押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第447話 通りすがりの旅人じゃよ

 

 村道へ足を向けたところで、背後から声が掛かった。

 

「おい、爺さん」

 

 振り返ると、鍛冶屋が戸口に立っていた。

 

「今から、どこへ行くつもりだ」

 

「西へな。明日は領都への道に出ようと思うておる」

 

「行き先じゃねえ。今夜、どこで寝るんだ」

 

 弥兵衛は、家々の屋根を見回した。

 

 窓には灯が入り始め、森から出た時よりも濃い煮炊きの匂いが流れてきている。

 

「宿を借りられる所があれば、聞こうと思うておった」

 

「宿屋はねえよ。この村には」

 

「左様か。ならば……」

 

「なら、うちへ泊まれ。明日でいいなら、今夜から歩くこともねえだろ」

 

 鍛冶屋はそう言い、炉へ戻って火箸を取った。

 

 弥兵衛も土間へ引き返す。

 

「それはありがたいが、女房殿に叱られんかの」

 

「たぶんな。俺がな」

 

 炭をまとめながら、男は口の端を上げた。

 

 弥兵衛は戸口に置かれた桶を寄せ、男の手が空くのを待った。

 

「では、わしからも頼もう」

 

「そうしてくれ。今夜の酒の相手ができたって言うと、余計に叱られる」

 

 外から、亭主を呼ぶ女の声がした。

 

 男は返事をし、火箸を元へ掛けた。

 

 家は鍛冶場のすぐ近くにあった。

 

 戸口で待っていた女は、並んで歩いてきた2人を見て、亭主の顔へ目を戻した。

 

「また、ずいぶん話し込んでたね」

 

「東から来た旅人だ。今夜、泊まってもらおうと思ってな」

 

 弥兵衛は、その脇で頭を下げた。

 

「弥兵衛と申す。鍛冶場をお借りしたうえ、厚かましい頼みで相済まぬ」

 

「泊まる所がないんだろう。どうぞ、お入り」

 

 女房は戸を広くあけたが、弥兵衛が足を出す前に、草鞋を指した。

 

「その前に、泥を落としておくれ。洗い水はこっちだよ」

 

「おお。気がつかなんだ」

 

 用意された水へ足を入れると、指の間から土がほどけていった。

 

 手も洗い、差し出された布で拭く。

 

 鍛冶屋は、自分も同じように手を洗っていた。

 

「俺より、きれいな手をしてる」

 

「今日は、お主ほど打っておらぬでな」

 

「話すのは、洗ってからにしておくれ」

 

 女房が椀を運ぶ音を聞き、男は指の間へ水を擦り込んだ。

 

 弥兵衛は外套を畳み、刀を腰から外した。

 

 座った所から届き、歩く者の邪魔にはならぬ場所へ置く。

 

 竈では、鍋の蓋が小さく鳴っていた。

 

 上がった湯気の匂いに、弥兵衛の腹が鳴った。

 

「森から出てきたんだってね。腹も減ったろう」

 

「減っております。ただ、馳走になるばかりでは申し訳ない」

 

「椀を増やすくらい、何でもないよ」

 

「それでは、肴にでもなるものを」

 

 弥兵衛が手を差し入れると、靄の中から、包まれた肉の塊が出てきた。

 

 女房は椀を置き、空いていた板を持ってきた。

 

「そこへ置いておくれ。何の肉だい」

 

「魔物の肉じゃ」

 

 手を拭いていた鍛冶屋が、布を止めた。

 

「魔物って……森のか」

 

「旅の途中で得たものよ。今宵は、これがよかろうと思うてな」

 

 女房は包みを広げ、脂の付いた端を持ち上げた。

 

 鼻を寄せ、それから包丁を入れる。

 

 切り口を見ていた弥兵衛へ、亭主が訊いた。

 

「いつも、そんなものを食って歩いてるのか」

 

「食える肉は、ありがたく頂いておる」

 

「俺たちも、食っていいんだろうな」

 

「人に出せるものを選んだよ」

 

 女房は切った肉を指で広げた。

 

「このまま厚く焼くより、薄く切った方がよさそうだね。脂のある所は、こっちへ」

 

 鍋の脇へ肉を分け、今度は弥兵衛へ包丁を向けずに柄から渡した。

 

「手を貸してくれるかい」

 

「喜んで」

 

「じゃあ、その筋を取って、これくらいに切っておくれ」

 

 指で示された厚さを見て、弥兵衛は肉へ刃を入れた。

 

 女房は、野菜の煮える鍋へ塩を加えている。

 

 先に脂を熱すると、薄くなった油が鍋底へ広がった。

 

 そこへ肉が入り、湿った音が上がる。

 

 弥兵衛が切った分を渡す間にも、女房は箸代わりの道具で肉を返し、焼けたものから皿へ取った。

 

「塩は、これくらいでいいかい」

 

 小さく切った端を渡された。

 

 弥兵衛は息を吹き掛け、口へ入れる。

 

 噛むと、塩気のあとから温かい脂が出た。

 

「旨い。これは、酒が要るのう」

 

「ほらな」

 

 鍛冶屋が嬉しそうに言うと、女房は皿を渡した。

 

「ほらな、じゃないよ。飲む前に、これを卓へ運んで」

 

 亭主が皿を受け取り、弥兵衛は包丁を置いて手を洗った。

 

「酒も、少し持っておる」

 

 《収納》から出した容器を見て、男が酒器を寄せてきた。

 

 注ぐと、白く濁った酒が底へ溜まる。

 

「……これは、乳か?」

 

「馬乳酒という。馬の乳から造る、東の酒じゃ」

 

「馬の乳を酒にするのか」

 

 鍛冶屋は器を傾け、匂いを嗅いだ。

 

「乳で飲むだけじゃ、足りなかったんだな」

 

「気持ちは分かるかの」

 

「分かるような、分からねえような」

 

 女房の笑う声がし、煮込みの椀が卓へ並んだ。

 

 弥兵衛も腰を下ろし、2人へ軽く器を上げた。

 

「今夜は、お世話になる」

 

「ゆっくりしていってくれ」

 

 男がひと口飲み、目を細めた。

 

 そのまま飲み下すと、しばらく器の中を見ている。

 

「酸っぱいな」

 

「合わぬか」

 

「いや……肉となら、いいかもしれねえ」

 

 焼いた肉を食べ、もう1度酒へ口をつけた。

 

 今度は、すぐに器が卓へ戻った。

 

「ああ、こっちがいい」

 

 女房も自分の器へ少しだけ注がせ、味を見た。

 

「なるほどね。明日、重い槌を持つことまで忘れないでおくれよ」

 

「忘れたことがあるか」

 

「朝になってから、思い出すことならあるね」

 

 鍛冶屋は言い返さず、肉を口へ運んだ。

 

 弥兵衛は笑い、それから野菜の煮込みを匙ですくった。

 

 柔らかい野菜が、舌の上で崩れる。

 

 干し肉を噛んでは水で流し込んでいた口へ、温かい汁が広がった。

 

 弥兵衛はもう1杯すくい、ゆっくり飲んだ。

 

「こちらも、よい味じゃ」

 

「いつもの煮込みだよ」

 

「わしには、久しぶりの馳走よ」

 

 女房は鍋を寄せ、椀の減り具合を覗いた。

 

「まだあるからね」

 

「では、お代わりを頼んでもよいか」

 

「もう空いたのかい」

 

 差し出す椀を見て、女房が笑った。

 

 鍛冶屋の前にも椀が出る。

 

「俺も」

 

「あんたは、肉ばかり食べてるからだよ」

 

 卓に戻された椀から、湯気が上がった。

 

 弥兵衛はパンを割り、その端へ汁を含ませた。

 

 森で食べていたものよりずっと柔らかく、噛めば、麦の匂いがした。

 

 鍛冶屋は酒器を置き、昼間に直した鎌の話を始めた。

 

 持ってきた男は、石を噛んだことより、明日使えなくなることを心配していたという。

 

「こっちが直してる間に、横で何度も聞くんだ。まだか、まだか、って」

 

「使う頃になって、気になるのであろうな」

 

「で、済んだら、今度は礼を言って帰らねえ」

 

「ありがたいではないか」

 

「その間に、また仕事が来るんだよ」

 

 女房が鍋へ蓋を置いた。

 

「今も同じじゃないか。仕事が済んだのに、客を帰さないんだから」

 

「今は、俺が飲みたいんだ」

 

 鍛冶屋が正直に言い、弥兵衛の器へ酒を足した。

 

 薪が崩れ、火が少し低くなった。

 

 外を歩く足音も減り、卓のそばでは、器を置く音と話し声が交互に続いた。

 

 酒を含むと、さっきより酸味が柔らかく思えた。

 

 弥兵衛は肉をひとかけ食べ、女房が差し出したパンを受け取った。

 

 

 

 朝、戸口へ出ると、家の外はひんやりしていた。

 

 洗った器を並べた所に、水滴が残っている。

 

 鍛冶屋はすでに仕事着になり、袖をまくっていた。

 

「よく眠れたか」

 

「よう眠らせてもろうた」

 

 弥兵衛が桶を運ぼうとすると、女房が椀を持ってきた。

 

「それはあとでいいから、先に食べておいで」

 

 温め直した煮込みへ、パンを添えてくれる。

 

 弥兵衛は座り、両手で椀を受け取った。

 

 昨夜より汁を吸った野菜が、匙の端で崩れた。

 

 鍛冶屋は隣でパンを食べながら、領都へ出る道を話した。

 

「畑の先まで行くと、大きい道へ出る。石が敷いてあるから、すぐ分かる」

 

「荷車の通る道じゃな」

 

「ああ。そいつを西だ。分からなくなったら、人に訊け」

 

「昨夜の芋の店も、そこで訊くとしよう」

 

 鍛冶屋は笑い、最後のパンを口へ入れた。

 

 食べ終えると、弥兵衛は器を運び、今度こそ桶へ手を掛けた。

 

 水を頼まれた所へ移し、草鞋を履く。

 

 腰へ刀を差しても、直した金具は鳴らなかった。

 

 女房は、畳んだ外套の上へ布包みを置いた。

 

「道で腹が減ったら、お食べ」

 

「朝まで馳走になったうえ、持たせてもらえるとは」

 

「昨夜の肉を、少し焼いておいたんだよ。パンもあるから」

 

 弥兵衛は包みを受け取り、懐へしまった。

 

「これは、ありがたく」

 

「今度来る時は、手ぶらでおいで」

 

「それでは、親方が酒を飲む口実に困るかの」

 

「お前さんが来れば、それだけで飲むよ」

 

 鍛冶屋が何か言いかけ、結局、うん、とだけ答えた。

 

 弥兵衛は2人へ頭を下げた。

 

「世話になった。昨夜の煮込み、まことに旨かった」

 

「気をつけておいで」

 

 畑の柵へ差しかかったところで振り返ると、2人はまだ戸口にいた。

 

 弥兵衛は会釈し、朝日の差す道へ出た。

 

 遠くで子どもの声がする。

 

 昨夜まで湿っていた草鞋の底が、乾いた土を軽く擦った。

 

 

 

 畑の向こうに、轍の深い道が見えた。

 

 そこへ出ると、土の中から石畳が続いていた。

 

 石の継ぎ目に草が伸び、路肩には、荷車の輪が刻んだ溝がある。

 

 弥兵衛は西へ向き、乾いた石の上を歩き始めた。

 

 森の中とは違い、顔を上げても、頭上に枝はない。

 

 風が外套の裾を抜け、朝の食事の温かさが、まだ腹の中に残っていた。

 

 道が木立へ寄った辺りで、怒鳴り声が聞こえた。

 

「話が違うじゃないか! 領都まで守る約束だったろう!」

 

 荷馬車が1台、街道に止まっていた。

 

 御者台の男が身を乗り出し、その前に立つ男を睨んでいる。

 

 腰に剣を帯びた男は、手綱を取れるほど近くに立っていた。

 

「だから、ここまで連れてきたんだよ」

 

 男が、にやりと笑った。

 

 弥兵衛は歩を緩めた。

 

 男の向こうで、路肩の草が揺れている。

 

 風は、反対から吹いていた。

 

「ご苦労だったな」

 

 木立から出てきた男が、剣を帯びた男へ声を掛けた。

 

 手には、短剣を提げている。

 

「荷も女も、そのままだろうな」

 

「見りゃ分かるだろう。余計な奴も連れてねえ」

 

 荷主の口が、わずかに開いた。

 

 荷台では、娘が小さな布包みを抱えていた。

 

 父親を見、それから、車の前に立つ用心棒を見る。

 

「お父さん……?」

 

 脇の木立から2人、馬車の後ろからも2人が出てきた。

 

 弥兵衛のいる側の茂みから、最後の1人が姿を現す。

 

 頭目を含めて6人。

 

 用心棒はその方へ歩き、頭目の隣へ並んだ。

 

「お前、初めから……」

 

 荷主が絞り出すように言った。

 

「声を掛けたのは、そっちだろう。安い、安いって喜んでたじゃねえか」

 

 用心棒が笑うと、馬車の後ろでも笑い声が上がった。

 

 荷主は手綱を置き、荷台へ腕を伸ばした。

 

「下りるんだ。私の後ろへ」

 

 娘の腕を支え、自分も石畳へ降り立つ。

 

 用心棒が馬の鼻先を押さえた。

 

 車を動かすことも、できなかった。

 

 弥兵衛は外套の脇を押さえ、路肩へ寄った。

 

「爺いも、そこで止まれ」

 

 近くの盗賊が、棒の先をこちらへ向けた。

 

「耳が遠いのか」

 

「聞こえておるよ」

 

 弥兵衛が立ち止まると、男は馬車へ顔を戻した。

 

 頭目が短剣を持ち上げ、荷主の前へ進んだ。

 

「荷を下ろせ。馬も置いていけ」

 

「分かった。持っていってくれ」

 

 父親は娘を背へ庇っていた。

 

「だから、この子には手を出さないでくれ」

 

 頭目は、その肩越しに娘を覗いた。

 

「娘もだ。さっき言ったろう」

 

 用心棒が、腰の剣を抜いた。

 

 守るはずだった父娘へ、その切先が向く。

 

「大人しくさせとけよ。怪我をさせたら、お互い損だ」

 

 父親が娘を押し隠した。

 

 背に回した手へ、娘の指が縋っている。

 

 弥兵衛は用心棒の剣を見た。

 

 刃は長く、父親まで半歩もなかった。

 

 頭目の短剣も、その脇腹へ向いている。

 

 馬が前脚を踏み替えた。

 

 軛の革が、きしりと鳴る。

 

 弥兵衛の手は、腰の刀へ行かなかった。

 

「……おせっかいじゃがな」

 

 頭目が顔を向けた。

 

「何を――」

 

 草鞋が、石を擦った。

 

 《縮地》で間を詰めた弥兵衛は、もう男の背後にいた。

 

 右の掌を、背の左寄りへ当てる。

 

 心臓の裏に当たる所だった。

 

 頭目が振り向こうと肩を捻る。

 

 弥兵衛は《生命力吸収》を使った。

 

 その肩から、力が抜けた。

 

 短剣が指を滑り、石畳へ落ちる。

 

 膝が折れ、男は口を開いたまま横へ崩れた。

 

「お頭?」

 

 用心棒の切先が、父親から外れた。

 

 父親は娘を抱き寄せ、車輪の陰へ下がった。

 

 弥兵衛は掌を離し、倒れた男の脇へ出た。

 

 頭目の口元には、息で動いた草の葉があった。

 

「何者だ、てめえ!」

 

 短剣を持った1人が、頭目を避けて進み出た。

 

「通りすがりの旅人じゃよ」

 

 盗賊は倒れた頭目を見た。

 

 弥兵衛の両手には、何もない。

 

 男は短剣を握り直した。

 

「全員でかかれ!」

 

 靴が石畳を蹴った。

 

 先頭の男が低く構えた短剣は、弥兵衛の腹を狙っていた。

 

 後ろでは、棒を持った男が大きく腕を振り上げる。

 

 弥兵衛は半歩、左へ出た。

 

 突き上げてくる刃へ、左腕を差し入れる。

 

 《身体硬化》が、刃を迎えた。

 

 ガイン!

 

 金属を打ったような音が、街道に響いた。

 

 袖が裂け、短剣が腕の外側で止まった。

 

 男の手首が跳ねる。

 

 弥兵衛の左手が、その手首を掴んだ。

 

「刺さらねえ……!」

 

 刃を引こうとした男の肩だけが、後ろへ退いた。

 

 手首は動かなかった。

 

 弥兵衛は裂けた袖を見てから、男の顔へ目を上げた。

 

 《威圧》が、その背後の者たちへも及んだ。

 

 振り上げられた棒が止まる。

 

 用心棒の足も、石畳に貼りついたように動かなくなった。

 

 短剣を握っていた指が緩んだ。

 

 弥兵衛は男の帯へ右手を掛けた。

 

 《怪力》で持ち上げると、両足が石畳から浮いた。

 

「お、おい――」

 

 棒を持った男が、ようやく声を出した。

 

 その胸へ、弥兵衛は抱え上げた体を放った。

 

 2人がぶつかり、棒が跳ねた。

 

 重なった体が、馬車とは反対の草地へ転がり込む。

 

 押し潰された草の間から、息の詰まった声がした。

 

 弥兵衛は残る者たちへ向き直った。

 

 用心棒の目が、腰の刀へ落ちた。

 

「おぬしら相手に刃がもったいないわ」

 

 弥兵衛の手は、刀の柄を素通りし、外套の端を後ろへ払った。

 

 用心棒が、急に馬車へ走った。

 

 車輪の陰へ腕を伸ばす。

 

 娘の悲鳴が上がった。

 

「来るな! こいつが――」

 

 言い終える前に、その腕が後ろへ引かれた。

 

 《高速移動》で馬車の脇へ入った弥兵衛が、用心棒の剣を持つ手首を取っていた。

 

 捻り上げると、男は爪先立ちになった。

 

 剣が、石へ落ちた。

 

 娘の服へ届きかけていた反対の手も、宙を掻く。

 

 弥兵衛はその帯を掴み、馬車から引き離した。

 

「仕事を間違えたのう」

 

 用心棒は答えず、弥兵衛の顔へ頭を打ちつけようとした。

 

 老人が体を開くと、その頭は空を切った。

 

 膝の裏を払われ、用心棒の体が路肩へ落ちる。

 

 弥兵衛は男の腕を背へ回した。

 

 もう片方の手が背へ引き寄せられると、男は土へ顔を押しつけて呻いた。

 

「縄はあるかの」

 

 父親は娘を背へ隠したまま、荷台から縄の束を引き出した。

 

 差し出す端が震えている。

 

 弥兵衛はそれを受け取り、男の手首へ回した。

 

 その時、馬車の後ろで靴音がした。

 

 残る1人が、娘のいる方へ回り込もうとしていた。

 

 弥兵衛は結び目を締め、顔を上げた。

 

 男と目が合った。

 

 振り向いて逃げようとした男の肩へ、老人の手が届いた。

 

 上体が引き戻され、足だけが前へ出る。

 

 背から落ちた男は、しばらく息を吸えずにいた。

 

 その刃物を遠くへ払い、弥兵衛は道へ出た。

 

 あとの2人は、すでに逃げていた。

 

 1人は街道を走り、もう1人は木立へ入ろうとしている。

 

 弥兵衛の外套が、翻った。

 

 道を走る男の帯を後ろから掴むと、引かれた体が反り返った。

 

 弥兵衛はその体を路肩へ下ろし、刃物を持った手を土へ押さえた。

 

 指が開くのを待ち、武器を取る。

 

 木立の男は、振り向いた拍子に枝へ肩をぶつけた。

 

 その前へ、弥兵衛が立った。

 

 男は尻餅をつき、短剣を両手で突き出した。

 

「来るな!」

 

 刃先が震え、木漏れ日を細かく弾く。

 

 弥兵衛は横へ1歩出て、振り向けられた刃の外から手首を取った。

 

 指がほどけると、短剣を取り上げる。

 

「や、やめてくれ」

 

「では、動くでない」

 

 襟首を持ち上げると、男は両手を土へついた。

 

 弥兵衛はその腕を放さず、道へ連れ戻した。

 

 馬車のそばでは、父親が娘を背に庇い、縄の束を握り締めていた。

 

 弥兵衛は男を座らせた。

 

「それを、もう少し借りるぞ」

 

「は、はい」

 

 男の手首を縛り、先に倒した者たちも路肩へ集めた。

 

 父親は娘をそばから離さず、弥兵衛が縄を掛けるたび、その端を渡した。

 

 投げられた2人は、起こされるだけで声を上げた。

 

 頭目の胸も、ゆっくり上下している。

 

 最後に用心棒の足首へ縄を回すと、男が顔を上げた。

 

「旦那、俺は……」

 

 父親の手が止まった。

 

 用心棒は、その手の縄を見ていた。

 

「娘さんには、何もしなかったろう」

 

 娘が父の袖を掴んだ。

 

 父親はその手へ自分の手を重ね、用心棒から離れた。

 

 弥兵衛が縄の端を引くと、用心棒は口をつぐんだ。

 

 盗賊6人と、用心棒。

 

 7人が縛られて並ぶと、街道には馬の鼻息が聞こえるようになった。

 

 父親が娘を抱き締めた。

 

「怪我はないか。どこも、痛くないか」

 

「大丈夫……お父さんは」

 

「何ともない。何ともないから」

 

 弥兵衛は落ちた刃物を集め、馬から離れた所へ置いた。

 

 背後で、娘の泣く声がした。

 

 父親は何度も同じことを言い、その背を撫でていた。

 

 弥兵衛は馬の方へ回り、地面へ落ちた手綱を拾った。

 

 馬が鼻を寄せてくる。

 

「お主も、災難であったのう」

 

 首筋を撫でていると、父親がようやく顔を上げた。

 

「娘を助けていただいて……何と、お礼を申し上げれば」

 

「怪我がなくて、何よりよ」

 

「私が、あんな男を雇ったばかりに」

 

 父親は言いかけ、娘の髪へ手を添えた。

 

「この子を連れていたから、道中が心配で。それなのに……」

 

 声が詰まった。

 

 弥兵衛は手綱を返した。

 

「守ろうと思うたのであろう。娘御を抱いてやれる手が残って、よかった」

 

 父親は手綱を受け取ると、また娘のそばへ戻った。

 

 娘が、その腕から少しだけ顔を出した。

 

「お爺さん」

 

「何じゃ」

 

「腕は……怪我、してませんか」

 

 弥兵衛は左の袖を見た。

 

 刃を受けた所が開き、下の腕が覗いている。

 

「腕は無事じゃ。どうやら、袖の方が負けたらしい」

 

 腕を返して見せると、娘の目は肌から裂けた布へ移った。

 

 血は出ていなかった。

 

 娘は何か言いかけたが、まだ声にならず、父の脇へ戻った。

 

 父親が、縛られた者たちを見た。

 

「この者たちを、どうすれば……」

 

「近くに、人を呼べる所はあるかの」

 

「少し戻った所に、村があります」

 

 父親は娘を見た。

 

 その手は、まだ自分の袖を握っている。

 

「2人で行っておいで。わしは、ここで待っておる」

 

「ですが、あなたに何もかも」

 

「こやつらを連れ歩くのは、骨が折れるでな。荷車を頼んできてもらえると、助かる」

 

 父親は頭を下げ、娘の手を取った。

 

 2人が街道を戻っていくのを見送ると、弥兵衛は路肩へ腰を下ろした。

 

 用心棒が肩を動かし、縄を擦っていた。

 

 弥兵衛と目が合うと、その手が止まった。

 

 弥兵衛は竹筒を出し、ひと口飲んだ。

 

 裂けた袖が腕へ引っ掛かるので、指で布を重ねておく。

 

 朝、鍛冶屋の女房が持たせてくれた包みは、潰れていなかった。

 

 懐へ戻し、もうひと口飲んだ。

 

 道の上を、雲の影が動いた。

 

 やがて、荷車の軋む音が聞こえてきた。

 

 父親が村の者たちを連れ、娘とともに戻ってきた。

 

 縛られた7人を見て、男たちが足を止める。

 

「この爺さんが、全部?」

 

「ええ。私たちは、何もできず……」

 

 父親は隣の娘を見た。

 

「この男は、用心棒として雇ったんです。それが、こいつらと組んでいて」

 

 指された用心棒が、顔を背けた。

 

 村の男が、その剣帯を外した。

 

「一緒に連れていく。あとのことも、こっちから知らせよう」

 

 用心棒は何か言いかけたが、腕を取られると、黙って立った。

 

 ほかの者も、荷車へ移されていく。

 

 頭目は持ち上げられた拍子に呻き、薄く目を開いた。

 

 弥兵衛を見ると、また閉じた。

 

 最後の1人が載せられるまで、弥兵衛は荷車のそばにいた。

 

 盗賊と用心棒を乗せた車が村へ戻っていくと、父親は何度も頭を下げて見送った。

 

 車の音が遠ざかり、弥兵衛も外套を直した。

 

 

 

「せめて、何かお礼をさせてください」

 

 父親が懐へ手を入れた。

 

 弥兵衛は馬車へ目をやった。

 

「お主らは、領都へ行くのであったな」

 

「はい。そうですが」

 

「わしも、そちらを目指しておる」

 

 父親が、すぐに荷台を振り返った。

 

「それなら、どうか一緒に。狭い所で申し訳ありませんが、お乗りください」

 

「では、ご厄介になろうか」

 

 弥兵衛が答えると、男は荷の端を寄せ、座る所を作った。

 

「まだ、お名前も伺っておりませんでした」

 

「弥兵衛じゃ」

 

「弥兵衛さん。本当に、助かりました」

 

 差し出された手を借り、弥兵衛は荷台へ上がった。

 

 娘は荷の隣に座り、膝へ小さな包みを広げていた。

 

 目が合うと、少し迷ってから、声を出す。

 

「さっきの袖……私でよければ、縫いましょうか」

 

 包みの中には、針と糸があった。

 

 弥兵衛は裂け目の縁を押さえた。

 

「頼んでもよいかの」

 

「はい。でも、出る前に」

 

「おお、そうじゃな」

 

 父親も声を聞き、御者台から振り向いた。

 

「済むまで、動かさないでおこう」

 

 弥兵衛は左腕を着物の袖から抜いた。

 

 娘はその袖を膝へ広げ、布を重ね合わせた。

 

 糸を針へ通す時、指先はまだ落ち着かぬようだった。

 

 弥兵衛は話しかけず、娘が糸を結ぶのを待った。

 

 針が入ると、裂けて離れていた布が、少しずつ寄った。

 

 小さな針目が並んでいく。

 

 弥兵衛が腕を動かしかけると、娘が布を押さえた。

 

「もう少し、じっとしていてください」

 

「相済まぬ」

 

 御者台で、父親が小さく笑った。

 

 娘は最後の糸を留め、袖の形を戻した。

 

「ちゃんと直すなら、当て布があった方がいいんですけど」

 

「いや。十分に助かった」

 

 弥兵衛は腕を通し、袖口へ手を出した。

 

 さっきは指に掛かっていた裂け目が、もう開かない。

 

「ありがたい。これで、また着て歩ける」

 

 娘は針をしまい、ようやく小さく笑った。

 

 父親が荷綱を引き、ほどけた所がないか確かめていた。

 

「弥兵衛さん。もう、よろしいですか」

 

「うむ。頼む」

 

 父親が御者台へ戻り、馬へ声を掛けた。

 

 車が揺れ、石畳の継ぎ目を車輪が越える。

 

 弥兵衛は荷へ背を預け、繕われた袖を膝に置いた。

 

 歩く時より高い所から、道と畑が見えている。

 

 娘は包みを畳み、弥兵衛へ向き直った。

 

「東から、いらしたんですか」

 

「うむ。昨日、森を抜けたところよ」

 

「あの森を……」

 

 娘は後ろを見かけ、途中で、老人の顔へ目を戻した。

 

「旅のこと、聞いてもいいですか」

 

「飯の話なら、長くなるぞ」

 

 娘の口元が、さっきより柔らかくなった。

 

 荷台の木箱が小さく擦れ、車輪がまた、石の継ぎ目を踏んだ。

 

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