押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第448話 故郷の匂いがするのう

 

 城門の影へ入ると、石畳を踏む車輪の音が大きくなった。

 

 弥兵衛は荷台から腰を浮かせ、門の上を見上げた。

 

 積み上げた石の間には草もなく、壁際を歩く兵の靴音が、馬の蹄に重なっている。

 

 父親が御者台で手綱を引き、前を行く荷車が動くのを待った。

 

 娘は膝の包みを押さえ、門の向こうを覗いていた。

 

 列が進み、再び陽の下へ出た。

 

 通りの両側に店が並んでいる。

 

 軒先で布を広げる者がいれば、籠を抱えて車の間を抜ける者もいた。

 

 魚を売る声が通り、すぐそばで焼き物の煙が上がる。

 

 弥兵衛はその煙を目で追い、さらに顔を上げた。

 

「……ほう」

 

 屋根の向こうに、大きな建物があった。

 

 並んだ窓を下から数えると、5階ある。

 

 窓枠の高さが横に揃い、壁は軒へ向かって真っ直ぐに伸びていた。

 

 古い家の木組みとは、ずいぶん様子が違う。

 

「あれは、城の建物かの」

 

「いいえ。共同商館です」

 

 父親は人を避けながら、御者台から答えた。

 

「商いをする者や、買い物の客が出入りする所ですよ」

 

「あの高さまで、荷を運ぶのか」

 

「お店ばかりではありませんけれどね。この頃は、大きな建物も増えました」

 

 馬車が進むと、別の屋根越しにも、高い窓が見えた。

 

 あちらも同じほどの背丈がある。

 

 壁の重さを受ける下の造りを見たかったが、店の庇と行き交う人に隠れ、車の上からでは分からなかった。

 

「そんなに珍しいですか」

 

 娘が、弥兵衛と建物を交互に見ていた。

 

「城や塔なら見てきた。商いのために、あれほど高く積むとはのう」

 

「上まで登ったら、遠くまで見えそうですね」

 

「うむ。じゃが、忘れ物をすると難儀じゃ」

 

 娘が笑ったところで、車輪が石の継ぎ目を踏んだ。

 

 弥兵衛は荷に手をつき、座り直した。

 

 焼けた麦の匂いに、魚の脂の匂いが混じって流れていく。

 

「ところで、リュシア商会というのも、あの中かの」

 

「そちらは別ですよ。私たちの荷を届けるのが、リュシア商会の商館です」

 

「おお。そこへ行くのであったか」

 

「ご用がおありですか」

 

「村の鍛冶屋に、食い物のことなら、そこで聞くとよいと教わった」

 

 父親が御者台で振り向いた。

 

「では、ちょうどいい。荷を渡す間、お待ちいただけますか」

 

「急ぐ旅ではない。商いを先に済ませなされ」

 

 馬車が通りを曲がると、背の高い建物が庇の向こうへ隠れた。

 

 今度は両側から、荷綱の擦れる音や、人を呼ぶ声が近くなった。

 

 リュシア商会の前では、荷を運び込む男が車へ手を振っていた。

 

 父親は馬車を寄せ、手綱を留めた。

 

 荷台から降りた娘が覆い布の端を解くと、並んだ木箱が現れる。

 

 弥兵衛も石畳へ下り、通りを塞がぬ所で待った。

 

「約束の荷を、お届けに参りました」

 

 父親が声を掛けると、店員が札を見に来た。

 

 その奥から、頭に赤茶色の布を巻いた若い女が出てくる。

 

「いらっしゃい。無事に着いたね」

 

「ええ。道中、少し災難がありまして」

 

「怪我をしたのかい」

 

「いえ。娘も、私も。それに、荷も無事です」

 

 女は父親の隣の娘を見てから、店員へ荷受けを頼んだ。

 

「それならよかった。中で見せてもらおう」

 

 運び出す箱へ父親が手を掛けると、娘がその脇へ回った。

 

「お父さん、先に渡すのは、奥の箱」

 

「ああ。そうだったな」

 

 娘は荷札を表へ返し、店員へ見せた。

 

「こちらです。紐の結び目の下に、印があります」

 

 店員が受け取り、女が札へ目を通す。

 

「助かるよ。荷を積む時も、手伝ったのかい」

 

「はい。お父さんと」

 

「じゃあ、その順に渡しておくれ。私はリュシア。こっちで受けるから」

 

 娘は頷き、次の札へ手を伸ばした。

 

 父親はその指す箱を運び、作業台へ載せた。

 

 蓋が開き、店員が品を取り出して比べる。

 

 弥兵衛には中身のよしあしまでは分からなかったが、リュシアが父親へ返す言葉に滞りはなかった。

 

 積まれていた箱が減るにつれ、父親の声も通るようになってきた。

 

 最後の箱を下ろすと、娘が空になった荷台へ上がった。

 

 隅に残った札を拾い、布と綱を畳んでいる。

 

「お主の包みも、忘れぬようにな」

 

 弥兵衛が声を掛けると、娘は小さな布包みを持ち上げた。

 

「これは、持ってます」

 

「ならば、よし」

 

 娘は包みを抱え、荷台から下りてきた。

 

 中へ入る父親に続き、弥兵衛も戸口をくぐる。

 

 棚の間では客が品を選び、奥からは、箱を置く低い音がした。

 

 帳場へ進んだ父親が、リュシアから受け取った代金を袋へ収める。

 

「これで、お預かりした分は全部です」

 

「ああ。次も、よろしく頼むよ」

 

 父親は袋の口を結び、娘へ見せた。

 

 娘が両手でその袋を包むと、父親も笑った。

 

 弥兵衛も帳場を離れ、父娘と売り場を通って戸口へ向かった。

 

 

 

 甘く焦げる匂いがした。

 

 鼻先をかすめ、棚の向こうへ薄れていく。

 

 弥兵衛は、そちらへ顔を向けた。

 

 油で肉を焼く匂いなら、町へ入ってから何度も嗅いだ。

 

 だが、今のものは違う。

 

 焦げた皮の香ばしさに混じる、塩辛く、深い匂い。

 

 弥兵衛は、戸口の手前で立ち止まった。

 

「……待たれよ」

 

 戸口へ向かっていた父娘が足を止めた。

 

「どうしたんですか」

 

 娘の声へ答える前に、もう1度、香りが流れてきた。

 

 弥兵衛は、その先へ歩いた。

 

 瓶や壺を並べた棚の脇に、小さな焼き台がある。

 

 店員が肉へ何かを塗り、火へかざしていた。

 

 落ちた滴が炭へ当たり、細い煙を上げる。

 

 弥兵衛はそこで止まった。

 

「この匂いは……」

 

「醤油ですよ」

 

 追いついた父親が、店員のそばの器を指した。

 

「肉や魚に使うんです。最近では、うちでも」

 

「しょうゆ」

 

 声に出すと、店員が顔を上げた。

 

 器の中の褐色の液が、差し込む光を返している。

 

「……あるのか。ここに」

 

「ご存じなんですか」

 

 娘が訊いた。

 

「知っておるとも」

 

 弥兵衛は答えたが、次の言葉が出てこなかった。

 

 店員が焼けた肉を小さく切り、皿へ取った。

 

 近づいてきたリュシアが、それを弥兵衛へ勧める。

 

「食べてみるかい。味を知ってもらうために、焼いてるんだ」

 

「頂いても、よいか」

 

「そのために切ったんだよ」

 

 渡された小皿を受け取り、弥兵衛は肉を口へ運んだ。

 

 表面に焦げ目があり、歯を入れると、温かい脂が出た。

 

 そのあとに醤油の塩気が来る。

 

 弥兵衛は噛むのをゆっくりにした。

 

 飲み込んでも、口の中に香りが残っている。

 

 店員の手元では、次の肉が火へかざされていた。

 

「故郷の匂いがするのう」

 

 リュシアが、皿を持つ弥兵衛を見た。

 

「故郷でも、使ってたのかい」

 

「うむ。魚にも、野菜にも。少しあると、飯が旨くなる」

 

 皿を返そうとして、弥兵衛は器の縁に残る汁へ目を留めた。

 

「……飯が欲しくなるな」

 

「さっき、道でパンを食べたばかりですよ」

 

 娘が言うと、父親も口元を緩めた。

 

「それとは、別じゃ」

 

 弥兵衛が言うと、リュシアが笑った。

 

「気に入ったなら、もう1つ、飲んでいきな。こっちも知ってるかもしれないね」

 

 棚の壺へ蓋を戻していた店員に、リュシアが声を掛けた。

 

「味噌の汁を。この方にも頼むよ」

 

 弥兵衛は、差し出しかけた皿を持ったまま、顔を上げた。

 

「……味噌まであるのか」

 

 棚の脇にある客用の席へ案内されると、弥兵衛は腰の刀を邪魔にならぬ方へ寄せた。

 

 店員が小さな椀を運んでくる。

 

 受け取った手に、じんわりと熱が移った。

 

 湯気の下で、汁が淡く濁っている。

 

 弥兵衛は鼻を近づけ、それから、椀へ口をつけた。

 

 熱い汁が舌を覆った。

 

 口を離し、ひと息つく。

 

 椀の縁へついた味噌の細かな粒を見ながら、もうひと口飲んだ。

 

 味の濃さは、覚えていたものと少し違う。

 

 それでも、喉を通ったあと、腹の底まで温まるようだった。

 

「どうだい」

 

 リュシアに訊かれ、弥兵衛は椀を持ち直した。

 

「……旨いのう」

 

 両手で椀を包むと、節の太い指が、その縁をほとんど隠した。

 

 底へ溜まった分を揺すり、飲む。

 

 何か言おうとしたが、先に、もうひと口飲みたくなった。

 

 リュシアは弥兵衛の隣へ父娘を座らせ、店員へ椀を頼んでいた。

 

 帳場から呼ばれると、そちらへ短く返事をする。

 

 弥兵衛はその声を聞きながら、最後の汁を飲み干した。

 

 底に残った粒を、しばらく眺めていた。

 

「お爺さん」

 

「うむ」

 

「なくなりましたよ」

 

「……そうじゃな」

 

 娘が自分の椀を両手で持ち、こちらを見ていた。

 

 弥兵衛は空の椀を卓へ置いた。

 

「懐かしい味でな。つい、飲んでしまった」

 

「お代わりなら、ありますよ」

 

 店員が鍋を持ち上げ、弥兵衛は少し身を乗り出した。

 

「では、もう1杯、頼めるかの」

 

 新しく注がれた汁から、湯気が立った。

 

 その向こうに酒の棚があり、瓶の札が下がっている。

 

 弥兵衛は、椀へ伸ばした手を止めた。

 

「あの札は……焼酎とあるのか」

 

 帳場から戻ったリュシアが、棚を見た。

 

「ああ。芋焼酎だよ」

 

「なんと、焼酎まであるのか!」

 

 娘が目を丸くし、それから笑った。

 

 弥兵衛は椀を置き、棚の方へ体を向けていた。

 

「なんという商会じゃ。わしに、ここへ住めと申すか」

 

「店は夜になったら閉めるよ」

 

「それは困るのう」

 

「お酒のそばが、いいんですか」

 

 娘に訊かれ、弥兵衛は椀を引き寄せた。

 

「味噌も、ここにある」

 

 父親が笑いをこらえ、娘は先に吹き出した。

 

 リュシアは棚から瓶を取るよう店員へ頼んだ。

 

「これも知ってるなら、味を見てもらおうか」

 

 小さな杯が、弥兵衛の前へ置かれた。

 

 注がれた酒は透き通っている。

 

 近づけると、芋の甘い香りが鼻へ届いた。

 

 昨夜の馬乳酒とは違う、強い酒の匂いだった。

 

 弥兵衛は少し含み、舌へ広げた。

 

 飲み下すと喉が熱くなり、息と一緒に香りが戻ってきた。

 

「おお……これじゃ」

 

 杯を明るい方へかざし、残った酒を眺める。

 

「こちらでも、芋を酒にするとは」

 

「遠くから来たんだね。どの辺りだい」

 

「東の、ずっと向こうよ」

 

 リュシアはもう1度、弥兵衛の着物を見た。

 

「そこで、味噌も醤油も」

 

「うむ。ここまで来れば、もう口にすることもなかろうと思うておった」

 

 杯を置き、味噌の椀を取った。

 

 飲む前に、弥兵衛は笑った。

 

「危うく、長居をするところじゃ」

 

「もう、してますよ」

 

 娘が言い、弥兵衛も笑って椀を傾けた。

 

 店員が空いた皿を下げると、リュシアが父親へ声を掛けた。

 

「そういえば、こちらは道連れの方かい。さっき、紹介を聞きそびれたね」

 

 父親は置いていた袋から手を離した。

 

「弥兵衛さんです。道で、私たちの命を救ってくださいました」

 

 リュシアの笑いが収まった。

 

「災難があったっていうのは、そのことかい」

 

「雇った用心棒が、盗賊と通じていまして」

 

 父親が娘の方を見た。

 

 娘は椀を卓へ置き、父のそばへ寄った。

 

「荷を渡しても、私を連れていくって。その人も、剣を抜いて」

 

 リュシアは話を遮らず、娘の前の椀を脇へ寄せた。

 

「そこへ、お爺さんが」

 

 娘は弥兵衛を見てから、両手を広げた。

 

「盗賊が短剣で刺したのに、ガインって、腕で跳ね返したんです」

 

「腕で?」

 

「ここです」

 

 娘が自分の左腕を押さえた。

 

 リュシアの目が、弥兵衛の袖へ向いた。

 

 先ほど縫ってもらった所へ、細かな針目が並んでいる。

 

「その裂け目かい」

 

「腕は、何ともなかったんですよ。それに、人を持ち上げて投げて……刀は、抜かなかったんです」

 

 娘の声が強くなり、父親がその肩へ手を添えた。

 

「7人とも、村の者に引き渡しました。あの用心棒も、一緒に」

 

「……それは、怖かったね」

 

 リュシアは父娘を見て言い、それから弥兵衛へ向き直った。

 

「何も持たずに、相手をしたのかい」

 

「刀は、持っておったよ」

 

「抜かなかったんだろう」

 

「うむ。袖は、娘御に世話になったがの」

 

 娘が、膝の包みを押さえた。

 

「ちゃんとしたお礼は、まだです」

 

「この袖で、町まで来られた。十分に助かったよ」

 

 弥兵衛が袖を少し上げると、リュシアも縫い目を見た。

 

 その目が、腰の刀へ移る。

 

「変わった形の剣だね。反ってる」

 

「刀と申す。自分で打ったものよ」

 

「自分で?」

 

「鉄に魔物の素材を合わせてな。旅の途中でも、直して使うておる」

 

 リュシアは手を伸ばさず、柄と鞘を見ていた。

 

「ずいぶん、いろんなことをする旅人なんだね」

 

「腹が減れば、飯も作るぞ」

 

「そっちは、聞く前から分かるよ」

 

 弥兵衛が笑い、娘の肩も少し下がった。

 

 父親は残っていた汁を飲み、椀を置いた。

 

 弥兵衛も杯の最後を飲んだ。

 

 舌に残る芋の香りを惜しみながら、空の杯を見た。

 

「さて。こちらの酒を、旅へ連れていきたいところじゃが」

 

 リュシアが、椅子へ座り直した。

 

「買っていくなら、包むよ」

 

「その前に、商いの話をしてもよいかの」

 

「魔石は、ここでも買い取っておるか」

 

 弥兵衛が訊くと、リュシアは卓へ目をやった。

 

「扱ってるよ。品を見せてもらえるかい」

 

「少々、持っておる」

 

 靄から出した魔石を手の上へ載せると、リュシアが腰を上げた。

 

「こっちへ来ておくれ。飲み物の卓より、広げやすい所がある」

 

 案内された台は、客が出入りする通路から離れていた。

 

 リュシアが布を敷き、弥兵衛はその上へ魔石を置いた。

 

 窓から入る光が、石の端へ溜まる。

 

 もう1つ出すと、リュシアは布ごと手前へ引き寄せ、向きを変えた。

 

「まだ、あるのかい」

 

「あるぞ。長いこと、持って歩いておるでな」

 

「魔石ばかり?」

 

「角も、皮も。刀の材料に使うが、残っておるものも多い」

 

 弥兵衛は角と、畳んだ皮の一部を出した。

 

 角が布の上へ当たり、硬い音を立てる。

 

 リュシアは角を持ち、削り取られた所へ目を留めた。

 

「ここは、自分で使った跡かい」

 

「うむ。使える所を削って、鉄へ合わせた」

 

 リュシアは台へ戻し、先に魔石を取り上げた。

 

 弥兵衛は相手の手が空くのを待った。

 

 刀へ入れる材料なら、自分で見て選べる。

 

 だが、この町で何を欲しがり、どれほど払うかは、こちらの商人の方が知っている。

 

「弥兵衛さん」

 

 リュシアは魔石を布へ戻した。

 

「申し訳ないけど、魔石は今、うちじゃ高く買えないね」

 

「そうか」

 

「付けられるのは、このくらいになる」

 

 示された値を見て、弥兵衛は頷いた。

 

「では、持っておこう」

 

 手を伸ばすと、リュシアが訊いた。

 

「この先、どっちへ行くつもりなんだい」

 

「西へ。王都を通り、その先へも行ってみようと思うておる」

 

「それなら、王都で見てもらうといい。紹介状を書こうか」

 

 弥兵衛は、台から顔を上げた。

 

「買い手を知っておるのか」

 

「グスタフ・ハーゲンさん。王都の商業ギルド長だよ。こういう品を売りたいなら、まず相談できる」

 

 リュシアは魔石の脇へ、角と皮を並べた。

 

「こっちも、合わせて見てもらいな。持っていくなら、品を選べる方がいいだろう」

 

「お主の商いには、ならぬが」

 

「味噌と酒を買っていくんだろう?」

 

 弥兵衛は笑った。

 

「それは、そうじゃ」

 

「ただし、私より高く買うって約束じゃないよ。あちらで、品を見てもらってからだ」

 

「心得た。まずは、話を聞いてもらえるのがありがたい」

 

 弥兵衛は魔石を手に取り、角や皮とともに《収納》へ戻した。

 

 リュシアは帳場へ声を掛け、紙と筆記具を受け取った。

 

「名前は、弥兵衛さんでいいね」

 

「うむ。それで通る」

 

 リュシアは文を書き、乾かしてから封をした。

 

 表に宛名を添え、弥兵衛へ渡す。

 

「王都の商業ギルドで、これを出しておくれ」

 

 弥兵衛は封を両手で受け取った。

 

「道の先へ、頼める者ができた。世話になる」

 

 宛名をもう1度読み、靄の中へ収める。

 

 リュシアが布を畳むのを見てから、弥兵衛は小袋を出した。

 

「さて。魔石は王都へ持っていくとして、こちらはどうかの」

 

 袋の口を開くと、細かな金の粒が寄り合っていた。

 

「砂金だね」

 

「こちらの銀貨に替えてもらえるか。土地の金が、心もとなくてな」

 

「買い取りでよければ、できるよ。重さと、金の質を見せてもらう」

 

「頼む」

 

 リュシアが皿を持ってくると、弥兵衛は袋から砂金の一部を移した。

 

 小さな粒が重なり、乾いた音がした。

 

 秤の皿が傾き、載せられた分銅と釣り合う。

 

 リュシアは金を調べ、帳場で買い取りの値を出した。

 

 弥兵衛は示された額と、脇に書かれた重さを見た。

 

「これなら、宿を取って、飯を食えるかの」

 

「それには困らないよ」

 

「酒も切らさずに済むか」

 

「飲み方によるね」

 

 振り返ると、娘が父親の隣で笑っていた。

 

 弥兵衛はリュシアへ向き直った。

 

「では、それでお願いしよう」

 

 砂金の皿が商会の側へ引かれ、代わりに銀貨が並べられた。

 

 重ねた貨幣が、木の台へ短く鳴る。

 

 弥兵衛は代金を受け取り、小袋とともに《収納》へ収めた。

 

 腰や懐へ吊るせば、歩くたびに触れ合う音がするほどの銀貨だった。

 

「では、醤油と味噌を頂こうか。それから、焼酎も」

 

 リュシアは近くの店員を呼んだ。

 

「売り場へ頼むよ。ご自分で選ぶから」

 

 弥兵衛が席へ戻ると、娘が針の包みを抱えて立った。

 

「一緒に見てもいいですか」

 

「もちろんじゃ。どの味噌がよいか、教えてもらおうかの」

 

「さっき飲んだのは、こっちだと思います」

 

 娘が指し、店員が壺を出してくれた。

 

 弥兵衛は醤油の容器も選び、焼酎の瓶の前へ移った。

 

「こちらは、もう少し」

 

 差し出された瓶へ手を添えると、リュシアが横から言った。

 

「味噌より酒が多くなりそうだね」

 

「旅は長いでな」

 

「味噌も、旅の間に使うんだろう?」

 

 弥兵衛は並んだ品を見直した。

 

「それも、そうじゃな。では、味噌を増やすとしよう」

 

「お酒は減らさないんですね」

 

 娘に言われ、弥兵衛は笑った。

 

 代金を出そうとすると、娘がその手元を覗いた。

 

「宿代は、残してくださいね」

 

「残るはずじゃ。のう、リュシア殿」

 

「私に聞くんじゃないよ。払う前に、こっちをご覧」

 

 買った品の代金を示され、弥兵衛は銀貨を出した。

 

 受け取った釣り銭をしまい、渡された味噌と醤油を《収納》へ収める。

 

 店員が包んだ焼酎も受け取り、靄の中へ送った。

 

 最後の瓶が消えるまで見ていた娘へ、弥兵衛は空の両手を広げた。

 

「これで、歩きやすくなった」

 

「持ってる時より、嬉しそうです」

 

「割る心配がないでな」

 

 

 

 リュシアが窓のそばへ椅子を寄せ、弥兵衛ももう1度腰を下ろした。

 

 父親は娘と外へ出て、馬車を見に行った。

 

 窓の向こうでは、荷を担いだ男たちが庇の影へ入っていく。

 

 弥兵衛は、味噌の椀を置いていた卓を見た。

 

「あの味噌も、醤油も。造った者に、礼を申したいのう」

 

「うちの食品会社で造ってる品だよ」

 

 リュシアは、売り場へ戻る店員へ器を渡した。

 

「ただ、造り方を教えてくれたのは、押入商会の人たちなんだ」

 

「押入商会」

 

 弥兵衛は、鍛冶場で聞いた名を言い直した。

 

「村の親方からも聞いた。その者たちも、こちらにおるのか」

 

「紹介はできるよ。でも、今すぐここへ呼ぶわけにはいかないね。いつも同じ所にいる人たちじゃないんだ」

 

「構わぬ。いずれ会えたら、でよい」

 

「伝えておこう。東の旅人が、味を喜んでくれたって」

 

「ぜひ、頼む」

 

 窓の外へ、大きな荷車が通った。

 

 弥兵衛はその向こうに、先ほど見上げた建物の窓を見つけた。

 

「この町は、見ておく所が多そうじゃな」

 

「うちで運航してる飛行船も、見ていくといいよ」

 

「ひこうせん?」

 

「空を飛ぶ船だよ」

 

 弥兵衛は、窓から顔を戻した。

 

「船が、空を飛ぶとな」

 

「そうだよ。人や荷を乗せてね」

 

 弥兵衛は窓の上を見た。

 

 屋根の切れ目にある空には、雲が流れていた。

 

 船底を見上げるとは、どのような眺めだろう。

 

 甲板に立てば、あの高い建物も下になるのか。

 

「……ほっほ。長生きはしてみるものじゃ」

 

「すぐ乗れるかどうかは、別だけどね」

 

「まずは、見てみたい。飛ぶところをな」

 

 リュシアが立とうとした時、弥兵衛はもう1つ、鍛冶屋の話を思い出した。

 

「それと、三毛の吟遊詩人を知っておるか。小さな手琴を弾くという」

 

「レイニャのことだね。知ってるよ」

 

 弥兵衛はその名を聞き、椅子へ座り直した。

 

「歌を、聞いてみたいと思うておった」

 

「今日、どこで弾いてるかは……」

 

 リュシアは通りかかった店員へ訊いた。

 

 店員は、酒を届けた店で今夜の演奏の話を聞いたという。

 

 店の場所を教えてくれる間、弥兵衛は窓から見える通りと、指す方角を見比べた。

 

「夕方からだそうだよ。今からなら、ゆっくり行ける」

 

「重ねて、世話になる」

 

「買った酒があるのに、また酒場へ行くんだね」

 

「今度は、歌を聞きに行くのじゃ」

 

 リュシアは笑い、店員に道をもう1度教えるよう頼んだ。

 

 外へ出ると、馬車は店の前から脇へ寄せられていた。

 

 空になった荷台の上で、娘が覆い布を畳んでいる。

 

 父親は馬の鼻先を撫で、弥兵衛を見ると手綱を持って近づいてきた。

 

「お買い物も、済みましたか」

 

「うむ。よい所へ連れてきてもろうた」

 

「私の方こそ、こうして荷を届けられて」

 

 父親は帳場で受け取った袋へ手を添えた。

 

「仕事を済ませたら、改めてお礼をと思っていたんです」

 

 懐へ手を入れかけたところで、弥兵衛は首を振った。

 

「町まで乗せてもらい、袖も直してもろうた。もう、十分じゃ」

 

「ですが、それだけでは」

 

 父親が言い、荷台の娘もこちらを見た。

 

「こちらの金も手に入った。飯と酒には、困らずに済むよ」

 

「では、せめて今夜の宿を。これから私たちも取るところですから、一緒に」

 

「1晩、ご用意させてください。それなら、お受けいただけませんか」

 

 弥兵衛は父親を見てから、荷台の娘へ顔を向けた。

 

 娘の腕の中で、畳んだ覆い布が少しずつ傾いていた。

 

「……では、1晩だけ、甘えようかの」

 

 父親が笑った。

 

 娘も布を荷台へ置き、両手を離した。

 

 弥兵衛は振り返り、リュシアへ別れの礼を述べた。

 

「紹介状のことも、礼を申し上げる。味噌がなくなる頃には、また寄らせてもらおう」

 

「焼酎の方が、先になくなるんじゃないかい」

 

「その時も、頼む」

 

 リュシアは笑って、通りへ出る馬車を見送った。

 

 父親が馬を引き、弥兵衛も荷台の脇を歩いた。

 

 通りの石へ、庇の影が長く伸びている。

 

 宿が決まり、父親が馬車を預ける頃には、軒先の店から片付ける音が聞こえ始めていた。

 

 弥兵衛は今夜の部屋を教わると、再び戸口へ出た。

 

 娘がそこまで追ってきた。

 

「歌を聞きに、行くんですよね」

 

「うむ。戻りが遅くなれば、先に休んでおいで」

 

「また、一緒にご飯を食べましょうね」

 

「旨いものがあれば、いつでもな」

 

 娘は笑い、弥兵衛の左袖へ目をやった。

 

「お酒ばかりは、駄目ですよ。それから、袖もまた破かないでください」

 

「……難しい約束が、2つも増えたのう」

 

「難しくないです」

 

 父親が戸口へ来た。

 

 娘はその隣へ戻り、弥兵衛へ手を振った。

 

 弥兵衛も片手を上げ、教わった道へ足を向けた。

 

 袖は腕に引っ掛からず、歩くたび、いつものように揺れていた。

 

 

 

 店の戸を開ける前に、弦の音が聞こえた。

 

 杯の触れる音や笑い声の奥で、細い音が幾つも続いている。

 

 弥兵衛は戸を押した。

 

 焼いた肉と酒の匂いが、温かい空気と一緒に顔へ当たった。

 

 壁際の卓で男たちが食事をしている。

 

 料理を運ぶ女が、その背後を横向きに通り抜けた。

 

 弦の音は、店の奥から聞こえていた。

 

 弥兵衛は顔を向けた。

 

 小さなハープを抱えた、三毛のケット・シーがいた。

 

 立てた耳も、頬も、短い毛に覆われている。

 

 白に茶と黒が交じり、灯火を受けた頬の毛が艶を返した。

 

 椅子の脇には、尾がゆるく下りている。

 

 弥兵衛は、戸を押さえていた手を離した。

 

 後ろで戸が戻ったが、しばらく、その場を動かなかった。

 

 歌が始まった。

 

 思いがけず、よく通る声だった。

 

 高く張り上げる時も言葉が崩れず、弦の響きが声を追っていく。

 

「お客さん。座るなら、こっちが空いてるよ」

 

 声を掛けられ、弥兵衛は通り道を空けた。

 

 勧められた壁際の席へ座り、腰の刀を寄せる。

 

「酒を、1つ頼む」

 

 女が注文を取り、厨房へ戻っていった。

 

 弥兵衛は顔を上げた。

 

 レイニャが弦を弾くと、指に沿って毛が動いた。

 

 次の言葉へ移る前に、耳がわずかに傾く。

 

 弥兵衛の指が、膝の上で曲がった。

 

 繕われた袖へ触れ、そのまま置いた。

 

 隣の卓では、男が杯を持って相槌を打っている。

 

 話の続きを言いかけた相手が、歌の切れ目を待ち、声を低くして返した。

 

 レイニャはそちらへ顔を向け、次の節を明るく歌った。

 

 男たちが笑い、1人が卓を指で叩いた。

 

 弥兵衛も、歌に合わせて息をついた。

 

 旅立った者の歩みを追う歌だった。

 

 道の先で雨に降られ、知らぬ町の軒を借りる。

 

 軽やかだった弦の響きが、声の低くなるところで、ゆっくりになった。

 

 弥兵衛は背を椅子へ預けかけ、途中でやめた。

 

 肘を膝へ置き、少し前へ体を寄せた。

 

 いつの間にか、卓に酒が来ていた。

 

 杯の脇に指を添えたが、持ち上げなかった。

 

 レイニャが歌う間、店では皿を置く音も、戸を出入りする足音もしていた。

 

 そのどれが近くを通っても、弥兵衛は顔を上げたままだった。

 

 最後の言葉が伸び、ハープの音が追いついて消えた。

 

 拍手が起きた。

 

 弥兵衛は目尻を指で拭い、遅れて手を打った。

 

 隣の男が何かを叫び、レイニャが耳を立てて笑った。

 

「ありがとニャ。少し、喉を潤すニャ」

 

 椅子から下り、ハープを脇へ置く。

 

 弥兵衛も、ようやく杯を取った。

 

 ひと口飲み、喉を通してから、もう1度、三毛の姿を見た。

 

 レイニャがこちらを向いた。

 

 目が合うと、小さな器を持って近づいてくる。

 

「お爺ちゃん。さっきから、ずっと聞いてたニャ?」

 

「うむ。よい歌であった」

 

「ありがとニャ。ここ、初めて?」

 

「今日、町へ来たところよ。村の鍛冶屋が、歌の噂を聞かせてくれた」

 

「それで、来てくれたニャ?」

 

「歌を聞いた行商人が、もう1晩、町に泊まりたくなったそうじゃ」

 

 レイニャの耳が動いた。

 

「それは、嬉しいニャ」

 

 弥兵衛は器を持つ手と、その顔を見た。

 

 口を開きかけてから、杯を卓へ戻す。

 

「わしは弥兵衛という」

 

「レイニャだニャ。旅をして、歌ってるニャ」

 

「旅か。わしもよ」

 

 レイニャが、老人の外套と草鞋へ目をやった。

 

「遠くから来たニャ?」

 

「うむ。じゃが、その話は、あとにしてもよいかの」

 

 弥兵衛はハープのある方へ顔を向けた。

 

「もう1曲、聞かせてもらえぬか」

 

「もちろんニャ。どんな歌がいい?」

 

 弥兵衛は少し考え、レイニャへ顔を戻した。

 

「……お主の好きな歌を頼む」

 

 レイニャは頷き、器を空にした。

 

 ハープを抱えて椅子へ戻ると、膝の上へ据え直す。

 

 弥兵衛は卓の杯を脇へ寄せた。

 

 三毛の指が弦へ掛かり、最初の音が鳴った。

 

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