理央が横木を差し込むと、鶏舎の壁の見本が、かん、と鳴った。
澪が反対側を支え、理央は継ぎ目へ残った木くずを払う。
隣の台には、羊毛から作った毛布が重ねてあった。
「この組み方なら、現地の大工さんにも渡せますね」
「はい。あとは、運ぶ時にかさばらないようにしておきます」
澪の収納へ部材が収まっていくと、作業台の向こうまで見通せるようになった。
6月になったら、こうした部材を各地へ届ける。
中へ入る鶏は、7月から順に。
理央は、扉の見本を閉じながら、あの小さな雛を思い出した。
5万羽を配るための仕事をしているというのに、今のところ、目の前にいるのは木材ばかりだった。
「理央ちゃん、午後は出版社でしたね」
「はい。渋谷で、2冊目の打ち合わせです」
「こちらは、もう大丈夫ですよ。行ってきてください」
「ありがとうございます。5万部くらい売れたらいいなあ」
「鶏の数を見すぎですよ」
澪が笑い、理央も木くずを払った手を止めて笑った。
仕事を切り上げると、理央は鞄を取りに戻った。
まだ少し時間があるので、《収納》の中にあるPCで原稿を開く。
画面には、昨夜、書き足した商人の一文が残っていた。
安く仕入れたのだから、安くすれば売れるはずだ。
その下に続く、主人公が値を下げる場面を読み直す。
理央は、値札を替える前に、町の人が品物に触れて去っていく一文を加えた。
高いから手を引くのか、欲しくないから手を引くのか。
主人公は、まだ、その違いを見ていない。
ここを先に気づかせると、その後の失敗がなくなるので、1度書いた返事を消した。
真壁に教わったように、《記憶操作》で取り込んだ本の内容なら、資料を探し直さずに思い出せる。
商売の説明も、好きな小説で客が黙る場面も、頭の中にはある。
けれど、自分の主人公へ言わせてみた1行は、読み返すと妙に立派だった。
今ここで、そんなに分かっていては困る。
理央はその1行も消し、客が去った後で品物を持ち上げる動作だけを残した。
荷は売れなくても、次の町まで運ばなければならない。
机の端に置かれた鶏舎の見本を見て、原稿の荷車にも、まだ積んだままの荷を戻した。
11月の高卒認定に使う問題集をしまい、その手前へ打ち合わせ用のノートを入れる。
18歳になってから調べ始めた運転免許の案内は、今日は鞄の奥へ押し込んだ。
理央は《関門接続》で押入のある侯爵領側の拠点へ移り、そこから押入を抜けてゲンダイへ戻った。
江古田で電車に乗る前に、原稿をもう1度だけ開く。
画面では何度も消した一文を、印刷した紙の上へ、今度は短く書き添えた。
渋谷の通りには、上着を腕に掛けた人が増えていた。
理央が出版社へ着くと、会議室の冷房が、歩いてきた頬へ当たった。
「お疲れさまです。こちらへどうぞ」
南は、前の打ち合わせで直した原稿を広げていた。
向かいにはぽろろが座り、理央を見つけると、スケッチ帳を立てて軽く振った。
「お久しぶり。続き、読んだよ」
「ありがとうございます。今日、相談したいところがあって」
「私もある。あの猫、早く描きたい」
理央が南の隣へ座ると、正面のぽろろは、もう鉛筆を選んでいた。
机の端には、ぽろろが挿絵を描いた第1巻も置かれている。
南は理央の前へ水のグラスを寄せ、原稿へ触れる前に言った。
「先に、お伝えします。2冊目、正式に刊行が決まりました」
理央は、開こうとしていたノートを両手で持ったまま止まった。
「……本当ですか」
「はい。相馬からも、その方針で進めるようにと」
「ありがとうございます!」
声が思ったより大きくなり、理央は少し姿勢を直した。
ぽろろが、こちらへ笑いかける。
「よかったね。じゃあ、思いっきり描ける」
「はい。私も、ちゃんと続きを……」
言いかけて、ノートへ目を落とした。
2冊目の話も、見直しになるかもしれない。
三田にそう言われた時、鞄の中には、このノートが入っていた。
今は、南がその隣へ、理央の書き直した原稿を並べている。
「前回の商談の場面、加筆していただいた方も読みました。あとは、その前後を相談したいです」
「ここ、少し長くなったんですけど」
「ここは増えてよかったと思います」
南が示したのは、主人公が客へ話しかけ、売れない理由を取り違えるところだった。
ぽろろが原稿を覗き、南は何も言われないうちに、そのページを向こうへ滑らせた。
「ああ、この場面ね。荷の山、描ける?」
「お願いします。原稿から商売は抜きませんので」
「それ、編集者がわざわざ宣言しなきゃいけないこと?」
理央は口元を押さえた。
ノートを開くと、前に貼った付箋が剥がれ、机へ落ちた。
南が紙の端で受け止め、そのまま理央のノートへ戻してくれる。
「それでは、売れなかったところから」
「はい。ここは、残したいです」
理央は、今朝書き添えた一文を指した。
ぽろろは、そのページへ残っていた古い付箋を見つけた。
短い字で、『カット』と書いてある。
「これ、南が付けたの?」
「前任です。元の原稿と比べる時に、そのまま残していました」
ぽろろが、付箋の下を読んだ。
「商人の話から、商売を取れって?」
「恋愛の場面を増やしたかったそうです」
「商人、廃業させられてるじゃない。ただの荷物持ちになるわよ」
「恋愛をしながら荷物を運ぶ方にはなれます」
「職業紹介じゃなくて編集して」
南は、理央の加筆したページをぽろろの前へ重ねた。
「こちらでは、ちゃんと売り先を探しています」
「商人でいさせてもらえて、よかったねえ」
ぽろろが、荷車の車輪を描きながら言う。
理央は少し笑ったが、古い付箋に目を戻すと、紙を押さえた指が止まった。
「この後、外の映像の話も出て。私、そっちは断ったんですけど」
「出演を承諾していない件ですね」
南が短く補い、ぽろろの鉛筆が止まった。
「それと、本の話を引き換えにされたの?」
「断ったら、2冊目もどうなるかって……」
ぽろろは付箋を剥がし、自分のスケッチ帳の端へ貼った。
「原稿を人質にしないと、女の子ひとり説得できないんだ。ご立派な男ね」
理央は、うつむきかけた顔を上げた。
「大きな態度は取れたようですけど」
「態度だけでしょ。仕事で勝負できないから、椅子の高さで勝った気になるのよ」
南は、ぽろろが引き寄せた原稿を、そのまま読める向きに直した。
「飯島さんの承諾はありませんでしたし、会社として認めた企画でもありませんでした」
「作家の返事も会社の許可もないのに、偉そうに決定事項だけ増やしたのね」
ぽろろは鉛筆の尻で、剥がした付箋を押した。
「そんなに自分の好きな話にしたいなら、自分で書けばいいのに。偉い人に脅されて主人公が言うこと聞く小説」
「商談の失敗なら、体験を生かせそうですね」
「もう南、黙ってて。私よりひどいこと言ってる」
「原稿の話をしているんですが」
理央は、水を飲もうとしていたグラスを置いた。
先に飲まなくてよかった。
ぽろろは南を睨んだまま、口の端を上げている。
「で、商売を切れって言った本人は、懲戒解雇?」
「会社の判断は、そのように決まっています」
「自分がカットされたのね」
理央の口から、小さく息が漏れた。
止めようとしても、その次に笑いが出る。
「その結末なら、直さなくていいです」
ぽろろがこちらを見て吹き出し、南も鉛筆を置いた。
「では、こちらの原稿は、直したいところを直しましょう」
南の前へ戻ってきたページには、以前に相談した赤字が残っていた。
買う人が少ない理由を、少し先に。
理央はノートを開き直した。
「この仕入れ、主人公は、本当にいい買い物をしたと思っているんです」
「だから、ここで値段を気にするだけだと、後の驚きが弱くなるんですよね」
「はい。布は、悪くないんです」
理央が原稿へ手を伸ばすと、ぽろろも古い付箋を脇へ退け、荷車の絵へ戻った。
「厚手で、丈夫で、いい服になるって買うんです。でも、売りたい町は暑くて。褒めてくれる人はいても、買ってはくれないんです」
理央は、仕入れの場面と、最初に売りに出した場面を並べた。
南は、前回加えた通りの場面を読み直した。
理央が書いたのは、店先で薄い布を選ぶ客と、袖を持ち上げて風を入れる人の様子だった。
「この人たちの服を、主人公だけがちゃんと見ていないんですね」
「安く仕入れられるって聞いて、そっちに夢中になってます」
「では、ここを、買うと決める直前へ持ってきませんか。読者は服装を見ているのに、主人公は布の値段ばかり見ている」
南が紙を入れ替えると、布の安さを喜ぶ主人公の台詞が、その通りの場面のすぐ後ろへ来た。
理央は続けて読み、思わず口を開いた。
「……それ、買っちゃ駄目ですよね」
「でも、買っちゃうんですよ」
ぽろろの鉛筆が、紙を強く擦った。
荷車の上へ、布の束が積まれていく。
厚みのある束を重ね、その前に主人公を小さく描くと、肩から下が荷に隠れた。
「こんな量を、喜んで買っちゃう」
「ちゃんと嬉しそうにしてほしいです。買った時は、本当に」
「いいね。その笑顔が、後で効く」
ぽろろは主人公の口元を描き足し、紙をこちらへ向けた。
理央は笑ってから、その絵へ顔を寄せた。
「主人公、どこですか」
「ここ。荷物をちょっと避けたら見える」
「矢印を入れてはどうでしょう。『主人公はここです』と」
南が、見開きの隅を示した。
「商業小説を捜索活動にしないで」
「失敗の大きさは、一目で伝わります」
「仕事として筋が通ってるのが、一番厄介なのよ」
理央は笑いながらも、荷車の下に描かれた車輪を指した。
「でも、この大きさは欲しいです。売れ残っても、置いて次の町へ行くわけにはいかないので」
ノルドハルムの倉庫で、荷を運ぶ男たちが袋を積み直していた。
自分たちは収納へ入れたが、この主人公は、荷車の場所と運ぶ代金を使い続ける。
「次の町へ運ぶのも、お金がかかります。ここで安くするしかないと思って」
「着るには暑い布なら、安くされても買わないでしょうね」
南の言葉に、理央は原稿の値下げの箇所を丸で囲んだ。
「値段を下げた後で、やっと別の使い道を考え始めます」
「この布、港の荷物に使えそうじゃない?」
ぽろろが荷車の絵の横へ、四角い袋を描いた。
「荷袋、ですか」
「うん。服にすると暑そうでも、こういう物なら、厚さが欲しい」
理央は、袋の口と底の縫い目を見た。
「これなら、欲しい人がいそうです。でも、縫ってもらわないと」
「次は、職人探しですね」
南が、原稿の後半へ紙を重ねた。
「主人公は、第1巻の旅人を続ける方向でいいですか」
「はい。あの少女も一緒に。手帳を持って、また2人で旅をしてほしいです」
理央は、ぽろろが描いた第1巻の少女を、本の頁で開いて見せた。
南は、余白へ短い印を付けた。
「では、用途を見つけるのは、町の人と話す中で。手帳を開いたら答えが書いてあった、とはせずに」
「そこは、主人公に気づいてほしいです」
理央は袋の絵を見ながら、次の場面へ矢印を引いた。
「ただ、加工代がありません。布を買うのに、使ってしまって」
ぽろろは、荷車の前で笑っている主人公を見た。
「あの笑顔で、財布を空にしたのね」
「はい。それで、倉庫も空けてくれって言われます。次の荷が入るので」
「荷物はたっぷり、お金も時間もない。描くのは楽しそう」
ぽろろは荷の前へ椅子を描き、その上で主人公をうつむかせた。
理央は絵へ寄り、椅子の脇を指した。
「ここへ、ケット・シーが来てほしいんです」
ぽろろの鉛筆が、すぐに紙の空いた方へ移った。
「白魔道士をしていた、吟遊詩人の子ね」
「はい。三毛で、小さなハープを持っていて。主人公が顔を上げる前に、弦が鳴る音がするんです」
理央は、レイニャが旅鞄と手琴を持って、初めて近づいてきた時の姿を思い浮かべた。
呼ばれた所へ行くだけなら、あの人は、元の仕事を続けていたかもしれない。
「頼まれて助けに来るんじゃなくて、自分で来てくれる子にしたいです」
「その港で、歌っていたことにする?」
「いいですね。倉庫の人とも顔見知りで、旅の商人が困ってるって聞いて」
「初登場がここだと、ちょっと都合よく見えます。途中で1度、2人と会う場面を入れましょう」
南が、原稿前半の宿の場面を示した。
「この辺りで演奏していたら、主人公も覚えていられます。あの手琴だ、と分かるくらいに」
「少女が、手帳に名前を書いていてもいいですね」
理央が書き足す間に、ぽろろの鉛筆は、手琴を抱えた腕を描いていた。
「駆けつけたら、この子は何をするの?」
「知り合いの職人さんのところへ、主人公を連れて行きます」
「この人なら袋を縫える、って?」
「はい。でも、ただで作ってくれる人ではないです」
「よかった。2冊目も、主人公の職業が残りました」
南が原稿へ印を付けると、ぽろろが顔を上げた。
「まだ前の編集者を殴ってるの?」
「主人公の活躍についてです」
理央は笑い、職人と会うページへ、もう1つ印を付けた。
「職人さんに作れる形を聞いて、買い手と相談します。加工代は先に出してもらって」
「初対面の主人公に、預けてくれるかしら」
「そこが難しくて。嫌がられたら、職人さんへ直接払ってもらう形で、話を進めたいです」
南は、余白へ『完成した荷袋を買う約束』と書き添えた。
「主人公が、その約束を取りに行くんですね」
「はい。猫の子は職人さんを紹介してくれますけど、商談は主人公に頑張ってもらいます」
「で、あの山が消える?」
「いえ、買ってもらえる分だけです。残りを売る先も、探さないと」
「荷物持ちの仕事も続くのね」
ぽろろは、荷車の車輪を濃くした。
「倉庫の期限に間に合うよう、使う布を職人へ渡すところも書きましょう」
南が原稿へ印を付けた。
理央は主人公が交渉へ出る場面に、短い書き込みを加えた。
頼める相手が分かれば、もう、座っているだけではいられない。
「少女の手帳には、ここで約束した日を残します。誰に、何を頼んだかも」
「あの2人らしいね」
ぽろろは、差し出す手の位置を描き直した。
抱えている手琴は背後へ残し、空いた手が主人公の前へ伸びる。
理央は紙へ目を寄せた。
「その手、いいです」
「持ち上げて運んではあげないけど、立つなら貸すよ、って感じ?」
「はい。引きずられていくんじゃなくて、主人公が自分で立ってほしいです」
ぽろろは、その返事を聞くと、紙の上の手を濃くした。
南が前後の原稿を重ねると、ぽろろは、その厚みを横から見た。
「こうしてると、大学の時の作品集を思い出す」
「あれよりは、薄いですよ」
「比較対象を間違えてるの。あれ、最初は薄い冊子の予定だったんだから」
理央は、原稿へ書きかけていた文字を止めた。
「同じ大学だったんですか?」
「そう。同じ創作サークル。私は絵で、南は人の原稿を読んでた」
「最初は、自分でも書いていたんですよ」
「すぐ人の原稿の続きを欲しがるようになってたけどね」
ぽろろは話しながら、ケット・シーの足元へ、走ってきた勢いを描き加えていく。
「学園祭で、みんなの小説と絵を載せた本を売ろうってことになって」
「学園祭で、本を?」
「うん。私たちのサークルで作って、教室に机を出して。最初は、手に取ってもらいやすい薄さにするはずだったのよ」
南が、自分の前の原稿を軽く揃えた。
「どれも、削りたくなかったんです」
「で、厚さが3倍になった」
理央は思わず、目の前の紙束を見た。
「3倍……」
「原稿は、全部載りました」
「その代わり、製本機に入らなくなりました」
ぽろろが、南と同じ丁寧な言い方をした。
南は小さく頷く。
「厚みの上限がありましたね」
「あんたにはなかったけどね」
理央は笑い、それから、また南の前の紙束を見た。
「それで、どうしたんですか?」
「紙と印刷にお金を回したら、外で綴じてもらう余裕もなくなって。みんなで手で綴じたの」
「表紙の折り目を付けるのも、だんだん上手になりました」
「私の指と、引き換えにね」
ぽろろが左手の親指を立てる。
爪の脇には今も、鉛筆の黒い粉が少し付いていた。
「表紙を折って、背を揃えて、次の束。終わったと思ったら、机の下から、まだ綴じてない分が出てくるのよ」
「途中から、別のサークルの人にも手伝ってもらいました」
「呼びに行ったら、『今から何の打ち上げ?』って。打ち上がる前の本が山積みだったんだけど」
「皆さん、来てくださいましたね」
「あんたの説明が『ちょっと本を作ってて』だったからでしょ。ちょっとの単位が原稿用紙なのよ」
理央は、とうとうペンを置いた。
「南さん、大学時代からそうなんですか!?」
「何がでしょう」
「そこまで、ですか?」
ぽろろが南へ突っ込み、南は首を傾げたまま笑った。
「でも、出せたんですよ。学園祭の朝に、机へ並べられました」
「機械は定時で帰って、私たちは徹夜したけどね」
「本は、売れたんですか」
「手に取ってくれた人、いたよ。表紙を見てくれたり、中の小説を読んで、書いた人を呼んでって言ってくれたり」
ぽろろは、スケッチ帳へ向けていた顔を少し上げた。
「その時だけは、指が痛いの忘れた」
「戻ってきたあと、また痛がっていましたけど」
「覚えてなくていいところばっかり覚えてるんだから」
理央は、自分の第1巻へ目をやった。
初めて、本を読んだと言われた時のことを思い出す。
「書いた人も、その場にいたんですね」
「ええ。自分の本を誰かが買っていくところも、見られました」
「学部の違う子もいたし、学年もばらばらだったよ。原稿を書きながら授業へ行って、終わったらまた集まって」
「手伝ってくれた人も、知り合いだったんですか」
「友達の友達、とか。その日に初めて喋った子もいた」
ぽろろは鉛筆を持ち替え、ケット・シーの手琴に弦を引いた。
「帰りに肉まんを買ったの。温かくてさ。もう指が動かないから、持つだけで精いっぱいで」
「本の続きを、そこで聞かせてもらったんです」
「徹夜させた相手に、まだ続きを要求したのよ、この人」
「続きがなかったら困る終わり方だったので」
南は、申し訳なさそうな顔をしていなかった。
理央は笑いながら、もう1つ尋ねた。
「次の年は、どうしたんですか?」
「また作りました」
南が先に答えると、ぽろろは、今度は否定しなかった。
「今度はちゃんと、製本まで考えたよ。本文は増えたけど」
「ぽろろさんの絵も増えました」
「描いたよ。そりゃ、続きが来たら、描くでしょ」
ぽろろの鉛筆が、主人公の前へ伸びた手の輪郭を、もう1度なぞった。
「いまだに、その時の先輩から言われるんだよね。今度の本は手で綴じなくていいのか、って」
「本を送ると、いつも言われます」
理央は返事をする前に、2人の顔を見比べた。
「今も、本を送ってるんですか」
「ええ。読んでもらいたいですから」
南が答える横で、ぽろろは、描き終えた手の先から鉛筆を離した。
「理央ちゃん。こんな感じ、どう?」
ぽろろが、スケッチ帳を机の中央へ出した。
左腕で小さなハープを抱え、三毛のケット・シーが、座った主人公へ手を差し出している。
頬の毛がふくらみ、短い鼻先が、わずかに上がっていた。
足はまだ前へ踏み込んだ形で、片方の耳が主人公の方へ向いていた。
理央は、紙の上の手をじっと見た。
さっき話していた間にも、鉛筆の線は増えている。
レイニャが、あの調子で相手の前へ回り込む姿が浮かんだ。
「……この子です」
「来てくれた?」
「はい。ちゃんと、助けに来てくれました」
理央は、原稿の余白へ短い台詞を書いた。
「『来るニャ。話を聞いてくれる人なら、知ってるニャ』って言ってほしいです」
「じゃあ、その言葉のあとで立つんだね」
ぽろろが、主人公の肩の向きを少し変えた。
手を取った後、どちらへ歩き出すのかが見える。
「この絵を、前の荷の山と対にしたいです」
南は、主人公が埋もれていた方のラフを隣へ置いた。
「こちらでは荷に隠れて、こちらでは、相手の手へ顔を上げる」
「挿絵の間で、だいぶ苦しんでもらうことになるね」
「書きます。立ってからも、商談を頑張ってもらいます」
理央は、職人へ話を聞く場面へ印を付けた。
南が、前半の通りのページを引き寄せる。
「服装の場面に、荷を袋へ詰めている人の姿も、1つ置けませんか。買い物をしている人の向こうで、仕事をしているくらいに」
「あ。主人公が、後で思い出せますね」
「はい。その時は布を服にすることしか考えていないので、見えていても気に留めない。後で、あそこにも布があった、と」
理央は、今朝書いた一文を読み直した。
品物に触れて去っていく客の後ろへ、袋を抱えて通る人を書き加える。
ぽろろは、荷袋の絵をラフの隅へ小さく残した。
「ここの使い方は、絵でも分かるようにするね。縫ってある形も」
「ありがとうございます。加工代と、支払いの場面は、帰ったらもう少し書いてみます」
「少女の手帳も、その時に出しましょう。2人で約束を持って帰る場面が欲しいです」
「はい。あの子も、商談が決まって、喜んでほしいです」
理央がノートを閉じようとすると、挟んでいた付箋が、また少し浮いた。
今度は自分で貼り直し、出来たラフの横へ置く。
南は次に読ませてほしい箇所を示し、理央はそのページを折らずに、別の付箋を付けた。
「表紙も、これから相談していきましょう」
「はい。楽しみです」
言ってから、理央はもう1度、2つの絵を見た。
「この主人公、最初にいい買い物したって、あんなに笑ってるんですね」
「うん。描いてる私まで、止めたくなった」
ぽろろが笑い、理央も、荷に埋もれた小さな顔を見て笑った。
会議室を出る時、ぽろろはスケッチ帳を鞄へしまいながら、南へ言った。
「今度、あの本持ってくるね。理央ちゃんにも見せたいし」
「どちらの年のですか」
「あんたが反省しなかった方」
「どちらでしょう」
「自覚があるなら、反省して」
理央は2人の後ろで、また笑った。
外へ出ると、建物の冷房に慣れた腕へ、夕方の風がぬるく触れた。
駅まで歩く間に、鞄の中の原稿を1度、押さえる。
2冊目が出る。
商談の失敗も、あの荷の山も、手を伸ばしてくるケット・シーも、ちゃんと書ける。
電車に乗って席へ着くと、理央はノートを開いた。
加筆する場所は、幾つもある。
けれど、ペンを出そうとした時、ぽろろが指を立てていたところを思い出した。
表紙を折って、背を揃えて、また次の束。
夜通し手を動かしたのに、次の年も作ったという。
理央は窓に映る自分の顔を見て、つられて緩んだ口元を、ノートで少し隠した。
あの作品集も、見せてもらえる。
本文も挿絵も、どんなものだったのだろう。
理央は原稿のページを開いたまま、降りる駅を知らせる声で顔を上げた。
「おかえりなさい。どうでした?」
江古田の押入商会へ戻ると、澪が机から顔を上げた。
「2冊目、正式に決まりました!」
「よかったですね、理央ちゃん!」
理央は鞄を置くなり、ノートを広げた。
「それと、南さんとぽろろさん、大学の時から友達なんです」
「そうだったんですか」
「学園祭で本を作って、ページを増やしすぎて、製本機に入らなくなって。みんなで手で綴じたんですって」
澪が笑うと、理央もつられて、さっき聞いた話を続けた。
「徹夜で綴じたのに、次の年も作ったそうです」
「ふふ。2人の本、読んでみたいですね」
「今度、持ってきてくれるそうです」
理央は、閉じかけていたノートを、もう1度、机へ開いた。
「澪さん、前に、大学生活も楽しいって話してくれましたよね」
「はい」
「授業のあとも、あんなふうに、一緒に何か作ったりするんですね」
「そういう出会いもありますよ。学部の違う人と話す機会もありますし」
理央は、ノートの端に付いた折れ跡を指で伸ばした。
「2人とも、ずっと文句を言ってるのに、すごく楽しそうだったんです」
澪は答えを急がず、理央が次に話すのを待っていた。
「11月の高卒認定は、予定どおり受けます。そのあと……大学、行ってみたくなりました」
「南さんたちの話、もっと聞きたくなりました?」
「はい。次の年の本も見たいし、あの時の小説の続きが、今どうなってるのかも」
理央は鞄から問題集を取り出し、原稿の隣へ置いた。
「では、私の大学の話も、またしましょうか」
「聞きたいです。授業の話も、それ以外も」
理央は原稿へ目を戻した。
ぽろろの絵で見た手の向きを思い出し、ノートへ『来るニャ』と書く。
そのすぐ下の行へ、主人公の返事を足した。