六畳間のローテーブルには、前回からの記録帳が開きっぱなしになっていた。
薬、石鹸、体温計、ポカリ、正露丸、ビオフェルミン。赤や青のボールペンで書き込まれた項目の端に、澪は自分で書いた小さな文字を見つけた。
必要なものが光った。
ドラッグストアの棚を思い出す。正露丸の箱。ビオフェルミンの棚。ポカリの箱買いコーナー。非接触体温計。石鹸。あの時、鑑定は目の前の商品をただ調べたのではなく、洪水後に必要なものを候補として光らせていた。
澪はペン先でその文字を軽く叩いた。
「必要なものが光るなら……石も光る?」
スマホを手に取り、検索履歴を開く。
レアアース 使い道。
希土類 磁石 発光材料。
タングステン 素材価格。
高融点金属 用途。
検索しただけで専門家になれるわけではない。説明を読み進めるほど、澪はむしろ自分が分かっていないことを理解する。レアアースは一種類ではない。磁石に使うもの、光に関わるもの、電池や電子部品に関わるもの、名前だけでも多い。
それでも、現代で素材として売れるものがあるなら、探す価値はある。
白金だけに頼り続けるのは怖い。白金は大きすぎるお金になるし、明石さん案件になるし、帳簿が重い。税理士顧問料、法人カード、容器、薬品、衛生用品。全部、現代円で出ていく。
白金ほどでなくてもいい。
そこそこの価格で売れる素材がほしい。
澪は記録帳の新しいページに、現代素材売却候補、と書いた。
その横に、小さく、レアアース? と付け足す。
書いてから、少しだけ首をかしげた。
「光ったら、いけるかも」
そう言ってしまうと、押し入れの奥が、また変な方向へ開きそうな気がした。
セルマ工房は、洪水後の慌ただしさが少し落ち着いていた。
棚の上には、澄み手当て一式の容器が戻され、薬草の束も乾いた布の上に並べられている。床にはまだ掃除の跡が残り、隅に置かれたバケツには泥を拭いた布が入っていた。
セルマは作業台の前で薬草の状態を見ていた。リュシアは帳面を片手に、納品と補充の数字を確認している。
澪は記録帳を抱えて入った。
「薬屋で、必要そうなものが光ったんです」
セルマの手が止まった。
「見たものを調べるだけじゃなく、探しているものに反応したのね」
「たぶん、そうです」
リュシアが顔を上げた。目つきが、商売の時のそれになる。
「じゃあ、鉱石商の倉庫でやれば、値段のついてない当たりが拾えるってことかい」
「言い方が商人です」
「商人だからね」
リュシアは悪びれもしない。
澪は記録帳を開き、現代素材売却候補のページを見せた。
「あたしの国で素材として売れるものを探したいんです。白金だけに頼るのも怖いので」
「また、あたしの国で売るものかい」
「はい。白金ほど高くなくても、素材として売れるなら、容器とか薬品とか、明石さんの顧問料とか、法人カードの引き落としの足しになります」
「みょうに切実だね」
「切実です」
澪は即答した。
セルマが記録帳を覗き込む。
「何を探すつもり?」
「レアアースです」
「れあ、あーす?」
予想通り、セルマは聞き返した。
リュシアも眉を寄せる。
「また説明しづらいものを探すんだね」
「あたしの国で、強い磁石とか、光る板とか、機械に使う……土? 石? 金属? です」
説明しながら、澪は自分でもだんだん分からなくなった。
「あたしもちゃんと説明できてないです」
「正直でよろしい」
リュシアがあきれたように言う。
セルマは少し考え込んだ。
「なら、前の白い重砂の残渣を見るべきね。白金、砂金、砂鉄を分けた後の、重い残り。あれには、まだ分からないものが入っていたはずよ」
「それと鉱石商だね」
リュシアが帳面を閉じた。
「白金の件から、あいつらは変な砂にも値がつくと思い始めてる。値を吊り上げる前に、こっちで見る」
その顔は、完全に商人だった。
澪は小さく頷いた。
また変な砂を買う流れになっている。
でも、今度は鑑定が光る。
たぶん。
鉱石商が持ってきた麻袋は、見た目からして地味だった。
金でも銀でもない。宝石のように光るわけでもない。黒い砂、赤茶けた砂、灰色の粉、磁石に少しだけ反応する粒、炉底にこびりついていたという重い塊。木箱の底には、黒灰色の粒がざらりと入っている。
鉱石商は、セルマ工房の裏口で帽子を取り、リュシアを見て愛想笑いを浮かべた。
「金でも銀でもねえが、妙に重い。炉に入れると嫌がられる。捨てるには惜しい」
「惜しいと思うなら値を吊り上げるなよ」
リュシアの声は穏やかなのに、鉱石商は肩をすくめた。
「リュシアさんが言うと怖いな」
「怖いですけど、助かります」
澪が言うと、鉱石商は今度は澪を見た。
「嬢ちゃんが買うのかい」
「見るだけです。買うかは、リュシアさんが決めます」
「その答えが一番怖えよ」
リュシアは笑わなかった。
作業台の上に、麻袋の中身が少しずつ広げられる。黒い砂。赤茶の粉。灰色の粒。手で触ると、見た目より重いものが混じっている。
澪は呼吸を整えた。
目的を思い浮かべる。
レアアース候補。
現代側で素材として売れるもの。
希少重鉱物。
すると、作業台の上のいくつかに淡い光が乗った。
澪の背筋が伸びる。
光った。
薬局だけではない。鉱石でも光った。
だが、その中でひときわ強く光ったのは、黒灰色の重い粒だった。
レアアースのつもりで見ていたのに、別のものが先に主張している。
澪はそれを指先でつまもうとして、思ったより重くて落としかけた。
「重い」
セルマが覗き込む。
「それね」
澪は鑑定した。
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目的適合候補
探索目的:現代側で素材として売れる希少素材
候補反応:強
対象:黒灰色重粒、炉底残渣混在
分類:高融点重金属系素材
通常炉加工:困難
現代素材売却候補:あり
推奨:収納分離、溶解、整形、固形化
備考:レアアース候補とは別系統
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レアアースとは別系統。
澪は心の中でうめいた。
そっちじゃない。
でも強い。
しかも、現代素材売却候補あり。
高融点重金属。黒灰色。重い。炉で溶けない。
タングステン系?
澪のスマホ検索履歴が、頭の中で点滅した。
白金ほどではないかもしれない。でも、現代で素材として売れるなら十分だ。少なくとも、何もない砂よりはずっといい。
セルマは黒灰色の粒を、ひどく嫌そうに見た。
「これは、炉で嫌われる石ね」
「嫌われる石」
「重い、硬い、溶けない。砕こうとすると道具が負ける。錬金術師も鍛冶屋も、あまり触りたがらない」
リュシアがすぐに言った。
「つまり、安く集められるってことかい」
「あなたはすぐそこへ行くわね」
「商人だからね」
「でも、安く集められるのは大事です」
澪がつい同意すると、セルマは額に指を当てた。
「二人とも同じ方向を見るのが早いわ」
収納加工を鉱石商に見せるわけにはいかない。
リュシアは鉱石商に仮の代金を渡し、追加の持ち込みは出所札をつけるよう念を押した。鉱石商が帰ると、セルマは工房の扉を閉め、窓に布を下ろした。
工房の空気が変わる。
外の市場のざわめきが少し遠くなり、作業台の上の黒灰色の粒だけが、やけに重く見えた。
澪は粒を収納に入れる。
混ざりものが多い。砂礫、鉄分、炉滓、よく分からない重鉱物。白金分離の時ほど大量ではないが、一つ一つが扱いにくい。
澪は集中した。
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収納分離
対象:黒灰色重粒、炉底残渣混在
処理:高融点重金属系素材分離
不純物:砂礫、鉄分、炉滓、未分類重鉱物
分離結果:候補素材濃縮
推奨:試料化、素材売却用小分け
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まずは小さく。
現代側で素材として売るなら、いきなり変な形にしない。小インゴット、棒材、試料片。成分確認用に出せる形。説明しやすい形。明石さんに見せても、ぎりぎり紙に書ける形。
澪は収納内で、濃縮した素材を溶解し、整形し、固形化した。
炉で溶かしているわけではない。
収納の中で、形をほどき、まとめ直し、固める。
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収納加工
対象:高融点重金属系素材
処理:溶解、整形、固形化
形状:小インゴット
重量:500g
用途:現代素材売却候補、成分確認用試料
状態:固形化済み
備考:通常炉を使用せず収納内で加工
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作業台の上に、黒灰色の小インゴットが出た。
小さい。
でも、ずしりと重い。
リュシアが手に取ろうとして、眉を上げた。
「この大きさで、この重さかい」
「重いです」
セルマは無言で見ていた。表情が硬い。
「炉で溶けないはずよ」
「炉では溶かしてないです。収納の中で、形をほどいて、また固めました」
「言っていることが、だいぶ錬金術師の敵ね」
澪は困った。
敵になりたいわけではない。
素材を売りたいだけである。
リュシアは小インゴットを作業台へ戻し、音を聞いた。
ごとり、と鈍い音がする。
「みんなが嫌う重い石を、澪だけが形にできるってことかい」
「あたしの国で素材として売れるかもしれないので、まずは小さくまとめたいだけです」
「だけ、で済む顔をしていないね」
澪はそっと目をそらした。
棒材も作った。薄い板状の試料片も作った。そこまではよかった。たぶん、かなりまともだった。
問題は、その後だった。
セルマが小インゴットを眺めながら言った。
「鍛冶屋に見せれば、どれほど嫌われる素材かすぐ分かるわ」
「鍛冶屋さんに」
「ええ。砥石や炉にどう反応するか、彼らなら分かる」
澪は考えた。
鍛冶屋に見せるなら、棒材より刃物の形の方が反応が分かりやすいのではないか。研ぎやすいか、刃がつくか、砥石がどうなるか。棒より剣型の方が、職人の反応は早い。
そう思ったのが、よくなかった。
澪は約7kg分の素材を収納内でまとめた。
溶解。
整形。
固形化。
収納から出てきたのは、片刃剣の形をした、黒灰色の重い金属塊だった。
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剣型試料
分類:高融点重金属系素材
推定重量:約7kg
状態:固形化済み
形状:片刃剣型
刃付け:未処理
柄・鍔:未装着
重心:未調整
用途:鍛冶屋確認用、素材試料
注意:重量過多、実戦使用非推奨
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セルマが額を押さえた。
リュシアが作業台の剣型試料を見て、ゆっくり澪を見る。
「どうして剣にした」
「鍛冶屋さんに見せるなら分かりやすいかなって」
「あんたの国で素材として売りたいなら、棒か板にしときゃよかったんだよ」
「棒材も作りました」
「じゃあ、どうして剣も作った」
「鍛冶屋さんに分かりやすいかなって」
セルマが深く息を吐いた。
「分かりやすさで厄介ごとを呼ぶの、やめた方がいいわ」
澪は剣型試料を見下ろした。
たしかに、分かりやすすぎる気がしてきた。
町の鍛冶屋は、炉の熱と鉄の匂いで満ちていた。
壁には工具が並び、床には黒い粉が積もり、作業台には使い込まれた砥石が置かれている。奥では弟子らしい若者が火の様子を見ていたが、セルマとリュシアが入ってきた瞬間、少し身構えた。
鍛冶屋の親方は太い腕を組み、澪たちを見た。
「また変な仕事か」
「変かどうか見てほしいんだよ」
リュシアが言う。
澪は収納から剣型試料を出した。作業台の上に置くと、ごん、と鈍い音がした。
親方の眉が動く。
「なんだこりゃ。見た目より重いぞ」
「約7kgあります」
「剣の重さじゃねえ」
「だから試料だよ。研げるか見てほしいんだ」
リュシアが横から言うと、親方は剣型試料を両手で持ち上げた。持ち上がるが、手首の角度が変わる。普通の剣を扱う動きではない。
「研ぐ前に、こいつが何かを知りてえ」
彼は作業台に戻し、砥石を手に取った。
軽く、ほんの確認程度に当てる。
音が違った。
金属が削れる音ではない。
砥石が嫌がるような、低く引っかかる音。
黒灰色の表面に、白い筋が少しついた。だが、削れて粉を出したのは金属ではなく、砥石の方だった。
親方の手が止まる。
弟子たちも黙った。
炉の音だけが残る。
「……こいつは鋼じゃねえ」
「やっぱり研ぎにくいですか」
澪が聞くと、親方はゆっくり顔を上げた。
「研ぎにくいなんてもんじゃねえ。砥石が削れる」
セルマが静かに言った。
「普通の炉では扱えない素材よ」
「炉で溶けねえ、砥石が負ける、やたら重い……まさか」
親方の顔から、職人の好奇心と恐れが同時に出てきた。
「もしや……オリハルコンか?」
「違うと思います」
澪は反射で言った。
リュシアがすぐに横から刺した。
「澪、今は黙ってな」
「はい」
セルマは剣型試料から目を離さない。
「確定はできないわ。でも、町の鍛冶屋の店先で扱っていい物ではない」
親方も頷いた。
「俺の店で売るなよ。こんなもん、客に見せるだけで面倒が来る」
「研ぎは」
「試したいに決まってるだろうが」
親方はそう言ってから、歯を食いしばるように口を閉じた。
「だが、勝手に触るもんじゃねえな。これは、上へ通せ」
リュシアが澪を見た。
「ほらね」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってる。あたしの国で素材として売るつもりだったんです、って顔だよ」
澪は実際にそう思っていた。
あたしの国で素材として売るつもりだったんです。
剣にする予定ではなかった。
オリハルコン疑惑になる予定でもなかった。
王家とか、上とか、そういう単語が出る予定ではもっとなかった。
鍛冶屋を出ると、リュシアはすぐに言った。
「これは市場で値をつける品じゃない」
「あたしの国で、素材として売るつもりだったんです」
「だったら剣の形にするんじゃないよ」
「素材の硬さを見るためで……鍛冶屋さんに分かりやすいかなって」
「分かりやすくしすぎだね。剣の形にした時点で、鍛冶屋と貴族が黙ってるわけないだろう」
セルマも頷く。
「素材の試料にするなら、棒か板でよかったのよ」
「棒も作りました……」
「じゃあ、どうして剣も作った」
リュシアの声がやさしいのに、逃げ場がない。
「……分かりやすいかなって」
「王家へ上がる可能性があるわ」
セルマの言葉で、澪は固まった。
「王家」
「変な石を剣にしたんだ。諦めな」
リュシアが背中を押した。
変な石を剣にした。
澪は心の中で、その表現の雑さに反論しようとした。
だが、だいたい事実だった。
ヴァルディス侯爵家の一室は、工房や鍛冶屋とは空気が違った。
床は磨かれ、壁には厚い布がかかり、窓からの光が静かに差し込んでいる。作業台ではなく、重い木の机があり、その上に白い布が敷かれた。
その布の上に、剣型試料が置かれる。
黒灰色の片刃剣型の金属塊。
柄も鍔もなく、刃もついていない。けれど、剣の形をしているだけで、部屋の空気を変えていた。
アルベルト・ヴァルディスは手袋をはめ、両手でそれを持ち上げた。
腕に重さが乗る。
彼はすぐに、戦場で振るう剣としては見なかった。
重心を見て、持ち替え、刃の形を見る。
「これは武器としてより、国へ見せるべき素材だ」
「武器じゃないんですか」
澪が聞くと、アルベルトは剣型試料を慎重に布へ戻した。
「今の形では重すぎる。柄も鍔もなく、重心も悪い。普通の騎士が振るう剣ではない。だが、王家へ示すには十分だ」
リュシアが静かに聞く。
「若様、名前は」
「断定はしない。オリハルコン疑惑の特殊素材、とする」
澪は心の中で小さく叫んだ。
タングステン系だと思う。
少なくとも、オリハルコンではないと思う。
でも、その言葉は飲み込んだ。
この世界にとっては、炉で溶けず、砥石が負け、重く硬い剣型素材は、伝説に近いものとして扱われる。澪が現代名を出しても、説明できない。
アルベルトは澪を見た。
「侯爵家が買い取る。王家へ献上する」
「買い取るって、いくらで」
「正金貨100枚」
澪は、目を瞬いた。
「……また金貨ですか」
リュシアがあきれたように言う。
「金貨以外で払えって言うのかい」
「金貨が増えると、あたしの国で困るんです」
「普通は金貨が増えて困る商人はいないよ」
正論だった。
でも困る。
現代円が欲しかった。白金みたいに換金しやすい素材を探していた。そこそこの価格で現代素材として売るつもりだった。
それなのに、異世界金貨が増えた。
しかも、王家献上品になった。
アルベルトは澪の困り顔を見ても、判断を変えなかった。
「澪殿の名は表に出しすぎない。侯爵領で発見された特殊素材を、侯爵家が管理し、王家へ献上する。その形にする」
セルマが頷いた。
「収納加工のことは伏せるべきね」
「当然だ」
アルベルトはリュシアとセルマを見た。
「鍛冶屋にも報酬と口止めを出す。確認協力として扱う」
リュシアが小さく息を吐いた。
「話が早くて助かるよ」
「早くしないと、話が広がる」
アルベルトの声は静かだった。
澪は正金貨100枚という言葉だけが、頭の中で重く転がるのを感じていた。
鍛冶屋には、侯爵家から正式に使いが出た。
確認協力の報酬と、口止め。
親方は報酬袋を受け取りながらも、剣型試料のことを忘れられない顔をしていた。
「一度だけでいいから、ちゃんと研いでみてえ」
アルベルトは淡々と言う。
「必要があれば呼ぶ」
「必要を作ってくれ」
リュシアが横で苦笑した。
「職人は面倒だね」
「気持ちは分かります」
澪は小さく言った。
あの素材を見て、触って、砥石が負けるのを見た鍛冶屋が、続きを試したくなるのは分かる。危険でも、面倒でも、職人なら気になる。
澪も、収納内の残渣を思い出していた。
まだある。
小インゴットも棒材もある。
剣型試料は1本だけなのに、もう王家案件になっている。
残りをどう扱うか考えると、胃が重くなった。
正金貨100枚の袋は、見た目以上に重かった。
セルマ工房に戻った澪は、それを作業台の上に置いた。ごとり、と袋の底が木に沈むような音を立てる。
リュシアはその音を聞いて満足そうに頷いた。
「異世界側の運転資金にはなるね」
「なるんですけど」
澪は袋を見下ろした。
この金貨で、異世界側の材料は買える。セルマ工房の資材も、人件費も、鉱石商への支払いも、侯爵家管理市場の手数料も払える。
でも、税理士顧問料は払えない。
法人カードの引き落としも払えない。
薬品や容器や衛生用品の仕入れも、現代円が必要だ。
セルマは袋を見て、静かに言った。
「王家案件の報酬としては軽くないけれど、重すぎるわけでもないわ」
「そうなんですか」
「伝説素材かもしれない物を、侯爵家が先に押さえて王家へ上げる。その形なら、安くも高くもないでしょうね」
澪はさらに青ざめた。
高くもない。
正金貨100枚が。
異世界の金銭感覚は、まだ怖い。
「現代円が欲しかった……」
「げんだい?」
セルマが聞き返しかけたので、澪は慌てて言い直した。
「あたしの国のお金が欲しかったんです」
リュシアが笑った。
「そのために、こっちの王家献上品を作ったわけだ」
「作るつもりはなかったです」
「剣の形にしたのは澪だよ」
「素材試料です」
「王家へ行く素材試料だね」
返す言葉がなかった。
六畳間に戻った澪は、ローテーブルに記録帳を開いた。
正金貨100枚の袋は収納に入っている。それでも、重さが頭の中に残っていた。
ペンを持つ。
まずは、事実を書く。
鑑定7:目的適合候補表示、鉱石でも反応。
探索目的:現代素材売却候補、レアアース候補。
実際に強反応:高融点重金属系素材。
現代側推定:タングステン系。
収納加工:溶解、整形、固形化。
現代売却用:500g、1kg小インゴット、棒材、試料片。
異世界評価用:剣型試料 約7kg。
鍛冶屋反応:砥石が負ける。
異世界側評価:オリハルコン疑惑。
侯爵家買い取り:正金貨100枚。
王家献上予定。
問題:現代円にならない。
そこまで書いて、澪は頭を抱えた。
「現代素材として売るつもりだった」
タングステンっぽいものが光った。
棒材と小インゴットまでは正しかった。
剣にした。
オリハルコン疑惑になった。
王家へ行く。
「どうして」
六畳間の押し入れは、何も答えない。
収納内には、まだ希少重鉱物残渣がある。レアアース候補もまだ探せていない。現代売却用の小インゴットと棒材もあるが、それをどう売るかは明石さん案件だ。
剣型試料1本でこれだけの騒ぎ。
残りを考えると、澪はそっと収納を閉じた。
白金はお金になった。
高融点の黒い石は、現代素材候補になるはずだった。
けれど約7kgを剣の形にした途端、それはオリハルコン疑惑で王家へ向かうことになった。
澪は、正金貨100枚の袋を思い出して小さくつぶやいた。
「……また、異世界のお金が増えた」
現代円が欲しくて素材を探していたはずの押入商会は、気づけば王家献上品を作っていた。