昨日の紙を、もう一度触るつもりで来た。
ところが、作業台の上には魔石が並んでいた。
理央は戸口で足を止めた。
昨日まで桶のあった場所に竹の端材が積まれ、その隣で真壁が袖口を直している。
壁際には、まだ濡れ跡の残る漉き枠が立てかけてあった。
「……真壁さん、何が始まってるんですか?」
「紙を作るところだよ、理央君。君たちが昨日教えてくれた方法でね」
「私たち、1日かけて数枚でしたけど」
「だから魔石に働いてもらうのだよ。帳簿の紙を、1枚ずつ漉いていたのでは追いつかん」
真壁は昨日の竹紙を取り、光の当たる方へ向けた。
角の波打った、理央にも見覚えのある1枚だった。
その端を撫でてから、魔石の横へ戻す。
「これを、まとまった数で作りたい」
澪が脇から、水を含んだ繊維を載せた小皿を置いた。
「溶かして固める方には、流さないでくださいね」
「承知しているとも」
真壁は別の場所へ置いてあった透明膜を示した。
「こちらにも使い道はあるが、今日は本の紙だ」
理央は卓へ竹片を置きかけ、下に原案があることに気づいた。
慌てて引き抜く。
題名を書いた新しい紙も、すぐそばにあった。
「危なかった……」
「そちらは原料ではあるまいね」
「違います! これは、これから本にする方です!」
理央は2枚を奥の机へ移した。
昨日は、寝る前にも題名を眺めた。
続きを書きたいと思いながら、汚さないようにしまったばかりだ。
戻ってくると、澪がもう繊維の端を広げていた。
理央も袖をまくり、真壁の向かいへ回った。
廊下では朝の荷車が通り、木箱を下ろす音が続いている。
真壁の机の上だけは静かで、竹片の転がる乾いた音が、妙にはっきり聞こえた。
真壁が並べた魔石は、初めて見るものではなかった。
以前から製造に使っている工程魔石と、途中の仕上がりを振り分ける判断魔石だ。
ただ、脇へ広げた紙には、今日のために書き換えた加工区画のつながりがある。
澪はその途中を指した。
「竹の節が残ったものは、こちらへ分けますか?」
「うむ。繊維の通った部分と一緒には進めん方がよいのだろう」
「同じように処理しても、節のところだけ硬かったんです」
澪は竹片を取り、縦に走る筋と節の際を見せた。
理央は濡れた繊維を指先で持ち上げた。
「最後は、こういうのが残ってほしいんです。これを全部溶かしちゃうと……」
「あの膜になるのだね」
「はい。透明なのが出てきた時は、何が起きたのかと思いました」
真壁は膜を脇へ移し、図の経路を引き直した。
竹を分類し、繊維を残すように《成分分離》する。
ほぐした繊維を水へ散らし、薄い面に広げる。
そこから水を抜き、乾燥させた後で、ゼラチンを水に溶いた液を薄く行き渡らせる。
最後にもう一度乾かして、紙として取り出す。
昨日、2人が卓の上で行ったことが、真壁の《収納》内で続けて進むようにつながっていく。
「ここ、繊維を広げる前に水を抜いていませんか」
澪が指を止めた。
真壁もそこへ目を落とす。
「途中で寄りすぎぬように、と思ったのだが」
「昨日、枠を水へ戻したら、また広がったんです。ここでは、まだ水があった方が」
「なるほど」
真壁が順を変えると、理央は自分の手首を見た。
昨日は右へ傾け、戻そうとして左へ傾けた。
澪と向かい合い、水を滴らせながら持っていた枠が、今は壁へ立てかけられている。
「私の、あの傾きまで入るんですか?」
「そこは入れぬ方がよかろう」
「ですよね……」
真壁の口元が動いた。
笑われたのが少し悔しかったが、理央も笑った。
真壁は加工を受け持つ魔石と、途中の状態を判定する魔石の条件を合わせていった。
決めた範囲から外れたものは、先へ流さず、別の区画へ戻す。
見込んでいない状態になった時は、そこで止めて真壁自身が見る。
紙にできなかった部分にも、分けた成分にも、行き先がついた。
「こちらはインク用かね」
「はい。昨日、黒くしたのはこの方です」
理央が答えると、真壁はその経路だけを少し離しておいた。
「では、まず本のページを用意しよう」
澪が原料の竹を出した。
真壁はそれを自分の《収納》へ収め、工程魔石へ手を添えた。
理央は思わず、耳を澄ませた。
聞こえたのは、廊下で箱を引きずる音だった。
何かを叩く音も、水を切る音もしない。
真壁が目を向けているのも、机上の魔石と、本人にだけ分かる収納内の工程だ。
理央は澪の顔を見た。
澪も、まだ何もない卓の中央を見ていた。
真壁が工程魔石の連続処理を稼働させ、しばらくすると、そこへ靄が広がった。
紙が出てきた。
1枚ではなかった。
端を重ねた束が、真壁の手の下へ収まっている。
「こんなに……!」
理央は両手を伸ばしかけた。
真壁が束を卓へ置く。
かさり、と乾いた音がした。
理央は上の1枚をめくり、その下もめくった。
「あれ。厚さが違います」
こちらは指に硬く当たり、次の紙は持っただけで端が垂れた。
重ねたまま横から見ると、同じところだけが盛り上がっている。
真壁が束の端を軽く押さえると、厚い部分が先に突き当たった。
「なかなか立派な段差ができたね」
「立派ですけど、本にしたくない段差ですね……」
澪は薄い方を窓へかざした。
繊維の影が残っている。
透明膜とは違い、向こうの窓枠がそのまま見えるわけではない。
「紙にはなっています。仕上げまで通したんですよね?」
「うむ。水を抜き、乾かしてから表面の液をかけた。もう一度乾燥させたものだ」
理央は紙の端を指で挟んだ。
乾いている。
もう書けるのかもしれない。
筆を取ろうとして、折れ曲がった薄い角が目に入った。
昨日、自分たちの枠の右側で網が透けていた時と、よく似ていた。
「これ、私が傾けた時みたいです」
「君の傾きは外したはずだがね」
真壁が言うと、澪は紙を光へ向けたまま笑った。
「こっちに集まっています。繊維の量だけじゃなくて、広がり方も偏ったんですね」
理央は厚いところから薄いところへ、そっと指を滑らせた。
昨日の数枚の隣へ、今日の束がある。
これだけ増えるところまで来た。
けれど、重ねて本にするところを思うと、今度はその端が気になって仕方がなかった。
薄い紙は、折ろうとしたところより手前で腰が折れた。
理央は指を離し、卓へ戻した。
澪が別の1枚へ短い線を引いている。
細いままのところと、少し縁の広がったところがあった。
「また太ってます」
理央が覗くと、澪は筆を止めた。
「この辺り、仕上げ液が薄かったみたいです」
「こっちの艶は強いのに」
真壁は紙を傾けた。
窓の光が、片側だけを滑っていく。
真壁は薄い紙と、その紙を横へ並べた。
「繊維を均すところと、液を広げるところだな」
工程魔石へ手を添え、まず紙面を作る時の繊維の配分を変える。
決まった広さへ同じ量を送っていても、その中で片寄れば、薄いところと厚いところができてしまう。
真壁は面の中央から端まで広げる範囲を直した。
澪が、残した繊維を指で散らす。
「端をそろえる時に、こっちへ押し込んでいませんか」
「そこも直そう。端だけ厚くされては、積むほど傾く」
「本棚に入れたら、みんな片側に寄っちゃいますね」
理央は重ねた紙を軽く押した。
束が斜めにずれたので、慌てて両手で支える。
「今は押さえなくてよいよ」
「すみません……」
真壁は表面仕上げの方へ取りかかった。
ゼラチンを水に溶いた液が、面の一部へ先にたまっていた。
供給する量を改め、紙の端まで薄く届くよう、塗る範囲を変える。
液をかけた後の乾燥もそろえた。
理央は、昨日澪と向かい合って塗った時のことを思い出した。
道具に付けすぎた液を器の縁で落とし、すでに塗ったところへ重ねないように手を動かした。
あの加減まで、真壁の工程へ入っていく。
最後に、仕上がった紙を振り分ける条件を直した。
厚さや表面が外れたものは、良品へ混ぜず、再加工か保留へ分ける。
真壁はその経路を残したまま、原料を次の工程へ送った。
廊下の奥から、昼食の匂いが漂ってきた。
理央はそちらを向きかけて、真壁の手が動いたので顔を戻した。
新しい束が現れた。
今度は、横から見た端の線が揃っていた。
理央が1枚めくる。
さらり、と鳴った。
次も、その次も、指の下で同じようにしなった。
「澪さん」
「はい。だいぶ揃いましたね」
澪は筆を取った。
端から中央へ、細い線を引く。
理央は書き始めたところと、書き終えたところを交互に見た。
どちらも、筆が置かれた形を保っていた。
澪が顔を上げる。
理央は束へ両手を添えた。
昨日は1枚の角を浮かせるのにも、息を止めていたのに。
「昨日、あんなに時間かけたんですよ。なのに、もうこんなに……」
言いながら、笑ってしまった。
嬉しい。
嬉しいのに、壁の漉き枠を見ると、何か一言くらい言いたくなる。
「私たちの手首の苦労は……」
「その昨日がなければ、何を直せばいいかも分からんよ」
真壁は手漉きの1枚を、新しい束の上へ載せた。
「この紙に合わせているのだからね」
波打った角が、揃った紙の上で少しだけ浮いた。
理央はそこへ指を添えた。
今度は、新しい束と一緒に抱えられた。
「……これなら、本を増やせますね」
「君の原稿ができれば、だがね」
理央の腕が止まった。
澪が笑って、倒れかけた紙束の下を支えてくれた。
午後、真壁は分けておいた副産物をインクの工程へ回した。
竹紙の明るい色とは違う、黒褐色の塊だ。
昨日の《鑑定》では、リグニン系の成分のほかにも植物由来のものが含まれていた。
澪が取り分けた材料を、真壁が受け取る。
理央はなんとなく、両手を腰の後ろへ回した。
「今度は君が粉にするのではないよ」
「昨日、爪のところがなかなか落ちなかったんです」
真壁は笑って、《収納》内の経路をつないだ。
《錬金》を応用して炭化させ、冷ましたものを細かな粉にする。
それを水へ散らし、デンプン由来の糊を合わせて、筆に乗る液へ仕上げる。
澪は昨日のインクを筆先へ取り、器の上で持ち上げた。
「糊を入れた直後は、もっと重かったですね」
「筆まで貼り付けそうになりましたからね」
理央が言うと、澪も肩をすくめて笑った。
真壁は、その後に水を足して書けるようになった液を手本にした。
量に合わせて混ぜる割合を定め、仕上がった液は取り込んでおいた空瓶へ分ける。
ほどなく、卓へ瓶が出てきた。
黒い液面に、窓の光が細く映っている。
瓶の縁は汚れていなかった。
理央は自分の指を見た。
こちらも、きれいなままだ。
「本当に、出てくるところまでやってくれるんですね」
「今日は紙の方を黒くしてくれたまえ」
真壁が新しい竹紙を寄せる。
理央は筆を取り、液を含ませた。
器の縁で余分を落としてから、紙の端へ短い文を書く。
筆はつかえず、文字の最後まで黒が続いた。
澪が横から覗き、線の間へ目を近づけた。
「これなら、細かいところも書けますね」
「昨日の私にも、この瓶が欲しかったです」
理央はもう一度、自分の指を見た。
真壁が紙の隣へ瓶を置く。
竹色の束と、黒いインク。
その隣には、まだ空の瓶と、使う糊の器が残っている。
「瓶を出した分だけ、空瓶も要るな」
真壁は残りを見て、稼働させていた工程をいったん止めた。
水を飲み、椅子へ背を預ける。
理央は書いたばかりの紙を持ち、奥の原案へ目をやった。
さっき言われた続きを、思い出していた。
夕方、真壁は以前買った工房の紙見本と、新しい竹紙を並べた。
古い見本の毛羽立った端へ指を当て、今度は新しい束を同じ厚さまで重ねる。
インクの瓶も、その隣へ寄せた。
机に置いた紙へ、真壁の筆が短く走った。
竹、糊、ゼラチン、瓶。
原料を入れた時から、製造を止めたところまでの負担も思い返し、書いていた数字を一つ直す。
もう一度見たところで、真壁が笑った。
「……これは面白い値段になるな」
理央は隣へ椅子を寄せた。
「どれくらいですか?」
「親方の前で話してみよう。どんな顔をするか、見てみたいね」
「私にも、今それをやってますよね?」
「意地悪ですね、真壁さん」
澪も言ったので、真壁は紙を2人の方へ回した。
理央は見た。
前に工房で買った紙を見て、それから、もう一度数字を見た。
「この値段で、いいんですか?」
「こちらの紙ならね。継続して納める分は、用意できる原料と運転する者を合わせねばならんが」
真壁は今日使った竹の残りへ目をやった。
今ある材料で出せる量を見込み、先方へ持っていく見本を決める。
理央は紙を返しながら、工房の親方の顔を思い浮かべた。
あの人なら、まず何を言うだろう。
澪が見本を包んだ。
真壁は訪問の希望を短い手紙にして、届けに行く者へ託した。
返事はその日のうちに戻り、翌営業日の午前、工房の空けられる時間に来てほしいとあった。
理央は机の奥へ戻った。
雷の原案は、朝と同じところまでしか書けていなかった。
新しい紙束は、その隣にある。
理央は筆を取り、書きかけの文へ目を戻した。
翌営業日の朝、工房へ続く石畳は、水撒きでところどころ濃い色になっていた。
理央は木戸の前で足を止め、澪の持つ包みを見た。
前は、紙を作る方法すら知らずに来た。
今日は、その紙を持ってきている。
真壁が声をかけると、奥から親方が出てきた。
「お待ちしていました。こちらへどうぞ」
紙と革と、糊の匂いがする。
窓際の台は空けてあり、その向こうで若い職人が小皿を寄せていた。
奥の製本台には、綴じ待ちの束が積んである。
糸を引く職人の指が、少し光って見えた。
「この前お話しになった紙ですね」
「はい。竹という植物から作ったものです」
澪が包みを開く。
「インクもあります!」
理央が瓶を出すと、親方はそちらも見た。
「紙と、一緒に?」
「竹を紙にする時に分けたものから、黒い顔料を作ったんです。それで、糊と水を――」
説明しかけて、理央は口を止めた。
親方はもう紙を持ち上げていた。
表面へ指を滑らせ、裏返し、窓へかざす。
理央はその顔から目を離せなかった。
親方の指が角を折った。
「あっ」
声が出た。
親方が顔を上げたので、理央は慌てて手を引っ込める。
「いえ、折ってください。そのために持ってきたので」
真壁が横で笑った。
「最初は、破らぬように扱っていたものでね」
「よく分かります。最初に自分で仕上げたものは、私もそうでした」
親方は折り目を戻し、そこへもう一度指を当てた。
「こちらの大きさに切っても構いませんか」
「もちろん。必要な見本と、今日のお手間の代金は、こちらで」
真壁が答えると、親方は若い職人へうなずいた。
前にも使った花と雲の原稿が運ばれてくる。
理央には、雲の中の細かな点まで見覚えがあった。
職人は台の端に紙をそろえ、工房の見本へ合わせて裁った。
細い切れ端を脇の籠へ入れ、竹紙を原稿の隣へ置く。
小皿へ、新しいインクが注がれた。
若い職人が筆記用の線を一本引き、筆先の黒を見た。
それから原稿と白紙へ手を添えた。
「《転写》」
花の茎が現れた。
花びらの間へ白い隙間が残り、その横へ短い文が並ぶ。
理央は胸の前で両手を握った。
自分で筆を引いた時と違う。
職人の技能で、自分たちの紙へ、細かな絵が載っている。
若い職人は手を離してから、もう一度花へ顔を近づけた。
「……この茎、残っていますね」
細い線の隣へ、原稿を寄せる。
同じ白い隙間がある。
親方も覗き込み、しばらく紙を動かさなかった。
黒いところに窓の光が映っている。
理央は、初めて竹紙へ書いた線が太っていった時のことを思い出した。
けれど、待っても花びらはつながらなかった。
「ほう。あの点まで」
親方が、雲の中を指した。
理央はうなずきかけたが、胸の辺りが詰まって、声にならなかった。
澪が隣で小さく息を吐く。
「きれいに出ましたね」
「はい……!」
若い職人がその紙を乾燥板へ運ぶ間に、親方は薄い冊子を取り出した。
「では、こちらも。工房の見本ですから、全部写して構いません」
若い職人が必要な分の竹紙を広げ、小皿のインクを足した。
親方は原本の冊子へ手を置いた。
「《写本》」
台に並べた白紙へ、いっせいに頁が現れた。
目の前には文章、その隣には挿絵、その先にも続きの文字がある。
理央は首を動かし、一番向こうの紙まで見た。
全部だ。
親方が原本をめくると、最後の頁も、並べられた紙と同じだった。
机の端の小皿は、さっきより底が見えている。
使った紙の分だけ、文字になった黒があった。
「この紙で、本になるんですね」
口にしてから、理央は台へ手を伸ばした。
「もうインクは乾いているんですね」
「ええ。《転写》は写してから乾かしますが、《写本》はインクの定着まで済ませます」
親方が答えた。
理央が紙を裏返すと、そちらにも文字と挿絵が写っていた。
「あ、裏にも!」
「折って綴じれば、原本と同じ順に読めるようになっています。綴じるのは、職人の仕事ですがね」
親方が奥の台へ目を向けた。
理央も紙をもう一度裏返し、表と裏の文字を見比べた。
若い職人が写し終えた紙を表裏とも原本と見比べ、文字と絵の続きを最後までたどっていく。
そこから、奥の製本台へ運ばれた。
「写す方は、よさそうですね。こちらも触らせてもらいますよ」
製本職人が束を受け取った。
乾いた紙を折る。
指の腹で折り目を押し、内側へ戻りすぎないか見てから、束を重ねる。
理央はそこでも、紙の端ばかり見ていた。
穴を開け、糸を通し、職人が引く。
糸の周りは裂けなかった。
職人は力を緩め、束の背へ指を滑らせた。
「使えます。ただ、納めてもらう時には、この縁をもう少し揃えていただけると助かります」
指した先に、ごく短く出た繊維があった。
「折って重ねると、切る手間が変わりますので」
真壁は自分でも端へ触れた。
「仕上げの裁ちを合わせよう。今お使いのものを、見本にいただけますかな」
職人は台の脇から端紙を出し、真壁へ渡した。
最後に表紙を合わせると、ばらばらだった頁が薄い1冊になった。
親方が受け取り、手の上で開いた。
白っぽい竹色の頁が、順にめくれていく。
「この匂いはいいな。森の中に入ったみたいだ」
親方が頁へ顔を寄せた。
澪は、竹林の香りやフラボノイドなどの成分について、ゲンダイで読んだ話を思い出した。
「竹の香りですね。気持ちを落ち着ける作用があるそうですよ」
「なるほど。本を読むには、よさそうだ」
親方はもう一度香りをかぎ、頁をめくった。
理央は、ふと気づいた。
異世界の本を読むのは、これが初めてだった。
絵のある頁で親方の手が止まると、その先まで読みたくなった。
この本を持って、森の木陰へ出かけてもいい。
子どもたちが集まって、自分たちで頁をめくり、声に出して読む。
そんな光景が浮かび、理央は思わず澪の袖を引いた。
澪も同じ冊子を見て、うなずいた。
商談の机へ戻ると、親方は小冊子を閉じた。
「使う方は、分かりました。あとは、お値段ですね」
真壁が仮の卸値を書いた紙を渡した。
親方の目が、そこで止まった。
隣へ置いた竹紙へ手を伸ばし、端を持ち上げる。
「こちらが、この値段ですか」
「うむ。今日お持ちした規格の紙だよ。継続して納める量は、ご相談になるが」
「インクは?」
真壁が瓶を示し、そちらの値も伝えた。
親方は返事をせず、小冊子をもう一度開いた。
理央は澪を見た。
思っていた顔と違う。
声を上げて喜ぶのかと思ったのに、親方は頁の端を押さえたまま、しばらく動かなかった。
「……あの時、この紙があれば」
低い声だった。
「教材を、まとめて欲しいという注文があったのです。読み書きを教えるための、短い本でした」
親方は冊子を閉じた。
「予算を聞いて、紙とインクだけで難しいとお断りしました。作る前から、どうにもならなかった」
理央は、自分の原案を思い出した。
リオが棚へ本を戻す手も、浮かんだ。
親方は紙へ指を当てたまま、笑った。
少し、悔しそうな笑いだった。
「この値なら、話が違いましたね」
「今度は、受けられそうかね」
「綴じる手は、変わらず要ります。今の仕事もありますから、明日全部とはいきませんが」
親方は奥の台を振り返った。
さっきの職人が、もう別の束へ糸を通している。
「少なくとも、値段を聞くだけで断らずに済みます」
真壁もうなずいた。
「次も、同じ紙を納めていただけますか」
「こちらの仕上げで供給する見込みはある。裁ちのご希望と、必要な数を伺おう」
「それなら、ぜひ、うちへ卸してください」
親方が紙の見本を手前へ寄せた。
理央は、膝の上で握っていた手を開いた。
欲しいと言ってもらえた。
自分たちで書けた時より、胸の奥が熱くなった。
工房で見本を残してよいか、取引のある相手へ見せてもよいかという話になった。
真壁はうなずき、見せてよい品と、改めて相談する納入の範囲を伝えた。
理央は帰り道、澪に言った。
「買う人、いたんですね」
「いましたね」
「私、ずっと、リオたちの本のことばかりで」
澪は包みを抱え直した。
「ほかにも、本が欲しい人がいるんですね」
理央はうなずいた。
真壁は2人の少し前を歩き、振り返らずに聞いていた。
その数日後、事業所へ工房の使いが来た。
手には、見覚えのある竹色の紙を持っている。
「こちらで作っていると、親方から伺いました」
若い使いは紙を両手で広げた。
「うちにも売ってください!」
応対していた理央は、思わず立ち上がった。
「はい! えっと、真壁さん!」
「聞こえているとも」
奥の机から、真壁が顔を上げた。
「どちらの工房からお越しかね」
使いが答える間にも、店先の荷車が動き、会話を一度遮った。
それから別の商人が、インクの見本を取りに来た。
「紙だけでなく、こちらも扱わせていただけませんか」
商人は瓶の蓋を閉じ、小皿へ出した黒い液と見比べた。
「帳面の紙を探している客がおりましてね。両方そろうなら、話が早い」
近隣から届いた書簡にも、紙の厚さと、どれだけ納められるかという問いがあった。
真壁は相手の使い道を聞き、納める量と時期を順に相談した。
理央が見本を包んで戻ると、その机にはもう次の書簡が置かれていた。
自分の原稿へ戻れると思ったところへ、また戸口から人の声がする。
理央は立ちかけ、今度は椅子に座り直した。
隣の澪が、代わりに応対へ向かってくれた。
真壁はその様子を見て、机の小冊子を手元へ寄せた。
紙とインクの向こうには、写す職人がいる。
綴じる職人がいて、できた本を欲しがる相手がいる。
真壁は小冊子を閉じ、問い合わせの書簡の隣へ置いた。
夕方になると、店先の荷車も去った。
澪は見本を入れていた箱を空け、机へ戻ってきた。
真壁の前には、竹紙の束と黒インク、工房で仕上げた小冊子が並んでいる。
その向こうで、理央が原案へ顔を寄せていた。
今度はちゃんと、筆が動いている。
「澪君」
真壁が、新しい紙を1枚持ち上げた。
「これを作るのに、腕力は要ったかね」
澪は紙を見てから、壁際に残る漉き枠を見た。
「私たちが作った時は、けっこう要りましたけど」
「そちらではないよ」
真壁が笑ったので、澪も笑った。
「真壁さんの工程なら、竹も、水も、紙を乾かす板も、全部《収納》の中ですね」
「うむ。だったら、重い竹を抱えられぬ者にも任せられる」
澪は椅子を引いて座った。
「製造を、ほかの人に?」
「私が毎日、ここで紙を作っているわけにもいかんからね」
真壁は、問い合わせの書簡を脇へ寄せた。
「以前の分散生産と同じだ。本人の《収納》へ工程を組む。魔石が製造を進めるなら、外で1枚ずつ紙を持って歩く必要はない」
「今まで、工房の仕事は身体がもたないと諦めていた人でも……」
「年寄りにも、脚の不自由な者にも、できる者はいるのではないかね」
澪は、自分たちの桶を抱えた時の重さを思い出した。
理央が前をふさぎ、横へよけてもらった朝のことまで浮かぶ。
あの桶を運ばなくてよければ、座ったままでも製造に携われる。
「《収納》が使えて、工程魔石を動かせる人なら、ですね」
「もちろん。私の収納を預けるわけではない。その人の中で、動かせる工程を持ってもらう」
澪はうなずいた。
「動かす負担も人によって違いますから、運転する時間も、その人に合わせたいです」
「そこを見られる管理者が要るね。紙だけ出ればよい、という者には任せられん」
真壁は紙束を下ろした。
その音で、理央が顔を上げた。
「女の人も、やりやすそうですね。重いものを持てるかで、最初から断られなくて済むなら」
「君たちが作り方を見つけた仕事だからね」
真壁が言うと、理央は少し得意そうに座り直した。
「覚えるところからなら、教室を出た子にも道ができるかもしれません」
澪が言った。
「働く年頃になった時に、選べる仕事が増えるといいですね」
「うむ。ならば、教える者も考えねばならんな」
真壁は小冊子を開いた。
ページをめくる間、外から戸締まりを呼び合う声が聞こえた。
「ただ、製紙だけでは、この1冊にはならん」
澪も、糸の通った背へ目を落とした。
「写本も製本も、職人さんが必要ですね」
「それを、一つの会社で扱いたい。紙とインクを作り、本を写し、綴じて、売るところまでつなぐ。もちろん、工房へ材料を卸す仕事も続ける」
真壁は冊子を机へ置き、原案を書いている理央を見た。
「本を作りたい者が、あちこちへ頼んで回らずに済むようにね」
理央の筆が止まった。
「それ、私も頼めますか?」
「原稿ができれば、大切なお客様だ」
「また、そこに戻るんですか……」
理央は原案へ向き直ったが、肩が小さく揺れていた。
澪も笑い、それから机に並ぶものを見渡した。
ついこの間まで、紙を作る話をしていた。
今は、その紙を作る人と、本を作る人の話になっている。
「会社を動かす方も、探さないといけませんね」
「そうなのだよ。製造を見られる者と、経営を任せられる者。私が両方へ座っていては、押入商会の方へ戻れん」
真壁は椅子へ背を預けた。
魔石で紙は増やせたが、人の代わりまで出てくるわけではない。
澪は小冊子を手に取った。
軽い1冊だった。
けれど、工房でその背へ通った糸を、まだ覚えている。
隣へ置かれたニャニャミの帳簿には、新しい竹紙が試しに1枚挟んであった。
真壁がその厚い背を見て、笑った。
「さて。工場長が見つかるまでは、私も紙を作るか」
「帳簿の分も、ですか?」
「そちらの催促は、なかなか手強いからね」
理央が顔を上げた。
「私の本の紙は、取ってありますよね?」
澪は原案の横に置いてある束を示した。
理央はほっとして、また筆を動かす。
真壁はその先へ、新しい竹紙をもう1枚置いた。