押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第436話 紙もインクもできました!

 

 桶が空だった。

 

 理央は縁を両手でつかみ、底まで覗き込んだ。

 

 昨日あれほど苦労してほぐした繊維が、1本も浮いていない。

 

「ない……!」

 

「私のところにありますよ」

 

 背後から声がして、理央は振り返った。

 

 戸口に澪が立っている。

 

 その顔を見たところで、昨日の片付けを思い出した。

 

 水を含んだまま、澪が《収納》へ収めてくれたのだった。

 

「……ありましたね」

 

「まだ出していません」

 

 澪は笑いながら袖をまくった。

 

 理央も手を離し、照れ隠しに卓の布を直す。

 

 桶の底には、乾いた繊維の細い筋が残っていた。

 

 それを見たら、急に昨日の木の棒の感触まで手首へ戻ってくる。

 

「今日は、これを紙にするんです」

 

「はい。私も楽しみです」

 

 澪が《収納》から昨日の繊維を出すと、水の中へ白っぽい塊が広がった。

 

 理央は用意してあった漉き枠を持ち上げた。

 

 現地で手に入る木材に細かな網を張った、簡単なものだ。

 

 工房で使った枠より、縁の手触りが新しい。

 

 指の位置を決めて、水槽の方へ身を寄せる。

 

「澪さん、早く始めましょう」

 

「その前に、そこを通してもらえますか」

 

「え?」

 

「繊維を入れる桶が、通れません」

 

 理央は自分が水槽の前をふさいでいることに気づき、慌てて脇へ寄った。

 

 澪が繊維を水へ散らし、固まっているところを軽くほぐす。

 

 水を足すと、底へ沈んでいた細い筋が揺れ、薄く広がった。

 

 廊下では、朝の荷を下ろす声がしていた。

 

 木の床を車輪が転がり、作業室の戸が小さく震える。

 

 今日も商会の仕事は始まっている。

 

 理央は卓の端を見た。

 

 雷の原案を、そこへ置いてある。

 

 昨日できた透明膜の見本は、離れたところに収めてあった。

 

 今日は、向こうの文字が透けない紙を作る。

 

 理央は枠の左右を握り直し、水の中へ沈めた。

 

 底から持ち上げると、思ったより重かった。

 

 理央は右手へ力を入れ、傾きかけた枠を戻した。

 

 今度は反対側が下がる。

 

 白い繊維が左へ寄り、右の網が薄く透けて見えた。

 

「……寄りました」

 

「もう一度、水へ戻しましょう」

 

 澪が向かい側から手を添えてくれた。

 

 沈めると、枠に載っていた繊維がほどけて水へ離れる。

 

 理央は息をつき、自分の手首を見た。

 

 工房でも傾けたのに、今日はうまくできそうな気がしていた。

 

 昨日、自分たちで繊維を作れたからだろうか。

 

 材料が自分のものになっても、枠が勝手に水平になるわけではなかった。

 

「なんであの人、あんなに簡単そうに持ってたんでしょう」

 

「何年もやっているからでしょうね」

 

 澪が木の縁へ指をずらす。

 

「理央ちゃん、今度はそっちが下がっています」

 

「今、私の手が原因だって分かりました……」

 

 理央は枠だけを見ず、水面と縁の間も見た。

 

 澪が向かいでうなずく。

 

 2人でゆっくり引き上げた。

 

 網の下から水が流れ落ち、細い筋になって水槽へ戻っていく。

 

 その上に、淡い竹色の層が残っていた。

 

 端から端まで、今度は繊維がつながっている。

 

 理央は口を開きかけ、そのまま息を止めた。

 

 今、喜んで動いたら、また片側へ寄せそうだった。

 

 澪も枠を持ったまま動かない。

 

 水の落ちる音だけが、しばらく続いた。

 

「……載ってますね」

 

「はい。こちら、下ろしますよ」

 

 澪の声に合わせて、理央も腕を下げた。

 

 枠を置くと、持ち上げていた間の力が肩から抜ける。

 

 水滴が腕を伝い、まくった袖の端で冷たく止まった。

 

 理央は濡れた繊維の面へ顔を近づけた。

 

 指でほぐしていた時には、ただの柔らかい塊だった。

 

 今は、同じものが四角く集まっている。

 

「これを、破らずに移すんですね」

 

 声をひそめると、澪まで小声になった。

 

「まず、布を寄せましょうか」

 

 用意した布へそっと伏せ、枠を少しずつ離す。

 

 端が網へ残りかけたので、理央はすぐに手を止めた。

 

 澪がそこを支え直し、ようやく薄い層が布へ移った。

 

 角の一つが、少し波打っていた。

 

 それでも、四角いままだった。

 

 上からもう1枚の布を重ね、掌でゆっくり押さえた。

 

 下の布へ水が移り、繊維の濡れ色が少し薄くなる。

 

 理央は端から順に掌をずらした。

 

 押したところがくぼまないか、つい顔まで近づいてしまう。

 

「理央ちゃん、袖が」

 

「あっ」

 

 慌てて肘を上げた。

 

 せっかく移せた紙へ、自分の袖を漉き込むところだった。

 

 理央は層の端へ指を添えかけ、途中で引っ込めた。

 

 持ち上げるには、まだ頼りない。

 

 澪も同じところを見ていた。

 

「板で支えたまま、扱いましょう」

 

 2人で乾燥用の板へ移し、澪が板ごと《収納》へ収めた。

 

 澪は《成分分離》で、繊維の層を崩さずに余分な水分を取り除いた。

 

 さらに《収納》内の時間を調整し、板に載せた紙の乾燥を進める。

 

 理央は空いた布を絞った。

 

 水槽へ落ちる水の量を見ると、さっきまであの薄い層がどれだけ水を抱えていたか分かる。

 

 手を拭いて戻ると、澪が板を卓へ出したところだった。

 

 光の当たった表面は、もう濡れて光っていない。

 

 白というより、淡い竹の色だった。

 

「理央ちゃん、端から」

 

 理央は爪を立てず、浮いている角へ指の腹を差し入れた。

 

 ひっついたところを少しずつ離していく。

 

 持ち上がった。

 

 理央は下へ手を添えた。

 

 昨日も、ここまではできた。

 

 けれど今日は、向こうへ置いた筆も、澪の指も見えない。

 

 表面を撫でると、細かな繊維のざらつきが返ってきた。

 

「できました」

 

 言ってから、急に声が大きくなった。

 

「澪さん、紙です! ちゃんと紙ですよ!」

 

「ええ。これは紙ですね」

 

 理央が勢いよく向けたので、澪はそっと端へ手を添えた。

 

 2人の間で、1枚の紙がたわむ。

 

 理央が少し指を動かすと、澪の側まで小さく揺れた。

 

 濡れた時とは違う、かさりという音がした。

 

 いつもなら気にも留めない音だった。

 

 理央はもう一度だけ端を曲げ、同じ音を聞いてから、澪の顔を見た。

 

 澪も笑っていた。

 

 窓の光へかざせば、薄い部分の繊維が見えた。

 

 それを下ろせば、また竹色の1枚になる。

 

 少し波打った角も、平らではない表面も、理央には目を離しがたかった。

 

「昨日の『セロハンみたいなもの』とは違います」

 

「今度は、裏の文字まで読める本にならずに済みそうです」

 

 澪が笑った。

 

 理央も笑って、そっと卓へ置く。

 

 紙を買ってきて置く時とは、手つきが違っていた。

 

 その後、残った繊維でも続けて数枚を漉いた。

 

 枠を持つ位置を少し直すと、今度はさっきより厚みがそろった。

 

 乾いた紙を並べ、理央は雷の原案を手前へ引いた。

 

 これなら、書ける。

 

 筆記具へ伸びる手は、もう止まらなかった。

 

 最初の1枚を正面へ置き、理央は筆先へインクを含ませた。

 

 原案の題名から、まず『雷』を書いてみる。

 

 この世界の文字で、子どもたちが読める形に。

 

 最初の線は、きれいに出た。

 

 続けて次の線を引いたところで、最初の線の縁が、じわりと太くなった。

 

「えっ」

 

 筆を止めた。

 

 止まらなかったのは、紙の上の黒だった。

 

 細い筋を伝い、左右へ滲み出している。

 

 理央は紙へ顔を近づけ、それから少し離れた。

 

 角度を変えて見ても、線は元へ戻らない。

 

「乾いたら、止まりますか?」

 

「……そこで止まってくれるといいんですけど」

 

 澪も隣へ来て、同じ黒い縁を見ていた。

 

 止まってほしいところは、もう越えている。

 

 線と線の間が狭くなり、つながり、理央が書いた文字は、丸い黒へ変わっていった。

 

 澪の口元が動いた。

 

「今、笑いませんでした?」

 

「いえ、その……」

 

 澪の視線が紙から外れる。

 

 理央ももう一度見て、肩を落とした。

 

「雷が、雷雲になりました」

 

 今度は自分でも笑ってしまった。

 

 黒い塊の端が、ちょうど雲のようにぼやけている。

 

「絵本には似合いそうですけど、文字は読めませんね」

 

「そこを褒めないでください!」

 

 理央は筆を置き、できたばかりの紙を見下ろした。

 

 捨てたくないのに、リオへ渡しても、この字を読んでもらうことはできない。

 

 澪は空いた端へ短い線を引いた。

 

 やはり、黒が外へ広がっていく。

 

「紙が、インクを吸いすぎるんですね」

 

「乾燥は、できてるんですよね?」

 

「はい。表面の仕上げが要るんだと思います」

 

 澪は見学のノートを開いた。

 

 理央が横から覗くと、紙に書くために調べた言葉が残っている。

 

 膠。ゼラチン。にじみ止め。

 

 繊維を作るところばかり気になって、後へ回していたものだった。

 

「ゼラチンって、商会にありますか?」

 

「真壁さんに聞いてみましょう」

 

 理央はにじんだ紙を、端だけ持って立ち上がった。

 

 乾いたら、この雷雲も残る。

 

 最初の紙を、失敗したからとすぐに脇へ放ることはできなかった。

 

 

 

「紙はできました」

 

 理央が差し出したものを見て、真壁のペンが止まった。

 

「ほう。こちらは、絵かね」

 

「字です」

 

 真壁は紙を取り、明るい方へ向けた。

 

 黒い塊のそばに、澪が引いた短い線も滲んでいる。

 

「紙の形にはなったけれど、書く方はこれからというわけだね」

 

「表面に、にじみ止めを塗りたいんです。膠か、ゼラチンのようなものはありませんか」

 

 澪が尋ねると、真壁は紙を机へ置いた。

 

「ゼラチンなら、あるとも」

 

 《収納》から出てきた容器には、透き通った薄片が入っていた。

 

 理央は顔を寄せた。

 

 知らない名前の異世界の薬を、これから探すことになると思っていた。

 

「あるんですね! これ、どこで買ったんですか?」

 

「買ったものではないよ。ゴブリンから取り出したのだ」

 

 伸ばしかけた手が止まった。

 

 真壁は蓋を開け、容器を理央の方へ寄せた。

 

 理央の手は、さらに遠ざかった。

 

「……ゴブリンって、あのゴブリンですか?」

 

「うむ。以前は死骸をそのまま肥料へ回していたがね。使える成分は、その前に分けることにした」

 

 真壁は、机へ残った薄片を容器の中へ戻した。

 

「ヴァルト君にも手伝ってもらった。残ったものは、これまでどおり肥料にしている」

 

 理央は透明な薄片を見た。

 

 どこにも、ゴブリンらしいところはない。

 

 それなのに、名前を聞く前と同じようには見られなかった。

 

 2本の脚で立ち、腕と顔がある、あの姿が浮かぶ。

 

「安心したまえ。純度100%のゼラチンだ」

 

「純度の問題じゃないんですけど!」

 

 理央が声を上げると、澪も容器を見たまま口を開いた。

 

「それを、子どもが読む本の紙に塗るんですよね……」

 

「紙に使うなら、なおさら良い材料だと思うが」

 

「だって、人間みたいに手も顔もあるじゃないですか」

 

 真壁の視線が、薄片から理央へ移った。

 

 今度は容器を勧めず、机の上へ置く。

 

「ふむ。では、埋めて弔えというのかい?」

 

「えっ……いえ、そこまでは……」

 

 理央は言葉を探し、澪を見た。

 

 澪も、すぐには答えなかった。

 

 廊下から、箱を下ろす声が聞こえる。

 

 いつもの商会の、いつもの昼前だった。

 

 机の上に並ぶものも、ただの紙と、透き通った材料にしか見えない。

 

「この世界には、魔物を討たねば暮らせぬ者がいる。人を襲い、畑を荒らすものもいるからね」

 

 真壁は、にじんだ紙の端を押さえた。

 

「討伐したものを肥料として土へ返す。その前に使えるものを取り出すのが、そんなにおかしいかね」

 

「肥料にするのは、知ってます」

 

 澪が小さく答えた。

 

「ただ、この容器に入っていると……」

 

 言い切れなかった先は、理央にも分かった。

 

 土へ返ると聞くのと、自分の手で紙へ塗るのとでは、思い浮かぶものが違った。

 

「人に似ているものだけ弔い、獣に似ているものなら使ってよい、という話でもあるまい」

 

 真壁の声は穏やかだった。

 

 理央は、自分の手を見た。

 

 この薄片が、何か別の獣から取れたものだと聞いていたら、さっきのまま手を伸ばしていたと思う。

 

 それでも、容器を見直すと指が止まる。

 

「……言ってることは分かるんです。でも、気持ち悪いものは気持ち悪いんです」

 

「うむ。理屈で感情まで消えるわけではないからね」

 

 真壁は容器の蓋を閉じ、机の手前へ置いた。

 

 理央はその横の紙へ目を移した。

 

 最初にできた1枚。

 

 読めるはずだった字は、黒い雲になっている。

 

 澪が、しばらく容器を眺めてから手を伸ばした。

 

「……じゃあ、理央ちゃん。紙、仕上げましょうか」

 

「はい」

 

 理央も紙を持った。

 

 容器は、澪にお願いした。

 

 真壁がそれを見て、口を開く。

 

「ちなみに、ゼラチンの純度は――」

 

「だから、もう純度の話はいいです!」

 

 

 

 作業室へ戻り、ゼラチンを温水に溶いた。

 

 透き通っていた薄片が柔らかくなり、混ぜるうちに輪郭を失っていく。

 

 器を傾けると、薄い液が底を流れた。

 

 澪が器を卓へ置き、紙へ塗る道具を取る。

 

 理央はその手を見守った。

 

 澪の手が止まった。

 

 2人の目が合った。

 

「……先にどうぞ」

 

「理央ちゃんもですか」

 

 理央はうなずいた。

 

 使うと決めたのに、いざ塗るとなると、身体の方が少し遅れる。

 

「ちゃんと分かってるんですけど……」

 

「私もです」

 

 澪は困ったように笑い、器の縁で余分な液を落とした。

 

「紙には、罪がありませんからね」

 

 最初の一塗りで、竹色の紙が少し濃くなった。

 

 理央は自分の道具も液へ入れた。

 

 澪が塗ったところへ続けて、薄く広げていく。

 

 塗りすぎないよう、理央も縁で液を落としてから戻した。

 

 紙の表面へ光が乗る。

 

 手の動きを追っている間は、容器の出所を考えずにいられた。

 

 塗った紙は板で支え、澪の《収納》へ収めた。

 

 澪が中の時間を調整して乾燥させ、再び板を取り出すと、濡れて濃くなっていた面が淡い竹色に戻っていた。

 

 理央は、先ほどと同じインクを筆へ含ませた。

 

 同じ字を、今度は別の紙へ書く。

 

 書き終えても、顔を上げられなかった。

 

 線の縁を見ていた。

 

 まだ、そこにある。

 

 黒が外へ走っていかない。

 

「……にじまない」

 

「ほんとですね」

 

 澪が失敗した紙を隣へ寄せた。

 

 黒い雲と、読める文字。

 

 理央は両方を見てから、閉めてある容器へちらりと目をやった。

 

「……悔しいくらい、いい紙になりました」

 

「喜んでいいところなのに、複雑ですね」

 

 澪も紙を撫で、ため息のように笑った。

 

 材料の出所を思い出しても、いま書いた字は滲まない。

 

 理央は口元を緩めたまま、残りの紙を手前へ引いた。

 

 これなら、リオにも読んでもらえる。

 

 そう思うと、次の1枚へ塗る手は、最初より少し早く動いた。

 

 

 

 昼食を挟み、加工した紙を出す頃には、作業室の水音も少なくなっていた。

 

 理央は乾いた『雷』の字を眺め、それからインク壺を見た。

 

 黒い液の残りが、底の方で光っている。

 

 工房の職人も、紙とインクはどちらにも要る、と言っていた。

 

 1枚ずつ写す《転写》でも、1冊をまとめて写す《写本》でも、使った分は減っていく。

 

「紙だけ安くなっても、インクが高いままじゃ困りますよね」

 

 理央が壺を傾けると、澪も顔を寄せた。

 

「こちらも作れたら、いいですね」

 

 澪は手を止め、昨日の分離で残した暗い色の塊を《収納》から出した。

 

「これ、まだありますよ」

 

 竹色の紙の隣へ置くと、塊はますます濃く見えた。

 

 けれど、インク壺の黒い艶とは違う。

 

 光が当たっても鈍い、黒褐色だった。

 

 理央は指で端へ触れた。

 

 少し崩れたものが、爪の際へ残る。

 

「これがそのままインクになったら、楽なんですけど」

 

 言ってから、昨日の透明膜と、今日の雷雲を思い出した。

 

 黒いだけで喜ぶのは、まだ早い気がする。

 

「《鑑定》」

 

 理央の視界へ、材料の情報が現れた。

 

 成分のところを目で追い、澪へ顔を向ける。

 

「リグニン系の成分が入っています。ほかの植物由来の成分も、少し」

 

「やっぱり、全部同じものではなかったんですね」

 

 澪が塊を見直した。

 

 理央は、暗い色のところをもう一度見た。

 

「炭にしたら、黒い顔料にできませんか」

 

「真壁さんなら、そちらも詳しいかもしれません」

 

 真壁の机まで見せに行くと、彼は手元の書類を脇へ寄せた。

 

 理央が、鑑定で分かった成分を伝える。

 

「ほう。紙を作る時に分けたものかね」

 

「はい。昨日は取っておいただけなんですけど」

 

「昨日は紙にならぬと困っていたものが、今日はインクの材料かね。捨てずにおいて正解だったな」

 

 真壁は塊の崩れた断面へ目を寄せた。

 

「炭にするところなら、私が引き受けよう」

 

 真壁は袖口を直し、2人と一緒に作業室へ戻った。

 

 澪が用途に合う側を《収納》の中で取り分ける。

 

 理央は、できた紙を濡らさない場所へ移した。

 

 その横へ原案を置くと、次に書きたい文が目に入った。

 

 今度こそ、紙へ残せる黒が欲しかった。

 

 火を扱う場所へ移ると、開いた窓から風が入っていた。

 

 真壁は分けた材料へ熱を加え、《錬金》で炭化を進めた。

 

 淡い焦げの匂いが、風に押されて外へ抜けていく。

 

 冷ましたものは、元の黒褐色よりずっと深い黒になっていた。

 

 さらに細かくすると、乾いた粉が容器の底へたまる。

 

 理央は、下から覗くように顔を寄せた。

 

「黒いです。ちゃんと黒い!」

 

「君は今日、できたものの色をずいぶん喜ぶね」

 

「昨日は透明だったんですから!」

 

 真壁が笑いながら、冷めた容器を卓へ置いた。

 

 理央は水を加え、勢いよく混ぜた。

 

 黒い筋が渦を巻き、透明だった水がたちまち見えなくなる。

 

 筆先を入れると、いかにもインクらしい黒を含んで上がってきた。

 

「では、早速――」

 

 紙の端へ、すっと線を引く。

 

 薄かった。

 

 筆を見た。

 

 黒い。

 

 紙を見た。

 

 やっぱり薄い。

 

「こっちへ来る間に、何があったんですか……」

 

 もう一度、容器の底まで筆を入れて引くと、今度はざらついた線になった。

 

 澪が横から容器を覗く。

 

「あ、沈んでいますよ」

 

 水の中を舞っていた粒が、もう底へ寄り始めていた。

 

 理央は慌てて混ぜ直し、沈む前にと筆を紙へ運んだ。

 

 真壁の肩が揺れた。

 

「笑ってません?」

 

「いや。ずいぶん忙しい筆記だと思ってね」

 

「私も、こんなに急いで書く予定じゃなかったです!」

 

 容器を寄せた時、縁の黒が親指に付いた。

 

 鼻の横がむずむずして、空いた方の手を上げる。

 

「理央ちゃん、ほっぺ」

 

 澪に呼ばれ、そのまま止まった。

 

「えっ、もう付いてます?」

 

「これから付くところです」

 

 指が黒かった。

 

 容器を持ち替えた時に、左手にも移していたらしい。

 

 布で拭くと黒が薄く広がり、隣の指まで汚れた。

 

「紙には付かないのに、私にはこんなに付くんですけど」

 

「顔へ書くなら、売り物になるかもしれんな」

 

「紙に書くんです!」

 

 真壁はとうとう声を立てて笑った。

 

 澪も笑いながら、きれいな布を理央の手元へ置く。

 

 そのまま糊の器へ手を伸ばした。

 

 商会で使っている、デンプン由来のものだ。

 

「この糊で、黒い粉を紙にくっつけられませんか」

 

「お願いします。私より、紙に付いてほしいです」

 

 澪が糊を加え、理央は黒くなった手で器を押さえて混ぜた。

 

 水っぽく流れていた黒が、今度は筆先へまとわりついてくる。

 

 さっきの薄い線の隣へ筆を置くと、しっかり色が出た。

 

 そのまま横へ引こうとして、手が止まる。

 

「……今度は、筆までくっつきそうです」

 

 澪が器の中を見て、唇を結んだ。

 

 笑うのをこらえている顔だった。

 

「私、入れすぎましたね」

 

「澪さん、今のうちに水をください。私の手、どっちも黒いです」

 

 澪が水差しを取り、理央が混ぜる器へ水を足した。

 

 重かった手応えが緩み、筆を持ち上げると、黒い液が先からゆっくり落ちた。

 

 理央は筆についた余分を器の縁で落とし、紙へ戻った。

 

 短い線を引き、その横へ曲がった線も足す。

 

 今度は手首を動かした分だけ、筆がついてきた。

 

「あ、これなら書けます」

 

 澪も筆を取り、空いたところへ小さな文字を書いた。

 

 乾かしている間に、理央は手を拭き直した。

 

 指の間に残った黒は、なかなか落ちない。

 

 顔には付けずに済んだが、これで本番の紙を持ったら、題名の周りが指の跡だらけになる。

 

「そろそろ、どうでしょう」

 

 澪が自分の文字の端を撫でた。

 

 理央も、汚れていない小指の先で乾いた線へ触れる。

 

 黒は紙に残った。

 

 水だけで書いた薄い線とは違い、筆を止めた端まで色が続いている。

 

「……これ、取っておいてもいいですか」

 

「ええ。理央ちゃんの分も、ここに書いてありますし」

 

 澪が示したのは、紙に付いた小さな黒い指の跡だった。

 

「そっちは字じゃないです!」

 

 笑いながら、理央はまだ汚れていない指先で、紙の端をつまみ直した。

 

 さっきまで落としたくて仕方がなかった黒まで、捨てがたくなっていた。

 

 でも、次の1枚には題名だけを書きたい。

 

 理央は筆を置き、今度こそ手を洗いに立った。

 

 

 

 手を洗って戻ると、澪が卓を空けてくれていた。

 

 仕上げた竹紙が1枚、その真ん中に置かれている。

 

 理央は雷の原案を隣へ広げた。

 

 何度も書き直した短い文と、小さな雲の絵。

 

 今日はまず、題名だけを書こうと思った。

 

 筆へ自分たちで作ったインクを含ませる。

 

 最初の紙に書いた時より、指が慎重になっていた。

 

 あの時も、最初の線はきれいだった。

 

 止めた途端に、縁が広がっていったのだ。

 

 理央は小さく息を吐き、紙へ筆を置いた。

 

 黒が、すっと走る。

 

 いったん止め、縁を見た。

 

 筆を離した形のままだった。

 

 理央は次の線へ進んだ。

 

 紙の凹凸を筆先が拾う。

 

 そこだけ少し手を緩めて、続きを書いた。

 

 澪が紙の端を支えている。

 

 最後の線を引き終え、理央は筆を上げた。

 

 原案の題名が、竹色の紙へ黒く残っていた。

 

 さっきまで頭の中にあった続きの言葉が、急に出てこなくなる。

 

 水の中で揺れていた繊維も、昨日取り分けた黒褐色の塊も、ここではもう見分けられない。

 

 代わりに、自分の書いた題名があった。

 

「……澪さん、これ、両方とも竹ですよ」

 

 澪は題名から顔を上げ、それから筆先を見た。

 

「そうですね。紙も、インクも」

 

「昨日、あんなに叩いた竹です」

 

 理央が笑うと、澪も手首を軽く振った。

 

「今日は、もう棒を持ちたくありません」

 

「私もです。持つなら、こっちがいいです」

 

 理央は筆を持ち直した。

 

 同じ竹からできた紙へ、同じ竹からできた黒で、もう続きを書ける。

 

 顔を上げると、真壁がこちらを見ていた。

 

「紙もインクもできました!」

 

「聞こえたとも。隣の部屋にも聞こえただろうね」

 

「……そんなに大きかったですか?」

 

 澪が笑ってうなずいたので、理央は少しだけ声を落とした。

 

「でも、できたんです」

 

 真壁の口元が緩んだ。

 

「うむ。これは私も、誰かに見せたくなるね」

 

 濡れた文字へ触れぬよう、彼は紙の端へ指を添えた。

 

「リオ君たちにも、見せてやりたまえ」

 

「はい。今度は読んでもらえます」

 

 理央は原案を隣へ広げ直した。

 

 卓の隅には、午前中の雷雲が置いてある。

 

 あれをリオへ渡していたら、字ではなく絵だと思われただろう。

 

 今度の題名なら、指でたどって読める。

 

 その下へ文が続いて、ページをめくると雲があり、氷の粒がある。

 

 リオが小さい子たちへ読み聞かせるところで、レイニャの歌も一緒に歌えたらいい。

 

「この下に、絵を入れたいんです」

 

 理央が空いたところを示すと、澪が紙を手前へ寄せてくれた。

 

「この雲ですね」

 

「はい。でも、もう少し丸く直します」

 

 原案の雲には、まだ消しきれていない線が何本もある。

 

 その間をなぞりながら、理央は描き直す形を決めた。

 

 紙の厚みはそろっていないし、端も少し波打っている。

 

 それでも、もう借りた本を棚へ戻す子どもたちを、ただ見ているだけではない。

 

 理央は、題名の下へ筆を寄せかけた。

 

「……乾いてからにします」

 

「私も、早くめくってみたくなりました」

 

「まだ1枚ですよ」

 

 澪と笑い合って、筆を置いた。

 

 いつの間にか窓の光が低くなり、卓へ落ちる筆の影が長く伸びていた。

 

 廊下を行き交う車輪の音も、朝より間遠になっている。

 

 理央は文字の乾いた端へ、そっと指を置いた。

 

 リオに渡す時も、こんなふうに開いて見せたい。

 

 もう1枚、まだ何も書いていない紙へ目を移したところで、戸口から声がした。

 

「紙はできたかニャ?」

 

 顔を上げると、ニャニャミが戸口に立っていた。

 

 白い毛の間から金色の目が覗き、腕にはいつもの帳簿を抱えている。

 

「できました! インクも!」

 

 理央が答えると、ニャニャミはすぐ卓へ来た。

 

 昨日、見に来ると言っていたのを覚えてくれていた。

 

 理央は題名を書いた紙と、何も書いていない紙を1枚見せた。

 

「こっちへ、書いてみてもらえますか」

 

 ニャニャミは帳簿を脇へ置いた。

 

 紙の端を小さな手で押さえ、筆記具を動かす。

 

 引っかからなかった。

 

 ニャニャミはもう一線引き、紙を少し傾けた。

 

 理央はその顔を見ていた。

 

 日々、紙へ字を書いている相手だ。

 

 自分たちが喜んだのとは違うところで、使いやすいかどうか分かるのかもしれない。

 

「これがいいニャ」

 

 耳が、ぴんと立った。

 

 理央まで嬉しくなる。

 

「じゃあ、明日から帳簿を全部この紙に替えるニャ」

 

「はい! ……えっ?」

 

 理央は手元を見た。

 

 今日できた紙は、重ねても薄い。

 

 しかも、そのうちの1枚は雷雲になっている。

 

 ニャニャミの帳簿は、その隣で分厚い背を見せていた。

 

「まだ数枚しかありません!」

 

 澪が横を向いて吹き出した。

 

 ニャニャミは帳簿を開き、毛羽立った紙と、新しい竹紙を見比べる。

 

 ペン先に引っかかれて、太くなった線が何本もあった。

 

「……増やせばいいニャ」

 

「今日、やっとできたんですけど!」

 

「だから、明日から欲しいニャ」

 

 ニャニャミは真面目だった。

 

 理央も、欲しがってもらえたことが嬉しいせいで、言い返しきれなかった。

 

 真壁が、重ねた紙とインクの容器へ目を向ける。

 

「これは参ったな。本より帳簿が先に並びそうだ」

 

「私の本も忘れないでください!」

 

 理央は題名の書かれた紙を手前へ戻し、雷の原案をその隣へ置いた。

 

 こちらだって、本にするにはまだ足りない。

 

 その向こうで、ニャニャミの手が帳簿の分厚い残りを示していた。

 

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