窓の外で、荷車の車輪が石を噛んだ。
運び手が誰かを呼び、少し遅れて返事が来る。
開けておいた窓から風が入り、机に重ねた紙の端を持ち上げた。
澪が手を載せるより早く、真壁が本を一冊置いた。
「澪君、理央君。あの四つにSPを振っておきたまえ」
「四つとも、ですか」
「クラリッサ君のような能力を向けられた時、こちらにも対抗する手が要る。それに、人間相手の戦いでも、傷つけずに止める方法を増やせるだろう」
澪にも、セレヴィアの街道で見た剣が浮かんだ。
武器を持っている人間が、こちらの言葉を聞くとは限らない。
武器だけ取り上げても、それで終わらないことがある。
「街道でも、できるだけ生かして捕らえようとしましたけど……」
澪が言うと、理央も頷いた。
「雷は加減が難しいです。武器を奪えても、相手が動き続けたら、それだけじゃ済みませんし」
「抜かせずに済むなら、その方が楽なのだよ」
澪は自分の技能欄を呼び出した。
芽のまま並んでいた四つの名前を目で追う。
《認識阻害》《精神干渉》《記憶操作》《暗示》。
「……それなら、覚えておきましょうか」
「私も、使えるようにしておきます」
澪は《認識阻害》にSPを一つ振った。
芽の表示が消え、名前の後ろに「1」が付く。
続けて残る三つへ、それぞれSP1を割り当てた。
四つとも、技能として欄に収まった。
隣の理央も自分の表示を確かめ、顔を上げた。
「できました。全部、Lv1です」
「こちらもです。真壁さんは、もう何かに使ってみたんですか」
真壁は机の本を指した。
「私は《記憶操作》で、収納内の本をすべて自分の記憶にインストールできたよ」
理央が閉じかけていた表示へ、また目を戻した。
「……全部ですか?」
「ああ。読み返す手間はなくなったね」
「本を、読んだことにするんですか?」
「内容を記憶へ入れるのだよ。必要な箇所を探すたび、収納から出さずに済む」
「真壁さん、それ、もっと早く教えてくださいよ」
澪は、何冊も本を広げて資料を探していた時の机を思い出した。
「君たちも、もう使えるのだろう?」
「覚えたばっかりです」
理央が即座に答えたものの、目は本に向いている。
「私、小説の資料でやってみたいです。あの説明、どこにあったかなって、何回も探すので」
「理央君なら、行きたくなれば大学受験だってできるじゃないか」
「大学……ですか。まだ高校にも行ってませんけど」
「先の話だよ。覚える苦労が減れば、選べるものも増えるだろう」
「大学、か……」
理央はしばらく考え込んでいた。
「でも、まずは資料です。続きを書くのに使いたいので」
理央が指で数え始めたので、澪も笑う。
「どれからにするか、迷いそうですね」
「全部って言ってましたよね、真壁さん」
「私の収納にあった分はね」
その数を尋ねようとした澪は、やめた。
尋ねれば、もっと落ち着かなくなる気がした。
「《認識阻害》の方も、使い道はある。ヴァルト君の境界魔法に似たところがあるね」
「あちらと同じように、気づかれにくくなるんですか」
「こちらは、見た者に違うものだと認識させる。見えなくするのとは違うのだよ」
「姿が見えていても、別人だと思うような?」
真壁は頷いた。
「余計な接触を避けられることもあるだろう」
理央が手元の紙へ、思いついた資料の名前を書き始めた。
二つ目で止まり、消して、書き直す。
数日後の午後、澪が事業所へ戻ると、執務室の扉が開いていた。
北方で使った買付帳を開いていたニャニャミが、理央へ宿の控えを渡した。
「この宿だったニャ。前と同じなら、話が早いニャ」
「一か月後くらいって言いましたもんね」
澪は椅子を引き、渡された控えを覗いた。
ノルドハルムを出る朝、支配人へ告げた再訪の予定が、もう近づいている。
新しい会社と本に追われている間にも、北の町ではあの布が仕立てられ、酒が飲まれていたはずだ。
「クラリッサ君にも、今回は来てもらう」
真壁が書簡を畳んだ。
「前に貴族家の関係者から声が掛かっていただろう。先方の用件を聞くにも、礼法に明るい者がいると助かるのでね」
「こちらのお仕事は、出る前に引き継いでおきますわ」
書類を持って来ていたクラリッサが答えた。
真壁から渡された控えを受け取り、宛先へ目を落とす。
そこで、廊下から賑やかな足音が近づいてきた。
「ノルドハルム、今度も行くニャ!」
レイニャが扉から顔を出した。
三毛の耳の下から、ルネも覗く。
ルカは妹に押されるように入ってきて、開いた買付帳を見つけると足を止めた。
「そう言うと思っていたよ」
「また、あの酒場で歌うニャ。それで、ルカも連れていってほしいニャ」
「ルカ君の希望かね」
「はい。ニャニャミさんに、羊毛の話を聞いたんです。こっちで買うより安いって。でも、どうしてあんなに違うのか、値段だけじゃ分からなくて。向こうに行って、見てみたいです」
商人見習いLv5になったルカは、最近、品物の話になるとこうして前へ出る。
「原毛が売ってあるだけじゃないニャ。運んでくる人も、買いにくる人もいるニャ」
「うん。だから、そっちも見たい」
ニャニャミが帳面を彼の方へ向けた。
ルカは一歩近づき、立ったまま名前を読もうとする。
「では、確かめてみるとよい」
「ありがとうございます!」
「ルネも!」
小さな手が、兄の袖より高く上がった。
「おにいちゃんだけ、ずるい」
「遊びに行くんじゃないんだよ」
「レイニャのおてつだいする!」
「歌のお手伝いニャ」
レイニャはすぐに引き受けた。
ルネが隣へぴたりと寄り、もう歌い出しそうな顔になる。
澪は二人の顔を見比べた。
「行くなら、院長さんにお話ししてからですね。お泊まりになりますし」
「聞いてくるニャ!」
「私も一緒に行きます。ルカ君たちの見学のことも、お話ししたいので」
その夕方、澪は孤児院へ出向き、行き先と宿泊、同行する大人たちを院長へ伝えた。
承諾をもらって部屋を出ると、廊下で待っていたルネが兄の顔を見上げた。
ルカが笑って頷くより先に、レイニャの尾が上がったので、結果は伝わってしまった。
「おほん、もっていっていい?」
「もちろんです」
澪が答えると、ルネはもう部屋へ向かっていた。
ルカも追いかけ、途中で振り返って、もう一度頭を下げた。
出発の朝、ルネは本を抱えて事業所へやって来た。
その後ろで、ルカが自分の鞄の口を閉じる。
レイニャは手琴の紐を肩へ掛け直し、ニャニャミは買付帳を取り出しやすい位置へ収めた。
クラリッサが最後の書類を机へ戻すのを待って、真壁が廊下へ向き直った。
「理央君、頼むよ」
「はい。皆さん、少し下がってください」
理央が《関門接続》を使うと、足元に靄が広がった。
床を這っていた靄の向こうに、扉が立つ。
見慣れた廊下の先が、戸口の形に切り取られ、その中だけが明るくなった。
ルネの抱えた本が、胸元から少し下がる。
扉の先には石畳があった。
狭い脇道に日が差し、壁の下半分を白く照らしている。
少し奥には木箱が寄せてあり、その向こうを荷車の車輪が横切った。
扉から入る風で、澪の袖が膨らむ。
こちらの廊下には紙と木の匂いが残っているのに、その風には、乾いた荷の埃と羊毛の匂いが混じっていた。
蹄の音が戸口を通って大きくなり、馬を呼ぶ声が続いた。
「ねえ、おにいちゃん。こっちはなかで、あっちはおそと」
「分かったから、先に飛び出すなよ」
踏み出しかけたルネの肩を、ルカが抱いた。
妹の足が止まると、今度は彼自身が扉から目を離せなくなる。
澪は先へ出て、脇道に人も荷も来ないことを見た。
靴の下にあった事業所の平らな床が、次の一歩では、ごく浅く傾いた石へ変わる。
日差しが頬を温めた。
以前来た時には、まず外套の前を合わせた。
その手間が、今日は要らない。
「大丈夫です。こちらへどうぞ」
振り返ると、事業所の廊下を背にしたルネが、レイニャの手を握っていた。
二人が並んで渡り、そのすぐ後をルカが来る。
ルカは足元を見て、顔を上げた。
通りを、羊毛の荷が進んでいく。
大きく膨れた包みを縄で締め、車輪が揺れるたびに、その毛の端が動いていた。
「あれ、羊毛ですか」
「そうニャ。さっそく来たニャ」
ニャニャミが後ろから答えると、ルカは荷車の行く先へ顔を向けた。
「……以前、セレヴィアへつながった、あの扉ですわね」
クラリッサは、敷居の手前で理央へ尋ねた。
「はい。今日はノルドハルムへつないでます」
彼女は裾を片手で持ち、一歩を運んだ。
石畳を踏んだ靴が止まる。
顔にかかった髪を風が動かし、彼女はすぐに振り返った。
戸口の中には、今出たばかりの事業所の廊下がある。
渡らずに残っている理央の姿まで、そこに見えていた。
クラリッサは戸口と通りを交互に見て、ようやく息を吐いた。
「見た時も、信じがたいと思いましたけれど……通ってみると、なおさらですわ」
クラリッサは裾から手を離した。
理央に続いて渡った真壁は、彼女の視線を追って事業所を見た。
「長旅の支度が要らないのは助かるね」
それだけ言って、通りの方へ歩き出す。
ルネが、まだ見えている戸口へ片足を向けた。
ルカがその手を握り直す。
「戻らないよ。全員来たんだから」
「こっちからも、あっちがみえる?」
「見えるけど、今見ただろ」
理央が笑いながら脇へ寄った。
やがて、二つの土地を隔てていた戸口が消えた。
そこを風が通り抜ける。
もう背後には廊下も机もなく、乾いた石と、北方の町の壁だけがあった。
ルネは立っていた位置を見てから、兄の手を引いた。
「あっちのおみせ、いっていい?」
「まず宿だニャ!」
レイニャの返事に、澪は笑って通りへ出た。
宿の玄関で、澪は少しだけ歩みを緩めた。
磨かれた扉の金具も、足元の敷物も覚えている。
けれど、開け放した窓から風が抜けるロビーは、前より広く感じられた。
外の車輪の音を背に入ると、靴音が柔らかくなり、代わりに食堂の方から器の触れる音が届く。
受付の職員がこちらを見た。
真壁に気づいて会釈し、奥へ声を掛ける。
その腕が動いた時、隣で理央が息を吸った。
「あれ……その制服、前の生地ですか?」
支配人を呼ぼうとしていた職員が、自分の袖へ目を落とした。
窓の光を受けた肩に、落ち着いた艶がある。
腕を曲げた肘には細いしわが寄ったが、伸ばすと布がその動きに沿って戻った。
「ええ。こちらで仕立てていただきました」
理央が近づこうとして、途中で止まる。
仕事中の人だと思い出したらしい。
「動きにくくないですか。肩とか、腕のところ」
「よく腕を動かす仕事ですからね。今のところ、具合よく着ておりますよ」
職員は笑い、ちょうど運ばれてきた客の荷を奥へ案内した。
その後ろ姿を、理央が見送っている。
「本当に、服になってる……」
「ちゃんと似合ってますね」
「澪会長、真壁総支配人、皆様、お戻りをお待ちしておりました」
支配人が受付を出てきた。
理央の目線に気づくと、自分も職員の後ろ姿を見る。
「先月の布を、試しに制服へ仕立てたのです。従業員にも好評でして」
「今、聞かせていただきました」
「お客様をお迎えする時、服を気にせず動けるのはありがたいことです」
理央は深く頷き、それから慌てて、来た時の挨拶をした。
支配人は気にした様子もなく、今度は真壁へ顔を向けた。
「ライウイスキーの方も、お客様から名前を尋ねられております。お譲りいただいた分は、もう残りがわずかで」
「それは何よりだね」
「またご相談させていただければと存じます」
「まず今の市況を見てから、改めて伺おう」
真壁の返事に支配人は礼をした。
受付から持ってきた紙を開き、今度は宿泊の人数へ目を移す。
宿泊の話を聞きながら、澪は兄妹を探した。
ルカはすぐそばにいた。
だがルネは、上を向いたまま、レイニャと数歩先へ進んでいる。
高い天井から視線を下ろすと階段があり、その向こうには食堂の入口も見えた。
「ルネ、そっちに行かないで」
「みてるだけ」
「歩いてるだろ」
妹は足元を見た。
たしかに歩いていた、と気づいたように立ち止まる。
クラリッサが口元に手を添えた時、支配人が真壁へ声を落とした。
「以前お取次ぎしたお家からも、再訪のお尋ねが来ております」
「クラリッサ君。家名とご用件を、後で伺っておいてくれたまえ」
「承知しましたわ」
彼女は支配人と挨拶を交わした。
部屋を押さえ、小サロンも借りることになった。
荷物を置いて落ち着いてから、お茶を頼む。
「サロンなら覚えてるニャ。こっちニャ」
レイニャが先に立ち、途中の扉へ手を伸ばした。
「そちらは、食堂へ続く方でございます」
職員の声で、その手が止まる。
ルネは扉の向こうを覗き込もうとした。
「こっちも、あとでいく?」
「行くニャ。食べるのも大事ニャ」
レイニャは尻尾を上げたまま、何事もなかったように向きを変えた。
ルカが笑いをこらえている。
理央はこらえずに笑った。
澪も後を追う。
階段を上る職員の背に、またあの布が揺れていた。
午後の小サロンには、菓子の甘い匂いがしていた。
窓際の薄い布が風を受けて膨らみ、戻るたび、長椅子の端に陽が差す。
澪はお茶の器を持ち上げ、肩から力を抜いた。
卓の向こうから、レイニャの声が聞こえてきた。
「きつねは、森の中で道を見失ったニャ」
ルネが膝の上の絵本を覗き込む。
朝から抱えてきた一冊だった。
レイニャの指が絵を指し、ルネの指も隣へ来る。
「こっちは?」
「そこは、もう少し先だニャ。今はこっちの文ニャ」
「ここ、むずかしい」
ルネは眉を寄せたが、本を閉じようとはしない。
読んでもらったところの絵を、もう一度指でたどっている。
ルカはニャニャミと市場の話をしながら、時々妹の様子を見ていた。
「ルネ君。その本は、自分で読めるのかね」
真壁が尋ねた。
「むずかしいところ、レイニャに読んでもらうの」
「なるほど。少し見せてもらおうか」
ルネが両手で本を渡した。
真壁は数頁めくると、本を閉じた。
「私の記憶に入れられるのなら、ほかの者にも入れられるかもしれんね」
澪は器を受け皿へ戻した。
「……本の内容を、ですか?」
「今、この本を覚えた。ルネ君にも渡せるか、試せそうだ」
「えっ、そんなことまで?」
理央の声で、ルカも席を離れた。
妹のそばへ来て、真壁の手にある本を見る。
ルネは本よりも真壁を見上げていた。
「ルネのおほん?」
「そうだね。読まなくても、話を覚えられるか試してみるかね」
「やる!」
「ルネ、どういうことか分かってる?」
「おほん、おぼえる!」
ルカは困ったように笑い、妹の横へ腰を下ろした。
もう片側でレイニャが身体をずらし、ルネの座るところを広くする。
真壁は絵本を卓へ伏せた。
小さな身体が長椅子の上で背筋を伸ばしている。
何か始まるのを待ちきれずに、足が一度だけ揺れた。
真壁はルネへ《記憶操作》を使った。
揺れた足が止まるより早く、声を掛ける。
「どうかね」
ルネはまばたきをした。
目を少し上へ向け、口を開く。
声が出る前に、顔がぱっと明るくなった。
「……あっ。おぼえてる!」
「え、もう?」
理央が卓へ手をついた。
ルネは本へ飛びつこうとし、伏せてある表紙を見て、先に兄を向いた。
「最後はね、きつねさんがおうちにかえって、『ただいま。おみやげは、あおいいしが三つです』っていうの!」
レイニャが本を開いた。
まだ読んでいなかった後ろの頁へ指を入れ、最後の絵を出す。
きつねの姿を見つけたルネが、嬉しそうに同じところを指した。
「ここ!」
「……合ってるニャ」
レイニャが声に出して読むと、ルネも途中から声を合わせた。
「……おみやげは、あおいいしが三つです」
ルカの手が、妹の肩から離れる。
「まだ、そこは読んでもらってなかっただろ?」
「うん。でも、しってる!」
澪は息を吐き、真壁を見た。
「そんなに、あっさりできちゃうんですか……」
「できるようだね。単語まで理解できるようになったか」
真壁は、まだ湯気の立っているお茶を飲んだ。
「《記憶操作》に、そのような使い道が……」
クラリッサは、絵本を膝にしたルネを見つめていた。
ルネはレイニャの袖を引いた。
「ねえ、前のところも、あってるかみて!」
レイニャが初めの頁へ戻した。
今度はルネの方が、先に話し始めた。
「ねえ、つぎのおほんも!」
ひと通り話し終えたルネが、真壁を振り返った。
絵本は膝の上で開かれたままだ。
覚えたから要らない、と脇へ置く様子はなく、絵のきつねへ指を載せている。
「そんなに覚えて、どうするの」
「おにいちゃんより、ものしりになる!」
「僕は、本を覚えてるだけじゃないよ。売り物だって見てるんだから」
「ルネもみるよ」
「そうだけどさ」
レイニャが頬の毛を動かして笑った。
「じゃあルネちゃん、きつねさんは、どうして帰ったと思う?」
ルネの指が止まった。
最後の頁へ戻し、きつねと家を見比べる。
ついさっきまで滑らかに出ていた言葉が、そこで途切れた。
「……おなか、すいたから?」
「それはあるかもしれないニャ!」
レイニャの返事が早かった。
ルネは嬉しそうに頷き、まだ菓子の残っている皿を見た。
澪は笑いながら、その皿をルネの近くへ寄せる。
「レイニャも、お腹がすいたんですか」
「お茶と一緒なら、まだ入るニャ」
隣でルカが菓子を取って、妹の手に渡した。
「私も、自分で資料の本を覚えてみます!」
理央が鞄へ手を伸ばした。
「どの本を選んだのかね」
「決めてきました。あ、でも、これじゃなくて……」
出てきたのは、服地の控えだった。
理央はそれを見て動きを止めた後、慌てて鞄へ戻す。
「本は収納でした。そっちで試してみます」
「急がなくても、本は逃げませんよ」
「澪さんだって、早く教えてって言ってました」
言っていた。
澪はお茶へ手を伸ばし、返事を少し遅らせた。
ニャニャミが空いた菓子皿をまとめる。
「売り物の名前が一度で覚えられたら、便利ニャ」
「ルネも、おみせのほん、いれる」
「名前を覚えても、まだ商人にはなれないよ」
ルカが言うと、ルネは考え込んだ。
「じゃあ、おにいちゃんといっしょにみる」
兄の返事は、今度はすぐだった。
「うん。それなら、見よう」
クラリッサの肩が、小さく揺れた。
澪が目を向けると、彼女は笑みを隠すように器を持ち上げたが、ルネに見つかってしまった。
「クラリッサも、きつねさん、しってる?」
「いいえ。聞かせてくださる?」
ルネは本を抱き直した。
今度の聞き手の方へ、身体ごと向き直る。
夕食の席でも、ルネのきつねは家へ帰った。
何度帰らせても、本人は飽きないらしい。
隣のレイニャに結末を教え、その後、皿の上の芋へ匙を入れた。
食堂の高い窓から、西日が卓へ伸びている。
煮込みの器から上がる湯気が薄く光り、焼いた料理の香りに、ライ麦パンの酸味を含んだ匂いが混じっていた。
澪はパンを割った。
皮の下から温かい中身が現れ、指先に細かな屑が付く。
「これ、ライ麦のパンなんですよね」
向かいのルカが、自分の分を持ち上げた。
「そうニャ。こっちでは、よく食べるニャ」
ニャニャミの返事を聞いて、ルカは皿の芋を見た。
「前に買った原料って、ここでみんなが食べるものでもあるんですね」
「酒になる前に、こうして食べる物でもあるからね」
真壁はパンを割り、煮込みの横へ置いた。
ルカは食堂を見回す。
別の卓へ運ばれる籠にも、同じようなパンが入っていた。
入口の方では、従業員が空いた籠を下げ、厨房から来た物と入れ替えている。
「安かったら、たくさん欲しくなりませんか」
「なるとも。だから前回は、余っている分を聞いて買ったのだよ」
真壁がニャニャミを見る。
「売る人に、次の荷が来る時期も聞いたニャ」
ルカはパンの切り口へ目を戻し、一口食べた。
澪も匙を取る。
じゃがいもは端が柔らかく崩れ、煮汁がそこに染みていた。
ルネの匙が皿の縁に当たる。
「レイニャ、あしたもうたう?」
「歌うニャ。あのお客さんたち、待ってるはずだニャ」
レイニャが胸を張った。
短く口ずさんだ節は、澪にも聞き覚えがあった。
北方の酒場で卓を叩いていた客の声が、薄く重なる。
レイニャは片手を上げ、急に低い声を出した。
「もう一曲だ、猫の歌い手!」
ルネが笑い、ルカは飲みかけの水を慌てて置いた。
「そんな声だったの?」
「もっと大きかったニャ」
「ここでは、小さめでお願いしますね」
澪が言うと、レイニャは声を潜めたまま、同じ客の真似をした。
小さく言っても、要求する曲数は減らない。
クラリッサが匙を置いた。
口元が緩みかけ、いったん閉じられる。
それでも、ルネがもう一度と頼んだところで、彼女も短く笑った。
窓から来る風が冷えてきていた。
澪は焼き物の皿を手前へ寄せ、冷める前にもう一口食べる。
「僕は、明日は市場が見たいです」
ルカが言った。
「ルネも、おみせ!」
「歌のお手伝いはどうするニャ?」
「それもする」
レイニャが満足そうに頷いた。
澪は理央と顔を見合わせる。
「明日はみんな、別々のものが見たいみたいですね」
「まず、町がどう変わったか見てからだね」
真壁の返事を聞き、ニャニャミが金色の目を通りへ向けた。
窓の向こうでは、荷車が一台、石畳を揺れていった。
夕方の影が荷の下へ潜り込み、車輪と一緒に動いている。
ルカはその音を聞いていたが、隣でルネの頭が傾くと、すぐに妹を向いた。
「眠い?」
「まだ。きつねさんの、つぎのほん……」
最後まで言う間に、目が細くなった。
澪は自分の皿を見て、残りを食べ終える。
レイニャが手琴の紐を肩へ掛けた。
今夜の歌は短く鼻先で途切れ、代わりに、部屋へ戻るルネの手を取った。
翌朝、宿を出たルネは、兄と並んで歩いていた。
石の継ぎ目をまたぎ、荷車が近づくと、今度は言われる前に端へ寄った。
日向の石は乾き、店先で払われた埃が低く舞っていた。
戸を開ける音が続き、荷台から箱を下ろす掛け声が、通りの奥で返ってくる。
以前来た朝、溶けた水を避けて歩いたところも、今日は馬の蹄が乾いた音を立てて通った。
ニャニャミが道の先を見た。
「こっちニャ。前も、ここから行ったニャ」
ルカが歩調を早める。
すぐにルネの手を思い出し、少し戻った。
「昨日の羊毛も、こっちに行ってましたよね」
「行き先が全部同じとは限らないニャ。でも、市場の方には来てたニャ」
通りが賑やかになるにつれ、羊毛の匂いが強くなった。
縛った荷を肩に担ぐ男が、店先の人へ声を掛ける。
荷を置くと、包みの脇から毛がはみ出した。
その向こうでは別の商人が、指を折りながら何かを尋ねていた。
ルカの目が、話している二人へ止まる。
「前は、羊毛が余ってたんですよね」
「たくさんあったニャ」
「今日も人が多いけど……売れてるのかな」
「人の数だけじゃ分からないニャ。値段も見てみるニャ」
ニャニャミは足を止めずに答えた。
その白い尾を追って、澪も荷の並びを見る。
以前、包みが重なっていた売場に、今日は手を差し込める隙間があった。
一方で、通りの先には荷下ろしを待つ車が寄っている。
「一か月前と同じではないですよね」
「あの時、ずいぶん買いましたもんね」
理央が答え、運ばれてきた魚の箱を目で追った。
濡れた木肌に光が当たり、車輪の下へ水が滴る。
箱を受け取る人の手が上がり、運び手が荷台から身を乗り出した。
長い材木を積んだ荷車が来る。
前を歩く人が声を掛け、歩行者が道を空けた。
ルカはルネを壁側へ寄せ、自分も鞄を身体へ引く。
材木の端が通り過ぎるまで待っていると、後ろからも荷車の音がした。
「木も、いっぱい来てますね」
「前より、運びやすくなってるのかもしれませんね」
澪は、荷台から伸びる木の切り口を見送った。
ルネが空いた道を指した。
「もう、いっていい?」
「いいよ。走らないでな」
ルカが答える。
妹に急がされながら、彼自身の顔も、市場の方へ向いていた。
市場の入口に着くと、ニャニャミは人の行き来から外れたところへ寄った。
「ノルドハルムの市場情報を、見直すニャ」
澪は隣で待った。
ルカもルネの手を握ったまま足を止める。
レイニャが妹のもう片側へ来ると、ルカはようやく鞄から自分の紙を出した。
「……あれ。原毛、十四だったのに、十七ニャ」
《千里眼》を向けたニャニャミの視界に、市場の表示が並んでいた。
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ノルドハルム 市場情報 単位:銀貨
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品目 買値 売値 需要指数 供給指数 相場
原毛 17 13 64 82 ↓
洗浄羊毛 28 23 77 70 →
毛糸 45 38 84 62 ↑
毛布 79 68 91 51 ↑↑
原皮 19 15 64 80 ↓
なめし革 40 34 81 60 ↑
木材 15 11 68 90 ↓↓
ライ麦 15 12 79 74 →
大麦 15 12 75 76 →
燕麦 11 8 70 88 ↓
蕎麦 17 13 76 68 →
ジャガイモ 12 9 82 77 ↑
鉄鉱石 12 9 66 87 ↓
鉄塊 29 24 80 65 →
銅鉱石 19 15 69 76 →
鉄製工具 64 55 89 50 ↑
鱈 14 10 70 78 →
鰊 12 9 67 79 ↓
鮭 23 18 80 70 →
干し鱈 30 25 85 62 ↑
魚油 23 18 80 69 ↑
塩 28 24 85 56 ↑
ポーション 87 74 92 37 ↑
上級ポーション ― ― 98 11 ↑↑
------------------------------------------------------
現在補正
春季生産:高水準で継続
原毛供給:増加継続・余剰縮小
乳製品供給:増加
木材搬出:大幅上昇
北部交通:回復進行
国外物流:低調
羊毛買付需要:上昇
魚類買付需要:上昇
ジャガイモ需要:上昇
ライ麦需要:上昇
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ニャニャミは表示を読み取り、帳面を開いた。
前に書き留めた表の隣へ、今の数字を写していく。
理央がその手元へ身を寄せ、澪も横から覗いた。
「鰊も上がってますね」
「芋とライ麦もニャ」
ルカが紙を持ったまま、帳面の下の方まで目を走らせた。
「木材は……安くなってる」
「こっちは搬出が大幅上昇ニャ」
クラリッサは帳面を囲む澪たちの後ろに立ち、通りから来る人のために半歩ずれた。
ルネがその隙間から、数字を見ようと首を伸ばす。
「いっぱいうれたの?」
「この数字は、売れた数じゃないんだって」
ルカが答え、また表へ顔を戻した。
ニャニャミの筆が、現在補正の最後で止まる。
「原毛は増えてるのに、余りは減ってるニャ」
「買う人も増えたんですね」
澪が言うと、真壁は荷を見たまま頷いた。
「我々の買付も一因だろうが、ほかの商人も動いている。運び込める量も変わるからね」
売場で包みが開かれた。
客が身を屈め、店の者が羊毛の一房を持ち上げる。
ルカの指は、帳面の原毛と木材の間を行き来していた。
真壁がようやく、ニャニャミの帳面へ視線を落とした。
開いた頁の端が、朝の風に動く。
「さて……」