押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第440話 裏の仕事も必要です

 押入写本会社の窓から、荷車に本の箱を積む男たちが見えた。

 

 春の日差しの下で縄がきしみ、車輪の軸が一度高く鳴った。

 

 その音を聞くたびに、理央は少しだけ嬉しくなる。

 

 ほんの少し前まで、ルネに「おそいね」と言われていた本が、今は知らない町の子どものところへ運ばれていくのだから。

 

「澪さん、今度は先生向けの本まで注文です。真壁さん、これ、売れますよ」

 

 理央が注文簿を持ち上げると、澪は向かいの机で配送先を見比べた。

 

 初めて名前を見る学校がある一方、同じ書店からの追加注文もある。

 

 紙と黒インクの受注簿の端には、王都の学者が書いた批評書の見積もりも挟まっていた。

 

「売れそうなのはいいんですけど、まだ竹の増産準備は途中ですからね。ヨハンさんに、あまり早い約束はしないでもらわないと」

 

「昨日もギデオンさんに言われてました。『紙が出てくるのと、綴じられるのは別ですぞ』って」

 

「あの方なら言いそうですね」

 

 二人が笑い合うところへ、真壁が入ってきた。

 

 挨拶を返しながら注文簿の一頁だけを見て、真壁の指が止まる。

 

「ふむ。売れるものには客だけでなく、別の客も集まるものだよ」

 

「別の客、ですか?」

 

「うちの帳簿や製造方法を、代金を払わず知りたい客だね」

 

 澪は手にしていた伝票を置いた。

 

 真壁の口調は、いつもと変わらない。

 

「……産業スパイってことですか?」

 

「それも含むよ。何度か人を送り込まれている」

 

 理央は注文簿を取り落としかけた。

 

「えっ、スパイって、うちの商会にですか? 何度かって、いつの話ですか!」

 

「今までは私のところで処理していた。怪しい取引を断ったこともあるし、証拠を揃えて領側へ渡したこともある」

 

「初めて聞きました」

 

 澪の声が、自分で思ったより低く出た。

 

 真壁は机の脇に立ったまま、続きを待った。

 

「それ、私にも理央ちゃんにも言っていなかったんですね」

 

「そうだね」

 

「『そうだね』では困ります。私、社員の採用書類に代表として署名しているんですよ。誰かに狙われていると分かっていたら、確認することだって違ったはずです」

 

 窓の外から、荷札を読み上げる社員の声が届いた。

 

 あの人も、受付で尋ねられたことに普通に答えていただけかもしれない。

 

 そう思うと、先ほどまで頼もしく見えた賑わいが違うものに感じられた。

 

「その通りだね。以前は私のところへ怪しい売り込みが来たら、その場で断り、取引記録を残して済んでいた。必要なら取引先へ確かめ、領側へ渡す。社員に立入先を変えさせるほどの話はなかった」

 

「でも、事件があったこと自体は知っているべきでした」

 

「うむ。君に伝えると、守らねばならない秘密を一つ増やす。私が引き受けた方が早いと思っていたのだよ」

 

「……それが理由ですか」

 

 澪は、真壁の言うことが分からないわけではなかった。

 

 ただ、知っている者が少ないほど安全だというのなら、最後には代表ですら自分の商会の危険を知らないことになる。

 

「真壁さん。私に知らせるのが危ないなら、私に代表を任せていること自体がおかしくなります」

 

 真壁が注文簿の上から手を離した。

 

「その通りだね。秘密を守るつもりで、澪君の判断を奪っていた。ここは私の間違いだよ」

 

「では、今後は?」

 

「異常があった時点で君へ知らせる。私が捕まえたあとで報告するのでは遅い。最初の報告先を変えよう」

 

「それを約束してください」

 

「約束するよ。今日の件からね」

 

 澪はそれでもすぐに頷けなかった。

 

 今まで何度あったのかさえ、まだ知らないのだから。

 

 澪が返事を探していると、理央が口を挟んだ。

 

「でも、そんなの、知らない方が安全だったんじゃ……いや、違う。私だって仕事の資料を見せちゃうかもしれないですよね」

 

「君たちに頼みたいのは、犯人探しではないよ。誰が何を見られるかを決め、妙な依頼が来た時に止まれる仕組みを作ることだ」

 

 真壁は注文簿を閉じて、その上に細い紙を一枚置いた。

 

 新会社の事務窓口から上がってきた連絡だった。

 

「今朝、写本会社の事務窓口で一人確保した。領側へも知らせてある。担当者が護送の馬車で侯爵領事業所へ先に移しているよ。何をしていたのか見ておく必要があるだろう」

 

「捕まえた……?」

 

「今、どこにいるんですか」

 

「侯爵領事業所だよ。ここでは騒ぎにしない。二人とも、来てくれたまえ」

 

 澪は書類の端を揃え、理央に机の上を片付けるよう目で合図した。

 

 出ていく間際、窓の下で社員が声を張った。

 

「次は学校向けの箱だ! 紐を締め直してくれ!」

 

 理央は戸口で振り返った。

 

 紙の箱がいつものように運ばれていく。

 

 その中身を狙っていた人間がいるということが、まだうまく結びつかなかった。

 

 

 

 澪たちは真壁に同行して新町を出た。

 

 道中、理央は何度か口を開きかけ、そのたびに隣を歩く澪を見て、また黙った。

 

 侯爵領事業所へ着くと、いつもの廊下にいつもの書類仕事があった。

 

 机では職員が出納帳を繰り、奥の部屋からは誰かが椅子を引く音がする。

 

 真壁に連れられた澪は、その平凡さにかえって落ち着かなくなった。

 

「こちらだよ」

 

 真壁が止まったのは、見慣れた倉庫の扉の前だった。

 

「そこ、倉庫ですよね」

 

「そう思ってもらえるようにしてある」

 

「それ、説明になってません!」

 

 理央の声に、近くの職員がちらりと顔を上げた。

 

 真壁は鍵を取り出し、先に扉を開けてから二人を通した。

 

 棚の向こうに、さらに内扉があった。

 

 管理用の鍵を回す鈍い音のあと、石段が下へ延びているのが見えた。

 

「え、ちょっと待ってください。地下があるんですか?」

 

「あるよ」

 

「知りませんでした」

 

「それについては先ほど詫びたね」

 

「詫びたら増える部屋ではないでしょう」

 

 言ってから澪は、自分でも妙な抗議だと思った。

 

 石段を下るにつれて、上の職員たちの声が薄くなっていく。

 

 代わりに聞こえるのは靴底と石の乾いた音、それに通気口を抜ける細い風だった。

 

 先に現れたのは、簡素な寝台と水差しの置かれた小部屋だった。

 

 格子の扉には鍵がかかっている。

 

「待ってください。これ……牢屋ですか?」

 

「身柄を一時的に留めるための部屋だよ」

 

「地下牢!? 商会の事業所に!?」

 

 理央が思わず声を上げた。

 

 澪には、笑う余裕がなかった。

 

 寝台の脇には食事の器もあり、天井近くの通気口から風が入っている。

 

 何かを見せつけるための恐ろしい部屋ではない。

 

 その分、誰かを実際にここへ入れるつもりで整えた部屋だと分かった。

 

「私たちが知らないところで、誰かを閉じ込めていたんですか」

 

「今回の男はここで領側の引継ぎを待っている。以前の案件を全部ここで扱ったわけではないよ」

 

「そもそも、商会の人間が拘束していいんですか」

 

「ここを造った時、魔石や高価な商品を扱う事業所なら、盗難や押し入りへの備えも要ると考えたのだよ。逃げる者をその場で押さえても、領の役人が来るまで廊下へ座らせておくわけにはいかないだろう?」

 

「……そのための部屋ですか」

 

「施設の所有者と領側の所管責任者に用途を説明して、引渡しまでの一時的な留置場所として認めてもらった。長く収監したり、罪を決めたりする権限は私にはない」

 

「誰がここのことを知っているんです?」

 

「アルベルト殿と、事業所の警備を任せた少数の職員、それに私だね。鍵も貸し出し記録と一緒に管理している。一般の社員は知らなくてよい。だが、君まで知らなかったのはやはり別の話だ」

 

 最後だけ、真壁の声が少し低くなった。

 

「今回も報告は?」

 

「済ませてある。押収品の引渡しには領の担当が立ち会う。君には後で書面を見せよう」

 

 澪は返事をせず、格子の奥をもう一度見た。

 

 真壁を疑いたいわけではない。

 

 ただ、誰がどんな権限で人を入れたのか、知らないまま通り過ぎたくなかった。

 

 廊下の先には、木の机と椅子のある小部屋が並んでいた。

 

 一方の壁には、背丈より大きな暗い鏡がはめ込まれている。

 

「……で、あの大きな鏡は?」

 

「向こうの部屋からはこちらが見えない。見てごらん」

 

 真壁は隣室へ回り、灯りを落とした。

 

 鏡の向こうには、尋問用の机と椅子が明るく浮かんでいる。

 

 理央は目を丸くした。

 

「マジックミラーじゃないですか! どこまで用意してるんですか!」

 

「向こうにも行ってごらん」

 

 理央が尋問室へ回ると、こちらの姿は見えなくなったらしい。

 

 鏡に映る自分の顔を覗き込んでから、扉の隙間からひょいとこちらを見た。

 

「ほんとに見えません! ……あ、今、真壁さん、笑ってました?」

 

「見えなかったはずでは?」

 

「声で分かります!」

 

「声は鏡を通しているのではないよ」

 

 真壁が壁脇の細い通声管を指した。

 

 澪は息を吐いた。

 

 こんな仕掛けを本当に作ってしまう人なのだ。

 

 理央が観察室へ戻ると、その足はさっきの格子の前で止まった。

 

「……あの部屋にも、人が入ったんですよね」

 

「今も一人いるよ。ここは遊び場ではない」

 

「分かってます」

 

 先ほどまでの弾んだ声は、もうなかった。

 

 澪は理央の肩に軽く触れた。

 

「真壁さん。私たちが知らなかったこと、まだあるんでしょう」

 

「あるだろうね。今日は順番に話そう」

 

 廊下の奥で、鍵束が小さく鳴った。

 

 澪は鏡の方へ向き直った。

 

 自分の仕事場のすぐ下にこんな空間があったのだと、ようやく実感が追いついてきた。

 

 

 

 地下の小会議室には、机よりも大きな記録棚があった。

 

 棚から取り出された包みを、真壁は澪と理央の前で一つずつ開いていった。

 

 荷札、委託状、控えらしい紙、端が欠けた小さな木片。

 

 紙の上に光が落ち、荷札の細い繊維が浮き上がる。

 

「名乗りはニコラス・ベレン。36歳。王国内で運送手配人として働いている男だよ」

 

「本当に運送の人なんですか?」

 

「仕事の知識はある。偽名で客の荷を横取りするだけの素人ではないね。ただ、今回の委託は偽物だ」

 

 真壁は一枚の委託状を二本の指で押さえた。

 

「『西門運送組』から、納品先の荷札が合わないので照合させてほしい、と来た。以前、運送店から出された本物の用紙を手本に、筆跡まで似せてある。だが店主は、今回の委託状を発行していないと返答している」

 

 横には店主からの返書がある。

 

 澪は文字の筆勢を比べた。

 

 書き出しの癖だけは似せているが、署名は確かに異なっていた。

 

「受付の人が、騙されたんですね」

 

「受付は普通の手続きをしている。運送の仕事に必要な範囲なら、照合を受け付けてもよい。だが彼は生産予定表も見せろと言った」

 

「配送先の確認に、生産予定表はいらないですよね」

 

「そう。その職員が私へ知らせてくれた」

 

 真壁は別の紙を開いた。

 

 細い筆で写した数字と、卸先を思わせる略号が並んでいる。

 

「運送組への照会が済んでから、本当の予定表は引き上げた。机に残したのは、持ち出されても実害のない囮だよ」

 

「じゃあ、これは……」

 

「彼が与えられた範囲を越えて写し、袖の内側へしまったものだ。担当職員と私が立ち会って、所持品から確認した」

 

「知らずに本当の帳簿を出していたら、と思うと怖いです」

 

 理央は自分が作った本の出荷印を見つけて、指を引っ込めた。

 

 澪も背筋を伸ばした。

 

 新会社に入ったばかりの人を疑うより、ちゃんと止まった職員の判断を先に認めたい。

 

「その受付の方には、お礼を言わないとですね」

 

「もう伝えたよ。本人もずいぶん肝を冷やしたようだがね」

 

「社員の中に、手引きした人がいたわけではないんですね」

 

「今のところ、その証拠はない。そこを推測で埋めてはいかんよ」

 

 澪は小さく頷いた。

 

 何も分からないまま全員を疑えば、会社の方が先に壊れてしまう。

 

「でも、予定表だけで何をするんでしょう」

 

「第一の狙いは紙とインクの供給量、価格、卸先、それに納期だ。競合相手なら、売り先を奪うにも仕入れを押さえるにも使える」

 

「そこまでは商売の話ですね」

 

「その後で依頼が増えたようだ。竹紙の工場か、生産責任者の居場所を探せ、とね」

 

 理央は目を瞬かせた。

 

「……あ。そうか。紙は大量に出てくるのに、運送屋さんは工場を見つけられない」

 

「竹を運び込む荷車も、見たことがないはずだよ」

 

 実際の製造工程は《収納》の中にある。

 

 外部の人間が荷の出入りだけを追っても、存在しない工場を探し続けることになる。

 

 その理由が分からない相手なら、今度は人を探すだろう。

 

 真壁が置いた木片には、斜めの傷が三本並んでいた。

 

「この印は何でしょう」

 

「男の持ち物から出た。荷札の一部らしい。誰に何を渡す印か、本人に聞きたいね」

 

「捕まえた時、話さなかったんですか」

 

「自分は運送の仕事をしただけだ、と繰り返している」

 

 理央は囮の写しをしげしげと見つめた。

 

「……これを持っていっても、工場は分からないのに」

 

「彼には本物に見えたのだよ。報酬が増えれば、無理もする」

 

 真壁は包みを元に戻し、証拠を押収記録の番号順に重ねた。

 

 布の擦れる音が、不思議なほど大きく聞こえた。

 

「さて。何を聞き出すかより、誰のところへ情報が届くはずだったかが大事だ。そこを塞がなければ、次の者が来るからね」

 

「もう何か手を打っているんですか?」

 

「侯爵領の領都にある西門の共同荷捌き場には、運送店の返書を得た段階で領側に見張りを頼んである。ただ、どの荷をどう使うかは分からなかった。むやみに全部を調べれば、関係のない商人に迷惑がかかるからね」

 

「つまり、男の話次第で……」

 

「見るべき場所を絞れる。あとの手配は、領の担当に頼むよ」

 

 澪が顔を上げると、真壁は扉の方を見ていた。

 

 誰かが到着したらしい。

 

 

 

 クラリッサは、地下へ案内されても歩幅を乱さなかった。

 

 ただ、小応接室の扉が閉まった途端、廊下の格子にちらりと目を向けた。

 

 真壁が勧めた椅子に腰を下ろすと、濃い色の外套が背もたれに静かに収まった。

 

 澪は向かいに座り、熱い茶を前に置いた。

 

「クラリッサ君。君の技能を、今回の調査に借りたい」

 

「どのようなお仕事でしょう」

 

「商会へ潜り込んだ男がいる。話してもらいたいことがあるのだよ。ただし、採用時の約束は変わらない。私の許可なく、社員や客へ《既成事実》を使うことは認めん」

 

「心得ております。面接の時は、行き過ぎましたもの」

 

 クラリッサは茶器へ手を伸ばしかけ、そこで止めた。

 

「この方に、技能を使ってもよろしいのですか?」

 

「今回は頼むよ。使ったことは領側にも報告するし、聞き出した話は裏を取る」

 

「承知しましたわ。では、お任せくださいませ」

 

「うむ、頼んだよ。クラリッサ君」

 

 クラリッサは少し笑い、ようやく茶を一口飲んだ。

 

 温かい湯気が顔の前を上がった。

 

「ところで、セレヴィアを離れてからは、どう暮らしてきたのかね」

 

 茶杯が皿に戻るまでに、ほんの一息ぶんの間があった。

 

「仕事がなければ食べられませんもの。最初の町では宿を借りるお金もなくて、昔の知り合いのふりをしました」

 

「《既成事実》で?」

 

「ええ。宿の女主人は、わたくしが昔そこで泊まったことを思い出したように、寝台を貸してくださいました。朝には、干していた布を畳むお手伝いもいたしましたわ」

 

「その方は、後で気づかなかったんですか」

 

 澪が尋ねると、クラリッサは目を伏せた。

 

「気づいた方もおります。怒鳴られたことも、追い出されたこともございます。ですから一つの町に長くとどまれませんでした」

 

「……それは」

 

 気の毒ですね、と言いかけて澪はやめた。

 

 追い出した宿主の怒りにも理由がある。

 

 けれど、食べる場所がなかったクラリッサの夜も、嘘にはならない。

 

「半島の貴族社会で、家が孤立したのだね」

 

 真壁はカップを動かさずに言った。

 

 クラリッサのまつげが上がる。

 

「島側と話をすることさえ裏切りと呼ぶ方々がおりました。家の中でも、誰が誰の味方かを確かめなければならなかったんですの」

 

「カルネス侯爵を中心とする半島側も、近頃は以前ほどまとまっていないようだ。鉛の問題だけが理由ではないのだろうね」

 

「……わたくしには、今の内情までは分かりません」

 

「そうだね。こちらでも調べねばならん」

 

 真壁は追及しなかった。

 

 彼女は少しだけ肩の力を抜いたが、すぐに背を正した。

 

「祖国は捨てましたわ。捨てなければ生き残れませんでしたもの」

 

「ならば、戻る義理もないかね」

 

「ええ。でも、見返したいと思ったことはございます」

 

 吐き出すような声ではなかった。

 

 むしろ、普段の上品な調子に戻そうとして、最後の語だけが小さくなった。

 

「考えてみたまえ。将来、半島の貴族が押入商会との取引を求めて、君に頭を下げる。君はなんと言うかね」

 

 クラリッサは意外そうに真壁を見た。

 

 やがて口元に、今までとは違う笑みが戻る。

 

「……まずはお取引の条件を伺いますわ。昔のよしみで値引きはいたしませんけれど」

 

「結構。それなら商売の話ができる」

 

「真壁さん、そういうつもりで聞いたんですか」

 

「どうだろうね」

 

 理央が窓際の椅子で声を漏らした。

 

「見返す方法が、相手に高く売ることなんですね……」

 

「破産させるほどにはいたしませんわ」

 

 軽いやり取りが途切れたあと、真壁は別の問いを置いた。

 

「ところで、弟君はどうしているのかね」

 

 クラリッサの指が茶杯の縁で止まった。

 

 ついさっきと同じ静けさなのに、澪には部屋が急に冷えたように感じられた。

 

「半島の子爵家に、預かっていただいております」

 

「無事は確かめられているのかね」

 

「昨年までは。便りが絶えてからは、確かめようがございません」

 

「本人は、そこを出たいと思っているのかね」

 

「……それも、分からないのです」

 

 初めて、クラリッサが言葉を探すより先に唇を噛んだ。

 

「会いに行きたくは?」

 

「行きたいですわ。でも、わたくしが現れれば、あの子の立場が悪くなるかもしれない」

 

 理央は何か言いかけ、黙った。

 

 澪にも、すぐに返せる言葉はなかった。

 

「では、まず無事かどうかを調べよう。後見人がどのような立場で預かっているのか、弟君自身が何を望んでいるのかもね」

 

「……どうして、そこまで?」

 

「私の部下の心配事だからだよ。君の仕事の報酬と引き換えではない」

 

 クラリッサは目を伏せ、袖口の縫い目を指でなぞった。

 

「お調べになった結果、わたくしに都合の悪いことが分かるかもしれませんわ」

 

「それなら、都合の悪いことから考えればよい」

 

 真壁は白い紙を差し出した。

 

 クラリッサは後見先の手掛かりと、最後に便りを受け取った頃のことを短く書いた。

 

 真壁はそこに印を押すでもなく、別の封筒へ入れてしまった。

 

「今日は行かないんですか?」

 

 理央が訊く。

 

「弟君の意思も分からないまま関門を開いて何になる。まず調査だね」

 

 クラリッサは、ほっとしたようにも、拍子抜けしたようにも見えた。

 

 やがて椅子を立つと、茶器を揃えた。

 

「それでは、目の前のお仕事をいたしましょう。……わたくしにできることを、お見せしますわ」

 

 澪はその背中を見送った。

 

 以前、受付の女性に作った偽の思い出を、今も忘れたわけではない。

 

 今日、あの力がどこまで働くかを自分の目で見届けようと思った。

 

 

 

 尋問室に通じる廊下で、理央は記録紙の束を受け取った。

 

「理央君は、上の部屋で運送店からの返書と押収記録を照合しておいてくれたまえ」

 

「私も見るんじゃないんですか?」

 

「今日は澪君と私が見る。君には、人の話を聞くより先にできる仕事がある」

 

「……スパイの尋問を見たいわけじゃありませんけど」

 

 理央は紙の束を抱え直した。

 

 澪が小声で「終わったら説明するから」と言うと、ようやく頷いて階段へ戻っていった。

 

 観察室の灯りは低く抑えてあった。

 

 机の向こうで、尋問室が鏡越しに見える。

 

 小柄なランプが机上を照らし、空いた椅子の影が床へ伸びていた。

 

 真壁が扉を開け、まだ誰もいない尋問室へクラリッサを呼び入れる。

 

「クラリッサ君。技能が動く間、こちらで君と相手を《鑑定》させてもらう。尋問のためだけでなく、作用がどこへ及ぶかも見たい。構わないかね」

 

「ええ。ただし、わたくし自身も仕組みを言葉にできるとは限りませんわ」

 

「そこは承知している」

 

 クラリッサが椅子へ座ると、真壁は観察室へ戻った。

 

「澪君。クラリッサ君と相手の男、両方を《鑑定》しながら観察してくれたまえ」

 

「二人とも、ですか。相手だけじゃなく?」

 

「使う側と受ける側で、どちらが先に変わるか見たいのだよ」

 

「分かりました。始まる前の表示も残します」

 

 澪は鏡の向こうのクラリッサへ意識を向けた。

 

 だが《鑑定》が捉えたのは、手前にある鏡の材質だった。

 

 もう一度試しても同じだ。

 

「……鏡が鑑定されます」

 

「なるほど。視線が通るのと、技能が対象を捉えるのは別らしいね」

 

 真壁も試し、手を引いた。

 

 続いて鏡の横の木枠をそっと開くと、細く遮蔽された直視窓が現れた。

 

 尋問室の灯りはこちらまで届くが、こちら側は暗いままだ。

 

 澪がそこから覗くと、クラリッサの輪郭と《鑑定》の表示が重なった。

 

「今度は見えました。これならいけます」

 

「では、この窓を使おう。二人を視界に入れられる位置を確保しておいてくれたまえ」

 

 澪は椅子をわずかにずらした。

 

 試験用の紙へ一度だけ印を付け、筆を置く。

 

 ほどなくニコラスが領側の担当者に連れられてきた。

 

 手荒な扱いを受けた様子はないが、首筋に汗がにじんでいる。

 

 彼は椅子へ座る前に鏡を見た。

 

「誰かいるのか」

 

「お話を聞くだけですわ」

 

 クラリッサが静かに答える。

 

 担当者は扉の外へ控え、会話の経過を記録するための取り決めをもう一度確かめた。

 

 澪は観察紙の上段へ、技能を使う前の二人の状態を書き留めた。

 

 現時点で《既成事実》の内部に四つの技能が見えるわけではない。

 

 その空欄へ目を落としたまま、澪は小さく呼吸を整えた。

 

「真壁さん、以前のやり方と、本当に違うものなんですね」

 

「私が以前行った記憶干渉は、相手を仮死化して《収納》へ入れる必要があった。もっとも先日は、心停止していない相手も収納できたがね」

 

「……それ、先に教えてください!」

 

「まだ《収納》を挟む。彼女は相手と話したまま働きかける。条件がまるで違うのだよ」

 

「違うって分かりましたけど、収納の話も後で詳しく聞きますからね」

 

 真壁は返答の代わりに、新しい観察紙を澪へ寄せた。

 

 向こう側で、クラリッサが茶杯を持ち上げた。

 

 ニコラスはその手つきを見て、初めてまばたきの回数を減らした。

 

 

 

「運送の手違いだ。あの紙も、仕事で必要だった」

 

 ニコラスは椅子の背に寄りかからず、机の角へ指を置いた。

 

 逃げ道を塞がれているのは承知しているのだろう。

 

 それでも相手の言い方の隙を探す目つきをしていた。

 

「そうかもしれませんわ。では、なぜ運送店の主人があなたをご存じないのでしょう」

 

「……店の主人が全員の顔を覚えているものか」

 

「確かに。大勢の方に仕事を頼めば、忘れてしまうこともございますものね」

 

 クラリッサは相手の言い分をいったん受け止めた。

 

 反論を待っていたニコラスの指が、一度だけ机を叩く。

 

「俺は荷の照合を頼まれただけだ。帳面を見せないから、控えを取った。話はそれだけだ」

 

「随分とお手間だったでしょう。紙は毎日出てくるのに、工場の場所がどうしても見つからない」

 

 男の指が止まった。

 

「……あんた、何を知っている」

 

「何もかも存じているわけではございません。ただ、あなたお一人が困っていたのではないのでしょう?」

 

 観察室で、澪の視界の端が動いた。

 

 クラリッサの技能欄に、それまでなかった細い文字が開く。

 

 見間違えないよう、澪は息を詰めて覗いた。

 

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鑑定/技能発動

 対象:クラリッサ

 発動:《既成事実》

 内部作用:《認識阻害》

 連動対象:ニコラス・ベレン

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「……真壁さん、動きました。《既成事実》です。最初に《認識阻害》が出ています」

 

 真壁は頷き、自分の見えている表示と見比べた。

 

「男の方は?」

 

「警戒の反応が……変わっています。でも、話している内容はまだ同じです」

 

 ニコラスは鏡の向こうの女を見つめていた。

 

 さっきまでは誰が隠れているのか気にして鏡を見ていたのに、今はそのことを忘れたようだ。

 

「そういう話は、誰から聞いた」

 

 クラリッサはすぐには答えなかった。

 

 茶杯の取っ手へ指をかけ、相手が続きを言うのを待つ。

 

「……いや、聞いたところで、あんたには関係ない」

 

「関係がないなら、わたくしがどなたとお会いしたかも気にならないはずですわ」

 

 ニコラスの喉が上下した。

 

 澪の表示に、次の文字が増える。

 

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鑑定/技能発動

 対象:クラリッサ

 発動:《既成事実》

 内部作用:《認識阻害》《精神干渉》

 連動対象:ニコラス・ベレン

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「《精神干渉》も……」

 

 澪は書きかけの筆を止めた。

 

 ニコラス側の状態に、記憶への接触を思わせる変化が現れている。

 

 しかし具体的にどの場面を思い出しているかまでは、こちらの《鑑定》にも見えない。

 

「彼が覚えている仕事の断片に触れているのだろうね。いま彼女が何を聞くか見よう」

 

「以前、同じ連絡役の方とお仕事をなさったでしょう。お荷物を預けたり、札を付け替えたり」

 

「……連絡役?」

 

「ええ。話し合っておいた方が、荷の受け渡しは楽ですもの」

 

「……あんたも、あいつを知っているのか」

 

 クラリッサは答えず、指先で机の木目をなぞった。

 

「ずいぶん狭いところに手を入れていらしたのね。板の端で指を引っかけたりなさいませんでした?」

 

「……は?」

 

 ニコラスが自分の右手を見た。

 

 爪の脇に、治りかけの小さな傷がある。

 

「なんで、それを知ってる」

 

「心配になっただけですわ」

 

 澪は思わず、男の指と技能表示を見比べた。

 

 外から見える傷を当てただけなら偶然かもしれない。

 

 けれど、クラリッサは傷を見る前から、板に指を引っかけた話をした。

 

 真壁が黙って筆を走らせた。

 

 クラリッサの口元が、ほんのわずかに緩んだ。

 

「わたくしにも、行き違いがございましたの。今度は間違えたくありませんわ」

 

 ニコラスは彼女の横顔から、机の木目へ視線を落とした。

 

 頭の中の何かを確かめるように、眉を寄せている。

 

 澪には、男が必死に本物の記憶を探しているように見えた。

 

 その間にも表示は増えた。

 

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鑑定/技能発動

 対象:クラリッサ

 発動:《既成事実》

 内部作用:《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》

 連動対象:ニコラス・ベレン

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「《記憶操作》……真壁さん、三つ目です」

 

 澪の手が冷えた。

 

 クラリッサが以前からの知り合いだったという、ありもしない出来事が、男の中で過去として結び直されていく。

 

 もちろん、そんな記憶の中身を澪が読めたわけではない。

 

 だが、表示と男の表情を照らすと、起きていることの方向だけは分かる。

 

「……ああ。そうか。あんた、あの時の」

 

 ニコラスが、初めて自分から口を開いた。

 

「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。あの時の続きを、聞かせていただけます?」

 

 クラリッサは、相手が勝手に作り上げた過去の中身を知っている顔をした。

 

 その横に、四つ目の文字が現れた。

 

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鑑定/技能発動

 対象:クラリッサ

 発動:《既成事実》

 内部作用:《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》

 連動対象:ニコラス・ベレン

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「……四つ。最後に《暗示》です」

 

「ふむ。単に信用させる技能ではなかったのだね」

 

 澪は返事をせず、ニコラスへ視線を戻した。

 

 彼は大切な取り引きの相手を前にしているように、少し身を乗り出していた。

 

「俺だって、最初は荷の数字だけ調べるつもりだった。紙とインクの量、それに卸先と、どれくらいで届くかだ。難しいことじゃない」

 

「それだけなら、ここまで揉めませんでしたのに」

 

「そうだよ。ところが途中で『工場も探せ』と言われた」

 

「お困りでしたでしょう」

 

「どこにもねえんだ。荷は出る。帳面には量がある。なのに原料を運び込む馬車も、製紙の釜も見つからない。これじゃ仕事のしようがない」

 

 最後の言葉に、初めて腹立たしさが混じった。

 

 澪は思わず、押入写本会社の荷車を思い出す。

 

 毎日そこに紙があることを、今まで不思議とも思っていなかった。

 

 ニコラスには、見えない工場が追いかけるほど遠ざかる謎だったのだ。

 

「工場が見つかれば、どなたに報告するお約束でしたの?」

 

「メリオだ。メリオ・サルダ。あいつが追加の金を出すと言った」

 

 澪はその名を、余計な言葉を挟まず記録した。

 

 クラリッサが名前を先に示したわけではないことも書き添える。

 

「受け渡しはいつも直接?」

 

「いや。領都の西門にある共同荷捌き場だ。三番棚に荷が置かれる。そこへ写しを入れておけばいい」

 

「どう見分けるのです?」

 

「札だよ。斜めに三本、切り込みを入れてある。そんな印なら誰も気にしない」

 

「その荷札を付けた品は、棚の手前に置くの?」

 

「いや、奥だ。三番棚の背板が少し浮く。荷をどかして、板の隙間へ写しを差し込む。あの場所を知ってる奴だけが取れる」

 

 言い終わってから、ニコラスは右手を握り込んだ。

 

「……おい。あんた、さっき板の話をしたな。誰に聞いた?」

 

「あなたが、よくご存じでしたから」

 

 クラリッサはそれ以上答えず、茶杯へ視線を落とした。

 

 澪は『三番棚・背板の隙間』と記録し、次に小さく『クラリッサが先に板の話を出した』と付け加えた。

 

「代金は?」

 

「最初に前金。残りは成果物を見てからだ。金を出す時だけ、あいつはずいぶん慎重になる」

 

「最初に依頼した商人のお名前も、ご存じなの?」

 

 ニコラスは眉をしかめた。

 

「知らない。メリオがまとめている。買う奴の顔なんか見せちゃくれない」

 

「では、ご存じないことまで話してくださらなくて結構ですわ」

 

 クラリッサは茶杯を置いた。

 

 その音に、ニコラスが初めて少し顔を上げた。

 

「……おい。俺は今、あんたに何を話した?」

 

「お仕事のお話ですわ」

 

「そうじゃない。あんたと、どこで会ったんだっけ」

 

 その問いにクラリッサは答えなかった。

 

 観察室で澪は、男の口から出た事実らしい言葉と、クラリッサが作った前提を別々の欄に書き終えた。

 

「真壁さん。これ、使える情報かもしれません。でも、どこまで本物なんでしょう」

 

「そこを、次に確かめよう」

 

 真壁は既に別の紙を手元へ寄せていた。

 

 澪はもう一度、向こうの二人を見た。

 

 他人だったはずの女を見つめ、ニコラスはひどく困った顔をしている。

 

 相手が嘘をついたからではない。

 

 自分の思い出の方が、信用できなくなっているのだった。

 

 

 

 クラリッサが尋問室を出ると、ニコラスには水と食事が渡され、休息の時間になった。

 

 領側の担当者が扉を確かめる音を聞きながら、澪は観察室で書いた紙を抱えて小会議室へ戻った。

 

 握りしめていたせいで、端が少し折れている。

 

「……《既成事実》の中に、四つも入っていました」

 

「順番もはっきりしたね」

 

 真壁はクラリッサに椅子を勧め、澪の書いた時刻を読み比べた。

 

「《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》。彼女が使っているものを、我々はひとまとめに見ていたわけだ」

 

「わたくしも、そこまで分かれているとは存じませんでしたわ」

 

 クラリッサは、ほんの少し不本意そうに言った。

 

「長く使ってきたのに、自分が何をしていたのか知らなかったようですもの」

 

「ひとつ聞きたい。あの板の話は、どこから出たのかね」

 

「……あの方が、狭い木の隙間へ指を差し込むところが、ちらっと頭に浮かびましたの。棚の番号も、何を入れたかも、その時は分かりませんでした」

 

「それで傷の話を?」

 

「ええ。見えたことを全部申し上げれば、こちらが何を知っているか教えてしまいますもの。指の傷を尋ねたら、あの方が勝手に続きを考えてくださいました」

 

 澪は、尋問室で男が思わず自分の手を見た瞬間を思い出した。

 

 記憶の一場面に触れられるだけでも厄介なのに、クラリッサはそれを質問に使うことまで知っている。

 

「知らなかったからこそ、君も加減を確かめる必要があるのだろうね」

 

「……ええ。それは、そうでしょう」

 

 澪は尋問中の最後のやり取りを思い出した。

 

 見知らぬ女性へ情報を話したあと、相手とどこで会ったのか分からなくなった男の顔だ。

 

「真壁さん。これ、供述を証拠として出していいんでしょうか。《記憶操作》まで使ってるのに」

 

「証拠の代わりにはしないよ。本人の言葉は、調べる場所を教えてくれた手掛かりだ」

 

 真壁は、押収した荷札の木片を紙の横へ置いた。

 

 斜めの傷が三本。

 

 澪の記録には、男が自分の口で「三本」と言った時刻がある。

 

「この印は捕まえた時からある。クラリッサ君が尋ねる前に、既に押収していた品だ」

 

「荷捌き場の三番棚は?」

 

「こちらも先に調べている。領の担当が取り寄せた領都西門の共同荷捌き場の棚割と、運送店からの照会記録だよ」

 

 真壁が別の紙を開く。

 

 確かに三番棚は存在し、共同便の受渡しに使われている。

 

 ただし、そこを使う人間が全員怪しいわけではない。

 

「場所と印が一致しても、それだけでメリオさんが黒幕だとは言えませんね」

 

「そういうことだ。一次の依頼窓口として名前が出た。彼が何を受け、誰に売ったかはこれからだね」

 

 澪は木片に触れかけて手を引いた。

 

 代わりに、自分の紙へ『押収品と符合』と書いた。

 

「真壁さん、三番棚の背板を確かめられたら、話が変わるんじゃありませんか」

 

「私もそう考えていたところだよ。領側の見張りに、棚の管理者の立会いを求めてもらおう」

 

 真壁は短い指示書を書き、領の担当者に預けた。

 

 伝えたのは、棚の場所と、裏板の隙間を確かめること。メリオの名は、確定した罪状のようには書かない。

 

 男が勝手に話した場所だからこそ、そこに何があるかを他人の目で確かめる必要があった。

 

 商会側では、生産担当の名簿や予定表を外部の荷札照合に出さないよう扱いを改める。

 

 既に盗まれた本当の製造帳簿はないが、同じ手口が二度通じるようにはしたくなかった。

 

「領へ渡す報告には、技能を使ったことも書くんですよね」

 

「もちろん。話を引き出した方法を隠して、立派な証言だけが取れた顔はできんよ」

 

「それと、男はクラリッサさんと前から会っていたと思い込んだままでした。どこで会ったのか、答えられなくて……」

 

「記憶への影響が残っている可能性も書こう。領の担当者が、あとで聞き取る時に事情を知らずに済ませては困るからね」

 

 澪は、その言葉も記録へ書き足した。

 

 クラリッサはその言葉を聞き、少しの間黙っていた。

 

「……自分のやり方を、そこまで詳しく書かれるのは初めてですわ」

 

「嫌なら、そう言ってくれて構わない。ただ、今回の記録から消すことはできないね」

 

「いいえ。わたくしも、仕事の結果だけを見ていただくつもりではございません」

 

 昼の鐘が鳴っても、領都西門の見張りから報告は届かなかった。

 

 澪たちは簡単な昼食を挟み、尋問の記録と押収品の控えを照らし合わせた。

 

 窓のない地下室では分からなかったが、地上の光が少し傾いた頃、石段の方から足音が聞こえた。

 

 領都西門へ出していた領側の使いが戻ってきたのだ。

 

「棚の管理人に立ち会ってもらい、三番棚の背板を確認しました。板の上端が浮いていて、奥に細い隙間がありました」

 

 真壁が手を止めた。

 

「何か残っていたかね」

 

「擦れた紙の切れ端が一枚。古い荷札で、斜めに三本傷がありました。管理人は、その用途を知らなかったそうです」

 

 澪は思わず、机の木片を見た。

 

 こちらにあるのはニコラスの所持品。

 

 向こうで見つかったのは、西門の棚に実際に残っていたものだ。

 

「棚の持ち主の許可を得て、隙間を塞ぎ、荷の受渡しは当面その棚を使わないことになりました。見張りは続けます。通常の荷には手を触れていません」

 

 使いは現場確認の書面を置いて戻っていった。

 

「……本当にあったんですね」

 

 澪の声が、思わず弾んだ。

 

「クラリッサ君が本人から聞き出す前に板の話をした。そして、そこに別の印まで残っていた。裏付けが一つ増えたね」

 

「相手は、そこに帳面の写しが届くのを待っているんでしょう?」

 

「届かない。次に取りに来ても、もう使えない。ふむ、これで一つ、相手の連絡経路を潰せるね。今度は向こうが、何も届かない理由を考える番だよ」

 

 澪は笑いそうになった。

 

 さっきまで怖いと思っていた地下室で、初めて少し気が晴れた。

 

「でも、見張りは続けてくださいね。相手が別の棚を使うかもしれませんから」

 

「もちろん。その判断も、澪君と共有しよう」

 

 真壁が封筒を閉じた時、澪の視界に小さな変化があった。

 

 いつもの習慣で自分を《鑑定》し、今の疲労を確かめようとしたのだ。

 

 技能欄の下に、見覚えのない文字が並んでいる。

 

 澪は自分にも《鑑定》を向けた。

 

 《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》。

 

 四つとも、名前の後ろに「芽あり」と表示されている。

 

「真壁さん。やっぱり四つとも芽が出ています」

 

「私の方も同じだよ」

 

「一つのスキルを観察したのに、四つも増えるんですね」

 

「《既成事実》の中で、それぞれが別の働きをしていたからだろうね」

 

「それにしても、《記憶操作》に《精神干渉》……物騒な名前ばかりですね」

 

「使い道はありそうだがね」

 

「真壁さん、悪用しないでくださいよ」

 

「ははは。まだ芽が出ただけだよ」

 

 クラリッサが、二人を交互に見た。

 

「……あなた方も、わたくしの技能をお使いになれるの?」

 

「いいえ、まだです。『芽あり』だけですから。SPを使って取得したわけじゃありません」

 

 言いながら、澪は自分の胸の奥を確かめるように手を当てた。

 

 人の思い出を変える技能が、使えるかもしれないという形で自分の中に生まれた。

 

 それはただ便利そうだと喜べるものではなかった。

 

「芽が出ることと、使い道を決めることも別なのだろうね」

 

 真壁は書き終えた記録をたたみ、領側へ渡す封筒へ入れた。

 

「君の弟君の調査も忘れていない。だが、まずは今の仕事をきちんと終えよう」

 

「はい。……お願い申し上げます」

 

 クラリッサの礼は、採用面接の時よりずっと短かった。

 

 澪は記録紙を一枚ずつ揃えながら、自分の《鑑定》表示が消えるのを待った。

 

 消えても、そこにあった四つの名前までは忘れられそうになかった。

 

 

 

 上階へ戻ると、窓から春の光が入っていた。

 

 廊下では職員が荷を数え、受付の女性が来客へ行き先を教えている。

 

 地下の冷えた石壁を思い出すには、あまりにもいつもの光景だった。

 

 理央は机いっぱいに紙を広げ、運送組からの返書と押収記録を見比べていた。

 

 澪の顔を見るなり、椅子から立ち上がる。

 

「終わったんですか? あの人、どうなります?」

 

「聞き取ったことは記録したよ。これから押収品と一緒に領の担当へ引き継ぐ。こちらで有罪かどうかまで決めるわけではない」

 

「……そうですか」

 

 理央は少し安心したように見えたが、束ねた紙の上から手を離さなかった。

 

「私、この委託状を見ても偽物だって分からないと思います。受付の人、よく気づきましたね」

 

「おかしいと思った段階で人に訊けたことがよかったんです。理央ちゃんも、一人で抱えないでくださいね」

 

 澪が言うと、理央は頷いた。

 

 そして真壁の方を見る。

 

「で、これからもスパイが来るんですか?」

 

「来ないと約束してくれる相手ではないね」

 

「ですよね……」

 

 真壁は理央の机の隅を借り、まっさらな竹紙を広げた。

 

「今までは私だけで処理できた。これからはそうもいくまい。裏の仕事も必要なのだよ」

 

「その『裏の仕事』って、社員が知らない地下牢を作ることですか?」

 

「いや、そちらはもうあるね」

 

「笑い事じゃありません!」

 

 澪と理央の声が、きれいに重なった。

 

 真壁は筆先を上げたまま二人を見た。

 

「では、今度は二人にも仕事を頼もう。まず、社内の連絡を受ける担当を置く。帳簿の閲覧も、必要な人だけに分ける」

 

「その前に、約束の続きです」

 

 澪が手を出すと、真壁は筆を止めた。

 

「過去にあった件の記録も、今回の押収記録も、私が見られるようにしてください。次に異常を報告された時も、真壁さん一人に届けるのはなしです」

 

「うむ。受付の報告は澪君と私の両方へ。領側へ知らせる前にも、身の危険が差し迫っている場合を除いて君に伝える。記録の原本は管理したまま、いつでも確認できるようにしよう」

 

「それなら、代表として判断できます」

 

 澪がようやく頷くと、真壁は記録棚の鍵を取り出し、机に置いた。

 

「まず今日の件の目録からだね。鍵の扱いは、今晩、領の担当とも確認しておこう」

 

 真壁は情報の裏付けを調べる人と、社内の帳簿を扱う人を別にすると書き加えた。

 

 理央は首を伸ばす。

 

「人材って、また変わったスキルを持ってる人ですか?」

 

「そういう人も欲しいね。ただ、珍しいだけでは雇えん。信用できるかどうかは、仕事ぶりも経歴も見なければ分からない」

 

「ニャニャミさんの人物情報も使います?」

 

「参考にはする。数字だけで合否を決めるのは違うだろう」

 

 クラリッサは窓の傍らでそのやり取りを聞いていた。

 

「裏切らない方を見つける方が、珍しい技能を探すより難しいかもしれませんわ」

 

「だから君にも、長く働いてもらいたいのだよ」

 

「まあ。まだ、わたくしのことをご存じないでしょうに」

 

「これから知ればよい。仕事はすでに一つ頼んだしね」

 

 クラリッサは返す言葉を探すように口を開き、それから小さく礼をした。

 

 理央はその姿を見て、ふと思いついたように自分へ《鑑定》を向けた。

 

 普段から、少し変わったことがあると技能欄を確かめる癖がある。

 

 今日も別に期待はしていなかったはずだ。

 

「……えっ」

 

「理央ちゃん?」

 

 理央の顔が、みるみる困った色になっていく。

 

理央は自分の技能欄を見つめ、眉をひそめた。

 

「……また《共鳴》で増えてます」

 

「私の方に出た四つ?」

 

「はい。《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》。全部『芽あり(+)』です」

 

「やっぱり理央ちゃんにも伝わったんだね」

 

「それはいいんですけど……」

 

 理央はもう一度、四つの名前を読み直した。

 

「前はレイニャさんから《演奏》とか《歌唱》とか、楽しそうなのが増えたじゃないですか」

 

「そうだったね」

 

「なのに今回は《記憶操作》ですよ!? 私、何を目指してるんですか!」

 

 真壁が横から口を挟んだ。

 

「小説家ではなかったかね」

 

「そうですよ! だから、こんな取材、したくないです!」

 

 クラリッサがとうとう吹き出した。

 

 澪も笑ってしまったが、理央はまだ自分の技能欄とにらめっこしている。

 

「理央ちゃん。『芽あり』だけだからね。使えるようになったわけじゃないし、SPも振ってないんだから」

 

「分かってます。でも、並んでる名前が悪役すぎませんか!」

 

「名前で悪役と決めてはいかんよ」

 

「真壁さんがそれを言いますか!」

 

 窓の外では、学校向けの本を積んだ荷車が動き始めていた。

 

 帳簿の写しを受け渡すはずだった領都西門の三番棚は、もう使えない。

 

 澪の前には、真壁から預かった記録棚の鍵が置かれている。

 

 それでも理央だけは、何度見返しても消えない四つの技能名に頭を抱えていた。

 

「……明日は、普通の小説の取材をさせてください!」

 

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