押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第442話 全部買い占めたいそうです

 

 

「澪君。今回は何が欲しいかね」

 

 ニャニャミが、風にめくれかけた帳面を押さえた。

 

 その脇を木材の荷車が通り、馬が鼻を鳴らす。

 

 澪は道を空けながら、積まれた木の切り口を見送った。

 

「木材と鰊は買いに行きたいです。それと、ライ麦とジャガイモ」

 

「原毛は?」

 

「前と同じ条件で使える物があれば。ただ、現物を見てからですね」

 

 ニャニャミの筆が、品名の脇へ短く印を付ける。

 

 澪は前の訪問で渡した品の控えを取り出した。

 

 ライ麦と芋は値上がりしているが、宿のライウイスキーは、もう残りわずかだという。

 

 昨日の支配人の声を思い出すと、原料の値札だけを眺めて迷ってもいられなかった。

 

「ほかには欲しくないのかね」

 

「燕麦は、今回はやめておきます」

 

「馬や牛の餌には使うんですよね」

 

 ルカが、道の向こうにある穀物の袋を見た。

 

「はい。でも、私たちが持って帰って、誰にどう売るかまでは決まっていませんから」

 

 買った後の置き場ばかりが浮かぶ物を、安いからと増やすつもりはなかった。

 

 木材なら人工木材の原料へ、鰊なら缶詰へ回せる。

 

 酒にも、すでに飲んで待っている人がいる。

 

「では、行こうか」

 

 真壁は控えを澪へ返した。

 

 ルカが羊毛の売場へ顔を向けたところで、ニャニャミが隣に並ぶ。

 

「木から見るニャ。ルカも一緒に来るニャ」

 

「はい」

 

「真壁さんたちは?」

 

「酒卸へ顔を出して、今日の都合を聞いてくる。理央君、付き合ってくれたまえ」

 

 クラリッサには、宿へ預けていた連絡の確認を頼んだ。

 

 澪は皆が戻る場所を指し、昼には市場の入口で合流すると決める。

 

「レイニャたちも、その頃には戻ってくださいね」

 

「分かったニャ。ルネ、あっちを見てくるニャ」

 

「うたうところ?」

 

「歌は夕方ニャ。今はお店ニャ」

 

 ルネは兄の顔を見た。

 

 ルカが頷くと、ようやくレイニャの手を握り直す。

 

 澪たちが木材の荷車を追って歩き出すと、後ろから「おほんもある?」という声が聞こえた。

 

 

 

 木材置場では、荷を下ろす綱が滑車を鳴らしていた。

 

 通路に散った鋸屑を踏むと、靴底が柔らかく沈む。

 

 澪は、長さを揃えて積まれた材の値札を見てから、壁際へ目を移した。

 

 そちらには、曲がった木や短い切れ端がまとめてある。

 

「真っすぐな方なら、この値だ」

 

 木材商が札を示した。

 

「そっちの曲がり木も見ていくかい。長い板を取るには、どうにもな」

 

 澪が答える前に、ルカが端材の山へ近づいた。

 

 割れ目のある一片を持ち上げ、木口を覗き込む。

 

 別の材へ触れると、そちらは爪を立てたところがぼろりと崩れた。

 

「これは、中まで柔らかくなってる……」

 

 ルカはそれを戻し、初めの一片を澪へ差し出した。

 

「こっちは割れてるけど、同じようには崩れません。曲がっていても、中まで傷んでいなければ、原料になりませんか」

 

「ええ。そっちを見せてもらいましょう」

 

 澪は受け取った木を《鑑定》した。

 

 表面の割れを追い、内部の傷みや異物の有無を確かめる。

 

 ルカが外した方には腐朽が進んでいたが、持ってきた材は使えそうだった。

 

「板に挽かず、人工木材の原料へ回します。この山を、分けて見てもいいですか」

 

「構わんよ。使えるなら、こっちも助かる」

 

 商人が綱を外すと、下に隠れていた短い材が現れた。

 

 澪は湿った樹皮を剥がして内側を見、虫の入った物や汚れの染みた物を脇へ戻す。

 

 ルカは、外した材と残した材を混ぜないように並べ直した。

 

「この束も、同じ方ですか」

 

「見てみましょう。下にあった分は、湿り方が違いますから」

 

 選び終えた山は、長さも形もばらばらだった。

 

 それでも、立派な板をそのまま砕くより、澪にはずっと使いやすい買い物だった。

 

 商人と量を合わせ、代金を払う。

 

 他の客の荷と離してもらった材へ靄を広げると、木の山が消え、奥の壁が見えた。

 

 木材商が、持っていた綱を下ろす。

 

「積む者を呼ぶ前でよかったな」

 

 ニャニャミは受領の控えを受け取り、ルカへその一角を見せた。

 

「選んだ束は、ここニャ」

 

 ルカは字を読み、空いた床をもう一度見た。

 

 口元に鋸屑の付いた手を持っていきかけ、慌てて服で払う。

 

 羊毛卸の倉庫へ入ると、今度は乾いた獣毛の匂いがした。

 

 前に会った商人は澪たちを覚えていたが、袋の山を指して首を振った。

 

「前ほど余っちゃいないよ。同じだけと言われても、出せない」

 

「ある分を見せてください。前と同じ量でなくても大丈夫です」

 

 毛質と保管の状態を比べ、今回は服地に回せる小さなロットだけを買った。

 

 そこから魚の荷場へ寄ると、箱の蓋を持ち上げた魚商の手から、水が滴った。

 

 澪は鰊の身と状態を調べ、すでに行き先のある箱を避けて注文する。

 

「缶の追加も来てるよ。あの卸から、来たら渡してくれと言付かってる」

 

 魚商が、作業台の下から折った紙を出した。

 

 ニャニャミが開くと、食品卸からの注文だった。

 

 容器の開け方には困らなかったとあり、次に欲しい分が書き添えられている。

 

 澪は引き取る箱を指し、その注文に使う分を先に分けた。

 

 

 

 昼の合流場所へ戻ると、理央が先に手を振った。

 

「酒卸の方、午後ならお話しできるそうです。同じお酒を、また頼みたいって」

 

 真壁の控えには、先方が希望した分が書いてあった。

 

 ニャニャミがそれを受け取り、前回の販売分とは別の頁を開く。

 

 澪は木材と魚の買付を伝えてから、穀物の倉庫へ向かった。

 

 屋根の下には日向より涼しい空気が残っている。

 

 商人が袋の紐をほどくと、乾いた粒が板へこぼれ、ぱらぱらと音を立てた。

 

 澪は一握りを見せてもらい、《鑑定》の結果と、実際の匂いを比べる。

 

「先月と同じ値にはできないよ」

 

 商人は先にそう言った。

 

「ええ、今朝の相場も見てきました」

 

「この並びは、もうほかの買い手がついている。売れるのはこちらだ」

 

 澪は、示された袋の状態と単価を確かめた。

 

 前の買付より高い。

 

 それでも、真壁の控えにあるライウイスキーの注文と並べれば、迷うほどの差ではなかった。

 

「この条件なら、採算は合わせられますね」

 

「出せる酒の量も変わらん。今の注文に必要な分と、余裕を持つ分を決めよう」

 

 真壁と量を合わせている間、ニャニャミは希望分を受注済みの欄へ写さずに残していた。

 

 午後に現物を見て、相手が決めてからだ。

 

 近くの青果荷場では、ジャガイモの籠が地面に並んでいた。

 

 運び手が籠を下ろすと、乾いた土が縁から落ちる。

 

 澪は食用として取り置かれている荷を外し、売れるという分から傷みの少ない物を選んだ。

 

「そっちも酒にするのかい」

 

「はい。こちらはウォッカに」

 

「なら、前と同じだな」

 

 商人は量を量り、次に荷が入る予定も伝えてくれた。

 

 籠の中身を収納すると、編み目に付いた土だけが残る。

 

 澪は空になった籠を返し、ニャニャミの持つ控えと分量を照合した。

 

 買付を終えると、レイニャたちも戻ってきた。

 

 ルカは自分の紙を鞄へ収め、妹を迎えにいった。

 

 その腕へルネが飛びつき、見てきた店の話を一度に始める。

 

 澪は二人が揃ったのを見てから、真壁と宿へ戻った。

 

 

 

 宿へ戻ると、支配人に荷受け場所と、見本を調べる部屋を使う許可をもらった。

 

 午後の配送が来る前に、大きな荷の扱いを済ませてほしいという。

 

 澪は荷受け場所で仕込みに使う原料と容器を真壁へ渡し、借りた部屋で前の製造記録を広げた。

 

「基準に残した分を出したまえ」

 

 真壁の前へ、小さな瓶が並ぶ。

 

 ライウイスキーは、窓から来る光を受けて琥珀色に透けた。

 

 真壁は受け取った原料を《収納内工程》へ回した。

 

 ライ麦と芋を分け、すでに組んである酒の工程を動かす。

 

 外の廊下では、誰かの荷物を運ぶ音がしている。

 

 部屋の中に仕込みの桶を出すことも、火を焚くこともないまま、収納の中で処理が進む。

 

 真壁は樽の状態を確かめ、時間を進めた。

 

 澪が控えの該当箇所をたどり終える頃には、新しい酒を取り出せるようになっていた。

 

 真壁が靄の中から出した瓶を、基準品の隣へ置く。

 

 白い布を背にすると、色の差が見やすかった。

 

「同じに見えますけど……」

 

 澪は《鑑定》を重ね、酒の状態と度数を真壁へ伝えた。

 

 真壁も自分で調べてから、少量を器へ注ぐ。

 

 香りを比べ、口に含み、しばらくして頷いた。

 

「前の品と揃ったね。これで持っていける」

 

 澪も香りを確かめてから味を見た。

 

 喉へ来る熱さに、つい器を遠ざける。

 

 その横から、理央が瓶に付ける札を差し出した。

 

「こっちがライで、そちらがウォッカですよね。栓をしたら、見分けやすい方に貼ります」

 

「お願いします。似た瓶だと、迷いそうですから」

 

「私に味見してくれとは言わないでくださいね」

 

 理央が笑い、札の文字を読み直した。

 

 ニャニャミは、基準として残す瓶を先に離す。

 

「見本と売る分も、混ぜないニャ」

 

 澪は頷き、新しい酒を清潔な容器へ分けた。

 

 栓と継ぎ目を調べ、持ち出す分だけを収納へ戻す。

 

 ライの欄には、前と同じ七年相当の評価が付いていた。

 

 真壁はその控えを残し、酒卸へ持っていく分を示した。

 

 窓の外で配送の車輪が止まった時には、部屋の卓にはもう、基準品の小瓶しか載っていなかった。

 

 

 

 酒卸の商館では、午前に会った男が出荷の伝票を揃えて待っていた。

 

 奥の荷場で樽が転がされ、床板を低く鳴らしている。

 

「さっそく用意していただけましたか」

 

「まずは、こちらを見ていただこう」

 

 真壁が見本を出すと、主人は品名を確かめた。

 

「前に渡した店から、次も同じ物をと言われています。酒場で聞いた客が、こちらへ買いに来たこともありましてね」

 

 澪は、主人の広げた伝票を見た。

 

 前にここへ渡した酒が、知らない店の注文になっている。

 

「午前に伺った分なら、今回お渡しできる。次の入荷まで欲しい分は、別に相談しよう」

 

「では、今日はこちらの量で。追加は、この希望日で出せますか」

 

 主人は空いている欄へ数量を書き、真壁へ向けた。

 

 真壁が原料と製造の予定を照らして返すと、主人は一か所だけ日付を直した。

 

 ニャニャミの帳面でも、午前には空いていた受注欄が埋まる。

 

 ウォッカとライウイスキーを分けて代金を受け取り、出荷済みの印を付けた。

 

 夕方、宿で皆と合流して酒場へ向かうと、レイニャの歩く速さが変わった。

 

 入口からは、肉を焼く匂いと客の声がもれている。

 

 開けた扉の向こうで、誰かが先に気づいた。

 

「来たぞ、歌い手だ!」

 

 レイニャの耳が立つ。

 

「また来たニャ!」

 

 奥から手が上がり、卓を寄せる音がした。

 

 主人は空いた席を示した後、手琴を抱えたレイニャを見て笑った。

 

「そっちには、後で場所を空ける。まずは食ってくれ」

 

「聞いてほしい曲があるニャ」

 

「食ってから聞くよ」

 

 レイニャは椅子へ座ったが、手琴は膝から下ろさなかった。

 

 ルカがルネを隣へ座らせ、壁側へ少し詰める。

 

 運ばれてきた皿にルネが手を伸ばしたので、兄は袖が煮汁に触れないよう押さえてやった。

 

 食事が済むと、レイニャは待ちかねたように立ち上がった。

 

 弦が鳴り、隣の卓の話し声が一段小さくなる。

 

 最初の曲を聞き終えたルネが、両手を叩いた。

 

「もういっかい!」

 

「次の曲もあるニャ」

 

「それもきく!」

 

 客の笑い声を受けて、レイニャは次の弦へ指を移した。

 

 澪の前を、主人が空の皿を重ねて通る。

 

「前の五樽ずつ、よく頼まれる。次も入れてもらいたいんだが」

 

 真壁が、主人の邪魔にならないよう椅子を引いた。

 

「酒卸にも渡している。こちらの希望も聞いて、出す順を合わせよう」

 

「独り占めはできんか」

 

「ほかで飲んだ客も、ここへ来るだろう」

 

「そりゃそうだ」

 

 主人は笑い、欲しい分と受取りの希望日を伝えた。

 

 ニャニャミが書き留めた紙を見せると、主人は指で日付を確かめてから厨房へ戻る。

 

 その間も、レイニャの歌は途切れなかった。

 

 聞き覚えのある節に客が加わり、ルネも歌おうとする。

 

 途中で分からなくなると、隣の兄を見上げた。

 

 ルカも知らなかったらしく、二人で同じところだけ声を合わせていた。

 

 澪は手拍子を続けながら、机に置かれた再注文の紙を鞄へ収めた。

 

 やがて最後の音が消えると、レイニャは深く頭を下げた。

 

 拍手が起こり、小さな硬貨が幾つか手元へ届く。

 

 戻ってきたレイニャは、それを大事に袋へ入れた。

 

「明日もと言われたニャ」

 

「今日も帰れなくなるところでしたね」

 

「帰るニャ。ルネが眠そうニャ」

 

 ルネは目をこすりながら首を振ったが、ルカに手を差し出されると、素直に握った。

 

 

 

 ホテルへ戻ると、扉の向こうで声の響き方が変わった。

 

 食器を運ぶ音はもうなく、灯具の下で鍵を受け取る客がいるだけだった。

 

 レイニャは兄妹を連れて、先に部屋へ上がる。

 

 澪たちへ会釈した支配人は、銀盆に載せた封書を差し出した。

 

「前回、酒と保存食品についてお尋ねだったお家から、改めてお便りを預かっております」

 

 真壁は封書を受け取り、窓際の卓へ寄った。

 

 クラリッサが隣へ立ち、灯りの届く方へ書面を向ける。

 

「服地のご相談とは、別のお家ですわね」

 

「はい。こちらは家令直属の商務をご担当の方です」

 

 支配人は、前に預かった照会の控えも添えた。

 

 澪は古い照会にある酒と保存食品の文字を読み、面会を断って帰った朝を思い出した。

 

 あの時は、初回分を各店へ渡すだけで精いっぱいだった。

 

「今回はお会いしよう。明日の午前はいかがかな」

 

「お取次ぎいたします」

 

 支配人が席を確かめる間、クラリッサは署名と肩書を読み、封蝋の紋章も見た。

 

「明日の席には、わたくしもお側に控えますわ」

 

「頼むよ」

 

 真壁は破いた封を捨てず、書状と一緒に戻した。

 

 理央が小サロンを使えるか尋ねると、支配人は明朝も空けられると答えた。

 

「お相手のお屋敷は、こちらの町にあるんですか」

 

 澪の問いに、支配人は頷く。

 

「ええ。首府のお屋敷です。ご面会の後でも、お戻りになってご報告いただけます」

 

 真壁は用件を添えた返事を預け、立ち上がった。

 

 支配人が、控えを取っていたニャニャミへ声を掛ける。

 

「当方で追加をお願いしたライウイスキーも、お忘れなく」

 

「こちらニャ。明日の分に入ってるニャ」

 

 白い指が、貴族家の書状とは別の欄を示した。

 

 支配人は安心したように礼をし、受付へ戻っていく。

 

 澪はその背中を見送ってから、手元の封書へ目を戻した。

 

 家紋の縁が、灯りを受けて薄く光っていた。

 

 

 

 翌朝、小サロンの卓には、酒の見本と前日の注文控えが並んでいた。

 

 理央は脇の小卓で筆記具を揃え、ニャニャミは受注帳を開く。

 

 ルカとルネは、朝食の後からレイニャと一緒だった。

 

 扉が叩かれ、支配人に案内された男が入ってくる。

 

 派手な飾りはないが、上着はよく仕立てられ、革の袋から出した書類の端まできれいに揃っていた。

 

 男は家令から遣わされた商務担当だと名乗り、書状を差し出した。

 

 クラリッサが昨夜のものと照らし、真壁の隣へ置く。

 

「お時間を頂戴し、ありがとうございます。先般のお酒は、当方でもいただきました」

 

「お気に召したかな」

 

「ええ。とりわけ、こちらのライウイスキーを。当家で開く席にも使いたいと考えております」

 

 男は見本の瓶を示してから、用意してきた書面を広げた。

 

 酒の種類と受渡しの欄が整い、仕入れの条件はほとんど埋まっている。

 

 澪は、数量のところに書かれた言葉で止まった。

 

「全量、ですか」

 

「はい。今お持ちの分だけでなく、今後造られる分も、当家へお譲りいただきたいのです」

 

 男は空欄だった価格の下へ、自分の筆記具を置いた。

 

「毎回、買い手をお探しになる必要はなくなります。一定の量を確保いただけるなら、代金や受取りについても、こちらでまとめてお引受けできます」

 

 澪には、昨日の酒卸の荷場が浮かんだ。

 

 次の品を待つ店があり、酒場では同じ酒を飲んだ客が歌に声を合わせていた。

 

 真壁は、書面を男へ戻した。

 

「全量はお譲りできない」

 

「価格については、まだご相談できる余地がございます」

 

「値の問題ではないのだよ。酒場と酒卸、こちらのホテルにも続けて納める。すでに約束した分もある」

 

 ニャニャミは帳面を客へ開かず、真壁に該当の欄だけを示した。

 

 男はそちらを一瞥し、出荷条件の紙を脇へずらす。

 

「すでにお約束の分は、そのままお納めください。その先からでも」

 

「次から買えなくなるというのも、困るだろう。通常の品は、これまでのお客様にも売る。その条件でよければ、追加のご注文は伺おう」

 

 窓の下を荷車が通り、車輪の音が遠ざかった。

 

 男はすぐには筆を取らず、ライウイスキーの見本へ目を戻した。

 

「ただ、多く出回る品となりますと、当家の席にお招きする方々へお出しするには……」

 

「ほかでも飲める、と?」

 

「内々の晩餐に使うだけでなく、大切な先へ贈る品にもしたいのです。そこでしか手に入らぬ物でしたら、なお喜ばれましょう」

 

 澪は瓶を見た。

 

 酒質を変えるとなると、今ある仕込みとは別に味を決めなければならない。

 

 その前に、クラリッサが静かに口を開いた。

 

「ほかのお家にはない品を、お求めなのではございませんか」

 

「ええ。まさに、そのような品を」

 

 真壁は卓の書状を自分の前へ寄せた。

 

「では、こういう品はいかがかな」

 

 

 

「特別な瓶に――」

 

 真壁は、収納にあるガラスを溶かし、新しい形へ整えた。

 

 卓の上に靄が広がり、細い首を持つ瓶が現れる。

 

 幾つもの面を連ねた肩から、下へふくらむ胴へ、窓の光が流れた。

 

 澪は思わず身を寄せた。

 

 厚みのある底まで澄み切っていて、角度が変わるたび、卓に落ちる光の形も変わる。

 

「特別なラベルを付ける」

 

 真壁は書状の紋章を見て、収納内の金属を薄く整えた。

 

 取り出したのは、紋章を浮き彫りにした、記念メダルのようなラベルだった。

 

 縁には、手紙の日付から取った今年の年号が入っている。

 

 それを瓶の正面へ付けると、使者が椅子から身を起こした。

 

「これは……当家の紋章?」

 

「お手紙にあったのでね」

 

 真壁は通常品の瓶を取り、量を合わせてライウイスキーを注いだ。

 

 琥珀色が肩まで満ちると、ガラスの面に深い色が付き、正面の紋章がいっそう明るく見えた。

 

 栓をした瓶を、真壁は使者へ向ける。

 

「今年の年号を入れた、貴家だけの特別な酒ではいかがだろうか」

 

 使者はすぐには答えず、瓶を両手で受け取った。

 

 傾けると紋章の凹凸に陰が生まれ、封蝋では見えにくかった縁まで浮かび上がる。

 

「この瓶で、お出しできるのですか」

 

「正式に紋章の使用を認めていただければね。これは見本だよ。意匠と年号の表記に、間違いはないかな」

 

 クラリッサが書状を隣へ置き、使者は両方を照らした。

 

「はい、どちらも間違いございません。承認については、持ち帰って伺います。中のお酒も、特別にお造りになるのでしょうか」

 

「中身は、さきほどご覧いただいた七年相当の品と同じだよ。酒質も容量も変えない」

 

 理央が小卓から瓶を覗いた。

 

「真壁さん、首は細いですけど、倒れやすくなりませんか」

 

「底はこちらだ。卓に触れる幅を取ってある」

 

 戻された瓶は、平らな卓に置いても揺れなかった。

 

 澪もガラスの状態と接地面を調べ、栓の周りに漏れがないことを確かめる。

 

 理央が、その形を紙へ写し始めた。

 

「今年は百瓶だけ、としよう。番号は001から100まで。この見本には番号を付けず、こちらに残す」

 

「百瓶を売り終えた後は?」

 

「今年、この紋章の追加は造らない。来年のことは、また別の相談だね」

 

 澪は、空になった通常品の瓶と、卓に置かれた見本を見比べた。

 

 同じ酒を移したはずなのに、こちらは贈り物として箱から出されるところが浮かぶ。

 

 使者は見本の脇へ書状を戻し、今度は瓶だけを見ていた。

 

「これなら、贈った先でも当家の品と分かりますな」

 

「開けた後も、瓶は残るだろう」

 

 真壁の返事に、男の口元が少し緩んだ。

 

「飾っておかれる方も、いらっしゃるでしょう」

 

 

 

 使者は帳面を開き、朝に用意していた価格の欄へ筆を運んだ。

 

「酒の価格に、瓶と意匠の費用を加える形でしたら――」

 

「今年はこの紋章の酒を百瓶だけ。一本ごとに番号を振る。どれほどのプレミアムを付けられるか、貴家のお手並み拝見とさせていただこう」

 

 真壁は、まだ何も書かれていない価格の欄を空けたまま、見本を男へ向けた。

 

 使者の筆が止まる。

 

 クラリッサは急かさず、紋章の見える位置へ書状を添えた。

 

「よろしければ、価格はご主人か家令殿にお聞きにお戻りになさってくださいませ」

 

「家令に、でございますか」

 

「この紋章の価値を、わたくしどもだけで決めることはできませんもの」

 

 男は書状の封蝋を見、それから瓶のラベルを見た。

 

 卓へ置かれた筆が、小さな音を立てる。

 

「なるほど。私の方で、通常の仕入れと同じように決める品ではございませんな」

 

「来年も同じ紋章とは限らん。別の家の紋章になる可能性もあるのだよ。今年の分として、お考えいただきたい」

 

「来年の優先も、含まれないのですね」

 

「ああ。今回お約束するのは、この年号の百瓶だ」

 

 理央が、描き終えた瓶の図を真壁へ渡した。

 

 正面と横からの形に、底の幅と高さ、ラベルを付ける位置が入っている。

 

 使者は図を受け取ると、紋章の縁まで確かめた。

 

「これを家令へ見せても?」

 

「そのための控えだよ。見本は、こちらで保管しておく」

 

 男は紙が折れ曲がらないよう、書類の間へ挟んだ。

 

 見本は番号なしの非売品として商会に残し、販売分へ回さない。

 

 七年相当の通常品と同じ酒質と容量を揃え、正式な家紋使用の承認が届いてから製造する。

 

 使者は、通常品の販売が続くという一節にも目を通した。

 

「こちらも、家令へそのまま申し伝えます」

 

「頼もう。前金と残りの支払い、受渡しは、値が決まってから詰めようか」

 

 男は書類を袋へ収め、立ち上がった。

 

「屋敷へ戻り、さっそく伺ってまいります。お返事を頂ければ、本日中にもう一度お時間をいただきたく」

 

「お待ちしているよ」

 

 扉の外で支配人が会釈し、使者を案内していく。

 

 澪は、通常品の価格しか書かれていない手元の控えを見た。

 

 瓶を作り始めた時には、真壁が見積もりまで出すものと思っていた。

 

「いくらくらいになるんでしょう」

 

「それは、家令殿に聞いてみないとね」

 

 真壁は、卓に残った見本の栓を確かめ、収納へ戻した。

 

 

 

 午後の光が窓枠の影を長くした頃、支配人が小サロンへ使者を連れてきた。

 

 男は、今朝渡した図の入った袋に加え、封をした書状を携えている。

 

 真壁が見本を卓へ戻すと、男はその前へ書面を差し出した。

 

「家令より、ご返事を預かってまいりました」

 

 真壁が封を開け、クラリッサと並んで読む。

 

 使者は、もう一通をその隣へ置いた。

 

「そちらは、当主による紋章使用の承認でございます。今年の百瓶と、商会で保管される非売の見本について、許しを頂いております」

 

 クラリッサは署名と承認の範囲を読み、朝に持ち帰ってもらった条件と合わせた。

 

 真壁の前には、家令が署名した価格の指示が残る。

 

「家令は、酒百瓶の値ではなく、当家の紋章を冠する百瓶の価値として考えるべきだと申しまして」

 

 使者は見本の方へ体を向けた。

 

「晩餐のお客様にお出しし、親しいお家へ贈る。その折に、この紋章と年号を見ていただく品であると」

 

 澪は書面の価格を読んだ。

 

 通常品の一瓶分を思い浮かべ、もう一度、同じ行を読み直す。

 

「同じ容量の通常品の二十倍。この価格で、今年の百瓶すべてをお引き取りしたいと」

 

 ニャニャミは通常品の控えを脇へ置き、新しい紙へ単価を書いた。

 

 百瓶分の総額が入ると、澪の頭の中にあった原料の買付額が、急に小さくなる。

 

「ほう。家令殿は、この品の使い道をよくお分かりなのだね」

 

「はい。酒の良さは、先に確かめております。今度は、それを当家の品としてお出しできることに値を付けよと」

 

 男は書面の数量欄へ、百瓶と書き入れた。

 

「ご用意いただけるのであれば、この分は残らず押さえてまいれとのことです」

 

「それでしたら、きっとお喜びいただけますわ」

 

 クラリッサが微笑み、承認書を真壁へ渡す。

 

 澪は見本を自分の方へ寄せ、容量と栓の形を控えた。

 

 理央の図にもラベルの位置が揃い、通常品と同じ酒を入れることが書き添えられる。

 

 真壁は使者と通常品の単価を照らし、二十倍の基準が食い違っていないことを確かめた。

 

「この単価で百瓶。年号と紋章、番号は朝の通りだ。通常品をほかへ売ることも、来年のお約束がないことも、変わらない」

 

「承知しております。当家の分は、こちらの百瓶で結構です」

 

 使者の書面には、酒場や酒卸の仕入れを止める文言は残っていなかった。

 

 真壁は収納の材料を調べ、ガラスとラベルの素材が足りることを澪へ伝えた。

 

 それを受けて納品日を決め、当日、屋敷の荷受けで本数と番号、酒の状態を検めてもらうことにした。

 

 前金はここで受け取り、残りは納品と検品が済んだところで支払われる。

 

 使者が持参した代金の包みを開くと、ニャニャミは数えて受領額を記した。

 

 真壁と使者がそれぞれの書面へ署名し、控えと領収書を交換する。

 

「形だけ似せて済ませるつもりはない。お届けする時も、中の酒を確かめていただこう」

 

「お願いいたします。家令にも、見本通りの品をお納めいただけると報告いたします」

 

 使者は受け取った書面を袋へ入れ、満足そうに留め金を閉じた。

 

 支配人に案内されて出ていく時には、来た時よりも袋をしっかりと抱えていた。

 

 澪は残された契約書と領収の控えを、濡れない場所へ重ねた。

 

 ニャニャミは通常品の帳面を閉じず、その隣に限定瓶の新しい頁を開く。

 

「001から100まで、造った分と渡した分をここへ付けるニャ」

 

 理央が小卓から来て、見本の紋章を覗き込んだ。

 

「真壁さん、最初から百本とも、同じ瓶で作れるんですよね」

 

「もちろん。番号まで同じにしてしまわんように、そこは一本ずつ変えるがね」

 

「そこは変えてください」

 

 澪が思わず言うと、理央も笑った。

 

 真壁は見本から形の基準を残し、材料を百瓶分に分け始めていた。

 

 ニャニャミの筆が、まだ空いている001の欄で待っている。

 

「では、ご注文の百瓶を造るとしようか」

 

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