押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第443話 羊毛、ありったけください!

 

 貴族家の百瓶の注文がまとまる前日の午後、理央とニャニャミは、酒卸との取引を終えて羊毛卸へ向かった。

 

 倉庫の前には、朝にはなかった荷車が止まっている。

 

 麻袋を担いだ男が降りてくるたび、荷台がきしみ、馬が耳を動かした。

 

 戸口の主人は荷札を読みながら、次の袋を置く場所を指していた。

 

「朝に話した、次の荷ニャ」

 

「おう、着いたぞ。そっちが理央さんか」

 

「はい。澪さんから、お話を聞いて来ました」

 

 理央が頭を下げると、主人は袋を下ろした男へ合図してから、二人を中へ入れた。

 

 乾いた草と、原毛に残った脂の匂いがする。

 

 袋の縫い目からはみ出した毛が、戸口の光に浮いていた。

 

「羊毛、ありったけ買いたいです!」

 

 主人が振り返った。

 

「午前にも買っていっただろう。午後も来るとは聞いたが、どれだけ要る?」

 

「午前は、服地にする分を先に少しです。今度は、まとまった量を選ばせてください」

 

「少し、ね」

 

 主人は新しい荷の列を、奥まで指した。

 

「ありったけって、この辺をか?」

 

「向こうは?」

 

「向こうも売れるが」

 

「では、そちらも見せてください」

 

 主人の腕が、下りかけたところで止まった。

 

「今日は朝より多いニャ」

 

「まだ見てもいないのに分かるな」

 

 主人は笑い、二人を新しい荷の間へ案内した。

 

 午前から置かれていた袋は、壁際に寄せてある。

 

 今届いた物には牧場ごとの荷札が付き、まだ綱が解かれていない。

 

「この札の分は、ほかの工房へ行く。こっちも先約だ。売れるのは、この列から向こうだな」

 

 理央は示された範囲を見た。

 

 長い列だった。

 

 後ろの戸口では、次の荷車が順番を待っている。

 

「全部、同じ値ですか?」

 

「いや。長さと質で違う。前にあんたらが欲しがった、色の混じった物もあるぞ」

 

 主人が最初の袋をほどく。

 

 理央は毛を少量受け取り、指の間に広げた。

 

 脂の感触を確かめ、《鑑定》で使える成分の量を見た。

 

 短い毛が混じっていても、溶かして繊維を作り直せば、欲しい長さに揃えられる。

 

 長く揃った高い毛だけを探す必要はなかった。

 

「この袋と、隣も見せてください」

 

 次の毛には、袋の内側に湿りが残っていた。

 

 理央はほぐして奥の状態を調べ、鼻を近づける。

 

「こちらは、今回はやめておきます」

 

「ありったけじゃなかったのか」

 

「使える物を、ありったけです」

 

「そこは付くんだな」

 

 ニャニャミが、理央の選んだ列の端へ立った。

 

「ここまでニャ」

 

「そこが始まりか、終わりか、先に言ってくれ」

 

「始まりニャ」

 

 主人は今度こそ声を出して笑った。

 

 

 

 主人は秤の金具を直し、袋ごとの量と値を二人に示した。

 

 理央は、短い毛と茶色の毛が混じった袋を選んだ。

 

 傷みはなく、使える成分の量に対して値もいい。

 

「これは服地に回します」

 

「前に聞いたのと同じだな。長さも色も、あとで揃えるんだろう」

 

「はい。毛布の方にも使えるので、まとまった分が欲しいです」

 

 理央は袋を数個ずつ見て回り、湿って傷んだ物だけを外した。

 

 次に開けた袋も、その次も、使える。

 

「これもお願いします。そちらも」

 

 主人は売れる方の札を掛け替えながら、二人を追ってきた。

 

 奥の列まで選び終えると、主人は受渡しの紙をもう一枚出した。

 

「それで、毛布はいくつ売るつもりだ?」

 

「売りません」

 

 主人の筆から、紙へ小さな染みが落ちた。

 

 理央は袋の口を押さえたまま、顔を上げる。

 

「ヴェルデン王国中の孤児院へ配る分なんです。まだ、必要な枚数を調べているところで」

 

「……売らんのか。それだけ買って?」

 

「はい」

 

 主人は選ばれた袋を見渡し、書きかけた紙を見直した。

 

「服地の方は売るニャ」

 

「そうか」

 

 主人は筆の先を整えた。

 

「なら、毛布の袋も一緒に量るぞ」

 

 積み直す男たちの声が上がり、秤の金具が鳴った。

 

 ニャニャミが合計を出すと、主人は自分の計算と見比べた。

 

 もう一度足して、同じ額になったらしく、顔を上げる。

 

「本当に、これを全部でいいんだな?」

 

「はい。全部いただきます」

 

 代金を渡すと、主人の手にあった紙が二人の方へ戻ってきた。

 

 理央は買い終えた袋へ靄を広げた。

 

 手前の山が消え、向こうの床板が見える。

 

「次は、そこニャ」

 

 理央は次の一列を、まとめて収めた。

 

 荷を担いで戻ってきた男が、空いた床で足を止める。

 

「親方。これは、もう奥へ運んだのか?」

 

「売れた」

 

「今、下ろしたばかりだぞ」

 

「だから、売れたんだ」

 

 男は肩から袋を下ろしかけ、主人へ顔を向けた。

 

「これもか?」

 

「先に札を見ろ。それは予約の分だ」

 

 主人は空いた所へ置かれそうになった袋を止め、別の列を指した。

 

 男が戻る頃には、さっきまで隠れていた柱の根元まで見えていた。

 

「柱まで運ぶなよ」

 

「それは買ってません」

 

「分かってる。空くのが早すぎてな」

 

 主人が笑い、理央も最後の袋を収めた。

 

 三台の荷車から下ろされた新荷のうち、買えた分は二台分相当になった。

 

 まだ残っている予約の袋と、外した荷の間を、荷運び人が通っていく。

 

 その通路は、理央たちが来た時より、だいぶ広くなっていた。

 

 

 

 主人が帳場で筆を置きかけたところで、理央は顔を上げた。

 

「次の分も相談していいですか」

 

 主人の手が、今度は筆から離れなくなった。

 

「もうか。今、持っていっただろう」

 

「はい。今日の分は、ありがとうございます」

 

「礼を言ってる顔のまま、次を買おうとするんだな」

 

 理央が笑う横で、ニャニャミは前に澪が相談した牧場の控えを出した。

 

 主人はその印を見て、自分の入荷帳を開いた。

 

 牧場ごとの印の下に、次の刈毛と、運び込めそうな時期が書かれている。

 

 ニャニャミが、一つの印を指した。

 

「この牧場の分は、まだニャ?」

 

「まだだ。羊の背中に付いてる」

 

「いつ刈るかが分かれば、買いに来られます!」

 

 主人が理央を見た。

 

「羊の背中に付いてる毛まで、売れって話か?」

 

「刈ってからで大丈夫です」

 

「そこは待ってくれるんだな」

 

 奥で荷札を束ねていた男が、咳払いをした。

 

 理央もつられて笑い、次に入る荷の辺りを指した。

 

「次は、いつ頃になりますか」

 

「それなら話せる。今のところは、この辺だな」

 

 主人は次の刈毛と入荷の目安を教え、荷が来る前に欲しい量を知らせてくれと言った。

 

 ニャニャミがその時期を書き留める。

 

 その時、戸口で車輪が鳴った。

 

 理央がそちらを向くより早く、主人が言った。

 

「それは別の客のだ」

 

「まだ何も言ってません!」

 

「顔が聞いてた」

 

 ニャニャミの耳が横へ動く。

 

 理央は口元を押さえ、今度は荷車を見送った。

 

 次便の知らせは、宿にいる間ならホテルへ預けてもらうことにする。

 

 滞在後の分は、次にこちらから訪ねる時に相談する。

 

 軒下へ出ると、馬車の待ち列は短くなっていた。

 

 主人は二人を送り出してから、倉庫の奥を見た。

 

「次に来る時は、先に量を言ってくれよ。下ろす場所を決める」

 

「空けておかなくても、着いたら買うニャ」

 

「こっちの支度の話だ」

 

 理央は礼を言い直し、ニャニャミと並んで宿へ向かった。

 

 

 

 宿へ戻ると、夕方に出かけるまで、まだ間があった。

 

 理央は買ってきた羊毛の試料と、染料の容器を澪の前へ出した。

 

「染料をゲンダイにいって買い足してきます」

 

「羊毛を買ってきたばかりですよね?」

 

「羊毛は買えました。でも、今度は色が足りません」

 

 理央は青の容器を傾けた。

 

 底に残った粉は、動かしてもなかなか広がらない。

 

 前に配合を決めるまで、何度も試して使った分だった。

 

「紺と灰色と黒を、一反ずつ作りたいんです。前と同じ染料なら、必要な量も分かります」

 

「では、今のうちに行きましょうか」

 

 ニャニャミは買付の紙を預かり、二人を送り出した。

 

 理央は部屋の扉へ《関門接続》を開き、澪と一緒に侯爵領側の拠点へ戻った。

 

 そこから押入を通り、江古田の事務所へ出る。

 

 ゲンダイ側で改めて関門をつなぎ、染料店の近くへ移動した。

 

 通りへ出ると、馬の蹄の代わりに自動車の走る音がした。

 

 二人は前にも訪ねた、浅草の染料専門店へ入った。

 

 カウンターには小分けの容器が並び、奥には発送前の箱が積んであった。

 

 理央は前に買った容器を見せ、品番を伝えた。

 

「この青と黒、それから、調整に使った黄色もお願いします」

 

「試験の続きですか」

 

「今度は、売る布に使います」

 

 理央は濃紺とチャコールグレー、黒の布を出した。

 

 店員は並べられた色を見て、青の容器を取り上げる。

 

「こちらの品番で揃います。量は、どのくらいになさいますか」

 

 三反分の配合から、次の製造にも回せる分を加えて注文する。

 

 店員が棚から出した包みは、初めて買った試作用より大きかった。

 

 理央は三つを並べて見た。

 

 これで、羊毛を買ったのに染められない、ということにはならない。

 

 代金を払い、店を出てから包みを収納へ収める。

 

 買い物が済むと、二人は《関門接続》で江古田の部屋へ戻り、押入を通って侯爵領側へ出た。

 

 理央がもう一度関門を開くと、扉の向こうにノルドハルムの客室が見えた。

 

 二人はそこを抜けて宿へ戻った。

 

 ニャニャミが顔を上げる。

 

「買えたニャ?」

 

「はい。三色とも作れます」

 

「今日は、買う方が止まらないニャ」

 

「明日は売ります!」

 

 理央が答えると、澪が笑った。

 

 その夕方は皆と酒場へ出かけ、レイニャの歌を聴いた。

 

 帰ったホテルで貴族家の書状を受け取る頃には、ルネはもう眠そうにしていた。

 

 兄妹が部屋へ上がった後、理央は真壁と澪へ午後の買付を報告した。

 

「羊毛は荷車二台分です。多い方は、孤児院の毛布に使います」

 

「よく買えたね」

 

「次の入荷も聞いてきました。まだ羊の背中に付いてるそうです」

 

「それなら、置き場所には困らない」

 

 真壁はそう返し、ニャニャミへ買付の控えを渡した。

 

 理央は毛布用を原毛のまま収納へ残し、明日使う分だけを分けた。

 

 染料の新しい包みを見ると、すぐ試したくなる。

 

 けれどノートを閉じると、あくびが出た。

 

「理央ちゃん、続きは明日にしましょう」

 

「はい。明日は反物です」

 

 

 

 翌朝、朝食を終えた理央へ、支配人が制服の追加を頼んできた。

 

「前回のお色に合わせて、もう二反お願いできますか」

 

 理央は、受付で客を迎えている従業員の袖を見た。

 

 自分の布が服になっているのを見つけたばかりなのに、もう次が欲しいという。

 

「はい。同じ幅と長さで、お作りします」

 

「今回も、あの仕立師へ頼むつもりです」

 

「夕方に伺いますから、そのこともお伝えしますね」

 

 値と受渡しを決めると、理央は借りた部屋へ入った。

 

 染めない自然色を七反、濃紺とチャコールグレー、黒を一反ずつ。

 

 先にホテルの二反を作ろうと、収納にある原毛を工程へ回す。

 

 さっき食べたパンの匂いが、廊下にはまだ残っていた。

 

 羊毛を溶解し、必要な成分を分ける。

 

 短かった毛も、長い毛も、ここでは一緒になる。

 

 脂や元の色に関わる成分を除き、前と同じ太さと長さの繊維へ固めていった。

 

 細く揃った繊維が糸になり、定めた撚りと織りで、幅のある布へ変わる。

 

 理央が最初の反物を取り出すと、靄から現れた端が卓を越えた。

 

「そっち、持ちますね」

 

 澪が受け止め、二人で広げる。

 

 以前の基準片を添えても、途中で色の切り替わる境目は見えなかった。

 

 幅と長さも、仕立師から聞いた通りに出ている。

 

「これなら、同じ制服に使えます」

 

「では、もう一反です」

 

 理央は次を仕上げ、巻いた二反を澪へ渡した。

 

 澪が支配人を呼ぶと、支配人は新しい布を見て足を止めた。

 

「先ほどの二反、ですか?」

 

「はい。こちらが、ご注文の分です」

 

 支配人は澪を見てから、理央を見た。

 

「仕立師への手配を、まだしておりませんでした」

 

「布は、できました」

 

「……そちらが先にできるのですね」

 

 澪は笑いをこらえながら、二反をホテルへ渡した。

 

 布の代金を受け取り、昨夜予約されていたライウイスキーも続けて引き渡す。

 

 支配人は酒の受取りを済ませると、さっそく仕立師へ知らせる人を呼んでいた。

 

 理央はその声を聞きながら、残る自然色五反を作った。

 

 四反は販売用、一反は次の色や織りを揃えるために残す。

 

 巻いた反物が増えても、原毛の大半は収納の中にある。

 

 孤児院へ持って帰る分には手を付けず、服地用に選んだ分から仕上げていった。

 

 使者が来ると、理央も澪たちと小サロンの席へ着いた。

 

 家紋の瓶を作る商談が進み、使者が家令の返事を聞きに戻る。

 

 その昼の間に、理央は残る三色を作った。

 

 昨日買い足した染料を、前に決めた量だけ成分へ混ぜる。

 

 元の羊毛の茶色は取り除いてあり、新たに加えた青と黒が、繊維の中で均一になった。

 

 固めた繊維を糸へ、糸を服地へ。

 

 靄から引き出した濃紺は、折った所へ青い光を返した。

 

 理央は端を持ち上げ、窓へ向けた。

 

 浅草で選んだ色が、今、ノルドハルムの窓の下に広がっている。

 

 同じ羊毛から、チャコールグレーと黒も作る。

 

 濃紺の隣へ黒を置くと、三色がそれぞれ違う顔を見せた。

 

 ニャニャミが巻き終えた三反を並べると、理央は小さな見本をその端へ重ねた。

 

 濃紺、灰色、黒が、それぞれの見本と揃った。

 

 十反ができ、そのうち二反はもうホテルへ渡っている。

 

 理央は保存用の一反を収納へ残し、売りに持っていく七反をまとめた。

 

 

 

 理央が三色の服地を作っている間、澪は食品卸へ鰊の缶詰を届けた。

 

 使者が屋敷へ戻っている昼の時間は、ほかの仕事にも使えた。

 

 前日に買った鰊は、既に揃えてある収納内の工程で加工してある。

 

 以前の試作と同じ容器と密封、加熱の条件を使い、保存の評価も確かめた分だった。

 

 荷場で箱を出すと、缶が触れ合って乾いた音を立てた。

 

「頼んでいた鰊だな」

 

「はい。お待たせしました」

 

 主人は一つを取り上げ、蓋と胴を見てから箱へ戻した。

 

 注文した量が揃うと、運び手に棚を指す。

 

「こっちは、そのまま次の客へ出す。奥へしまうなよ」

 

 澪は主人から代金を受け取り、荷場の前を空けた。

 

 自分が持ってきた箱を、今度は別の男が運んでいく。

 

 前には、缶の開け方から見せていた品だった。

 

「次も頼む」

 

 主人の声に、澪は笑って振り返った。

 

「また伺います」

 

 ホテルへ戻った後も、使者の再訪までは間があった。

 

 澪は曲がり木や端材を、収納の中で人工木材へ加工した。

 

 原料として使えない傷んだ部分は除いてある。

 

 短い試験片を出すと、朝とは違い、どの面も平らになっていた。

 

 ルカがそれを見つけ、近づいてくる。

 

「それ、昨日の木ですか」

 

「ええ。ルカ君が選んでくれた原料から作りました」

 

 ルカは両端を見比べ、掌の上で転がした。

 

「あの曲がった木が、これに……」

 

「見分けてもらえて、助かりました」

 

 ルカの背が、少し伸びた。

 

 澪は試験片を受け取り、加工した在庫と一緒に収納へ戻した。

 

 こちらは売る先をこれから探すが、原料の山のまま持って帰らずに済む。

 

 午後、使者が戻ると、理央もニャニャミも再び応接の席へ着いた。

 

 百瓶の契約と前金の受取りが済み、使者を見送ってから、理央は服地を持って立ち上がった。

 

「では、今度はこっちを売ってきます!」

 

「行っておいで。仕立師も待っているだろう」

 

 真壁は瓶の製作へ取りかかり、理央とニャニャミは、夕方の通りへ出た。

 

 

 

 仕立師の店の窓には、前に来た時とは違う上着が掛かっていた。

 

 西日を受けた袖の下で、奥の鋏が動いている。

 

 理央が扉を開けると、仕立師は顔を上げ、作業台の端に置いた包みを取った。

 

「来たか。前の布だ」

 

 開いた包みには、縫い目の残る切れ端と、小さく仕立てた品があった。

 

 最初の訪問で預けた布には、形を保つための縫い方を幾つか試した跡がある。

 

 理央は鞄を置き、両手で受け取った。

 

「どうでしたか?」

 

「いい。針が通る。縫った後も、この辺が引きつれない」

 

 仕立師は裏を返し、縫い代を開いて見せた。

 

 押さえた皺の戻り方も、実際に仕立てた上着の一部と比べる。

 

「次も、この厚みで揃えてほしい。端の幅もだ」

 

「はい。その寸法で作ってきました」

 

 理央は前に持ち帰った切れ端を出し、新しい自然色の布を隣へ広げた。

 

 仕立師は指の腹で触れ、布を斜めに持ち上げる。

 

「ちゃんと幅があるな」

 

 理央は頷いた。

 

 前には、この人の手元で布が細く切られていくのを、息を詰めて見ていた。

 

 今は、どこまで広げれば反物の端が見えるか、自分で分かる。

 

「色物も、三つあります」

 

 濃紺を出すと、仕立師は窓へ向けた。

 

 次のチャコールグレーは、室内の光で見直す。

 

 黒も並べ、折った所を指で押した。

 

「色も揃えてきたか」

 

「前にお話しした染料で、配合を決めました。こちらが基準の見本です」

 

「次も、この色を頼めるか」

 

「はい。直す時の布も、同じ色でお渡しできます」

 

 仕立師は窓の上着を指した。

 

「前に買った布で仕立てたら、あれと同じ物をと言われた」

 

 奥の職人が、仕立てかけの前身頃を台へ置く。

 

 その脇には、裁断を待つ型紙が重なっていた。

 

「上着が何着もある。こっちは礼服だ。布が入ったら裁つと約束している」

 

「礼服にも使っていただけるんですか」

 

「使える。だから、この色が欲しかった」

 

 仕立師は濃紺と黒を引き寄せた。

 

「布があるかと聞きに来る客も増えた。次の入荷まで待たせて、ほかへ行かれては困る」

 

「今回は、何反出せる」

 

「こちらの七反です。染めていない物が四反、濃紺とチャコールグレーと黒が一反ずつ」

 

 理央は台の空いた所へ靄を広げ、反物を一本ずつ取り出した。

 

 巻いた端から札が見える向きへ並べると、奥の職人が鋏を持ったまま近づいてきた。

 

 七反を置き終えても、職人はその場を離れなかった。

 

 仕立師は七つを数え、棚の空きを見た。

 

「これを、ありったけ欲しい」

 

「七反、全部ですか」

 

「足りないくらいだ。ほかにもあるのか」

 

 理央は鞄の控えを開いた。

 

 ホテルの二反の欄が見えたところで、ニャニャミも同じ行へ指を添える。

 

「ホテルさん向けの二反はありますが、そちらは先にご注文いただいた分です」

 

「ああ。あの宿の制服も、こっちで仕立てる」

 

「今回もお願いする予定だと、支配人さんに伺いました」

 

 仕立師は注文の紙をもう一度出した。

 

「俺が買う七反と、宿から預かる二反か」

 

「はい。そちらはホテルさんから届きます」

 

 奥の職人が、型紙を持ったまま顔を上げた。

 

「親方。これ以上注文が増えたら、縫いきれませんよ」

 

 仕立師は七反を見てから、台の上の仕事を見た。

 

「……そうだな」

 

 理央は並べた反物へ手を伸ばした。

 

「では、少し減らしますか?」

 

「いや。七反全部買う」

 

「えっ?」

 

「いい布だからな。縫う時間は、俺たちで何とかする」

 

 理央の向こうで、職人が動かなくなった。

 

 型紙の端だけが、窓からの風で揺れている。

 

 ニャニャミは七反分の値を書く紙を出した。

 

「全部でいいニャ?」

 

「全部だ」

 

 返事は早かった。

 

 職人の方は、まだ返事をしていない。

 

 仕立師は七反の札を揃え、今度は売買の値を相談し始める。

 

 自然色の四反は、前の購入分の単価と幅、長さを合わせて比べた。

 

 理央は前回と揃えた厚みと仕上がりを示し、今回の値を伝える。

 

 色物は染料を含む値で、三色それぞれを決めた。

 

 仕立師は店の支払いの控えを開き、注文の紙と並べた。

 

「七反、この値で買う」

 

「ありがとうございます」

 

 ニャニャミが書き入れた単価と合計を見せると、仕立師は自分の紙にも同じ額を記した。

 

 職人が棚を空け、反物を一本ずつ受け取っていく。

 

 最後の黒を渡すと、理央の前には、比較用の小片だけが残った。

 

 七反とも、ここへ置いていける。

 

 理央は仕立師から渡された代金をニャニャミと数え、受領の控えを返した。

 

「次は、紺をもう少し見たい。自然色もだ」

 

「紺ですね。次の羊毛が入る時期も聞いてきたので、またお持ちします」

 

 仕立師が次に欲しい色を挙げると、ニャニャミが書き留めた。

 

 その横で、職人が七反の置き場所を空けていた。

 

 棚にできた隙間へ濃紺が収まると、仕立師は満足そうに端を撫でた。

 

「次は、もう少し多くてもいい」

 

「親方」

 

 呼ばれても、仕立師は理央の方を向いたままだった。

 

「できたら知らせてくれ」

 

「はい。ありがとうございます!」

 

 理央は売買の控えを鞄へ収め、店を出た。

 

 閉まりかけた扉の向こうから、今度は少し大きな声がした。

 

「親方」

 

「聞こえてる」

 

 

 

 宿へ戻ると、真壁の前には瓶が並んでいた。

 

 理央が近づくと、真壁は手元の一つを置く。

 

「服地は、どうだったかね」

 

「七反、全部買っていただきました!」

 

 理央は代金の入った袋を卓へ置いた。

 

 ニャニャミが口をほどくと、硬貨が重い音を立てる。

 

「ホテルの二反と合わせて、九反ニャ」

 

「明日は売るって、言った通りになりましたね」

 

 澪が笑い、理央も大きく頷いた。

 

 ニャニャミは売れた九反分から、原毛と染料などの費用を引いていく。

 

 服地の分は、十分な利益になった。

 

 毛布用に取ってある原毛も、まだ収納にたっぷり残っている。

 

「次は、紺をもっと欲しいそうです」

 

「気に入ってもらえたようだね」

 

「はい。でも、職人さんが、親方さんを何度も呼んでました」

 

 理央は七反の代金を見下ろし、また笑った。

 

「それでも全部、買ってくれたんです」

 

「よかったですね、理央ちゃん」

 

 澪の言葉に、今度は少しゆっくり頷く。

 

 窓の上着だけでなく、あの濃紺や黒でも服を仕立ててもらえる。

 

 次に店を訪ねる時、どんな物が掛かっているだろう。

 

「次の羊毛が来る頃、また行きたいです」

 

「布を持っていくニャ?」

 

「もちろんです」

 

 ニャニャミは七反と書かれた紙をしまった。

 

「今度は、奥の人にも先に言っておくニャ」

 

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