最後の弦が鳴りやむと、隣の卓から拍手が起きた。
弥兵衛も手を打った。
レイニャはハープを抱えたまま頭を下げ、奥で声を掛けた客へ耳を向けている。
さっきの歌とは違う、足取りの軽くなる歌だった。
途中から杯の底で拍子を取っていた男が、まだ同じ調子で卓を叩いていた。
弥兵衛は膝へ手を戻し、歌い手が楽器を下ろすまで見ていた。
店員から水をもらったレイニャが、こちらへやってくる。
「お爺ちゃん、今の歌はどうだったニャ?」
「よい歌じゃった。酒を飲むのも忘れてしもうた」
レイニャが卓の杯を覗き、口元を緩めた。
「まだ残ってるニャ」
「冷めて困る酒でなくて、よかったのう」
弥兵衛が杯を取ると、レイニャは卓の空いた側へ器を置いた。
「さっきの旅の話、聞きたいニャ」
「飯の話でもよいか」
「もちろんニャ」
弥兵衛は、東の草原で馬の乳の酒を飲んだ話をした。
家の外へ出ると、遮るものがなく、遠くの馬の群れまで見えた。
夜には、酒の器へ砂が入り込んだ。
「砂まで一緒に飲んだニャ?」
「上の方だけ、そっとな。急いで飲むと、歯に残る」
「難しい酒だニャ」
「腹を空かせて飲むよりは、易しいよ」
レイニャが笑い、弥兵衛も杯を傾けた。
戸が開き、食事を終えた客が夜の通りへ出ていく。
冷たい風が卓の端を撫で、料理の匂いが薄れた。
「お主は、昼にも歌っておるのか」
「歌う日もあるニャ。でも、今は孤児院のお手伝いもしてるニャ」
レイニャは、水の器を両手で持った。
「ルカとルネっていう兄妹と、一緒に暮らしてるニャ。子どもたち、鶏のお世話と卵集めで大忙しニャ」
「鶏を飼うておるのか」
「そうニャ。みんな、卵を割らないように運ぶのが上手になってるニャ」
「それは、賑やかな朝であろうな」
朝の鳥の声と、子どもが籠を抱えて走る様子を思い浮かべ、弥兵衛は笑った。
「では、明日も早いのう」
「お爺ちゃんは、明日も旅を続けるニャ?」
「しばし、町を見て歩こうと思うておる。そのあとは、西へ」
レイニャの耳が、こちらを向いた。
「どうして、西へ行くニャ?」
弥兵衛は、杯を卓へ置いた。
「我が半身の魂を追いかける旅じゃ」
レイニャは、黙って老人の顔を見ていた。
弥兵衛は、膝へ掛かった左袖を直した。
「……大切なんだニャ」
「うむ」
奥の卓で、椅子を引く音がした。
レイニャはそちらへ会釈し、飲み終えた器を持った。
「また、歌を聞きに来てニャ」
「ぜひ、聞かせてもらおう」
弥兵衛は銀貨を出し、レイニャへ差し出した。
「今夜の歌の礼じゃ」
レイニャは両手で受け取り、にっと笑った。
「ありがとニャ。また、飯の話も聞かせてニャ」
酒の勘定を済ませて外へ出ると、店の灯りが石畳へ長く伸びていた。
戸の向こうで、レイニャが主人へ挨拶をする声がした。
弥兵衛は外套を寄せ、宿へ向かった。
鎧戸の閉じた店の前を通ると、昼間は見えなかった車輪の跡が、灯りの下へ浮かんでいた。
道の曲がり角で立ち止まり、さっき通った店の軒を見つける。
そちらへ歩いていくと、宿の戸口が見えた。
中の者へ戻ったことを告げ、部屋へ上がる。
刀を腰から外し、寝床の脇へ横たえた。
外套を脱ぐと、娘の繕ってくれた左袖が灯りを受けた。
縫い目の上を、指で軽く撫でた。
「……明日も、顔を合わせられるかの」
朝には、もうひと声、礼を言っておこう。
弥兵衛は腰を下ろした。
歌の途中で忘れていた酒の味が、今になって戻ってくる。
もうひと口、焼酎を飲むかと思いかけた。
だが、戸口で娘に言われたことまで、一緒に思い出した。
弥兵衛は小さく笑い、枕へ頭を預けた。
耳の奥に、ハープの明るい節が残っていた。
翌朝、食堂へ下りると、パンを焼く匂いがした。
窓のそばで、娘が手を上げる。
父親も椀を置き、向かいの席を空けてくれた。
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
「よう寝た。よい宿を、ありがとう」
弥兵衛が座ると、店の者が皿と椀を運んできた。
目玉焼きの皿から、湯気が上がっている。
縁は少し焦げ、真ん中には柔らかい黄身が残っていた。
「昨日の歌、どうでした?」
娘が身を乗り出した。
「見事な声であった。あの歌を聞いて、もう1晩泊まりたくなったという話も、よう分かる」
「では、お酒は?」
「……味を覚えるほどには」
父親がパンを持ったまま笑った。
「それは、杯の数を聞かなくてはいけませんね」
「杯を数えるより、歌を聞きたかったのでな」
「ずるいです」
娘も笑い、父親がパンを取り分けた。
弥兵衛は卵の端を切り、黄身へパンを浸した。
噛むと、塩と温かい脂の味がした。
父親は食事をしながら、今日回る店の順を娘へ話していた。
娘は頷き、荷を渡したあとに畳んだ布のことを確かめている。
「綱の下へ入れた分だな。それも、忘れずに持っていこう」
父親が言い、娘は食事を再開した。
昨日、車輪の陰で父の袖を握っていた手が、今はパンをちぎっている。
弥兵衛も残った卵を食べ、空いた皿を少し前へ出した。
「お代わりも、召し上がりますか」
父親に訊かれ、弥兵衛はパンの籠を見た。
「これを、もう少し頂けるかの」
「どうぞ。町を歩かれるんでしょう」
渡されたパンを割ると、柔らかい中身から、まだ湯気が出た。
宿の前では、出発する荷車へ袋が積まれていた。
父親が馬車を寄せ、娘は荷台の端へ布包みを置いた。
「私たちは、もう少し商いをしていきます。弥兵衛さんは、どちらへ」
「まだ決めておらぬ。よい音か、よい匂いがしたら、そちらへな」
「では、忙しくなりますね」
父親が笑い、弥兵衛も外套を羽織った。
娘が近づいてきて、左袖を少し引いた。
「取れてないですね」
「うむ。よう縫えておるよ」
「また、破かないでくださいね」
「次に会う時は、縫い賃も持ってこねばな」
「破かないでって、言ってるんです」
弥兵衛が笑うと、娘も袖から手を離した。
父親は馬の手綱を持ち、会釈した。
「また、ご縁がありましたら」
「こちらこそ。娘御も、達者でな」
弥兵衛が歩き出すと、背後で娘が名を呼んだ。
振り返り、上がった手へ片手を返す。
父親が馬を引き、娘もその隣を歩いていった。
弥兵衛は2人の背が人波へ入るまで見送り、道へ向き直った。
店の庇から、畳んであった布が広げられている。
鍋の蓋を取る音がし、通りへ煮炊きの匂いが流れてきた。
弥兵衛がそちらを見た時、路地の向こうから、槌の響きが聞こえた。
2つ続き、間が空く。
次の響きを待ってから、弥兵衛は路地へ足を向けた。
鍛冶場の戸は開いていた。
弥兵衛が覗くと、炉の前に太い腕の男が立っていた。
火鋏で鉄を返し、傍らの若者へ何かを言う。
若者が道具を持ち替える間、男は槌を膝の脇へ下げて待った。
先ほどの間は、これだったか。
弥兵衛は戸口の端へ寄り、赤い鉄が金床へ運ばれるのを見た。
槌が落ちるたびに、黒い薄片が跳ねる。
親方は鉄を返し、同じ所へ手早く槌を下ろした。
道へ呼び声が通ったが、弥兵衛は振り向かなかった。
鉄が炉へ戻されるまで、立ったまま眺めていた。
「客か。今は手が離せねえぞ」
「よい槌の音がしたので、ついな。しばし、見ていてもよいかの」
親方は弥兵衛を見て、それから、腰へ目を落とした。
「妙な爺さんだな。そいつも、剣か」
「刀という」
「ずいぶん反ってる。どこの品だ」
「わしが打ったものよ」
親方の目が、腰の鞘から弥兵衛の顔へ戻った。
「あんたが?」
「うむ。手直しをしながら、使うておる」
親方は若者へ火を任せ、作業台の道具を寄せた。
「見せてもらえるか」
「ここへ、置いてもよいかの」
親方が台を指し、弥兵衛は中へ入った。
乾いた熱が、頬から着物の中へ入ってくる。
刀を腰から外し、外套の裾を寄せた。
ゆっくりと鞘を引く。
炉の赤を映した刃を前に、親方は口を閉じた。
さっきまでのようには話しかけてこない。
切先から柄元へ目を走らせ、今度は、光の当たる角度を変えて見ている。
「……研ぎも、あんたがやるのか」
「自分で打ったものは、最後まで面倒を見てやらねばな」
親方は掌の煤を布で拭き、受け取ってよいかと訊いた。
弥兵衛は柄を向けた。
男は両手で受け、刃へ触れぬよう、重さを移した。
「ずいぶん使ってる。それで、この形を残してるのか」
「使い方が悪いと、あとで研ぐ自分が困る」
「打つのも、研ぐのも、使うのも、同じあんたか」
「文句を言う先が、ないのじゃ」
親方が笑った。
もう1度、手元へ刀を引き寄せる。
「こいつは、ちょっと真似して打てるものじゃねえな」
弥兵衛は答える代わりに、金床の脇に置かれた刃物を見た。
「そちらの鎌も、親方が打ったものかの」
「おう。見てみるか」
刀を弥兵衛へ返すと、親方は鎌を取ってきた。
弥兵衛も刀を鞘へ納め、渡された鎌を見た。
刃の付け根から先までを見て、それから柄へ手を掛けた。
「手に、よく収まるのう」
「使う奴が、何度も持ってくる。重いだの、柄が短いだの」
「そのたびに、直すのか」
「買い替えてくれるなら、俺も助かるんだがな」
弥兵衛が笑い、親方も口元を緩めた。
鎌を返すと、男はいつもの置き場へ戻した。
「その刀は、鉄だけじゃねえだろう」
「魔物の素材も合わせておる」
「打つ時に、手間を食いそうだ」
「食うぞ。硬くしたつもりが、研ぐ時に往生したこともある」
「ああ。砥石を替えても、さっぱり進まねえ時がある」
「削れぬからと力を入れると、今度は、そちらを傷めるでな」
親方は台の砥石へ手をやり、使い減った面を撫でた。
「あんたは、どうしてる」
「研ぐことまで考えて、打つ。それでも、思うようにならぬものよ」
親方は笑い、弥兵衛も炉へ目を向けた。
奥で、若者が親方を呼んだ。
「待ってろ。もうひと仕事したら、そっちの続きを聞かせてくれ」
「邪魔をして、相済まぬ」
「邪魔なら、帰してる」
親方は鉄を金床へ載せた。
弥兵衛は炉から離れ、その槌が下りる所を、さっきより近くで眺めた。
親方が鉄を返す手を休めた頃、道から客が入ってきた。
頼んであった農具を受け取りに来たらしい。
若者が壁際へ立ててあったものを運ぶと、客は刃の端を眺め、満足そうに持ち替えた。
「こいつで、また働かせてもらう」
「石を噛ませるなよ。鉄の方が先に参る」
「分かってる。いっそ、何にも負けねえ鉄ならいいんだがな」
客は笑い、刀を差し直していた弥兵衛を見た。
「そういや、聞いたか。オリハルコンの聖剣が、王家へ渡ったって話」
親方の持つ火鋏が、炉の手前で止まった。
弥兵衛は客へ向き直った。
「聖剣とな」
「そういう噂だよ。あれなら、石くらいで欠けもしねえだろう」
「その剣を、農具にするのかの」
「俺にゃ、そっちの方がありがてえ」
客が笑い、親方も火鋏を炉へ入れた。
「その品は、何でできておるのじゃ」
「だから、オリハルコンさ」
「名は知っておるが、手にしたことがなくてな。どんなものか、見た者はおるのか」
客は顎を掻いた。
「さて、そこまでは。俺も、話を聞いただけだ」
農具を担ぎ直すと、客は親方へ礼を言い、通りへ出ていった。
弥兵衛はその背を見送り、炉の方へ顔を戻した。
親方は火鋏を掛け、槌の柄を握り直していた。
「親方は、そういう金属を見たことがあるかの」
親方は、すぐには答えなかった。
炉の炭が崩れ、赤い粒が奥へ落ちた。
「……その噂について、俺が言えることはねえ」
声は低かった。
弥兵衛は親方を見たが、問いを重ねなかった。
男が指先で擦っている槌の柄は、長く握られた所だけ艶がある。
「もし、そんな剣があるのなら」
弥兵衛も、自分の刀へ手を添えた。
「一度、握ってみたいのう」
親方の口元が動いた。
「握るより先に、研げるかどうか知りてえと思う職人も、いるだろうよ」
弥兵衛は笑った。
「そういう者とは、酒が旨そうじゃ」
「飲みながらじゃ、研げねえぞ」
「では、研いだあとに飲むとしよう」
親方も短く笑い、槌を台へ置いた。
弥兵衛は、鎌を見せてもらった礼を述べた。
「わしは、この先、王都へも寄るつもりでな。何か面白いものに会えたら、また話をしに来よう」
「その刀の話も、まだ途中だ」
「次の楽しみに、残しておこうかの」
戸口へ向かうと、親方が顔を上げた。
「爺さん。次に来る時も、その刀を持ってこいよ」
「承知した」
弥兵衛は外へ出た。
背後で槌が鳴り、今度は間を置かず、続けて響いた。
戸口へ目を戻すと、親方はもう、赤い鉄へ顔を寄せていた。
通りへ戻ると、布地を広げた店があった。
弥兵衛は軒先の布を指で挟み、織り目へ光を透かした。
「何を縫うんだい」
店主が、畳んであった別の布も広げてくれた。
「旅衣の繕いに、少し。それと、刀の手入れに使うものを」
「それなら、同じ布じゃ具合が悪い。こっちは丈夫だが、こっちの方が柔らかいよ」
弥兵衛はそれぞれを撫で、端を折って厚みを比べた。
袖を直す分には、今の着物に近いものがよい。
手入れに使う方は、肌へ当ててもざらつかなかった。
「では、その2つを頂こう」
切り分けた布を受け取り、銀貨を出した。
包みを《収納》へ収めると、店主は釣り銭を渡しながら、弥兵衛の手を見た。
「荷物が少ないと思ったら、そういうことか」
「これがあると、つい買いすぎる」
「それなら、うちで済ませていきな」
店主が羊毛の布へ手を伸ばし、弥兵衛は笑って礼を言った。
隣の店には、陶器や硝子の容器が並んでいた。
その端に、妙に薄い、透明な水筒が置かれている。
店の者に断って持ち上げると、手に重みが残らなかった。
「……軽いのう」
「ペットボトルっていうんだ。水を入れると、中にどれくらい残ってるか見えるよ」
弥兵衛は《鑑定》を使った。
材質は硝子ではなく、PET樹脂とある。
馴染みのない名を頭の中で読み、指の腹で、そっと胴を押した。
たわんだ表面が、指を離すと戻った。
「落としても、硝子のようには割れぬのか」
「そんなに簡単にはね。蓋は、こう回す」
示された蓋を自分でも開け、閉じてみる。
「これも、売り物か」
「ああ。最近、空の容器だけ入るようになったんだ。まだ、数は多くないけど」
弥兵衛は棚へ戻さず、そのまま値を訊いた。
買い取った水筒を横から眺め、腰に下げている竹筒と重さを比べる。
「この町は、剣以外にも、手に取っておくものが多いのう」
店の者には訳が分からなかったらしく、笑って容器を渡してくれた。
次の通りでは、肉を切る音がしていた。
店頭の鶏肉を見て、弥兵衛は足を止める。
《鑑定》で肉の状態を見たあと、欲しい分を指した。
肉屋は包みを作りながら、弥兵衛の後ろを見た。
「これだけ買うなら、荷車はどこだ」
「手で持って歩かずとも、済むのでな」
代金を払い、受け取った包みを靄へ入れると、肉屋は頷いて手を拭いた。
「なら、卵も持っていくか。潰すなよ」
「そちらも頼む。肉とは別に、受け取ろう」
卵を入れた籠を両手で受け、傾けぬよう収める。
弥兵衛は、昨日買った味噌と醤油を思い浮かべた。
これで、今度の食事に使える。
土の付いたサツマイモも買った。
村の親方が、まだ食べていないと言っていた芋だった。
籠から持ち上げると、張った皮へ薄く泥が残っている。
「焼くと甘いそうじゃな」
「ああ。急いで火から出すんじゃないよ」
「楽しみにしておこう」
小麦を量ってもらう間、隣の樽から酒を汲む音がした。
弥兵衛がそちらを見たので、酒屋が声を掛けた。
「旅の人かい。酒も持っていくか」
「うむ。焼酎は買うたが、この土地の酒も覚えていきたい」
小麦の袋を収めてから、酒屋へ移った。
勧められた酒を選び、代金を払う。
受け取った容器を《収納》へ収めると、弥兵衛の手は再び空になった。
腰の刀を直し、次の店へ目を向けた時だった。
「ご老人!」
よく通る声が、背後から飛んできた。
弥兵衛が振り向くと、赤毛の少女がこちらを見ていた。
琥珀色の目が、腰の辺りへ向いている。
「その剣は、何というのだ。初めて見る形だぞ」
少女が近づきかけると、そばの護衛が半歩、前へ出た。
「エレナ様、少しお下がりください」
少女は足を止め、弥兵衛を見上げた。
「少し、見せてもらってもよいか」
弥兵衛は笑い、通りの端へ寄った。
「刀というものでな。鞘の形でも、よろしければ」
「刀……」
少女は言い直し、鞘に沿って目を動かした。
弥兵衛の背後では、酒屋が次の客へ容器を渡していた。
その腕を避けた護衛が、少女と通りの間へ立つ。
「エレナ様、こちらへ」
少女は言われた方へ足をずらしたが、刀から目を離さなかった。
「どこで買ったのだ」
「わしが打った」
「自分で!?」
少女の目が、刀から弥兵衛の手へ移った。
「剣を打てるのか。旅人ではないのか」
「旅の途中でも、刃は欠けるでな。打った者が一緒に歩いておれば、何かと都合がよい」
「なるほど!」
「もっと、話を聞きたい。私はエレナ・ヴァルディスだ」
「弥兵衛と申す。東から参った旅人じゃ」
弥兵衛が会釈すると、近くの店の者が、エレナへ挨拶した。
「姫様、お買い物は済みましたか」
「ああ。今は、この刀を見せてもらっている」
エレナは答え、弥兵衛へ向き直った。
弥兵衛は、先ほど鍛冶場で聞いた話を思い出した。
「そういえば、この国には、オリハルコンの聖剣があるという噂を聞いたが」
「そんな話を聞いたのか。誰からだ」
「鍛冶場の客が話しておってな。どんな金属か、一度は見てみたいと思うた」
エレナは腕を組み、唇を結んだ。
「オリハルコンかどうかは、私には分からん」
すぐに、顔を上げた。
「ヴァルト殿なら、何か知っているかもしれんぞ。変わった物や魔術の話に詳しい」
「この町に、おられる方かの」
「ああ。共同商館へ行こう。私が案内する」
「エレナ様。ご老人のご予定は」
護衛が言い、エレナは弥兵衛へ訊き直した。
「どうだ。行ってみるか?」
「それは願ってもない。ご迷惑でなければ、ご一緒させてもらおう」
エレナの顔が明るくなった。
「迷惑なものか。私も、刀の話を聞きたい」
「では、歩きながら話そうかの」
エレナが護衛を振り返った。
「オスカー、共同商館だ」
「承知しました。では、通りのこちら側を」
オスカーが道を空け、エレナと弥兵衛は人波に沿って歩き出した。
通りを抜けると、昨日見上げた建物が正面に現れた。
近くから見ると、窓の幅も、入口を出入りする人の数も、思っていたより大きい。
エレナは先へ出かけ、荷車が曲がってくるのを見て足を止めた。
オスカーがその脇へ立ち、車が通るのを待つ。
「あれが、共同商館だ」
「昨日、車の上から見たが、近くで見るとなお高いのう」
「中へ入れば、もっと面白いぞ」
馬車の輪が通り過ぎると、エレナは入口へ向かった。
弥兵衛もその隣へ並んだ。
敷居を越えると、草鞋の音が変わった。
見上げた窓から光が入り、幾つもの店先を、人が行き来している。
荷を運ぶ者が声を掛け、客が足を引いて道を空けた。
弥兵衛も脇へ寄り、袋を抱えた客を先へ通した。
「リュシア商会でも、珍しいものを見せてもろうたが、こちらも賑やかじゃな」
「いろんな店が入っているからな。用事がなくても、見て歩ける」
「用事が、あとから増えそうじゃ」
エレナが笑い、並んだ店を指しかけた。
オスカーが上の階へ続く方を見たので、少女は手を下ろした。
「そうだった。ヴァルトに会いに来たのだったな」
「どちらに、おいでかの」
「2階で、魔術師を教えている。昼なら、下へ食事に来ているかもしれん」
弥兵衛は、鼻を動かした。
通路の向こうから、焼いた肉の匂いがする。
「食事をする所も、あるのか」
「地下だ。いろんな店が料理を出している」
「それは、楽しみじゃ」
「剣の話をしに来たのだぞ」
「うむ。腹が減っては、刀も振れぬでな」
エレナの視線が、自分の腹へ落ちた。
それから、オスカーを見る。
「……昼だな」
「はい。お食事にしてもよい時間です」
エレナは頷き、弥兵衛へ地下への道を示した。
下りるにつれ、焼けた肉の匂いに、煮込みの香りが重なった。
幾つも卓が並び、食器を持った客がその間を歩いている。
店の者が料理の名を呼び、待っていた客が手を上げた。
弥兵衛は、通路の脇で足を緩めた。
肉へ塗られたたれが焦げる匂いは、昨日の売り場で嗅いだものに似ていた。
別の鍋からは、味噌の香りもしている。
エレナが奥の卓を見て、急に背を伸ばした。
「ヴァルト殿!」
匙を持っていた男が、顔を上げた。
「エレナ様」
男は匙を置き、立ち上がった。
古びた着物の弥兵衛を見ても、すぐには何も訊かず、エレナの言葉を待っている。
「このご老人は、弥兵衛殿だ。自分で刀を打つそうだぞ」
男の目が、弥兵衛の腰へ動いた。
「初めまして。ヴァルトです」
「弥兵衛と申す。食事のところへ、相済まぬ」
「いえ。どうぞ、お掛けください」
ヴァルトが空いた席を示すと、エレナもその脇へ座った。
オスカーは通路側の椅子へ手を添え、料理を運ぶ客が通ってから腰を下ろした。
「オリハルコンの聖剣について、知りたいそうなのだ」
エレナが言うと、ヴァルトは匙から手を離した。
「その名で呼ばれている品でしたら、話を聞いたことがあります」
「おお。そうであったか」
「ただ、オリハルコンではないんです。タングステンという金属です」
ヴァルトは、卓を挟んで話せるほどの声で答えた。
弥兵衛も体を寄せた。
「タングステン……初めて聞く名じゃな」
「それを、剣の形にした試料だそうです。普通の炉では、溶かせない素材だと聞いています」
「その金属で、剣を造ったのか」
「剣として仕上がってはいません。約7kgもあり、刃付けもされていない。柄も鍔も付いていないそうです」
弥兵衛は、腰の刀を見た。
鍛冶場で聞いた名から、いつの間にか、見事な拵えまで思い描いていたらしい。
「握る所もないものを、握ってみたいと申しておったか」
笑ってから、ヴァルトへ向き直る。
「その試料は、どこの刀工が打ったものじゃ」
「鍛造したものではないのです」
「鋳たのか。いや、炉で溶かせぬのなら……」
弥兵衛は言葉を切った。
今朝見てきた炉の赤が、まだ目の奥に残っている。
あれほどの熱へ入れても溶けぬ金属を、誰かが剣の形にしている。
「どうやって、その形にしたのじゃ」
「作り方まで、私からお話しするわけにはいきませんが」
ヴァルトは一度言葉を置き、続けた。
「素材について詳しい方なら、ご紹介できると思います。押入商会の澪さんです」
「押入商会の」
弥兵衛は、顔を上げた。
「昨日、リュシア殿からも聞いた名じゃ。味噌や醤油の造り方を教えた方々だという」
「ええ。その澪さんです」
弥兵衛は、膝の上で手を開いた。
昨日は、懐かしい味の礼を言いたかった。
今度は、知らぬ金属のことまで、その相手へ訊きたくなった。
「それは、ぜひ、会うてみたいのう」
エレナが、弥兵衛の顔を覗いた。
「聖剣ではなかったのに、嬉しそうだな」
「名が何であろうと、まだ打ったことのない金属じゃ。剣の形にもできるとあらば、手にしてみたくなる」
「では、澪に聞けばいいのだな」
「ええ。お会いしたいというお話を、伝えておきましょう」
「ありがたい。急がぬので、都合のよい時にな」
弥兵衛が椅子へ座り直すと、ヴァルトの目が、その腰へ戻った。
「その刀には、どのような素材を使っているのですか」
「鉄に、魔物の素材も合わせておる」
「素材を合わせてから、鍛えるのですね」
「うむ。使うものが変わると、同じつもりで打っても、違う顔を見せる。それが、厄介でもあり、面白くもある」
ヴァルトは頷き、鞘へ目をやった。
「反りに沿って、鞘も作られたのですか」
「もちろんじゃ。刀だけ造っても、提げて歩けぬでな」
弥兵衛は刀を腰から外し、鞘へ納めたまま膝へ載せた。
ヴァルトも身を寄せる。
「旅先で直す時は、こちらの木も使われますか」
「具合のよいものがあればな。柄にするのと、鞘にするのとでは、欲しいところも違う」
話し始めたところで、エレナが卓の向こうから言った。
「2人とも、食事はどうするのだ」
ヴァルトは、自分の皿へ目を戻した。
弥兵衛も、まだ何も頼んでいなかったことに気づいた。
「……腹が減っては、刀も振れぬのであったな」
「さっき、そう言ったぞ」
エレナが立ち上がり、オスカーも席を立った。
弥兵衛は刀を差し直し、ヴァルトへ笑いかけた。
「こちらの刀の話も、飯のあとに聞いてもらえるかの」
「ぜひ。私からも、伺いたいことがあります」