森を歩くのは好きだった。
朝方の葉はまだ水を含み、草鞋が触れるたびに冷たい雫を落とす。
陽が高くなれば幹の片側だけが乾き、苔の残った側には小さな虫が集まる。
夕刻には鳥の声が先に変わる。
人里の道では気づかぬことも、森の中なら手に取るように分かった。
もっとも、この森に限っては、のんびり眺めて歩ける時間が少なかった。
「またか」
弥兵衛は立ち止まり、右手の茂みを見た。
そこには何も見えなかった。
だが、揺れている枝より下、黒い葉の重なりの向こうで、重い鼻息が漏れている。
少し遅れて、左の斜面でも土が崩れた。
逃げ道を塞ぐつもりらしい。
「そちらは、もう少し静かに歩けぬものかのう」
返事の代わりに、幹が裂けた。
右の藪から、長い牙を持つ猪が飛び出した。
続いて、左の斜面からも、肩の高い一頭が躍り出る。
どちらも普通の獣ではない。
太い肩の皮膚には石のような瘤が並び、牙の先には暗い魔力がまとわりついていた。
弥兵衛は一歩だけ右へ寄り、最初の牙をやり過ごした。
猪の巨体が通り過ぎる瞬間、鍔が小さく鳴り、抜き打ちの刃が喉を横切った。
後ろで何かが倒れた音がした。
もう一頭はその音に反応して首を振ったが、足元の根を踏み損ねた。
弥兵衛は飛び込まず、体勢が崩れるのを待ってから、短く刃を走らせた。
木の葉が二枚、遅れて落ちてきた。
「やれやれ。道を借りたいだけなのじゃがな」
刃を拭い、二つの巨体を《収納》に納める。
ヴァルトの家を辞してから、何度か夜を越えていた。
あの家の近くでは十八頭のホブゴブリンを片づけたが、あれで終わりではなかった。
牙の長い猪、熊に似た巨獣、狼の群れ。
どれも、昔なら村の一つを騒がせたであろう上位の魔物ばかりだった。
襲ってくるものだけを斬っても、倒した数はとうに百を超えた。
そのほとんどを《収納》へ納めている。
肉が食えるならそれでよし。
骨や皮にも使い道があろう。
商館へ持っていけば、あの人々はきっと呆れた顔をするに違いない。
澪の困ったような笑顔と、真壁の値踏みする眼を思い出し、弥兵衛は少し口元を緩めた。
「帰り道が決まったら、見せてやるかの」
歩き出す。
だが、十歩も行かぬうちに、その笑みは消えた。
周囲の木々が、いつからか異様に太くなっている。
幹のまわりに別の木の根が巻きつき、頭上では枝が何重にも絡み合っていた。
日差しの落ちる場所は狭く、そこだけ草が人の腰ほどまで伸びている。
森が生き生きとしている、というのとは違った。
伸びた枝の先端は、どれも同じ方へ傾いていた。
地面の細い根も、石の割れ目を伝い、その方向へ集まっている。
弥兵衛は膝をついて、苔に覆われた土へ指を入れた。
湿ってはいる。
腐っているわけでもない。
手を抜けば、土は普通に崩れる。
それなのに、土の下を通る魔力には、流れのようなものがあった。
「……お主も、あちらへ行きたいのか」
問いかける相手は根しかない。
東の国で見た迷宮を思い出した。
迷宮の近くでは、植物も獣も妙な育ち方をすることがあった。
ヴァルトの家の近くで感じた魔力の偏りは、いよいよ濃くなっていた。
《魔力感知》へ意識を寄せる。
地面の奥から、押し上がってくるような感触がある。
場所を探ろうとすると、今度は周囲の木々の方へ引かれた。
一定の方向から流れているのではなく、幾つもの細い筋が、どこかへ集まっているらしい。
見えないところで、大きな渦がゆっくり回っている。
弥兵衛は手についた土を払った。
ここまで来て、魔物の姿を見なくなったことにも気づいていた。
あれほど騒がしかった森が、急に静まり返っている。
小鳥は鳴く。
虫もいる。
だが、重い獣の足音がない。
遠くの枝を折る音すら、聞こえてこなかった。
「森の真ん中では、誰も騒がぬのか」
独り言を残して進む。
木々の隙間から、少し広い場所が見え始めた。
弥兵衛はそこで足を止めた。
正面の風景が、揺れていた。
強い日差しにあぶられた道の上なら、陽炎というものがある。
しかし、この場所には強い陽が差していない。
地面も熱を持っておらず、頬をなでる風はむしろ冷たい。
それでも、木の輪郭が僅かに曲がって見えた。
揺れるのは決まった一点ではない。
見ようとすると少し右へずれ、眼を離すと、元の場所に戻る。
木の幹の間にあるはずの空間が、薄い布を張ったようにたわんでいた。
「ほう。面白いものがあるのう」
言ってから、自分の足が動いていないことに気づいた。
《危機察知》が、先へ進むなと告げている。
斬り合いの場で受ける警告とは違う。
鋭い刃が胸へ向けられた時のような、はっきりしたものではなかった。
前へ足を出そうとするたび、背中の皮が冷たくなる。
かつて東で、深い穴の縁から下を覗いた時も、こうだった。
弥兵衛は腰の刀へ手を添えた。
揺らぎの向こうに、女が立っていた。
淡い色の衣をまとい、足元まで髪を下ろしている。
顔は木陰に入っていたが、形の整った鼻筋と、細い顎が見えた。
両手は身体の横へ垂らしている。
裸足らしい。
こんな森の真ん中に、女が一人で。
「お主、道に迷うたのか」
声をかけても、女は動かなかった。
弥兵衛は眼を細めた。
女の足元にある草は、風に揺れている。
ところが、長い髪の端はぴくりともしない。
呼吸する胸の動きも見えなかった。
「いや……違うのう」
女が、こちらを向いた。
顔は人間のものだった。
眉も、口も、耳も、見慣れた形をしている。
ただ、こちらを見る眼だけが、どこにも焦点を結んでいない。
弥兵衛は《鑑定》を使った。
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エルドリッチ(迷宮の門番)
分類:異形魔物
生存期間:100年以上
状態:捕食行動中
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既得スキル
人型擬態:10
触手操作:10
腐食針:10
針射出:9
捕食:10
高速移動:10
超再生:9
分離飛翔:9
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「……迷宮の門番?」
弥兵衛はもう一度、女を見た。
百年以上、生きておるのか。
その長さに感心しかけた時、女の腹が動いた。
最初は衣の下で何かが身じろぎしたように見えた。
次いで、腹の中央に一本の線ができた。
縦に走ったその線から、二本、さらに三本と裂け目が延びる。
上へ、下へ、左右へ、斜めへ。
六つに分かれた腹部が、身体の内側から押し開かれた。
女の顔は、その間も変わらない。
口元は閉じたまま、眼は弥兵衛を見ている。
腹の中には、臓腑らしいものがなかった。
湿った暗がりがあり、その奥で幾つもの細いものが絡まり合っている。
押し合うようにして外へ現れたのは、肉色とも黒ともつかぬ触手だった。
一本が地面へ下り、苔を撫でる。
その横から伸びたものは、木の枝へ巻きついた。
先端が細かく震え、周囲を探っている。
弥兵衛が一歩退くと、触手は一斉にそちらを向いた。
「おお。わしを食うつもりか」
声に驚きはなかった。
ただ、柄へ添えた指に力が入った。
次の瞬間、触手が跳ねた。
弥兵衛は《縮地》で横へ抜けた。
後ろの木に何かがぶつかり、幹が大きく揺れる。
葉の雨が降った。
弥兵衛のいた地面には、細く深い溝が何本も刻まれていた。
あれに触れれば、巻きつかれる。
刀を抜く間合いではない。
触手の長さも、本数も見極めておらぬ。
まず距離を取る。
弥兵衛は低い枝をくぐり、太い幹を間に入れて女を見た。
女の腹が閉じた。
六つの裂け目が内側へ折りたたまれ、衣の皺の中へ消える。
触手も瞬く間に引き込まれていった。
先ほどまでの姿を知らねば、木陰に立つ女にしか見えない。
その女が、走り出した。
「ぬっ!」
弥兵衛は反射的に《縮地》へ踏み込んだ。
幹のこちら側から、向こう側へ。
さらに岩の縁へ。
その間に、女は回り込んでいた。
足を運ぶ速さが尋常ではない。
木の根を踏んでも身体が揺れず、枝に引っかかっても勢いが落ちない。
顔だけが同じ高さを保ち、地を滑るように近づいてくる。
《縮地》の一歩を、同じ速さで踏んでくるのではなかった。
弥兵衛が間合いを開けた途端、女は駆ける。
離れた分を、あっという間に詰めてしまう。
「速いのう!」
さすがに笑う余裕はなかった。
女の口が、少し開いた。
声は出ない。
代わりに腹が再び開き、今度は触手の先端が幾つにも割れた。
細い突起が伸び、そのひとつひとつに硬い針が生える。
弥兵衛は、飛んでくる前に数を測ろうとした。
無理だ。
前にも、左右にも、頭上にも、針の先が向いている。
触手が空中に作った半円の内側で、逃げられる隙間が一つずつ塞がっていく。
さらに《縮地》を使えば抜けられるか。
木々の間隔を読む。
間に合わぬ。
「こりゃいかん!」
《身体硬化》。
弥兵衛は両腕を顔の前で交差させ、身を低くした。
雨音のような細かな音が、一度に鳴った。
針が肩へ当たり、腕へ当たり、背中を打った。
地面にも降り注ぎ、落ち葉を穿って泥へ潜る。
腕で受けた衝撃は軽いものばかりではなかった。
太い針は、棒で殴られたように骨へ響く。
弥兵衛は歯を食いしばり、膝を折らずに耐えた。
眼を開けると、袖から煙が上がっていた。
着物の生地が、織り目に沿って崩れていく。
肩を覆っていた外套の端も、見る間に黒く変わった。
膝を守っていた布は細かく裂け、草鞋の紐まで弱っている。
ひとつ動けば、もうひとつ千切れる有様だった。
「これは……!」
弥兵衛は袖を振り払った。
皮膚には痕が残っていない。
針に含まれた腐食の力は、《腐食耐性》と硬くした身体には通らなかったらしい。
しかし、布も革も、その恩恵にはあずかれなかった。
腰の刀へ眼をやる。
鞘にも針が当たり、小さな穴の縁から煙が上がっていた。
弥兵衛は鞘ごと《収納》へ納めた。
収納の内で刀身を見る。
真壁に直してもらった刃には、まだ傷がない。
刃が無事なら、よい。
ここで抜けば、あの針の中へ差し出すことになる。
顔を上げると、もう女が迫っていた。
「走るとするか!」
弥兵衛は背を向け、思い切り地面を蹴った。
《縮地》で一息に距離を取る。
太い幹の向こうへ出ると、続けて別の岩陰へ移った。
ところが、背後の足音が遠のかない。
弥兵衛が移った先へ、すぐに地面を叩く音が来る。
枝が裂け、木の実が降り、横から女の白い顔が現れた。
まっすぐ走らせれば追いつかれる。
老人は斜面を下り、すぐに登り返した。
足場の悪いところなら、少しは速度が落ちると思ったのだ。
だが、女は違った。
根の盛り上がりを踏み台にし、四つ足の獣にもできぬ角度で方向を変える。
身体を傾けたまま横へ走り、次の瞬間には真っ直ぐになっていた。
「化け物め!」
次の木へ《縮地》を向けようとした時、弥兵衛は自分の足元を見た。
濡れた石が二つ重なり、その先に細い水の筋がある。
こういうところで、急いで踏み違えた者は死ぬ。
若い頃、教えられたことだった。
追われながら、その言葉を思い出すとは。
弥兵衛は石を避けて飛び、着地と同時に肩越しに女を見た。
《鑑定》にあった《高速移動》は、飾りではなかった。
《超再生》も持っている。
仮に脚を斬っても、すぐ戻るやもしれぬ。
針をもう一度浴びれば、残っている服までなくなる。
このまま逃げ続けるのは、得策ではない。
「……いたしかたないのう」
弥兵衛は速度を落とした。
女も、ほんの僅かに速度を緩めた。
獲物の動きが鈍ったことを、見逃さなかったらしい。
《身体硬化》を保ったまま、弥兵衛は右手を開いた。
魔力を奪う《魔力吸収》を、右に。
左手にも力を集めた。
こちらは《生命力吸収》。
相手は触れれば食らおうとする。
それを承知で、正面へ踏み込んだ。
「さあ、参るぞ!」
女の腹が開いた。
六つの肉の縁が外へ反り返り、触手が扇のように広がる。
真ん中には、底の見えない暗がりがある。
そこへ老人が走り込んでくるのを待っているようだった。
弥兵衛は最後の一歩で膝を沈めた。
飛び込むと見せかけ、消える。
《縮地》。
女の背後へ回る。
振り返る時間は与えなかった。
右の掌を肩甲骨の下へ、左を背の中央へ押し当てる。
冷たい。
衣越しに触れた感触は、人の背中とも獣の皮とも違った。
水気を含んだ木の表面のように、ぬめっていて硬い。
次の瞬間、二つの技能が通った。
右の掌へ、強い魔力が流れ込む。
あまりに濃く、一瞬で腕の内側が熱くなった。
左からは別のものが来た。
血の温もりとも違う、生き物が身体を動かす力そのもののような感触だった。
女がのけぞる。
開いていた腹の端が小刻みに震え、伸びかけた触手が地面を打った。
背中の皮膚が盛り上がり、凹み、何かが中を走り回っている。
女は初めて声を出した。
女の喉からとは思えない、乾いた金属を擦るような音だった。
「効くか!」
弥兵衛はすぐ手を離すつもりだった。
だが、右手の掌が一瞬、離れなかった。
掌の下で、女の背が柔らかく盛り上がっていた。
衣の皺ごと右の指を包み、呑み込もうとしている。
弥兵衛は左手を離し、肩を引いて右手も力ずくで剥がした。
その時、脇の下から触手が回った。
右手首へ巻きつく。
弥兵衛は掴まれた腕を捻った。
触手は離れない。
触手が女の身体の前へ、弥兵衛の腕を引いた。
反射的に左足を踏ん張ったが、相手の引く力が上回った。
腹の裂け目に、右手が入った。
湿ったものが手首へ触れる。
次いで、硬い輪が閉じた。
硬化した手首へその縁が食い込み、骨を噛み砕いた。
弥兵衛は肘を引いた。
「ぬうっ!」
引き戻した腕に、右手がない。
手首から先を、食われていた。
掌へ通じていた感触が、唐突に途切れた。
遅れて腕の奥から、鋭い痛みが駆け上がる。
女の腹が脈打った。
その中へ消えたものが、何であったかを確かめる暇もない。
次の触手が胸へ来た。
弥兵衛は《縮地》で左へ抜ける。
手首の断ち口を庇い、右腕を胸へ引きつけた。
そこへ三本目の触手が迫った。
弥兵衛は腰を落とし、右肩を木の陰へ隠してやり過ごした。
幹の表面がえぐれ、木屑が頬へ散った。
「これは、少々……参ったのう!」
痛みはある。
だが、痛みで足を止めれば、残る身体まで食われる。
《縮地》。
倒木の向こうへ。
着地した瞬間、また《縮地》。
今度は岩の右へ。
女は腹を開いたまま、触手を木に絡めて身体を引き寄せてきた。
走るよりなお速い。
地面を踏む音が消えたと思えば、上から枝が折れた。
老人は顔を上げた。
女が枝の下を滑るように抜け、空中から触手を振り下ろす。
弥兵衛は斜め後ろへ退き、左腕で触手を外へ弾いた。
硬化した腕は裂けなかったが、肩まで押され、草鞋が苔を滑った。
次の一本を躱し、足元の根に乗って角度を変えた。
右の手首の先が、熱くなってきた。
傷口を見ている暇はなかったが、何かが動いているのは分かる。
《超再生》。
久しぶりに、この力に世話になるらしい。
骨の先が伸び、続いて肉が形を取り始めた。
皮膚の下で細い筋が寄り集まり、掌になるべき部分が膨らんでいく。
痛む。
しかも、かゆい。
それでも、逃げる足を止めるわけにはいかない。
弥兵衛は左の幹へ跳び、女がそれを追って向きを変えた瞬間、右へ《縮地》を使った。
枝が二本折れて落ちる。
背後の地面に触手が突き刺さった。
左のふくらはぎが張り、息が喉の奥へ引っかかった。
まだか。
右の手首へ眼をやる。
指らしいものが五本、短く突き出している。
「……五つある。よし」
そんなものを数えている場合ではなかった。
女の触手が追ってきた。
弥兵衛は《縮地》で逃れ、低く垂れた枝をくぐった。
枝の向こうへ出た時、右の指先が動いた。
握る。
まだ揃わない。
開く。
小指が遅れて伸びた。
もう一度、握る。
今度は五本とも掌へ収まった。
弥兵衛は大きく息を吐いた。
「よし。戻ったな」
追ってきた女が、木の向こうで立ち止まった。
腹は閉じかけていたが、一本だけ、触手が垂れたまま引き込まれない。
顔は先ほどと同じ、妙に静かな女のままだった。
触手を収めようとする間にも、腹の縁の肉が細かく痙攣している。
吸い取った力は、まだ戻っておらぬらしい。
ならば、まだ斬れる。
弥兵衛は前へ出ず、森の地面を見渡した。
木々の間に、細い空き地がある。
向こうへ下がれば大きな岩。
こちら側には、低い根株が二つ。
根は地面へ深く張り、足を取られる場所も見えた。
そこなら、刀を振れる。
女が再び腹を開き始めた。
弥兵衛は腰を落とした。
すでに刀は《収納》の中だ。
刀を持たずに、居合の構えを取る。
左の手が、空の腰に添えられた。
右手は柄のあるはずのところへ伸びる。
「さて。これを使うのも、久しぶりじゃ」
誰に聞かせるともなく言う。
若い頃から、斬れぬ相手に出会うたびに工夫をした。
刀を変え、間合いを変え、技を磨いた。
それでも届かぬものには、旅の途中で得た力を借りた。
今回は、真壁に直してもらった刀がある。
手を加えられた鋼の重みも、刃の走り方も、すでに身体に馴染んでいた。
《収納》の内で、鞘に納まった刀身へ《火》をまとわせる。
柄や鞘へ熱を移さぬよう、炎を刃の縁へ細く沿わせた。
女の腹が、開き切る。
触手が広がった。
また針を放つつもりか、それとも身体ごと引き寄せるつもりか。
どちらにせよ、相手はこちらを食らうために近づいてくる。
弥兵衛は呼吸を整えた。
それまで木々の間へ逃げ道を探していた眼が、今は女の腹の縁と、首の下へ置かれている。
触手は速い。
だが、伸びる前には、必ず女の身体の中で動く。
その起こりを見逃すまいとした。
女が前へ倒れ込むように走り出した。
腹の六つの縁が開き、触手が同時に前へ伸びる。
弥兵衛は動かない。
一本、二本。
伸びたものが、行く手を塞ぐ。
その先端が、間合いへ入った。
弥兵衛の左手に、鞘の重みが生じた。
《収納》から戻した刀を、左手が腰の位置で支える。
右手の指が柄を捉えた。
炎の揺らめきが、鞘口の僅かな隙間から漏れる。
女の触手が、さらに伸びる。
今度は弥兵衛が踏み込んだ。
刀が、鞘を離れた。
刃にまとわりついていた炎が、風を受けて一瞬長く伸びる。
最初の一本を断った感触が、右の掌へ返った。
左から迫る二本目を、返す刃で払った。
その勢いで切先を上げ、頭上から落ちる太い一本へ斬り上げる。
弥兵衛は踏み込んだ足を半歩ずらした。
肩へ回りかけた細い触手が、外套の残りを掠める。
腰を返し、背へ抜けかけた触手を断った。
燃える切断片が地面へ落ちた。
女の腹の中で、残った触手が引きつろうとする。
だが、もう遅い。
弥兵衛は刃を返し、開いた腹の縁に沿って走らせた。
最後に伸びた触手まで断ち切ると、女の身体が一瞬、無防備になった。
そこへ、踏み込む。
老人の右手は、すでに次の斬撃へ移っていた。
首の付け根に、刃が入る。
炎をまとった刀が、横へ抜けた。
女の頭が、肩から離れた。
胴体は二歩ほど前へ進んだ。
足が土を掻き、膝が折れる。
六つに開いていた腹は半ばまで閉じかけ、そこで動きを止めた。
弥兵衛は女の身体から距離を取った。
まだ近づかない。
一本でも触手が動くなら、すぐに斬れる場所で刀を構えた。
燃え残った枝から、焦げた匂いが上がっていた。
女の胴体は、倒れたまま動かない。
「……終わったかの」
その言葉を口にした時、妙な音がした。
羽虫が、耳のすぐそばを飛ぶような音だった。
だが、近くに虫はいない。
地面へ落ちた女の首から、何かが伸びていた。
耳の後ろの皮膚が盛り上がり、左右へ薄い骨が突き出す。
その間に透き通った膜が張り、葉に似た形を作った。
羽だった。
「……何じゃと?」
弥兵衛は反射的に刀を上げた。
女の首は、顔をこちらへ向けたまま浮き上がった。
切られたはずの首の下には、血の滴りすら見えない。
代わりに、細く動くものが束になってぶら下がっていた。
羽が二度、三度と震える。
首は一気に高く上がり、頭上の枝の隙間へ飛び込んだ。
弥兵衛が追おうと踏み出した時には、首はもう葉の向こうへ隠れていた。
《分離飛翔》。
さきほどの《鑑定》の文字が頭へ戻ってきた。
「……そういうことか」
飛ぶのは首だけだったのだ。
それでも、あれが逃げ延びて何をするかは分からぬ。
弥兵衛は《魔力感知》を頼りに、上を見た。
羽音は間もなく聞こえなくなったが、僅かな魔力の揺れが、木々の向こうへ移っていく。
飛んだ先は、森の中心。
先ほど見つけた、風景の揺らぐ場所だった。
地面へ視線を戻す。
首を失った胴体が、苔の上に倒れている。
斬り落とされた触手はところどころ焦げ、まだ小さく身をよじっていた。
弥兵衛はそれらが動かなくなるまで離れて待ち、刀の炎を消した。
握り直した柄が、掌へ馴染んだ。
「やれやれ。危うく刀を握れぬ身体になるところじゃった」
左手で支えていた鞘へ刀を納め、腰へ戻そうとした。
腐食した紐が、指の間で切れた。
外套は裂け、着物の袖も半ば失われ、草鞋も片方の紐がちぎれかけている。
女の胴体を見下ろす。
「お主のおかげで、着る物が足りぬわい」
言ってから、返事がないのを承知で小さく息を吐いた。
仕方なく、刀を《収納》へ戻す。
予備の衣を取り出し、傷んだ布を脱ぎ替えた。
足元の紐も結び直し、歩けることを確かめる。
そこまで済ませて、ようやく森の静けさが戻っていることに気づいた。
百を超える魔物を斬ってきた道では、一度たりとも感じなかった種類の疲れが、腕の奥に残っていた。
弥兵衛は少しの間、その場に立っていた。
門番。
ならば、あれが守っていたものは何じゃ。
女の首が消えた方向を、もう一度見上げる。
木々の隙間に、あの揺らぎはまだ残っていた。
「迷宮の入口か。それとも、まだ先があるのかのう」
弥兵衛は西を向いた。
行く先は変わらない。
ただ、今しがた逃げていった首を、見なかったことにはできぬ。
足元の落ち葉を一枚踏み、老人は森の中心へ、ゆっくり歩き出した。