面も、理央には目を離しがたかった。
「昨日の『セロハンみたいなもの』とは違います」
「今度は、裏の文字まで読める本にならずに済みそうです」
澪が笑った。
理央も笑って、そっと卓へ置く。
紙を買ってきて置く時とは、手つきが違っていた。
その後、残った繊維でも続けて数枚を漉いた。
枠を持つ位置を少し直すと、今度はさっきより厚みがそろった。
乾いた紙を並べ、理央は雷の原案を手前へ引いた。
これなら、書ける。
筆記具へ伸びる手は、もう止まらなかった。
最初の1枚を正面へ置き、理央は筆先へインクを含ませた。
原案の題名から、まず『雷』を書いてみる。
この世界の文字で、子どもたちが読める形に。
最初の線は、きれいに出た。
続けて次の線を引いたところで、最初の線の縁が、じわりと太くなった。
「えっ」
筆を止めた。
止まらなかったのは、紙の上の黒だった。
細い筋を伝い、左右へ滲み出している。
理央は紙へ顔を近づけ、それから少し離れた。
角度を変えて見ても、線は元へ戻らない。
「乾いたら、止まりますか?」
「……そこで止まってくれるといいんですけど」
澪も隣へ来て、同じ黒い縁を見ていた。
止まってほしいところは、もう越えている。
線と線の間が狭くなり、つながり、理央が書いた文字は、丸い黒へ変わっていった。
澪の口元が動いた。
「今、笑いませんでした?」
「いえ、その……」
澪の視線が紙から外れる。
理央ももう一度見て、肩を落とした。
「雷が、雷雲になりました」
今度は自分でも笑ってしまった。
黒い塊の端が、ちょうど雲のようにぼやけている。
「絵本には似合いそうですけど、文字は読めませんね」
「そこを褒めないでください!」
理央は筆を置き、できたばかりの紙を見下ろした。
捨てたくないのに、リオへ渡しても、この字を読んでもらうことはできない。
澪は空いた端へ短い線を引いた。
やはり、黒が外へ広がっていく。
「紙が、インクを吸いすぎるんですね」
「乾燥は、できてるんですよね?」
「はい。表面の仕上げが要るんだと思います」
澪は見学のノートを開いた。
理央が横から覗くと、紙に書くために調べた言葉が残っている。
膠。ゼラチン。にじみ止め。
繊維を作るところばかり気になって、後へ回していたものだった。
「ゼラチンって、商会にありますか?」
「真壁さんに聞いてみましょう」
理央はにじんだ紙を、端だけ持って立ち上がった。
乾いたら、この雷雲も残る。
最初の紙を、失敗したからとすぐに脇へ放ることはできなかった。
「紙はできました」
理央が差し出したものを見て、真壁のペンが止まった。
「ほう。こちらは、絵かね」
「字です」
真壁は紙を取り、明るい方へ向けた。
黒い塊のそばに、澪が引いた短い線も滲んでいる。
「紙の形にはなったけれど、書く方はこれからというわけだね」
「表面に、にじみ止めを塗りたいんです。膠か、ゼラチンのようなものはありませんか」
澪が尋ねると、真壁は紙を机へ置いた。
「ゼラチンなら、あるとも」
《収納》から出てきた容器には、透き通った薄片が入っていた。
理央は顔を寄せた。
知らない名前の異世界の薬を、これから探すことになると思っていた。
「あるんですね! これ、どこで買ったんですか?」
「買ったものではないよ。ゴブリンから取り出したのだ」
伸ばしかけた手が止まった。
真壁は蓋を開け、容器を理央の方へ寄せた。
理央の手は、さらに遠ざかった。
「……ゴブリンって、あのゴブリンですか?」
「うむ。以前は死骸をそのまま肥料へ回していたがね。使える成分は、その前に分けることにした」
真壁は、机へ残った薄片を容器の中へ戻した。
「ヴァルト君にも手伝ってもらった。残ったものは、これまでどおり肥料にしている」
理央は透明な薄片を見た。
どこにも、ゴブリンらしいところはない。
それなのに、名前を聞く前と同じようには見られなかった。
2本の脚で立ち、腕と顔がある、あの姿が浮かぶ。
「安心したまえ。純度100%のゼラチンだ」
「純度の問題じゃないんですけど!」
理央が声を上げると、澪も容器を見たまま口を開いた。
「それを、子どもが読む本の紙に塗るんですよね……」
「紙に使うなら、なおさら良い材料だと思うが」
「だって、人間みたいに手も顔もあるじゃないですか」
真壁の視線が、薄片から理央へ移った。
今度は容器を勧めず、机の上へ置く。
「ふむ。では、埋めて弔えというのかい?」
「えっ……いえ、そこまでは……」
理央は言葉を探し、澪を見た。
澪も、すぐには答えなかった。
廊下から、箱を下ろす声が聞こえる。
いつもの商会の、いつもの昼前だった。
机の上に並ぶものも、ただの紙と、透き通った材料にしか見えない。
「この世界には、魔物を討たねば暮らせぬ者がいる。人を襲い、畑を荒らすものもいるからね」
真壁は、にじんだ紙の端を押さえた。
「討伐したものを肥料として土へ返す。その前に使えるものを取り出すのが、そんなにおかしいかね」
「肥料にするのは、知ってます」
澪が小さく答えた。
「ただ、この容器に入っていると……」
言い切れなかった先は、理央にも分かった。
土へ返ると聞くのと、自分の手で紙へ塗るのとでは、思い浮かぶものが違った。
「人に似ているものだけ弔い、獣に似ているものなら使ってよい、という話でもあるまい」
真壁の声は穏やかだった。
理央は、自分の手を見た。
この薄片が、何か別の獣から取れたものだと聞いていたら、さっきのまま手を伸ばしていたと思う。
それでも、容器を見直すと指が止まる。
「……言ってることは分かるんです。でも、気持ち悪いものは気持ち悪いんです」
「うむ。理屈で感情まで消えるわけではないからね」
真壁は容器の蓋を閉じ、机の手前へ置いた。
理央はその横の紙へ目を移した。
最初にできた1枚。
読めるはずだった字は、黒い雲になっている。
澪が、しばらく容器を眺めてから手を伸ばした。
「……じゃあ、理央ちゃん。紙、仕上げましょうか」
「はい」
理央も紙を持った。
容器は、澪にお願いした。
真壁がそれを見て、口を開く。
「ちなみに、ゼラチンの純度は――」
「だから、もう純度の話はいいです!」
作業室へ戻り、ゼラチンを温水に溶いた。
透き通っていた薄片が柔らかくなり、混ぜるうちに輪郭を失っていく。
器を傾けると、薄い液が底を流れた。
澪が器を卓へ置き、紙へ塗る道具を取る。
理央はその手を見守った。
澪の手が止まった。
2人の目が合った。
「……先にどうぞ」
「理央ちゃんもですか」
理央はうなずいた。
使うと決めたのに、いざ塗るとなると、身体の方が少し遅れる。
「ちゃんと分かってるんですけど……」
「私もです」
澪は困ったように笑い、器の縁で余分な液を落とした。
「紙には、罪がありませんからね」
最初の一塗りで、竹色の紙が少し濃くなった。
理央は自分の道具も液へ入れた。
澪が塗ったところへ続けて、薄く広げていく。
塗りすぎないよう、理央も縁で液を落としてから戻した。
紙の表面へ光が乗る。
手の動きを追っている間は、容器の出所を考えずにいられた。
塗った紙は板で支え、澪の《収納》へ収めた。
澪が中の時間を調整して乾燥させ、再び板を取り出すと、濡れて濃くなっていた面が淡い竹色に戻っていた。
理央は、先ほどと同じインクを筆へ含ませた。
同じ字を、今度は別の紙へ書く。
書き終えても、顔を上げられなかった。
線の縁を見ていた。
まだ、そこにある。
黒が外へ走っていかない。
「……にじまない」
「ほんとですね」
澪が失敗した紙を隣へ寄せた。
黒い雲と、読める文字。
理央は両方を見てから、閉めてある容器へちらりと目をやった。
「……悔しいくらい、いい紙になりました」
「喜んでいいところなのに、複雑ですね」
澪も紙を撫で、ため息のように笑った。
材料の出所を思い出しても、いま書いた字は滲まない。
理央は口元を緩めたまま、残りの紙を手前へ引いた。
これなら、リオにも読んでもらえる。
そう思うと、次の1枚へ塗る手は、最初より少し早く動いた。
昼食を挟み、加工した紙を出す頃には、作業室の水音も少なくなっていた。
理央は乾いた『雷』の字を眺め、それからインク壺を見た。
黒い液の残りが、底の方で光っている。
工房の職人も、紙とインクはどちらにも要る、と言っていた。
1枚ずつ写す《転写》でも、1冊をまとめて写す《写本》でも、使った分は減っていく。
「紙だけ安くなっても、インクが高いままじゃ困りますよね」
理央が壺を傾けると、澪も顔を寄せた。
「こちらも作れたら、いいですね」
澪は手を止め、昨日の分離で残した暗い色の塊を《収納》から出した。
「これ、まだありますよ」
竹色の紙の隣へ置くと、塊はますます濃く見えた。
けれど、インク壺の黒い艶とは違う。
光が当たっても鈍い、黒褐色だった。
理央は指で端へ触れた。
少し崩れたものが、爪の際へ残る。
「これがそのままインクになったら、楽なんですけど」
言ってから、昨日の透明膜と、今日の雷雲を思い出した。
黒いだけで喜ぶのは、まだ早い気がする。
「《鑑定》」
理央の視界へ、材料の情報が現れた。
成分のところを目で追い、澪へ顔を向ける。
「リグニン系の成分が入っています。ほかの植物由来の成分も、少し」
「やっぱり、全部同じものではなかったんですね」
澪が塊を見直した。
理央は、暗い色のところをもう一度見た。
「炭にしたら、黒い顔料にできませんか」
「真壁さんなら、そちらも詳しいかもしれません」
真壁の机まで見せに行くと、彼は手元の書類を脇へ寄せた。
理央が、鑑定で分かった成分を伝える。
「ほう。紙を作る時に分けたものかね」
「はい。昨日は取っておいただけなんですけど」
「昨日は紙にならぬと困っていたものが、今日はインクの材料かね。捨てずにおいて正解だったな」
真壁は塊の崩れた断面へ目を寄せた。
「炭にするところなら、私が引き受けよう」
真壁は袖口を直し、2人と一緒に作業室へ戻った。
澪が用途に合う側を《収納》の中で取り分ける。
理央は、できた紙を濡らさない場所へ移した。
その横へ原案を置くと、次に書きたい文が目に入った。
今度こそ、紙へ残せる黒が欲しかった。
火を扱う場所へ移ると、開いた窓から風が入っていた。
真壁は分けた材料へ熱を加え、《錬金》で炭化を進めた。
淡い焦げの匂いが、風に押されて外へ抜けていく。
冷ましたものは、元の黒褐色よりずっと深い黒になっていた。
さらに細かくすると、乾いた粉が容器の底へたまる。
理央は、下から覗くように顔を寄せた。
「黒いです。ちゃんと黒い!」
「君は今日、できたものの色をずいぶん喜ぶね」
「昨日は透明だったんですから!」
真壁が笑いながら、冷めた容器を卓へ置いた。
理央は水を加え、勢いよく混ぜた。
黒い筋が渦を巻き、透明だった水がたちまち見えなくなる。
筆先を入れると、いかにもインクらしい黒を含んで上がってきた。
「では、早速――」
紙の端へ、すっと線を引く。
薄かった。
筆を見た。
黒い。
紙を見た。
やっぱり薄い。
「こっちへ来る間に、何があったんですか……」
もう一度、容器の底まで筆を入れて引くと、今度はざらついた線になった。
澪が横から容器を覗く。
「あ、沈んでいますよ」
水の中を舞っていた粒が、もう底へ寄り始めていた。
理央は慌てて混ぜ直し、沈む前にと筆を紙へ運んだ。
真壁の肩が揺れた。
「笑ってません?」
「いや。ずいぶん忙しい筆記だと思ってね」
「私も、こんなに急いで書く予定じゃなかったです!」
容器を寄せた時、縁の黒が親指に付いた。
鼻の横がむずむずして、空いた方の手を上げる。
「理央ちゃん、ほっぺ」
澪に呼ばれ、そのまま止まった。
「えっ、もう付いてます?」
「これから付くところです」
指が黒かった。
容器を持ち替えた時に、左手にも移していたらしい。
布で拭くと黒が薄く広がり、隣の指まで汚れた。
「紙には付かないのに、私にはこんなに付くんですけど」
「顔へ書くなら、売り物になるかもしれんな」
「紙に書くんです!」
真壁はとうとう声を立てて笑った。
澪も笑いながら、きれいな布を理央の手元へ置く。
そのまま糊の器へ手を伸ばした。
商会で使っている、デンプン由来のものだ。
「この糊で、黒い粉を紙にくっつけられませんか」
「お願いします。私より、紙に付いてほしいです」
澪が糊を加え、理央は黒くなった手で器を押さえて混ぜた。
水っぽく流れていた黒が、今度は筆先へまとわりついてくる。
さっきの薄い線の隣へ筆を置くと、しっかり色が出た。
そのまま横へ引こうとして、手が止まる。
「……今度は、筆までくっつきそうです」
澪が器の中を見て、唇を結んだ。
笑うのをこらえている顔だった。
「私、入れすぎましたね」
「澪さん、今のうちに水をください。私の手、どっちも黒いです」
澪が水差しを取り、理央が混ぜる器へ水を足した。
重かった手応えが緩み、筆を持ち上げると、黒い液が先からゆっくり落ちた。
理央は筆についた余分を器の縁で落とし、紙へ戻った。
短い線を引き、その横へ曲がった線も足す。
今度は手首を動かした分だけ、筆がついてきた。
「あ、これなら書けます」
澪も筆を取り、空いたところへ小さな文字を書いた。
乾かしている間に、理央は手を拭き直した。
指の間に残った黒は、なかなか落ちない。
顔には付けずに済んだが、これで本番の紙を持ったら、題名の周りが指の跡だらけになる。
「そろそろ、どうでしょう」
澪が自分の文字の端を撫でた。
理央も、汚れていない小指の先で乾いた線へ触れる。
黒は紙に残った。
水だけで書いた薄い線とは違い、筆を止めた端まで色が続いている。
「……これ、取っておいてもいいですか」
「ええ。理央ちゃんの分も、ここに書いてありますし」
澪が示したのは、紙に付いた小さな黒い指の跡だった。
「そっちは字じゃないです!」
笑いながら、理央はまだ汚れていない指先で、紙の端をつまみ直した。
さっきまで落としたくて仕方がなかった黒まで、捨てがたくなっていた。
でも、次の1枚には題名だけを書きたい。
理央は筆を置き、今度こそ手を洗いに立った。
手を洗って戻ると、澪が卓を空けてくれていた。
仕上げた竹紙が1枚、その真ん中に置かれている。
理央は雷の原案を隣へ広げた。
何度も書き直した短い文と、小さな雲の絵。
今日はまず、題名だけを書こうと思った。
筆へ自分たちで作ったインクを含ませる。
最初の紙に書いた時より、指が慎重になっていた。
あの時も、最初の線はきれいだった。
止めた途端に、縁が広がっていったのだ。
理央は小さく息を吐き、紙へ筆を置いた。
黒が、すっと走る。
いったん止め、縁を見た。
筆を離した形のままだった。
理央は次の線へ進んだ。
紙の凹凸を筆先が拾う。
そこだけ少し手を緩めて、続きを書いた。
澪が紙の端を支えている。
最後の線を引き終え、理央は筆を上げた。
原案の題名が、竹色の紙へ黒く残っていた。
さっきまで頭の中にあった続きの言葉が、急に出てこなくなる。
水の中で揺れていた繊維も、昨日取り分けた黒褐色の塊も、ここではもう見分けられない。
代わりに、自分の書いた題名があった。
「……澪さん、これ、両方とも竹ですよ」
澪は題名から顔を上げ、それから筆先を見た。
「そうですね。紙も、インクも」
「昨日、あんなに叩いた竹です」
理央が笑うと、澪も手首を軽く振った。
「今日は、もう棒を持ちたくありません」
「私もです。持つなら、こっちがいいです」
理央は筆を持ち直した。
同じ竹からできた紙へ、同じ竹からできた黒で、もう続きを書ける。
顔を上げると、真壁がこちらを見ていた。
「紙もインクもできました!」
「聞こえたとも。隣の部屋にも聞こえただろうね」
「……そんなに大きかったですか?」
澪が笑ってうなずいたので、理央は少しだけ声を落とした。
「でも、できたんです」
真壁の口元が緩んだ。
「うむ。これは私も、誰かに見せたくなるね」
濡れた文字へ触れぬよう、彼は紙の端へ指を添えた。
「リオ君たちにも、見せてやりたまえ」
「はい。今度は読んでもらえます」
理央は原案を隣へ広げ直した。
卓の隅には、午前中の雷雲が置いてある。
あれをリオへ渡していたら、字ではなく絵だと思われただろう。
今度の題名なら、指でたどって読める。
その下へ文が続いて、ページをめくると雲があり、氷の粒がある。
リオが小さい子たちへ読み聞かせるところで、レイニャの歌も一緒に歌えたらいい。
「この下に、絵を入れたいんです」
理央が空いたところを示すと、澪が紙を手前へ寄せてくれた。
「この雲ですね」
「はい。でも、もう少し丸く直します」
原案の雲には、まだ消しきれていない線が何本もある。
その間をなぞりながら、理央は描き直す形を決めた。
紙の厚みはそろっていないし、端も少し波打っている。
それでも、もう借りた本を棚へ戻す子どもたちを、ただ見ているだけではない。
理央は、題名の下へ筆を寄せかけた。
「……乾いてからにします」
「私も、早くめくってみたくなりました」
「まだ1枚ですよ」
澪と笑い合って、筆を置いた。
いつの間にか窓の光が低くなり、卓へ落ちる筆の影が長く伸びていた。
廊下を行き交う車輪の音も、朝より間遠になっている。
理央は文字の乾いた端へ、そっと指を置いた。
リオに渡す時も、こんなふうに開いて見せたい。
もう1枚、まだ何も書いていない紙へ目を移したところで、戸口から声がした。
「紙はできたかニャ?」
顔を上げると、ニャニャミが戸口に立っていた。
白い毛の間から金色の目が覗き、腕にはいつもの帳簿を抱えている。
「できました! インクも!」
理央が答えると、ニャニャミはすぐ卓へ来た。
昨日、見に来ると言っていたのを覚えてくれていた。
理央は題名を書いた紙と、何も書いていない紙を1枚見せた。
「こっちへ、書いてみてもらえますか」
ニャニャミは帳簿を脇へ置いた。
紙の端を小さな手で押さえ、筆記具を動かす。
引っかからなかった。
ニャニャミはもう一線引き、紙を少し傾けた。
理央はその顔を見ていた。
日々、紙へ字を書いている相手だ。
自分たちが喜んだのとは違うところで、使いやすいかどうか分かるのかもしれない。
「これがいいニャ」
耳が、ぴんと立った。
理央まで嬉しくなる。
「じゃあ、明日から帳簿を全部この紙に替えるニャ」
「はい! ……えっ?」
理央は手元を見た。
今日できた紙は、重ねても薄い。
しかも、そのうちの1枚は雷雲になっている。
ニャニャミの帳簿は、その隣で分厚い背を見せていた。
「まだ数枚しかありません!」
澪が横を向いて吹き出した。
ニャニャミは帳簿を開き、毛羽立った紙と、新しい竹紙を見比べる。
ペン先に引っかかれて、太くなった線が何本もあった。
「……増やせばいいニャ」
「今日、やっとできたんですけど!」
「だから、明日から欲しいニャ」
ニャニャミは真面目だった。
理央も、欲しがってもらえたことが嬉しいせいで、言い返しきれなかった。
真壁が、重ねた紙とインクの容器へ目を向ける。
「これは参ったな。本より帳簿が先に並びそうだ」
「私の本も忘れないでください!」
理央は題名の書かれた紙を手前へ戻し、雷の原案をその隣へ置いた。
こちらだって、本にするにはまだ足りない。
その向こうで、ニャニャミの手が帳簿の分厚い残りを示していた。