押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

441 / 442
第441話 頭の中に本を入れます

 

 窓の外で、荷車の車輪が石を噛んだ。

 

 運び手が誰かを呼び、少し遅れて返事が来る。

 

 開けておいた窓から風が入り、机に重ねた紙の端を持ち上げた。

 

 澪が手を載せるより早く、真壁が本を一冊置いた。

 

「澪君、理央君。あの四つにSPを振っておきたまえ」

 

「四つとも、ですか」

 

「クラリッサ君のような能力を向けられた時、こちらにも対抗する手が要る。それに、人間相手の戦いでも、傷つけずに止める方法を増やせるだろう」

 

 澪にも、セレヴィアの街道で見た剣が浮かんだ。

 

 武器を持っている人間が、こちらの言葉を聞くとは限らない。

 

 武器だけ取り上げても、それで終わらないことがある。

 

「街道でも、できるだけ生かして捕らえようとしましたけど……」

 

 澪が言うと、理央も頷いた。

 

「雷は加減が難しいです。武器を奪えても、相手が動き続けたら、それだけじゃ済みませんし」

 

「抜かせずに済むなら、その方が楽なのだよ」

 

 澪は自分の技能欄を呼び出した。

 

 芽のまま並んでいた四つの名前を目で追う。

 

 《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》。

 

「……それなら、覚えておきましょうか」

 

「私も、使えるようにしておきます」

 

 澪は《認識阻害》にSPを一つ振った。

 

 芽の表示が消え、名前の後ろに「1」が付く。

 

 続けて残る三つへ、それぞれSP1を割り当てた。

 

 四つとも、技能として欄に収まった。

 

 隣の理央も自分の表示を確かめ、顔を上げた。

 

「できました。全部、Lv1です」

 

「こちらもです。真壁さんは、もう何かに使ってみたんですか」

 

 真壁は机の本を指した。

 

「私は《記憶操作》で、収納内の本をすべて自分の記憶にインストールできたよ」

 

 理央が閉じかけていた表示へ、また目を戻した。

 

「……全部ですか?」

 

「ああ。読み返す手間はなくなったね」

 

「本を、読んだことにするんですか?」

 

「内容を記憶へ入れるのだよ。必要な箇所を探すたび、収納から出さずに済む」

 

「真壁さん、それ、もっと早く教えてくださいよ」

 

 澪は、何冊も本を広げて資料を探していた時の机を思い出した。

 

「君たちも、もう使えるのだろう?」

 

「覚えたばっかりです」

 

 理央が即座に答えたものの、目は本に向いている。

 

「私、小説の資料でやってみたいです。あの説明、どこにあったかなって、何回も探すので」

 

「理央君なら、行きたくなれば大学受験だってできるじゃないか」

 

「大学……ですか。まだ高校にも行ってませんけど」

 

「先の話だよ。覚える苦労が減れば、選べるものも増えるだろう」

 

「大学、か……」

 

 理央はしばらく考え込んでいた。

 

「でも、まずは資料です。続きを書くのに使いたいので」

 

 理央が指で数え始めたので、澪も笑う。

 

「どれからにするか、迷いそうですね」

 

「全部って言ってましたよね、真壁さん」

 

「私の収納にあった分はね」

 

 その数を尋ねようとした澪は、やめた。

 

 尋ねれば、もっと落ち着かなくなる気がした。

 

「《認識阻害》の方も、使い道はある。ヴァルト君の境界魔法に似たところがあるね」

 

「あちらと同じように、気づかれにくくなるんですか」

 

「こちらは、見た者に違うものだと認識させる。見えなくするのとは違うのだよ」

 

「姿が見えていても、別人だと思うような?」

 

 真壁は頷いた。

 

「余計な接触を避けられることもあるだろう」

 

 理央が手元の紙へ、思いついた資料の名前を書き始めた。

 

 二つ目で止まり、消して、書き直す。

 

 

 

 数日後の午後、澪が事業所へ戻ると、執務室の扉が開いていた。

 

 北方で使った買付帳を開いていたニャニャミが、理央へ宿の控えを渡した。

 

「この宿だったニャ。前と同じなら、話が早いニャ」

 

「一か月後くらいって言いましたもんね」

 

 澪は椅子を引き、渡された控えを覗いた。

 

 ノルドハルムを出る朝、支配人へ告げた再訪の予定が、もう近づいている。

 

 新しい会社と本に追われている間にも、北の町ではあの布が仕立てられ、酒が飲まれていたはずだ。

 

「クラリッサ君にも、今回は来てもらう」

 

 真壁が書簡を畳んだ。

 

「前に貴族家の関係者から声が掛かっていただろう。先方の用件を聞くにも、礼法に明るい者がいると助かるのでね」

 

「こちらのお仕事は、出る前に引き継いでおきますわ」

 

 書類を持って来ていたクラリッサが答えた。

 

 真壁から渡された控えを受け取り、宛先へ目を落とす。

 

 そこで、廊下から賑やかな足音が近づいてきた。

 

「ノルドハルム、今度も行くニャ!」

 

 レイニャが扉から顔を出した。

 

 三毛の耳の下から、ルネも覗く。

 

 ルカは妹に押されるように入ってきて、開いた買付帳を見つけると足を止めた。

 

「そう言うと思っていたよ」

 

「また、あの酒場で歌うニャ。それで、ルカも連れていってほしいニャ」

 

「ルカ君の希望かね」

 

「はい。ニャニャミさんに、羊毛の話を聞いたんです。こっちで買うより安いって。でも、どうしてあんなに違うのか、値段だけじゃ分からなくて。向こうに行って、見てみたいです」

 

 商人見習いLv5になったルカは、最近、品物の話になるとこうして前へ出る。

 

「原毛が売ってあるだけじゃないニャ。運んでくる人も、買いにくる人もいるニャ」

 

「うん。だから、そっちも見たい」

 

 ニャニャミが帳面を彼の方へ向けた。

 

 ルカは一歩近づき、立ったまま名前を読もうとする。

 

「では、確かめてみるとよい」

 

「ありがとうございます!」

 

「ルネも!」

 

 小さな手が、兄の袖より高く上がった。

 

「おにいちゃんだけ、ずるい」

 

「遊びに行くんじゃないんだよ」

 

「レイニャのおてつだいする!」

 

「歌のお手伝いニャ」

 

 レイニャはすぐに引き受けた。

 

 ルネが隣へぴたりと寄り、もう歌い出しそうな顔になる。

 

 澪は二人の顔を見比べた。

 

「行くなら、院長さんにお話ししてからですね。お泊まりになりますし」

 

「聞いてくるニャ!」

 

「私も一緒に行きます。ルカ君たちの見学のことも、お話ししたいので」

 

 その夕方、澪は孤児院へ出向き、行き先と宿泊、同行する大人たちを院長へ伝えた。

 

 承諾をもらって部屋を出ると、廊下で待っていたルネが兄の顔を見上げた。

 

 ルカが笑って頷くより先に、レイニャの尾が上がったので、結果は伝わってしまった。

 

「おほん、もっていっていい?」

 

「もちろんです」

 

 澪が答えると、ルネはもう部屋へ向かっていた。

 

 ルカも追いかけ、途中で振り返って、もう一度頭を下げた。

 

 

 

 出発の朝、ルネは本を抱えて事業所へやって来た。

 

 その後ろで、ルカが自分の鞄の口を閉じる。

 

 レイニャは手琴の紐を肩へ掛け直し、ニャニャミは買付帳を取り出しやすい位置へ収めた。

 

 クラリッサが最後の書類を机へ戻すのを待って、真壁が廊下へ向き直った。

 

「理央君、頼むよ」

 

「はい。皆さん、少し下がってください」

 

 理央が《関門接続》を使うと、足元に靄が広がった。

 

 床を這っていた靄の向こうに、扉が立つ。

 

 見慣れた廊下の先が、戸口の形に切り取られ、その中だけが明るくなった。

 

 ルネの抱えた本が、胸元から少し下がる。

 

 扉の先には石畳があった。

 

 狭い脇道に日が差し、壁の下半分を白く照らしている。

 

 少し奥には木箱が寄せてあり、その向こうを荷車の車輪が横切った。

 

 扉から入る風で、澪の袖が膨らむ。

 

 こちらの廊下には紙と木の匂いが残っているのに、その風には、乾いた荷の埃と羊毛の匂いが混じっていた。

 

 蹄の音が戸口を通って大きくなり、馬を呼ぶ声が続いた。

 

「ねえ、おにいちゃん。こっちはなかで、あっちはおそと」

 

「分かったから、先に飛び出すなよ」

 

 踏み出しかけたルネの肩を、ルカが抱いた。

 

 妹の足が止まると、今度は彼自身が扉から目を離せなくなる。

 

 澪は先へ出て、脇道に人も荷も来ないことを見た。

 

 靴の下にあった事業所の平らな床が、次の一歩では、ごく浅く傾いた石へ変わる。

 

 日差しが頬を温めた。

 

 以前来た時には、まず外套の前を合わせた。

 

 その手間が、今日は要らない。

 

「大丈夫です。こちらへどうぞ」

 

 振り返ると、事業所の廊下を背にしたルネが、レイニャの手を握っていた。

 

 二人が並んで渡り、そのすぐ後をルカが来る。

 

 ルカは足元を見て、顔を上げた。

 

 通りを、羊毛の荷が進んでいく。

 

 大きく膨れた包みを縄で締め、車輪が揺れるたびに、その毛の端が動いていた。

 

「あれ、羊毛ですか」

 

「そうニャ。さっそく来たニャ」

 

 ニャニャミが後ろから答えると、ルカは荷車の行く先へ顔を向けた。

 

「……以前、セレヴィアへつながった、あの扉ですわね」

 

 クラリッサは、敷居の手前で理央へ尋ねた。

 

「はい。今日はノルドハルムへつないでます」

 

 彼女は裾を片手で持ち、一歩を運んだ。

 

 石畳を踏んだ靴が止まる。

 

 顔にかかった髪を風が動かし、彼女はすぐに振り返った。

 

 戸口の中には、今出たばかりの事業所の廊下がある。

 

 渡らずに残っている理央の姿まで、そこに見えていた。

 

 クラリッサは戸口と通りを交互に見て、ようやく息を吐いた。

 

「見た時も、信じがたいと思いましたけれど……通ってみると、なおさらですわ」

 

 クラリッサは裾から手を離した。

 

 理央に続いて渡った真壁は、彼女の視線を追って事業所を見た。

 

「長旅の支度が要らないのは助かるね」

 

 それだけ言って、通りの方へ歩き出す。

 

 ルネが、まだ見えている戸口へ片足を向けた。

 

 ルカがその手を握り直す。

 

「戻らないよ。全員来たんだから」

 

「こっちからも、あっちがみえる?」

 

「見えるけど、今見ただろ」

 

 理央が笑いながら脇へ寄った。

 

 やがて、二つの土地を隔てていた戸口が消えた。

 

 そこを風が通り抜ける。

 

 もう背後には廊下も机もなく、乾いた石と、北方の町の壁だけがあった。

 

 ルネは立っていた位置を見てから、兄の手を引いた。

 

「あっちのおみせ、いっていい?」

 

「まず宿だニャ!」

 

 レイニャの返事に、澪は笑って通りへ出た。

 

 

 

 宿の玄関で、澪は少しだけ歩みを緩めた。

 

 磨かれた扉の金具も、足元の敷物も覚えている。

 

 けれど、開け放した窓から風が抜けるロビーは、前より広く感じられた。

 

 外の車輪の音を背に入ると、靴音が柔らかくなり、代わりに食堂の方から器の触れる音が届く。

 

 受付の職員がこちらを見た。

 

 真壁に気づいて会釈し、奥へ声を掛ける。

 

 その腕が動いた時、隣で理央が息を吸った。

 

「あれ……その制服、前の生地ですか?」

 

 支配人を呼ぼうとしていた職員が、自分の袖へ目を落とした。

 

 窓の光を受けた肩に、落ち着いた艶がある。

 

 腕を曲げた肘には細いしわが寄ったが、伸ばすと布がその動きに沿って戻った。

 

「ええ。こちらで仕立てていただきました」

 

 理央が近づこうとして、途中で止まる。

 

 仕事中の人だと思い出したらしい。

 

「動きにくくないですか。肩とか、腕のところ」

 

「よく腕を動かす仕事ですからね。今のところ、具合よく着ておりますよ」

 

 職員は笑い、ちょうど運ばれてきた客の荷を奥へ案内した。

 

 その後ろ姿を、理央が見送っている。

 

「本当に、服になってる……」

 

「ちゃんと似合ってますね」

 

「澪会長、真壁総支配人、皆様、お戻りをお待ちしておりました」

 

 支配人が受付を出てきた。

 

 理央の目線に気づくと、自分も職員の後ろ姿を見る。

 

「先月の布を、試しに制服へ仕立てたのです。従業員にも好評でして」

 

「今、聞かせていただきました」

 

「お客様をお迎えする時、服を気にせず動けるのはありがたいことです」

 

 理央は深く頷き、それから慌てて、来た時の挨拶をした。

 

 支配人は気にした様子もなく、今度は真壁へ顔を向けた。

 

「ライウイスキーの方も、お客様から名前を尋ねられております。お譲りいただいた分は、もう残りがわずかで」

 

「それは何よりだね」

 

「またご相談させていただければと存じます」

 

「まず今の市況を見てから、改めて伺おう」

 

 真壁の返事に支配人は礼をした。

 

 受付から持ってきた紙を開き、今度は宿泊の人数へ目を移す。

 

 宿泊の話を聞きながら、澪は兄妹を探した。

 

 ルカはすぐそばにいた。

 

 だがルネは、上を向いたまま、レイニャと数歩先へ進んでいる。

 

 高い天井から視線を下ろすと階段があり、その向こうには食堂の入口も見えた。

 

「ルネ、そっちに行かないで」

 

「みてるだけ」

 

「歩いてるだろ」

 

 妹は足元を見た。

 

 たしかに歩いていた、と気づいたように立ち止まる。

 

 クラリッサが口元に手を添えた時、支配人が真壁へ声を落とした。

 

「以前お取次ぎしたお家からも、再訪のお尋ねが来ております」

 

「クラリッサ君。家名とご用件を、後で伺っておいてくれたまえ」

 

「承知しましたわ」

 

 彼女は支配人と挨拶を交わした。

 

 部屋を押さえ、小サロンも借りることになった。

 

 荷物を置いて落ち着いてから、お茶を頼む。

 

「サロンなら覚えてるニャ。こっちニャ」

 

 レイニャが先に立ち、途中の扉へ手を伸ばした。

 

「そちらは、食堂へ続く方でございます」

 

 職員の声で、その手が止まる。

 

 ルネは扉の向こうを覗き込もうとした。

 

「こっちも、あとでいく?」

 

「行くニャ。食べるのも大事ニャ」

 

 レイニャは尻尾を上げたまま、何事もなかったように向きを変えた。

 

 ルカが笑いをこらえている。

 

 理央はこらえずに笑った。

 

 澪も後を追う。

 

 階段を上る職員の背に、またあの布が揺れていた。

 

 

 

 午後の小サロンには、菓子の甘い匂いがしていた。

 

 窓際の薄い布が風を受けて膨らみ、戻るたび、長椅子の端に陽が差す。

 

 澪はお茶の器を持ち上げ、肩から力を抜いた。

 

 卓の向こうから、レイニャの声が聞こえてきた。

 

「きつねは、森の中で道を見失ったニャ」

 

 ルネが膝の上の絵本を覗き込む。

 

 朝から抱えてきた一冊だった。

 

 レイニャの指が絵を指し、ルネの指も隣へ来る。

 

「こっちは?」

 

「そこは、もう少し先だニャ。今はこっちの文ニャ」

 

「ここ、むずかしい」

 

 ルネは眉を寄せたが、本を閉じようとはしない。

 

 読んでもらったところの絵を、もう一度指でたどっている。

 

 ルカはニャニャミと市場の話をしながら、時々妹の様子を見ていた。

 

「ルネ君。その本は、自分で読めるのかね」

 

 真壁が尋ねた。

 

「むずかしいところ、レイニャに読んでもらうの」

 

「なるほど。少し見せてもらおうか」

 

 ルネが両手で本を渡した。

 

 真壁は数頁めくると、本を閉じた。

 

「私の記憶に入れられるのなら、ほかの者にも入れられるかもしれんね」

 

 澪は器を受け皿へ戻した。

 

「……本の内容を、ですか?」

 

「今、この本を覚えた。ルネ君にも渡せるか、試せそうだ」

 

「えっ、そんなことまで?」

 

 理央の声で、ルカも席を離れた。

 

 妹のそばへ来て、真壁の手にある本を見る。

 

 ルネは本よりも真壁を見上げていた。

 

「ルネのおほん?」

 

「そうだね。読まなくても、話を覚えられるか試してみるかね」

 

「やる!」

 

「ルネ、どういうことか分かってる?」

 

「おほん、おぼえる!」

 

 ルカは困ったように笑い、妹の横へ腰を下ろした。

 

 もう片側でレイニャが身体をずらし、ルネの座るところを広くする。

 

 真壁は絵本を卓へ伏せた。

 

 小さな身体が長椅子の上で背筋を伸ばしている。

 

 何か始まるのを待ちきれずに、足が一度だけ揺れた。

 

 真壁はルネへ《記憶操作》を使った。

 

 揺れた足が止まるより早く、声を掛ける。

 

「どうかね」

 

 ルネはまばたきをした。

 

 目を少し上へ向け、口を開く。

 

 声が出る前に、顔がぱっと明るくなった。

 

「……あっ。おぼえてる!」

 

「え、もう?」

 

 理央が卓へ手をついた。

 

 ルネは本へ飛びつこうとし、伏せてある表紙を見て、先に兄を向いた。

 

「最後はね、きつねさんがおうちにかえって、『ただいま。おみやげは、あおいいしが三つです』っていうの!」

 

 レイニャが本を開いた。

 

 まだ読んでいなかった後ろの頁へ指を入れ、最後の絵を出す。

 

 きつねの姿を見つけたルネが、嬉しそうに同じところを指した。

 

「ここ!」

 

「……合ってるニャ」

 

 レイニャが声に出して読むと、ルネも途中から声を合わせた。

 

「……おみやげは、あおいいしが三つです」

 

 ルカの手が、妹の肩から離れる。

 

「まだ、そこは読んでもらってなかっただろ?」

 

「うん。でも、しってる!」

 

 澪は息を吐き、真壁を見た。

 

「そんなに、あっさりできちゃうんですか……」

 

「できるようだね。単語まで理解できるようになったか」

 

 真壁は、まだ湯気の立っているお茶を飲んだ。

 

「《記憶操作》に、そのような使い道が……」

 

 クラリッサは、絵本を膝にしたルネを見つめていた。

 

 ルネはレイニャの袖を引いた。

 

「ねえ、前のところも、あってるかみて!」

 

 レイニャが初めの頁へ戻した。

 

 今度はルネの方が、先に話し始めた。

 

「ねえ、つぎのおほんも!」

 

 ひと通り話し終えたルネが、真壁を振り返った。

 

 絵本は膝の上で開かれたままだ。

 

 覚えたから要らない、と脇へ置く様子はなく、絵のきつねへ指を載せている。

 

「そんなに覚えて、どうするの」

 

「おにいちゃんより、ものしりになる!」

 

「僕は、本を覚えてるだけじゃないよ。売り物だって見てるんだから」

 

「ルネもみるよ」

 

「そうだけどさ」

 

 レイニャが頬の毛を動かして笑った。

 

「じゃあルネちゃん、きつねさんは、どうして帰ったと思う?」

 

 ルネの指が止まった。

 

 最後の頁へ戻し、きつねと家を見比べる。

 

 ついさっきまで滑らかに出ていた言葉が、そこで途切れた。

 

「……おなか、すいたから?」

 

「それはあるかもしれないニャ!」

 

 レイニャの返事が早かった。

 

 ルネは嬉しそうに頷き、まだ菓子の残っている皿を見た。

 

 澪は笑いながら、その皿をルネの近くへ寄せる。

 

「レイニャも、お腹がすいたんですか」

 

「お茶と一緒なら、まだ入るニャ」

 

 隣でルカが菓子を取って、妹の手に渡した。

 

「私も、自分で資料の本を覚えてみます!」

 

 理央が鞄へ手を伸ばした。

 

「どの本を選んだのかね」

 

「決めてきました。あ、でも、これじゃなくて……」

 

 出てきたのは、服地の控えだった。

 

 理央はそれを見て動きを止めた後、慌てて鞄へ戻す。

 

「本は収納でした。そっちで試してみます」

 

「急がなくても、本は逃げませんよ」

 

「澪さんだって、早く教えてって言ってました」

 

 言っていた。

 

 澪はお茶へ手を伸ばし、返事を少し遅らせた。

 

 ニャニャミが空いた菓子皿をまとめる。

 

「売り物の名前が一度で覚えられたら、便利ニャ」

 

「ルネも、おみせのほん、いれる」

 

「名前を覚えても、まだ商人にはなれないよ」

 

 ルカが言うと、ルネは考え込んだ。

 

「じゃあ、おにいちゃんといっしょにみる」

 

 兄の返事は、今度はすぐだった。

 

「うん。それなら、見よう」

 

 クラリッサの肩が、小さく揺れた。

 

 澪が目を向けると、彼女は笑みを隠すように器を持ち上げたが、ルネに見つかってしまった。

 

「クラリッサも、きつねさん、しってる?」

 

「いいえ。聞かせてくださる?」

 

 ルネは本を抱き直した。

 

 今度の聞き手の方へ、身体ごと向き直る。

 

 

 

 夕食の席でも、ルネのきつねは家へ帰った。

 

 何度帰らせても、本人は飽きないらしい。

 

 隣のレイニャに結末を教え、その後、皿の上の芋へ匙を入れた。

 

 食堂の高い窓から、西日が卓へ伸びている。

 

 煮込みの器から上がる湯気が薄く光り、焼いた料理の香りに、ライ麦パンの酸味を含んだ匂いが混じっていた。

 

 澪はパンを割った。

 

 皮の下から温かい中身が現れ、指先に細かな屑が付く。

 

「これ、ライ麦のパンなんですよね」

 

 向かいのルカが、自分の分を持ち上げた。

 

「そうニャ。こっちでは、よく食べるニャ」

 

 ニャニャミの返事を聞いて、ルカは皿の芋を見た。

 

「前に買った原料って、ここでみんなが食べるものでもあるんですね」

 

「酒になる前に、こうして食べる物でもあるからね」

 

 真壁はパンを割り、煮込みの横へ置いた。

 

 ルカは食堂を見回す。

 

 別の卓へ運ばれる籠にも、同じようなパンが入っていた。

 

 入口の方では、従業員が空いた籠を下げ、厨房から来た物と入れ替えている。

 

「安かったら、たくさん欲しくなりませんか」

 

「なるとも。だから前回は、余っている分を聞いて買ったのだよ」

 

 真壁がニャニャミを見る。

 

「売る人に、次の荷が来る時期も聞いたニャ」

 

 ルカはパンの切り口へ目を戻し、一口食べた。

 

 澪も匙を取る。

 

 じゃがいもは端が柔らかく崩れ、煮汁がそこに染みていた。

 

 ルネの匙が皿の縁に当たる。

 

「レイニャ、あしたもうたう?」

 

「歌うニャ。あのお客さんたち、待ってるはずだニャ」

 

 レイニャが胸を張った。

 

 短く口ずさんだ節は、澪にも聞き覚えがあった。

 

 北方の酒場で卓を叩いていた客の声が、薄く重なる。

 

 レイニャは片手を上げ、急に低い声を出した。

 

「もう一曲だ、猫の歌い手!」

 

 ルネが笑い、ルカは飲みかけの水を慌てて置いた。

 

「そんな声だったの?」

 

「もっと大きかったニャ」

 

「ここでは、小さめでお願いしますね」

 

 澪が言うと、レイニャは声を潜めたまま、同じ客の真似をした。

 

 小さく言っても、要求する曲数は減らない。

 

 クラリッサが匙を置いた。

 

 口元が緩みかけ、いったん閉じられる。

 

 それでも、ルネがもう一度と頼んだところで、彼女も短く笑った。

 

 窓から来る風が冷えてきていた。

 

 澪は焼き物の皿を手前へ寄せ、冷める前にもう一口食べる。

 

「僕は、明日は市場が見たいです」

 

 ルカが言った。

 

「ルネも、おみせ!」

 

「歌のお手伝いはどうするニャ?」

 

「それもする」

 

 レイニャが満足そうに頷いた。

 

 澪は理央と顔を見合わせる。

 

「明日はみんな、別々のものが見たいみたいですね」

 

「まず、町がどう変わったか見てからだね」

 

 真壁の返事を聞き、ニャニャミが金色の目を通りへ向けた。

 

 窓の向こうでは、荷車が一台、石畳を揺れていった。

 

 夕方の影が荷の下へ潜り込み、車輪と一緒に動いている。

 

 ルカはその音を聞いていたが、隣でルネの頭が傾くと、すぐに妹を向いた。

 

「眠い?」

 

「まだ。きつねさんの、つぎのほん……」

 

 最後まで言う間に、目が細くなった。

 

 澪は自分の皿を見て、残りを食べ終える。

 

 レイニャが手琴の紐を肩へ掛けた。

 

 今夜の歌は短く鼻先で途切れ、代わりに、部屋へ戻るルネの手を取った。

 

 

 

 翌朝、宿を出たルネは、兄と並んで歩いていた。

 

 石の継ぎ目をまたぎ、荷車が近づくと、今度は言われる前に端へ寄った。

 

 日向の石は乾き、店先で払われた埃が低く舞っていた。

 

 戸を開ける音が続き、荷台から箱を下ろす掛け声が、通りの奥で返ってくる。

 

 以前来た朝、溶けた水を避けて歩いたところも、今日は馬の蹄が乾いた音を立てて通った。

 

 ニャニャミが道の先を見た。

 

「こっちニャ。前も、ここから行ったニャ」

 

 ルカが歩調を早める。

 

 すぐにルネの手を思い出し、少し戻った。

 

「昨日の羊毛も、こっちに行ってましたよね」

 

「行き先が全部同じとは限らないニャ。でも、市場の方には来てたニャ」

 

 通りが賑やかになるにつれ、羊毛の匂いが強くなった。

 

 縛った荷を肩に担ぐ男が、店先の人へ声を掛ける。

 

 荷を置くと、包みの脇から毛がはみ出した。

 

 その向こうでは別の商人が、指を折りながら何かを尋ねていた。

 

 ルカの目が、話している二人へ止まる。

 

「前は、羊毛が余ってたんですよね」

 

「たくさんあったニャ」

 

「今日も人が多いけど……売れてるのかな」

 

「人の数だけじゃ分からないニャ。値段も見てみるニャ」

 

 ニャニャミは足を止めずに答えた。

 

 その白い尾を追って、澪も荷の並びを見る。

 

 以前、包みが重なっていた売場に、今日は手を差し込める隙間があった。

 

 一方で、通りの先には荷下ろしを待つ車が寄っている。

 

「一か月前と同じではないですよね」

 

「あの時、ずいぶん買いましたもんね」

 

 理央が答え、運ばれてきた魚の箱を目で追った。

 

 濡れた木肌に光が当たり、車輪の下へ水が滴る。

 

 箱を受け取る人の手が上がり、運び手が荷台から身を乗り出した。

 

 長い材木を積んだ荷車が来る。

 

 前を歩く人が声を掛け、歩行者が道を空けた。

 

 ルカはルネを壁側へ寄せ、自分も鞄を身体へ引く。

 

 材木の端が通り過ぎるまで待っていると、後ろからも荷車の音がした。

 

「木も、いっぱい来てますね」

 

「前より、運びやすくなってるのかもしれませんね」

 

 澪は、荷台から伸びる木の切り口を見送った。

 

 ルネが空いた道を指した。

 

「もう、いっていい?」

 

「いいよ。走らないでな」

 

 ルカが答える。

 

 妹に急がされながら、彼自身の顔も、市場の方へ向いていた。

 

 

 

 市場の入口に着くと、ニャニャミは人の行き来から外れたところへ寄った。

 

「ノルドハルムの市場情報を、見直すニャ」

 

 澪は隣で待った。

 

 ルカもルネの手を握ったまま足を止める。

 

 レイニャが妹のもう片側へ来ると、ルカはようやく鞄から自分の紙を出した。

 

「……あれ。原毛、十四だったのに、十七ニャ」

 

 《千里眼》を向けたニャニャミの視界に、市場の表示が並んでいた。

 

------------------------------------------------------

ノルドハルム 市場情報   単位:銀貨

------------------------------------------------------

品目      買値 売値 需要指数 供給指数 相場

原毛      17 13 64   82   ↓

洗浄羊毛    28 23 77   70   →

毛糸      45 38 84   62   ↑

毛布      79 68 91   51   ↑↑

原皮      19 15 64   80   ↓

なめし革    40 34 81   60   ↑

木材      15 11 68   90   ↓↓

ライ麦     15 12 79   74   →

大麦      15 12 75   76   →

燕麦      11  8 70   88   ↓

蕎麦      17 13 76   68   →

ジャガイモ   12  9 82   77   ↑

鉄鉱石     12  9 66   87   ↓

鉄塊      29 24 80   65   →

銅鉱石     19 15 69   76   →

鉄製工具    64 55 89   50   ↑

鱈       14 10 70   78   →

鰊       12  9 67   79   ↓

鮭       23 18 80   70   →

干し鱈     30 25 85   62   ↑

魚油      23 18 80   69   ↑

塩       28 24 85   56   ↑

ポーション   87 74 92   37   ↑

上級ポーション ―  ―  98   11   ↑↑

------------------------------------------------------

現在補正

 春季生産:高水準で継続

 原毛供給:増加継続・余剰縮小

 乳製品供給:増加

 木材搬出:大幅上昇

 北部交通:回復進行

 国外物流:低調

 羊毛買付需要:上昇

 魚類買付需要:上昇

 ジャガイモ需要:上昇

 ライ麦需要:上昇

------------------------------------------------------

 

 ニャニャミは表示を読み取り、帳面を開いた。

 

 前に書き留めた表の隣へ、今の数字を写していく。

 

 理央がその手元へ身を寄せ、澪も横から覗いた。

 

「鰊も上がってますね」

 

「芋とライ麦もニャ」

 

 ルカが紙を持ったまま、帳面の下の方まで目を走らせた。

 

「木材は……安くなってる」

 

「こっちは搬出が大幅上昇ニャ」

 

 クラリッサは帳面を囲む澪たちの後ろに立ち、通りから来る人のために半歩ずれた。

 

 ルネがその隙間から、数字を見ようと首を伸ばす。

 

「いっぱいうれたの?」

 

「この数字は、売れた数じゃないんだって」

 

 ルカが答え、また表へ顔を戻した。

 

 ニャニャミの筆が、現在補正の最後で止まる。

 

「原毛は増えてるのに、余りは減ってるニャ」

 

「買う人も増えたんですね」

 

 澪が言うと、真壁は荷を見たまま頷いた。

 

「我々の買付も一因だろうが、ほかの商人も動いている。運び込める量も変わるからね」

 

 売場で包みが開かれた。

 

 客が身を屈め、店の者が羊毛の一房を持ち上げる。

 

 ルカの指は、帳面の原毛と木材の間を行き来していた。

 

 真壁がようやく、ニャニャミの帳面へ視線を落とした。

 

 開いた頁の端が、朝の風に動く。

 

「さて……」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。