押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第449話 一度、握ってみたいのう

 

 最後の弦が鳴りやむと、隣の卓から拍手が起きた。

 

 弥兵衛も手を打った。

 

 レイニャはハープを抱えたまま頭を下げ、奥で声を掛けた客へ耳を向けている。

 

 さっきの歌とは違う、足取りの軽くなる歌だった。

 

 途中から杯の底で拍子を取っていた男が、まだ同じ調子で卓を叩いていた。

 

 弥兵衛は膝へ手を戻し、歌い手が楽器を下ろすまで見ていた。

 

 店員から水をもらったレイニャが、こちらへやってくる。

 

「お爺ちゃん、今の歌はどうだったニャ?」

 

「よい歌じゃった。酒を飲むのも忘れてしもうた」

 

 レイニャが卓の杯を覗き、口元を緩めた。

 

「まだ残ってるニャ」

 

「冷めて困る酒でなくて、よかったのう」

 

 弥兵衛が杯を取ると、レイニャは卓の空いた側へ器を置いた。

 

「さっきの旅の話、聞きたいニャ」

 

「飯の話でもよいか」

 

「もちろんニャ」

 

 弥兵衛は、東の草原で馬の乳の酒を飲んだ話をした。

 

 家の外へ出ると、遮るものがなく、遠くの馬の群れまで見えた。

 

 夜には、酒の器へ砂が入り込んだ。

 

「砂まで一緒に飲んだニャ?」

 

「上の方だけ、そっとな。急いで飲むと、歯に残る」

 

「難しい酒だニャ」

 

「腹を空かせて飲むよりは、易しいよ」

 

 レイニャが笑い、弥兵衛も杯を傾けた。

 

 戸が開き、食事を終えた客が夜の通りへ出ていく。

 

 冷たい風が卓の端を撫で、料理の匂いが薄れた。

 

「お主は、昼にも歌っておるのか」

 

「歌う日もあるニャ。でも、今は孤児院のお手伝いもしてるニャ」

 

 レイニャは、水の器を両手で持った。

 

「ルカとルネっていう兄妹と、一緒に暮らしてるニャ。子どもたち、鶏のお世話と卵集めで大忙しニャ」

 

「鶏を飼うておるのか」

 

「そうニャ。みんな、卵を割らないように運ぶのが上手になってるニャ」

 

「それは、賑やかな朝であろうな」

 

 朝の鳥の声と、子どもが籠を抱えて走る様子を思い浮かべ、弥兵衛は笑った。

 

「では、明日も早いのう」

 

「お爺ちゃんは、明日も旅を続けるニャ?」

 

「しばし、町を見て歩こうと思うておる。そのあとは、西へ」

 

 レイニャの耳が、こちらを向いた。

 

「どうして、西へ行くニャ?」

 

 弥兵衛は、杯を卓へ置いた。

 

「我が半身の魂を追いかける旅じゃ」

 

 レイニャは、黙って老人の顔を見ていた。

 

 弥兵衛は、膝へ掛かった左袖を直した。

 

「……大切なんだニャ」

 

「うむ」

 

 奥の卓で、椅子を引く音がした。

 

 レイニャはそちらへ会釈し、飲み終えた器を持った。

 

「また、歌を聞きに来てニャ」

 

「ぜひ、聞かせてもらおう」

 

 弥兵衛は銀貨を出し、レイニャへ差し出した。

 

「今夜の歌の礼じゃ」

 

 レイニャは両手で受け取り、にっと笑った。

 

「ありがとニャ。また、飯の話も聞かせてニャ」

 

 酒の勘定を済ませて外へ出ると、店の灯りが石畳へ長く伸びていた。

 

 戸の向こうで、レイニャが主人へ挨拶をする声がした。

 

 弥兵衛は外套を寄せ、宿へ向かった。

 

 鎧戸の閉じた店の前を通ると、昼間は見えなかった車輪の跡が、灯りの下へ浮かんでいた。

 

 道の曲がり角で立ち止まり、さっき通った店の軒を見つける。

 

 そちらへ歩いていくと、宿の戸口が見えた。

 

 中の者へ戻ったことを告げ、部屋へ上がる。

 

 刀を腰から外し、寝床の脇へ横たえた。

 

 外套を脱ぐと、娘の繕ってくれた左袖が灯りを受けた。

 

 縫い目の上を、指で軽く撫でた。

 

「……明日も、顔を合わせられるかの」

 

 朝には、もうひと声、礼を言っておこう。

 

 弥兵衛は腰を下ろした。

 

 歌の途中で忘れていた酒の味が、今になって戻ってくる。

 

 もうひと口、焼酎を飲むかと思いかけた。

 

 だが、戸口で娘に言われたことまで、一緒に思い出した。

 

 弥兵衛は小さく笑い、枕へ頭を預けた。

 

 耳の奥に、ハープの明るい節が残っていた。

 

 

 

 翌朝、食堂へ下りると、パンを焼く匂いがした。

 

 窓のそばで、娘が手を上げる。

 

 父親も椀を置き、向かいの席を空けてくれた。

 

「おはようございます。よくお休みになれましたか」

 

「よう寝た。よい宿を、ありがとう」

 

 弥兵衛が座ると、店の者が皿と椀を運んできた。

 

 目玉焼きの皿から、湯気が上がっている。

 

 縁は少し焦げ、真ん中には柔らかい黄身が残っていた。

 

「昨日の歌、どうでした?」

 

 娘が身を乗り出した。

 

「見事な声であった。あの歌を聞いて、もう1晩泊まりたくなったという話も、よう分かる」

 

「では、お酒は?」

 

「……味を覚えるほどには」

 

 父親がパンを持ったまま笑った。

 

「それは、杯の数を聞かなくてはいけませんね」

 

「杯を数えるより、歌を聞きたかったのでな」

 

「ずるいです」

 

 娘も笑い、父親がパンを取り分けた。

 

 弥兵衛は卵の端を切り、黄身へパンを浸した。

 

 噛むと、塩と温かい脂の味がした。

 

 父親は食事をしながら、今日回る店の順を娘へ話していた。

 

 娘は頷き、荷を渡したあとに畳んだ布のことを確かめている。

 

「綱の下へ入れた分だな。それも、忘れずに持っていこう」

 

 父親が言い、娘は食事を再開した。

 

 昨日、車輪の陰で父の袖を握っていた手が、今はパンをちぎっている。

 

 弥兵衛も残った卵を食べ、空いた皿を少し前へ出した。

 

「お代わりも、召し上がりますか」

 

 父親に訊かれ、弥兵衛はパンの籠を見た。

 

「これを、もう少し頂けるかの」

 

「どうぞ。町を歩かれるんでしょう」

 

 渡されたパンを割ると、柔らかい中身から、まだ湯気が出た。

 

 宿の前では、出発する荷車へ袋が積まれていた。

 

 父親が馬車を寄せ、娘は荷台の端へ布包みを置いた。

 

「私たちは、もう少し商いをしていきます。弥兵衛さんは、どちらへ」

 

「まだ決めておらぬ。よい音か、よい匂いがしたら、そちらへな」

 

「では、忙しくなりますね」

 

 父親が笑い、弥兵衛も外套を羽織った。

 

 娘が近づいてきて、左袖を少し引いた。

 

「取れてないですね」

 

「うむ。よう縫えておるよ」

 

「また、破かないでくださいね」

 

「次に会う時は、縫い賃も持ってこねばな」

 

「破かないでって、言ってるんです」

 

 弥兵衛が笑うと、娘も袖から手を離した。

 

 父親は馬の手綱を持ち、会釈した。

 

「また、ご縁がありましたら」

 

「こちらこそ。娘御も、達者でな」

 

 弥兵衛が歩き出すと、背後で娘が名を呼んだ。

 

 振り返り、上がった手へ片手を返す。

 

 父親が馬を引き、娘もその隣を歩いていった。

 

 弥兵衛は2人の背が人波へ入るまで見送り、道へ向き直った。

 

 店の庇から、畳んであった布が広げられている。

 

 鍋の蓋を取る音がし、通りへ煮炊きの匂いが流れてきた。

 

 弥兵衛がそちらを見た時、路地の向こうから、槌の響きが聞こえた。

 

 2つ続き、間が空く。

 

 次の響きを待ってから、弥兵衛は路地へ足を向けた。

 

 

 

 鍛冶場の戸は開いていた。

 

 弥兵衛が覗くと、炉の前に太い腕の男が立っていた。

 

 火鋏で鉄を返し、傍らの若者へ何かを言う。

 

 若者が道具を持ち替える間、男は槌を膝の脇へ下げて待った。

 

 先ほどの間は、これだったか。

 

 弥兵衛は戸口の端へ寄り、赤い鉄が金床へ運ばれるのを見た。

 

 槌が落ちるたびに、黒い薄片が跳ねる。

 

 親方は鉄を返し、同じ所へ手早く槌を下ろした。

 

 道へ呼び声が通ったが、弥兵衛は振り向かなかった。

 

 鉄が炉へ戻されるまで、立ったまま眺めていた。

 

「客か。今は手が離せねえぞ」

 

「よい槌の音がしたので、ついな。しばし、見ていてもよいかの」

 

 親方は弥兵衛を見て、それから、腰へ目を落とした。

 

「妙な爺さんだな。そいつも、剣か」

 

「刀という」

 

「ずいぶん反ってる。どこの品だ」

 

「わしが打ったものよ」

 

 親方の目が、腰の鞘から弥兵衛の顔へ戻った。

 

「あんたが?」

 

「うむ。手直しをしながら、使うておる」

 

 親方は若者へ火を任せ、作業台の道具を寄せた。

 

「見せてもらえるか」

 

「ここへ、置いてもよいかの」

 

 親方が台を指し、弥兵衛は中へ入った。

 

 乾いた熱が、頬から着物の中へ入ってくる。

 

 刀を腰から外し、外套の裾を寄せた。

 

 ゆっくりと鞘を引く。

 

 炉の赤を映した刃を前に、親方は口を閉じた。

 

 さっきまでのようには話しかけてこない。

 

 切先から柄元へ目を走らせ、今度は、光の当たる角度を変えて見ている。

 

「……研ぎも、あんたがやるのか」

 

「自分で打ったものは、最後まで面倒を見てやらねばな」

 

 親方は掌の煤を布で拭き、受け取ってよいかと訊いた。

 

 弥兵衛は柄を向けた。

 

 男は両手で受け、刃へ触れぬよう、重さを移した。

 

「ずいぶん使ってる。それで、この形を残してるのか」

 

「使い方が悪いと、あとで研ぐ自分が困る」

 

「打つのも、研ぐのも、使うのも、同じあんたか」

 

「文句を言う先が、ないのじゃ」

 

 親方が笑った。

 

 もう1度、手元へ刀を引き寄せる。

 

「こいつは、ちょっと真似して打てるものじゃねえな」

 

 弥兵衛は答える代わりに、金床の脇に置かれた刃物を見た。

 

「そちらの鎌も、親方が打ったものかの」

 

「おう。見てみるか」

 

 刀を弥兵衛へ返すと、親方は鎌を取ってきた。

 

 弥兵衛も刀を鞘へ納め、渡された鎌を見た。

 

 刃の付け根から先までを見て、それから柄へ手を掛けた。

 

「手に、よく収まるのう」

 

「使う奴が、何度も持ってくる。重いだの、柄が短いだの」

 

「そのたびに、直すのか」

 

「買い替えてくれるなら、俺も助かるんだがな」

 

 弥兵衛が笑い、親方も口元を緩めた。

 

 鎌を返すと、男はいつもの置き場へ戻した。

 

「その刀は、鉄だけじゃねえだろう」

 

「魔物の素材も合わせておる」

 

「打つ時に、手間を食いそうだ」

 

「食うぞ。硬くしたつもりが、研ぐ時に往生したこともある」

 

「ああ。砥石を替えても、さっぱり進まねえ時がある」

 

「削れぬからと力を入れると、今度は、そちらを傷めるでな」

 

 親方は台の砥石へ手をやり、使い減った面を撫でた。

 

「あんたは、どうしてる」

 

「研ぐことまで考えて、打つ。それでも、思うようにならぬものよ」

 

 親方は笑い、弥兵衛も炉へ目を向けた。

 

 奥で、若者が親方を呼んだ。

 

「待ってろ。もうひと仕事したら、そっちの続きを聞かせてくれ」

 

「邪魔をして、相済まぬ」

 

「邪魔なら、帰してる」

 

 親方は鉄を金床へ載せた。

 

 弥兵衛は炉から離れ、その槌が下りる所を、さっきより近くで眺めた。

 

 親方が鉄を返す手を休めた頃、道から客が入ってきた。

 

 頼んであった農具を受け取りに来たらしい。

 

 若者が壁際へ立ててあったものを運ぶと、客は刃の端を眺め、満足そうに持ち替えた。

 

「こいつで、また働かせてもらう」

 

「石を噛ませるなよ。鉄の方が先に参る」

 

「分かってる。いっそ、何にも負けねえ鉄ならいいんだがな」

 

 客は笑い、刀を差し直していた弥兵衛を見た。

 

「そういや、聞いたか。オリハルコンの聖剣が、王家へ渡ったって話」

 

 親方の持つ火鋏が、炉の手前で止まった。

 

 弥兵衛は客へ向き直った。

 

「聖剣とな」

 

「そういう噂だよ。あれなら、石くらいで欠けもしねえだろう」

 

「その剣を、農具にするのかの」

 

「俺にゃ、そっちの方がありがてえ」

 

 客が笑い、親方も火鋏を炉へ入れた。

 

「その品は、何でできておるのじゃ」

 

「だから、オリハルコンさ」

 

「名は知っておるが、手にしたことがなくてな。どんなものか、見た者はおるのか」

 

 客は顎を掻いた。

 

「さて、そこまでは。俺も、話を聞いただけだ」

 

 農具を担ぎ直すと、客は親方へ礼を言い、通りへ出ていった。

 

 弥兵衛はその背を見送り、炉の方へ顔を戻した。

 

 親方は火鋏を掛け、槌の柄を握り直していた。

 

「親方は、そういう金属を見たことがあるかの」

 

 親方は、すぐには答えなかった。

 

 炉の炭が崩れ、赤い粒が奥へ落ちた。

 

「……その噂について、俺が言えることはねえ」

 

 声は低かった。

 

 弥兵衛は親方を見たが、問いを重ねなかった。

 

 男が指先で擦っている槌の柄は、長く握られた所だけ艶がある。

 

「もし、そんな剣があるのなら」

 

 弥兵衛も、自分の刀へ手を添えた。

 

「一度、握ってみたいのう」

 

 親方の口元が動いた。

 

「握るより先に、研げるかどうか知りてえと思う職人も、いるだろうよ」

 

 弥兵衛は笑った。

 

「そういう者とは、酒が旨そうじゃ」

 

「飲みながらじゃ、研げねえぞ」

 

「では、研いだあとに飲むとしよう」

 

 親方も短く笑い、槌を台へ置いた。

 

 弥兵衛は、鎌を見せてもらった礼を述べた。

 

「わしは、この先、王都へも寄るつもりでな。何か面白いものに会えたら、また話をしに来よう」

 

「その刀の話も、まだ途中だ」

 

「次の楽しみに、残しておこうかの」

 

 戸口へ向かうと、親方が顔を上げた。

 

「爺さん。次に来る時も、その刀を持ってこいよ」

 

「承知した」

 

 弥兵衛は外へ出た。

 

 背後で槌が鳴り、今度は間を置かず、続けて響いた。

 

 戸口へ目を戻すと、親方はもう、赤い鉄へ顔を寄せていた。

 

 

 

 通りへ戻ると、布地を広げた店があった。

 

 弥兵衛は軒先の布を指で挟み、織り目へ光を透かした。

 

「何を縫うんだい」

 

 店主が、畳んであった別の布も広げてくれた。

 

「旅衣の繕いに、少し。それと、刀の手入れに使うものを」

 

「それなら、同じ布じゃ具合が悪い。こっちは丈夫だが、こっちの方が柔らかいよ」

 

 弥兵衛はそれぞれを撫で、端を折って厚みを比べた。

 

 袖を直す分には、今の着物に近いものがよい。

 

 手入れに使う方は、肌へ当ててもざらつかなかった。

 

「では、その2つを頂こう」

 

 切り分けた布を受け取り、銀貨を出した。

 

 包みを《収納》へ収めると、店主は釣り銭を渡しながら、弥兵衛の手を見た。

 

「荷物が少ないと思ったら、そういうことか」

 

「これがあると、つい買いすぎる」

 

「それなら、うちで済ませていきな」

 

 店主が羊毛の布へ手を伸ばし、弥兵衛は笑って礼を言った。

 

 隣の店には、陶器や硝子の容器が並んでいた。

 

 その端に、妙に薄い、透明な水筒が置かれている。

 

 店の者に断って持ち上げると、手に重みが残らなかった。

 

「……軽いのう」

 

「ペットボトルっていうんだ。水を入れると、中にどれくらい残ってるか見えるよ」

 

 弥兵衛は《鑑定》を使った。

 

 材質は硝子ではなく、PET樹脂とある。

 

 馴染みのない名を頭の中で読み、指の腹で、そっと胴を押した。

 

 たわんだ表面が、指を離すと戻った。

 

「落としても、硝子のようには割れぬのか」

 

「そんなに簡単にはね。蓋は、こう回す」

 

 示された蓋を自分でも開け、閉じてみる。

 

「これも、売り物か」

 

「ああ。最近、空の容器だけ入るようになったんだ。まだ、数は多くないけど」

 

 弥兵衛は棚へ戻さず、そのまま値を訊いた。

 

 買い取った水筒を横から眺め、腰に下げている竹筒と重さを比べる。

 

「この町は、剣以外にも、手に取っておくものが多いのう」

 

 店の者には訳が分からなかったらしく、笑って容器を渡してくれた。

 

 次の通りでは、肉を切る音がしていた。

 

 店頭の鶏肉を見て、弥兵衛は足を止める。

 

 《鑑定》で肉の状態を見たあと、欲しい分を指した。

 

 肉屋は包みを作りながら、弥兵衛の後ろを見た。

 

「これだけ買うなら、荷車はどこだ」

 

「手で持って歩かずとも、済むのでな」

 

 代金を払い、受け取った包みを靄へ入れると、肉屋は頷いて手を拭いた。

 

「なら、卵も持っていくか。潰すなよ」

 

「そちらも頼む。肉とは別に、受け取ろう」

 

 卵を入れた籠を両手で受け、傾けぬよう収める。

 

 弥兵衛は、昨日買った味噌と醤油を思い浮かべた。

 

 これで、今度の食事に使える。

 

 土の付いたサツマイモも買った。

 

 村の親方が、まだ食べていないと言っていた芋だった。

 

 籠から持ち上げると、張った皮へ薄く泥が残っている。

 

「焼くと甘いそうじゃな」

 

「ああ。急いで火から出すんじゃないよ」

 

「楽しみにしておこう」

 

 小麦を量ってもらう間、隣の樽から酒を汲む音がした。

 

 弥兵衛がそちらを見たので、酒屋が声を掛けた。

 

「旅の人かい。酒も持っていくか」

 

「うむ。焼酎は買うたが、この土地の酒も覚えていきたい」

 

 小麦の袋を収めてから、酒屋へ移った。

 

 勧められた酒を選び、代金を払う。

 

 受け取った容器を《収納》へ収めると、弥兵衛の手は再び空になった。

 

 腰の刀を直し、次の店へ目を向けた時だった。

 

「ご老人!」

 

 よく通る声が、背後から飛んできた。

 

 弥兵衛が振り向くと、赤毛の少女がこちらを見ていた。

 

 琥珀色の目が、腰の辺りへ向いている。

 

「その剣は、何というのだ。初めて見る形だぞ」

 

 少女が近づきかけると、そばの護衛が半歩、前へ出た。

 

「エレナ様、少しお下がりください」

 

 少女は足を止め、弥兵衛を見上げた。

 

「少し、見せてもらってもよいか」

 

 弥兵衛は笑い、通りの端へ寄った。

 

「刀というものでな。鞘の形でも、よろしければ」

 

「刀……」

 

 少女は言い直し、鞘に沿って目を動かした。

 

 弥兵衛の背後では、酒屋が次の客へ容器を渡していた。

 

 その腕を避けた護衛が、少女と通りの間へ立つ。

 

「エレナ様、こちらへ」

 

 少女は言われた方へ足をずらしたが、刀から目を離さなかった。

 

「どこで買ったのだ」

 

「わしが打った」

 

「自分で!?」

 

 少女の目が、刀から弥兵衛の手へ移った。

 

「剣を打てるのか。旅人ではないのか」

 

「旅の途中でも、刃は欠けるでな。打った者が一緒に歩いておれば、何かと都合がよい」

 

「なるほど!」

 

「もっと、話を聞きたい。私はエレナ・ヴァルディスだ」

 

「弥兵衛と申す。東から参った旅人じゃ」

 

 弥兵衛が会釈すると、近くの店の者が、エレナへ挨拶した。

 

「姫様、お買い物は済みましたか」

 

「ああ。今は、この刀を見せてもらっている」

 

 エレナは答え、弥兵衛へ向き直った。

 

 弥兵衛は、先ほど鍛冶場で聞いた話を思い出した。

 

「そういえば、この国には、オリハルコンの聖剣があるという噂を聞いたが」

 

「そんな話を聞いたのか。誰からだ」

 

「鍛冶場の客が話しておってな。どんな金属か、一度は見てみたいと思うた」

 

 エレナは腕を組み、唇を結んだ。

 

「オリハルコンかどうかは、私には分からん」

 

 すぐに、顔を上げた。

 

「ヴァルト殿なら、何か知っているかもしれんぞ。変わった物や魔術の話に詳しい」

 

「この町に、おられる方かの」

 

「ああ。共同商館へ行こう。私が案内する」

 

「エレナ様。ご老人のご予定は」

 

 護衛が言い、エレナは弥兵衛へ訊き直した。

 

「どうだ。行ってみるか?」

 

「それは願ってもない。ご迷惑でなければ、ご一緒させてもらおう」

 

 エレナの顔が明るくなった。

 

「迷惑なものか。私も、刀の話を聞きたい」

 

「では、歩きながら話そうかの」

 

 エレナが護衛を振り返った。

 

「オスカー、共同商館だ」

 

「承知しました。では、通りのこちら側を」

 

 オスカーが道を空け、エレナと弥兵衛は人波に沿って歩き出した。

 

 通りを抜けると、昨日見上げた建物が正面に現れた。

 

 近くから見ると、窓の幅も、入口を出入りする人の数も、思っていたより大きい。

 

 エレナは先へ出かけ、荷車が曲がってくるのを見て足を止めた。

 

 オスカーがその脇へ立ち、車が通るのを待つ。

 

「あれが、共同商館だ」

 

「昨日、車の上から見たが、近くで見るとなお高いのう」

 

「中へ入れば、もっと面白いぞ」

 

 馬車の輪が通り過ぎると、エレナは入口へ向かった。

 

 弥兵衛もその隣へ並んだ。

 

 敷居を越えると、草鞋の音が変わった。

 

 見上げた窓から光が入り、幾つもの店先を、人が行き来している。

 

 荷を運ぶ者が声を掛け、客が足を引いて道を空けた。

 

 弥兵衛も脇へ寄り、袋を抱えた客を先へ通した。

 

「リュシア商会でも、珍しいものを見せてもろうたが、こちらも賑やかじゃな」

 

「いろんな店が入っているからな。用事がなくても、見て歩ける」

 

「用事が、あとから増えそうじゃ」

 

 エレナが笑い、並んだ店を指しかけた。

 

 オスカーが上の階へ続く方を見たので、少女は手を下ろした。

 

「そうだった。ヴァルトに会いに来たのだったな」

 

「どちらに、おいでかの」

 

「2階で、魔術師を教えている。昼なら、下へ食事に来ているかもしれん」

 

 弥兵衛は、鼻を動かした。

 

 通路の向こうから、焼いた肉の匂いがする。

 

「食事をする所も、あるのか」

 

「地下だ。いろんな店が料理を出している」

 

「それは、楽しみじゃ」

 

「剣の話をしに来たのだぞ」

 

「うむ。腹が減っては、刀も振れぬでな」

 

 エレナの視線が、自分の腹へ落ちた。

 

 それから、オスカーを見る。

 

「……昼だな」

 

「はい。お食事にしてもよい時間です」

 

 エレナは頷き、弥兵衛へ地下への道を示した。

 

 下りるにつれ、焼けた肉の匂いに、煮込みの香りが重なった。

 

 幾つも卓が並び、食器を持った客がその間を歩いている。

 

 店の者が料理の名を呼び、待っていた客が手を上げた。

 

 弥兵衛は、通路の脇で足を緩めた。

 

 肉へ塗られたたれが焦げる匂いは、昨日の売り場で嗅いだものに似ていた。

 

 別の鍋からは、味噌の香りもしている。

 

 エレナが奥の卓を見て、急に背を伸ばした。

 

「ヴァルト殿!」

 

 匙を持っていた男が、顔を上げた。

 

「エレナ様」

 

 男は匙を置き、立ち上がった。

 

 古びた着物の弥兵衛を見ても、すぐには何も訊かず、エレナの言葉を待っている。

 

「このご老人は、弥兵衛殿だ。自分で刀を打つそうだぞ」

 

 男の目が、弥兵衛の腰へ動いた。

 

「初めまして。ヴァルトです」

 

「弥兵衛と申す。食事のところへ、相済まぬ」

 

「いえ。どうぞ、お掛けください」

 

 ヴァルトが空いた席を示すと、エレナもその脇へ座った。

 

 オスカーは通路側の椅子へ手を添え、料理を運ぶ客が通ってから腰を下ろした。

 

「オリハルコンの聖剣について、知りたいそうなのだ」

 

 エレナが言うと、ヴァルトは匙から手を離した。

 

「その名で呼ばれている品でしたら、話を聞いたことがあります」

 

「おお。そうであったか」

 

「ただ、オリハルコンではないんです。タングステンという金属です」

 

 ヴァルトは、卓を挟んで話せるほどの声で答えた。

 

 弥兵衛も体を寄せた。

 

「タングステン……初めて聞く名じゃな」

 

「それを、剣の形にした試料だそうです。普通の炉では、溶かせない素材だと聞いています」

 

「その金属で、剣を造ったのか」

 

「剣として仕上がってはいません。約7kgもあり、刃付けもされていない。柄も鍔も付いていないそうです」

 

 弥兵衛は、腰の刀を見た。

 

 鍛冶場で聞いた名から、いつの間にか、見事な拵えまで思い描いていたらしい。

 

「握る所もないものを、握ってみたいと申しておったか」

 

 笑ってから、ヴァルトへ向き直る。

 

「その試料は、どこの刀工が打ったものじゃ」

 

「鍛造したものではないのです」

 

「鋳たのか。いや、炉で溶かせぬのなら……」

 

 弥兵衛は言葉を切った。

 

 今朝見てきた炉の赤が、まだ目の奥に残っている。

 

 あれほどの熱へ入れても溶けぬ金属を、誰かが剣の形にしている。

 

「どうやって、その形にしたのじゃ」

 

「作り方まで、私からお話しするわけにはいきませんが」

 

 ヴァルトは一度言葉を置き、続けた。

 

「素材について詳しい方なら、ご紹介できると思います。押入商会の澪さんです」

 

「押入商会の」

 

 弥兵衛は、顔を上げた。

 

「昨日、リュシア殿からも聞いた名じゃ。味噌や醤油の造り方を教えた方々だという」

 

「ええ。その澪さんです」

 

 弥兵衛は、膝の上で手を開いた。

 

 昨日は、懐かしい味の礼を言いたかった。

 

 今度は、知らぬ金属のことまで、その相手へ訊きたくなった。

 

「それは、ぜひ、会うてみたいのう」

 

 エレナが、弥兵衛の顔を覗いた。

 

「聖剣ではなかったのに、嬉しそうだな」

 

「名が何であろうと、まだ打ったことのない金属じゃ。剣の形にもできるとあらば、手にしてみたくなる」

 

「では、澪に聞けばいいのだな」

 

「ええ。お会いしたいというお話を、伝えておきましょう」

 

「ありがたい。急がぬので、都合のよい時にな」

 

 弥兵衛が椅子へ座り直すと、ヴァルトの目が、その腰へ戻った。

 

「その刀には、どのような素材を使っているのですか」

 

「鉄に、魔物の素材も合わせておる」

 

「素材を合わせてから、鍛えるのですね」

 

「うむ。使うものが変わると、同じつもりで打っても、違う顔を見せる。それが、厄介でもあり、面白くもある」

 

 ヴァルトは頷き、鞘へ目をやった。

 

「反りに沿って、鞘も作られたのですか」

 

「もちろんじゃ。刀だけ造っても、提げて歩けぬでな」

 

 弥兵衛は刀を腰から外し、鞘へ納めたまま膝へ載せた。

 

 ヴァルトも身を寄せる。

 

「旅先で直す時は、こちらの木も使われますか」

 

「具合のよいものがあればな。柄にするのと、鞘にするのとでは、欲しいところも違う」

 

 話し始めたところで、エレナが卓の向こうから言った。

 

「2人とも、食事はどうするのだ」

 

 ヴァルトは、自分の皿へ目を戻した。

 

 弥兵衛も、まだ何も頼んでいなかったことに気づいた。

 

「……腹が減っては、刀も振れぬのであったな」

 

「さっき、そう言ったぞ」

 

 エレナが立ち上がり、オスカーも席を立った。

 

 弥兵衛は刀を差し直し、ヴァルトへ笑いかけた。

 

「こちらの刀の話も、飯のあとに聞いてもらえるかの」

 

「ぜひ。私からも、伺いたいことがあります」

 

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