押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第446話 西へ、西へ

 

 朝の陽が梢に届いても、ウンディルート大森林の底には、夜の冷気が残っていた。

 

 苔を被った倒木が重なり、その間に溜まった水へ、葉の先から雫が落ちる。

 

 木々の奥には薄い靄が流れ、湿った土と腐りかけた葉の匂いが漂っていた。

 

 その倒木を、老人が跨いだ。

 

 白い髪を後ろで束ね、色褪せた着物に古い外套を重ねている。

 

 腰には反りのある刀を差し、足には、緒を幾度も継いだ草鞋を履いていた。

 

 弥兵衛という。

 

 78になる老人の歩幅は大きくなかったが、足場を選ぶたびに立ち止まることもなかった。

 

 倒木へ足を載せ、重みを預ける前に、爪先で腐り具合を探る。

 

 沈むと分かれば、そのまま根の張った方へ渡った。

 

 外套の裾を引いた棘だけは、手で外してやらねばならなかった。

 

「よう引き留めるのう」

 

 布を離された枝が戻り、溜めていた雫を首筋へ落とした。

 

 弥兵衛は襟の中へ指を入れ、それから髭を撫でた。

 

 東からこの森へ入り、幾つもの谷と尾根を越えてきた。

 

 木々の隙間に日を見つけても、そこへ着く頃には陽が移り、また暗い枝の下を歩いている。

 

 頭上で広く枝を張った木の根元へ寄り、弥兵衛はようやく腰を下ろした。

 

 草鞋を脱ぐと、爪先の間から湿った葉が落ちた。

 

 緒を緩め、編み目へ入った小石を押し出す。

 

 切れそうな所はなかった。

 

 東の国を出た時には、こんな継ぎ目はなかったはずだ。

 

 今では、どこまでが初めからあった藁なのか、自分でもすぐには分からぬ。

 

「よく働いてくれる」

 

 指で泥を落とし、草鞋を木の根へ伏せた。

 

 懐から干し肉を出し、端を噛み切ろうとしたが、なかなか千切れなかった。

 

 細く裂いて口へ入れると、今度は噛むほどに筋が残る。

 

 弥兵衛は黙って噛み、竹筒の水で喉へ送った。

 

 獣の肉にはずいぶん世話になってきた。

 

 旨いものもあったし、口へ入れてから長く後悔したものもある。

 

 腹に入れば同じだと、若い頃には思ったものだった。

 

 近頃は、食えると分かっていても、もう少し何とかならぬかと考えてしまう。

 

「汁のあるものが、食いたいのう」

 

 答える者はいなかった。

 

 代わりに、高い枝で鳥が鳴いた。

 

 口に残った筋を噛みながら、弥兵衛は木々の奥を眺めた。

 

 風が通ると、枝の向こうから微かな匂いが来た。

 

 腐葉土でも、獣の体臭でもない。

 

 木を燃やした匂いだった。

 

 顔を上げて待っていると、もう1度、細く鼻へ届いた。

 

「……人がおるか」

 

 弥兵衛は竹筒へ栓をし、残りの干し肉を包んだ。

 

 草鞋を履き直し、立ち上がった時、鍔元でかすかな音がした。

 

 親指で鍔を押すと、遊びが指の腹へ伝わってくる。

 

 刀を鞘に収めたまま、柄を据え直した。

 

 火を借りられる所があればよい。

 

 もう1度匂いを探したが、風はすでに向きを変えていた。

 

 弥兵衛は外套を払い、西へ向き直った。

 

 探しているものへ、どれほど近づいたのかは分からない。

 

 東へ引き返す用はなかった。

 

 木の根の間へ足を下ろすと、草鞋の裏で小枝が鳴った。

 

 さっきまで応じ合っていた鳥の声が、そこで途切れた。

 

 弥兵衛は、次の足を出さなかった。

 

 右手の茂みで、落ち葉が擦れている。

 

 風が止まっても、その音だけは続いていた。

 

 少し離れた所から、もう1つ。

 

 そして左の幹の向こうで、枯れた枝が折れた。

 

「……3匹か」

 

 弥兵衛は右手を外套から出した。

 

 柄を握る前に、指をゆっくり曲げ伸ばしする。

 

 太くなった節に、木漏れ日が当たっていた。

 

 あの頃の師匠の指も、こんなふうに節が張っていた。

 

 木刀を握る手を、ずいぶん大きなものだと眺めた覚えがある。

 

 自分の手もいつかああなるとは、考えもしなかった。

 

 13の頃、初めて握った木刀は、両手を寄せても長く余ったものだった。

 

 朝露に濡れた庭で振っていると、柄が滑った。

 

 落とすまいと握り締めるたび、掌の破れた皮が擦れた。

 

「何を斬っておる」

 

 背後から、師匠に訊かれた。

 

「敵でございます」

 

「どこにおる」

 

 少年は答えられなかった。

 

 誰もいない庭の向こうへ、木刀を構えているだけだった。

 

 師匠は1本の木刀を拾い、目の前へ立った。

 

 その切先を見たところまでは覚えている。

 

 次に覚えているのは、額の痛みと、土の上へ尻をついていたことだ。

 

「立て」

 

 師匠は笑わず、木刀の先で土を指した。

 

 落とした木刀を拾うと、柄へ砂が付いていた。

 

 掌の傷へ砂が擦れ、顔をしかめたのを見られまいとして、下を向く。

 

「もう1度、お願いいたします」

 

 構え直した時には、さっきの痛みをまだ額に感じていた。

 

 何度やっても同じだった。

 

 木刀を見る間に打たれ、肩が動くのを待っても打たれた。

 

 早く踏み込めば届くと思った時には、踏み出す足の前へ、師匠の木刀があった。

 

 65年経った今も、あの時の木刀は覚えている。

 

 自分でも刀を振り、教える立場になってからも、ふいに思い出すことがあった。

 

 弟子の前で振った1本が、あの木刀と同じだったかと訊かれれば、うむとは言えぬ。

 

 弥兵衛は右手を柄へ添えた。

 

 使い慣れた柄へ、指が収まった。

 

 右の茂みが揺れた。

 

 濡れた鼻が出てきて、その上に、黄色い目があった。

 

 太い前脚が落ち葉を踏む。

 

 肩の高さだけで、弥兵衛の胸ほどもある狼だった。

 

 口元から長い牙が出ているのに、脇腹には肋が浮いていた。

 

 少し後ろの幹からも1匹、さらに左の茂みから1匹が出た。

 

 どれも痩せ、腹の後ろが細くくびれている。

 

「腹が減っておるのか」

 

 正面の狼が、喉を鳴らした。

 

「わしもじゃ」

 

 弥兵衛の口元は緩んだが、柄へ置いた手は動かなかった。

 

 狼の鼻が、弥兵衛の懐へ向いた。

 

 干し肉の匂いでも残っているのか、鼻先を上げ、短く息を吸い込んだ。

 

 その下で、歯に掛かった唾が切れた。

 

 狼の目は、こちらの喉を見ている。

 

 正面を塞いだ1匹の足元で、影が広がり始めた。

 

 木々の影は、斜めに落ちていた。

 

 狼の腹の下から伸びた黒いものは、その向きと合わない。

 

 濡れた葉を覆い、木の根を越え、こちらへ広がってくる。

 

 弥兵衛は、狼の目から、その肩へ目を移した。

 

 右の1匹が幹の陰を回り、もう1匹は、頭を低くして離れていく。

 

 弥兵衛は追って顔を動かさず、正面の狼を見ていた。

 

 正面の狼の背が、すうっと低くなった。

 

 前脚を折ったわけではなかった。

 

 太い肩も、開いていた口も、足元の黒さへ沈んでいく。

 

 弥兵衛は瞬きをしなかった。

 

 毛の逆立っていた背が消え、黄色い目が見えなくなった。

 

 そこには、爪に掻かれた落ち葉だけが残った。

 

 右の狼が、鼻を鳴らした。

 

 そちらへ向けかけた顔を、弥兵衛は止めた。

 

 木の葉は動いていない。

 

 枝も、揺れていなかった。

 

 狼が消えた所からは、足音がしない。

 

 背後で、濡れた落ち葉が1枚、潰れた。

 

 弥兵衛は振り向かなかった。

 

 右の狼の耳が、老人の背後へ向く。

 

 外套の背が、ふわりと押された。

 

 鯉口を切った。

 

 腰を沈め、身を開くのと、鞘を引くのがひと息だった。

 

 左肩を越しかけた狼の喉を、刃が横切った。

 

 柄へ短い重みが伝わり、すぐに抜けた。

 

 重い胴が地を打ち、落ち葉が跳ねた。

 

 狼の前脚が土を掻き、伸びた爪が、木の根へ当たって止まった。

 

 弥兵衛の刀先は、その上を通り過ぎ、もう低い所にあった。

 

 右の狼が、前脚を踏ん張った。

 

 もう1匹も、幹を回りかけた所で止まっている。

 

 弥兵衛は刀を持ったまま向き直った。

 

 足元の狼の口は開いていたが、腹は動かなかった。

 

「まだ、やるかの」

 

 低く問い掛けると、右の狼が牙を剥いた。

 

 その後ろでは、もう1匹が、後脚を引いていた。

 

 刀から垂れた血が、枯れ葉へ落ちる。

 

 牙を剥いていた狼の鼻が動いた。

 

 こちらへ出しかけた足が戻り、今度は、倒れた仲間を見る。

 

 弥兵衛はその前へ踏み込まず、刀先を下げた。

 

 獣の向こうには、来る時に使った茂みがある。

 

 そこを塞がずに、体を半分開けてやった。

 

「行け」

 

 先に後退していた1匹が、幹の向こうへ姿を消した。

 

 残る1匹はまだ牙を見せていたが、弥兵衛が動かずにいると、やがて口を閉じた。

 

 腹の下へ黒いものを引き寄せ、こちらを見たまま下がっていく。

 

 身を翻したあとには、揺れる草と枝が残った。

 

 弥兵衛は刀を返した。

 

 狼が消えた所へ、もう1度だけ目をやる。

 

 まだ、ああいう手を持つものがおる。

 

 刀の背へ布を当て、血を拭った。

 

 刃に欠けはない。

 

 鞘へ戻すと、鍔元で、小さな音がした。

 

 親指で押して、その音を止める。

 

 師匠なら、今の狼を、どこで斬ったろうか。

 

 そんなことを考えていると、腹が鳴った。

 

 弥兵衛は息をつき、倒れた狼の脇へ屈んだ。

 

 近くで見れば、毛の下の骨がなおさら目につく。

 

「お主も、よう歩いてきたようじゃな」

 

 胴へ手を置くと、靄が黒い毛並みを包んだ。

 

 狼の姿が消え、重みを失った落ち葉の端が、風にめくれた。

 

 弥兵衛は立ち上がり、指に付いた土を払った。

 

 外套を払い、腰の刀を据え直す。

 

 枝の高みで、鳥が鳴き始めている。

 

 その向こうから、もう1度、細い煙の匂いが来た。

 

 鼻先へ届いたものを追い、弥兵衛は木々の間へ顔を向けた。

 

「今度は、人の作った飯にありつきたいものよ」

 

 西へ向けた草鞋が、落ち葉を踏んだ。

 

 

 

 かん、と音がした。

 

 弥兵衛は、斜面を下りかけていた足を止めた。

 

 続いて2つ、間をあけて、もう1つ。

 

 鳥の声とは違う、鉄を打つ音だった。

 

 茂みを回り込むと、風に炭の匂いが乗ってきた。

 

 葉の隙間に見えていた空が広がり、足元の草にも陽が当たっている。

 

 弥兵衛は最後の枝を押し分け、外套を引っ掛けぬよう身を屈めてくぐった。

 

 目の前には、低い柵に沿って畑が続いていた。

 

 畝の間で人が腰を曲げ、遠くの屋根からは細い煙が上がっている。

 

 土を返したばかりの匂いが、森の湿った匂いに替わった。

 

 弥兵衛は眩しさに目を細め、外套の襟を緩めた。

 

 槌音は、屋根の集まりの端から聞こえてくる。

 

 重いものを延ばしているにしては、響きが軽い。

 

 耳を傾けていると、打つ間隔が変わり、最後の数打は短く続いた。

 

 刃先でも整えておるのか。

 

 弥兵衛がそちらへ足を向けると、柵の陰から子どもが飛び出した。

 

「止まれ! あんた、誰だ!」

 

 木の枝を両手で握り、胸の前へ突き出している。

 

 もう1人は柵の内側に残り、枝を背中へ隠した。

 

 2人の踵には土が付き、先に出てきた子の袖には、折れた葉が貼り付いていた。

 

 弥兵衛は、子どもの枝が届くより手前で止まった。

 

「弥兵衛と申す。東から来た旅の者じゃ」

 

「東って、あの森から?」

 

「左様」

 

「嘘だ。魔獣がいるんだぞ」

 

「おるのう。つい先ほども、狼が3匹で襲うてきたわい」

 

 柵の内側にいた子も、顔を出した。

 

「逃げてきたの?」

 

「逃げはせなんだ。向こうが引いてくれた」

 

「そんなわけないだろ。爺さんなのに」

 

 弥兵衛は、自分の白髭へ手をやった。

 

「これは、どうにも隠せぬな」

 

「ところで、こちらは、もうヴェルデンの国かの」

 

「そうだよ。ヴァルディス侯爵様の土地だ。知らなかったのか?」

 

「では、ようやく抜けたか」

 

 弥兵衛が森を振り返ると、子どもも幹の間を覗いた。

 

 枝を下ろしかけ、途中でまた持ち上げる。

 

 今度は、弥兵衛の腰を見ている。

 

「それ、本物の剣か?」

 

「刀という」

 

「見せてよ」

 

 1歩近づいた腕を、後ろの子が引いた。

 

「やめろよ。枝じゃないんだぞ」

 

 弥兵衛は柄に触れようとはせず、腰の鞘を着物の袖で覆った。

 

「抜かぬ方がよい。お主らの枝とは、遊ばせてやれぬ」

 

「分かってるよ。そのくらい」

 

 握った枝の皮を爪で剥がしながら、その子は答えた。

 

 鍛冶の音が、また続き始める。

 

「時に、あの槌は、どなたが打っておられる?」

 

「村の鍛冶屋のおっちゃんだ。鎌でも直してもらうの?」

 

「火と金床を借りたいのじゃが」

 

「金床?」

 

 弥兵衛が音のする方を見れば、子どももそちらを向いた。

 

「ああ、あの鉄の台。爺さんも打つのか」

 

「少々な。鍛冶屋まで、案内を頼めるかの」

 

「いいよ。こっちだ」

 

 子どもは枝を肩に担ぎかけ、弥兵衛を振り返った。

 

「畑には入るなよ」

 

「承知した。お主について行こう」

 

 先に立つ子の枝が、ぴんと上がった。

 

 弥兵衛はその後ろへつき、柵の間を抜けた。

 

 後ろの子が弥兵衛を見上げ、先に行った相手を見て、それから小走りに続いた。

 

 弥兵衛は、踏み固められた細い道へ入った。

 

 耕した土は柔らかそうで、脇へ寄ると草鞋が沈みそうになる。

 

 道の曲がり角で待っていた子が、黙って下を指した。

 

「おお、すまぬ」

 

 森とは、足を置く所が違う。

 

 狭い道へ戻ると、子どもは満足したように、また歩き出した。

 

 槌音が大きくなるにつれ、炭の匂いが濃くなった。

 

 家の脇には、刃を布で包んだ鎌や、柄を抜いた鍬が立て掛けられている。

 

 開け放した戸口の奥で、橙色の火が揺れていた。

 

「おっちゃん! 森から爺さんが来た!」

 

 子どもの声に、槌が止まった。

 

 弥兵衛は、戸口に掛かる枝の剣の影を越し、土間へ声を掛けた。

 

「仕事中、相済まぬ」

 

 炉の前にいた男が、火箸で鎌を持ち上げた。

 

 刃を脇の台へ置いてから、弥兵衛の足元と腰を見た。

 

「鎌の直しなら、そこの壁へ。今日のうちにってのは、難しいぞ」

 

「頼みたいのは、炉と金床の方でな」

 

 男は、弥兵衛の背後にいる子どもへ顔を向けた。

 

「もう帰れ。ここで枝を振り回すなよ」

 

「振ってないってば」

 

 枝を握った子が踵を返し、もう1人も小さく手を振った。

 

「2人とも、世話になった。よい所へ案内してもろうた」

 

 弥兵衛が頭を下げると、先に立っていた子も足を止めた。

 

「帰りも、あの道だからな」

 

「うむ。よう覚えた」

 

 2人は並んで、柵の間を駆け戻っていった。

 

 炉へ風が入り、炭の小さな火が弾ける。

 

 壁には大小の槌が掛かり、棚の下には、折れた刃や短い鉄片が分けて置かれていた。

 

 煤けた梁の下を通ると、弥兵衛の頬へ炉の熱が届いた。

 

「ここは村の鍛冶場だ。武器の工房じゃねえ」

 

「承知しておる。しばし使わせてもらえぬか」

 

「何を……待て。その腰の剣、見せてもらえるか」

 

 男の目は、外套の脇から出た柄に留まっていた。

 

「刀じゃ。構わぬが、刃に気をつけられよ」

 

 弥兵衛は戸口を背にせぬ位置へ移り、男が寄るのを待って刀を抜いた。

 

 刃先を人のいない方へ向け、外から入る光へ傾ける。

 

 地鍛冶は、腰の布で指を拭いた。

 

 触れずに顔を近づけ、反りに沿って首を動かすと、今度は背の厚みを覗いた。

 

「何だ、これは」

 

 弥兵衛は返事をせず、光の当たり方を変えてやった。

 

 地金に沈んでいた筋が、刀身の中ほどへ浮かぶ。

 

「鉄だけじゃないな。こういう筋の出方は、見たことがねえ」

 

「魔物の素材を、鉄へ合わせて打ってある」

 

「魔物を?」

 

 鍛冶屋は、柄へ戻りかけた目を、もう1度刀身へ走らせた。

 

「どこの職人に打たせたんだ」

 

「わしじゃよ」

 

 炉の炭が崩れた。

 

 男は顔を起こし、弥兵衛の指の節を見た。

 

「……いや、俺には無理だ。どこをどう直しゃいいのか、分からねえ」

 

「言葉が足りなんだな。わしも鍛冶の技を持っておる。手を入れるのは、わしじゃ」

 

「自分で直すのか」

 

「うむ。火と金床を貸してもらいたい」

 

 弥兵衛は刀を鞘へ戻し、鍔を押した。

 

 かち、と薄い音がする。

 

「ここの当て物が痩せた。作り替えれば、それで済む」

 

 男は、柄元を横から覗き込んだ。

 

「その薄い金具か。刃を火に入れるわけじゃねえんだな」

 

「こいつを焼き直しては、旅が続けられぬよ」

 

「貸せと言われてもな。俺の商売道具だ」

 

「もちろん、ただとは申さぬ」

 

 懐の小袋を開き、弥兵衛は浅い皿へ砂金を出した。

 

 煤で曇っていた皿の上へ、小さな粒が転がる。

 

 男は皿を見下ろし、次に小袋を見た。

 

「……それを、貸し賃に?」

 

「足りぬなら申されよ」

 

「逆だよ、爺さん」

 

 鍛冶屋は皿を寄せ、その中から1粒を摘まんだ。

 

「ここまででいい。残りはしまえ。炉ごと売るんじゃねえんだから」

 

「それでよいなら、ありがたい」

 

「炭と、そこの端材は使っていい」

 

 弥兵衛は、台に置かれた鎌を見た。

 

「そちらを先に済ませてくだされ。わしは待てる」

 

「急ぎじゃねえのか」

 

「日が落ちるまでに収まればよい」

 

「悪いな。これ1本、済ませちまう」

 

 男は受け取った粒を小箱へ入れ、蓋をした。

 

 弥兵衛は残りを袋へ戻すと、戸口の脇で外套を脱いだ。

 

 畳む時に乾いた葉が落ちたので、拾って外へ出す。

 

「ずいぶん、森を付けてきたな」

 

「途中で払うたはずなのじゃが」

 

「肩にもあるぞ」

 

 教えられた所を払うと、枝の切れ端まで落ちてきた。

 

 弥兵衛は苦笑し、外套を邪魔にならぬ棚の端へ置いた。

 

 鍛冶屋がふいごを引き、炉へ顔を戻した。

 

 鎌の先には、巻き込んだような歪みがあった。

 

 男はそこを熱し、金床へ運ぶと、刃の根元を浮かせながら先だけを打った。

 

 弥兵衛は、水桶から離れた所で、その手元を見ていた。

 

 槌を振り上げる高さが、打つ箇所で変わる。

 

 最後に刃を横から眺め、火箸の角度を変えて、もう数打。

 

 森の中で聞いた音は、これだったのだろう。

 

「根でも噛んだのかのう」

 

「石だとさ。持ってきた奴は、隠れてたって言い張ってたが」

 

「畑の石は、なかなか姿を見せぬからな」

 

「そういう時だけな」

 

 男は鎌を台へ置き、金床の空いた側を示した。

 

「よし。こっちを使え。小槌なら、上の段だ」

 

 弥兵衛は袖をたくし上げ、柄の擦れた槌を棚から取った。

 

 

 

 弥兵衛は、布を敷いた台へ刀を置いた。

 

 柄を留める栓を外し、柄と鍔を抜くと、その間に挟んでいた金具が取れた。

 

 端を指で撫でれば、長く擦れてきた所だけが薄い。

 

「こいつだけ替えるのか」

 

 弥兵衛は金具を男へ見せ、それから端材の籠へ屈んだ。

 

「これを、少し分けてもらいたい」

 

「ああ。それなら使い切っていい」

 

 手に収まる端材を火箸で挟み、炉へ入れる。

 

 ふいごを送ると、炭の中で火が伸びた。

 

 弥兵衛は足元の槌を寄せ直し、金床の面に付いた細かな欠片を払った。

 

 背後で、鎌の柄が台へ触れる音がする。

 

「近頃は、こっちも畑の道具ばかりだ」

 

 振り返ると、男は直した鎌へ柄を合わせていた。

 

「外にあるものもかの」

 

「あれだけじゃねえ。持ってくるのはいいが、明日には使うって言い出す。もっと早く寄越せってんだ」

 

「使っておるうちは、具合の悪い所も忘れるでな」

 

「爺さんも同じ口か」

 

 弥兵衛は、外した金具を見た。

 

「面目ない」

 

 男が笑い、鎌の柄を膝へ乗せた。

 

 炉の中で色づいた端材を引き出し、弥兵衛は金床へ運んだ。

 

 最初の槌が、短く鳴る。

 

 端から少しずつ延ばしていくと、余った厚みが外へ逃げ、丸みを帯びていた面が平らになった。

 

 薄くなった端を火へ戻し、今度は向きを替える。

 

 鎌を置いた男が、金床の脇へ寄った。

 

 弥兵衛の槌が止まったところで、火箸を渡してきた。

 

「その幅なら、こっちの方が挟みやすい」

 

「おお。ありがたく」

 

 持ち替えた先で金具を返すと、槌を下ろしても、材が横へ逃げなくなった。

 

 最後の膨らみを均し、弥兵衛はそれを台の端へ置いた。

 

 鍛冶屋は、空いた金床へ鍬の刃を運んだ。

 

「畑を広げる家もあるからな。直すだけじゃ追いつかねえ」

 

「何を植えるのじゃ」

 

「サツマイモだの、大豆だの。前は聞きもしなかった名を、畑で聞くようになった」

 

「サツマイモとは、どう食うのじゃ」

 

 弥兵衛が尋ねた時、鍛冶屋の槌が鳴った。

 

「何だって?」

 

「芋の食い方じゃ」

 

 男は鍬を打ち終え、弥兵衛へ顔を向けた。

 

「焼くと甘いそうだ。俺はまだ食ってねえ。苗を入れた家の奴が、楽しみだって言ってたな」

 

「甘いとな」

 

「領都の店なら、もう売ってるかもしれん」

 

 弥兵衛は、台に置いた金具を火箸で返した。

 

 広く延びた面へ、古い金具を並べてみる。

 

「それは、1度食うておかねばなるまい」

 

「豆も気になるか」

 

「煮て旨い豆なら、なお結構じゃ」

 

「食い方まで、俺に聞くなよ。聞かれるのは鍬の方だ」

 

 鍛冶屋は、壁際に並んだ柄のない刃を顎で指した。

 

 弥兵衛も笑って、刃先へこびりついた土を眺めた。

 

 森で木の根を避け続けていた足が、土間へ落ち着くにつれ、腹の空き具合を思い出してきた。

 

 戸口の向こうで、家へ帰る者の声がする。

 

 煮炊きの煙が流れ込み、炭とは違う、脂の匂いを運んできた。

 

「食い物の話なら、領都がいい。リュシア商会だとか、いろんな品を扱う所がある」

 

「リュシア商会か」

 

「それから、押入商会。こっちは妙な名だから、すぐ覚えた」

 

「押入……何を押し込む商いじゃ」

 

「知らねえ。売ってる物の話で、名前の由来までは聞かなかった」

 

 男はふいごの柄を引き、炭を寄せ直した。

 

「鶏をもらって飼い始めた農家もあるんだと。うちへ来る行商人が、そこの卵を扱うって話してた」

 

「卵が採れるのか」

 

「ああ。飯で食って、余った分を売るんだそうだ。これからもっと鶏を増やすって話もしてたが、そいつが卵を欲しがってるだけかもしれねえな」

 

 鍛冶屋は、柄へ通す金具を棚から探し出した。

 

「こっちは、鶏より手が欲しい」

 

「そちらは、卵からは出てこんのう」

 

「出てきたら、すぐ捕まえるさ」

 

 弥兵衛は、冷めた金具を手に取った。

 

 古いものを重ねて輪郭を取り、借りた鏨で余分を落としていく。

 

 中心の穴を整える間、男は自分の鍬を研ぎ始めた。

 

 時折、水を含んだ砥石へ鉄粉がにじむ。

 

 槌の響きがなくなり、戸口の外から、誰かが戸を閉める音まで聞こえた。

 

「そういや、その行商人、領都で猫の歌を聞いたそうだ」

 

 金具を挟んだ弥兵衛の指が止まった。

 

「……猫が、歌うとな」

 

「ケット・シーっていうんだと。三毛の毛並みで、小さな手琴を弾く。酒場で聞いて、もう1晩泊まりたくなったってさ」

 

 弥兵衛は、金具を指の間で返した。

 

「その者は、領都におるのか」

 

「今もいるかは知らん。歌って旅する者なら、ずっと同じ店にもいないだろう。行けば、知ってる奴はいるんじゃねえか」

 

「左様か」

 

 弥兵衛はやすりを取り、穴の内側に残った角を削った。

 

 薄い削り屑が、着物の膝へ落ちる。

 

 払い落とすと、男が鍬を水桶へ寄せた。

 

「人が増えると、妙な話も増える。爺さんみたいに、森から歩いてくる奴もな」

 

「わしは、歌わぬぞ」

 

「鍛冶場で歌えとは頼んでねえよ」

 

 弥兵衛は笑い、削った金具を刀の根元へ合わせた。

 

 まだ穴の端が引っ掛かる。

 

 傾けずに戻して、その箇所だけを削ると、今度は鍔の下まで滑り込んだ。

 

 柄を戻し、栓を留める。

 

 鍔を親指で押しても、もう、朝からしていた音は鳴らなかった。

 

 弥兵衛は、柄を握ったまま刀を傾けた。

 

 鍔元へ収まった金具は、どちら側にも浮いていない。

 

 男が砥石を洗う向こうで、刀身を布から離し、ゆっくりと鞘へ戻した。

 

「済んだか」

 

「おかげでな。よい道具を借りた」

 

「あんたの打つ音を聞くのも、悪くなかったよ」

 

 男は鍬の水気を拭き、壁際へ立てた。

 

 戸口の光は、入ってきた時より長く土間へ伸びている。

 

 外から運ばれてくる話し声も、畑へ向かうものから、家へ人を呼ぶ声に変わっていた。

 

 弥兵衛は、借りた火箸の先を布で拭いた。

 

 槌は元の棚へ戻し、残った端材を男の示した籠へ入れる。

 

 小さな金具を作っただけでも、台の上には削り屑が散っていた。

 

 男から箒を受け取り、足元へ落ちた分と一緒に集めた。

 

「親方。この先を西へ参りたい。道を教えてはもらえぬか」

 

「芋の売り場か?」

 

「そちらも聞きたいところじゃが、もう少し先へな」

 

 鍛冶屋は、布で手の汗を拭いた。

 

 作業台の隅へ炭を持ってくると、空いている所を掌で払う。

 

「西なら、まず領都へ出な。店も宿もあるし、王都へ向かう商人も見つかる」

 

 炭の先が、台へ短い線を引いた。

 

 その先に丸を描き、男はそこで指を止めた。

 

「俺が教えられるのは、この辺までだ。その先は、街道を使う奴に聞いた話だぞ」

 

「十分じゃ。領都からは、西へ街道を行けばよいのか」

 

「途中に、マールヴェインの森がある。まっすぐ入り込むなよ。北へ回る道があるから、そっちだ」

 

 男が描いた黒い塊の上を、炭の線が迂回した。

 

 弥兵衛は台の反対側へ回り、線の向きを見直した。

 

「こちらが北か」

 

「そうだ。森を避けて、こっちから王都へ出る。荷車も通る道だ」

 

「森とは、なかなか縁が切れぬものよ」

 

「爺さん、また突っ切る気じゃねえだろうな」

 

「教わった道があるのに、そう急ぐこともなかろう」

 

 男は頷き、炭を持ち直した。

 

 炭の先が、迂回路の向こうへ丸を足す。

 

「これが王都だ。ここへ行けば、西から来る旅商人もいる。山越えのことは、そいつらに聞ける」

 

「まだ、山があるか」

 

「西境山脈だ。向こうは別の国になる」

 

 男は丸から先へ、山の形らしいものをいくつか並べた。

 

 弥兵衛は、その手の止まった先を見た。

 

「何という国じゃ」

 

「セレヴィア。半島があって、島もあって、海の方まで国が続くんだそうだ」

 

「海」

 

「その辺の話は、俺も人から聞いただけだ。山を越えた先へ、鍬を届けに行くわけじゃねえからな」

 

 炭の粉を吹くと、描かれた山の端が薄く崩れた。

 

 弥兵衛は、村から領都、森を北へ避けて王都、その先の山へと、線を目で辿った。

 

 それより向こうには、何も描かれていない。

 

「まさか、海まで行くのかい」

 

 顔を上げると、鍛冶屋は、炭を持ったままこちらを見ていた。

 

「辿り着いてから、考えるわい」

 

「東から、そんな先まで……いったい、何を探してるんだ」

 

 外で、水の入った桶が地面へ下ろされた。

 

 木の縁が土を打つ音のあとに、揺れる水の音がした。

 

 弥兵衛は、台の向こうにある外套へ目をやった。

 

 肩に付いていた葉を払えば、また、いつもの古い旅着だった。

 

「我が半身の魂を追いかける旅じゃ」

 

 男は口を開きかけ、炭を台へ置いた。

 

「……そうか。大事な人だったんだな」

 

 弥兵衛は答えを重ねず、軽く頭を下げた。

 

 男も、それ以上は訊かなかった。

 

 炉へ戻り、火箸で炭をまとめ始める。

 

 弥兵衛は、村から領都まで引かれた線を、もう1度だけ見た。

 

「明日は、領都へ寄らせてもらおう」

 

「食い物の店は、そこで聞きな。鶏や芋の噂の元にも、近づくだろうよ」

 

「親方の分まで食うてくるか」

 

「俺の分は、置いてこい」

 

 弥兵衛は笑い、外套を羽織った。

 

 懐へ小袋が収まり、腰には、音を立てぬ鍔がある。

 

 戸口で振り返ると、鍛冶屋が片手を上げた。

 

「道中、気をつけてな。またこっちを通るなら、寄ってけ」

 

「うむ。世話になった」

 

 草鞋で土間の縁を越すと、空気が涼しかった。

 

 畑の柵の向こうで、昼に出会った子どもが枝を抱えて走っていく。

 

 家の中から呼ぶ声へ返事をし、今度は本当に、枝を下ろした。

 

 弥兵衛は、締め直した緒へ足指を掛けた。

 

 村道は、家々の軒と畑の間を西へ続いていた。

 

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