貴族家の百瓶の注文がまとまる前日の午後、理央とニャニャミは、酒卸との取引を終えて羊毛卸へ向かった。
倉庫の前には、朝にはなかった荷車が止まっている。
麻袋を担いだ男が降りてくるたび、荷台がきしみ、馬が耳を動かした。
戸口の主人は荷札を読みながら、次の袋を置く場所を指していた。
「朝に話した、次の荷ニャ」
「おう、着いたぞ。そっちが理央さんか」
「はい。澪さんから、お話を聞いて来ました」
理央が頭を下げると、主人は袋を下ろした男へ合図してから、二人を中へ入れた。
乾いた草と、原毛に残った脂の匂いがする。
袋の縫い目からはみ出した毛が、戸口の光に浮いていた。
「羊毛、ありったけ買いたいです!」
主人が振り返った。
「午前にも買っていっただろう。午後も来るとは聞いたが、どれだけ要る?」
「午前は、服地にする分を先に少しです。今度は、まとまった量を選ばせてください」
「少し、ね」
主人は新しい荷の列を、奥まで指した。
「ありったけって、この辺をか?」
「向こうは?」
「向こうも売れるが」
「では、そちらも見せてください」
主人の腕が、下りかけたところで止まった。
「今日は朝より多いニャ」
「まだ見てもいないのに分かるな」
主人は笑い、二人を新しい荷の間へ案内した。
午前から置かれていた袋は、壁際に寄せてある。
今届いた物には牧場ごとの荷札が付き、まだ綱が解かれていない。
「この札の分は、ほかの工房へ行く。こっちも先約だ。売れるのは、この列から向こうだな」
理央は示された範囲を見た。
長い列だった。
後ろの戸口では、次の荷車が順番を待っている。
「全部、同じ値ですか?」
「いや。長さと質で違う。前にあんたらが欲しがった、色の混じった物もあるぞ」
主人が最初の袋をほどく。
理央は毛を少量受け取り、指の間に広げた。
脂の感触を確かめ、《鑑定》で使える成分の量を見た。
短い毛が混じっていても、溶かして繊維を作り直せば、欲しい長さに揃えられる。
長く揃った高い毛だけを探す必要はなかった。
「この袋と、隣も見せてください」
次の毛には、袋の内側に湿りが残っていた。
理央はほぐして奥の状態を調べ、鼻を近づける。
「こちらは、今回はやめておきます」
「ありったけじゃなかったのか」
「使える物を、ありったけです」
「そこは付くんだな」
ニャニャミが、理央の選んだ列の端へ立った。
「ここまでニャ」
「そこが始まりか、終わりか、先に言ってくれ」
「始まりニャ」
主人は今度こそ声を出して笑った。
主人は秤の金具を直し、袋ごとの量と値を二人に示した。
理央は、短い毛と茶色の毛が混じった袋を選んだ。
傷みはなく、使える成分の量に対して値もいい。
「これは服地に回します」
「前に聞いたのと同じだな。長さも色も、あとで揃えるんだろう」
「はい。毛布の方にも使えるので、まとまった分が欲しいです」
理央は袋を数個ずつ見て回り、湿って傷んだ物だけを外した。
次に開けた袋も、その次も、使える。
「これもお願いします。そちらも」
主人は売れる方の札を掛け替えながら、二人を追ってきた。
奥の列まで選び終えると、主人は受渡しの紙をもう一枚出した。
「それで、毛布はいくつ売るつもりだ?」
「売りません」
主人の筆から、紙へ小さな染みが落ちた。
理央は袋の口を押さえたまま、顔を上げる。
「ヴェルデン王国中の孤児院へ配る分なんです。まだ、必要な枚数を調べているところで」
「……売らんのか。それだけ買って?」
「はい」
主人は選ばれた袋を見渡し、書きかけた紙を見直した。
「服地の方は売るニャ」
「そうか」
主人は筆の先を整えた。
「なら、毛布の袋も一緒に量るぞ」
積み直す男たちの声が上がり、秤の金具が鳴った。
ニャニャミが合計を出すと、主人は自分の計算と見比べた。
もう一度足して、同じ額になったらしく、顔を上げる。
「本当に、これを全部でいいんだな?」
「はい。全部いただきます」
代金を渡すと、主人の手にあった紙が二人の方へ戻ってきた。
理央は買い終えた袋へ靄を広げた。
手前の山が消え、向こうの床板が見える。
「次は、そこニャ」
理央は次の一列を、まとめて収めた。
荷を担いで戻ってきた男が、空いた床で足を止める。
「親方。これは、もう奥へ運んだのか?」
「売れた」
「今、下ろしたばかりだぞ」
「だから、売れたんだ」
男は肩から袋を下ろしかけ、主人へ顔を向けた。
「これもか?」
「先に札を見ろ。それは予約の分だ」
主人は空いた所へ置かれそうになった袋を止め、別の列を指した。
男が戻る頃には、さっきまで隠れていた柱の根元まで見えていた。
「柱まで運ぶなよ」
「それは買ってません」
「分かってる。空くのが早すぎてな」
主人が笑い、理央も最後の袋を収めた。
三台の荷車から下ろされた新荷のうち、買えた分は二台分相当になった。
まだ残っている予約の袋と、外した荷の間を、荷運び人が通っていく。
その通路は、理央たちが来た時より、だいぶ広くなっていた。
主人が帳場で筆を置きかけたところで、理央は顔を上げた。
「次の分も相談していいですか」
主人の手が、今度は筆から離れなくなった。
「もうか。今、持っていっただろう」
「はい。今日の分は、ありがとうございます」
「礼を言ってる顔のまま、次を買おうとするんだな」
理央が笑う横で、ニャニャミは前に澪が相談した牧場の控えを出した。
主人はその印を見て、自分の入荷帳を開いた。
牧場ごとの印の下に、次の刈毛と、運び込めそうな時期が書かれている。
ニャニャミが、一つの印を指した。
「この牧場の分は、まだニャ?」
「まだだ。羊の背中に付いてる」
「いつ刈るかが分かれば、買いに来られます!」
主人が理央を見た。
「羊の背中に付いてる毛まで、売れって話か?」
「刈ってからで大丈夫です」
「そこは待ってくれるんだな」
奥で荷札を束ねていた男が、咳払いをした。
理央もつられて笑い、次に入る荷の辺りを指した。
「次は、いつ頃になりますか」
「それなら話せる。今のところは、この辺だな」
主人は次の刈毛と入荷の目安を教え、荷が来る前に欲しい量を知らせてくれと言った。
ニャニャミがその時期を書き留める。
その時、戸口で車輪が鳴った。
理央がそちらを向くより早く、主人が言った。
「それは別の客のだ」
「まだ何も言ってません!」
「顔が聞いてた」
ニャニャミの耳が横へ動く。
理央は口元を押さえ、今度は荷車を見送った。
次便の知らせは、宿にいる間ならホテルへ預けてもらうことにする。
滞在後の分は、次にこちらから訪ねる時に相談する。
軒下へ出ると、馬車の待ち列は短くなっていた。
主人は二人を送り出してから、倉庫の奥を見た。
「次に来る時は、先に量を言ってくれよ。下ろす場所を決める」
「空けておかなくても、着いたら買うニャ」
「こっちの支度の話だ」
理央は礼を言い直し、ニャニャミと並んで宿へ向かった。
宿へ戻ると、夕方に出かけるまで、まだ間があった。
理央は買ってきた羊毛の試料と、染料の容器を澪の前へ出した。
「染料をゲンダイにいって買い足してきます」
「羊毛を買ってきたばかりですよね?」
「羊毛は買えました。でも、今度は色が足りません」
理央は青の容器を傾けた。
底に残った粉は、動かしてもなかなか広がらない。
前に配合を決めるまで、何度も試して使った分だった。
「紺と灰色と黒を、一反ずつ作りたいんです。前と同じ染料なら、必要な量も分かります」
「では、今のうちに行きましょうか」
ニャニャミは買付の紙を預かり、二人を送り出した。
理央は部屋の扉へ《関門接続》を開き、澪と一緒に侯爵領側の拠点へ戻った。
そこから押入を通り、江古田の事務所へ出る。
ゲンダイ側で改めて関門をつなぎ、染料店の近くへ移動した。
通りへ出ると、馬の蹄の代わりに自動車の走る音がした。
二人は前にも訪ねた、浅草の染料専門店へ入った。
カウンターには小分けの容器が並び、奥には発送前の箱が積んであった。
理央は前に買った容器を見せ、品番を伝えた。
「この青と黒、それから、調整に使った黄色もお願いします」
「試験の続きですか」
「今度は、売る布に使います」
理央は濃紺とチャコールグレー、黒の布を出した。
店員は並べられた色を見て、青の容器を取り上げる。
「こちらの品番で揃います。量は、どのくらいになさいますか」
三反分の配合から、次の製造にも回せる分を加えて注文する。
店員が棚から出した包みは、初めて買った試作用より大きかった。
理央は三つを並べて見た。
これで、羊毛を買ったのに染められない、ということにはならない。
代金を払い、店を出てから包みを収納へ収める。
買い物が済むと、二人は《関門接続》で江古田の部屋へ戻り、押入を通って侯爵領側へ出た。
理央がもう一度関門を開くと、扉の向こうにノルドハルムの客室が見えた。
二人はそこを抜けて宿へ戻った。
ニャニャミが顔を上げる。
「買えたニャ?」
「はい。三色とも作れます」
「今日は、買う方が止まらないニャ」
「明日は売ります!」
理央が答えると、澪が笑った。
その夕方は皆と酒場へ出かけ、レイニャの歌を聴いた。
帰ったホテルで貴族家の書状を受け取る頃には、ルネはもう眠そうにしていた。
兄妹が部屋へ上がった後、理央は真壁と澪へ午後の買付を報告した。
「羊毛は荷車二台分です。多い方は、孤児院の毛布に使います」
「よく買えたね」
「次の入荷も聞いてきました。まだ羊の背中に付いてるそうです」
「それなら、置き場所には困らない」
真壁はそう返し、ニャニャミへ買付の控えを渡した。
理央は毛布用を原毛のまま収納へ残し、明日使う分だけを分けた。
染料の新しい包みを見ると、すぐ試したくなる。
けれどノートを閉じると、あくびが出た。
「理央ちゃん、続きは明日にしましょう」
「はい。明日は反物です」
翌朝、朝食を終えた理央へ、支配人が制服の追加を頼んできた。
「前回のお色に合わせて、もう二反お願いできますか」
理央は、受付で客を迎えている従業員の袖を見た。
自分の布が服になっているのを見つけたばかりなのに、もう次が欲しいという。
「はい。同じ幅と長さで、お作りします」
「今回も、あの仕立師へ頼むつもりです」
「夕方に伺いますから、そのこともお伝えしますね」
値と受渡しを決めると、理央は借りた部屋へ入った。
染めない自然色を七反、濃紺とチャコールグレー、黒を一反ずつ。
先にホテルの二反を作ろうと、収納にある原毛を工程へ回す。
さっき食べたパンの匂いが、廊下にはまだ残っていた。
羊毛を溶解し、必要な成分を分ける。
短かった毛も、長い毛も、ここでは一緒になる。
脂や元の色に関わる成分を除き、前と同じ太さと長さの繊維へ固めていった。
細く揃った繊維が糸になり、定めた撚りと織りで、幅のある布へ変わる。
理央が最初の反物を取り出すと、靄から現れた端が卓を越えた。
「そっち、持ちますね」
澪が受け止め、二人で広げる。
以前の基準片を添えても、途中で色の切り替わる境目は見えなかった。
幅と長さも、仕立師から聞いた通りに出ている。
「これなら、同じ制服に使えます」
「では、もう一反です」
理央は次を仕上げ、巻いた二反を澪へ渡した。
澪が支配人を呼ぶと、支配人は新しい布を見て足を止めた。
「先ほどの二反、ですか?」
「はい。こちらが、ご注文の分です」
支配人は澪を見てから、理央を見た。
「仕立師への手配を、まだしておりませんでした」
「布は、できました」
「……そちらが先にできるのですね」
澪は笑いをこらえながら、二反をホテルへ渡した。
布の代金を受け取り、昨夜予約されていたライウイスキーも続けて引き渡す。
支配人は酒の受取りを済ませると、さっそく仕立師へ知らせる人を呼んでいた。
理央はその声を聞きながら、残る自然色五反を作った。
四反は販売用、一反は次の色や織りを揃えるために残す。
巻いた反物が増えても、原毛の大半は収納の中にある。
孤児院へ持って帰る分には手を付けず、服地用に選んだ分から仕上げていった。
使者が来ると、理央も澪たちと小サロンの席へ着いた。
家紋の瓶を作る商談が進み、使者が家令の返事を聞きに戻る。
その昼の間に、理央は残る三色を作った。
昨日買い足した染料を、前に決めた量だけ成分へ混ぜる。
元の羊毛の茶色は取り除いてあり、新たに加えた青と黒が、繊維の中で均一になった。
固めた繊維を糸へ、糸を服地へ。
靄から引き出した濃紺は、折った所へ青い光を返した。
理央は端を持ち上げ、窓へ向けた。
浅草で選んだ色が、今、ノルドハルムの窓の下に広がっている。
同じ羊毛から、チャコールグレーと黒も作る。
濃紺の隣へ黒を置くと、三色がそれぞれ違う顔を見せた。
ニャニャミが巻き終えた三反を並べると、理央は小さな見本をその端へ重ねた。
濃紺、灰色、黒が、それぞれの見本と揃った。
十反ができ、そのうち二反はもうホテルへ渡っている。
理央は保存用の一反を収納へ残し、売りに持っていく七反をまとめた。
理央が三色の服地を作っている間、澪は食品卸へ鰊の缶詰を届けた。
使者が屋敷へ戻っている昼の時間は、ほかの仕事にも使えた。
前日に買った鰊は、既に揃えてある収納内の工程で加工してある。
以前の試作と同じ容器と密封、加熱の条件を使い、保存の評価も確かめた分だった。
荷場で箱を出すと、缶が触れ合って乾いた音を立てた。
「頼んでいた鰊だな」
「はい。お待たせしました」
主人は一つを取り上げ、蓋と胴を見てから箱へ戻した。
注文した量が揃うと、運び手に棚を指す。
「こっちは、そのまま次の客へ出す。奥へしまうなよ」
澪は主人から代金を受け取り、荷場の前を空けた。
自分が持ってきた箱を、今度は別の男が運んでいく。
前には、缶の開け方から見せていた品だった。
「次も頼む」
主人の声に、澪は笑って振り返った。
「また伺います」
ホテルへ戻った後も、使者の再訪までは間があった。
澪は曲がり木や端材を、収納の中で人工木材へ加工した。
原料として使えない傷んだ部分は除いてある。
短い試験片を出すと、朝とは違い、どの面も平らになっていた。
ルカがそれを見つけ、近づいてくる。
「それ、昨日の木ですか」
「ええ。ルカ君が選んでくれた原料から作りました」
ルカは両端を見比べ、掌の上で転がした。
「あの曲がった木が、これに……」
「見分けてもらえて、助かりました」
ルカの背が、少し伸びた。
澪は試験片を受け取り、加工した在庫と一緒に収納へ戻した。
こちらは売る先をこれから探すが、原料の山のまま持って帰らずに済む。
午後、使者が戻ると、理央もニャニャミも再び応接の席へ着いた。
百瓶の契約と前金の受取りが済み、使者を見送ってから、理央は服地を持って立ち上がった。
「では、今度はこっちを売ってきます!」
「行っておいで。仕立師も待っているだろう」
真壁は瓶の製作へ取りかかり、理央とニャニャミは、夕方の通りへ出た。
仕立師の店の窓には、前に来た時とは違う上着が掛かっていた。
西日を受けた袖の下で、奥の鋏が動いている。
理央が扉を開けると、仕立師は顔を上げ、作業台の端に置いた包みを取った。
「来たか。前の布だ」
開いた包みには、縫い目の残る切れ端と、小さく仕立てた品があった。
最初の訪問で預けた布には、形を保つための縫い方を幾つか試した跡がある。
理央は鞄を置き、両手で受け取った。
「どうでしたか?」
「いい。針が通る。縫った後も、この辺が引きつれない」
仕立師は裏を返し、縫い代を開いて見せた。
押さえた皺の戻り方も、実際に仕立てた上着の一部と比べる。
「次も、この厚みで揃えてほしい。端の幅もだ」
「はい。その寸法で作ってきました」
理央は前に持ち帰った切れ端を出し、新しい自然色の布を隣へ広げた。
仕立師は指の腹で触れ、布を斜めに持ち上げる。
「ちゃんと幅があるな」
理央は頷いた。
前には、この人の手元で布が細く切られていくのを、息を詰めて見ていた。
今は、どこまで広げれば反物の端が見えるか、自分で分かる。
「色物も、三つあります」
濃紺を出すと、仕立師は窓へ向けた。
次のチャコールグレーは、室内の光で見直す。
黒も並べ、折った所を指で押した。
「色も揃えてきたか」
「前にお話しした染料で、配合を決めました。こちらが基準の見本です」
「次も、この色を頼めるか」
「はい。直す時の布も、同じ色でお渡しできます」
仕立師は窓の上着を指した。
「前に買った布で仕立てたら、あれと同じ物をと言われた」
奥の職人が、仕立てかけの前身頃を台へ置く。
その脇には、裁断を待つ型紙が重なっていた。
「上着が何着もある。こっちは礼服だ。布が入ったら裁つと約束している」
「礼服にも使っていただけるんですか」
「使える。だから、この色が欲しかった」
仕立師は濃紺と黒を引き寄せた。
「布があるかと聞きに来る客も増えた。次の入荷まで待たせて、ほかへ行かれては困る」
「今回は、何反出せる」
「こちらの七反です。染めていない物が四反、濃紺とチャコールグレーと黒が一反ずつ」
理央は台の空いた所へ靄を広げ、反物を一本ずつ取り出した。
巻いた端から札が見える向きへ並べると、奥の職人が鋏を持ったまま近づいてきた。
七反を置き終えても、職人はその場を離れなかった。
仕立師は七つを数え、棚の空きを見た。
「これを、ありったけ欲しい」
「七反、全部ですか」
「足りないくらいだ。ほかにもあるのか」
理央は鞄の控えを開いた。
ホテルの二反の欄が見えたところで、ニャニャミも同じ行へ指を添える。
「ホテルさん向けの二反はありますが、そちらは先にご注文いただいた分です」
「ああ。あの宿の制服も、こっちで仕立てる」
「今回もお願いする予定だと、支配人さんに伺いました」
仕立師は注文の紙をもう一度出した。
「俺が買う七反と、宿から預かる二反か」
「はい。そちらはホテルさんから届きます」
奥の職人が、型紙を持ったまま顔を上げた。
「親方。これ以上注文が増えたら、縫いきれませんよ」
仕立師は七反を見てから、台の上の仕事を見た。
「……そうだな」
理央は並べた反物へ手を伸ばした。
「では、少し減らしますか?」
「いや。七反全部買う」
「えっ?」
「いい布だからな。縫う時間は、俺たちで何とかする」
理央の向こうで、職人が動かなくなった。
型紙の端だけが、窓からの風で揺れている。
ニャニャミは七反分の値を書く紙を出した。
「全部でいいニャ?」
「全部だ」
返事は早かった。
職人の方は、まだ返事をしていない。
仕立師は七反の札を揃え、今度は売買の値を相談し始める。
自然色の四反は、前の購入分の単価と幅、長さを合わせて比べた。
理央は前回と揃えた厚みと仕上がりを示し、今回の値を伝える。
色物は染料を含む値で、三色それぞれを決めた。
仕立師は店の支払いの控えを開き、注文の紙と並べた。
「七反、この値で買う」
「ありがとうございます」
ニャニャミが書き入れた単価と合計を見せると、仕立師は自分の紙にも同じ額を記した。
職人が棚を空け、反物を一本ずつ受け取っていく。
最後の黒を渡すと、理央の前には、比較用の小片だけが残った。
七反とも、ここへ置いていける。
理央は仕立師から渡された代金をニャニャミと数え、受領の控えを返した。
「次は、紺をもう少し見たい。自然色もだ」
「紺ですね。次の羊毛が入る時期も聞いてきたので、またお持ちします」
仕立師が次に欲しい色を挙げると、ニャニャミが書き留めた。
その横で、職人が七反の置き場所を空けていた。
棚にできた隙間へ濃紺が収まると、仕立師は満足そうに端を撫でた。
「次は、もう少し多くてもいい」
「親方」
呼ばれても、仕立師は理央の方を向いたままだった。
「できたら知らせてくれ」
「はい。ありがとうございます!」
理央は売買の控えを鞄へ収め、店を出た。
閉まりかけた扉の向こうから、今度は少し大きな声がした。
「親方」
「聞こえてる」
宿へ戻ると、真壁の前には瓶が並んでいた。
理央が近づくと、真壁は手元の一つを置く。
「服地は、どうだったかね」
「七反、全部買っていただきました!」
理央は代金の入った袋を卓へ置いた。
ニャニャミが口をほどくと、硬貨が重い音を立てる。
「ホテルの二反と合わせて、九反ニャ」
「明日は売るって、言った通りになりましたね」
澪が笑い、理央も大きく頷いた。
ニャニャミは売れた九反分から、原毛と染料などの費用を引いていく。
服地の分は、十分な利益になった。
毛布用に取ってある原毛も、まだ収納にたっぷり残っている。
「次は、紺をもっと欲しいそうです」
「気に入ってもらえたようだね」
「はい。でも、職人さんが、親方さんを何度も呼んでました」
理央は七反の代金を見下ろし、また笑った。
「それでも全部、買ってくれたんです」
「よかったですね、理央ちゃん」
澪の言葉に、今度は少しゆっくり頷く。
窓の上着だけでなく、あの濃紺や黒でも服を仕立ててもらえる。
次に店を訪ねる時、どんな物が掛かっているだろう。
「次の羊毛が来る頃、また行きたいです」
「布を持っていくニャ?」
「もちろんです」
ニャニャミは七反と書かれた紙をしまった。
「今度は、奥の人にも先に言っておくニャ」