朝の陽が梢に届いても、ウンディルート大森林の底には、夜の冷気が残っていた。
苔を被った倒木が重なり、その間に溜まった水へ、葉の先から雫が落ちる。
木々の奥には薄い靄が流れ、湿った土と腐りかけた葉の匂いが漂っていた。
その倒木を、老人が跨いだ。
白い髪を後ろで束ね、色褪せた着物に古い外套を重ねている。
腰には反りのある刀を差し、足には、緒を幾度も継いだ草鞋を履いていた。
弥兵衛という。
78になる老人の歩幅は大きくなかったが、足場を選ぶたびに立ち止まることもなかった。
倒木へ足を載せ、重みを預ける前に、爪先で腐り具合を探る。
沈むと分かれば、そのまま根の張った方へ渡った。
外套の裾を引いた棘だけは、手で外してやらねばならなかった。
「よう引き留めるのう」
布を離された枝が戻り、溜めていた雫を首筋へ落とした。
弥兵衛は襟の中へ指を入れ、それから髭を撫でた。
東からこの森へ入り、幾つもの谷と尾根を越えてきた。
木々の隙間に日を見つけても、そこへ着く頃には陽が移り、また暗い枝の下を歩いている。
頭上で広く枝を張った木の根元へ寄り、弥兵衛はようやく腰を下ろした。
草鞋を脱ぐと、爪先の間から湿った葉が落ちた。
緒を緩め、編み目へ入った小石を押し出す。
切れそうな所はなかった。
東の国を出た時には、こんな継ぎ目はなかったはずだ。
今では、どこまでが初めからあった藁なのか、自分でもすぐには分からぬ。
「よく働いてくれる」
指で泥を落とし、草鞋を木の根へ伏せた。
懐から干し肉を出し、端を噛み切ろうとしたが、なかなか千切れなかった。
細く裂いて口へ入れると、今度は噛むほどに筋が残る。
弥兵衛は黙って噛み、竹筒の水で喉へ送った。
獣の肉にはずいぶん世話になってきた。
旨いものもあったし、口へ入れてから長く後悔したものもある。
腹に入れば同じだと、若い頃には思ったものだった。
近頃は、食えると分かっていても、もう少し何とかならぬかと考えてしまう。
「汁のあるものが、食いたいのう」
答える者はいなかった。
代わりに、高い枝で鳥が鳴いた。
口に残った筋を噛みながら、弥兵衛は木々の奥を眺めた。
風が通ると、枝の向こうから微かな匂いが来た。
腐葉土でも、獣の体臭でもない。
木を燃やした匂いだった。
顔を上げて待っていると、もう1度、細く鼻へ届いた。
「……人がおるか」
弥兵衛は竹筒へ栓をし、残りの干し肉を包んだ。
草鞋を履き直し、立ち上がった時、鍔元でかすかな音がした。
親指で鍔を押すと、遊びが指の腹へ伝わってくる。
刀を鞘に収めたまま、柄を据え直した。
火を借りられる所があればよい。
もう1度匂いを探したが、風はすでに向きを変えていた。
弥兵衛は外套を払い、西へ向き直った。
探しているものへ、どれほど近づいたのかは分からない。
東へ引き返す用はなかった。
木の根の間へ足を下ろすと、草鞋の裏で小枝が鳴った。
さっきまで応じ合っていた鳥の声が、そこで途切れた。
弥兵衛は、次の足を出さなかった。
右手の茂みで、落ち葉が擦れている。
風が止まっても、その音だけは続いていた。
少し離れた所から、もう1つ。
そして左の幹の向こうで、枯れた枝が折れた。
「……3匹か」
弥兵衛は右手を外套から出した。
柄を握る前に、指をゆっくり曲げ伸ばしする。
太くなった節に、木漏れ日が当たっていた。
あの頃の師匠の指も、こんなふうに節が張っていた。
木刀を握る手を、ずいぶん大きなものだと眺めた覚えがある。
自分の手もいつかああなるとは、考えもしなかった。
13の頃、初めて握った木刀は、両手を寄せても長く余ったものだった。
朝露に濡れた庭で振っていると、柄が滑った。
落とすまいと握り締めるたび、掌の破れた皮が擦れた。
「何を斬っておる」
背後から、師匠に訊かれた。
「敵でございます」
「どこにおる」
少年は答えられなかった。
誰もいない庭の向こうへ、木刀を構えているだけだった。
師匠は1本の木刀を拾い、目の前へ立った。
その切先を見たところまでは覚えている。
次に覚えているのは、額の痛みと、土の上へ尻をついていたことだ。
「立て」
師匠は笑わず、木刀の先で土を指した。
落とした木刀を拾うと、柄へ砂が付いていた。
掌の傷へ砂が擦れ、顔をしかめたのを見られまいとして、下を向く。
「もう1度、お願いいたします」
構え直した時には、さっきの痛みをまだ額に感じていた。
何度やっても同じだった。
木刀を見る間に打たれ、肩が動くのを待っても打たれた。
早く踏み込めば届くと思った時には、踏み出す足の前へ、師匠の木刀があった。
65年経った今も、あの時の木刀は覚えている。
自分でも刀を振り、教える立場になってからも、ふいに思い出すことがあった。
弟子の前で振った1本が、あの木刀と同じだったかと訊かれれば、うむとは言えぬ。
弥兵衛は右手を柄へ添えた。
使い慣れた柄へ、指が収まった。
右の茂みが揺れた。
濡れた鼻が出てきて、その上に、黄色い目があった。
太い前脚が落ち葉を踏む。
肩の高さだけで、弥兵衛の胸ほどもある狼だった。
口元から長い牙が出ているのに、脇腹には肋が浮いていた。
少し後ろの幹からも1匹、さらに左の茂みから1匹が出た。
どれも痩せ、腹の後ろが細くくびれている。
「腹が減っておるのか」
正面の狼が、喉を鳴らした。
「わしもじゃ」
弥兵衛の口元は緩んだが、柄へ置いた手は動かなかった。
狼の鼻が、弥兵衛の懐へ向いた。
干し肉の匂いでも残っているのか、鼻先を上げ、短く息を吸い込んだ。
その下で、歯に掛かった唾が切れた。
狼の目は、こちらの喉を見ている。
正面を塞いだ1匹の足元で、影が広がり始めた。
木々の影は、斜めに落ちていた。
狼の腹の下から伸びた黒いものは、その向きと合わない。
濡れた葉を覆い、木の根を越え、こちらへ広がってくる。
弥兵衛は、狼の目から、その肩へ目を移した。
右の1匹が幹の陰を回り、もう1匹は、頭を低くして離れていく。
弥兵衛は追って顔を動かさず、正面の狼を見ていた。
正面の狼の背が、すうっと低くなった。
前脚を折ったわけではなかった。
太い肩も、開いていた口も、足元の黒さへ沈んでいく。
弥兵衛は瞬きをしなかった。
毛の逆立っていた背が消え、黄色い目が見えなくなった。
そこには、爪に掻かれた落ち葉だけが残った。
右の狼が、鼻を鳴らした。
そちらへ向けかけた顔を、弥兵衛は止めた。
木の葉は動いていない。
枝も、揺れていなかった。
狼が消えた所からは、足音がしない。
背後で、濡れた落ち葉が1枚、潰れた。
弥兵衛は振り向かなかった。
右の狼の耳が、老人の背後へ向く。
外套の背が、ふわりと押された。
鯉口を切った。
腰を沈め、身を開くのと、鞘を引くのがひと息だった。
左肩を越しかけた狼の喉を、刃が横切った。
柄へ短い重みが伝わり、すぐに抜けた。
重い胴が地を打ち、落ち葉が跳ねた。
狼の前脚が土を掻き、伸びた爪が、木の根へ当たって止まった。
弥兵衛の刀先は、その上を通り過ぎ、もう低い所にあった。
右の狼が、前脚を踏ん張った。
もう1匹も、幹を回りかけた所で止まっている。
弥兵衛は刀を持ったまま向き直った。
足元の狼の口は開いていたが、腹は動かなかった。
「まだ、やるかの」
低く問い掛けると、右の狼が牙を剥いた。
その後ろでは、もう1匹が、後脚を引いていた。
刀から垂れた血が、枯れ葉へ落ちる。
牙を剥いていた狼の鼻が動いた。
こちらへ出しかけた足が戻り、今度は、倒れた仲間を見る。
弥兵衛はその前へ踏み込まず、刀先を下げた。
獣の向こうには、来る時に使った茂みがある。
そこを塞がずに、体を半分開けてやった。
「行け」
先に後退していた1匹が、幹の向こうへ姿を消した。
残る1匹はまだ牙を見せていたが、弥兵衛が動かずにいると、やがて口を閉じた。
腹の下へ黒いものを引き寄せ、こちらを見たまま下がっていく。
身を翻したあとには、揺れる草と枝が残った。
弥兵衛は刀を返した。
狼が消えた所へ、もう1度だけ目をやる。
まだ、ああいう手を持つものがおる。
刀の背へ布を当て、血を拭った。
刃に欠けはない。
鞘へ戻すと、鍔元で、小さな音がした。
親指で押して、その音を止める。
師匠なら、今の狼を、どこで斬ったろうか。
そんなことを考えていると、腹が鳴った。
弥兵衛は息をつき、倒れた狼の脇へ屈んだ。
近くで見れば、毛の下の骨がなおさら目につく。
「お主も、よう歩いてきたようじゃな」
胴へ手を置くと、靄が黒い毛並みを包んだ。
狼の姿が消え、重みを失った落ち葉の端が、風にめくれた。
弥兵衛は立ち上がり、指に付いた土を払った。
外套を払い、腰の刀を据え直す。
枝の高みで、鳥が鳴き始めている。
その向こうから、もう1度、細い煙の匂いが来た。
鼻先へ届いたものを追い、弥兵衛は木々の間へ顔を向けた。
「今度は、人の作った飯にありつきたいものよ」
西へ向けた草鞋が、落ち葉を踏んだ。
かん、と音がした。
弥兵衛は、斜面を下りかけていた足を止めた。
続いて2つ、間をあけて、もう1つ。
鳥の声とは違う、鉄を打つ音だった。
茂みを回り込むと、風に炭の匂いが乗ってきた。
葉の隙間に見えていた空が広がり、足元の草にも陽が当たっている。
弥兵衛は最後の枝を押し分け、外套を引っ掛けぬよう身を屈めてくぐった。
目の前には、低い柵に沿って畑が続いていた。
畝の間で人が腰を曲げ、遠くの屋根からは細い煙が上がっている。
土を返したばかりの匂いが、森の湿った匂いに替わった。
弥兵衛は眩しさに目を細め、外套の襟を緩めた。
槌音は、屋根の集まりの端から聞こえてくる。
重いものを延ばしているにしては、響きが軽い。
耳を傾けていると、打つ間隔が変わり、最後の数打は短く続いた。
刃先でも整えておるのか。
弥兵衛がそちらへ足を向けると、柵の陰から子どもが飛び出した。
「止まれ! あんた、誰だ!」
木の枝を両手で握り、胸の前へ突き出している。
もう1人は柵の内側に残り、枝を背中へ隠した。
2人の踵には土が付き、先に出てきた子の袖には、折れた葉が貼り付いていた。
弥兵衛は、子どもの枝が届くより手前で止まった。
「弥兵衛と申す。東から来た旅の者じゃ」
「東って、あの森から?」
「左様」
「嘘だ。魔獣がいるんだぞ」
「おるのう。つい先ほども、狼が3匹で襲うてきたわい」
柵の内側にいた子も、顔を出した。
「逃げてきたの?」
「逃げはせなんだ。向こうが引いてくれた」
「そんなわけないだろ。爺さんなのに」
弥兵衛は、自分の白髭へ手をやった。
「これは、どうにも隠せぬな」
「ところで、こちらは、もうヴェルデンの国かの」
「そうだよ。ヴァルディス侯爵様の土地だ。知らなかったのか?」
「では、ようやく抜けたか」
弥兵衛が森を振り返ると、子どもも幹の間を覗いた。
枝を下ろしかけ、途中でまた持ち上げる。
今度は、弥兵衛の腰を見ている。
「それ、本物の剣か?」
「刀という」
「見せてよ」
1歩近づいた腕を、後ろの子が引いた。
「やめろよ。枝じゃないんだぞ」
弥兵衛は柄に触れようとはせず、腰の鞘を着物の袖で覆った。
「抜かぬ方がよい。お主らの枝とは、遊ばせてやれぬ」
「分かってるよ。そのくらい」
握った枝の皮を爪で剥がしながら、その子は答えた。
鍛冶の音が、また続き始める。
「時に、あの槌は、どなたが打っておられる?」
「村の鍛冶屋のおっちゃんだ。鎌でも直してもらうの?」
「火と金床を借りたいのじゃが」
「金床?」
弥兵衛が音のする方を見れば、子どももそちらを向いた。
「ああ、あの鉄の台。爺さんも打つのか」
「少々な。鍛冶屋まで、案内を頼めるかの」
「いいよ。こっちだ」
子どもは枝を肩に担ぎかけ、弥兵衛を振り返った。
「畑には入るなよ」
「承知した。お主について行こう」
先に立つ子の枝が、ぴんと上がった。
弥兵衛はその後ろへつき、柵の間を抜けた。
後ろの子が弥兵衛を見上げ、先に行った相手を見て、それから小走りに続いた。
弥兵衛は、踏み固められた細い道へ入った。
耕した土は柔らかそうで、脇へ寄ると草鞋が沈みそうになる。
道の曲がり角で待っていた子が、黙って下を指した。
「おお、すまぬ」
森とは、足を置く所が違う。
狭い道へ戻ると、子どもは満足したように、また歩き出した。
槌音が大きくなるにつれ、炭の匂いが濃くなった。
家の脇には、刃を布で包んだ鎌や、柄を抜いた鍬が立て掛けられている。
開け放した戸口の奥で、橙色の火が揺れていた。
「おっちゃん! 森から爺さんが来た!」
子どもの声に、槌が止まった。
弥兵衛は、戸口に掛かる枝の剣の影を越し、土間へ声を掛けた。
「仕事中、相済まぬ」
炉の前にいた男が、火箸で鎌を持ち上げた。
刃を脇の台へ置いてから、弥兵衛の足元と腰を見た。
「鎌の直しなら、そこの壁へ。今日のうちにってのは、難しいぞ」
「頼みたいのは、炉と金床の方でな」
男は、弥兵衛の背後にいる子どもへ顔を向けた。
「もう帰れ。ここで枝を振り回すなよ」
「振ってないってば」
枝を握った子が踵を返し、もう1人も小さく手を振った。
「2人とも、世話になった。よい所へ案内してもろうた」
弥兵衛が頭を下げると、先に立っていた子も足を止めた。
「帰りも、あの道だからな」
「うむ。よう覚えた」
2人は並んで、柵の間を駆け戻っていった。
炉へ風が入り、炭の小さな火が弾ける。
壁には大小の槌が掛かり、棚の下には、折れた刃や短い鉄片が分けて置かれていた。
煤けた梁の下を通ると、弥兵衛の頬へ炉の熱が届いた。
「ここは村の鍛冶場だ。武器の工房じゃねえ」
「承知しておる。しばし使わせてもらえぬか」
「何を……待て。その腰の剣、見せてもらえるか」
男の目は、外套の脇から出た柄に留まっていた。
「刀じゃ。構わぬが、刃に気をつけられよ」
弥兵衛は戸口を背にせぬ位置へ移り、男が寄るのを待って刀を抜いた。
刃先を人のいない方へ向け、外から入る光へ傾ける。
地鍛冶は、腰の布で指を拭いた。
触れずに顔を近づけ、反りに沿って首を動かすと、今度は背の厚みを覗いた。
「何だ、これは」
弥兵衛は返事をせず、光の当たり方を変えてやった。
地金に沈んでいた筋が、刀身の中ほどへ浮かぶ。
「鉄だけじゃないな。こういう筋の出方は、見たことがねえ」
「魔物の素材を、鉄へ合わせて打ってある」
「魔物を?」
鍛冶屋は、柄へ戻りかけた目を、もう1度刀身へ走らせた。
「どこの職人に打たせたんだ」
「わしじゃよ」
炉の炭が崩れた。
男は顔を起こし、弥兵衛の指の節を見た。
「……いや、俺には無理だ。どこをどう直しゃいいのか、分からねえ」
「言葉が足りなんだな。わしも鍛冶の技を持っておる。手を入れるのは、わしじゃ」
「自分で直すのか」
「うむ。火と金床を貸してもらいたい」
弥兵衛は刀を鞘へ戻し、鍔を押した。
かち、と薄い音がする。
「ここの当て物が痩せた。作り替えれば、それで済む」
男は、柄元を横から覗き込んだ。
「その薄い金具か。刃を火に入れるわけじゃねえんだな」
「こいつを焼き直しては、旅が続けられぬよ」
「貸せと言われてもな。俺の商売道具だ」
「もちろん、ただとは申さぬ」
懐の小袋を開き、弥兵衛は浅い皿へ砂金を出した。
煤で曇っていた皿の上へ、小さな粒が転がる。
男は皿を見下ろし、次に小袋を見た。
「……それを、貸し賃に?」
「足りぬなら申されよ」
「逆だよ、爺さん」
鍛冶屋は皿を寄せ、その中から1粒を摘まんだ。
「ここまででいい。残りはしまえ。炉ごと売るんじゃねえんだから」
「それでよいなら、ありがたい」
「炭と、そこの端材は使っていい」
弥兵衛は、台に置かれた鎌を見た。
「そちらを先に済ませてくだされ。わしは待てる」
「急ぎじゃねえのか」
「日が落ちるまでに収まればよい」
「悪いな。これ1本、済ませちまう」
男は受け取った粒を小箱へ入れ、蓋をした。
弥兵衛は残りを袋へ戻すと、戸口の脇で外套を脱いだ。
畳む時に乾いた葉が落ちたので、拾って外へ出す。
「ずいぶん、森を付けてきたな」
「途中で払うたはずなのじゃが」
「肩にもあるぞ」
教えられた所を払うと、枝の切れ端まで落ちてきた。
弥兵衛は苦笑し、外套を邪魔にならぬ棚の端へ置いた。
鍛冶屋がふいごを引き、炉へ顔を戻した。
鎌の先には、巻き込んだような歪みがあった。
男はそこを熱し、金床へ運ぶと、刃の根元を浮かせながら先だけを打った。
弥兵衛は、水桶から離れた所で、その手元を見ていた。
槌を振り上げる高さが、打つ箇所で変わる。
最後に刃を横から眺め、火箸の角度を変えて、もう数打。
森の中で聞いた音は、これだったのだろう。
「根でも噛んだのかのう」
「石だとさ。持ってきた奴は、隠れてたって言い張ってたが」
「畑の石は、なかなか姿を見せぬからな」
「そういう時だけな」
男は鎌を台へ置き、金床の空いた側を示した。
「よし。こっちを使え。小槌なら、上の段だ」
弥兵衛は袖をたくし上げ、柄の擦れた槌を棚から取った。
弥兵衛は、布を敷いた台へ刀を置いた。
柄を留める栓を外し、柄と鍔を抜くと、その間に挟んでいた金具が取れた。
端を指で撫でれば、長く擦れてきた所だけが薄い。
「こいつだけ替えるのか」
弥兵衛は金具を男へ見せ、それから端材の籠へ屈んだ。
「これを、少し分けてもらいたい」
「ああ。それなら使い切っていい」
手に収まる端材を火箸で挟み、炉へ入れる。
ふいごを送ると、炭の中で火が伸びた。
弥兵衛は足元の槌を寄せ直し、金床の面に付いた細かな欠片を払った。
背後で、鎌の柄が台へ触れる音がする。
「近頃は、こっちも畑の道具ばかりだ」
振り返ると、男は直した鎌へ柄を合わせていた。
「外にあるものもかの」
「あれだけじゃねえ。持ってくるのはいいが、明日には使うって言い出す。もっと早く寄越せってんだ」
「使っておるうちは、具合の悪い所も忘れるでな」
「爺さんも同じ口か」
弥兵衛は、外した金具を見た。
「面目ない」
男が笑い、鎌の柄を膝へ乗せた。
炉の中で色づいた端材を引き出し、弥兵衛は金床へ運んだ。
最初の槌が、短く鳴る。
端から少しずつ延ばしていくと、余った厚みが外へ逃げ、丸みを帯びていた面が平らになった。
薄くなった端を火へ戻し、今度は向きを替える。
鎌を置いた男が、金床の脇へ寄った。
弥兵衛の槌が止まったところで、火箸を渡してきた。
「その幅なら、こっちの方が挟みやすい」
「おお。ありがたく」
持ち替えた先で金具を返すと、槌を下ろしても、材が横へ逃げなくなった。
最後の膨らみを均し、弥兵衛はそれを台の端へ置いた。
鍛冶屋は、空いた金床へ鍬の刃を運んだ。
「畑を広げる家もあるからな。直すだけじゃ追いつかねえ」
「何を植えるのじゃ」
「サツマイモだの、大豆だの。前は聞きもしなかった名を、畑で聞くようになった」
「サツマイモとは、どう食うのじゃ」
弥兵衛が尋ねた時、鍛冶屋の槌が鳴った。
「何だって?」
「芋の食い方じゃ」
男は鍬を打ち終え、弥兵衛へ顔を向けた。
「焼くと甘いそうだ。俺はまだ食ってねえ。苗を入れた家の奴が、楽しみだって言ってたな」
「甘いとな」
「領都の店なら、もう売ってるかもしれん」
弥兵衛は、台に置いた金具を火箸で返した。
広く延びた面へ、古い金具を並べてみる。
「それは、1度食うておかねばなるまい」
「豆も気になるか」
「煮て旨い豆なら、なお結構じゃ」
「食い方まで、俺に聞くなよ。聞かれるのは鍬の方だ」
鍛冶屋は、壁際に並んだ柄のない刃を顎で指した。
弥兵衛も笑って、刃先へこびりついた土を眺めた。
森で木の根を避け続けていた足が、土間へ落ち着くにつれ、腹の空き具合を思い出してきた。
戸口の向こうで、家へ帰る者の声がする。
煮炊きの煙が流れ込み、炭とは違う、脂の匂いを運んできた。
「食い物の話なら、領都がいい。リュシア商会だとか、いろんな品を扱う所がある」
「リュシア商会か」
「それから、押入商会。こっちは妙な名だから、すぐ覚えた」
「押入……何を押し込む商いじゃ」
「知らねえ。売ってる物の話で、名前の由来までは聞かなかった」
男はふいごの柄を引き、炭を寄せ直した。
「鶏をもらって飼い始めた農家もあるんだと。うちへ来る行商人が、そこの卵を扱うって話してた」
「卵が採れるのか」
「ああ。飯で食って、余った分を売るんだそうだ。これからもっと鶏を増やすって話もしてたが、そいつが卵を欲しがってるだけかもしれねえな」
鍛冶屋は、柄へ通す金具を棚から探し出した。
「こっちは、鶏より手が欲しい」
「そちらは、卵からは出てこんのう」
「出てきたら、すぐ捕まえるさ」
弥兵衛は、冷めた金具を手に取った。
古いものを重ねて輪郭を取り、借りた鏨で余分を落としていく。
中心の穴を整える間、男は自分の鍬を研ぎ始めた。
時折、水を含んだ砥石へ鉄粉がにじむ。
槌の響きがなくなり、戸口の外から、誰かが戸を閉める音まで聞こえた。
「そういや、その行商人、領都で猫の歌を聞いたそうだ」
金具を挟んだ弥兵衛の指が止まった。
「……猫が、歌うとな」
「ケット・シーっていうんだと。三毛の毛並みで、小さな手琴を弾く。酒場で聞いて、もう1晩泊まりたくなったってさ」
弥兵衛は、金具を指の間で返した。
「その者は、領都におるのか」
「今もいるかは知らん。歌って旅する者なら、ずっと同じ店にもいないだろう。行けば、知ってる奴はいるんじゃねえか」
「左様か」
弥兵衛はやすりを取り、穴の内側に残った角を削った。
薄い削り屑が、着物の膝へ落ちる。
払い落とすと、男が鍬を水桶へ寄せた。
「人が増えると、妙な話も増える。爺さんみたいに、森から歩いてくる奴もな」
「わしは、歌わぬぞ」
「鍛冶場で歌えとは頼んでねえよ」
弥兵衛は笑い、削った金具を刀の根元へ合わせた。
まだ穴の端が引っ掛かる。
傾けずに戻して、その箇所だけを削ると、今度は鍔の下まで滑り込んだ。
柄を戻し、栓を留める。
鍔を親指で押しても、もう、朝からしていた音は鳴らなかった。
弥兵衛は、柄を握ったまま刀を傾けた。
鍔元へ収まった金具は、どちら側にも浮いていない。
男が砥石を洗う向こうで、刀身を布から離し、ゆっくりと鞘へ戻した。
「済んだか」
「おかげでな。よい道具を借りた」
「あんたの打つ音を聞くのも、悪くなかったよ」
男は鍬の水気を拭き、壁際へ立てた。
戸口の光は、入ってきた時より長く土間へ伸びている。
外から運ばれてくる話し声も、畑へ向かうものから、家へ人を呼ぶ声に変わっていた。
弥兵衛は、借りた火箸の先を布で拭いた。
槌は元の棚へ戻し、残った端材を男の示した籠へ入れる。
小さな金具を作っただけでも、台の上には削り屑が散っていた。
男から箒を受け取り、足元へ落ちた分と一緒に集めた。
「親方。この先を西へ参りたい。道を教えてはもらえぬか」
「芋の売り場か?」
「そちらも聞きたいところじゃが、もう少し先へな」
鍛冶屋は、布で手の汗を拭いた。
作業台の隅へ炭を持ってくると、空いている所を掌で払う。
「西なら、まず領都へ出な。店も宿もあるし、王都へ向かう商人も見つかる」
炭の先が、台へ短い線を引いた。
その先に丸を描き、男はそこで指を止めた。
「俺が教えられるのは、この辺までだ。その先は、街道を使う奴に聞いた話だぞ」
「十分じゃ。領都からは、西へ街道を行けばよいのか」
「途中に、マールヴェインの森がある。まっすぐ入り込むなよ。北へ回る道があるから、そっちだ」
男が描いた黒い塊の上を、炭の線が迂回した。
弥兵衛は台の反対側へ回り、線の向きを見直した。
「こちらが北か」
「そうだ。森を避けて、こっちから王都へ出る。荷車も通る道だ」
「森とは、なかなか縁が切れぬものよ」
「爺さん、また突っ切る気じゃねえだろうな」
「教わった道があるのに、そう急ぐこともなかろう」
男は頷き、炭を持ち直した。
炭の先が、迂回路の向こうへ丸を足す。
「これが王都だ。ここへ行けば、西から来る旅商人もいる。山越えのことは、そいつらに聞ける」
「まだ、山があるか」
「西境山脈だ。向こうは別の国になる」
男は丸から先へ、山の形らしいものをいくつか並べた。
弥兵衛は、その手の止まった先を見た。
「何という国じゃ」
「セレヴィア。半島があって、島もあって、海の方まで国が続くんだそうだ」
「海」
「その辺の話は、俺も人から聞いただけだ。山を越えた先へ、鍬を届けに行くわけじゃねえからな」
炭の粉を吹くと、描かれた山の端が薄く崩れた。
弥兵衛は、村から領都、森を北へ避けて王都、その先の山へと、線を目で辿った。
それより向こうには、何も描かれていない。
「まさか、海まで行くのかい」
顔を上げると、鍛冶屋は、炭を持ったままこちらを見ていた。
「辿り着いてから、考えるわい」
「東から、そんな先まで……いったい、何を探してるんだ」
外で、水の入った桶が地面へ下ろされた。
木の縁が土を打つ音のあとに、揺れる水の音がした。
弥兵衛は、台の向こうにある外套へ目をやった。
肩に付いていた葉を払えば、また、いつもの古い旅着だった。
「我が半身の魂を追いかける旅じゃ」
男は口を開きかけ、炭を台へ置いた。
「……そうか。大事な人だったんだな」
弥兵衛は答えを重ねず、軽く頭を下げた。
男も、それ以上は訊かなかった。
炉へ戻り、火箸で炭をまとめ始める。
弥兵衛は、村から領都まで引かれた線を、もう1度だけ見た。
「明日は、領都へ寄らせてもらおう」
「食い物の店は、そこで聞きな。鶏や芋の噂の元にも、近づくだろうよ」
「親方の分まで食うてくるか」
「俺の分は、置いてこい」
弥兵衛は笑い、外套を羽織った。
懐へ小袋が収まり、腰には、音を立てぬ鍔がある。
戸口で振り返ると、鍛冶屋が片手を上げた。
「道中、気をつけてな。またこっちを通るなら、寄ってけ」
「うむ。世話になった」
草鞋で土間の縁を越すと、空気が涼しかった。
畑の柵の向こうで、昼に出会った子どもが枝を抱えて走っていく。
家の中から呼ぶ声へ返事をし、今度は本当に、枝を下ろした。
弥兵衛は、締め直した緒へ足指を掛けた。
村道は、家々の軒と畑の間を西へ続いていた。