朝のホテルには、焼いたパンの匂いがまだ残っていた。
支配人との挨拶を終え、真壁が次の酒の受渡しについて話す間、ルネは兄の袖を握って待っている。
「おにいちゃん。かえったら、おはなしする?」
「まず、ただいまって言うんだよ」
「それから!」
理央は笑いながら、部屋の扉へ《関門接続》を開いた。
ホテルの廊下とは違う、見慣れた侯爵領の景色が向こうへ続く。
澪が最後に通り、皆が揃うと、理央は関門を閉じた。
レイニャは兄妹を連れて孤児院へ向かい、クラリッサも引き継いでいた仕事へ戻っていく。
澪たちは商会の作業室へ入った。
「毛布用の羊毛、持って帰ってきました!」
理央が一袋だけを取り出す。
口を開けると、北方の倉庫で嗅いだ脂の匂いがした。
澪は束をつまんで、指の間に広げた。
服地へ回した分とは別に、大口で買った原毛が残っている。
「ありがとう、理央ちゃん。これで、先に作る分は増やせますね」
「次の入荷も、聞いてきましたし」
理央は以前に作った毛布地の基準片を、その隣へ出した。
澪は一枚当たりに使った量を思い出し、理央が買ってきた原毛の量と比べた。
侯爵領で届けている院のほかにも、行ったことのない町や村に子どもたちがいる。
王国の端から端まで、一人一枚ずつとなれば――。
「全国へ配る分は、まだ足りませんね」
「次の毛刈りまで待つニャ?」
ニャニャミが尋ねた。
「羊は、こちらの都合で毛を増やしてはくれんからな」
真壁はそう言い、広げていた地図の端を空けた。
澪は毛の束をほどきながら、以前、毛布地を作った時のことを思い返した。
羊毛を溶かして汚れや脂を分け、毛の主成分であるケラチンというたんぱく質を取り出した。
それを細い繊維に作り直し、糸にして織ったのが、机にある毛布地だった。
毛の長さも形も、一度なくしてから作り直している。
なら、糸の材料になるケラチンを、羊毛以外から取り出すことはできないだろうか。
商館の職員が、戸口から声を掛けた。
「澪さん、食堂と商館へお願いしている鶏肉、十二羽分は午後に受け取りに来ます」
「はい、用意しておきます」
澪は答えてから、指に絡んだ羊毛を見た。
「……鶏の羽にも、ケラチンって入っていましたよね」
理央が、澪の手と顔を見比べた。
「羽毛ですか?」
「はい。肉にする時に、外していた羽です」
澪は《生体収納》の養鶏区画へ意識を向けた。
草地では鶏が地面を掻き、鶏舎の脇の水場へ別の群れが集まっている。
採卵箱、育雛の場所、その奥の孵化棚をたどって、食肉を扱う区画を見る。
世代を入れ替える際に出る老鶏は、ここで肉にしてきた。
肉を冷やして共同商館へ渡し、リュシアが煮込みや出汁に使う先へ回してくれる。
では、外した羽は。
澪は、廃棄へ続く工程をたどった。
「捨ててました」
「……そうでしたね」
「私、羊毛が足りないって言いながら、こっちは捨ててたんですね」
「使い道がなかったからね」
真壁が、机の上の毛布地を指した。
「これと同じ物になるかは、分けてみれば分かる」
「今日、肉にする分の羽を取っておきます」
澪は、食堂や商館へ出す予定の十二羽を、いつもの食肉工程へ回した。
これまで廃棄側へ送っていた羽だけを、別の受皿へ集める。
肉はそのまま冷却へ進み、出荷の箱へ収まっていった。
空いた作業台へ容器を出すと、靄の中から白と茶色の羽が現れた。
軽い毛羽の間に、硬い羽軸が何本も重なっている。
理央は一本を持ち上げ、軸を指で押した。
「これを、そのまま糸にはしにくいですね」
「形は、一度なくしてしまえます。中の成分は、どうでしょう」
澪は《鑑定》を向け、羽を収納へ戻した。
羽の汚れや脂、水分を分けていくと、利用できる成分が残った。
羊毛の時と、まったく同じ表示ではない。
澪は理央へその違いを伝え、取り出した物を見せた。
「繊維にするところを、お願いできますか」
「はい。今度は毛布ですね」
理央は毛布地の基準片を、自分の前へ寄せた。
ニャニャミが、羽を出した容器を持ち上げる。
「これも買う物になるなら、肉屋の裏へ行きたいニャ」
「まだ、布になるか見てからです」
「布になったら行くニャ」
もう行くつもりの声に、澪は笑い、容器を空けて理央へ渡した。
午後の作業室で、理央は羽から取り出した成分を収納へ収めた。
澪はその隣へ、以前に作った羊毛の毛布地と、北方で手に入れた毛布の見本を置く。
外では肉の出荷箱を運ぶ足音が続いていた。
「服地みたいに、きっちり揃えてしまわない方ですよね」
理央は、指で基準片を押した。
「空気を抱く、ふくらみのある繊維にします」
取り出した糸は、指の上で細かく縮れていた。
引いて離すと、ゆるい曲がりが戻る。
理央は《鑑定》の結果を追い、羊毛で作った糸と並べた。
「こっちの方が、戻り方が弱いです」
澪も端を持たせてもらった。
さっきまで羽軸だった物には見えないが、基準の糸と比べると、指へ返る感触が違う。
理央は繊維の太さと縮れの具合を変え、次に出した糸で織り始めた。
布にして毛羽を起こすと、平たかった表面がふくらむ。
出来た生地を靄から引き出し、両端を卓へ広げた。
毛布と同じ幅があるが、丈は短かった。
「この分で、十二羽です」
理央が端を押さえると、真壁も掌を載せた。
布を離した所から、ふくらみがゆっくり戻る。
「いいね。この嵩なら、毛布に使える」
澪は端を持ち上げた。
頬へ当てると、羽の時にあった硬さは感じない。
表を返し、裏も触ってから、思わずもう一度、容器の方を見た。
中にあった羽は、全部、この生地へ使っている。
「本当に、毛布地になりました」
理央は出来た布の長さを測った。
標準にしている毛布の寸法へ定規を当て、短い方を隣に重ねる。
「同じ厚みで、一枚にするなら……五つ分です」
「十二羽が五つニャ」
「六十羽分ですね。これで、毛布一枚分になります」
澪は生地を持ったまま、理央を見た。
この短い一枚を五つつなげた大きさなら、子どもが身体へ巻ける。
「だったら、集める先を増やしましょう」
「肉屋ニャ」
「はい。それに、農家にも。鶏を肉にする所なら、同じ物が出ています」
澪は出来た生地を畳み、羊毛の基準片とは別に包んだ。
「羊毛の分は、先に作ります。羽が集まったら、その分を足せますね」
「次の毛刈りだけを待たなくてよくなるニャ」
澪は見本の包みを鞄へ収め、羊毛の入った袋を理央の方へ寄せた。
夕方の孤児院には、焼いたパンと煮込みの匂いが広がっていた。
長机にはパンの籠と豆の煮込みが並び、厨房の鍋では、魚と野菜の間に溶き卵がふんわりと固まっている。
シスターは鍋の火を見てから、幼い子の椅子を机へ寄せ、洗い場へ声を掛けた。
「手を洗った子から、座ってくださいね」
「お皿、ここでいい?」
「ええ。ありがとう」
年長の子が器を並べる横で、小さな子が匙を一本ずつ置いている。
シスターが厨房へ戻ろうとすると、レイニャが先に杓子を取った。
「スープは、あたしが入れるニャ」
「お願いします。私は、こちらの子を」
シスターは椅子から降りかけた子のそばへ戻った。
レイニャが器へ注いだスープには、魚も卵もたっぷり入っている。
「澪、理央も食べていくニャ?」
入口の二人に気づくと、レイニャは空いた席を示した。
「まだ、お皿を並べているところニャ」
「では、私たちも手伝います」
澪は手を洗い、注ぎ終えた器を受け取った。
理央が隣の机へパンを運ぶと、ルネが座ったまま両手を振った。
「おねえちゃん、こっち!」
「はいはい。パンもありますよ」
ルカが籠を受け取り、妹の隣へ一つ置いてから、次の席へ回していく。
席へ着いた子どもたちの前で、料理の湯気が重なった。
厨房には、まだパンも野菜もあり、棚には卵の入った籠が並んでいる。
「いつも、たくさん届けてくださって、ありがとうございます」
シスターが戻ってきて、澪の持つ器へパンを添えた。
「今日も、よく食べるでしょう」
「ええ。服も、また小さくなりそうですね」
澪が席を見回すと、近くの男の子が片腕を上げた。
「これ、まだ着られるよ」
「着られなくなるまで、待たなくてもいいんですよ」
理央が笑い、男の子も袖口を引っ張って笑った。
食事が始まると、パンをちぎる音に、匙の触れ合う音が混じる。
澪が自分のスープを一口飲んだところで、隣の子が顔を上げた。
「澪先生。卵を産んでる鶏も、今度見せてよ。卵を取るところも」
澪は頬を緩めたまま、卵をすくっている子どもたちを見た。
侯爵領の農家へは、鶏舎と一緒に鶏を届けている。
ここへも連れてくれば、卵を受け取るだけでなく、自分たちで取れる。
「……見せるだけじゃなくて、ここでも飼ってみませんか」
シスターが、澪へ向き直った。
「鶏を、ですか?」
「はい。若鶏と小屋を、うちで用意します」
「俺、世話する!」
隣の子が、匙を置いて手を挙げた。
「餌やるんだよね。水も」
「ええ。それから、卵を集めてもらいます」
「ルネも、たまごとる!」
向かいから声が飛んで、シスターが笑った。
「大きい子と一緒に、ですね」
澪は庭に開いた窓へ目をやった。
日当たりのよい地面はあるが、二百羽を放すには狭い。
子どもたちの遊ぶ場所まで、柵で囲うわけにはいかない。
「若鶏を二百羽ほど、届けたいんです。小屋と、鶏を歩かせる土地は、近くに借りられないか領主様にお願いしてみます」
「二百羽……」
シスターが窓の外を見ると、男の子も椅子の上で伸び上がった。
「卵、いっぱい取れる?」
「取れた卵は、みんなで食べて、余った分を売れます。肉にする鶏は、肉屋さんに買ってもらって」
「売ったお金は?」
「餌を買ったり、この院で使ったりしてください」
ルカが、机の端にあった空の籠を寄せた。
「出荷する時は、僕も手伝います」
「では、餌やりや卵集めは、みんなで分担できそうですね」
シスターが子どもたちを見渡すと、何人も手を挙げた。
「私も飼い方を教わります。ただ、餌代は、最初から必要ですよね」
「はい。最初の飼料もうちで用意します。売上で餌代を賄えるまでは、支援を続けますから」
シスターがほっと笑い、隣の子へ座るように促した。
「鶏を迎えたら、朝ごはんの前に、あちらへも餌をあげないとね」
「先に鶏?」
「お腹を空かせて待っていますから」
男の子が自分のパンを見てから頷くと、レイニャも真面目な顔になった。
「待たせるのは、よくないニャ」
「レイニャも待ってたの?」
「配ってたニャ。今から食べるニャ」
レイニャはようやく自分の器を持ち、ルネの向かいへ腰を下ろした。
帰り道、理央が孤児院の門を振り返った。
「卵を取る係、人気でしたね」
「餌をやって、卵を集めて、売るところまで覚えてもらえたらいいですね」
「ほかの院にも?」
「はい。鶏舎ごと届けられれば、同じように育ててもらえます」
理央が数歩進んでから、澪の顔を覗いた。
「澪さん。その鶏の羽も……」
「買います」
「やっぱり」
「羽まで売れれば、餌代にもなりますし」
理央が笑った。
「ニャニャミちゃん、もう肉屋さんを探してるかもしれませんよ」
「先に、ギルド長に会ってきます」
澪は、羽から作った生地を包んだ鞄を、肩へ掛け直した。
翌日、王都の商業ギルドで、グスタフは持ち込まれた包みを見た。
「北の羊毛の価格があがっていると聞いたぞい。戻ったと思えば、もう売り物を持ってきたのかね」
「毛布地の見本です。でも、これは羊毛ではないんです」
澪は包みを開き、その隣の受皿へ、鶏の羽を一本載せた。
グスタフの指が、生地の上で止まった。
「……こっちから、こっちを作ったのかね」
「はい!」
「相変わらずじゃのう」
「よく出来ているだろう」
真壁が隣で言うと、グスタフは生地を摘んで持ち上げた。
「これなら欲しがる者はおる。で、今日は何を頼みに来た?」
「鶏と鶏舎を、王国中の孤児院や農家に配りたいんです。費用は、うちが持ちます」
「無料で配る話を、商業ギルドへ持ってきたのかね」
グスタフは生地を卓へ戻したが、摘んだ指は離さなかった。
「それで、押入商会は何を得る?」
「羽毛です。肉にする時に出る羽を、全部買わせてもらいたいんです」
「捨てておる物を、わざわざ買うのか」
「捨てていましたけど、もう使えますから」
澪は受皿の羽を、生地の上へ重ねた。
「鶏と鶏舎を受け取る方には、羽の売り先をうちに決めてもらいます。卵とお肉は、どこへ売っても構いません」
「羽だけは独占ニャ」
ニャニャミが、受皿からはみ出した羽の先を押した。
「全部欲しいニャ」
「ふむ」
グスタフは羽を持ち、軸を指で転がした。
「じゃが、鶏を生きたまま肉屋へ売れば、これは誰の物になる?」
澪は答えかけて、口を閉じた。
自分の養鶏場では、肉にするところまで同じ工程の中にある。
外の農家は、そうとは限らない。
「羽も付いたまま、肉屋さんへ行きますね」
「そうじゃ。農家との約束だけでは、肉屋の裏で捨てられるぞ」
「それは困るニャ。拾いに行くところだったニャ」
「拾う前に、肉屋にも金を払う話をするんじゃな」
グスタフが、受皿へ羽を戻した。
「集める手間を出してもらう。生きた鶏を買う時にも、羽の分を値へ載せる。売った農家にまで得が戻らねば、続かん」
「はい。捨てていた物ですけど、ただでもらうつもりはありません」
澪は受皿を、自分の方へ引き寄せた。
「自分の所で肉にするなら、その方から羽を買います。肉屋さんに売るなら、羽を渡してもらえるお店へ」
「別の店でも、回収の約束を引き受けるなら売れるようにしておこう。卵と肉の商いまで、縛ることはないからのう」
「それでお願いします」
「羽の代金は、渡す側に払う。回収と運賃もこちらで負担するから、ギルドで集荷をまとめてくれるかね」
真壁がそう言うと、グスタフは壁の地図を指した。
「毎日、一軒ずつ取りに回るのは高くつくぞ。まず、肉屋や加工場で集めさせる。支部の集荷に合わせれば、近くの商館までは運べる」
「まとまった所からは、こちらで引き取れる」
「おぬしらの収納を使うなら、その方がよかろう」
澪は地図に近づいた。
グスタフの指は、王都から街道沿いの町へ進み、そこで別の道へ折れていく。
澪がまだ歩いたことのない道にも、集められる場所があった。
「今、鶏を飼っている農家にも、羽の回収をお願いしたいです。卵とお肉は、これまでどおりで」
「侯爵領の分じゃな。リュシア商会と話を合わせればよい」
グスタフは席へ戻り、呼び鈴を鳴らした。
入ってきた職員へ、地図の町を幾つか示す。
「各支部へ連絡を。鶏を扱う肉屋と加工場に、羽の買付の話があると伝えてくれ。まず、ここの近場から話を付ける」
「承知しました」
職員が地図の写しを抱えて出ていくと、グスタフは澪へ向き直った。
「集荷はギルドで引き受けよう。手数料は、きちんと頂くぞ」
「もちろんです。お願いします」
「鶏舎をただで建てて回り、捨てる羽に金を払う。その毛布は、高く売らねばならんのう」
「先に、孤児院へ配る分を作りたいんです」
グスタフは、生地から顔を上げた。
「……そっちも、ただかね」
「はい。そのあと、売る分も作ります」
澪が答えると、隣からニャニャミの白い手が伸び、生地を丁寧に包み直した。
「売る分の羽も、ありったけ買うニャ」
「ニャニャミさん。北で羊毛を買った時も、同じことを言ってなかった?」
「今度は、全国ニャ」
グスタフは笑いながら、もう一度、呼び鈴へ手を伸ばした。
その翌日、澪と真壁は王城を訪ねた。
宰相クラウスの執務室では、窓辺まで書類の束が並んでいる。
挨拶を終えた澪は、差し出された椅子へ座ると、用意してきた見本を卓へ出した。
「王国中の孤児院に、鶏と鶏舎を配りたいんです。普通の農家にも、広めたいと思っています」
「侯爵領で始めた養鶏を、全国へか」
「はい。鶏と小屋は、無料で用意します」
クラウスは脇の書類を開いた。
「登録されている孤児院は、およそ百。預かっている子どもは、四千人ほどになる」
澪は、用意してきた数へ百を掛けた。
「でしたら、一か所に二百羽ずつで、二万羽ですね」
「……二万羽か」
書類の余白へ走っていたペンが止まった。
「一院で二百羽。子どもに卵を食べさせるだけなら、そこまでは要らないのではないか」
澪は、餌やりをすると手を挙げた子の顔を思い出した。
「まず、子どもたちに食べてもらいます。でも、余った卵は売れるんです」
クラウスが、ペンを置いた。
「食材を買うお金も要りますし、建物を直したり、薪を買ったりするお金も要ります。院の中で収入を作れたら、寄付が少ない時にも、続けやすくなると思うんです」
「食料を渡すだけでなく、院で稼げるようにするわけか」
「はい。卵を産む雌を多くして、繁殖に必要な雄も一緒に届けます。雛から育てるところは、こちらで引き受けます」
「宰相閣下。侯爵領では既に、二十三の農家へ、合わせて千百五十羽を渡しております」
真壁が、澪の隣から口を開いた。
「卵と肉の取引は、リュシア商会と共同商館を通じて動いております。各地でも、地元の商人につなぐことができます」
「世話は、誰がする?」
「飼い方を教えて、子どもたちに任せたいです。餌をやって卵を集め、育てた鶏を肉屋さんへ出荷するところまで。侯爵領の院でも、子どもたちが手を挙げてくれました」
クラウスは、開いた書類を少し脇へ寄せた。
「院が続けられれば、行き場を失う子も減る」
窓の向こうには、王都の屋根が重なっていた。
「ヴァルトが救い出した、あの二十人を覚えているか」
「ええ。ヴァルト君が救った、ラウ君たちのことですな」
真壁の返事に、澪も頷いた。
「子どもの行き場がなくなれば、ああいう者たちが寄ってくる。院を閉めずに済む手段は、増やしておきたい」
クラウスは書類を閉じ、卓の上の見本へ目を戻した。
「だが、二万羽の鶏に、百か所の鶏舎だ。設備も餌も要る。誰が費用を負担する?」
「資金は全部、うちが出します!」
答えてから、澪は少し声を落とした。
「小屋だけではなく、餌と水の容器、最初の飼料もです。卵を産み始めるまでの分は、こちらで持ちます」
「産み始めたあとは?」
「売上で餌代を賄えるまでは、飼料の支援を続けます。その先は、売った卵や肉のお金で、地元から買ってもらいます。売り買いは、商業ギルドに協力をお願いしてきました」
「そこまで費用を出して、そなたたちは何を得るつもりだ」
「羽毛です」
澪は包みを開き、出来た生地を広げた。
「鶏を肉にする時の羽から、これを作れます。鶏と鶏舎をお渡しする代わりに、羽だけは、うちへ売ってもらいたいんです」
クラウスの指が、柔らかい表面を押した。
「羽を渡す。それが条件か」
「はい。代金は払います。卵もお肉も、育てた方たちの物です」
「宰相閣下。商業ギルド長のグスタフ殿とは、羽毛の回収で協力することになっております。肉屋や食肉加工業者も含めて、集める手配を始めております」
真壁の言葉を聞き、クラウスが生地の端を持ち上げた。
「捨てていた羽が、この布になる。鶏を配る費用は、その仕入先を増やすための金でもあるわけだな」
「はい。毛布は孤児院へ配りますし、売る商品にもします」
「グスタフが乗った理由も分かった」
クラウスは生地を戻し、廊下へ声を掛けた。
書記官が入ってくると、澪たちを示す。
「押入商会による、王国全土の孤児院への養鶏導入と、一般農家への普及を許可する。各領主と孤児院へ、宰相府から知らせを出してくれ」
澪は膝の上で、握っていた手を緩めた。
「ありがとうございます!」
「院によっては、庭に鶏舎を置けない所もあるだろう。領主には、近くの土地と職人の手配にも協力するよう求める」
書記官のペンが紙の上を走った。
「施設の所在地と、把握している子どもの人数も、商会へ渡すように」
「承知しました」
書記官が下がると、クラウスは卓へ王国の地図を広げた。
「それで、いつから始めるつもりだ。院を回るだけでも、相当な距離になるぞ」
「六月中に、鶏舎を建てに回ります。七月から、準備のできた所へ若鶏を配っていきたいです」
「……もう六月には、建て始めるのか」
「はい。十月末までに、合わせて五万羽を届けるのが目標です」
クラウスの指が、地図の中央で止まった。
「二万羽ではなかったか?」
「残り三万羽は、農家に配る分です!」
澪は、最初に伝えたつもりの農家の話を付け足した。
「そちらも二百羽ずつで、新しく百五十軒に。院の分と合わせて、二百五十か所です」
クラウスは真壁を見た。
真壁は、地図の端を押さえている。
「宰相閣下。鶏舎の部材はこちらで作り、現地の職人に組み立てていただけば、各地で並行して進められます」
「私が聞きたいのは、そこではない気もするが」
「若鶏の供給は、澪君が引き受けます」
「はい。今日から、増やす方に切り替えます」
澪が答えると、クラウスは、今しがた書記官が出ていった扉を見た。
「……農家への普及も、今、許可したな」
「ありがとうございます。そちらも頑張ります!」
クラウスは口元へ手を当てた。
「分かった。職人を集める側にも、その数を伝えておく」
帰り際、澪が生地を包んでいると、クラウスが地図を畳みながら言った。
「次に来る時は、増えた分から先に話してくれ」
澪は包みの紐を結び、隣の真壁を見た。
真壁は、わずかに目元を和らげていた。
侯爵領へ戻ると、作業台の上に、毛布が一枚広げてあった。
短い羽の見本とは違い、端をつまんで持ち上げても、その先はまだ卓に残っている。
「北で買った羊毛から、作り始めました」
理央が、畳み終えた別の一枚を重ねた。
「羽を待つ分は、あとから足すんですよね」
「はい。これは、先に届けましょう」
澪は毛布を撫でてから、空いている作業台へ、宰相府から受け取った施設の一覧を置いた。
地名の中には、まだ聞いたこともないものがある。
「農家の希望者は、これから募ってもらいます。六月は、小屋の部材を運びながら、院を回りたいです」
真壁は、以前に農家へ渡した鶏舎の部材見本を出した。
「五十羽用を四つ分。ひと続きにも、分けても置ける形にしよう」
「庭の形に合わせられますね」
澪は作業場の外へ出て、収納から木材を取り出した。
曲がりのある材を靄へ戻すと、中で分け直した成分を、柱や板の形へ揃えていく。
取り出した柱には、横木の端が入る穴が開いていた。
真壁が受け取り、次に出てきた横木を合わせる。
木槌を一度当てると、かん、と乾いた音がした。
「ここまで作って渡せば、現地で寸法を取り直さずに済む」
澪はその隣へ、同じ形の柱を並べた。
理央が一方を支え、真壁が横木を渡すと、実物大の壁の一角が立ち上がった。
「私でも、組めそうです」
「向こうの大工なら、もっと早いよ」
真壁が金具を出し、扉へ蝶番を取り付けた。
理央が開けると、扉は軽く動き、手を離しても傾かなかった。
澪は、子どもたちが卵を取りやすい高さへ、産卵箱を合わせてみる。
「ここを外側から開けられれば、毎回、中へ入らなくていいですね」
「餌を入れる方も、通路に揃えよう」
真壁が箱の向きを変え、澪はその幅に合わせて給餌用の部材を作った。
水の容器を置く台、止まり木、取り外して洗える板を並べるうちに、作業場の前が鶏舎らしくなっていく。
ニャニャミが毛布を片づけて出てくると、出来た入口を覗いた。
「鶏は、まだニャ?」
「七月からです。先に、お家を用意してもらいます」
「羽を取りに行く場所も、増えるニャ」
「育って、肉として売る時には、お願いします」
澪は部材の一組を収納へ戻し、次に作る柱の形を残した。
理央が、空いた場所を掃くための箒を持ってくる。
「お家の方は、これを作っていけばいいんですね」
「はい。組み立ては各地の職人さんにもお願いして」
「そうすると、今度は、中に入る鶏が……」
澪は《生体収納》へ意識を向けた。
養鶏区画では、餌をついばむ群れの向こうで、水場が光っている。
世代交代に使う分だけを選んでいた孵化棚には、まだ空きがあった。
澪は鶏舎に使う木材から、孵化棚の部材も作った。
出来た棚を孵化区画へ送り込み、通路を挟んで何列も並べていく。
今まで区画の端だった所にも、棚の列が続いた。
採卵箱から有精卵を選んで新しい棚へ送り、これから採れる分も続くようにした。
育雛区画の仕切りを奥へ動かし、給餌器と水の容器も間を空けて並べる。
雛が寄り合う場所の向こうに、まだ誰もいない床が広く続いた。
飼料用の大豆とサツマイモの畑にも、新しい畝を延ばす。
採れた大豆の一部を種へ回し、伸びたサツマイモの蔓を切って、隣の畝へ植えた。
飼料と水を補い、時間加速を合わせる。
新しい畝の土が持ち上がり、小さな緑が、奥まで点々とのぞき始めた。
「繁殖を再開します」
殻が並ぶ棚の先では、既に孵った雛が、互いに寄り合っている。
澪がそちらへ意識を移すと、小さな嘴が餌の方へ動いた。
「……前は、二千五百羽で増えすぎだって、言ってませんでした?」
箒を持ったまま、理央が尋ねた。
「言いましたね」
「それで、孵すのを止めたんですよね」
「世代交代の分だけにしました」
澪は育雛区画から、一羽だけを手の上へ出した。
黄色い雛が指の間へ嘴を寄せ、すぐに、ぴい、と鳴く。
「今度は、増やした分だけ、届ける先がありますから」
理央は箒を脇へ立て、雛を覗き込んだ。
「五万羽、かあ……」
細い脚が澪の掌を蹴り、小さな翼が一度開いた。
澪は両手で囲み、理央と一緒に笑った。
「今度は、育ったらお引っ越しですよ」
雛は、差し出された澪の指を、もう一度つついた。