「澪君。今回は何が欲しいかね」
ニャニャミが、風にめくれかけた帳面を押さえた。
その脇を木材の荷車が通り、馬が鼻を鳴らす。
澪は道を空けながら、積まれた木の切り口を見送った。
「木材と鰊は買いに行きたいです。それと、ライ麦とジャガイモ」
「原毛は?」
「前と同じ条件で使える物があれば。ただ、現物を見てからですね」
ニャニャミの筆が、品名の脇へ短く印を付ける。
澪は前の訪問で渡した品の控えを取り出した。
ライ麦と芋は値上がりしているが、宿のライウイスキーは、もう残りわずかだという。
昨日の支配人の声を思い出すと、原料の値札だけを眺めて迷ってもいられなかった。
「ほかには欲しくないのかね」
「燕麦は、今回はやめておきます」
「馬や牛の餌には使うんですよね」
ルカが、道の向こうにある穀物の袋を見た。
「はい。でも、私たちが持って帰って、誰にどう売るかまでは決まっていませんから」
買った後の置き場ばかりが浮かぶ物を、安いからと増やすつもりはなかった。
木材なら人工木材の原料へ、鰊なら缶詰へ回せる。
酒にも、すでに飲んで待っている人がいる。
「では、行こうか」
真壁は控えを澪へ返した。
ルカが羊毛の売場へ顔を向けたところで、ニャニャミが隣に並ぶ。
「木から見るニャ。ルカも一緒に来るニャ」
「はい」
「真壁さんたちは?」
「酒卸へ顔を出して、今日の都合を聞いてくる。理央君、付き合ってくれたまえ」
クラリッサには、宿へ預けていた連絡の確認を頼んだ。
澪は皆が戻る場所を指し、昼には市場の入口で合流すると決める。
「レイニャたちも、その頃には戻ってくださいね」
「分かったニャ。ルネ、あっちを見てくるニャ」
「うたうところ?」
「歌は夕方ニャ。今はお店ニャ」
ルネは兄の顔を見た。
ルカが頷くと、ようやくレイニャの手を握り直す。
澪たちが木材の荷車を追って歩き出すと、後ろから「おほんもある?」という声が聞こえた。
木材置場では、荷を下ろす綱が滑車を鳴らしていた。
通路に散った鋸屑を踏むと、靴底が柔らかく沈む。
澪は、長さを揃えて積まれた材の値札を見てから、壁際へ目を移した。
そちらには、曲がった木や短い切れ端がまとめてある。
「真っすぐな方なら、この値だ」
木材商が札を示した。
「そっちの曲がり木も見ていくかい。長い板を取るには、どうにもな」
澪が答える前に、ルカが端材の山へ近づいた。
割れ目のある一片を持ち上げ、木口を覗き込む。
別の材へ触れると、そちらは爪を立てたところがぼろりと崩れた。
「これは、中まで柔らかくなってる……」
ルカはそれを戻し、初めの一片を澪へ差し出した。
「こっちは割れてるけど、同じようには崩れません。曲がっていても、中まで傷んでいなければ、原料になりませんか」
「ええ。そっちを見せてもらいましょう」
澪は受け取った木を《鑑定》した。
表面の割れを追い、内部の傷みや異物の有無を確かめる。
ルカが外した方には腐朽が進んでいたが、持ってきた材は使えそうだった。
「板に挽かず、人工木材の原料へ回します。この山を、分けて見てもいいですか」
「構わんよ。使えるなら、こっちも助かる」
商人が綱を外すと、下に隠れていた短い材が現れた。
澪は湿った樹皮を剥がして内側を見、虫の入った物や汚れの染みた物を脇へ戻す。
ルカは、外した材と残した材を混ぜないように並べ直した。
「この束も、同じ方ですか」
「見てみましょう。下にあった分は、湿り方が違いますから」
選び終えた山は、長さも形もばらばらだった。
それでも、立派な板をそのまま砕くより、澪にはずっと使いやすい買い物だった。
商人と量を合わせ、代金を払う。
他の客の荷と離してもらった材へ靄を広げると、木の山が消え、奥の壁が見えた。
木材商が、持っていた綱を下ろす。
「積む者を呼ぶ前でよかったな」
ニャニャミは受領の控えを受け取り、ルカへその一角を見せた。
「選んだ束は、ここニャ」
ルカは字を読み、空いた床をもう一度見た。
口元に鋸屑の付いた手を持っていきかけ、慌てて服で払う。
羊毛卸の倉庫へ入ると、今度は乾いた獣毛の匂いがした。
前に会った商人は澪たちを覚えていたが、袋の山を指して首を振った。
「前ほど余っちゃいないよ。同じだけと言われても、出せない」
「ある分を見せてください。前と同じ量でなくても大丈夫です」
毛質と保管の状態を比べ、今回は服地に回せる小さなロットだけを買った。
そこから魚の荷場へ寄ると、箱の蓋を持ち上げた魚商の手から、水が滴った。
澪は鰊の身と状態を調べ、すでに行き先のある箱を避けて注文する。
「缶の追加も来てるよ。あの卸から、来たら渡してくれと言付かってる」
魚商が、作業台の下から折った紙を出した。
ニャニャミが開くと、食品卸からの注文だった。
容器の開け方には困らなかったとあり、次に欲しい分が書き添えられている。
澪は引き取る箱を指し、その注文に使う分を先に分けた。
昼の合流場所へ戻ると、理央が先に手を振った。
「酒卸の方、午後ならお話しできるそうです。同じお酒を、また頼みたいって」
真壁の控えには、先方が希望した分が書いてあった。
ニャニャミがそれを受け取り、前回の販売分とは別の頁を開く。
澪は木材と魚の買付を伝えてから、穀物の倉庫へ向かった。
屋根の下には日向より涼しい空気が残っている。
商人が袋の紐をほどくと、乾いた粒が板へこぼれ、ぱらぱらと音を立てた。
澪は一握りを見せてもらい、《鑑定》の結果と、実際の匂いを比べる。
「先月と同じ値にはできないよ」
商人は先にそう言った。
「ええ、今朝の相場も見てきました」
「この並びは、もうほかの買い手がついている。売れるのはこちらだ」
澪は、示された袋の状態と単価を確かめた。
前の買付より高い。
それでも、真壁の控えにあるライウイスキーの注文と並べれば、迷うほどの差ではなかった。
「この条件なら、採算は合わせられますね」
「出せる酒の量も変わらん。今の注文に必要な分と、余裕を持つ分を決めよう」
真壁と量を合わせている間、ニャニャミは希望分を受注済みの欄へ写さずに残していた。
午後に現物を見て、相手が決めてからだ。
近くの青果荷場では、ジャガイモの籠が地面に並んでいた。
運び手が籠を下ろすと、乾いた土が縁から落ちる。
澪は食用として取り置かれている荷を外し、売れるという分から傷みの少ない物を選んだ。
「そっちも酒にするのかい」
「はい。こちらはウォッカに」
「なら、前と同じだな」
商人は量を量り、次に荷が入る予定も伝えてくれた。
籠の中身を収納すると、編み目に付いた土だけが残る。
澪は空になった籠を返し、ニャニャミの持つ控えと分量を照合した。
買付を終えると、レイニャたちも戻ってきた。
ルカは自分の紙を鞄へ収め、妹を迎えにいった。
その腕へルネが飛びつき、見てきた店の話を一度に始める。
澪は二人が揃ったのを見てから、真壁と宿へ戻った。
宿へ戻ると、支配人に荷受け場所と、見本を調べる部屋を使う許可をもらった。
午後の配送が来る前に、大きな荷の扱いを済ませてほしいという。
澪は荷受け場所で仕込みに使う原料と容器を真壁へ渡し、借りた部屋で前の製造記録を広げた。
「基準に残した分を出したまえ」
真壁の前へ、小さな瓶が並ぶ。
ライウイスキーは、窓から来る光を受けて琥珀色に透けた。
真壁は受け取った原料を《収納内工程》へ回した。
ライ麦と芋を分け、すでに組んである酒の工程を動かす。
外の廊下では、誰かの荷物を運ぶ音がしている。
部屋の中に仕込みの桶を出すことも、火を焚くこともないまま、収納の中で処理が進む。
真壁は樽の状態を確かめ、時間を進めた。
澪が控えの該当箇所をたどり終える頃には、新しい酒を取り出せるようになっていた。
真壁が靄の中から出した瓶を、基準品の隣へ置く。
白い布を背にすると、色の差が見やすかった。
「同じに見えますけど……」
澪は《鑑定》を重ね、酒の状態と度数を真壁へ伝えた。
真壁も自分で調べてから、少量を器へ注ぐ。
香りを比べ、口に含み、しばらくして頷いた。
「前の品と揃ったね。これで持っていける」
澪も香りを確かめてから味を見た。
喉へ来る熱さに、つい器を遠ざける。
その横から、理央が瓶に付ける札を差し出した。
「こっちがライで、そちらがウォッカですよね。栓をしたら、見分けやすい方に貼ります」
「お願いします。似た瓶だと、迷いそうですから」
「私に味見してくれとは言わないでくださいね」
理央が笑い、札の文字を読み直した。
ニャニャミは、基準として残す瓶を先に離す。
「見本と売る分も、混ぜないニャ」
澪は頷き、新しい酒を清潔な容器へ分けた。
栓と継ぎ目を調べ、持ち出す分だけを収納へ戻す。
ライの欄には、前と同じ七年相当の評価が付いていた。
真壁はその控えを残し、酒卸へ持っていく分を示した。
窓の外で配送の車輪が止まった時には、部屋の卓にはもう、基準品の小瓶しか載っていなかった。
酒卸の商館では、午前に会った男が出荷の伝票を揃えて待っていた。
奥の荷場で樽が転がされ、床板を低く鳴らしている。
「さっそく用意していただけましたか」
「まずは、こちらを見ていただこう」
真壁が見本を出すと、主人は品名を確かめた。
「前に渡した店から、次も同じ物をと言われています。酒場で聞いた客が、こちらへ買いに来たこともありましてね」
澪は、主人の広げた伝票を見た。
前にここへ渡した酒が、知らない店の注文になっている。
「午前に伺った分なら、今回お渡しできる。次の入荷まで欲しい分は、別に相談しよう」
「では、今日はこちらの量で。追加は、この希望日で出せますか」
主人は空いている欄へ数量を書き、真壁へ向けた。
真壁が原料と製造の予定を照らして返すと、主人は一か所だけ日付を直した。
ニャニャミの帳面でも、午前には空いていた受注欄が埋まる。
ウォッカとライウイスキーを分けて代金を受け取り、出荷済みの印を付けた。
夕方、宿で皆と合流して酒場へ向かうと、レイニャの歩く速さが変わった。
入口からは、肉を焼く匂いと客の声がもれている。
開けた扉の向こうで、誰かが先に気づいた。
「来たぞ、歌い手だ!」
レイニャの耳が立つ。
「また来たニャ!」
奥から手が上がり、卓を寄せる音がした。
主人は空いた席を示した後、手琴を抱えたレイニャを見て笑った。
「そっちには、後で場所を空ける。まずは食ってくれ」
「聞いてほしい曲があるニャ」
「食ってから聞くよ」
レイニャは椅子へ座ったが、手琴は膝から下ろさなかった。
ルカがルネを隣へ座らせ、壁側へ少し詰める。
運ばれてきた皿にルネが手を伸ばしたので、兄は袖が煮汁に触れないよう押さえてやった。
食事が済むと、レイニャは待ちかねたように立ち上がった。
弦が鳴り、隣の卓の話し声が一段小さくなる。
最初の曲を聞き終えたルネが、両手を叩いた。
「もういっかい!」
「次の曲もあるニャ」
「それもきく!」
客の笑い声を受けて、レイニャは次の弦へ指を移した。
澪の前を、主人が空の皿を重ねて通る。
「前の五樽ずつ、よく頼まれる。次も入れてもらいたいんだが」
真壁が、主人の邪魔にならないよう椅子を引いた。
「酒卸にも渡している。こちらの希望も聞いて、出す順を合わせよう」
「独り占めはできんか」
「ほかで飲んだ客も、ここへ来るだろう」
「そりゃそうだ」
主人は笑い、欲しい分と受取りの希望日を伝えた。
ニャニャミが書き留めた紙を見せると、主人は指で日付を確かめてから厨房へ戻る。
その間も、レイニャの歌は途切れなかった。
聞き覚えのある節に客が加わり、ルネも歌おうとする。
途中で分からなくなると、隣の兄を見上げた。
ルカも知らなかったらしく、二人で同じところだけ声を合わせていた。
澪は手拍子を続けながら、机に置かれた再注文の紙を鞄へ収めた。
やがて最後の音が消えると、レイニャは深く頭を下げた。
拍手が起こり、小さな硬貨が幾つか手元へ届く。
戻ってきたレイニャは、それを大事に袋へ入れた。
「明日もと言われたニャ」
「今日も帰れなくなるところでしたね」
「帰るニャ。ルネが眠そうニャ」
ルネは目をこすりながら首を振ったが、ルカに手を差し出されると、素直に握った。
ホテルへ戻ると、扉の向こうで声の響き方が変わった。
食器を運ぶ音はもうなく、灯具の下で鍵を受け取る客がいるだけだった。
レイニャは兄妹を連れて、先に部屋へ上がる。
澪たちへ会釈した支配人は、銀盆に載せた封書を差し出した。
「前回、酒と保存食品についてお尋ねだったお家から、改めてお便りを預かっております」
真壁は封書を受け取り、窓際の卓へ寄った。
クラリッサが隣へ立ち、灯りの届く方へ書面を向ける。
「服地のご相談とは、別のお家ですわね」
「はい。こちらは家令直属の商務をご担当の方です」
支配人は、前に預かった照会の控えも添えた。
澪は古い照会にある酒と保存食品の文字を読み、面会を断って帰った朝を思い出した。
あの時は、初回分を各店へ渡すだけで精いっぱいだった。
「今回はお会いしよう。明日の午前はいかがかな」
「お取次ぎいたします」
支配人が席を確かめる間、クラリッサは署名と肩書を読み、封蝋の紋章も見た。
「明日の席には、わたくしもお側に控えますわ」
「頼むよ」
真壁は破いた封を捨てず、書状と一緒に戻した。
理央が小サロンを使えるか尋ねると、支配人は明朝も空けられると答えた。
「お相手のお屋敷は、こちらの町にあるんですか」
澪の問いに、支配人は頷く。
「ええ。首府のお屋敷です。ご面会の後でも、お戻りになってご報告いただけます」
真壁は用件を添えた返事を預け、立ち上がった。
支配人が、控えを取っていたニャニャミへ声を掛ける。
「当方で追加をお願いしたライウイスキーも、お忘れなく」
「こちらニャ。明日の分に入ってるニャ」
白い指が、貴族家の書状とは別の欄を示した。
支配人は安心したように礼をし、受付へ戻っていく。
澪はその背中を見送ってから、手元の封書へ目を戻した。
家紋の縁が、灯りを受けて薄く光っていた。
翌朝、小サロンの卓には、酒の見本と前日の注文控えが並んでいた。
理央は脇の小卓で筆記具を揃え、ニャニャミは受注帳を開く。
ルカとルネは、朝食の後からレイニャと一緒だった。
扉が叩かれ、支配人に案内された男が入ってくる。
派手な飾りはないが、上着はよく仕立てられ、革の袋から出した書類の端まできれいに揃っていた。
男は家令から遣わされた商務担当だと名乗り、書状を差し出した。
クラリッサが昨夜のものと照らし、真壁の隣へ置く。
「お時間を頂戴し、ありがとうございます。先般のお酒は、当方でもいただきました」
「お気に召したかな」
「ええ。とりわけ、こちらのライウイスキーを。当家で開く席にも使いたいと考えております」
男は見本の瓶を示してから、用意してきた書面を広げた。
酒の種類と受渡しの欄が整い、仕入れの条件はほとんど埋まっている。
澪は、数量のところに書かれた言葉で止まった。
「全量、ですか」
「はい。今お持ちの分だけでなく、今後造られる分も、当家へお譲りいただきたいのです」
男は空欄だった価格の下へ、自分の筆記具を置いた。
「毎回、買い手をお探しになる必要はなくなります。一定の量を確保いただけるなら、代金や受取りについても、こちらでまとめてお引受けできます」
澪には、昨日の酒卸の荷場が浮かんだ。
次の品を待つ店があり、酒場では同じ酒を飲んだ客が歌に声を合わせていた。
真壁は、書面を男へ戻した。
「全量はお譲りできない」
「価格については、まだご相談できる余地がございます」
「値の問題ではないのだよ。酒場と酒卸、こちらのホテルにも続けて納める。すでに約束した分もある」
ニャニャミは帳面を客へ開かず、真壁に該当の欄だけを示した。
男はそちらを一瞥し、出荷条件の紙を脇へずらす。
「すでにお約束の分は、そのままお納めください。その先からでも」
「次から買えなくなるというのも、困るだろう。通常の品は、これまでのお客様にも売る。その条件でよければ、追加のご注文は伺おう」
窓の下を荷車が通り、車輪の音が遠ざかった。
男はすぐには筆を取らず、ライウイスキーの見本へ目を戻した。
「ただ、多く出回る品となりますと、当家の席にお招きする方々へお出しするには……」
「ほかでも飲める、と?」
「内々の晩餐に使うだけでなく、大切な先へ贈る品にもしたいのです。そこでしか手に入らぬ物でしたら、なお喜ばれましょう」
澪は瓶を見た。
酒質を変えるとなると、今ある仕込みとは別に味を決めなければならない。
その前に、クラリッサが静かに口を開いた。
「ほかのお家にはない品を、お求めなのではございませんか」
「ええ。まさに、そのような品を」
真壁は卓の書状を自分の前へ寄せた。
「では、こういう品はいかがかな」
「特別な瓶に――」
真壁は、収納にあるガラスを溶かし、新しい形へ整えた。
卓の上に靄が広がり、細い首を持つ瓶が現れる。
幾つもの面を連ねた肩から、下へふくらむ胴へ、窓の光が流れた。
澪は思わず身を寄せた。
厚みのある底まで澄み切っていて、角度が変わるたび、卓に落ちる光の形も変わる。
「特別なラベルを付ける」
真壁は書状の紋章を見て、収納内の金属を薄く整えた。
取り出したのは、紋章を浮き彫りにした、記念メダルのようなラベルだった。
縁には、手紙の日付から取った今年の年号が入っている。
それを瓶の正面へ付けると、使者が椅子から身を起こした。
「これは……当家の紋章?」
「お手紙にあったのでね」
真壁は通常品の瓶を取り、量を合わせてライウイスキーを注いだ。
琥珀色が肩まで満ちると、ガラスの面に深い色が付き、正面の紋章がいっそう明るく見えた。
栓をした瓶を、真壁は使者へ向ける。
「今年の年号を入れた、貴家だけの特別な酒ではいかがだろうか」
使者はすぐには答えず、瓶を両手で受け取った。
傾けると紋章の凹凸に陰が生まれ、封蝋では見えにくかった縁まで浮かび上がる。
「この瓶で、お出しできるのですか」
「正式に紋章の使用を認めていただければね。これは見本だよ。意匠と年号の表記に、間違いはないかな」
クラリッサが書状を隣へ置き、使者は両方を照らした。
「はい、どちらも間違いございません。承認については、持ち帰って伺います。中のお酒も、特別にお造りになるのでしょうか」
「中身は、さきほどご覧いただいた七年相当の品と同じだよ。酒質も容量も変えない」
理央が小卓から瓶を覗いた。
「真壁さん、首は細いですけど、倒れやすくなりませんか」
「底はこちらだ。卓に触れる幅を取ってある」
戻された瓶は、平らな卓に置いても揺れなかった。
澪もガラスの状態と接地面を調べ、栓の周りに漏れがないことを確かめる。
理央が、その形を紙へ写し始めた。
「今年は百瓶だけ、としよう。番号は001から100まで。この見本には番号を付けず、こちらに残す」
「百瓶を売り終えた後は?」
「今年、この紋章の追加は造らない。来年のことは、また別の相談だね」
澪は、空になった通常品の瓶と、卓に置かれた見本を見比べた。
同じ酒を移したはずなのに、こちらは贈り物として箱から出されるところが浮かぶ。
使者は見本の脇へ書状を戻し、今度は瓶だけを見ていた。
「これなら、贈った先でも当家の品と分かりますな」
「開けた後も、瓶は残るだろう」
真壁の返事に、男の口元が少し緩んだ。
「飾っておかれる方も、いらっしゃるでしょう」
使者は帳面を開き、朝に用意していた価格の欄へ筆を運んだ。
「酒の価格に、瓶と意匠の費用を加える形でしたら――」
「今年はこの紋章の酒を百瓶だけ。一本ごとに番号を振る。どれほどのプレミアムを付けられるか、貴家のお手並み拝見とさせていただこう」
真壁は、まだ何も書かれていない価格の欄を空けたまま、見本を男へ向けた。
使者の筆が止まる。
クラリッサは急かさず、紋章の見える位置へ書状を添えた。
「よろしければ、価格はご主人か家令殿にお聞きにお戻りになさってくださいませ」
「家令に、でございますか」
「この紋章の価値を、わたくしどもだけで決めることはできませんもの」
男は書状の封蝋を見、それから瓶のラベルを見た。
卓へ置かれた筆が、小さな音を立てる。
「なるほど。私の方で、通常の仕入れと同じように決める品ではございませんな」
「来年も同じ紋章とは限らん。別の家の紋章になる可能性もあるのだよ。今年の分として、お考えいただきたい」
「来年の優先も、含まれないのですね」
「ああ。今回お約束するのは、この年号の百瓶だ」
理央が、描き終えた瓶の図を真壁へ渡した。
正面と横からの形に、底の幅と高さ、ラベルを付ける位置が入っている。
使者は図を受け取ると、紋章の縁まで確かめた。
「これを家令へ見せても?」
「そのための控えだよ。見本は、こちらで保管しておく」
男は紙が折れ曲がらないよう、書類の間へ挟んだ。
見本は番号なしの非売品として商会に残し、販売分へ回さない。
七年相当の通常品と同じ酒質と容量を揃え、正式な家紋使用の承認が届いてから製造する。
使者は、通常品の販売が続くという一節にも目を通した。
「こちらも、家令へそのまま申し伝えます」
「頼もう。前金と残りの支払い、受渡しは、値が決まってから詰めようか」
男は書類を袋へ収め、立ち上がった。
「屋敷へ戻り、さっそく伺ってまいります。お返事を頂ければ、本日中にもう一度お時間をいただきたく」
「お待ちしているよ」
扉の外で支配人が会釈し、使者を案内していく。
澪は、通常品の価格しか書かれていない手元の控えを見た。
瓶を作り始めた時には、真壁が見積もりまで出すものと思っていた。
「いくらくらいになるんでしょう」
「それは、家令殿に聞いてみないとね」
真壁は、卓に残った見本の栓を確かめ、収納へ戻した。
午後の光が窓枠の影を長くした頃、支配人が小サロンへ使者を連れてきた。
男は、今朝渡した図の入った袋に加え、封をした書状を携えている。
真壁が見本を卓へ戻すと、男はその前へ書面を差し出した。
「家令より、ご返事を預かってまいりました」
真壁が封を開け、クラリッサと並んで読む。
使者は、もう一通をその隣へ置いた。
「そちらは、当主による紋章使用の承認でございます。今年の百瓶と、商会で保管される非売の見本について、許しを頂いております」
クラリッサは署名と承認の範囲を読み、朝に持ち帰ってもらった条件と合わせた。
真壁の前には、家令が署名した価格の指示が残る。
「家令は、酒百瓶の値ではなく、当家の紋章を冠する百瓶の価値として考えるべきだと申しまして」
使者は見本の方へ体を向けた。
「晩餐のお客様にお出しし、親しいお家へ贈る。その折に、この紋章と年号を見ていただく品であると」
澪は書面の価格を読んだ。
通常品の一瓶分を思い浮かべ、もう一度、同じ行を読み直す。
「同じ容量の通常品の二十倍。この価格で、今年の百瓶すべてをお引き取りしたいと」
ニャニャミは通常品の控えを脇へ置き、新しい紙へ単価を書いた。
百瓶分の総額が入ると、澪の頭の中にあった原料の買付額が、急に小さくなる。
「ほう。家令殿は、この品の使い道をよくお分かりなのだね」
「はい。酒の良さは、先に確かめております。今度は、それを当家の品としてお出しできることに値を付けよと」
男は書面の数量欄へ、百瓶と書き入れた。
「ご用意いただけるのであれば、この分は残らず押さえてまいれとのことです」
「それでしたら、きっとお喜びいただけますわ」
クラリッサが微笑み、承認書を真壁へ渡す。
澪は見本を自分の方へ寄せ、容量と栓の形を控えた。
理央の図にもラベルの位置が揃い、通常品と同じ酒を入れることが書き添えられる。
真壁は使者と通常品の単価を照らし、二十倍の基準が食い違っていないことを確かめた。
「この単価で百瓶。年号と紋章、番号は朝の通りだ。通常品をほかへ売ることも、来年のお約束がないことも、変わらない」
「承知しております。当家の分は、こちらの百瓶で結構です」
使者の書面には、酒場や酒卸の仕入れを止める文言は残っていなかった。
真壁は収納の材料を調べ、ガラスとラベルの素材が足りることを澪へ伝えた。
それを受けて納品日を決め、当日、屋敷の荷受けで本数と番号、酒の状態を検めてもらうことにした。
前金はここで受け取り、残りは納品と検品が済んだところで支払われる。
使者が持参した代金の包みを開くと、ニャニャミは数えて受領額を記した。
真壁と使者がそれぞれの書面へ署名し、控えと領収書を交換する。
「形だけ似せて済ませるつもりはない。お届けする時も、中の酒を確かめていただこう」
「お願いいたします。家令にも、見本通りの品をお納めいただけると報告いたします」
使者は受け取った書面を袋へ入れ、満足そうに留め金を閉じた。
支配人に案内されて出ていく時には、来た時よりも袋をしっかりと抱えていた。
澪は残された契約書と領収の控えを、濡れない場所へ重ねた。
ニャニャミは通常品の帳面を閉じず、その隣に限定瓶の新しい頁を開く。
「001から100まで、造った分と渡した分をここへ付けるニャ」
理央が小卓から来て、見本の紋章を覗き込んだ。
「真壁さん、最初から百本とも、同じ瓶で作れるんですよね」
「もちろん。番号まで同じにしてしまわんように、そこは一本ずつ変えるがね」
「そこは変えてください」
澪が思わず言うと、理央も笑った。
真壁は見本から形の基準を残し、材料を百瓶分に分け始めていた。
ニャニャミの筆が、まだ空いている001の欄で待っている。
「では、ご注文の百瓶を造るとしようか」