押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

454 / 455
第454話 俺の方がおかしいのか?

 

 初めの村へ無線機を据えてから、数週間が過ぎていた。

 

 領主館の通信室には、交代で詰める通信員が置かれ、丘の塔へ張られたアンテナには、町村からの声が届くようになっている。

 

 数日前には、ある村長から農政官への取り次ぎが求められた。

 

 畑の一角で、昨日まで立っていた麦が、まとまってしおれているという。

 

 隣の畑でも同じことが起き、村の者が集まって見たが、原因が分からなかった。

 

「雨や風で倒れたのとは違うんです。村の年寄りも、こんなのは見たことがないと」

 

 通信員に呼ばれたエーリヒが、マイクを受け取った。

 

「最初に気づいた畑と、隣の畑。その両方を見せてください。これから向かいます」

 

「今日、来ていただけるんですか」

 

「ええ。場所を教えてください」

 

 村長が道を説明する間に、そばの者が馬車の用意へ走った。

 

 エーリヒは革鞄を開き、畑へ持っていく道具を詰め始めた。

 

 馬車が村へ着くと、畑の入口で待っていた男が駆け寄ってきた。

 

「こちらです。隣も見ていただきたいんですが」

 

「順に見せてください。最初に変わったのは、どの辺りですか」

 

 エーリヒは男と並び、麦のしおれた畝へ入っていった。

 

 その翌日、領都の織工房では、金具の割れた織機が止まっていた。

 

 親方は領主館へ出向き、通信員に北の町の同業者を呼び出してもらった。

 

 向こうの工房には、同じ型の織機から外した予備の金具があった。

 

「留め穴の間は、そっちも同じか」

 

 読み上げられた寸法を聞き、親方は手元の割れた金具へ物差しを当てた。

 

「合う。厚さも、それなら使える」

 

「午後、領都へ出す荷車がある。それに載せるぞ」

 

「助かる。こっちは、荷車が着くまでに外しておく」

 

 工房へ戻った親方が袖をまくると、若い職人が顔を上げた。

 

「部品は、見つかったんですか」

 

「ああ。北の町から来る。そっちの工具を取ってくれ」

 

 親方が機台へ潜り込むと、若者も慌てて隣へしゃがんだ。

 

 そして今朝は、西の橋から声が届いた。

 

「こちら、西の橋の管理所。流木が当たって、橋板が持ち上がっています。荷車は止めました」

 

「怪我人は、出ていますか」

 

「いません。ただ、橋の手前に荷が溜まり始めています」

 

 通信員が土木担当の部屋へ知らせると、役人が上着を引っ掛けて出てきた。

 

 マイクを受け取り、橋のどちら側が傷んだかを尋ねる。

 

「分かった。荷車は、そのまま止めておいてくれ。こちらから大工を向かわせる」

 

 役人は通信員へマイクを返した。

 

「川を越える荷は、北側の街道へ回す。橋を使う村へ知らせてくれ」

 

 呼出先が「全局」に切り替わった。

 

「こちら、ヴァルディス領主館。西の橋は、荷車の通行を止めています。川を越える荷は、北側の街道へ回してください」

 

 川上の村では、村長が家から出て、街道へ向かう荷車を呼び止めた。

 

「西の橋は通れんぞ。北へ回ってくれ」

 

「今朝、壊れたのか?」

 

「ああ。今、館から知らせが来た」

 

 御者は川の方を見てから、手綱を引いた。

 

 荷車が向きを変える間に、村長は後ろから来た商人にも声を掛けた。

 

 領主館の中庭では、大工たちが荷車へ工具を積み込んでいる。

 

 資材置き場で、積みかけの梁へ大工が手を置いた。

 

「こっちの長い方を頼む。現場で合わせて切る」

 

 荷車の上から腕が伸び、材の端を受け取った。

 

 北側の街道へ荷を回す知らせを聞き、その道沿いの村長が領主館を呼んだ。

 

 荷車が通るたび、林の中から様子を窺う男たちがいるという。

 

 別の村からも、同じ林の近くで不審な者を見たと知らせが来ていた。

 

 通信員から話を受けたレオンハルトが、地図を広げた。

 

「商隊は村で待たせてくれ。先に詰所から兵を出す」

 

 連絡を受けた街道の詰所で、兵たちが剣帯を締め直す。

 

「林の出口へ見張りを回せ。残りは、村で待っている商隊へ」

 

 出ていく馬の蹄が、詰所の前で土を蹴った。

 

 村の入口で待っていた御者が、近づく軍服を見つけて立ち上がった。

 

「もう、出てよいので?」

 

「我々が先導します。荷車は、離れずについてきてください」

 

 街道へ出ると、例の林の手前にも兵が立っていた。

 

 先頭の兵が手を上げ、林の前の兵がそれに応じる。

 

 御者は手綱を握り直した。

 

 荷車が通り終わるまで、見張りの兵たちは木々の間へ目を向けていた。

 

 その午後、澪と真壁、ヴァルトが、増設用の機材を届けに領主館へやってきた。

 

 澪は中庭で《収納》から無線機と電源一式を取り出し、設置へ向かう者たちへ渡した。

 

 箱の中には、太陽光パネルと充電制御器も収まっている。

 

 機材を納めた3人は、アルベルトの執務室へ通された。

 

「真壁殿。村からの返事が、ずいぶん早くなった」

 

「何よりですな」

 

「こちらの返事まで、早く求められるようになったがな」

 

 アルベルトが脇へ寄せた書類へ、真壁は目をやった。

 

「村の方も、使い方がお分かりになったようですな」

 

「分かるのが早すぎる」

 

 廊下の向こうから、通信員が村を呼ぶ声が聞こえた。

 

 ヴァルトが、開いた戸口へ顔を向ける。

 

「もう、こんなに使っていただいているんですね」

 

「ヴァルト殿は、楽しそうだな」

 

「ええ。どちらの町からかと、つい聞きたくなります」

 

「帰りに覗くのは構わんが、通信員には座らせておいてくれよ」

 

 澪が笑うと、ヴァルトは慌ててアルベルトへ向き直った。

 

「取って代わるつもりは、ありませんよ」

 

「声が通った時のことを、よく覚えているのでな」

 

 ヴァルトは口を閉じ、それから小さく咳払いをした。

 

「……今日は、短くします」

 

 

 

 鍛冶場では、親方が炉の炭を寄せていた。

 

 刀と鎌を見せ合ったあの日と同じように、戸口まで乾いた槌の音が届いている。

 

 弥兵衛は袖をからげ、金床の脇で若い職人の打つ鉄を見ていた。

 

 汗の落ちた床に、赤い火の粉が弾ける。

 

 若者が火鋏で鍬の刃を持ち上げ、形を眺めた。

 

「揃ってきたかの」

 

「はい。ここを、もう少し叩けば」

 

 若者が槌を上げる前に、弥兵衛は金床の空いた所を指した。

 

「横からも、見てみなされ」

 

 若者が鍬の刃を返すと、正面からは揃って見えた刃先も、片側だけに厚みが残っていた。

 

「形ばかり見ていました」

 

「気づいたなら、よい」

 

 弥兵衛は親方へ顔を向けた。

 

「ちと、お借りしてもよいかの」

 

「おう。火も空けるぞ」

 

 鉄を炉へ戻し、赤みが揃うのを待つ。

 

 弥兵衛は取り出した刃を金床へ載せ、厚みの残った側へ槌を当てた。

 

 数打しては鉄を返し、横から眺める。

 

 若者も隣から覗き込んだ。

 

「……揃ってきました」

 

「では、続きをやってみなされ」

 

 槌を返されると、若者はすぐには振り上げなかった。

 

 刃を返して厚みを見てから、打つ場所を定める。

 

 親方が、金床の向こうで口元を緩めた。

 

「そうだ。今度は、そっちも忘れるな」

 

 次の一打を見届けて、弥兵衛はそばの鎌を取った。

 

 客の手に合わせて曲げ直す、修理待ちの品である。

 

「その鎌、今日の夕方には返すぞ」

 

「朝、預かったものじゃな」

 

「村から修理を持ってくるって、昨日、館の者が知らせてくれた。こっちも火を空けて待てる」

 

 親方は炉の横へ並べた農具へ顎を向けた。

 

 柄の直しで済むものは、別の若者がもう取り掛かっている。

 

「前なら、来てから順番を聞かれてたがな。今じゃ、来る前に仕事が並びやがる」

 

「ありがたい話ではないか」

 

「そうなんだが、槌を振る腕までは増えねえ」

 

 弥兵衛が鎌を持っている手を上げた。

 

「ここに、余っておる手があるぞ」

 

「とっくに借りてるだろうが」

 

 弥兵衛は笑い、鎌の柄を握り直した。

 

 前に見せてもらった時より、使い手の握る所が少し削られている。

 

 親方は客の注文を話しながら、自分の火鋏を取りに戻った。

 

「爺さん。最初は、見ていくだけだったよな」

 

「うむ」

 

「いつの間にか、こっち側の人間じゃねえか」

 

「邪魔なら、追い出してくだされよ」

 

「その時は言う。明日も来るなら、そこの槌は置いとくぞ」

 

 弥兵衛は鎌を持ったまま、声を上げて笑った。

 

 夕方、鎌を受け取りに来た客が柄を握り、店先で軽く振ってみた。

 

 親方へ礼を言うと、若者の方にも手を上げて帰っていく。

 

 弥兵衛は手桶で煤を落とし、顔へ水をかけた。

 

 頬を流れた黒い筋が、桶の縁へ落ちる。

 

「もう一仕事、するか」

 

 親方がからかうと、弥兵衛は濡れた手を振った。

 

「これから、歌を聞きにゆく」

 

「そっちは、休まねえんだな」

 

「休めば、その分、聞き損ねるでな」

 

 手拭いで髭を拭き、腰の刀を確かめて、弥兵衛は夕暮れの通りへ出た。

 

 

 

 共同商館の食事の席には、まだ夕陽が届いていた。

 

 店から運ばれてくる皿の間を通り、弥兵衛はハープの見える椅子へ座った。

 

 火鋏を握っていた指を膝へ広げると、爪の際に煤が少し残っている。

 

 レイニャは歌を続けながら、こちらへ耳を傾けた。

 

 弥兵衛が片手を上げると、弦の音が軽やかに跳ねる。

 

 隣で杯を持つ男が、卓を叩いて拍子を取り始めた。

 

 弦の音が止まり、歌声だけが高く伸びた。

 

 弥兵衛が手を打つと、その声は、もう1節先へ続いた。

 

 老人の拍手だけが、歌の途中で2つ鳴った。

 

 レイニャは最後まで歌い切ってから、老人へ顔を向けた。

 

「お爺ちゃん、最後のところ、まだあったニャ」

 

「うむ。先へ出すぎてしもうた」

 

 近くの卓から笑いが起きた。

 

 レイニャも笑って、ハープを抱き直す。

 

「剣を抜くより、こちらの間合いの方が難しいのう」

 

「歌では、先に斬っちゃだめニャ!」

 

「それは、よう覚えておこう」

 

 演奏をひと休みしたレイニャが、水の器を持って席へ来た。

 

「今日は、何をしてきたニャ?」

 

「鍬を打つ若い者と、一緒にのう。わしが手を止めると、すぐに槌の持ち方を聞いてくる」

 

「鍛冶場でも、話が終わらないニャ?」

 

「なかなか、帰してもらえぬ」

 

「でも、来たニャ」

 

「こちらで歌が始まるのでな」

 

 レイニャの耳が、ぴんと立った。

 

「孤児院でも、歌を覚えた子がいるニャ。途中から、みんなで歌ってくれるニャ」

 

「それは、賑やかじゃろう」

 

「最後の声が大きいニャ。終わると、もう一回って言うニャ」

 

「ほっほ。どちらへ行っても、先へ進ませてもらえぬのう」

 

 皿が来ると、弥兵衛はレイニャの水の器を脇へ寄せ、置く所を空けた。

 

 向こうでは、次の曲を待つ客が椅子を引いている。

 

 演奏の終わりを通路で待っていたオスカーが、席のそばへ来た。

 

「弥兵衛殿。明日の稽古も、お願いできますか」

 

「うむ。参ろう」

 

「レオンハルト殿も、ぜひお相手をと」

 

 弥兵衛は、魚の骨を皿の端へ寄せた。

 

「それは、楽しみじゃ。じゃが、夕方には放してくだされよ」

 

 レイニャがハープを持ち上げると、オスカーも笑った。

 

「そのように、伝えます」

 

 弥兵衛は椅子へ座り直し、今度は膝の上へ両手を置いた。

 

 

 

 翌日の午後、訓練場の土には、靴の跡が幾重にも付いていた。

 

 弥兵衛へ向かった若い兵が、踏み込んで木剣を振り上げる。

 

 振り下ろす前に、喉元へ相手の切っ先が来ていた。

 

 兵は足を止め、上げた木剣をゆっくり下ろした。

 

「足だけが、先へ出ておる」

 

 弥兵衛は自分の爪先で、兵の踏み出した所を軽く示した。

 

「剣が来る前に、身体をここへ預けてしもうた。もう1度、構えてみなされ」

 

 兵が下がると、弥兵衛も間を取り直した。

 

 今度の足は、さっきほど深く出ない。

 

 振り下ろした木剣が、老人の剣へ届いた。

 

 乾いた音とともに押し戻されたが、兵は足を崩さずに立っていた。

 

「そうじゃ。その方が、次へ動ける」

 

 兵は木剣を見てから、改めて頭を下げた。

 

 オスカーが入れ替わり、剣を構える。

 

 前に手合わせした時より、弥兵衛の手元を追いすぎなくなっていた。

 

 打ち合った木が滑り、オスカーの剣先が外へ流れる。

 

 すぐに手を戻したが、その前に、老人の剣が胸の前へ入っていた。

 

「流された剣を、腕だけで戻そうとしてしまいました」

 

「気づいたか」

 

「はい。前は、何をされたのかも分からず」

 

「ならば、次は足も動かしてみなされ」

 

 オスカーが退くと、見ていたレオンハルトが上着を脱いだ。

 

 木剣を受け取り、地面の荒れた所を避けて立つ。

 

 弥兵衛の切っ先が、わずかに下がった。

 

 胸元が空いたように見えたが、レオンハルトは踏み込まない。

 

 老人の前足が土を擦った。

 

 次の瞬間、レオンハルトの右肩へ木剣が落ちてくる。

 

 レオンハルトは剣を斜めに立てて受け流し、左足を引きながら、弥兵衛の胴へ打ち返した。

 

 乾いた音が鳴った。

 

 弥兵衛が受けて退く。

 

 レオンハルトの切っ先は、その胸を捉えたままだった。

 

 逃さず、もう1歩を詰める。

 

 踏み込んだ前足が着く、その寸前だった。

 

 弥兵衛が半歩、外へ出た。

 

 レオンハルトの突きが、老人の脇を抜ける。

 

 上から木剣を押さえられ、伸ばした腕が下へ落ちた。

 

 剣を立て直す前に、胸元へ老人の切っ先が戻っていた。

 

 レオンハルトは動きを止めた。

 

「……退かれたので、追えると思ったのですが」

 

「そこまで、来てもらいたかったのでな」

 

 弥兵衛が剣を引くと、レオンハルトは踏み込んだ足を見下ろした。

 

「師匠。もう1度、お願いできますか」

 

「師匠とな」

 

 老人は目を丸くし、それから声を上げて笑った。

 

「はっはっは。弟子の方から決めてしまうのじゃな」

 

「今の足を、覚えたい」

 

「よいとも。では、先ほどの所からじゃ」

 

 兵たちが近くへ寄り、土についた足跡を覗き込んだ。

 

 真壁が木剣を手にした時には、見物の輪がさらに広がっていた。

 

 弥兵衛はその手元を見て、口元を緩める。

 

「今日は、光るものではないのじゃな」

 

「こちらで、お付き合いいただければ」

 

 真壁は剣先をゆっくり上げた。

 

 踏み込んだ弥兵衛の剣を斜めに受け流し、老人の右側へ足を運ぶ。

 

 肩口へ返した切っ先を、弥兵衛が肘を畳んで外した。

 

 真壁の足がすぐに追う。

 

 弥兵衛は踏み換えて正面を向き直し、続く打ち込みを受けた。

 

 乾いた音の続く間、周りの兵は声を出さなかった。

 

 やがて真壁が間を取り、弥兵衛も木剣を下げた。

 

「そちらへ回ってくださるとは、思わなんだ」

 

「正面で押し合っても、よいことはなさそうでしたので」

 

「それを、やってみたくなる者が多いのじゃよ」

 

 笑った弥兵衛へ、遅れて来たアルベルトが声を掛けた。

 

「次は、私もお願いしたい」

 

 袖を整え、木剣を構える。

 

 弥兵衛の最初の打ち込みを受けると、アルベルトは足を外へ運んだ。

 

 肩へ返しかけた剣を途中で引き、老人の胴を払う。

 

 弥兵衛が踏み換えてかわすと、すぐに切っ先を胸へ向け直した。

 

 老人がその剣を外へ弾き、脇へ踏み込む。

 

 アルベルトは深追いせずに下がり、弥兵衛へ正面を向けた。

 

「……最後まで、楽はさせてくださらんな」

 

「そちらも、なかなか止まらぬではないか」

 

 弥兵衛は楽しそうに笑い、下げた木剣を軽く振った。

 

 見ていた澪は、老人の襟に汗が浮いていることに気づいた。

 

 兵に教える時より、ずっとよく足が動いていた。

 

「師匠!」

 

 輪の外から、明るい声が飛んだ。

 

 エレナが木剣を抱えて入ってくる。

 

 弥兵衛は、木剣から赤い髪へ目を上げた。

 

「そなたにも、そう呼ばれるのか」

 

「レオンハルトが呼んでいた。私も、教わりたいのだ」

 

「まだ、教えておらぬぞ」

 

「だから、これから教わるのだ!」

 

 オスカーが、すぐ後ろへ来た。

 

「エレナ様。お願いする方が先です」

 

「おお。そうだった。師匠、教えてほしい」

 

「呼び方は、もう決まっておるのじゃな」

 

 弥兵衛の笑いに、周りの兵も肩を揺らした。

 

 老人はエレナの前へ立ち、木剣を持つ手より先に、足元を見た。

 

「よかろう。まず、その前の足を、少し引いてみなされ」

 

 エレナが動かすと、弥兵衛は正面から、ゆっくり剣を出した。

 

 彼女が受け止めたところで、剣を離す。

 

「そこなら、戻れる。前へ出ることばかり、考えぬようにな」

 

 エレナは足を見下ろし、今度は自分で構え直した。

 

 稽古が終わる頃、場の端に、夕方の陽が差してきた。

 

「師匠。もう少し、お付き合いいただけますか」

 

 レオンハルトが尋ねると、弥兵衛は差してくる陽を見た。

 

 木剣を丁寧に戻し、脇へ置いていた刀を取る。

 

「すまぬ。歌が始まる」

 

 

 

 数日後の昼下がり、弥兵衛が事業所へ顔を出した。

 

 机へ置いたのは、洗って畳んだ手拭いだった。

 

「借りておったものは、これで全部じゃ。世話になったのう」

 

 澪が湯呑みを運んでくると、弥兵衛は椅子へ腰を下ろした。

 

「そろそろ、西へ参ろうと思う」

 

 隣で紙を束ねていた理央も、手を止めた。

 

「もう、行ってしまうんですか?」

 

「ここは居心地がよすぎるでな。歌を聞けば、明日も聞きたくなる。鍛冶場へ行けば、次の仕事が見つかる」

 

「それで、今日まで?」

 

「うむ。このままでは、いつまでも出られぬ」

 

 澪は湯呑みを置き、老人の前へ寄せた。

 

 指先に、小さく残った炉の煤が見える。

 

「西へ、旅を続けられるんですね」

 

「うむ。まだ、追うてゆきたいのでな」

 

 弥兵衛は湯呑みを取り、礼を言って口をつけた。

 

「王都を経由して、セレヴィアの方まででしたら、お送りできますよ。《関門接続》を使えば」

 

 澪が言うと、老人は湯呑みを置いた。

 

「それは、ありがたいお申し出じゃ」

 

 丁寧に頭を下げてから、腰の刀へ軽く手を添える。

 

「じゃが、ここから先は、自分の足で参りたい」

 

「マールヴェインの森を通るんですか。北へ回る道もあるそうですけど」

 

「道は、教えてもろうた。じゃが、森の方は魔物の気配が濃いそうでのう」

 

「……そちらへ、行きたいんですか」

 

「何事も修行じゃ」

 

 真壁が、机の向こうで口元を緩めた。

 

「やはり、そちらをお選びになりますか」

 

「まだ、教わることがあろう」

 

「では、出発する時は、声を掛けてくださいね」

 

「うむ。明日の朝にしようと思うておる」

 

 理央が、束ねた紙を机へ置いた。

 

「礼状だけ置いて、いなくならないでくださいよ。あの女王様の時みたいに」

 

「はっはっは。こちらでは、そうもゆかぬな」

 

「訓練場へ現れなければ、捜索の相談が館へ来るでしょうな」

 

 真壁の言葉に、弥兵衛の笑いが大きくなった。

 

「それは困る。今度は、皆に叱られてしまうのう」

 

 弥兵衛は草鞋の紐を膝へ載せ、緩んでいた結び目を直した。

 

 指を掛けて引き、切れかけた所を撚り直す。

 

 紐を直し終えたところで、澪が湯を注ぎ足した。

 

「かたじけない」

 

 老人は湯呑みを取り、ゆっくり口をつけた。

 

 

 

 朝の街道の入口には、もう人が集まっていた。

 

 鍛冶場の仕事着と軍服が混じり、通り掛かった商人まで足を止めている。

 

 アルベルトとレオンハルトも、荷車へ道を譲りながら、旅支度の老人を待っていた。

 

「師匠、達者で!」

 

 人垣から赤い髪が見えた。

 

 その声に、あちこちから別の声が重なる。

 

 弥兵衛は皆の方へ向き直った。

 

「よう世話になった。旨いものも、よい歌も、たんと頂いた」

 

 深く頭を下げると、呼び掛けていた声が静まった。

 

「また、寄ってくださいよ!」

 

「うむ。道がこちらへ向いたら、顔を見せよう」

 

「旅の話、まだ半分も聞いてませんからね!」

 

 理央が声を張ると、老人は頭を上げて笑った。

 

「はっはっは。では、残りは取っておこう」

 

 人垣が道を空けた。

 

 煤の残った手も、軍服の袖も、高く上がる。

 

 澪もその中から手を振った。

 

 弥兵衛は西へ歩き出し、少し進んでは振り返って、また片手を上げた。

 

 曲がり角まで来ても、まだ誰かが呼んでいる。

 

 老人の笑い声が返り、紺の袖が角の向こうへ消えた。

 

 

 

 弥兵衛が領都を発ってから、街道には幾度か夜が来た。

 

 その日のマールヴェインの森では、手前の枝に鳥が鳴いていた。

 

 奥へ続く木々の間には陽が届かず、風が通るたび、湿った葉の匂いが外へ流れてくる。

 

 炭焼き小屋の脇で、バンデは割った薪を積み直していた。

 

 窯から来る熱が、片頬へ当たる。

 

 腕に残った薪を運びかけた時、森の方へ歩いていく白いものが見えた。

 

 髪だった。

 

 外套を羽織った老人が、街道を外れて木々の間へ向かっている。

 

 道を探している足つきではなかった。

 

 迷いなく進むものだから、バンデの方が慌てて声を上げた。

 

「おい、爺さん!」

 

 老人が止まり、顔を向けた。

 

 腰には、細く反った剣のようなものを差している。

 

「そっちは道じゃねえぞ!」

 

「うむ。森じゃな」

 

「見りゃ分かる! 王都へ行くなら、北へ回れ!」

 

 バンデは、森の外を回る道へ腕を伸ばした。

 

 老人はそちらを眺めてから、また西の木々を見た。

 

「じゃが、わしは西へ行きたいのじゃが」

 

「方角の話をしてんじゃねえ!」

 

 薪を脇へ置こうとして、バンデは手元を見た。

 

 腕に抱えたまま、ここまで追いかけてきていた。

 

「あの森は、魔物の巣だ。炭を焼く俺だって、奥へは入らねえ」

 

「ほう」

 

「鳥が黙ったら戻る。甘い匂いがしたら戻る。そうやってても、戻ってこられねえことがあるんだぞ」

 

 老人は、今度は黙って聞いていた。

 

 木々の間へ顔を向け、風が来るのを待つ。

 

 バンデは、ようやく話が通じたかと息をついた。

 

「分かったら、道へ戻れ。北を回れば、ちゃんと西へ出られる」

 

「ご親切、痛み入る」

 

 老人は丁寧に頭を下げた。

 

 そして、森の方へ足を出した。

 

「待て。今の話を聞いて、何でそっちへ行く!」

 

「うむ。よう聞いた」

 

「聞いたら、分かるだろ!」

 

「東のウンディルート大森林も、抜けてきたのでな。この西の森も、通らせてもらうとしよう」

 

 バンデは口を開けたまま、老人を見た。

 

 片腕の薪がずれ、脇へ挟み直す。

 

「……今、どこの森って言った」

 

「ウンディルートじゃ」

 

「あの、東の大森林か」

 

「ほかにも、同じ名の森があるのかの」

 

「知らねえよ! あそこを、越えてきたってのか?」

 

「うむ」

 

「歩いて?」

 

「そうじゃ」

 

 バンデは、老人の足元を見た。

 

 草鞋は何度も繕われ、紐も所々で継がれている。

 

 ここまで歩いてきたのは、確からしかった。

 

 だが、どこから来たかについては、何一つ納得できない。

 

「それで、また森へ入ろうってのか」

 

「何事も修行じゃ」

 

「修行……」

 

 老人はバンデの腕の薪を見て、少し道を譲った。

 

「仕事の途中へ、手間を掛けてしもうた。忠告、心に留めておこう」

 

「留めてる奴が、そっちへ行くか!」

 

 声を上げてから、バンデはもう一度言い直した。

 

「爺さん。危なくなったら、ちゃんと戻れよ。奥へ行けば行くほど、戻るのも難しくなるんだ」

 

「うむ。帰り道がこちらなら、また寄らせてもらおう」

 

「帰りの寄り道まで決めてんのかよ!」

 

 老人は笑い、片手を上げた。

 

 湿った木の根へ乗る手前で、足の向きを変える。

 

 落ち葉を踏み、枝の下をくぐると、白髪の頭が木々の間へ入っていった。

 

 バンデは薪を抱えたまま、背中を見送った。

 

 もう一度呼ぼうとしたが、老人は振り向いて、にこやかに会釈した。

 

 そのまま奥へ進み、白い髪も見えなくなった。

 

「……何なんだ、あの爺さん」

 

 森の手前で、鳥が一度鳴いた。

 

 バンデは返事を待つように立っていたが、やがて腕の薪を見下ろした。

 

「前には、この森に住むなんて言い出す奴がいたし……」

 

 視線を戻しても、今度の老人が姿を消した所には、暗い木々が続いているだけだった。

 

「今度は、散歩みてえに入っていきやがった」

 

 薪を持ち直し、炭焼き小屋の方へ顔を向ける。

 

 誰かに話そうにも、そこには自分しかいなかった。

 

「……俺の方がおかしいのか?」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。