城門の影へ入ると、石畳を踏む車輪の音が大きくなった。
弥兵衛は荷台から腰を浮かせ、門の上を見上げた。
積み上げた石の間には草もなく、壁際を歩く兵の靴音が、馬の蹄に重なっている。
父親が御者台で手綱を引き、前を行く荷車が動くのを待った。
娘は膝の包みを押さえ、門の向こうを覗いていた。
列が進み、再び陽の下へ出た。
通りの両側に店が並んでいる。
軒先で布を広げる者がいれば、籠を抱えて車の間を抜ける者もいた。
魚を売る声が通り、すぐそばで焼き物の煙が上がる。
弥兵衛はその煙を目で追い、さらに顔を上げた。
「……ほう」
屋根の向こうに、大きな建物があった。
並んだ窓を下から数えると、5階ある。
窓枠の高さが横に揃い、壁は軒へ向かって真っ直ぐに伸びていた。
古い家の木組みとは、ずいぶん様子が違う。
「あれは、城の建物かの」
「いいえ。共同商館です」
父親は人を避けながら、御者台から答えた。
「商いをする者や、買い物の客が出入りする所ですよ」
「あの高さまで、荷を運ぶのか」
「お店ばかりではありませんけれどね。この頃は、大きな建物も増えました」
馬車が進むと、別の屋根越しにも、高い窓が見えた。
あちらも同じほどの背丈がある。
壁の重さを受ける下の造りを見たかったが、店の庇と行き交う人に隠れ、車の上からでは分からなかった。
「そんなに珍しいですか」
娘が、弥兵衛と建物を交互に見ていた。
「城や塔なら見てきた。商いのために、あれほど高く積むとはのう」
「上まで登ったら、遠くまで見えそうですね」
「うむ。じゃが、忘れ物をすると難儀じゃ」
娘が笑ったところで、車輪が石の継ぎ目を踏んだ。
弥兵衛は荷に手をつき、座り直した。
焼けた麦の匂いに、魚の脂の匂いが混じって流れていく。
「ところで、リュシア商会というのも、あの中かの」
「そちらは別ですよ。私たちの荷を届けるのが、リュシア商会の商館です」
「おお。そこへ行くのであったか」
「ご用がおありですか」
「村の鍛冶屋に、食い物のことなら、そこで聞くとよいと教わった」
父親が御者台で振り向いた。
「では、ちょうどいい。荷を渡す間、お待ちいただけますか」
「急ぐ旅ではない。商いを先に済ませなされ」
馬車が通りを曲がると、背の高い建物が庇の向こうへ隠れた。
今度は両側から、荷綱の擦れる音や、人を呼ぶ声が近くなった。
リュシア商会の前では、荷を運び込む男が車へ手を振っていた。
父親は馬車を寄せ、手綱を留めた。
荷台から降りた娘が覆い布の端を解くと、並んだ木箱が現れる。
弥兵衛も石畳へ下り、通りを塞がぬ所で待った。
「約束の荷を、お届けに参りました」
父親が声を掛けると、店員が札を見に来た。
その奥から、頭に赤茶色の布を巻いた若い女が出てくる。
「いらっしゃい。無事に着いたね」
「ええ。道中、少し災難がありまして」
「怪我をしたのかい」
「いえ。娘も、私も。それに、荷も無事です」
女は父親の隣の娘を見てから、店員へ荷受けを頼んだ。
「それならよかった。中で見せてもらおう」
運び出す箱へ父親が手を掛けると、娘がその脇へ回った。
「お父さん、先に渡すのは、奥の箱」
「ああ。そうだったな」
娘は荷札を表へ返し、店員へ見せた。
「こちらです。紐の結び目の下に、印があります」
店員が受け取り、女が札へ目を通す。
「助かるよ。荷を積む時も、手伝ったのかい」
「はい。お父さんと」
「じゃあ、その順に渡しておくれ。私はリュシア。こっちで受けるから」
娘は頷き、次の札へ手を伸ばした。
父親はその指す箱を運び、作業台へ載せた。
蓋が開き、店員が品を取り出して比べる。
弥兵衛には中身のよしあしまでは分からなかったが、リュシアが父親へ返す言葉に滞りはなかった。
積まれていた箱が減るにつれ、父親の声も通るようになってきた。
最後の箱を下ろすと、娘が空になった荷台へ上がった。
隅に残った札を拾い、布と綱を畳んでいる。
「お主の包みも、忘れぬようにな」
弥兵衛が声を掛けると、娘は小さな布包みを持ち上げた。
「これは、持ってます」
「ならば、よし」
娘は包みを抱え、荷台から下りてきた。
中へ入る父親に続き、弥兵衛も戸口をくぐる。
棚の間では客が品を選び、奥からは、箱を置く低い音がした。
帳場へ進んだ父親が、リュシアから受け取った代金を袋へ収める。
「これで、お預かりした分は全部です」
「ああ。次も、よろしく頼むよ」
父親は袋の口を結び、娘へ見せた。
娘が両手でその袋を包むと、父親も笑った。
弥兵衛も帳場を離れ、父娘と売り場を通って戸口へ向かった。
甘く焦げる匂いがした。
鼻先をかすめ、棚の向こうへ薄れていく。
弥兵衛は、そちらへ顔を向けた。
油で肉を焼く匂いなら、町へ入ってから何度も嗅いだ。
だが、今のものは違う。
焦げた皮の香ばしさに混じる、塩辛く、深い匂い。
弥兵衛は、戸口の手前で立ち止まった。
「……待たれよ」
戸口へ向かっていた父娘が足を止めた。
「どうしたんですか」
娘の声へ答える前に、もう1度、香りが流れてきた。
弥兵衛は、その先へ歩いた。
瓶や壺を並べた棚の脇に、小さな焼き台がある。
店員が肉へ何かを塗り、火へかざしていた。
落ちた滴が炭へ当たり、細い煙を上げる。
弥兵衛はそこで止まった。
「この匂いは……」
「醤油ですよ」
追いついた父親が、店員のそばの器を指した。
「肉や魚に使うんです。最近では、うちでも」
「しょうゆ」
声に出すと、店員が顔を上げた。
器の中の褐色の液が、差し込む光を返している。
「……あるのか。ここに」
「ご存じなんですか」
娘が訊いた。
「知っておるとも」
弥兵衛は答えたが、次の言葉が出てこなかった。
店員が焼けた肉を小さく切り、皿へ取った。
近づいてきたリュシアが、それを弥兵衛へ勧める。
「食べてみるかい。味を知ってもらうために、焼いてるんだ」
「頂いても、よいか」
「そのために切ったんだよ」
渡された小皿を受け取り、弥兵衛は肉を口へ運んだ。
表面に焦げ目があり、歯を入れると、温かい脂が出た。
そのあとに醤油の塩気が来る。
弥兵衛は噛むのをゆっくりにした。
飲み込んでも、口の中に香りが残っている。
店員の手元では、次の肉が火へかざされていた。
「故郷の匂いがするのう」
リュシアが、皿を持つ弥兵衛を見た。
「故郷でも、使ってたのかい」
「うむ。魚にも、野菜にも。少しあると、飯が旨くなる」
皿を返そうとして、弥兵衛は器の縁に残る汁へ目を留めた。
「……飯が欲しくなるな」
「さっき、道でパンを食べたばかりですよ」
娘が言うと、父親も口元を緩めた。
「それとは、別じゃ」
弥兵衛が言うと、リュシアが笑った。
「気に入ったなら、もう1つ、飲んでいきな。こっちも知ってるかもしれないね」
棚の壺へ蓋を戻していた店員に、リュシアが声を掛けた。
「味噌の汁を。この方にも頼むよ」
弥兵衛は、差し出しかけた皿を持ったまま、顔を上げた。
「……味噌まであるのか」
棚の脇にある客用の席へ案内されると、弥兵衛は腰の刀を邪魔にならぬ方へ寄せた。
店員が小さな椀を運んでくる。
受け取った手に、じんわりと熱が移った。
湯気の下で、汁が淡く濁っている。
弥兵衛は鼻を近づけ、それから、椀へ口をつけた。
熱い汁が舌を覆った。
口を離し、ひと息つく。
椀の縁へついた味噌の細かな粒を見ながら、もうひと口飲んだ。
味の濃さは、覚えていたものと少し違う。
それでも、喉を通ったあと、腹の底まで温まるようだった。
「どうだい」
リュシアに訊かれ、弥兵衛は椀を持ち直した。
「……旨いのう」
両手で椀を包むと、節の太い指が、その縁をほとんど隠した。
底へ溜まった分を揺すり、飲む。
何か言おうとしたが、先に、もうひと口飲みたくなった。
リュシアは弥兵衛の隣へ父娘を座らせ、店員へ椀を頼んでいた。
帳場から呼ばれると、そちらへ短く返事をする。
弥兵衛はその声を聞きながら、最後の汁を飲み干した。
底に残った粒を、しばらく眺めていた。
「お爺さん」
「うむ」
「なくなりましたよ」
「……そうじゃな」
娘が自分の椀を両手で持ち、こちらを見ていた。
弥兵衛は空の椀を卓へ置いた。
「懐かしい味でな。つい、飲んでしまった」
「お代わりなら、ありますよ」
店員が鍋を持ち上げ、弥兵衛は少し身を乗り出した。
「では、もう1杯、頼めるかの」
新しく注がれた汁から、湯気が立った。
その向こうに酒の棚があり、瓶の札が下がっている。
弥兵衛は、椀へ伸ばした手を止めた。
「あの札は……焼酎とあるのか」
帳場から戻ったリュシアが、棚を見た。
「ああ。芋焼酎だよ」
「なんと、焼酎まであるのか!」
娘が目を丸くし、それから笑った。
弥兵衛は椀を置き、棚の方へ体を向けていた。
「なんという商会じゃ。わしに、ここへ住めと申すか」
「店は夜になったら閉めるよ」
「それは困るのう」
「お酒のそばが、いいんですか」
娘に訊かれ、弥兵衛は椀を引き寄せた。
「味噌も、ここにある」
父親が笑いをこらえ、娘は先に吹き出した。
リュシアは棚から瓶を取るよう店員へ頼んだ。
「これも知ってるなら、味を見てもらおうか」
小さな杯が、弥兵衛の前へ置かれた。
注がれた酒は透き通っている。
近づけると、芋の甘い香りが鼻へ届いた。
昨夜の馬乳酒とは違う、強い酒の匂いだった。
弥兵衛は少し含み、舌へ広げた。
飲み下すと喉が熱くなり、息と一緒に香りが戻ってきた。
「おお……これじゃ」
杯を明るい方へかざし、残った酒を眺める。
「こちらでも、芋を酒にするとは」
「遠くから来たんだね。どの辺りだい」
「東の、ずっと向こうよ」
リュシアはもう1度、弥兵衛の着物を見た。
「そこで、味噌も醤油も」
「うむ。ここまで来れば、もう口にすることもなかろうと思うておった」
杯を置き、味噌の椀を取った。
飲む前に、弥兵衛は笑った。
「危うく、長居をするところじゃ」
「もう、してますよ」
娘が言い、弥兵衛も笑って椀を傾けた。
店員が空いた皿を下げると、リュシアが父親へ声を掛けた。
「そういえば、こちらは道連れの方かい。さっき、紹介を聞きそびれたね」
父親は置いていた袋から手を離した。
「弥兵衛さんです。道で、私たちの命を救ってくださいました」
リュシアの笑いが収まった。
「災難があったっていうのは、そのことかい」
「雇った用心棒が、盗賊と通じていまして」
父親が娘の方を見た。
娘は椀を卓へ置き、父のそばへ寄った。
「荷を渡しても、私を連れていくって。その人も、剣を抜いて」
リュシアは話を遮らず、娘の前の椀を脇へ寄せた。
「そこへ、お爺さんが」
娘は弥兵衛を見てから、両手を広げた。
「盗賊が短剣で刺したのに、ガインって、腕で跳ね返したんです」
「腕で?」
「ここです」
娘が自分の左腕を押さえた。
リュシアの目が、弥兵衛の袖へ向いた。
先ほど縫ってもらった所へ、細かな針目が並んでいる。
「その裂け目かい」
「腕は、何ともなかったんですよ。それに、人を持ち上げて投げて……刀は、抜かなかったんです」
娘の声が強くなり、父親がその肩へ手を添えた。
「7人とも、村の者に引き渡しました。あの用心棒も、一緒に」
「……それは、怖かったね」
リュシアは父娘を見て言い、それから弥兵衛へ向き直った。
「何も持たずに、相手をしたのかい」
「刀は、持っておったよ」
「抜かなかったんだろう」
「うむ。袖は、娘御に世話になったがの」
娘が、膝の包みを押さえた。
「ちゃんとしたお礼は、まだです」
「この袖で、町まで来られた。十分に助かったよ」
弥兵衛が袖を少し上げると、リュシアも縫い目を見た。
その目が、腰の刀へ移る。
「変わった形の剣だね。反ってる」
「刀と申す。自分で打ったものよ」
「自分で?」
「鉄に魔物の素材を合わせてな。旅の途中でも、直して使うておる」
リュシアは手を伸ばさず、柄と鞘を見ていた。
「ずいぶん、いろんなことをする旅人なんだね」
「腹が減れば、飯も作るぞ」
「そっちは、聞く前から分かるよ」
弥兵衛が笑い、娘の肩も少し下がった。
父親は残っていた汁を飲み、椀を置いた。
弥兵衛も杯の最後を飲んだ。
舌に残る芋の香りを惜しみながら、空の杯を見た。
「さて。こちらの酒を、旅へ連れていきたいところじゃが」
リュシアが、椅子へ座り直した。
「買っていくなら、包むよ」
「その前に、商いの話をしてもよいかの」
「魔石は、ここでも買い取っておるか」
弥兵衛が訊くと、リュシアは卓へ目をやった。
「扱ってるよ。品を見せてもらえるかい」
「少々、持っておる」
靄から出した魔石を手の上へ載せると、リュシアが腰を上げた。
「こっちへ来ておくれ。飲み物の卓より、広げやすい所がある」
案内された台は、客が出入りする通路から離れていた。
リュシアが布を敷き、弥兵衛はその上へ魔石を置いた。
窓から入る光が、石の端へ溜まる。
もう1つ出すと、リュシアは布ごと手前へ引き寄せ、向きを変えた。
「まだ、あるのかい」
「あるぞ。長いこと、持って歩いておるでな」
「魔石ばかり?」
「角も、皮も。刀の材料に使うが、残っておるものも多い」
弥兵衛は角と、畳んだ皮の一部を出した。
角が布の上へ当たり、硬い音を立てる。
リュシアは角を持ち、削り取られた所へ目を留めた。
「ここは、自分で使った跡かい」
「うむ。使える所を削って、鉄へ合わせた」
リュシアは台へ戻し、先に魔石を取り上げた。
弥兵衛は相手の手が空くのを待った。
刀へ入れる材料なら、自分で見て選べる。
だが、この町で何を欲しがり、どれほど払うかは、こちらの商人の方が知っている。
「弥兵衛さん」
リュシアは魔石を布へ戻した。
「申し訳ないけど、魔石は今、うちじゃ高く買えないね」
「そうか」
「付けられるのは、このくらいになる」
示された値を見て、弥兵衛は頷いた。
「では、持っておこう」
手を伸ばすと、リュシアが訊いた。
「この先、どっちへ行くつもりなんだい」
「西へ。王都を通り、その先へも行ってみようと思うておる」
「それなら、王都で見てもらうといい。紹介状を書こうか」
弥兵衛は、台から顔を上げた。
「買い手を知っておるのか」
「グスタフ・ハーゲンさん。王都の商業ギルド長だよ。こういう品を売りたいなら、まず相談できる」
リュシアは魔石の脇へ、角と皮を並べた。
「こっちも、合わせて見てもらいな。持っていくなら、品を選べる方がいいだろう」
「お主の商いには、ならぬが」
「味噌と酒を買っていくんだろう?」
弥兵衛は笑った。
「それは、そうじゃ」
「ただし、私より高く買うって約束じゃないよ。あちらで、品を見てもらってからだ」
「心得た。まずは、話を聞いてもらえるのがありがたい」
弥兵衛は魔石を手に取り、角や皮とともに《収納》へ戻した。
リュシアは帳場へ声を掛け、紙と筆記具を受け取った。
「名前は、弥兵衛さんでいいね」
「うむ。それで通る」
リュシアは文を書き、乾かしてから封をした。
表に宛名を添え、弥兵衛へ渡す。
「王都の商業ギルドで、これを出しておくれ」
弥兵衛は封を両手で受け取った。
「道の先へ、頼める者ができた。世話になる」
宛名をもう1度読み、靄の中へ収める。
リュシアが布を畳むのを見てから、弥兵衛は小袋を出した。
「さて。魔石は王都へ持っていくとして、こちらはどうかの」
袋の口を開くと、細かな金の粒が寄り合っていた。
「砂金だね」
「こちらの銀貨に替えてもらえるか。土地の金が、心もとなくてな」
「買い取りでよければ、できるよ。重さと、金の質を見せてもらう」
「頼む」
リュシアが皿を持ってくると、弥兵衛は袋から砂金の一部を移した。
小さな粒が重なり、乾いた音がした。
秤の皿が傾き、載せられた分銅と釣り合う。
リュシアは金を調べ、帳場で買い取りの値を出した。
弥兵衛は示された額と、脇に書かれた重さを見た。
「これなら、宿を取って、飯を食えるかの」
「それには困らないよ」
「酒も切らさずに済むか」
「飲み方によるね」
振り返ると、娘が父親の隣で笑っていた。
弥兵衛はリュシアへ向き直った。
「では、それでお願いしよう」
砂金の皿が商会の側へ引かれ、代わりに銀貨が並べられた。
重ねた貨幣が、木の台へ短く鳴る。
弥兵衛は代金を受け取り、小袋とともに《収納》へ収めた。
腰や懐へ吊るせば、歩くたびに触れ合う音がするほどの銀貨だった。
「では、醤油と味噌を頂こうか。それから、焼酎も」
リュシアは近くの店員を呼んだ。
「売り場へ頼むよ。ご自分で選ぶから」
弥兵衛が席へ戻ると、娘が針の包みを抱えて立った。
「一緒に見てもいいですか」
「もちろんじゃ。どの味噌がよいか、教えてもらおうかの」
「さっき飲んだのは、こっちだと思います」
娘が指し、店員が壺を出してくれた。
弥兵衛は醤油の容器も選び、焼酎の瓶の前へ移った。
「こちらは、もう少し」
差し出された瓶へ手を添えると、リュシアが横から言った。
「味噌より酒が多くなりそうだね」
「旅は長いでな」
「味噌も、旅の間に使うんだろう?」
弥兵衛は並んだ品を見直した。
「それも、そうじゃな。では、味噌を増やすとしよう」
「お酒は減らさないんですね」
娘に言われ、弥兵衛は笑った。
代金を出そうとすると、娘がその手元を覗いた。
「宿代は、残してくださいね」
「残るはずじゃ。のう、リュシア殿」
「私に聞くんじゃないよ。払う前に、こっちをご覧」
買った品の代金を示され、弥兵衛は銀貨を出した。
受け取った釣り銭をしまい、渡された味噌と醤油を《収納》へ収める。
店員が包んだ焼酎も受け取り、靄の中へ送った。
最後の瓶が消えるまで見ていた娘へ、弥兵衛は空の両手を広げた。
「これで、歩きやすくなった」
「持ってる時より、嬉しそうです」
「割る心配がないでな」
リュシアが窓のそばへ椅子を寄せ、弥兵衛ももう1度腰を下ろした。
父親は娘と外へ出て、馬車を見に行った。
窓の向こうでは、荷を担いだ男たちが庇の影へ入っていく。
弥兵衛は、味噌の椀を置いていた卓を見た。
「あの味噌も、醤油も。造った者に、礼を申したいのう」
「うちの食品会社で造ってる品だよ」
リュシアは、売り場へ戻る店員へ器を渡した。
「ただ、造り方を教えてくれたのは、押入商会の人たちなんだ」
「押入商会」
弥兵衛は、鍛冶場で聞いた名を言い直した。
「村の親方からも聞いた。その者たちも、こちらにおるのか」
「紹介はできるよ。でも、今すぐここへ呼ぶわけにはいかないね。いつも同じ所にいる人たちじゃないんだ」
「構わぬ。いずれ会えたら、でよい」
「伝えておこう。東の旅人が、味を喜んでくれたって」
「ぜひ、頼む」
窓の外へ、大きな荷車が通った。
弥兵衛はその向こうに、先ほど見上げた建物の窓を見つけた。
「この町は、見ておく所が多そうじゃな」
「うちで運航してる飛行船も、見ていくといいよ」
「ひこうせん?」
「空を飛ぶ船だよ」
弥兵衛は、窓から顔を戻した。
「船が、空を飛ぶとな」
「そうだよ。人や荷を乗せてね」
弥兵衛は窓の上を見た。
屋根の切れ目にある空には、雲が流れていた。
船底を見上げるとは、どのような眺めだろう。
甲板に立てば、あの高い建物も下になるのか。
「……ほっほ。長生きはしてみるものじゃ」
「すぐ乗れるかどうかは、別だけどね」
「まずは、見てみたい。飛ぶところをな」
リュシアが立とうとした時、弥兵衛はもう1つ、鍛冶屋の話を思い出した。
「それと、三毛の吟遊詩人を知っておるか。小さな手琴を弾くという」
「レイニャのことだね。知ってるよ」
弥兵衛はその名を聞き、椅子へ座り直した。
「歌を、聞いてみたいと思うておった」
「今日、どこで弾いてるかは……」
リュシアは通りかかった店員へ訊いた。
店員は、酒を届けた店で今夜の演奏の話を聞いたという。
店の場所を教えてくれる間、弥兵衛は窓から見える通りと、指す方角を見比べた。
「夕方からだそうだよ。今からなら、ゆっくり行ける」
「重ねて、世話になる」
「買った酒があるのに、また酒場へ行くんだね」
「今度は、歌を聞きに行くのじゃ」
リュシアは笑い、店員に道をもう1度教えるよう頼んだ。
外へ出ると、馬車は店の前から脇へ寄せられていた。
空になった荷台の上で、娘が覆い布を畳んでいる。
父親は馬の鼻先を撫で、弥兵衛を見ると手綱を持って近づいてきた。
「お買い物も、済みましたか」
「うむ。よい所へ連れてきてもろうた」
「私の方こそ、こうして荷を届けられて」
父親は帳場で受け取った袋へ手を添えた。
「仕事を済ませたら、改めてお礼をと思っていたんです」
懐へ手を入れかけたところで、弥兵衛は首を振った。
「町まで乗せてもらい、袖も直してもろうた。もう、十分じゃ」
「ですが、それだけでは」
父親が言い、荷台の娘もこちらを見た。
「こちらの金も手に入った。飯と酒には、困らずに済むよ」
「では、せめて今夜の宿を。これから私たちも取るところですから、一緒に」
「1晩、ご用意させてください。それなら、お受けいただけませんか」
弥兵衛は父親を見てから、荷台の娘へ顔を向けた。
娘の腕の中で、畳んだ覆い布が少しずつ傾いていた。
「……では、1晩だけ、甘えようかの」
父親が笑った。
娘も布を荷台へ置き、両手を離した。
弥兵衛は振り返り、リュシアへ別れの礼を述べた。
「紹介状のことも、礼を申し上げる。味噌がなくなる頃には、また寄らせてもらおう」
「焼酎の方が、先になくなるんじゃないかい」
「その時も、頼む」
リュシアは笑って、通りへ出る馬車を見送った。
父親が馬を引き、弥兵衛も荷台の脇を歩いた。
通りの石へ、庇の影が長く伸びている。
宿が決まり、父親が馬車を預ける頃には、軒先の店から片付ける音が聞こえ始めていた。
弥兵衛は今夜の部屋を教わると、再び戸口へ出た。
娘がそこまで追ってきた。
「歌を聞きに、行くんですよね」
「うむ。戻りが遅くなれば、先に休んでおいで」
「また、一緒にご飯を食べましょうね」
「旨いものがあれば、いつでもな」
娘は笑い、弥兵衛の左袖へ目をやった。
「お酒ばかりは、駄目ですよ。それから、袖もまた破かないでください」
「……難しい約束が、2つも増えたのう」
「難しくないです」
父親が戸口へ来た。
娘はその隣へ戻り、弥兵衛へ手を振った。
弥兵衛も片手を上げ、教わった道へ足を向けた。
袖は腕に引っ掛からず、歩くたび、いつものように揺れていた。
店の戸を開ける前に、弦の音が聞こえた。
杯の触れる音や笑い声の奥で、細い音が幾つも続いている。
弥兵衛は戸を押した。
焼いた肉と酒の匂いが、温かい空気と一緒に顔へ当たった。
壁際の卓で男たちが食事をしている。
料理を運ぶ女が、その背後を横向きに通り抜けた。
弦の音は、店の奥から聞こえていた。
弥兵衛は顔を向けた。
小さなハープを抱えた、三毛のケット・シーがいた。
立てた耳も、頬も、短い毛に覆われている。
白に茶と黒が交じり、灯火を受けた頬の毛が艶を返した。
椅子の脇には、尾がゆるく下りている。
弥兵衛は、戸を押さえていた手を離した。
後ろで戸が戻ったが、しばらく、その場を動かなかった。
歌が始まった。
思いがけず、よく通る声だった。
高く張り上げる時も言葉が崩れず、弦の響きが声を追っていく。
「お客さん。座るなら、こっちが空いてるよ」
声を掛けられ、弥兵衛は通り道を空けた。
勧められた壁際の席へ座り、腰の刀を寄せる。
「酒を、1つ頼む」
女が注文を取り、厨房へ戻っていった。
弥兵衛は顔を上げた。
レイニャが弦を弾くと、指に沿って毛が動いた。
次の言葉へ移る前に、耳がわずかに傾く。
弥兵衛の指が、膝の上で曲がった。
繕われた袖へ触れ、そのまま置いた。
隣の卓では、男が杯を持って相槌を打っている。
話の続きを言いかけた相手が、歌の切れ目を待ち、声を低くして返した。
レイニャはそちらへ顔を向け、次の節を明るく歌った。
男たちが笑い、1人が卓を指で叩いた。
弥兵衛も、歌に合わせて息をついた。
旅立った者の歩みを追う歌だった。
道の先で雨に降られ、知らぬ町の軒を借りる。
軽やかだった弦の響きが、声の低くなるところで、ゆっくりになった。
弥兵衛は背を椅子へ預けかけ、途中でやめた。
肘を膝へ置き、少し前へ体を寄せた。
いつの間にか、卓に酒が来ていた。
杯の脇に指を添えたが、持ち上げなかった。
レイニャが歌う間、店では皿を置く音も、戸を出入りする足音もしていた。
そのどれが近くを通っても、弥兵衛は顔を上げたままだった。
最後の言葉が伸び、ハープの音が追いついて消えた。
拍手が起きた。
弥兵衛は目尻を指で拭い、遅れて手を打った。
隣の男が何かを叫び、レイニャが耳を立てて笑った。
「ありがとニャ。少し、喉を潤すニャ」
椅子から下り、ハープを脇へ置く。
弥兵衛も、ようやく杯を取った。
ひと口飲み、喉を通してから、もう1度、三毛の姿を見た。
レイニャがこちらを向いた。
目が合うと、小さな器を持って近づいてくる。
「お爺ちゃん。さっきから、ずっと聞いてたニャ?」
「うむ。よい歌であった」
「ありがとニャ。ここ、初めて?」
「今日、町へ来たところよ。村の鍛冶屋が、歌の噂を聞かせてくれた」
「それで、来てくれたニャ?」
「歌を聞いた行商人が、もう1晩、町に泊まりたくなったそうじゃ」
レイニャの耳が動いた。
「それは、嬉しいニャ」
弥兵衛は器を持つ手と、その顔を見た。
口を開きかけてから、杯を卓へ戻す。
「わしは弥兵衛という」
「レイニャだニャ。旅をして、歌ってるニャ」
「旅か。わしもよ」
レイニャが、老人の外套と草鞋へ目をやった。
「遠くから来たニャ?」
「うむ。じゃが、その話は、あとにしてもよいかの」
弥兵衛はハープのある方へ顔を向けた。
「もう1曲、聞かせてもらえぬか」
「もちろんニャ。どんな歌がいい?」
弥兵衛は少し考え、レイニャへ顔を戻した。
「……お主の好きな歌を頼む」
レイニャは頷き、器を空にした。
ハープを抱えて椅子へ戻ると、膝の上へ据え直す。
弥兵衛は卓の杯を脇へ寄せた。
三毛の指が弦へ掛かり、最初の音が鳴った。