押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第437話 うちにも売ってください!

 

 昨日の紙を、もう一度触るつもりで来た。

 

 ところが、作業台の上には魔石が並んでいた。

 

 理央は戸口で足を止めた。

 

 昨日まで桶のあった場所に竹の端材が積まれ、その隣で真壁が袖口を直している。

 

 壁際には、まだ濡れ跡の残る漉き枠が立てかけてあった。

 

「……真壁さん、何が始まってるんですか?」

 

「紙を作るところだよ、理央君。君たちが昨日教えてくれた方法でね」

 

「私たち、1日かけて数枚でしたけど」

 

「だから魔石に働いてもらうのだよ。帳簿の紙を、1枚ずつ漉いていたのでは追いつかん」

 

 真壁は昨日の竹紙を取り、光の当たる方へ向けた。

 

 角の波打った、理央にも見覚えのある1枚だった。

 

 その端を撫でてから、魔石の横へ戻す。

 

「これを、まとまった数で作りたい」

 

 澪が脇から、水を含んだ繊維を載せた小皿を置いた。

 

「溶かして固める方には、流さないでくださいね」

 

「承知しているとも」

 

 真壁は別の場所へ置いてあった透明膜を示した。

 

「こちらにも使い道はあるが、今日は本の紙だ」

 

 理央は卓へ竹片を置きかけ、下に原案があることに気づいた。

 

 慌てて引き抜く。

 

 題名を書いた新しい紙も、すぐそばにあった。

 

「危なかった……」

 

「そちらは原料ではあるまいね」

 

「違います! これは、これから本にする方です!」

 

 理央は2枚を奥の机へ移した。

 

 昨日は、寝る前にも題名を眺めた。

 

 続きを書きたいと思いながら、汚さないようにしまったばかりだ。

 

 戻ってくると、澪がもう繊維の端を広げていた。

 

 理央も袖をまくり、真壁の向かいへ回った。

 

 廊下では朝の荷車が通り、木箱を下ろす音が続いている。

 

 真壁の机の上だけは静かで、竹片の転がる乾いた音が、妙にはっきり聞こえた。

 

 真壁が並べた魔石は、初めて見るものではなかった。

 

 以前から製造に使っている工程魔石と、途中の仕上がりを振り分ける判断魔石だ。

 

 ただ、脇へ広げた紙には、今日のために書き換えた加工区画のつながりがある。

 

 澪はその途中を指した。

 

「竹の節が残ったものは、こちらへ分けますか?」

 

「うむ。繊維の通った部分と一緒には進めん方がよいのだろう」

 

「同じように処理しても、節のところだけ硬かったんです」

 

 澪は竹片を取り、縦に走る筋と節の際を見せた。

 

 理央は濡れた繊維を指先で持ち上げた。

 

「最後は、こういうのが残ってほしいんです。これを全部溶かしちゃうと……」

 

「あの膜になるのだね」

 

「はい。透明なのが出てきた時は、何が起きたのかと思いました」

 

 真壁は膜を脇へ移し、図の経路を引き直した。

 

 竹を分類し、繊維を残すように《成分分離》する。

 

 ほぐした繊維を水へ散らし、薄い面に広げる。

 

 そこから水を抜き、乾燥させた後で、ゼラチンを水に溶いた液を薄く行き渡らせる。

 

 最後にもう一度乾かして、紙として取り出す。

 

 昨日、2人が卓の上で行ったことが、真壁の《収納》内で続けて進むようにつながっていく。

 

「ここ、繊維を広げる前に水を抜いていませんか」

 

 澪が指を止めた。

 

 真壁もそこへ目を落とす。

 

「途中で寄りすぎぬように、と思ったのだが」

 

「昨日、枠を水へ戻したら、また広がったんです。ここでは、まだ水があった方が」

 

「なるほど」

 

 真壁が順を変えると、理央は自分の手首を見た。

 

 昨日は右へ傾け、戻そうとして左へ傾けた。

 

 澪と向かい合い、水を滴らせながら持っていた枠が、今は壁へ立てかけられている。

 

「私の、あの傾きまで入るんですか?」

 

「そこは入れぬ方がよかろう」

 

「ですよね……」

 

 真壁の口元が動いた。

 

 笑われたのが少し悔しかったが、理央も笑った。

 

 真壁は加工を受け持つ魔石と、途中の状態を判定する魔石の条件を合わせていった。

 

 決めた範囲から外れたものは、先へ流さず、別の区画へ戻す。

 

 見込んでいない状態になった時は、そこで止めて真壁自身が見る。

 

 紙にできなかった部分にも、分けた成分にも、行き先がついた。

 

「こちらはインク用かね」

 

「はい。昨日、黒くしたのはこの方です」

 

 理央が答えると、真壁はその経路だけを少し離しておいた。

 

「では、まず本のページを用意しよう」

 

 澪が原料の竹を出した。

 

 真壁はそれを自分の《収納》へ収め、工程魔石へ手を添えた。

 

 理央は思わず、耳を澄ませた。

 

 聞こえたのは、廊下で箱を引きずる音だった。

 

 何かを叩く音も、水を切る音もしない。

 

 真壁が目を向けているのも、机上の魔石と、本人にだけ分かる収納内の工程だ。

 

 理央は澪の顔を見た。

 

 澪も、まだ何もない卓の中央を見ていた。

 

 真壁が工程魔石の連続処理を稼働させ、しばらくすると、そこへ靄が広がった。

 

 紙が出てきた。

 

 1枚ではなかった。

 

 端を重ねた束が、真壁の手の下へ収まっている。

 

「こんなに……!」

 

 理央は両手を伸ばしかけた。

 

 真壁が束を卓へ置く。

 

 かさり、と乾いた音がした。

 

 理央は上の1枚をめくり、その下もめくった。

 

「あれ。厚さが違います」

 

 こちらは指に硬く当たり、次の紙は持っただけで端が垂れた。

 

 重ねたまま横から見ると、同じところだけが盛り上がっている。

 

 真壁が束の端を軽く押さえると、厚い部分が先に突き当たった。

 

「なかなか立派な段差ができたね」

 

「立派ですけど、本にしたくない段差ですね……」

 

 澪は薄い方を窓へかざした。

 

 繊維の影が残っている。

 

 透明膜とは違い、向こうの窓枠がそのまま見えるわけではない。

 

「紙にはなっています。仕上げまで通したんですよね?」

 

「うむ。水を抜き、乾かしてから表面の液をかけた。もう一度乾燥させたものだ」

 

 理央は紙の端を指で挟んだ。

 

 乾いている。

 

 もう書けるのかもしれない。

 

 筆を取ろうとして、折れ曲がった薄い角が目に入った。

 

 昨日、自分たちの枠の右側で網が透けていた時と、よく似ていた。

 

「これ、私が傾けた時みたいです」

 

「君の傾きは外したはずだがね」

 

 真壁が言うと、澪は紙を光へ向けたまま笑った。

 

「こっちに集まっています。繊維の量だけじゃなくて、広がり方も偏ったんですね」

 

 理央は厚いところから薄いところへ、そっと指を滑らせた。

 

 昨日の数枚の隣へ、今日の束がある。

 

 これだけ増えるところまで来た。

 

 けれど、重ねて本にするところを思うと、今度はその端が気になって仕方がなかった。

 

 

 

 薄い紙は、折ろうとしたところより手前で腰が折れた。

 

 理央は指を離し、卓へ戻した。

 

 澪が別の1枚へ短い線を引いている。

 

 細いままのところと、少し縁の広がったところがあった。

 

「また太ってます」

 

 理央が覗くと、澪は筆を止めた。

 

「この辺り、仕上げ液が薄かったみたいです」

 

「こっちの艶は強いのに」

 

 真壁は紙を傾けた。

 

 窓の光が、片側だけを滑っていく。

 

 真壁は薄い紙と、その紙を横へ並べた。

 

「繊維を均すところと、液を広げるところだな」

 

 工程魔石へ手を添え、まず紙面を作る時の繊維の配分を変える。

 

 決まった広さへ同じ量を送っていても、その中で片寄れば、薄いところと厚いところができてしまう。

 

 真壁は面の中央から端まで広げる範囲を直した。

 

 澪が、残した繊維を指で散らす。

 

「端をそろえる時に、こっちへ押し込んでいませんか」

 

「そこも直そう。端だけ厚くされては、積むほど傾く」

 

「本棚に入れたら、みんな片側に寄っちゃいますね」

 

 理央は重ねた紙を軽く押した。

 

 束が斜めにずれたので、慌てて両手で支える。

 

「今は押さえなくてよいよ」

 

「すみません……」

 

 真壁は表面仕上げの方へ取りかかった。

 

 ゼラチンを水に溶いた液が、面の一部へ先にたまっていた。

 

 供給する量を改め、紙の端まで薄く届くよう、塗る範囲を変える。

 

 液をかけた後の乾燥もそろえた。

 

 理央は、昨日澪と向かい合って塗った時のことを思い出した。

 

 道具に付けすぎた液を器の縁で落とし、すでに塗ったところへ重ねないように手を動かした。

 

 あの加減まで、真壁の工程へ入っていく。

 

 最後に、仕上がった紙を振り分ける条件を直した。

 

 厚さや表面が外れたものは、良品へ混ぜず、再加工か保留へ分ける。

 

 真壁はその経路を残したまま、原料を次の工程へ送った。

 

 廊下の奥から、昼食の匂いが漂ってきた。

 

 理央はそちらを向きかけて、真壁の手が動いたので顔を戻した。

 

 新しい束が現れた。

 

 今度は、横から見た端の線が揃っていた。

 

 理央が1枚めくる。

 

 さらり、と鳴った。

 

 次も、その次も、指の下で同じようにしなった。

 

「澪さん」

 

「はい。だいぶ揃いましたね」

 

 澪は筆を取った。

 

 端から中央へ、細い線を引く。

 

 理央は書き始めたところと、書き終えたところを交互に見た。

 

 どちらも、筆が置かれた形を保っていた。

 

 澪が顔を上げる。

 

 理央は束へ両手を添えた。

 

 昨日は1枚の角を浮かせるのにも、息を止めていたのに。

 

「昨日、あんなに時間かけたんですよ。なのに、もうこんなに……」

 

 言いながら、笑ってしまった。

 

 嬉しい。

 

 嬉しいのに、壁の漉き枠を見ると、何か一言くらい言いたくなる。

 

「私たちの手首の苦労は……」

 

「その昨日がなければ、何を直せばいいかも分からんよ」

 

 真壁は手漉きの1枚を、新しい束の上へ載せた。

 

「この紙に合わせているのだからね」

 

 波打った角が、揃った紙の上で少しだけ浮いた。

 

 理央はそこへ指を添えた。

 

 今度は、新しい束と一緒に抱えられた。

 

「……これなら、本を増やせますね」

 

「君の原稿ができれば、だがね」

 

 理央の腕が止まった。

 

 澪が笑って、倒れかけた紙束の下を支えてくれた。

 

 午後、真壁は分けておいた副産物をインクの工程へ回した。

 

 竹紙の明るい色とは違う、黒褐色の塊だ。

 

 昨日の《鑑定》では、リグニン系の成分のほかにも植物由来のものが含まれていた。

 

 澪が取り分けた材料を、真壁が受け取る。

 

 理央はなんとなく、両手を腰の後ろへ回した。

 

「今度は君が粉にするのではないよ」

 

「昨日、爪のところがなかなか落ちなかったんです」

 

 真壁は笑って、《収納》内の経路をつないだ。

 

 《錬金》を応用して炭化させ、冷ましたものを細かな粉にする。

 

 それを水へ散らし、デンプン由来の糊を合わせて、筆に乗る液へ仕上げる。

 

 澪は昨日のインクを筆先へ取り、器の上で持ち上げた。

 

「糊を入れた直後は、もっと重かったですね」

 

「筆まで貼り付けそうになりましたからね」

 

 理央が言うと、澪も肩をすくめて笑った。

 

 真壁は、その後に水を足して書けるようになった液を手本にした。

 

 量に合わせて混ぜる割合を定め、仕上がった液は取り込んでおいた空瓶へ分ける。

 

 ほどなく、卓へ瓶が出てきた。

 

 黒い液面に、窓の光が細く映っている。

 

 瓶の縁は汚れていなかった。

 

 理央は自分の指を見た。

 

 こちらも、きれいなままだ。

 

「本当に、出てくるところまでやってくれるんですね」

 

「今日は紙の方を黒くしてくれたまえ」

 

 真壁が新しい竹紙を寄せる。

 

 理央は筆を取り、液を含ませた。

 

 器の縁で余分を落としてから、紙の端へ短い文を書く。

 

 筆はつかえず、文字の最後まで黒が続いた。

 

 澪が横から覗き、線の間へ目を近づけた。

 

「これなら、細かいところも書けますね」

 

「昨日の私にも、この瓶が欲しかったです」

 

 理央はもう一度、自分の指を見た。

 

 真壁が紙の隣へ瓶を置く。

 

 竹色の束と、黒いインク。

 

 その隣には、まだ空の瓶と、使う糊の器が残っている。

 

「瓶を出した分だけ、空瓶も要るな」

 

 真壁は残りを見て、稼働させていた工程をいったん止めた。

 

 水を飲み、椅子へ背を預ける。

 

 理央は書いたばかりの紙を持ち、奥の原案へ目をやった。

 

 さっき言われた続きを、思い出していた。

 

 

 

 夕方、真壁は以前買った工房の紙見本と、新しい竹紙を並べた。

 

 古い見本の毛羽立った端へ指を当て、今度は新しい束を同じ厚さまで重ねる。

 

 インクの瓶も、その隣へ寄せた。

 

 机に置いた紙へ、真壁の筆が短く走った。

 

 竹、糊、ゼラチン、瓶。

 

 原料を入れた時から、製造を止めたところまでの負担も思い返し、書いていた数字を一つ直す。

 

 もう一度見たところで、真壁が笑った。

 

「……これは面白い値段になるな」

 

 理央は隣へ椅子を寄せた。

 

「どれくらいですか?」

 

「親方の前で話してみよう。どんな顔をするか、見てみたいね」

 

「私にも、今それをやってますよね?」

 

「意地悪ですね、真壁さん」

 

 澪も言ったので、真壁は紙を2人の方へ回した。

 

 理央は見た。

 

 前に工房で買った紙を見て、それから、もう一度数字を見た。

 

「この値段で、いいんですか?」

 

「こちらの紙ならね。継続して納める分は、用意できる原料と運転する者を合わせねばならんが」

 

 真壁は今日使った竹の残りへ目をやった。

 

 今ある材料で出せる量を見込み、先方へ持っていく見本を決める。

 

 理央は紙を返しながら、工房の親方の顔を思い浮かべた。

 

 あの人なら、まず何を言うだろう。

 

 澪が見本を包んだ。

 

 真壁は訪問の希望を短い手紙にして、届けに行く者へ託した。

 

 返事はその日のうちに戻り、翌営業日の午前、工房の空けられる時間に来てほしいとあった。

 

 理央は机の奥へ戻った。

 

 雷の原案は、朝と同じところまでしか書けていなかった。

 

 新しい紙束は、その隣にある。

 

 理央は筆を取り、書きかけの文へ目を戻した。

 

 

 

 翌営業日の朝、工房へ続く石畳は、水撒きでところどころ濃い色になっていた。

 

 理央は木戸の前で足を止め、澪の持つ包みを見た。

 

 前は、紙を作る方法すら知らずに来た。

 

 今日は、その紙を持ってきている。

 

 真壁が声をかけると、奥から親方が出てきた。

 

「お待ちしていました。こちらへどうぞ」

 

 紙と革と、糊の匂いがする。

 

 窓際の台は空けてあり、その向こうで若い職人が小皿を寄せていた。

 

 奥の製本台には、綴じ待ちの束が積んである。

 

 糸を引く職人の指が、少し光って見えた。

 

「この前お話しになった紙ですね」

 

「はい。竹という植物から作ったものです」

 

 澪が包みを開く。

 

「インクもあります!」

 

 理央が瓶を出すと、親方はそちらも見た。

 

「紙と、一緒に?」

 

「竹を紙にする時に分けたものから、黒い顔料を作ったんです。それで、糊と水を――」

 

 説明しかけて、理央は口を止めた。

 

 親方はもう紙を持ち上げていた。

 

 表面へ指を滑らせ、裏返し、窓へかざす。

 

 理央はその顔から目を離せなかった。

 

 親方の指が角を折った。

 

「あっ」

 

 声が出た。

 

 親方が顔を上げたので、理央は慌てて手を引っ込める。

 

「いえ、折ってください。そのために持ってきたので」

 

 真壁が横で笑った。

 

「最初は、破らぬように扱っていたものでね」

 

「よく分かります。最初に自分で仕上げたものは、私もそうでした」

 

 親方は折り目を戻し、そこへもう一度指を当てた。

 

「こちらの大きさに切っても構いませんか」

 

「もちろん。必要な見本と、今日のお手間の代金は、こちらで」

 

 真壁が答えると、親方は若い職人へうなずいた。

 

 前にも使った花と雲の原稿が運ばれてくる。

 

 理央には、雲の中の細かな点まで見覚えがあった。

 

 職人は台の端に紙をそろえ、工房の見本へ合わせて裁った。

 

 細い切れ端を脇の籠へ入れ、竹紙を原稿の隣へ置く。

 

 小皿へ、新しいインクが注がれた。

 

 若い職人が筆記用の線を一本引き、筆先の黒を見た。

 

 それから原稿と白紙へ手を添えた。

 

「《転写》」

 

 花の茎が現れた。

 

 花びらの間へ白い隙間が残り、その横へ短い文が並ぶ。

 

 理央は胸の前で両手を握った。

 

 自分で筆を引いた時と違う。

 

 職人の技能で、自分たちの紙へ、細かな絵が載っている。

 

 若い職人は手を離してから、もう一度花へ顔を近づけた。

 

「……この茎、残っていますね」

 

 細い線の隣へ、原稿を寄せる。

 

 同じ白い隙間がある。

 

 親方も覗き込み、しばらく紙を動かさなかった。

 

 黒いところに窓の光が映っている。

 

 理央は、初めて竹紙へ書いた線が太っていった時のことを思い出した。

 

 けれど、待っても花びらはつながらなかった。

 

「ほう。あの点まで」

 

 親方が、雲の中を指した。

 

 理央はうなずきかけたが、胸の辺りが詰まって、声にならなかった。

 

 澪が隣で小さく息を吐く。

 

「きれいに出ましたね」

 

「はい……!」

 

 若い職人がその紙を乾燥板へ運ぶ間に、親方は薄い冊子を取り出した。

 

「では、こちらも。工房の見本ですから、全部写して構いません」

 

 若い職人が必要な分の竹紙を広げ、小皿のインクを足した。

 

 親方は原本の冊子へ手を置いた。

 

「《写本》」

 

 台に並べた白紙へ、いっせいに頁が現れた。

 

 目の前には文章、その隣には挿絵、その先にも続きの文字がある。

 

 理央は首を動かし、一番向こうの紙まで見た。

 

 全部だ。

 

 親方が原本をめくると、最後の頁も、並べられた紙と同じだった。

 

 机の端の小皿は、さっきより底が見えている。

 

 使った紙の分だけ、文字になった黒があった。

 

「この紙で、本になるんですね」

 

 口にしてから、理央は台へ手を伸ばした。

 

「もうインクは乾いているんですね」

 

「ええ。《転写》は写してから乾かしますが、《写本》はインクの定着まで済ませます」

 

 親方が答えた。

 

 理央が紙を裏返すと、そちらにも文字と挿絵が写っていた。

 

「あ、裏にも!」

 

「折って綴じれば、原本と同じ順に読めるようになっています。綴じるのは、職人の仕事ですがね」

 

 親方が奥の台へ目を向けた。

 

 理央も紙をもう一度裏返し、表と裏の文字を見比べた。

 

 若い職人が写し終えた紙を表裏とも原本と見比べ、文字と絵の続きを最後までたどっていく。

 

 そこから、奥の製本台へ運ばれた。

 

「写す方は、よさそうですね。こちらも触らせてもらいますよ」

 

 製本職人が束を受け取った。

 

 乾いた紙を折る。

 

 指の腹で折り目を押し、内側へ戻りすぎないか見てから、束を重ねる。

 

 理央はそこでも、紙の端ばかり見ていた。

 

 穴を開け、糸を通し、職人が引く。

 

 糸の周りは裂けなかった。

 

 職人は力を緩め、束の背へ指を滑らせた。

 

「使えます。ただ、納めてもらう時には、この縁をもう少し揃えていただけると助かります」

 

 指した先に、ごく短く出た繊維があった。

 

「折って重ねると、切る手間が変わりますので」

 

 真壁は自分でも端へ触れた。

 

「仕上げの裁ちを合わせよう。今お使いのものを、見本にいただけますかな」

 

 職人は台の脇から端紙を出し、真壁へ渡した。

 

 最後に表紙を合わせると、ばらばらだった頁が薄い1冊になった。

 

 親方が受け取り、手の上で開いた。

 

 白っぽい竹色の頁が、順にめくれていく。

 

「この匂いはいいな。森の中に入ったみたいだ」

 

 親方が頁へ顔を寄せた。

 

 澪は、竹林の香りやフラボノイドなどの成分について、ゲンダイで読んだ話を思い出した。

 

「竹の香りですね。気持ちを落ち着ける作用があるそうですよ」

 

「なるほど。本を読むには、よさそうだ」

 

 親方はもう一度香りをかぎ、頁をめくった。

 

 理央は、ふと気づいた。

 

 異世界の本を読むのは、これが初めてだった。

 

 絵のある頁で親方の手が止まると、その先まで読みたくなった。

 

 この本を持って、森の木陰へ出かけてもいい。

 

 子どもたちが集まって、自分たちで頁をめくり、声に出して読む。

 

 そんな光景が浮かび、理央は思わず澪の袖を引いた。

 

 澪も同じ冊子を見て、うなずいた。

 

 

 

 商談の机へ戻ると、親方は小冊子を閉じた。

 

「使う方は、分かりました。あとは、お値段ですね」

 

 真壁が仮の卸値を書いた紙を渡した。

 

 親方の目が、そこで止まった。

 

 隣へ置いた竹紙へ手を伸ばし、端を持ち上げる。

 

「こちらが、この値段ですか」

 

「うむ。今日お持ちした規格の紙だよ。継続して納める量は、ご相談になるが」

 

「インクは?」

 

 真壁が瓶を示し、そちらの値も伝えた。

 

 親方は返事をせず、小冊子をもう一度開いた。

 

 理央は澪を見た。

 

 思っていた顔と違う。

 

 声を上げて喜ぶのかと思ったのに、親方は頁の端を押さえたまま、しばらく動かなかった。

 

「……あの時、この紙があれば」

 

 低い声だった。

 

「教材を、まとめて欲しいという注文があったのです。読み書きを教えるための、短い本でした」

 

 親方は冊子を閉じた。

 

「予算を聞いて、紙とインクだけで難しいとお断りしました。作る前から、どうにもならなかった」

 

 理央は、自分の原案を思い出した。

 

 リオが棚へ本を戻す手も、浮かんだ。

 

 親方は紙へ指を当てたまま、笑った。

 

 少し、悔しそうな笑いだった。

 

「この値なら、話が違いましたね」

 

「今度は、受けられそうかね」

 

「綴じる手は、変わらず要ります。今の仕事もありますから、明日全部とはいきませんが」

 

 親方は奥の台を振り返った。

 

 さっきの職人が、もう別の束へ糸を通している。

 

「少なくとも、値段を聞くだけで断らずに済みます」

 

 真壁もうなずいた。

 

「次も、同じ紙を納めていただけますか」

 

「こちらの仕上げで供給する見込みはある。裁ちのご希望と、必要な数を伺おう」

 

「それなら、ぜひ、うちへ卸してください」

 

 親方が紙の見本を手前へ寄せた。

 

 理央は、膝の上で握っていた手を開いた。

 

 欲しいと言ってもらえた。

 

 自分たちで書けた時より、胸の奥が熱くなった。

 

 工房で見本を残してよいか、取引のある相手へ見せてもよいかという話になった。

 

 真壁はうなずき、見せてよい品と、改めて相談する納入の範囲を伝えた。

 

 理央は帰り道、澪に言った。

 

「買う人、いたんですね」

 

「いましたね」

 

「私、ずっと、リオたちの本のことばかりで」

 

 澪は包みを抱え直した。

 

「ほかにも、本が欲しい人がいるんですね」

 

 理央はうなずいた。

 

 真壁は2人の少し前を歩き、振り返らずに聞いていた。

 

 

 

 その数日後、事業所へ工房の使いが来た。

 

 手には、見覚えのある竹色の紙を持っている。

 

「こちらで作っていると、親方から伺いました」

 

 若い使いは紙を両手で広げた。

 

「うちにも売ってください!」

 

 応対していた理央は、思わず立ち上がった。

 

「はい! えっと、真壁さん!」

 

「聞こえているとも」

 

 奥の机から、真壁が顔を上げた。

 

「どちらの工房からお越しかね」

 

 使いが答える間にも、店先の荷車が動き、会話を一度遮った。

 

 それから別の商人が、インクの見本を取りに来た。

 

「紙だけでなく、こちらも扱わせていただけませんか」

 

 商人は瓶の蓋を閉じ、小皿へ出した黒い液と見比べた。

 

「帳面の紙を探している客がおりましてね。両方そろうなら、話が早い」

 

 近隣から届いた書簡にも、紙の厚さと、どれだけ納められるかという問いがあった。

 

 真壁は相手の使い道を聞き、納める量と時期を順に相談した。

 

 理央が見本を包んで戻ると、その机にはもう次の書簡が置かれていた。

 

 自分の原稿へ戻れると思ったところへ、また戸口から人の声がする。

 

 理央は立ちかけ、今度は椅子に座り直した。

 

 隣の澪が、代わりに応対へ向かってくれた。

 

 真壁はその様子を見て、机の小冊子を手元へ寄せた。

 

 紙とインクの向こうには、写す職人がいる。

 

 綴じる職人がいて、できた本を欲しがる相手がいる。

 

 真壁は小冊子を閉じ、問い合わせの書簡の隣へ置いた。

 

 

 

 夕方になると、店先の荷車も去った。

 

 澪は見本を入れていた箱を空け、机へ戻ってきた。

 

 真壁の前には、竹紙の束と黒インク、工房で仕上げた小冊子が並んでいる。

 

 その向こうで、理央が原案へ顔を寄せていた。

 

 今度はちゃんと、筆が動いている。

 

「澪君」

 

 真壁が、新しい紙を1枚持ち上げた。

 

「これを作るのに、腕力は要ったかね」

 

 澪は紙を見てから、壁際に残る漉き枠を見た。

 

「私たちが作った時は、けっこう要りましたけど」

 

「そちらではないよ」

 

 真壁が笑ったので、澪も笑った。

 

「真壁さんの工程なら、竹も、水も、紙を乾かす板も、全部《収納》の中ですね」

 

「うむ。だったら、重い竹を抱えられぬ者にも任せられる」

 

 澪は椅子を引いて座った。

 

「製造を、ほかの人に?」

 

「私が毎日、ここで紙を作っているわけにもいかんからね」

 

 真壁は、問い合わせの書簡を脇へ寄せた。

 

「以前の分散生産と同じだ。本人の《収納》へ工程を組む。魔石が製造を進めるなら、外で1枚ずつ紙を持って歩く必要はない」

 

「今まで、工房の仕事は身体がもたないと諦めていた人でも……」

 

「年寄りにも、脚の不自由な者にも、できる者はいるのではないかね」

 

 澪は、自分たちの桶を抱えた時の重さを思い出した。

 

 理央が前をふさぎ、横へよけてもらった朝のことまで浮かぶ。

 

 あの桶を運ばなくてよければ、座ったままでも製造に携われる。

 

「《収納》が使えて、工程魔石を動かせる人なら、ですね」

 

「もちろん。私の収納を預けるわけではない。その人の中で、動かせる工程を持ってもらう」

 

 澪はうなずいた。

 

「動かす負担も人によって違いますから、運転する時間も、その人に合わせたいです」

 

「そこを見られる管理者が要るね。紙だけ出ればよい、という者には任せられん」

 

 真壁は紙束を下ろした。

 

 その音で、理央が顔を上げた。

 

「女の人も、やりやすそうですね。重いものを持てるかで、最初から断られなくて済むなら」

 

「君たちが作り方を見つけた仕事だからね」

 

 真壁が言うと、理央は少し得意そうに座り直した。

 

「覚えるところからなら、教室を出た子にも道ができるかもしれません」

 

 澪が言った。

 

「働く年頃になった時に、選べる仕事が増えるといいですね」

 

「うむ。ならば、教える者も考えねばならんな」

 

 真壁は小冊子を開いた。

 

 ページをめくる間、外から戸締まりを呼び合う声が聞こえた。

 

「ただ、製紙だけでは、この1冊にはならん」

 

 澪も、糸の通った背へ目を落とした。

 

「写本も製本も、職人さんが必要ですね」

 

「それを、一つの会社で扱いたい。紙とインクを作り、本を写し、綴じて、売るところまでつなぐ。もちろん、工房へ材料を卸す仕事も続ける」

 

 真壁は冊子を机へ置き、原案を書いている理央を見た。

 

「本を作りたい者が、あちこちへ頼んで回らずに済むようにね」

 

 理央の筆が止まった。

 

「それ、私も頼めますか?」

 

「原稿ができれば、大切なお客様だ」

 

「また、そこに戻るんですか……」

 

 理央は原案へ向き直ったが、肩が小さく揺れていた。

 

 澪も笑い、それから机に並ぶものを見渡した。

 

 ついこの間まで、紙を作る話をしていた。

 

 今は、その紙を作る人と、本を作る人の話になっている。

 

「会社を動かす方も、探さないといけませんね」

 

「そうなのだよ。製造を見られる者と、経営を任せられる者。私が両方へ座っていては、押入商会の方へ戻れん」

 

 真壁は椅子へ背を預けた。

 

 魔石で紙は増やせたが、人の代わりまで出てくるわけではない。

 

 澪は小冊子を手に取った。

 

 軽い1冊だった。

 

 けれど、工房でその背へ通った糸を、まだ覚えている。

 

 隣へ置かれたニャニャミの帳簿には、新しい竹紙が試しに1枚挟んであった。

 

 真壁がその厚い背を見て、笑った。

 

「さて。工場長が見つかるまでは、私も紙を作るか」

 

「帳簿の分も、ですか?」

 

「そちらの催促は、なかなか手強いからね」

 

 理央が顔を上げた。

 

「私の本の紙は、取ってありますよね?」

 

 澪は原案の横に置いてある束を示した。

 

 理央はほっとして、また筆を動かす。

 

 真壁はその先へ、新しい竹紙をもう1枚置いた。

 

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