真壁の机には、紙が二種類積まれていた。
片方は写本工房から届いた注文の控え。もう片方は、ついこの間まで理央が何度も漉き直していた竹紙だ。黒いインクで文字を写した小冊子は、端を揃えて閉じられ、机の真ん中に置かれている。
窓の外を荷車が通った。石を踏む車輪の音に混じり、商館の方から客を呼ぶ声が聞こえる。
「澪君。新しい会社では、50人ほど迎えたいと思っているのだがね」
澪は、手に取ろうとしていた小冊子を机に戻した。
「……50人? 写本の会社ですよね?」
「紙を作り、文字を写し、綴じて、町へ届ける。商売の入口から出口まで考えれば、50人でも多くはないさ」
真壁は募集案の上に筆を走らせる。その数字が訂正される気配はなかった。
「本屋さんを作る話だったはずなのに、会社になっちゃいましたね」
理央が小冊子を撫でた。あの紙を作るまでに何度失敗したか、彼女の指先はまだ覚えているらしい。
「本屋が本の出来上がるのを待っていては、売る本がなくなるからね。そこから作ればよいというだけだよ」
「その『だけ』が大きいんですけど」
澪が小声で言うと、隣でニャニャミの白い尾が動いた。金色の目は、早くも募集案の給与欄に釘付けになっている。
「総支配人、これは給料が高すぎないかニャ? 住むところも用意するって書いてあるニャ」
「仕事のできる者が来なければ、安く雇っても結局高くつくのだよ」
真壁は金額のところを指で隠し、代わりにその下へ新しい行を書いた。
「休暇と食事、それから医療の支援。新町なら住居も仕事場も一緒に整えられる。学校も既にあるしね」
「託児はありませんか」
理央が聞いた。
「小さい子を連れた人、働きに行くのが大変でしょうから」
「では、それも設けよう」
「今、決めちゃうんですか?」
「子を預けられぬというだけで腕のよい職人を逃すのは、経営者の怠慢ではないかね」
書き足された『託児・学習支援』の文字が乾くまで、澪は答えられなかった。
働く人の都合に仕事を合わせる。言葉にすれば簡単だが、50人なら50通りの生活がある。病気になったら誰が休ませるのか。家族の食費が足りなければ。仕事を覚えるのに時間がかかれば。その全部が、会社の代表である自分の方へ向いてくる。
「療養中の人も応募できるんですか?」
「体調に合った仕事はある。具合の悪い時に働かせるつもりはないよ」
「採用したあとの治療や研修は、会社が負担するんですよね」
「無論だとも」
真壁は当然という顔で頷き、紙の余白に製造工程を描き始めた。原料、加工、良品の区画。その間に工程魔石を置く。
「《鑑定》と《収納》を持つ者なら、本人の《収納》の中で製紙やインクの工程を動かせる。外では写本や販売をしてもらえるわけだ」
「全員、同じ仕事をするわけじゃないんですね」
「技能の揃う者から始めればよい。必要な技能やSPが足りなければ、そこも育成する」
理央が顔を上げる。
「転職まで面倒を見るんですか?」
「必要な者は司祭の儀式で《商人》に変わる道もある。既に《鑑定》と《収納》を持っている者まで変える必要はないがね」
「50人分の給料に住居、薬、研修費……」
澪は数字を頭の中で足しかけて、やめた。勝手に計算できる項目がまだ少なすぎる。
「真壁さん、本当に採算が取れるんですね?」
「取れなければ始めない。紙を安く作れるだけでは注文は増やせても、本を世へ出す人手が足りん。人を育てる費用は、そこを解消する投資だよ」
澪はもう一度、小冊子に目を落とした。最初に本を作りたいと言ったのは理央だ。なのに、紙一束の向こうに50人の暮らしが見えている。
「犯罪歴のない方、という条件は入れます。身元や経歴は領の窓口にも協力してもらって調べましょう。ただ、年齢や子どもの有無、今の健康状態だけで断るのはなしで」
「よろしい。君が代表なのだから、その方針で進めよう」
自分の発言がすぐ募集条件になった。嬉しいより先に、背中が伸びる。
「ところで、これだけの条件を張り出して、信じてもらえますかね」
「まず来て見てもらうことだね。領内各地に一週間、掲示しよう」
ニャニャミが耳をぴくりと動かした。
「何人来るか、ちょっと怖いニャ」
「選べるだけ来てくれれば、ありがたいことだよ」
理央と澪は顔を見合わせた。真壁だけが、もう次の募集札へ筆を運んでいる。
領都の掲示板へ最初の札が打ち付けられた時、まだ朝市の店も開ききっていなかった。
新しい竹紙は風にめくれ、留め具のそばだけが小さく震えている。真壁は掲示場所の許可を取った商館主に軽く礼をし、次の札を《収納》から取り出した。
「ほう。ずいぶん待遇がよいな」
商館主が目を細める。
「おかげで問い合わせも増えるだろう。そちらへ案内していただければ助かるよ」
真壁は訪れたことのある町には《転移》で赴き、そうでない場所には商館の便や町の担当者に札を託した。字を読めない客には酒場の主人が読み上げた。張り紙と人の口で、募集は日に日に遠くへ広がっていった。
「ねえ、ここ。子どもを連れていても応募できるって、本当?」
領都の店先で幼い子を背負った女性が、掲示を指さした。
「そう書いてあるな。託児の場所も用意するそうだ」
店主は札の端を押さえた。
「私、何年も店に立っていないんだけど」
「前職不問だろう。昔は勘定を間違えなかったじゃないか」
「昔はね。今は、この子の相手で毎日精いっぱいだよ」
女は背中の子の寝息を確かめたあと、募集先の住所を覚えようともう一度紙に顔を近づけた。
別の町では、杖をついた男が札の前から動こうとしなかった。
「旦那。あんたまで応募するのかい」
元同僚が声をかける。
「年齢で断らんそうだ。読めるだろう」
「だが、その足だろ?」
「帳面をつけるのに、この足で駆け回る必要があるかね」
男は杖の柄を持ち直し、しばらく見ていなかったような表情で勤務条件を読み進めた。
診療所近くの掲示では、家族に腕を引かれた男性が立ち止まった。
「まだ治療の途中だろう」
「分かっているよ。『治療中も相談可』だそうだ。働けるか聞きに行くくらい、いいじゃないか」
家族は止める言葉を探したが、結局、掲示の住所を一緒に写した。
七日のあいだに、問い合わせの紙と伝言は押入商会へ次々届いた。新町には本社と写本・製本の作業場、社員の居住区、託児・学習のための施設が加わった。駅には乗合便が停まり、学校帰りの子どもが通りを横切る、いつもの町の一角だった。
理央は問い合わせの束を抱えたまま、真壁の横を歩く。
「みんな、同じ募集を見ているのに、気にするところが全然違うんですね」
「職を探す者もいれば、もう一度職に戻りたい者もいる。こちらも人を欲している。会わなければ、何も始まらんよ」
「でも、50人しか雇えませんよね」
「だから、選ぶ方にも責任があるのだよ」
真壁が手にした名簿の端には、既に予定していた行を超える追記があった。理央はそれを見て、明日の会場を思い浮かべた。
50人。
最初は大人数だと思ったのに、今はその数がひどく小さく思えた。
受付開始の朝、理央は駅から歩いてきたところで足を止めた。
道の先に、人が並んでいた。作業着の男性も、きちんとした外套を着た商人もいる。椅子に腰かける年配の女性の横では、小さな子が弁当包みを開こうとして母親に止められていた。
列は採用会場の屋根付き待合へ入り、さらに建物の角を回って続いている。
「……あれ、全部応募者ですか?」
澪が列の先へ目を細めた。
「そうみたいです。角の向こうにも、まだいますね」
「50人募集ですよね?」
受付担当が駆けてきた。差し出した集計用紙の端が、汗ばんだ手で少し曲がっている。
「受付番号が、ただいま千番を超えました!」
「千人!?」
理央の声に、近くにいた男性が振り返った。悪いことをした気がして、慌てて頭を下げる。
「千人が50席を狙ってるニャ」
ニャニャミは並んだ靴を眺め、白い尾を揺らした。列の先では旅装の若者が、赤ん坊を抱いた女性に椅子を譲っている。その脇を抜けた男は、受付番号を確かめようと係を何度も呼び止めていた。
町の売上も、集まった人数も、ニャニャミには数字で追える。けれど今の二人がどんな人なのか、どこを眺めれば分かるのだろう。
「ありがたいことだね」
真壁は混雑の外側を一度見回し、受付を職種別に分ける札を指した。
「今日は希望と条件を聞く日だ。面接は数日に分ける。あの人数を一度に相手にしたら、向こうもこちらも顔を覚えておれんよ」
初日の窓口には複数の係が座り、希望職種、これまでの経験、通える日と住まいの事情を聞いている。紙を書けない応募者には係が質問して代筆した。身元の資料は別に預かり、領の窓口へ確認を依頼する予定だ。
「製本希望なのですが、ここでよいでしょうか」
荷物を抱えた男が受付札の前で立ち止まる。
「製本は右側の窓口です。今日は希望を伺って、後日の面接日をお伝えします」
「今日は面接じゃないのですね。よかった。店を半日休んで来たもので」
男がほっとした顔で右へ向かうと、今度は女性が腕を組んで係に尋ねた。
「年を聞いて、その場で帰れとは言わないでしょうね」
澪が足を止める。
「そういう選び方はしません。どんな仕事をなさってきたか、ぜひ聞かせてください」
女性は疑わしげに澪を見たあと、口元を緩めた。
「……そうかい。だったら話すことは、たくさんあるよ」
ニャニャミは女性の顔を見直した。さっきは澪に食ってかかるような声だったのに、今は受付票を大事そうに抱えている。何を心配して来たのか、そちらの話も聞いてみたくなった。
待合では春の日が白い布を透かし、足元に柔らかな光を落としていた。けれど遠くから来た人の肩は重く、赤ん坊をあやす母親は立ったまま休める場所を探している。
澪は受付の端に積んだ椅子を見つけ、係に声をかけた。
「授乳や通院のために離れる方にも案内を渡してください。座れる場所も、もっと奥へ設けた方がよさそうです。列に戻る時は番号で呼べるように」
「分かりました。では、呼び出しの札を……」
係が動き、近くの母親が礼を言う。澪が受付へ戻る頃には、その母親も椅子に座り、赤ん坊のずれた帽子を直していた。
「総支配人、50人じゃ絶対に足りないニャ」
「ふふ。採りたい者が多いのは困るね」
「笑って言うことですか……」
澪が呟く隣で、理央は薄い受付票を抱え直した。千人という数が急に重くなったような気がした。
二次面接の2日目、ニャニャミは机の端に置かれた白紙を眺めていた。
市場の品が足りているか、町の売れ行きがどうか。そういう数字なら、今までにも見えた。けれど目の前の応募者は、皆同じ紙を見てやって来たのに、話すことがずいぶん違う。
製本希望のエルマー・シュティールは、前の工房を辞めた理由を説明していた。
「納期より見栄えを優先しろと言われまして。私は、約束の日に仕上げる方がよいと思ったのです」
「では、仕上がりを雑にするのかね」
真壁が尋ねる。
「いえ、それも違います。どうしても両方を守れないなら、まず注文主へ話します。黙って遅れるより、頭を下げる方が早いでしょう」
その時だった。
男性の顔の横に、見慣れない文字と黒い棒が並んだ。ニャニャミは耳を立てる。目をこすろうとして、今度は足元を見た。表示は消えず、男性が口を開くたび視界の同じ位置に留まる。
《千里眼》Lv10。
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人物情報
対象:エルマー・シュティール
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気性 53 ■■■■■□□□□□
精神 56 ■■■■■■□□□□
主義 46 ■■■■■□□□□□
行動 61 ■■■■■■□□□□
義理 52 ■■■■■□□□□□
野心 49 ■■■■■□□□□□
物欲 47 ■■■■■□□□□□
----------------------------------
人物特性
趣味:園芸
得意:几帳面な作業
苦手:急な予定変更
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勝手に胸が騒いだが、真壁は相手の話を続けていた。ニャニャミも口を閉じる。
「結構。それでは、後日こちらから連絡するよ」
応募者が丁寧に礼をして出ていく。次の面接までの短い合間、職員控室へ移ったところで、ニャニャミは我慢できなくなった。
「総支配人! いまの人、顔の横に棒が7本出ていたニャ!」
「棒?」
理央が自分の額に指を当てる。
「何かついてたんですか?」
「違うニャ! あたしにだけ見えたニャ。《千里眼》がLv10になってるニャ!」
「おめでとうございます」
澪が微笑みかけたところで、ニャニャミは机を引き寄せた。
「気性、精神、主義、行動、義理、野心、物欲だニャ。値段でも需給でもないニャ!」
「性格診断みたいですね」
「興味深い。市場から人物へ広がったのだね」
真壁が筆を渡すと、ニャニャミはエルマーの顔の横に出た数字と棒を、順番にノートへ写した。自分にしか見えない表示だから、二人にはこうして伝えるしかない。澪と理央が机を回り、初めてその数字を覗き込んだ。
「……エルマーさんは、どれも普通の人、ですか?」
理央は棒を数えて首を傾げた。
「そうニャ。50くらいが真ん中らしいニャ」
「普通の人が、普通の仕事をきちんとする。会社にはそれが必要だよ」
真壁の指が、さっきの男性の回答を書いた紙を叩いた。
「数字より、納期についての答えが気に入ったね」
「気性の数字が高いと、怒りっぽいんですか?」
理央が尋ねると、ニャニャミが首を横に振る。
「逆ニャ。高い方が温厚。精神は剛胆、主義は理想寄り、行動は慎重。義理は義理堅さ、野心と物欲は強さだニャ」
「全部100なら、すごくいい人というわけではなさそうですね」
澪は紙の端を押さえた。
「何も欲しがらず、絶対に慎重で、理想を追う者が営業の席に座ったらどうなるかね」
「……いつまでたっても契約できなさそうです」
理央が答えると、ニャニャミがペンを握り直した。
「数字だけで決めずに、ちゃんと話を聞くニャ」
「それがよい。相手の心の中を読めるわけではないのだろう?」
「うん。何を考えているかまでは見えないニャ」
ニャニャミは書き終えた紙を丁寧に重ねた。今までは物の値段を知りたくて見つめてきた。今日からは、人に向けて目を凝らすことになる。その違いが、なぜか少し嬉しかった。
午後、ノルベルト・ヴェルナーと名乗る商人が、上等な上着を着て面接室へ入ってきた。
手入れの行き届いた靴が床を滑るように進み、机の前でぴたりと止まる。差し出した経歴書は、売上や成約の数字で埋まっていた。
「以前の商館では、私が入ってから利益が倍になりました」
「大したものだね。どのように増やしたのかね」
真壁が尋ねると、男は待っていたように胸を張る。
「仕入れ先を競わせました。弱い相手は切り、こちらに都合のよい条件を出す業者だけ残したのです。商売は情けではありませんから」
澪は男の経歴書から目を上げた。
「職人さんたちは、それで納得したんですか?」
「もちろん不満は出ますよ。ですが材料を押さえれば、結局は向こうから頭を下げてきます」
ニャニャミの尾が椅子の脚に当たった。男の顔の横には、こんな数字が浮かんでいる。
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人物情報
対象:ノルベルト・ヴェルナー
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気性 58 ■■■■■■□□□□
精神 64 ■■■■■■□□□□
主義 38 ■■■■□□□□□□
行動 67 ■■■■■■■□□□
義理 24 ■■□□□□□□□□
野心 86 ■■■■■■■■■□
物欲 81 ■■■■■■■■□□
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人物特性
重視:利益、地位
得意:売り込み
苦手:譲歩
----------------------------------
ニャニャミは真壁の方へ少し身を寄せ、本人には聞こえない声で囁いた。
「義理24、野心86、物欲81ニャ」
澪は思わず視線を男に戻した。悪い数値に見える。でも、数値が低いことだけでは、この人が何をしてきたかまでは分からない。
真壁は、男の手が触れていた竹紙の見本を自分の方へ引いた。
「この会社は、既存の写本工房にも紙を卸す。相手が値下げに応じなかったら、どうするね」
「別の工房へ回します。いざとなれば自前の職人を増やせばよいでしょう。原料を握る側が強いのですから」
「ほう。では工房が、約束した納期を守るために夜通し仕事をしたら?」
「それは好都合です。次から仕事を増やせます」
「追加の代金は?」
「払う必要がありますか? 向こうが勝手に努力したのでしょう」
澪は机の下で指を組んだ。先日見た写本工房では、親方も若い職人も、紙とインクの具合に合わせて何度も手を動かしていた。誰かが無理をしたことを、次の無理の根拠にされたらたまらない。
「それだと、いつか工房が続けられなくなるのでは」
男は優しい口調を崩さなかった。
「お嬢さん、商売は利益を出してこそですよ」
「まったくだね」
真壁の返事に、男の顔が明るくなった。
「お分かりいただけますか」
「利益がなければ従業員に給料を払えん。だが、取引相手を使い潰して得る利益では、この会社は長続きしないのだよ」
「なぜでしょう。材料を御社が握るなら、替えは幾らでも……」
「こちらが強い時に何をしたかは、よく覚えられるものさ。困った時に誰も助けてくれぬ会社を、私は作りたくないね」
男の笑顔が薄くなった。
「では、私は採用いただけないのですか」
「君の手腕を評価する商館はあるだろう。しかし、この仕事にお任せする方針とは合わんね」
真壁は書類を返した。男は上着の襟を直し、礼をして退出した。最後まで丁寧だったからこそ、澪には後味が残る。
ニャニャミがノートを閉じた。
「数字が悪かったから落としたわけじゃないニャ?」
「数字で面接の答えが変わったわけではないよ。売れる能力と、会社を預けられる能力は別だということさ」
理央は廊下へ消えた靴音を聞いていた。
紙が安くなったことで、本を作りたい人の仕事を奪ってしまうのではないか。そんな心配をし始めたところだった。今の人が社長になったら、きっとその心配は現実になる。
「次は、職人さんたちと一緒にやっていける人がいいですね」
真壁は新しい応募書類へ手を伸ばした。
「では、そういう人を探そうか」
その女性は、受付の前に立っただけで目を引いた。
銀に金を混ぜたような髪は丁寧に結われ、外套は少しくたびれているのに、着こなしだけは古い宮廷の肖像画から抜け出してきたようだった。
「お名前と受付番号をお願いします」
受付係が尋ねると、女性は微笑んだ。
「まあ、私よ。お忘れになって?」
「……失礼ですが、どちらで?」
「昔、雨宿りをご一緒したでしょう。濡れた靴を乾かしてくださったわ」
受付係の手が止まった。彼女の顔が、疑問から懐かしさへふっと変わる。
「あっ……あの時の! 気づかなくて、ごめんなさい」
「いいのよ。今日は少々急いでいて。先に案内してくださらない?」
「ええ、もちろん。こちらへ……」
「待つニャ」
横で様子を見ていたニャニャミが、二人の間へ半歩出た。女性の顔の横に見えた数字も気になったが、まずは受付係の反応を確かめたかった。
「その人、本当に知り合いニャ?」
「そうよ。昔、一度お世話になって……」
「いつの雨の日ニャ? どこの町だったニャ?」
受付係は口を開いたまま考え込んだ。思い出せるはずなのに、場所も時期も出てこない。女性の方が先に答えた。
「ずいぶん熱心な猫さんですこと」
「ケット・シーだニャ!」
その声を聞いてやってきた澪は、ニャニャミから事情を聞いた。女性を見ると《鑑定》の表示が視界へ立ち上がる。技能欄にあった名前で、指が止まった。
《既成事実》。
まさかと思い、受付係の顔を見直す。彼女は今も、目の前の人を古い友人として心配そうに見つめている。
澪は受付の順番を変えないよう係に頼み、真壁へ技能名と起きたことを伝えた。女性は特別扱いで先に選考を受けるのではなく、受付での異変について事情を聞くために別室へ案内された。
「クラリッサ・フォン・レーヴェンと申します」
女性は真壁の前で優雅に頭を下げた。
「お久しぶりでございます、真壁様」
「ほう。君とは会ったことがあったかね」
「5年ほど前、雪の降る街道で追手から私をお救いくださいましたわ」
理央は顔を上げた。そんな話を聞いた覚えがない。けれど受付係と同じように、急に懐かしい顔をされるのかもしれない。
真壁は、机に置いていた筆を静かに戻した。
「雪の降る夜か。ずいぶん凝った思い出だね」
「……お忘れに?」
「実際にあったなら、ね」
女性の笑みが固まった。指先が袖口をひと撫でし、真壁を真正面から見た。
ニャニャミは、受付で見えた人物情報をもう一度確かめた。
----------------------------------
人物情報
対象:クラリッサ・フォン・レーヴェン
----------------------------------
気性 47 ■■■■■□□□□□
精神 82 ■■■■■■■■□□
主義 39 ■■■■□□□□□□
行動 76 ■■■■■■■■□□
義理 34 ■■■□□□□□□□
野心 81 ■■■■■■■■□□
物欲 56 ■■■■■■□□□□
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人物特性
得意:礼法、交渉
重視:自分の立場を守ること
苦手:相手に主導権を奪われること
----------------------------------
「あなた……何者でいらっしゃるの?」
「採用担当者だよ。先ほど受付で何をしたか、聞かせてもらおう」
真壁は声音を変えない。澪が本人から聞いた《既成事実》という技能名を告げると、クラリッサの目がほんの少し見開かれた。
「人の思い出を勝手に作って、順番を曲げさせたね。受付の女性が、今どう感じているか考えたことはあるかね」
「……私が責任を持ちますわ」
「ならば、まずはその約束を守っていただこう」
叱責よりも短い言葉だった。クラリッサは返す言葉を探したが、真壁はもう次の質問に移っていた。
「改めて経歴を伺おう。君はセレヴィアの出身かね」
「ええ。かつては伯爵家に連なる身でした。今はその家も以前のようではございません。語学、礼法、交渉なら、お役に立てると思いますわ」
「そして、会話する相手へその場で暗示をかけられる」
クラリッサは否定しなかった。
「あなた以外に、ここまで通じなかった人はおりません」
「似たことなら、私にもできる。ただし君ほど手軽ではないのだよ」
真壁には、敵を制圧し《収納》へ取り込んだうえで記憶に干渉した経験があった。準備のいる方法と、相手が椅子に座って話しているあいだに偽の思い出を作る方法。澪にも、その差が大きいことは分かる。
「ご自分でできるのなら、私など不要では?」
「使う条件が違うのだよ。君の能力は、扱い方を誤れば危険だ。しかし価値もある」
「真壁さん、その力を知って雇うんですか」
澪の声に、真壁は頷いた。
「私の直属にする。勝手に誰かへ使わせるわけにはいかんからね」
「信用なさるのですか?」
「今ここで信用しきる方が不自然だろう。君にはできることをしてもらう。その使い道には私が責任を持つ」
クラリッサは初めて、貴族らしい微笑みをしまった。
「では、身元はどうお調べに? セレヴィアの貴族名簿でも取り寄せなさいます?」
「ああ、向こうには知り合いがいたね。理央君、少し付き合ってくれたまえ」
「えっ。誰のところですか?」
「トルヴィアのヴァルセナ伯爵家だよ」
理央は椅子から立ち上がり、室内の安全な位置に《関門接続》を開いた。向こう側は、以前から交流のあるセレヴィア側の訪問地点だ。真壁と理央が扉を抜けると、残った澪にはそちらの空気が一瞬だけ流れ込んだ。
「……今の、扉ですの?」
クラリッサが尋ねた。
「はい。用事があるそうで」
「どこへ?」
「セレヴィアだニャ」
「……そんなご冗談を」
ニャニャミは答えず、尻尾を机の脚へ巻きつけた。
澪は受付係のことが気になった。あの人の中では、今も雨の日の出来事が本当にあったことになっている。クラリッサが消えた途端に忘れるようなものなら、まだよい。けれどそれを期待してよい根拠はない。
再び扉が開いた時、真壁と理央の後ろには見覚えのある令嬢がいた。
廊下へ出たセリネアは、窓から新町の通りを見た。乗合便が止まり、荷車を避けて学校帰りの子が歩いている。住民はいつもの風景の中を行き過ぎ、異国から来た彼女だけが動けなくなっていた。
「真壁様……ここは本当にヴェルデン王国ですの?」
「うむ。ヴァルディス侯爵領の新町だよ」
「つい先ほどまでトルヴィアにおりましたのに……」
「《関門接続》って、二つの場所をつなげられるんです」
理央が説明すると、セリネアは深く息をついた。
「便利、と片づけてよいことなのでしょうか」
「感想は後ほど。お呼びした件だが、この女性をご存じかね」
セリネアが室内へ向き直る。クラリッサと視線が合った。
「……セリネア様?」
「まあ、クラリッサ! あなた、こんなところで何をしているの?」
今度、言葉を失ったのはクラリッサの方だった。先ほどまでの余裕が消え、彼女は何度も真壁とセリネアを見比べている。
「彼女はセレヴィアのレーヴェン家の方です。以前、貴族の集まりでお会いしています」
セリネアは真壁に向き直った。
「本人で間違いありません。私が知る範囲の経歴でしたら証言できます。家から書状を出すこともできますわ。ただ、その後の行動をすべて存じているわけではありません」
「それで十分だよ。身元の裏付けは一つできた。残る経歴や犯罪歴の確認は、こちらの手続きで進めよう」
クラリッサは唇を開き、やっと声を出した。
「国境の向こうから……本当に、わざわざ?」
「知人に頼めることを、わざわざ遠回りする必要もあるまい」
「真壁様。この方に何のお仕事を?」
セリネアの問いに真壁は、いつもの穏やかな調子で答えた。
「私の補佐として、少々特殊な仕事をお願いするつもりだよ」
「普通の会社の面接って、こういうことはしませんよね」
理央がこぼす。
「ふむ。少々遠出が過ぎたかね」
澪は苦笑したものの、机の端に置いた受付係の報告を手元に引いた。少しも解決していない仕事がある。
その後、クラリッサは受付係へ自分がしたことを話し、偽の記憶が残っている可能性についても説明した。係を一時的に窓口から外し、澪が様子を見た。記憶の影響がどう収まるかは、まだ分からない。
真壁はクラリッサに、社員にも客にも、本人に断らず《既成事実》を使わない条件を示した。
「それを守るなら採用する。仕事は当面、私の直属で限られた範囲だ。過去の経歴の確認も続ける」
「……面接で一度、規則を破った私を?」
「規則を破ったから責任を取ってもらうのだよ。君の腕まで無かったことにはせん」
クラリッサは長い間、真壁を見つめていた。やがて、その日初めて、作り物めいていない礼をした。
「承知いたしました」
澪はその姿を見ながら、雇用契約の余白に監督者の名を書き込んだ。危険な才能を見つけたのは真壁だ。だが、その才能を会社へ迎える責任から、自分が外れるわけではない。
次に真壁が長く話したのは、派手な経歴を持たない男だった。
ヨハン・ホルツマン、46歳。地方問屋で副支配人を務めていたが、店主の引退で店を畳むことになったという。着ている服は上等すぎず、書類の受け渡しだけが妙に手慣れている。
「ここに安く作れる紙がある。君ならどう売るかね」
真壁が机に竹紙を一枚置くと、ヨハンはすぐには答えなかった。指の腹で紙質を確かめ、窓の明かりに透かす。
「卸します。ただ、相手によって売り方は変わります」
「写本工房が欲しいと言っている。うちも本を作る予定だ。つまり競争相手だね」
「競争相手に売らないのですか?」
その問い返しに、真壁の口元がわずかに動いた。
「君が支配人なら?」
「売ります。自社の製本を優先するために紙を止めたら、工房は敵になります。こちらが作れる本の数には限りがあるでしょう」
「自社の本が売れにくくなりませんか」
澪が口を挟む。
「紙を買う工房が増えれば、紙の売上も増える。書店が扱う本も増える。先に読める本を世の中へ増やした方がよいのでは」
「しかし、相手がうちの紙で安い本を作り始めたら?」
真壁はさらに問うた。
「それでも紙を買ってもらえます。安くするために職人を潰さなければ成立しない商売なら、設計が間違っています」
理央は思わず顔を上げた。前の商人なら、そこで取引先を買い叩く算段を始めただろう。
「ひとつ伺いたいのですが」
ヨハンが今度は質問した。
「紙を安く作るだけでも十分な商売になります。なぜ、そこから本を売ろうと思われたのですか?」
「私が、子どもたちの読める本を作りたいと言ったからです」
理央はつい身を乗り出した。
ヨハンは彼女の顔を見て、初めて柔らかな表情になる。
「なるほど。読み手を増やすのが、この会社の仕事なのですね。ではそのための販路を考えます」
「利益より本が大事、ということですか?」
「いえ、利益も大事です。会社が潰れれば、本は一冊も届けられませんから」
その答えに、澪は安心した。夢を大切にすると言って、現実の支払いを忘れる人ではなさそうだ。
ニャニャミはヨハンの顔の横を見つめた。商談の話をしている間も、そこには同じ数字が並んでいた。
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人物情報
対象:ヨハン・ホルツマン
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気性 56 ■■■■■■□□□□
精神 63 ■■■■■■□□□□
主義 48 ■■■■■□□□□□
行動 66 ■■■■■■■□□□
義理 71 ■■■■■■■□□□
野心 63 ■■■■■■□□□□
物欲 50 ■■■■■□□□□□
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人物特性
重視:長く続く取引
得意:販路の組み立て
苦手:筋の通らない値下げ
----------------------------------
「君に経営を任せたいね」
真壁が言うと、ヨハンは間を置いた。
「予算と取引の裁量は、いただけるのでしょうか」
「必要な範囲はね。責任を負わせて、何も決めさせないのは失礼だろう」
「では、お引き受けできると思います」
ヨハンはその場で愛想よく笑いはしなかった。だが、竹紙を持つ手つきは、もう商品を扱う責任者のそれだった。
昼に入った面接では、杖の先が床を叩く音が先に聞こえた。
ギデオン・ファルク、56歳。以前は商家の番頭として注文と納期を扱っていたが、脚を傷めてから現場を離れていた。
真壁は納期の異なる注文票を3枚並べ、限られた枚数の紙見本をその横に置いた。
「3軒の工房が同じ日に紙を求めている。全員に渡せる量はない。さて、どうするね」
「いつ注文を受けたのか。約束の納期はいつか。何に使う紙なのか。それがないと決められませんな」
「客の身分や金額よりも?」
「先にした約束は、後から来た大口の客に売るためのものではありません」
同席していたヨハンが腕を組む。
「大口を逃せば、会社の損失になることもあります」
「その時は先客に会って、新しい約束をお願いする。黙って紙を回してしまった時点で、番頭として失格ですな」
ギデオンは受注票の位置を直した。古い約束から新しい約束へ、紙を重ねる向きにも迷いがない。
ニャニャミが横顔に目を向けると、いつもの7本の棒が浮かんだ。
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人物情報
対象:ギデオン・ファルク
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気性 62 ■■■■■■□□□□
精神 61 ■■■■■■□□□□
主義 45 ■■■■■□□□□□
行動 68 ■■■■■■■□□□
義理 74 ■■■■■■■□□□
野心 55 ■■■■■■□□□□
物欲 45 ■■■■■□□□□□
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人物特性
趣味:読書、園芸
得意:納期管理、取引先との調整
苦手:力仕事
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「足はいかがかね」
「走れません。しかし帳面は読めますし、口と頭まで悪くなったわけでもないので」
理央が吹き出しかけて、慌てて口を押さえる。
「すごく頼もしいです」
「走る者が必要なら、別の人をお雇いなさい。私は間違った荷を出さない仕事をします」
「それが頼みたかったのだよ。現場の工程と納期は君に任せよう」
「では、経営責任者は別に?」
「今お会いしたヨハン君だ」
「なるほど。社長と喧嘩をする役目が、私ということですな」
「たまには必要だね。遠慮なくやってくれたまえ」
ニャニャミからノートを見せられた澪は、ギデオンの義理と行動の高さを知った。ただ、その数字よりも、三枚の注文票を置き直した手つきを覚えていた。
午後の選考では、別の場所で思いがけない腕前が見つかった。
「私の札、同じ番号の人がいたんです!」
「製本は右と言われたのに、右は販売の列だったんですよ!」
受付の前で声が重なる。そこで、子を連れて来ていたアデーレが、短い実演のため窓口へ招かれた。
「札を見せてください。こちらが今日の受付番号、こっちは明日の面接番号です。ほら、書いてあるところが違います」
「……本当だ」
「製本希望の方は窓際へ。販売希望の方はその後ろです。赤ちゃんのいる方は、無理に詰めなくて大丈夫ですよ」
言われた人が動くと、さっきまで乱れていた列が元へ戻った。アデーレは礼を言う受付係に笑いかけ、奥で職員に見守られている我が子を振り返る。
ニャニャミの目には、彼女の顔のそばに数字が浮かんでいた。
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人物情報
対象:アデーレ
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気性 59 ■■■■■■□□□□
精神 67 ■■■■■■■□□□
主義 44 ■■■■□□□□□□
行動 72 ■■■■■■■□□□
義理 68 ■■■■■■■□□□
野心 43 ■■■■□□□□□□
物欲 46 ■■■■■□□□□□
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人物特性
得意:複数の客の案内
重視:子どもと仕事の両立
苦手:預け先のない勤務
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「昔の店も狭かったので、お客さんが3人いっぺんに来るとこうなりました」
「慣れていらっしゃいますね」
澪が感心すると、アデーレは少し恥ずかしそうに笑う。
「でも、子どもがいるんです。仕事が決まっても、預けられない時は……」
「親子用の住居も、託児施設もあります」
「……じゃあ、また店に立てるんですね」
その声は、さっきまでの歯切れのよい案内よりずっと小さかった。
表紙細工職人フローリアンには、椅子と金具を用意した。長く立っていると息が切れるという。
「この金具をどう思うかね」
真壁が差し出すと、フローリアンは掌で受け、光に傾けた。
「形はよいですが、角が尖っています。綴じた時、本の背を傷つけるでしょう」
理央が触ると、確かに引っかかった。フローリアンは道具を持ち替え、力を入れずに向きを直す。動きはゆっくりだが、金具から指を離す時には棘が消えていた。
ニャニャミは金具を置いたフローリアンの顔に目を向けた。
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人物情報
対象:フローリアン
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気性 62 ■■■■■■□□□□
精神 57 ■■■■■■□□□□
主義 46 ■■■■■□□□□□
行動 73 ■■■■■■■□□□
義理 69 ■■■■■■■□□□
野心 39 ■■■■□□□□□□
物欲 42 ■■■■□□□□□□
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人物特性
得意:表紙金具の仕上げ
重視:細部の安全
苦手:長い立ち仕事
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「長く働けません。それでも……」
「その目と手が必要なのだよ。体調に合わせて働いてもらおう。治療にも手を貸す」
「治ったら、すぐ一人前と同じように?」
「治すことと働くことは別の話だ。無理をさせて腕を失っては困るね」
その日の最後には、さらに変わった才能が続いた。
元写字補助者は募集案内の紛らわしい表記を指摘し、《校正》の技能で理央の原稿にある誤字を次々見つけた。書庫勤めの応募者は《索引》を持ち、試験冊子のどこに目的の記述があるか、ほとんど迷わず示した。《落丁看破》を持つ元製本職人は、綴じをほどく前の見本を見ただけで、途中の紙が一枚欠けていると告げた。
「職人なら誰でも分かりますよ」
その隣で若い製本希望者たちが首を横に振る。
理央は三人の名を書いた紙を並べた。
「なんだか、本当に出版社みたいになってきましたね」
「《既成事実》までいるニャ。本だけで済まない気もするニャ」
「人を集めると、予定になかった商売も見つかるものだよ」
「真壁さん、これ以上会社を増やす話なら、後にしてください」
澪の発言に、真壁は初めて筆を止めた。
「まだ何も言っておらんのだがね」
理央が笑い出した。澪は笑いながら、最初に作った薄い本を見た。そこに入っていたのは紙と文字だけだった。今日見つかったのは、それを読みやすくし、探しやすくし、長く使えるようにする人たちだ。
午後も遅くなると、面接室の外の長椅子には日が斜めに差していた。
そこに、小さな靴が二足並んでいる。片方の靴底は椅子の縁をこすり、もう片方は床に届いている。少年は妹の襟を直し、名前を呼ばれると手を繋いだまま立ち上がった。
「応募したのは君かな」
「はい。ルカといいます。12歳です」
「そちらのお嬢さんは?」
「妹のルネです。8歳で……一緒じゃないと、来られなくて」
「こんにちは」
ルネは兄の袖を掴んで頭を下げた。
「こんにちは、ルネちゃん。人が多くて疲れたでしょう」
理央が温かい飲み物を出すと、ルネは両手で器を持った。
「ひと、いっぱいだった」
「邪魔なら、外で待たせます」
「いや、席は二つ空いている。座りたまえ」
真壁に勧められても、ルカはまず妹が座ったのを見てから自分の椅子に腰かけた。
「あの……仕事の話の前に、一つ聞いてもいいですか」
「何かね」
「僕が働けたら、妹も一緒に住めますか」
澪のペン先が紙の上で止まった。
「家族向けの住居はあるよ。ただ、君たちには暮らしを見守る大人が必要だね。頼れる人はいるのかね」
「今は……いません。僕がずっとルネの面倒を見てきました」
「お兄ちゃん、いつもいっしょ」
ルネが器の縁から顔を出す。
ルカは両親や親類について問われると、答えられることを一つずつ話した。澪は事情を早まって決めつけず、少なくとも今は兄妹を日常的に保護してくれる大人がいないことを聞き取った。
「学校へは通えていましたか?」
理央が尋ねると、ルカは膝の上の手を握る。
「妹がいるので、毎日は……。でも、働きます。箱を折ったり、紐を結んだり、荷物を運んだりできます」
「仕事を覚える気持ちはありがたい。ただし12歳の君に、大人と同じ働き方はさせないよ」
「僕、役に立ちます」
「うむ。勉強も仕事の準備になるのだよ」
「お兄ちゃん、おべんきょうするの?」
ルネが尋ね、ルカは思わず妹を見た。
「……するみたいだね」
理央はその返事が胸に残った。17歳の自分も知らない仕事を始める時は緊張する。それでも学校へ通えることを、こんなふうに驚いたことはない。
ニャニャミがルカの方を見ると、彼の顔の横にも7つの指標が現れた。
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人物情報
対象:ルカ
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気性 51 ■■■■■□□□□□
精神 64 ■■■■■■□□□□
主義 52 ■■■■■□□□□□
行動 62 ■■■■■■□□□□
義理 78 ■■■■■■■■□□
野心 35 ■■■■□□□□□□
物欲 35 ■■■■□□□□□□
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人物特性
重視:妹と一緒にいること
得意:妹の世話
苦手:妹と離れること
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澪が《鑑定》を使うと、少年の情報が視界に開いた。技能欄の一行を見て息を止める。
全自動化:芽あり(+)
まだ取得していない。何かが勝手に動くわけでもない。それでも、今まで見てきたどの応募書類にもない可能性だった。
「真壁さん。この子、《全自動化》の芽があります」
澪は声を落として伝えた。
「全自動化……?」
理央まで身を寄せる。
「まだ芽です。使える技能ではありません」
「なるほど。ルカ君、学ぶことは面白くなりそうだね」
「僕、何かできるんですか?」
「これから、できるようになるかもしれない。急ぐことはないよ」
だが、才能があっても今夜の寝床が決まるわけではない。澪は真壁と目を合わせた。
「会社で見習いにするとしても、子ども二人で暮らさせるわけには……」
「昼間の託児と、夜に大人が一緒にいることは違いますよね」
理央が続けると、ルカがすっと立ち上がった。
「僕が妹を守ります! 二人一緒にしてください!」
「お兄ちゃんといっしょがいい!」
ルネも椅子から滑り下りた。
その時、扉の外で衣擦れがした。
バーン!
「話は聞いたニャ!」
扉を押し開いたのは、短毛の三毛柄をしたケット・シー、レイニャだった。旅のマントが揺れ、猫に近い顔の目が兄妹を見つける。孤児院の託児協力の件で会社の担当者を訪ね、たまたま廊下を通りかかったところだった。
「うわっ! レイニャさん!?」
「どこから来たんですか?」
澪の問いに、レイニャは胸を張った。
「廊下だニャ! 《聞き耳》で聞こえたニャ!」
「ほう。盗み聞きかね?」
「聞き耳だニャ!」
「言い換えても変わらない気がしますけど……」
理央が小さく言うのを、レイニャは聞こえなかったことにした。
「あたしが二人を引き受けるニャ! 孤児院に来ればいいニャ。あたしの部屋で、兄妹一緒に暮らすニャ!」
「孤児院の『あたし』の部屋?」
理央が気になっている一言を聞いた。
「部屋はいっぱいあるニャ!」
「妹も……?」
ルカの声が擦れる。
「もちろんニャ。二人を離したりしないニャ」
「ねこさんと、いっしょ?」
ルネは兄の背から顔を出していた。
「ケット・シーだニャ!」
「おみみ、さわっていい?」
「まず仲良くなってからニャ!」
「じゃあ、なかよくする!」
レイニャがしゃがむと、ルネは一歩前へ出た。兄の袖を掴む手は離さないまま、もう片方の手でレイニャの差し出した手を取る。
「レイニャ君。孤児院の院長の了承も必要だね」
「もちろんニャ! ちゃんと話すニャ!」
「勉強と研修の日程はこちらで整えましょう。通う時の付き添いも考えます」
澪が言うと、ルカは何度も頷いた。何を言っても妹と離されるのではないかと構えていた肩が、ようやく下がった。
レイニャはその足で兄妹を孤児院へ連れて行き、院長に事情を説明した。院長は二人を保護し、学校や日々の見守りを引き受けることを了承した。寝具も用意され、ルカとルネはレイニャの部屋で一緒に寝起きすることになった。
「ここで、お兄ちゃんと寝ていいの?」
並べられた布団を見て、ルネはまだ半信半疑だった。
「いいに決まってるニャ」
ルカが荷物を布団の脇へ置き、妹に笑いかける。
「よかったな、ルネ」
ルネは答える代わりに兄の腕へしがみついた。窓辺でそれを見ていたレイニャは、急に思い出したように言う。
「そうだニャ。本を置く場所も作れるニャ!」
「ほん?」
ルネが顔を上げた。
彼女の目が輝くのを見て、理央はまだ書きかけの原稿を思い出した。
最終選考の日、机の端まで候補者名簿が並んだ。
受付で聞き取った事情、実演した仕事、面接での答え。綴じられた紙はどれも薄いのに、持つと不思議に重く感じる。数日にわたって選考を重ね、公的に確認できる身元の記録も照会した。国外での経歴など、確認中の部分は別に分けてある。
「……53人います」
澪は最後の枚数を数え直した。
「採用枠は50人ですよね」
「この人も、あの人も、いい人ニャ。みんな採れないのかニャ」
ニャニャミはノートを前足で押さえる。
「仕事を用意できる人数には限りがあるからね。採れぬ人が悪いというわけではないよ」
真壁は三枚の候補票を脇に置き、残る名簿を部署ごとに並べ始めた。
「ヨハンさんが会社全体の経営ですよね」
理央が尋ねる。
「うむ。仕入れ、経理、取引先、販売方針を任せる。ギデオン君には工程、品質、納期の責任を持ってもらう」
「社長と工場長だニャ」
「分かりやすいね。片方に何もかも預けては、私が心配で眠れなくなる」
「真壁さん、眠れなくなることあるんですか?」
「ほう、失礼な質問だね」
ニャニャミが肩を揺らす。その横で澪は、クラリッサの票をそっと抜いた。
「この方は、やはり採用するんですね」
「私の直属だ。交渉や対外の情報を扱ってもらう。ただし、社員や客へ無断で暗示を使う権限は与えない」
「義理は34ニャ。先日の商人さんは落としたニャ?」
「商人には会社の取引と部下を預けるつもりだった。クラリッサ君には、その裁量を与えない。危険な技能ほど、使う場を限る必要がある」
「約束を破ればどうします?」
「私の直属なのだから、私が責任を取る。採ってから人任せにはできんよ」
澪は、その返事を聞いて票を元へ戻した。便利そうだから雇う。それだけでは済まない人が、この会社にはいる。
「ルカ君は?」
「見習いとして育成枠に1人。学びと生活が先だよ。ルネ君は社員には数えない」
理央がほっと息をつく。
「レイニャさんが一緒にいてくれるなら、安心ですね」
「孤児院の院長も見守る。会社からも研修と通う日の手配をするよ」
そこから先は、職種の話になった。校正をする人、索引を作る人、製本を仕上げる人、注文を取る人、子どもを見守る人、体調を支える人。珍しい技能を持つ人の間に、毎日の仕事を着実に続けられる人が何人も入っていた。
「派手な数字の人ばかりじゃないニャ」
「写本も販売も、地道な仕事の方が多いからね」
最後に残った三枚は、いずれも仕事のできそうな人のものだった。一人は立派な腕を持っていても、この会社で空いている役割に合わない。澪は本人に事情を説明し、了承を得たうえで、募集している取引先の写本工房を紹介するよう手配した。ほかの二人にも、合わなかった理由と今後の応募の道を伝えることになった。
机から名簿を取り除くと、選んだ50人の票がきれいに揃った。
「……50人です」
澪が言うと、理央が静かに頷いた。
「決まりましたね」
「アデーレさんの子の託児も、ちゃんと手配できるかニャ?」
「ヨハン君が担当者と詰めているよ。住居の手配も忘れてはおらん」
窓の外には、仕事を終えた人々が家路につく姿があった。澪は名簿の一番上に代表として署名し、最後のページまで目を通した。
不採用の3人へ返す連絡も、まだ手元に残っている。澪はその紙をほかの書類に重ね、係へ渡す順番を書き込んだ。
押入写本会社の看板が掲げられた朝、作業場にはもう人の声があった。
棚へ紙束を運ぶ者、机の位置を確かめる者、写本用の原稿を受け取る者。それぞれの手が動いているのに、まだ誰の指示を聞けばよいか分からず、立ち止まってしまう人もいる。
真壁は新しい社員たちを前に、短く話した。
「皆さんを迎えられて嬉しいよ。ここは紙屋であり、写本屋であり、本を届ける会社だ。これから頼みたい仕事は多いが、順に覚えていただこう」
そのままヨハンへ席を譲る。
ヨハンは勤務条件を伝え、販売と仕入れの担当を案内した。ギデオンは作業場へ移動する順番、原稿と完成品を置く棚、今日守るべき納期を具体的に説明していく。職人たちは説明を聞くうちに、自分の質問を誰へ持っていけばよいか分かったらしい。
「紙作りも、写本も、私たちがやるのですか?」
一人が手を上げた。
「本人の《収納》内で工程魔石を動かし、その間に別の仕事をしてもらえる。ただし技能とSPが必要だよ」
真壁の説明を聞き、社員が互いの顔を見た。
「自分には《収納》がありません」
「必要な方には、ジョブの変更や技能取得を支援します」
ヨハンが答える。
「《鑑定》と《収納》を既にお持ちなら、今のジョブを変える必要はありません。そうでない方も、できる仕事から始めていただきます」
「写本や製本の手を止める必要はありませんな。まずは技能の揃う人から製造を受け持ってもらう」
ギデオンが作業表に印をつけた。
「では、SPの足りない者はどうすれば?」
「経験を積む訓練を用意してあるよ」
真壁が穏やかに言った。
「まず魔魚を狩ってみようか」
工房へ入ろうとしていた社員の足が止まった。
「……魔魚?」
「本を作る会社ですよね?」
理央が横から聞くと、真壁は不思議そうに振り向く。
「無論だとも。本を作る技能を取得するために、ジョブレベルを上げてもらうのだよ」
「私、漁師になるつもりで来たわけでは……」
社員の困った声に、ギデオンがすかさず答えた。
「希望者だけです。体調や適性を見て案内します。苦手な方へ強制するものではありません」
「募集の張り紙、『魔魚狩りあり』って書いてなかったニャ」
ニャニャミが小声で告げる。
「おや。職業訓練の説明を少し詳しくしておくべきだったかね」
「次からはお願いします」
澪がそう言うと、あちこちから笑いが起きた。けれど真壁が広げた研修予定には、本当に魚を捕る日が入っている。笑いながら、理央はこの会社らしいと諦めた。
託児室では、アデーレの子どもが担当者に絵を見せていた。アデーレは何度か扉を振り返ってから販売窓口に入ったが、最初の客が来ると、さっそく注文の用途を尋ねている。
フローリアンは、人の出入りのない部屋で医療担当者と向き合っていた。真壁は《収納》から小瓶を取り出し、彼の前に置く。
「高級ポーションだよ。息苦しさを和らげる助けにはなるだろうが、これで病がすべて治ると約束はできん。服用後の様子も見たい。どうかね」
「……私が、いただいてもよろしいので?」
「君のために用意したのだよ。気になることがあれば、先に聞いてくれたまえ」
フローリアンは医療担当者にも効き目と注意点を尋ね、納得してから自分の手で小瓶を持った。飲み終えてしばらく休み、呼吸や具合を確かめてもらう。それから作業場へ戻ると、彼は椅子に腰かけて表紙金具に手を伸ばした。無理な勤務はさせない。
「……呼吸が、少し楽です」
声に驚きが滲む。金具を持つ指も、面接の時より落ち着いていた。
「これが会社の薬ですか。お代は……」
「君には良い仕事をしてもらう。それが対価だよ」
真壁が言う。
「これなら、前のように長く……」
「今日はそこまでにしましょう」
澪が椅子の横へ回った。
「急いで作る必要はありません。まだ初日ですから」
フローリアンは金具を眺め、照れたように頭を下げた。
「すみません。仕事ができると思うと、つい」
「長く腕を借りたいのだよ。急いで倒れてもらっては困るね」
廊下へ出てから、澪は真壁の横顔を見上げた。
「今の、普通のお薬じゃありませんよね」
「うむ。もっと病状の重い社員には、医療担当と相談してエリクサーを用意することも考えている」
「エリクサーまで……」
「もちろん本人に説明し、納得してもらってからだ。外へ薬の値打ちを触れ回る必要はあるまい」
「真壁さんの『医療支援』、思っていた以上ですね」
「長く働いてもらいたいからね」
その日の午後には、転職を希望する成人の社員たちが司祭のいる教会へ向かった。必要な者だけが儀式を受け、《商人》として学び直す。ジョブを変えたからといって、すぐにすべての技能を使えるようになるわけではない。取得に足りないSPがある社員には、本人の意向を聞き、講師と護衛のつく訓練が組まれた。
ルカはその組には入っていない。孤児院での勉強と見習いの準備が先だ。フローリアンのように療養中の者も、魚を捕りに出る予定はなかった。
数日後、澪と理央が見学したのは、管理された水辺での実地訓練だった。
岸辺の土はまだ湿っていて、風が草を倒しては戻す。護衛が周辺を見張り、指導者は安全な立ち位置と退く方向を繰り返し教えている。訓練者は捕獲具を握っていたが、そのうち若い製本希望者の一人は、どうにも落ち着かない様子だった。
「製本工房に入ったはずなんですが……どうして網を持っているんでしょう」
「魚の逃げる先を見ろ。追いかけるんじゃない。先に網を置く」
指導者は道具を使って魔魚を捕らえるところを実演し、安全な処理まで見せた。見学している理央にも、素手で近づいてはいけないことだけはよく分かった。
若い社員が同じように構える。
「こう……ですか」
水が跳ねた。
「うわっ!」
網が手から離れて岸に落ちる。魚は水面を割って逃げ、社員は靴の先まで濡らして立ち尽くした。
「魚を見ていたな。逃げ道を見るんだ。手元を立て直せ」
「はい!」
指導者は叱るより先に道具を戻した。若者は深呼吸をして、再び位置を取る。今度は水面の揺れを追わず、魚が抜ける場所に網を置いた。
「……入りました!」
「慌てるな。捕らえた後も仕事がある」
彼は指導者の見せた方法を慎重に真似て、自分の手で魔魚を処理した。捕獲して終わりではない。魚を不用意に苦しませず、安全に締めるところまで、教わりながら一つの作業として続ける。
次の魚では網を置く場所が早くなった。さらに次では道具を手放さず、指導者に声をかけられる前に安全な位置へ下がった。間違えた時はやり直し、手が雑になった時には休んだ。疲労耐久薬の補助があっても、腕の重さや緊張まで消えるわけではなかった。
「もう一匹、いけそうです」
「無理はするな。さっきより逃げ道が見えるなら、次をやってみろ」
若者は頷き、捕獲具を構え直した。
「今の、最初よりずっと上手でしたよ!」
理央が声をかけると、若者は照れくさそうに笑った。
「自分でも分かります。あれ……何だか、体が軽いような」
澪は訓練前に書き取っていた《鑑定》の控えを開き、本人を見た。視界に現れた表示を、紙に書かれた値と見比べる。
「おめでとうございます。ジョブレベルが1つ上がっていますよ」
「えっ! 本当ですか?」
「はい。捕まえて、それから自分で締めて、繰り返した成果ですね」
若者は自分の掌を見つめた。最初に網を落とした時と同じ手だ。まだ濡れているのに、持っている道具が違うものに見えるらしい。
「それなら、技能を取るためのSPも……」
「うむ。必要な技能に一歩近づいたわけだね」
真壁は嬉しそうな社員へ手を差し出し、岸へ戻るよう促した。
「……あの、明日は本を綴じる仕事ですよね?」
「明日も本の仕事だよ。訓練は必要に応じて、また参加してもらうがね」
「こんな写本会社、聞いたことがありません……」
「押入商会じゃ普通ニャ」
ニャニャミの一言に、若者はもう一度自分の網を見下ろした。
それからしばらくして、本社の作業場では紙の束が増え始めた。
《鑑定》と《収納》の条件が揃った社員の一部が、自分の《収納》内に工程魔石を受け持つ。真壁が原料と稼働条件を整えると、社員たちは外で原稿を読み、綴じの具合を確かめ、注文の相手と話す。その間、各自の《収納》では紙とインクの工程が進んでいた。もちろん負荷は残るので、ギデオンが出来上がりと体調、納期を見ながら受け持ちを変えていく。
全員が同じ日に製造を始めたわけではない。それでも、最初の紙束が仕事場の机へ積まれると、会社の空気が少し変わった。
「最初の注文分は揃いました。工房へ卸す分と、自社で綴じる分を分けましょう」
ギデオンが帳面を開いた。
「出荷先はこちらで調整します」
ヨハンは数量を見て頷く。
「ただし、竹の原料供給はどこまで続きますか。この調子で注文を取ってよいものか」
澪は積まれた紙を見た。あれほど漉くのに苦労した紙が、今は次々と束になる。嬉しい反面、自分と理央の《収納》内農地だけを頼りに竹を増やし続けるのは難しい。
「私たちだけで育てる量にも、限りがありますよね」
「そこで、以前から育成を進めている5人だよ」
真壁は紙束の横に置いた別の進捗表を開いた。
「マティス君たちには、各自の《収納》で竹を育ててもらう準備を進めている。火山性土砂を使った農地の造成と、竹育成用魔石の調整だね」
「5人が、それぞれ収納内農地を作るんですか?」
理央の問いに真壁は頷いた。
「まだ必要量が揃ったわけではないが、竹まで澪君ひとりに背負わせるつもりはないよ」
「では、あの5人が竹の供給、今回の50人が紙や写本、製本を担うんですね」
「そういう分担になる。農地の試験が進んだ段階で、供給計画を具体化しよう」
ギデオンが進捗表へ指を置く。
「増産が間に合うまでは、私が受注量と納期を調整します」
「では、私は約束できる分だけ販路を広げましょう」
ヨハンが答えると、ギデオンの視線が上がった。
「その『約束できる分』を、守っていただきますよ」
言い直した声に理央が笑った。真壁は何も言わず、空いた椅子を後ろへ引いた。商会の総支配人が紙一束ごとに指示する必要は、もうないらしい。
「真壁さん、少しは手が空きますね」
澪が言うと、ニャニャミが金の目を細める。
「空いた時間で、また新しい事業を始めそうニャ」
「さあ、それはどうかね」
澪は、否定しなかったところが少し気になった。
その午後、孤児院からレイニャと一緒にルネがやって来た。
本棚の前まで行ったルネは背伸びをし、まだ空きの目立つ棚を眺めた。理央の机には、ヴァルトの教室で使う教材の原案と、雷の絵本の描きかけが並んでいる。写すのも、綴じるのも、その先だ。
「おねえちゃん、かみなりのほんは?」
「……もうちょっとで書けるかな」
「おそいね」
「うっ……」
理央が胸を押さえる。
「ルネ、そんな言い方するなよ」
ルカがたしなめると、妹は理央を見上げた。
「だって、よみたいんだもん」
真壁が原案に目を落とす。
「理央君。写す準備も、売る準備もできた。あとは原稿だね」
「真壁さん、今いちばん言われたくないことを言いましたよね?」
理央の抗議に、澪は笑った。
「でも、待ってくれる読者がもういるんですね」
理央はルネを見る。小さな手は本棚の縁を掴んだまま、まだない本がそこに現れるのを待っているようだった。
「……はい。書きます。ルネちゃんにも、ちゃんと読んでもらえるように」
「やった!」
ルネが跳ねると、レイニャの三毛の耳が嬉しそうに動いた。
窓から射し込む春の光の中で、理央は原稿を手元へ引き寄せた。机にはまだ綴じられていない紙があり、その向こうに、続きを待っている子どもがいた。