押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第439話 それ、どうしてですか?

 

 雷が光ったら、どうしたらいいのだろう。

 

 押入写本会社が動き始めて、最初の朝だった。

 

 理央は書き上げたばかりの1行を眺め、筆の先を止めた。

 

 最初は「雷が光るのはどうして?」と書いていた。

 

 だが、空の雷がゲンダイで教わったとおりの仕組みなのか、こちらではまだ調べられていない。

 

 だったら、まずは光った時にどう身を守るか。

 

 そこだけでも、曖昧にはしたくなかった。

 

 窓の向こうでは、学校へ向かう子どもたちが笑いながら通りを駆けていく。

 

 新しい竹紙と黒インクの匂いがする机の上には、雨雲の絵、稲妻の絵、それから何度も直した文章が重なっていた。

 

 大きな線で描いた雲の下に、小さな人が立っている。

 

「……これ、危ないかな」

 

 理央は人の絵を消して、家の中に描き直した。

 

 雷の危険を教えたいのに、外で空を見上げる絵を見せたら、真似をしてしまう子がいるかもしれない。

 

 ついでに文章も書き換える。

 

 《作文》で言葉の順序は整えられる。

 

 それなのに、たった1行を短くするために、今朝は何度書き直しただろう。

 

「理央ちゃん、まだ朝ご飯の皿を片付けていないでしょう」

 

 顔を上げると、澪が戸口にいた。

 

 手には商会の書類が数枚。

 

 忙しそうなのに、理央の机を見て足を止めた。

 

「澪さん。『雷が鳴ったら屋内へ』って書くと、もう鳴っている時はどうするのって聞かれそうで」

 

「聞かれそうですね」

 

「『雷の音が聞こえる前に』だと、先に分からないと困るし……」

 

「いったん声に出して読んでみませんか」

 

 理央は原稿を持ち上げた。

 

 ゲンダイで小学生だった頃には、ごく当たり前に教わったことだ。

 

 けれども、その記憶をここでそのまま言葉にすればよいわけではない。

 

 紙の上の言葉は、この国の子が聞いて分かるように、一つずつ考え直したものだ。

 

「『おそらで、ぴかっとひかる。あとから、どーんとおとがすることがあるよ』……どうですか?」

 

「いいと思います。『ことがある』が大事ですね」

 

「ですよね。全部同じだとは言えないので」

 

 理央はその後に、安全な場所へ移る短い文を置いた。

 

 書き込んだ余白がまた狭くなったところで、廊下から軽い足音が近づいてきた。

 

「かみなりのほん、できた?」

 

 ルネだった。

 

 その後ろからルカが慌てて顔を出す。

 

「こら、いきなり入るなって。レイニャが待ってるぞ」

 

「でも、きのう、もうちょっとっていったもん」

 

 理央の胸に、先日の「おそいね」が小さく刺さった。

 

 自分も、早く原稿を読んでほしくて誰かを急かしたことがある。

 

 今度は自分が待たせている。

 

「今日はね、最後まで読んでみて。分からないところを教えてくれる?」

 

「えがいっぱい!」

 

 ルネはもう紙の端をつまんでいた。

 

 理央が慌てて押さえると、ルネは手を引っ込めて、ちょっとだけ口を尖らせる。

 

「ごめん。これはまだ、綴じてないから」

 

「じゃあ、はやくよんで」

 

 負けた。

 

 理央は椅子を引き、ルネを隣へ座らせた。

 

 ルカも身を屈めて絵を覗く。

 

 雲の下へ細い線が伸び、次の頁では家の窓の向こうが白く光る。

 

 読み進めると、ルネは何度も同じ頁へ戻った。

 

 文字よりも先に、稲妻の線を指で追っている。

 

「ここ、ぴかってしたら、こっちへはしるの?」

 

「外にいたら、安全な建物の中へ移るんだよ。むやみに外へ見に行かないの」

 

「じゃあ、おうちにいたら?」

 

「そのまま大人の人の話を聞いて、危ないところへ近寄らないようにする」

 

 ルカが原稿の一角を指した。

 

「この言葉、俺は読めるけど、ルネには難しいと思う」

 

「ほんとだ。そこ、別の言い方にするね」

 

 戸口の外で、手琴の弦が小さく鳴った。

 

「空の雷と、あたしの《雷》を同じものとして書かない方がいいニャ」

 

 レイニャが三毛の顔を覗かせていた。

 

 耳は子どもの声に向き、尾の先が廊下の壁を軽く払っている。

 

「まだ、そこまでは調べられていないですよね」

 

「そうニャ。どっちもぴかっとするから同じだ、なんて書いたら、あたしまで教科書の中に入れられそうニャ」

 

「レイニャのほんもつくる?」

 

「それは、まず理央の雷の本を待つニャ」

 

「……みんな、ちゃんと待っていてくださいね」

 

 理央は笑いながら、ルカが示した難しい言葉を消した。

 

 ルネは最後の頁まで辿り着くと、安心したように小さく息を吐いた。

 

「これ、もういっかい、よんで」

 

 理央は原稿を伏せかけた手を戻した。

 

 修正するところはまだある。

 

 それでも、自分が書いた本を、読み終わってすぐもう一度と言ってもらえたのは初めてだった。

 

 

 

 その日の午後、試し写しの稲妻は、空から地面へ届いていなかった。

 

「……ここ、消えてます!」

 

 理央が指で示すと、ギデオンは紙を持ち上げ、窓の明かりへ透かした。

 

 墨に似た黒い線は、途中まできれいに写っている。

 

 その先だけが薄くなり、最後のひと筆が白紙へ溶けていた。

 

「字は読めますが、これでは別の絵になりますな」

 

 杖を机の脇に立てたギデオンが、紙を平らに戻す。

 

 隣にいた校正担当も、原稿と見本を並べて首を傾げた。

 

「文章では地面まで伸びているのに、図だと途中で終わっています。ここは直した方がいいですね」

 

「私の絵が下手だからでしょうか……」

 

「そこはまだ決められませんな。元の線と、写し取った線を比べましょう」

 

 ギデオンは不良の見本を取り分け、若い職人を呼んだ。

 

 職人は原稿を頁ごとに《転写》している。

 

 元の線が細いうえに、背の折り目に近すぎた。

 

 このまま綴じれば、絵の端が隠れてしまう。

 

「ここの線だけ、太くします」

 

「よろしい。背の折り目に近い絵は、折り目から離して頁の中央寄りへ移しましょう。まだ原本の修正で済みます」

 

 職人は理央の指示を受け、試し写しをやり直した。

 

 白い竹紙の上に、今度は線が最後まで現れる。

 

 理央が顔を近づけると、インクの乾いた匂いがした。

 

「これならルネちゃんにも見える」

 

「では、その頁の文章と、もう一度突き合わせます」

 

 ギデオンはわずかに口元を緩め、すぐ別の見本へ目を戻した。

 

 机の反対側では、綴じを担当する職人が背を揃え、糸の張りを指先で確かめている。

 

 頁が順番どおりでも、綴じ方が悪ければ開いた時に絵が隠れてしまう。

 

「《写本》なら丸ごと複写できるんじゃないですか?」

 

 理央が聞くと、ギデオンは作業場の奥に目を向けた。

 

「熟練の親方に頼めば、冊子単位で写せます。しかし、間違った原本を何冊写しても、間違いはそのまま増えますよ」

 

「……それは嫌ですね」

 

「一番初めに間違いを見つけられたなら、よい仕事をしたことになりますな」

 

 《校正》を持つ社員が指摘した箇所を直すと、別の社員が《落丁看破》で頁の欠けを調べた。

 

 最後にギデオンが版を示す印を付け、冊子の角を指で揃えた。

 

 そこへ、ヨハンが受注票を持ってやって来た。

 

「学校向けの配布見本と、読み聞かせ用では欲しい冊数が違います。まず、どちらを先にしましょう」

 

「今は試用分を仕上げるところですな」

 

「存じています。だから、お客様にはまだ納期を約束していません」

 

「よろしい」

 

 理央は、机に積まれた見本を見直した。

 

 自分が1行書き直すたび、これを作る人たちの手も止まるのだ。

 

「それで、原本は誰が保管するんですか?」

 

 澪が尋ねると、ヨハンは紙の束から別の帳面を抜いた。

 

「版ごとに会社で保管します。ただし、既存の写本工房へ卸す話も進めたい。紙とインクだけでなく、協力の仕方を相談しておきます」

 

「工房の親方たちにも仕事が残るようにしたいです」

 

「承知しています。全部を自社で綴じるつもりはありません」

 

 真壁は話を聞きながら、不良見本の稲妻を指でなぞっていた。

 

「この失敗見本は取っておきたまえ。次に誰かが同じ線を引いたら、すぐに分かる」

 

「それはありがたいですが、真壁さん。次の注文はまだ受けておりませんぞ」

 

「その話なら、ヨハン君と済ませてきたよ。売り先を増やす準備だけはしておこう」

 

 ギデオンが眉間を押さえた。

 

「まだ一冊目ですぞ」

 

「一冊目を仕上げるのは君に任せている。私は二冊目の買い手を探す」

 

「真壁さん、怖いです。最初からそのつもりだったんですね」

 

 理央の声に真壁は返事をせず、完成見本を彼女へ差し出した。

 

 薄い冊子だった。

 

 表紙があり、頁を開くたび稲妻の線が同じ場所に現れる。

 

 午後、理央がその一冊をルネへ手渡すと、ルネはすぐに開こうとはしなかった。

 

 表紙を撫で、裏返し、綴じ目へ顔を寄せている。

 

「おねえちゃん、これ、ほんもの?」

 

「うん。ルネちゃんが最初に読む一冊だよ」

 

「じゃあ、たいせつにする」

 

 ルネはそう言ってから、待ちきれずに最初の頁を開いた。

 

 理央はその指の動きを、今度は止めなかった。

 

 

 

 翌日、孤児院での読み聞かせは、始まる前からにぎやかだった。

 

「みせて!」

 

「ぼくがさき!」

 

「かみなりって、こわいの?」

 

 レイニャが膝に本を置くと、幼い子どもたちが半円を作るつもりで、なぜか三毛の尾の方へ集まっていく。

 

 院長に使わせてもらった部屋は、昼前の光で床板まで明るい。

 

 壁際には見守りの大人が座り、茶碗を片付ける小さな音がする。

 

「尾っぽは本のしおりじゃないニャ。そこを引っ張ったら、あたしが次の頁まで飛んでいくニャ」

 

 子どもたちが笑った。

 

 ルネは少し残念そうに手を引っ込める。

 

 前に「おみみ、さわっていい?」と聞いてから、ルネは耳と尾の柔らかさを比べたくて仕方がないらしい。

 

「今日は、理央が作った雷の本だニャ。絵を見るだけでもいいし、気になったら聞いていいニャ」

 

「おねえちゃんのほん!」

 

 ルネが胸を張ると、ルカが隣から小声で言った。

 

「お前が作ったみたいな顔するなよ」

 

「さいしょによんだの、わたしだもん」

 

 理央は思わず笑った。

 

 ルネがあんな顔で自慢してくれるなら、何度書き直しても悪くない。

 

 レイニャは手琴を横へ置き、表紙を見せた。

 

 雨雲を指すと、一番幼い子が窓の外を振り向いた。

 

「でも、そとははれてるよ?」

 

「そうニャ。今のお空とは、違う日の絵だニャ」

 

「じゃあ、いまは、かみなり、こない?」

 

「今は晴れているニャ。でも、ずっとそうかは分からないニャ。お天気は変わるからニャ」

 

 レイニャは一頁ずつめくり、難しいところでは絵を大きく見せた。

 

 言葉を覚えたばかりの子も、雲と家なら指さして答えられる。

 

 稲妻の絵が出ると、揃って「ぴかっ」と声が上がった。

 

「じゃあ、かみなりがおそらでぴかっとしたら、どうするニャ?」

 

「みる!」

 

「おそとへ、いく!」

 

「そこは本をもう一度読むニャ!」

 

 レイニャは叱る代わりに頁を戻した。

 

 窓のある家の絵を指すと、ルネが立ち上がる。

 

「おうちに、はいるんだよ!」

 

「そうニャ。お外で見物する話じゃないニャ」

 

 理央は横で聞きながら、膝の上のノートへ小さく印を付けた。

 

 印を付けたのは、安全の説明をもう一度入れたい頁だった。

 

「くも、どうしてあるの?」

 

 突然、後ろの子が尋ねた。

 

 レイニャの耳がそちらへ向く。

 

「それは理央に聞くニャ。あたしが勝手に歌にしたら、叱られるニャ」

 

「叱りませんよ。……でも、言い方は一緒に考えましょうね」

 

「じゃあ、うた、つくっていい?」

 

「雷の安全のところは、言葉を変えないでくださいね」

 

「注文が厳しいニャ」

 

 レイニャは手琴を膝へ戻し、短い旋律を試した。

 

 最初は雲を見つける歌、次に家の中へ入る歌。

 

 子どもは節の気に入ったところだけ先に覚え、同じ言葉を何度も歌った。

 

 理央は、その言葉が危険な誤解につながらないか、口ずさみながら確かめる。

 

 ルカは壁際で質問を書き留めていた。

 

 字を知らない子の質問も、ルカの紙には残っている。

 

「これ、全部質問?」

 

 読み聞かせが終わって理央が覗くと、ルカは紙をひっくり返した。

 

 裏にも字が続いている。

 

「雲がどうしてあるか。雨はどこに行くか。夜になると影がなくなるのか。あと、雷はお腹が鳴る音と違うのかって」

 

「最後の、誰?」

 

 ルカが部屋の隅を指す。

 

 昼食の前なのにお腹を鳴らしていた子が、何も知らない顔で座っていた。

 

「おねえちゃん、こんどはあめのほん!」

 

 ルネは完成した冊子を抱え、理央を見上げる。

 

「えっ、雷の本ができたばかりなのに?」

 

「だって、なんでふるのか、しりたいもん」

 

 理央はノートの空いた頁を開いた。

 

 『雨』と書き、その下に『水』『影』『種』と続ける。

 

 まだ何も書いていない頁が、急に足りなくなりそうだった。

 

 

 

 読み聞かせから数日後、水の入った桶を運ぶと、ヴァルトの教室の子どもたちがいっせいに席を立った。

 

「近づくのは、道具を配ってからですよ」

 

 ヴァルトがそう言うと、立ちかけた子は椅子へ戻り、今度は首だけを伸ばした。

 

 窓を開け放した午後の教室に、鳥の声と水の匂いが入り込む。

 

 いつもの文字の授業に使う机は壁側へ寄せられ、床には布が何枚も置かれていた。

 

「今日は、本の絵を見ながら確かめてみます。小さい子はここから見ていてくださいね」

 

 理央は一枚の竹紙を掲げた。

 

 見出しは『コップのなかの空気』。

 

 下には、逆さにしたコップと水を描いた線画がある。

 

「何も入っていないように見えるコップを、水に入れるとどうなるでしょう」

 

「ぬれる!」

 

「コップが?」

 

「なかのかみ!」

 

 ルネが勢いよく答えた。

 

「じゃあ、見てみましょう」

 

 ヴァルトは浅い桶を固定し、コップの内側に乾いた紙片を留めた。

 

 水へ顔を近づけないよう子どもたちに言い聞かせる。

 

 それから、口を下に向けたコップを真っすぐ水へ入れた。

 

 水面は縁に沿って揺れたが、内側に水は上がってこない。

 

 コップを引き上げ、紙片を見せる。

 

「……あれ?」

 

 ルネが目を丸くした。

 

「ぬれてない!」

 

「外側は濡れていますね。中の紙はどうですか」

 

「かわいてる!」

 

「どうしてでしょう」

 

 ヴァルトの問いに、すぐ答える子はいなかった。

 

 ルカが口を開きかけたが、隣で妹が眉を寄せているのを見て、そのまま黙った。

 

「紙がくっついてるから、ぬれないんじゃない?」

 

 年長の子が言う。

 

「紙がくっついているから、ですね。では、こうするとどうでしょう」

 

 今度はコップを少し傾けた。

 

 水の中から、ぽこ、と丸い泡が一つ上がる。

 

 続けていくつも泡が浮かび、水がコップへ入り込んだ。

 

「あっ、でた!」

 

「なにが?」

 

「あわ!」

 

 引き上げた紙片は、今度は濡れていた。

 

 ルネは紙と水面を交互に見る。

 

「さっきと、おんなじコップなのに」

 

「傾けたら何が出てきたかな?」

 

 理央が尋ねると、ルカがようやく答えた。

 

「泡。……あ、最初は空気が入ってたんだ。空っぽじゃなかった」

 

「その空気が出たあと、代わりに水が入ったんですね」

 

 ヴァルトは濡れた紙片と乾いた紙片を離して置いた。

 

 次は年長児が順番に試す番だ。

 

 最初の子はコップを勢いよく入れ、少し傾けてしまった。

 

 泡が上がり、紙が濡れる。

 

「失敗した……」

 

「今、どんな向きで入れましたか?」

 

「まっすぐ、だったつもりです」

 

「では、次は横から見てもらいましょう」

 

 向かいに立った子がコップの傾きを指で示す。

 

 最初の子はもう一度試し、今度は乾いた紙を取り出した。

 

 その子は濡れていない紙を、向かいの子に「ほら」と見せた。

 

 ルカは竹紙の小さな表へ『まっすぐ』『ななめ』と書き、結果を分けた。

 

 ルネも自分の紙に絵を描く。

 

 コップらしい形の横に、なぜか大きな丸が三つ浮かんでいた。

 

「これが、あわ」

 

「うん。じゃあ、こっちの丸は?」

 

「もうひとつ、でるとおもったの」

 

 ルカは笑いかけ、すぐに筆を取った。

 

 『出た泡』と『出ると思った泡』は違う。

 

 妹にそう説明するより、紙を2つに分けて一緒に描いた。

 

 理央はその隣にしゃがみ込んだ。

 

 自分が書いた頁には、成功する場合の絵しかない。

 

 この子たちは、失敗した時の絵まで欲しいのかもしれない。

 

「先生、失敗した時の方も本に入れたいです」

 

「そうですね。どうして濡れたのか、見返せると助かります」

 

 ヴァルトは桶のそばへ布を置き直した。

 

 子どもたちの机には、濡れていない紙と、濡れていない本だけを戻す。

 

「今日は魔法を使わずに試しました。使ったのは、同じコップと水、それから向きの違いです」

 

「まほうつかったら、かわる?」

 

 ルネの問いに、ヴァルトは短く考えた。

 

「それは、別に確かめる必要がありますね。今日はここまでにしましょう」

 

「えー!」

 

 残念そうな声が上がったが、次の授業に持っていく観察表を見せると、子どもたちはそちらへ集まった。

 

 理央は濡れた布を絞りながら、子どもたちの描いた泡をもう一度見た。

 

 

 

 それから何日か、理央の机には、子どもから預かった質問が三つの山になっていた。

 

「これが、答えを考えたいもの。こっちは実際に試したもの。最後が、まだ試していないものです」

 

 理央が説明すると、澪は真ん中の山を持ち上げた。

 

 空気の実験の観察票が、何枚も重なっている。

 

 まっすぐのつもりで傾けた子の絵まであって、紙のあちこちに丸い泡が浮いていた。

 

「子どもたち、よく描いてますね」

 

「文字より絵の方が早い子もいるんです。だから、私も図を増やそうと思って」

 

「増やすのはいいけど、一度に作れますか?」

 

 窓辺には水やり用の小さな鉢が並んでいた。

 

 同じ種類の豆を蒔いたものを、日当たりのよい場所と、光を遮る場所に分けている。

 

 札には種の種類と水を与えた日が書いてある。

 

「雨、影、種。あと、磁石と水と……」

 

「理央ちゃん、紙が増える前に、順番だけ決めません?」

 

 そこへヴァルトが入ってきた。

 

 試作頁の上に置いてあった紙片を取り上げ、字数を数えるように目で追う。

 

「これは初めて読む子には長いですね。教室には、まだ字を習っている途中の子もいますから」

 

「でも、短くすると大事な説明が抜けるんですよ」

 

「なら、問いを分けましょう。一頁で全部教えなくてもいいんです」

 

 ヴァルトは水の頁と影の頁を並べ、書きかけの植物の頁をその横へ置いた。

 

 ゲンダイの学校で習った順序が頭に浮かぶ。

 

 だが、こちらの教室には、年齢も文字の習熟度も違う子が座っている。

 

「小さい子には、まず絵と質問。少し大きい子には、同じ道具で試して書くこと。年長の子には、結果が変わる条件を考えてもらう……」

 

「そういう分け方なら、同じ教室でも使いやすいですね」

 

 ヴァルトが頷く。

 

 理央は新しい竹紙に三つの仮の題名を書いた。

 

 『どうして?ふしぎのえほん』。

 

 『見て、ためして、わかる理科』。

 

 『世界のしくみを調べよう』。

 

「表紙だけ先に3冊できそうです」

 

 澪が言うと、理央は筆を持ったまま固まった。

 

「……表紙だけですか」

 

「まずは今の実験頁と、光と影の頁でしょう。先生たちが試す分も必要ですし」

 

 ちょうど夕方の光が窓から差し込み、机の端へ長い影を落としていた。

 

 理央は定規を置き、朝とは違う影の位置を紙へ写した。

 

 ヴァルトが横から覗く。

 

「魔法で灯りを増やしたら、その影はどうなりますか?」

 

「……別の条件になります」

 

「そうです。私たちの世界ならではの違いもあります」

 

 理央は『灯りを増やさずに見た影』と絵の下へ書き足した。

 

 ヴァルトはその紙を受け取ると、教室の窓を指した。

 

「明日の同じ頃にも、ここへ線を引いてみましょう」

 

「朝の絵も、取っておけばよかった……」

 

 理央は消しかけた線を、慌てて別の紙へ写した。

 

 戸口では、レイニャが手琴の弦を確かめていた。

 

「理央、歌の言葉を直したいニャ。『雨は雲へ戻る』って歌うと、真っすぐ戻っていくみたいに聞こえるニャ」

 

「そうですね。どう戻るのかまで、今はまだ調べきれてないですし」

 

「歌は覚えてもらいやすいから、間違えたら大変ニャ」

 

 普段は軽やかに歌い出すレイニャが、珍しく真面目な顔で一音ずつ言葉を確かめている。

 

 理央は歌詞の候補を一緒に読み、言い切りすぎるところを直した。

 

 真壁が戻ってきた時、机の端から修正札が落ちかけていた。

 

 彼はそれを指で受け止め、理央の下書きの上へ載せる。

 

「理央君、これではギデオン君のところに同じ原稿が何度も届きそうだね」

 

「今度こそ直したつもりなんですけど……」

 

「では、直し終わった頁には印をつけよう。君が明日また書きたくなっても、一度相談することだ」

 

「私、そんなに直しませんよ」

 

 澪とヴァルトが揃って黙った。

 

「……今、笑いました?」

 

「まだ笑っていませんよ」

 

 ヴァルトの返事を聞き、理央は印の付いていない紙をそっと裏返した。

 

 

 

「子どもは、本を買わないでしょう」

 

 書店での試し売りが始まったのは、雷の絵本が完成してからしばらく後のことだった。

 

 新町の書店主は、理央の絵本を棚へ置きながら言った。

 

 ほかの本より低い位置に並べてもらった表紙は、通りを歩く子の目にちょうど届く。

 

 その前を通った少年が立ち止まり、稲妻の絵に指を伸ばした。

 

「ほら、見るのは好きでも、本を買う金なんて持っていないんですから」

 

「買いに来るのは、親御さんも先生もいますよ」

 

 隣でアデーレが答えた。

 

 子どもを連れて応募してきた彼女は、今は店の客が何を求めているのかを聞き取る役も任されている。

 

 言い争うのではなく、少年の背後にいた女性へ本を開いて見せた。

 

「この頁、字を習っている途中の子にも絵で話せるんです」

 

 女性は冊子を受け取り、雨雲の絵へ目を落とした。

 

 頁をめくりかけた手が、値札のところで止まった。

 

「前に、子どもに読ませる本がないか聞いたことがあるんです。値段だけ聞いて、そのまま帰りました」

 

 書店主がちらりと顔を上げた。

 

 覚えがあるらしい。

 

「だから、今日も見るだけのつもりで……。これなら、買えるんですね」

 

「竹紙で作っているので、前の写本より安くできたんです」

 

 アデーレは冊子を母親へ向け直した。

 

「うちの子、私が読んでやると、すぐ自分で話し始めるんです」

 

「この本も、そうして使っていただけたら」

 

 女性は小さな巾着を開き、硬貨を数えてから店主へ差し出した。

 

「……一冊、いただけます?」

 

 少年は母親から受け取った本を両手で抱え、扉を抜けるまで一度も頁を開かなかった。

 

 書店主はその背中を見送り、棚に残った見本の値札をもう一度見た。

 

 会社へ戻ったヨハンは、最初の売上を帳面へ書き込んだあと、何かを計算していた。

 

 購入先の横には『読み聞かせ』という字が並ぶ。

 

 空気と水の教材は、まだ少数の教師へ渡す試用版だけだった。

 

 それでも希望者の名前が増えている。

 

「もう少し作れれば、次の市にも持って行けるのですが」

 

 ヨハンが呟くと、紙の束を抱えたギデオンがぴたりと足を止めた。

 

「その『もう少し』は、何枚ですかな」

 

「口に出さなかったことにしていただけますか」

 

「帳面には書いてありますぞ」

 

 ヨハンは慌てて帳面を閉じた。

 

「学校へ配るのは、先生が使い方を見てからにしてください」

 

 澪が言うと、ヨハンは受注票を裏返した。

 

「ええ、承諾のある学校からにします。ただ、希望を断ってばかりいては、ほかの商人に先を越されます」

 

「それで納期を急ぎたくなるんですね」

 

「……見抜かれましたか」

 

「学校側にも既に授業がありますから、まず先生たちの使い方を聞きましょう」

 

 ヨハンは閉じた帳面を開き直し、数字の脇へ『試用』と書き足した。

 

 ギデオンが頁の束を運んできた。

 

 杖を立て掛け、見本に付いた小さな印を示す。

 

「こちらは図がかすれています。出荷には回さないでいただきたい」

 

「せっかく売れ始めたのに、取り分ける数ばかり増えますね」

 

「それを売るというなら、私の印は押せませんぞ」

 

 ヨハンは苦笑し、出来上がり数を帳面へ書き直した。

 

 竹紙が安く作れても、竹の増産はまだ準備の途上だ。

 

 数日後、書店の棚には、表紙の角が少し丸くなった見本が戻ってきた。

 

 学校の教師が子どもに見せ、再び書店へ置いていったものだ。

 

 その教師は、余った竹紙の端に小さな手紙を書いていた。

 

「隣町で教えている知人にも見せたいんです。空気の試用頁を、もう一部お願いできますか」

 

 ヨハンは渡し先と試用の承諾を確かめ、見本用の帳面に一行加えた。

 

 数日後、隣町の教師からも返事が届く。

 

 子どもが実験の図を離さず、授業のあとまで質問していたそうだ。

 

 そこへ今度は、工房で働く職人がやって来た。

 

「光と影の頁はありますか。うちの若いのが、作業場の灯りでできる影を気にしていてね」

 

 書店主は驚いたように本を取り上げた。

 

「子どもの本ですよ」

 

「知ってるよ。字が少ない方が、仕事の合間には読みやすい」

 

 アデーレは別の見本を開き、まだ試作段階であることを説明した。

 

 職人は少し残念そうにしたが、出来上がったら知らせてほしいと言い残した。

 

 同じ頃、既存の写本工房でも竹紙とインクを使った製本の相談が進んでいた。

 

 親方は紙を指で弾き、隣にある写本の束と見比べる。

 

「絵のある本なら、うちの若い連中にも勉強になります。原本を勝手に変えていいわけじゃないんでしょう?」

 

「ええ。そこは版を区別してお渡しします」

 

 ヨハンが答え、協力する工房ごとの取り決めを書き留めた。

 

 その夜、先日絵本を買った少年の家から、母親の読み聞かせる声が漏れていた。

 

 少年は雷の音を真似し、母親は同じ頁を何度も読み返した。

 

「昨日から『どうして』ばかり言うんですよ」

 

 翌日、店へ来た母親が半ば困ったように笑った。

 

「苦情に聞こえませんね。次の本の注文でしょうか」

 

 ヨハンの返答を聞いたギデオンが、帳面から顔を上げる。

 

「その次の本は、今の本を直してからにしていただきたいですな」

 

 ヨハンは返事の代わりに、増刷予定の数字を小さく書き直した。

 

 帳面の後ろには、別の書店から届いた問い合わせも挟んであった。

 

 ヨハンは見積もりの数字を書きかけ、ギデオンが付けた不良見本の印に気づいて筆を置いた。

 

 やがて、領都から来た商人が雷の絵本と空気の試用教材をそれぞれ数冊買い、王都へ向かう荷の中へ収めた。

 

 送り状には二つの書名と版が別々に記される。

 

 新しい本の行き先を、理央はまだ知らなかった。

 

 

 

 王都の書店に竹紙の本が並んで、数日が過ぎた。

 

 オルトヴィン・クラーヴェは、手に取った表紙を見て眉を寄せた。

 

「……稲妻を描いたつもりか、これは」

 

 王都の研究室には、革表紙の古い学術書が積まれている。

 

 窓の薄い埃を透かした日差しが、紙の端に細い光を落としていた。

 

 その机の中央には、新しい竹紙の冊子が2冊置かれていた。

 

 一つは稲妻の絵本。

 

 もう一つは、空気と水を扱った試用の教材だ。

 

 オルトヴィンは稲妻の絵本を脇へ寄せ、空気の教材を開いた。

 

 小さな子でも読めるように短くした文章。

 

 墨に似た黒い線で描いたコップと水の図。

 

 次の頁には、コップを傾けた時の泡まである。

 

「ふむ……」

 

 初めは図の稚拙さを指摘するつもりでいた。

 

 だが、手順には危険な火や刃物を使うものがなく、子どもの手の届く場所で試せるように考えられている。

 

 誤字も、予想したほど見つからなかった。

 

「先生、随分と熱心にお読みですね」

 

 書類を運んできた弟子が、机の向こうから覗き込んだ。

 

「熱心ではない。問題を探している」

 

「ございましたか?」

 

 オルトヴィンは本文の一行を指で押さえた。

 

「『空気が場所を占める』。観察を促すにはよい。だが、これを読む子は、どんな時にも同じ結果になると受け取るだろう」

 

「絵には、コップを傾けた場合もあります」

 

「道具の向きだけが条件かね。この国には魔法がある。水を動かす術や、目に見えぬ作用が加わった時はどうする」

 

 弟子は頁をめくり、答えを探した。

 

 魔法を使ったとも使わなかったとも書いていない。

 

「……書いてありません」

 

「それで『試して確かめよう』と教えるのは、あまりに不用意だ」

 

 オルトヴィンは別の古書を引き寄せた。

 

 長年の書き込みで膨らんだ頁が、手を離しても閉じない。

 

「これだけの議論を積み重ねて、ようやく今があるのだ。薄い本を一冊読んだだけで、分かった気になられては困る」

 

「でも、この実験そのものは間違っているのでしょうか」

 

 弟子が尋ねる。

 

 オルトヴィンは答えを急がなかった。

 

 幼い子が試した範囲の観察について、即座に偽りだと言い切る根拠はない。

 

「間違いだと示すのも学問だ。私が問題にしているのは、書かれていない条件の方だ」

 

「子どもが、それはどうしてかと聞いてきたら?」

 

「……まず教師へ尋ねればよい」

 

 口にしてから、オルトヴィンは教材をもう一度開いた。

 

 教師に尋ねる前に、この本を読んでいる子はもう水を用意しているのかもしれない。

 

 その光景が、どうにも気に入らなかった。

 

 彼は問題の頁へ印を付け、出版社への書状を書いた。

 

 文面は厳しかったが、批判の箇所を曖昧にはしない。

 

 幼児に渡す安全上の注意、魔法の有無、言葉を簡略化したことで失われる条件。

 

 そうして書き終えると、弟子を呼んだ。

 

「送り状をもう一通。教室の授業を見学したいと伝えてくれ」

 

「王都から、わざわざですか?」

 

「書物の中身を論じるなら、実際に使っているところを見ねばならん」

 

 弟子が出ていったあとも、オルトヴィンの指は薄い冊子の上に残っていた。

 

 紙は驚くほど軽かったが、閉じるにはまだ早かった。

 

 

 

 オルトヴィンからの書状が新町へ届いてから、教室の予定が決まるまでには幾日かかかった。

 

 ヴァルトは普段の授業を崩さずに見せられる時間を選び、学校側と見守りの大人にも了承を取った。

 

 王都から訪問者がやって来たのは、そのさらに後のことだった。

 

「ヴァルト君、準備はいかがかね」

 

 授業の前、真壁が教室の入口から尋ねた。

 

「いつもどおりです。特別な実験を見せるつもりはありませんよ」

 

「それでよい。うまくいったところだけ見せても、学者は納得せんだろうからね」

 

 ヴァルトは小さく笑い、濡れた布を桶の横へ並べた。

 

 真壁が口出しを控える気でいるのは、かえって珍しい。

 

 やがてオルトヴィンが入ってきた。

 

 分厚い古書を脇に抱え、戸口から机の配置を見回す。

 

 澪が挨拶し、あらかじめ伝えておいた見学の席へ案内すると、彼は礼を返しながらも、目は水桶に向いていた。

 

「たかが空気を示す遊びで、何を教えるのかね」

 

 その声は小さかった。

 

 それでも近くにいた理央には聞こえた。

 

 背筋が伸び、膝の上の原稿を握る指に力が入る。

 

 自分の本を叱られるのは覚悟してきたが、子どもまで叱られたらどうしよう。

 

「では、始めましょう」

 

 ヴァルトは普段と同じ声で言った。

 

 最初の子がコップをまっすぐ沈め、乾いた紙片を見せた。

 

 次の子は緊張で手首を曲げてしまい、紙を濡らした。

 

「あっ」

 

 子が慌ててコップを持ち直すと、オルトヴィンの袖が動いた。

 

 理央は叱られると思って身構えたが、ヴァルトはいつもの声で尋ねた。

 

「今日は、さっきと何が違いましたか?」

 

「……ななめに、なりました」

 

「では、結果を書いておきましょう」

 

 子は手を拭き、濡れた紙片を見てから、乾いた方の記録の下へ自分の失敗を書き足した。

 

 オルトヴィンは口を開きかけ、筆先が動くのを見て黙った。

 

「失敗まで書くのか」

 

「次に何を変えればよいか、分かりますから」

 

 ヴァルトの返事に、オルトヴィンは少し目を細めた。

 

 ルカが見本の絵を開き、妹が見える位置へ置く。

 

「ねえ、せんせい」

 

 ルネが、突然オルトヴィンを見上げた。

 

「くうきって、しってる?」

 

「無論だ。自然学を学べば、誰でも知ることだ」

 

「じゃあ、しってるのに、どうしておしえてくれなかったの?」

 

 理央の喉がひゅっと鳴った。

 

 ルカも妹の袖を引こうとしたが、ルネは真剣だった。

 

 学者が怒るかどうかより、自分の疑問を聞く方が先らしい。

 

「学ぶには順番がある。まず、書を読み、師から――」

 

「ルネは、まだむずかしいほん、よめないよ」

 

 部屋の後ろで、澪が何か言いかけて口を閉じた。

 

「読めるようになってから学べば、誤った考えを覚えずに済むのだ」

 

 オルトヴィンが答えると、ルネは水桶を見つめた。

 

「でも、これ、きょうもできたよ?」

 

「できたことと、なぜできたか分かったことは別だ」

 

 ルネが口を結ぶ。

 

 少しして、小さな声で言った。

 

「……じゃあ、どうして?」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 ヴァルトは、ルカが助け船を出そうとするのを視線で止めた。

 

「ルネ、自分が見たことだけでいいですよ」

 

「まっすぐいれたら、かみ、ぬれなかった。ななめにしたら、あわがでて、ぬれた」

 

「そこまでは確かめられましたね」

 

 年長の子が手を上げた。

 

「先生、今日は斜めになったから濡れました。違う結果の時は、何を変えたか書いておくんです」

 

「その書いたものを、後でどうするのだね」

 

「また試す時に見ます。どっちが違ったのか、忘れちゃうから」

 

 学者は手帳を開いた。

 

「では、今日使ったものを教えてもらおう」

 

「コップです!」

 

「水も!」

 

「かみも!」

 

「まほうは、つかってないよ!」

 

 答えが四方から飛んできた。

 

 オルトヴィンは筆を持ったまま、次に誰を指せばよいのか迷ったらしい。

 

 ヴァルトだけが、その様子を見て笑いをこらえていた。

 

 理央は握っていた原稿から力を抜いた。

 

 オルトヴィンはまだ厳しい顔をしている。

 

 けれども今、彼は子どもの書いた紙を読んでいる。

 

 その手帳にも、何か新しい文字が増えていた。

 

 

 

 その日の授業が終わると、教室の床には濡れた布が残った。

 

 年少の子どもたちは見守りの大人と一緒に帰り、机の上には観察表だけが並んでいる。

 

 ルカだけは、観察表をまとめるためにヴァルトの許しを得て残っていた。

 

 妹を送り出す時には、レイニャに「もうすぐ戻る」と伝えてある。

 

 夕方の西日が、乾きかけたインクの上を斜めに横切っていた。

 

「一つ、よろしいか」

 

 オルトヴィンが理央の原稿を開いた。

 

 昼前とは違って声は落ち着いているが、遠慮はなかった。

 

「ここに、魔法を使わなかったとは書いていない。水を動かせる者が同じことを試して、異なる結果を得たらどうする」

 

「それは……」

 

 理央は言いかけて止まった。

 

 誰も魔法を使っていないのは、自分には当たり前だった。

 

 けれども、頁を読む子はその場にいなかった。

 

「書いて、ありませんでした」

 

「見ていない者へ教えるのが書物だ。だから書かれていない条件が問題になる」

 

 理央は、条件を書き足す場所に印を付けた。

 

 オルトヴィンは、次に鉢植えの方を見た。

 

「植物の頁は、どう説明するつもりだね」

 

「明るい場所と暗い場所に置いて、育ち方を比べようと思っていました」

 

「発芽と、その後の成長を混ぜてはいかん。芽が出る条件と、葉が育つ条件は同じとは限らない」

 

「え……」

 

 理央は鉢を見た。

 

 日を当てた方が育つはずだ、と覚えていた自分の考えが、少し揺らぐ。

 

 その時、ルカが観察表を持って前に出た。

 

「あの、これ。暗い方の豆にも、芽が出たんです」

 

 紙には水をやった日と、芽を見つけた日が書いてあった。

 

 まだ小さな葉の絵もある。

 

 理央が見直すと、確かに数日かけて記録している。

 

「暗いところでも?」

 

「はい。俺も、出ないと思ってました。でも、出ました」

 

 オルトヴィンは紙を受け取り、何も言わず最後まで読んだ。

 

「種の種類は?」

 

 ルカが鉢の札を指す。

 

「水の量は同じかね」

 

「毎回、同じくらいを量って、書きました。……でも、全部同じかは分かりません」

 

「よろしい。今の結果だけで、あらゆる種に当てはめてはいかん。芽が出た後も、よく見ておくことだ」

 

 ルカがほっとした顔で頷く。

 

 理央は、オルトヴィンが札の小さな字まで見ているのに気づいた。

 

「先生、その植物の頁、まだ出していません。今日教わったことを入れて、作り直します」

 

「そうすべきだ。書物で教える以上は、読者が確かめられる形にしておかなければならん」

 

 理央は、配布済みの試用教材を開いた。

 

 実験の条件、泡が逃げる向き、観察表の記入欄。

 

 直す箇所は3頁にわたる。

 

 しかも、どれも校正を終えて原本を確定させた頁だった。

 

 理央は原本の印を指でなぞった。

 

「それ、もう配った教材ですか」

 

 澪に聞かれて、理央は頷いた。

 

「……試用版ですけど、もう綴じた本があります。あの、まずいですよね」

 

「まずいかどうかは、工房で聞かないと」

 

 澪は配布先の控えを畳み、手帳を閉じようとしていたオルトヴィンに向き直った。

 

「いただいた指摘は直します。ただ、配った本がもうあります。訂正の方法は職人と相談させてください」

 

「好きにするとよい。私の名で正しさを保証したことにはせんでほしいが」

 

「もちろんです」

 

 オルトヴィンはルカの記録をもう一度見せてもらい、汚さないよう端を持って返した。

 

「暗い場所の豆も、続きを見せなさい。芽が出たというところで話は終わらん」

 

「はい!」

 

 ルカは勢いよく頷いた。

 

 学者が出て行ったあと、理央は机へ突っ伏したくなったが、まだ工房へ持っていく原稿が残っていた。

 

 押入写本会社では、ちょうど製本職人たちが試用版を綴じ終えたところだった。

 

 糸を結ぶ音がやみ、揃えられた冊子の束が机へ移される。

 

 ギデオンは杖を傍らへ置き、一冊ずつ背を確かめていた。

 

「あの、ギデオンさん」

 

「はい。理央さん、何かご用ですかな」

 

「原稿を、少し直したくて」

 

 ギデオンの指が背の綴じ目で止まった。

 

「……何頁です?」

 

「3頁、です」

 

「3頁!?」

 

 近くの職人が顔を上げた。

 

 ギデオンも声を抑えようとして失敗したらしい。

 

「理央さん。今、これを綴じ終えたばかりですぞ。朝から何人で掛かっていたと思います?」

 

「すみません。学者の先生に指摘されて、私も確かめて……」

 

「間違いがあるなら直すべきです。そこへ文句は言いません。しかし、昨日のうちに言えたことではありませんかな」

 

「昨日は、分からなかったんです」

 

 理央は紙を差し出したまま俯いた。

 

 ギデオンはそれをすぐに受け取らず、積み上げた冊子の一番上を開いた。

 

 自分の手で繰り返し揃えた折り目が、まだ真新しい。

 

「一度糸を外せば済むと思われるかもしれませんが、頁を入れ替えれば綴じ直しです。納める先にも約束があります」

 

「費用なら私が持とう」

 

 真壁が後ろから言った。

 

 いつの間にか製本机の脇に立ち、束の数を目で追っている。

 

「真壁さん。費用だけではありませんぞ」

 

「ふむ?」

 

「職人に今夜も働けと言うのですか。やっと片付けに入ったところです」

 

 真壁は壁際で糸を片付ける職人を見た。

 

 澪も追いつき、机に置かれた修正頁と綴じ終えた冊子を見比べる。

 

「ギデオンさん、今日はここまでにしましょう」

 

「ですが、出荷はどうされます」

 

「いったん止めます。今ある本を全部ほどく前に、訂正紙で足りるものと、差し替えが必要なものを分けたいです」

 

 ヨハンが受注票を持って入ってくると、ギデオンは彼にも同じ顔を向けた。

 

「申し訳ありませんが、明日の出荷は約束できませんぞ」

 

「……明日ですか」

 

 ヨハンは帳面を開いた。

 

 増刷の注文がつき始めた矢先だ。

 

 だが、ヨハンが開いた見本は、理央が直したいと言っている頁で止まった。

 

「配布済みの試用版には訂正を届けて、まだこちらにあるものは一度保留にします。先方へは私から話します。ただし、どの部分を直すかだけは、今決めていただきたい」

 

「説明の頁に、魔法を使わなかったことを足します。泡の絵には空気が出る向きを。それから観察表に、魔法を使ったかどうか書く欄を……。植物の頁は、まだ試作のままです」

 

 理央が指を折ると、ギデオンはようやく修正頁を受け取った。

 

 筆で三つの印を付け、職人が持っていた本の束を一方へ寄せる。

 

「今日は帰ってもらいます。明日の朝、作業を組み直します」

 

「ならば、私も朝に来よう」

 

「総支配人が来ても、綴じ糸は勝手に結ばれませんぞ」

 

「糸は結ばんが、運ぶ荷なら減らせるだろう」

 

 真壁はそう言って、届け先を記した帳面をヨハンへ返した。

 

 理央はギデオンにもう一度頭を下げた。

 

「明日、手伝えることはありますか」

 

「まず、これ以上原稿を直さないでください」

 

「……はい」

 

「それが一番助かります」

 

 工房を出る頃には、戸口から夕方の風が入っていた。

 

 理央の手には、書き直したばかりの3頁がある。

 

 もう一度よい文を思いついたらどうしよう、という考えだけは、どうしても消えてくれなかった。

 

 

 

 王都へ戻ったオルトヴィンの研究室には、春の乾いた風が吹き込んでいた。

 

 研究机には、竹紙の教材が一冊と、綴じ直しを重ねて背の膨らんだ古い本が置かれている。

 

 古い本を持ち込んだエーベルハルト・フェルゼンは、王都で長く自然学を教えてきた学者だった。

 

 その分厚い入門書は彼自身が書いたもので、机へ置く時も、落とさないよう両手を添えていた。

 

「失礼ながら、先生の本では、水に入れたコップの話はどこにありますか」

 

 若い学者のリゼット・カールトが尋ねると、エーベルハルトは何も言わず本の中ほどを開いた。

 

 行間には細かな注記が並んでいた。

 

「ほら、ここだ。過去の観察例も載せてある。必要なことは全て書いた」

 

「……文字が、ずいぶん多いですね」

 

「自然学の本だぞ。絵を眺める娯楽とは違う」

 

 リゼットは竹紙の冊子を開いた。

 

 膝に載せても軽い薄さだ。

 

「うちの娘に見せたら、コップの絵を何度も見たがって。私が夕食の支度をしている間まで、あの頁を抱えていました」

 

「娘さんにかね。いくつになったら我々の書物を読ませるつもりだ」

 

「まず、最後まで聞いてもらえたらと思っています。先生のご本を読んだ時は、途中で眠ってしまって……」

 

「君の読み方が悪いのではないか」

 

「それは、私も考えました」

 

 リゼットが真顔で頷いたので、オルトヴィンは咳払いをした。

 

 エーベルハルトは自著を閉じかけ、思い直したように手を止める。

 

「私が若い頃には、書物を一冊手に入れるだけでも苦労した。ようやく作り上げた入門書を、こんな薄い紙で置き換えられてたまるか」

 

 エーベルハルトは周囲の目に気づき、表紙の擦り切れた角を親指で押さえた。

 

「先生の本がなくなるなんて、誰も言っていません」

 

 リゼットは静かに答えた。

 

「それに、あの教材にも足りないことはあります。娘に『魔法で水を動かしたら?』と聞かれて、私も答えを保留にしました」

 

「だったら、なおさら教師なしに読ませるべきではない」

 

「そばで一緒に見ています。娘は本を勝手に実験しないと約束しています」

 

 オルトヴィンは、新町での見学を記した手帳を開いた。

 

 濡れた袖を気にも留めず、懸命に記録を取る子どもの顔を思い出す。

 

「私は実験を見た。失敗も隠していなかった。条件の不足は指摘したし、出版社は直すと言った」

 

「オルトヴィン君まで子どもの遊びに肩入れするのか」

 

「子どもの記録を見たが、書かせっぱなしではなかった。ヴァルトという教師が、一人ずつ見ていたよ」

 

 エーベルハルトは机を指で叩いた。

 

 彼の入門書には、教えた弟子がつまずくたび、長い年月をかけて書き足した注釈が詰まっている。

 

 その頁を飛ばして先へ進めと言われたようで、腹立たしかった。

 

「学校には順序がある。まず先人の書を読み、師の説明を聞き、誤った考えを直されながら学ぶ。あの商会の本は、まだ師につく前の子に『自分で確かめろ』と言っているのだ。教師が全員、その後始末をできるとでも?」

 

「それは、私も心配している」

 

 オルトヴィンが答えると、年長の学者はようやく指を止めた。

 

 しかし、その安堵も長くは続かなかった。

 

「だからといって、見せないうちから危険と決めつけるつもりもない」

 

「ならば私は、自分の知る学校へ書こう。授業で使う前に一度、考え直してほしいと」

 

 エーベルハルトは便箋を引き寄せた。

 

 筆先が動くより先に、隣に置いた自著をもう一度撫でる。

 

 その仕草を見ていたリゼットは何か言いかけたが、口を閉じた。

 

 書状は街道を通り、数日かけて別の町の学校へも届いた。

 

 そこでは、新町の評判を聞いて取り寄せた教材の試用が始まろうとしていた。

 

 教師のテレーゼ・ブルクハルトは、学校の責任者に呼ばれた時、次の授業のために水桶を洗っていた。

 

 学者の書状には、児童に十分な説明がないまま実験をさせる危険と、教師による慎重な指導の必要性が書かれている。

 

「使用禁止、ということではないんですよね」

 

 テレーゼが聞くと、責任者は額を押さえた。

 

「そうは書いていない。ただ、王都の先生がここまで言っておられる。もう少し確かめるまで待てないかね」

 

「何を確かめたら、再開してよろしいんでしょう」

 

 責任者は書状を持ち直した。

 

 答えを探すように読み返してから、「出版社に聞いてみては」と言った。

 

 授業が始まる前、テレーゼは桶を教室の棚へ戻した。

 

 濡れていた縁を拭いていると、普段は一番に水を運びたがる男の子が近づいてくる。

 

「先生、きょうはぼくが水を入れる番だよ」

 

「今日は、別の勉強にしましょう」

 

「え。なんで? きのう、コップを持ってこいって言ったよ」

 

 子どもの手には、洗ってきたらしいコップがある。

 

 テレーゼはその縁を受け取った。

 

「……ごめんなさい。先生、まだ確かめなくちゃいけないことがあるの」

 

「せんせいも、わかんないことあるの?」

 

「あるわよ。今、困っているくらい」

 

 男の子は水桶のなくなった棚を見た。

 

「じゃあ、わかったら、ぼくにおしえて」

 

 テレーゼは頷きかけたが、すぐには頷けなかった。

 

 ほかの教師にも相談し、水の深さも、道具を置く位置も決めていた。

 

 棚へ戻した水桶には、洗ったばかりの水滴が残っている。

 

 放課後、テレーゼは預かっていた教材を開いた。

 

 紙の端には、今日のために子どもたちの名前を書いてある。

 

 その余白へインクが一滴落ち、慌てて布を当てた。

 

 出版社へ出す手紙には、学者から届いた懸念と、用意した道具や安全対策を書いた。

 

 まだ授業を試せていないことも隠さず、学校の責任者に説明できる資料が欲しいと頼んだ。

 

 最後に一行だけ迷ってから足した。

 

 ――子どもたちには、またあの授業をすると約束しています。

 

 その手紙もまた、通常の便で新町へ向かった。

 

 

 

 テレーゼの手紙が新町へ着いた頃、押入写本会社では改訂した教材の出荷がようやく落ち着き始めていた。

 

 作業机には新版と訂正紙、その横に学校からの手紙が置かれている。

 

 澪は差出人を見て、一度ヨハンの顔を見直した。

 

「……今度は学校からもですか?」

 

 ヨハンは帳面の端に挟んだ一通を見せた。

 

「隣町の教師からです。王都の学者の意見を受けて、実験頁をいったん使わないことになったそうです」

 

 教師の文字は最後へ行くほど詰まっていた。

 

 子どもが持参したコップを使えなかったこと、学校の責任者に説明できる資料が欲しいこと。

 

 最後には、短い一文があった。

 

 ――子どもたちには、またあの授業をすると約束しています。

 

 澪はそこへ指を置き、理央へ手紙を回した。

 

「『観察した手順と訂正の内容を、教師にも分かるように送ってほしい』……ですか」

 

 澪は手紙を伏せ、隣の束から実験条件の分かる観察表を選んだ。

 

 端には、ルカの少し傾いた字が残っている。

 

「観察表の写しと、直した頁を送りましょう。テレーゼさんが責任者へ見せられるように」

 

「授業を再開していただけるでしょうか」

 

 理央が尋ねると、澪は手紙を畳んだ。

 

「それを決めるのは学校です。でも、何も届かなければ先生はずっと困ったままですから」

 

 ギデオンが、学校宛てに揃えた訂正紙の束を持ち上げる。

 

「訂正紙なら出せます。新版も、先日の作り直しからようやく遅れを詰めたところですぞ」

 

「……先日のこと、まだ怒ってます?」

 

「納期の遅れを帳面から消せるまでは、忘れませんのでな」

 

 理央は何も言えず、差し出された訂正紙を揃えた。

 

 ヨハンは別の封書を持ち上げた。

 

「それと、こちらも注文です。王都から正式に、複写と製本の見積依頼が届きました」

 

 ヨハンが差し出した封書には、オルトヴィン・クラーヴェの名が書かれていた。

 

 帰都後に書き上げた批評原稿と、複写・製本の見積依頼が入っていた。

 

 新町の夕方の通りには買い物帰りの声が響き、窓辺には綴じ終えた冊子が積まれている。

 

 澪は学者の原稿をそっと開いた。

 

 雷の絵本と同じ竹紙ではない。

 

 ぎっしり並ぶ文字は硬く、表題も難しそうだった。

 

「『児童に自然現象を教える際の前提について』……これ、うちの教材への反論ですよね」

 

「そのようですね。魔法の影響を区別する必要、幼い子へ与える説明の限界。前に聞いた意見もあります」

 

 理央は隣から覗き込み、見覚えのある指摘に小さく頷いた。

 

 授業で使う言葉には厳しい人だったが、言われてみれば直した方がよいこともあった。

 

「でも、全部に賛成できるわけじゃないです。子どもが試す前に、全部難しい本を読めるようになるのを待つのは……」

 

「そこも意見として残せばよいのではないかね」

 

 真壁は原稿を裏返し、末尾にある見積条件へ目を留めた。

 

「ご自分の書いた批評を、ほかの人にも読んでほしいのだろう」

 

「真壁さん。うちの本に反対する本まで、うちで作るんですか?」

 

「正式に注文をいただくのならね。内容に賛成することと、製作を請け負うことは別だよ」

 

 真壁は学者の原稿と理央の教材を、机の左右へ置いた。

 

「学者君の本に賛成したという印は押さん。著者の名を出し、事実関係に問題があれば相談する。それでよいだろう」

 

「そうしていただけるなら、見積もりは出せます」

 

 ヨハンの声が急に明るくなった。

 

「学校へ送る訂正紙と、学者先生の批評冊子。送り先は違っても、どちらも紙が要りますからね。書店にも置いてもらえそうです」

 

「ヨハンさん、嬉しそうですね」

 

「仕事が増えますので」

 

「増えるのは、まず私の仕事ですぞ」

 

 ギデオンが机を杖の先でこつんと叩いた。

 

 ヨハンの笑みが半分ほど消えた。

 

「……並んでいたら、少し恥ずかしいですね」

 

 理央は笑いかけて、隣町の教師の手紙を見た。

 

 棚にしまわれたままの実験頁を、あの子たちはいつ開けるだろう。

 

 その時、ギデオンが原稿を一枚持ち上げた。

 

「理央さん、恥ずかしがる前に、そちらの原稿をこちらへ。綴じるのは私どもですからな」

 

「それ、まだ書き終わってませんよ」

 

「そうでしたか。では、終わってからで結構。私の机は逃げませんので」

 

 ヨハンは学者の原稿に別の印を押した。

 

 ギデオンがすかさず取り上げ、押した場所を確かめる。

 

「そこならよろしい。今朝は別の束に押しかけていたでしょう」

 

「……その話は、今日で終わりにしませんか」

 

「次の注文で間違えなければ、私も忘れます」

 

「それにしても、真壁さん。反論するためにうちの紙を使うなんて、妙な話ですね」

 

「反対のためにわざわざ製本費を払ってくださる。こんな上客を断る理由はあるまい」

 

「次は『どうして本が二つあるの?』って聞かれそうニャ」

 

 レイニャが小さく手琴を鳴らした。

 

 ルネが聞いたら、たしかにそう言いそうだ。

 

 しかも、その次には『どっちがほんとう?』と尋ねるだろう。

 

「……ああ、また本を作ることになるんだ」

 

 理央は両手で顔を覆いかけ、途中でやめた。

 

 少し困ったような顔のまま、もう笑っていた。

 

 その時、出荷担当者が戸口から顔を出した。

 

「学校の先生から、次の実験頁はいつ見られるかと問い合わせが来ています」

 

 ギデオンの視線が、今度は理央へ向く。

 

「まだ製本の予定には入れておりませんぞ」

 

「わ、分かってます。まず原稿ですよね」

 

 ヨハンが見積帳を閉じ、真壁は次の紙束をギデオンへ渡した。

 

 理央は席へ戻って、真新しい竹紙を一枚広げる。

 

 書こうとしていたのは、水と影の次の頁だった。

 

 机の端には、ルカが預けていったルネの観察の絵が置いてあった。

 

 出た泡と、出ると思っていた泡。

 

 ふぞろいな丸が、二つの欄に並んでいる。

 

 理央は新しい竹紙へその丸を写し取った。

 

 今度は、答えを先に書かなかった。

 

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「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。(作者:会澤迅一)(オリジナル:現代/恋愛)

高2男子の俺は、目を覚ますと一週間分の記憶が消えていることに気付いた。▼部屋には幼なじみがいる。▼中学に入ってからずっと不仲だったのに、なぜ?▼「私で童貞捨てたくせに、記憶がないなんて言わせないから!」▼教室に着くと、隣の席のギャルが笑いかけてくる。今まで一度も会話したこと無いのに、なぜ?▼「私で童貞捨てたくせに、陰キャのまんまじゃん」▼放課後、後輩の文学少…


総合評価:1457/評価:8.06/完結:142話/更新日時:2026年06月25日(木) 17:04 小説情報

自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ―United States Route―(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

アメリカ西海岸で働く三十代半ばのシステムエンジニア、工藤創一。▼十数年前に日本から渡米し、それなりに充実した生活を送っていた彼のもとへ、ある夜、謎の銀色のキューブが届く。▼それは未知の惑星《テラ・ノヴァ》へ繋がるゲートと、採掘・製錬・発電・自動化・兵器開発を可能にする《惑星開発キット》だった。▼鉄、石炭、銅、石油――地球では国家を揺るがすほどの資源が眠る異星…


総合評価:4512/評価:8.81/連載:25話/更新日時:2026年09月16日(水) 16:38 小説情報

ロマン職は異世界から帰りたい(作者:庶民ザウルス三世)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

これが絶対浪漫の力だ!▼人は夢を見る。▼そして、効率よりも自分の“好き”を信じて、浪漫を追いかける者たちがいる。▼ソロ専、人見知り。▼だけど、クリティカルが決まった時の一撃だけは誰よりも重い。▼そんな趣味全開のロマン職キャラを愛した男は、課金帰りの事故をきっかけに、ゲームで使っていた女性キャラ――ラシア・ラ・シーラとして異世界で目を覚ます。▼しかも、レベルも…


総合評価:7220/評価:8.46/連載:231話/更新日時:2026年10月17日(土) 07:08 小説情報

暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル:歴史/戦記)

現代日本で死んだ主人公が転生した先は、江戸幕府を開いた徳川家。▼身分ガチャは大当たり――かと思いきや、幼名は国松。▼のちに兄・徳川家光と対立し、「暴君」と呼ばれて破滅するはずの徳川忠長だった。▼将軍の座など絶対にいらない。▼生き残るためには、兄・竹千代を全力で支え、「敵」ではなく「便利で忠実な弟」になるしかない。▼そう決意した国松が最初に始めたのは、天下の根…


総合評価:2180/評価:7.24/連載:142話/更新日時:2026年09月03日(木) 17:34 小説情報

異世界バトルドロイド軍団(作者:サイリウム)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

高位戦術ドロイド、HT2-392は転生者である。▼戦艦の艦橋で撤退戦の指揮を取っていた彼女は、船ごとワープ事故で異世界に。大量のドロイドたちと共に見知らぬファンタジー世界にやって飛ばされることになる。▼SFドロイドたちがファンタジーに殴りこむ物語が、今始まる。


総合評価:2322/評価:8.71/連載:39話/更新日時:2026年07月19日(日) 17:00 小説情報


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