押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

457 / 460
第457話 人ではないもの

 

 森を歩くのは好きだった。

 

 朝方の葉はまだ水を含み、草鞋が触れるたびに冷たい雫を落とす。

 

 陽が高くなれば幹の片側だけが乾き、苔の残った側には小さな虫が集まる。

 

 夕刻には鳥の声が先に変わる。

 

 人里の道では気づかぬことも、森の中なら手に取るように分かった。

 

 もっとも、この森に限っては、のんびり眺めて歩ける時間が少なかった。

 

「またか」

 

 弥兵衛は立ち止まり、右手の茂みを見た。

 

 そこには何も見えなかった。

 

 だが、揺れている枝より下、黒い葉の重なりの向こうで、重い鼻息が漏れている。

 

 少し遅れて、左の斜面でも土が崩れた。

 

 逃げ道を塞ぐつもりらしい。

 

「そちらは、もう少し静かに歩けぬものかのう」

 

 返事の代わりに、幹が裂けた。

 

 右の藪から、長い牙を持つ猪が飛び出した。

 

 続いて、左の斜面からも、肩の高い一頭が躍り出る。

 

 どちらも普通の獣ではない。

 

 太い肩の皮膚には石のような瘤が並び、牙の先には暗い魔力がまとわりついていた。

 

 弥兵衛は一歩だけ右へ寄り、最初の牙をやり過ごした。

 

 猪の巨体が通り過ぎる瞬間、鍔が小さく鳴り、抜き打ちの刃が喉を横切った。

 

 後ろで何かが倒れた音がした。

 

 もう一頭はその音に反応して首を振ったが、足元の根を踏み損ねた。

 

 弥兵衛は飛び込まず、体勢が崩れるのを待ってから、短く刃を走らせた。

 

 木の葉が二枚、遅れて落ちてきた。

 

「やれやれ。道を借りたいだけなのじゃがな」

 

 刃を拭い、二つの巨体を《収納》に納める。

 

 ヴァルトの家を辞してから、何度か夜を越えていた。

 

 あの家の近くでは十八頭のホブゴブリンを片づけたが、あれで終わりではなかった。

 

 牙の長い猪、熊に似た巨獣、狼の群れ。

 

 どれも、昔なら村の一つを騒がせたであろう上位の魔物ばかりだった。

 

 襲ってくるものだけを斬っても、倒した数はとうに百を超えた。

 

 そのほとんどを《収納》へ納めている。

 

 肉が食えるならそれでよし。

 

 骨や皮にも使い道があろう。

 

 商館へ持っていけば、あの人々はきっと呆れた顔をするに違いない。

 

 澪の困ったような笑顔と、真壁の値踏みする眼を思い出し、弥兵衛は少し口元を緩めた。

 

「帰り道が決まったら、見せてやるかの」

 

 歩き出す。

 

 だが、十歩も行かぬうちに、その笑みは消えた。

 

 周囲の木々が、いつからか異様に太くなっている。

 

 幹のまわりに別の木の根が巻きつき、頭上では枝が何重にも絡み合っていた。

 

 日差しの落ちる場所は狭く、そこだけ草が人の腰ほどまで伸びている。

 

 森が生き生きとしている、というのとは違った。

 

 伸びた枝の先端は、どれも同じ方へ傾いていた。

 

 地面の細い根も、石の割れ目を伝い、その方向へ集まっている。

 

 弥兵衛は膝をついて、苔に覆われた土へ指を入れた。

 

 湿ってはいる。

 

 腐っているわけでもない。

 

 手を抜けば、土は普通に崩れる。

 

 それなのに、土の下を通る魔力には、流れのようなものがあった。

 

「……お主も、あちらへ行きたいのか」

 

 問いかける相手は根しかない。

 

 東の国で見た迷宮を思い出した。

 

 迷宮の近くでは、植物も獣も妙な育ち方をすることがあった。

 

 ヴァルトの家の近くで感じた魔力の偏りは、いよいよ濃くなっていた。

 

 《魔力感知》へ意識を寄せる。

 

 地面の奥から、押し上がってくるような感触がある。

 

 場所を探ろうとすると、今度は周囲の木々の方へ引かれた。

 

 一定の方向から流れているのではなく、幾つもの細い筋が、どこかへ集まっているらしい。

 

 見えないところで、大きな渦がゆっくり回っている。

 

 弥兵衛は手についた土を払った。

 

 ここまで来て、魔物の姿を見なくなったことにも気づいていた。

 

 あれほど騒がしかった森が、急に静まり返っている。

 

 小鳥は鳴く。

 

 虫もいる。

 

 だが、重い獣の足音がない。

 

 遠くの枝を折る音すら、聞こえてこなかった。

 

「森の真ん中では、誰も騒がぬのか」

 

 独り言を残して進む。

 

 

 

 木々の隙間から、少し広い場所が見え始めた。

 

 弥兵衛はそこで足を止めた。

 

 正面の風景が、揺れていた。

 

 強い日差しにあぶられた道の上なら、陽炎というものがある。

 

 しかし、この場所には強い陽が差していない。

 

 地面も熱を持っておらず、頬をなでる風はむしろ冷たい。

 

 それでも、木の輪郭が僅かに曲がって見えた。

 

 揺れるのは決まった一点ではない。

 

 見ようとすると少し右へずれ、眼を離すと、元の場所に戻る。

 

 木の幹の間にあるはずの空間が、薄い布を張ったようにたわんでいた。

 

「ほう。面白いものがあるのう」

 

 言ってから、自分の足が動いていないことに気づいた。

 

 《危機察知》が、先へ進むなと告げている。

 

 斬り合いの場で受ける警告とは違う。

 

 鋭い刃が胸へ向けられた時のような、はっきりしたものではなかった。

 

 前へ足を出そうとするたび、背中の皮が冷たくなる。

 

 かつて東で、深い穴の縁から下を覗いた時も、こうだった。

 

 弥兵衛は腰の刀へ手を添えた。

 

 揺らぎの向こうに、女が立っていた。

 

 淡い色の衣をまとい、足元まで髪を下ろしている。

 

 顔は木陰に入っていたが、形の整った鼻筋と、細い顎が見えた。

 

 両手は身体の横へ垂らしている。

 

 裸足らしい。

 

 こんな森の真ん中に、女が一人で。

 

「お主、道に迷うたのか」

 

 声をかけても、女は動かなかった。

 

 弥兵衛は眼を細めた。

 

 女の足元にある草は、風に揺れている。

 

 ところが、長い髪の端はぴくりともしない。

 

 呼吸する胸の動きも見えなかった。

 

「いや……違うのう」

 

 女が、こちらを向いた。

 

 顔は人間のものだった。

 

 眉も、口も、耳も、見慣れた形をしている。

 

 ただ、こちらを見る眼だけが、どこにも焦点を結んでいない。

 

 弥兵衛は《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

エルドリッチ(迷宮の門番)

 分類:異形魔物

 生存期間:100年以上

 状態:捕食行動中

----------------------------------

既得スキル

 人型擬態:10

 触手操作:10

 腐食針:10

 針射出:9

 捕食:10

 高速移動:10

 超再生:9

 分離飛翔:9

----------------------------------

 

「……迷宮の門番?」

 

 弥兵衛はもう一度、女を見た。

 

 百年以上、生きておるのか。

 

 その長さに感心しかけた時、女の腹が動いた。

 

 最初は衣の下で何かが身じろぎしたように見えた。

 

 次いで、腹の中央に一本の線ができた。

 

 縦に走ったその線から、二本、さらに三本と裂け目が延びる。

 

 上へ、下へ、左右へ、斜めへ。

 

 六つに分かれた腹部が、身体の内側から押し開かれた。

 

 女の顔は、その間も変わらない。

 

 口元は閉じたまま、眼は弥兵衛を見ている。

 

 腹の中には、臓腑らしいものがなかった。

 

 湿った暗がりがあり、その奥で幾つもの細いものが絡まり合っている。

 

 押し合うようにして外へ現れたのは、肉色とも黒ともつかぬ触手だった。

 

 一本が地面へ下り、苔を撫でる。

 

 その横から伸びたものは、木の枝へ巻きついた。

 

 先端が細かく震え、周囲を探っている。

 

 弥兵衛が一歩退くと、触手は一斉にそちらを向いた。

 

「おお。わしを食うつもりか」

 

 声に驚きはなかった。

 

 ただ、柄へ添えた指に力が入った。

 

 

 

 次の瞬間、触手が跳ねた。

 

 弥兵衛は《縮地》で横へ抜けた。

 

 後ろの木に何かがぶつかり、幹が大きく揺れる。

 

 葉の雨が降った。

 

 弥兵衛のいた地面には、細く深い溝が何本も刻まれていた。

 

 あれに触れれば、巻きつかれる。

 

 刀を抜く間合いではない。

 

 触手の長さも、本数も見極めておらぬ。

 

 まず距離を取る。

 

 弥兵衛は低い枝をくぐり、太い幹を間に入れて女を見た。

 

 女の腹が閉じた。

 

 六つの裂け目が内側へ折りたたまれ、衣の皺の中へ消える。

 

 触手も瞬く間に引き込まれていった。

 

 先ほどまでの姿を知らねば、木陰に立つ女にしか見えない。

 

 その女が、走り出した。

 

「ぬっ!」

 

 弥兵衛は反射的に《縮地》へ踏み込んだ。

 

 幹のこちら側から、向こう側へ。

 

 さらに岩の縁へ。

 

 その間に、女は回り込んでいた。

 

 足を運ぶ速さが尋常ではない。

 

 木の根を踏んでも身体が揺れず、枝に引っかかっても勢いが落ちない。

 

 顔だけが同じ高さを保ち、地を滑るように近づいてくる。

 

 《縮地》の一歩を、同じ速さで踏んでくるのではなかった。

 

 弥兵衛が間合いを開けた途端、女は駆ける。

 

 離れた分を、あっという間に詰めてしまう。

 

「速いのう!」

 

 さすがに笑う余裕はなかった。

 

 女の口が、少し開いた。

 

 声は出ない。

 

 代わりに腹が再び開き、今度は触手の先端が幾つにも割れた。

 

 細い突起が伸び、そのひとつひとつに硬い針が生える。

 

 弥兵衛は、飛んでくる前に数を測ろうとした。

 

 無理だ。

 

 前にも、左右にも、頭上にも、針の先が向いている。

 

 触手が空中に作った半円の内側で、逃げられる隙間が一つずつ塞がっていく。

 

 さらに《縮地》を使えば抜けられるか。

 

 木々の間隔を読む。

 

 間に合わぬ。

 

「こりゃいかん!」

 

 《身体硬化》。

 

 弥兵衛は両腕を顔の前で交差させ、身を低くした。

 

 雨音のような細かな音が、一度に鳴った。

 

 針が肩へ当たり、腕へ当たり、背中を打った。

 

 地面にも降り注ぎ、落ち葉を穿って泥へ潜る。

 

 腕で受けた衝撃は軽いものばかりではなかった。

 

 太い針は、棒で殴られたように骨へ響く。

 

 弥兵衛は歯を食いしばり、膝を折らずに耐えた。

 

 眼を開けると、袖から煙が上がっていた。

 

 着物の生地が、織り目に沿って崩れていく。

 

 肩を覆っていた外套の端も、見る間に黒く変わった。

 

 膝を守っていた布は細かく裂け、草鞋の紐まで弱っている。

 

 ひとつ動けば、もうひとつ千切れる有様だった。

 

「これは……!」

 

 弥兵衛は袖を振り払った。

 

 皮膚には痕が残っていない。

 

 針に含まれた腐食の力は、《腐食耐性》と硬くした身体には通らなかったらしい。

 

 しかし、布も革も、その恩恵にはあずかれなかった。

 

 腰の刀へ眼をやる。

 

 鞘にも針が当たり、小さな穴の縁から煙が上がっていた。

 

 弥兵衛は鞘ごと《収納》へ納めた。

 

 収納の内で刀身を見る。

 

 真壁に直してもらった刃には、まだ傷がない。

 

 刃が無事なら、よい。

 

 ここで抜けば、あの針の中へ差し出すことになる。

 

 顔を上げると、もう女が迫っていた。

 

「走るとするか!」

 

 弥兵衛は背を向け、思い切り地面を蹴った。

 

 《縮地》で一息に距離を取る。

 

 太い幹の向こうへ出ると、続けて別の岩陰へ移った。

 

 ところが、背後の足音が遠のかない。

 

 弥兵衛が移った先へ、すぐに地面を叩く音が来る。

 

 枝が裂け、木の実が降り、横から女の白い顔が現れた。

 

 まっすぐ走らせれば追いつかれる。

 

 老人は斜面を下り、すぐに登り返した。

 

 足場の悪いところなら、少しは速度が落ちると思ったのだ。

 

 だが、女は違った。

 

 根の盛り上がりを踏み台にし、四つ足の獣にもできぬ角度で方向を変える。

 

 身体を傾けたまま横へ走り、次の瞬間には真っ直ぐになっていた。

 

「化け物め!」

 

 次の木へ《縮地》を向けようとした時、弥兵衛は自分の足元を見た。

 

 濡れた石が二つ重なり、その先に細い水の筋がある。

 

 こういうところで、急いで踏み違えた者は死ぬ。

 

 若い頃、教えられたことだった。

 

 追われながら、その言葉を思い出すとは。

 

 弥兵衛は石を避けて飛び、着地と同時に肩越しに女を見た。

 

 《鑑定》にあった《高速移動》は、飾りではなかった。

 

 《超再生》も持っている。

 

 仮に脚を斬っても、すぐ戻るやもしれぬ。

 

 針をもう一度浴びれば、残っている服までなくなる。

 

 このまま逃げ続けるのは、得策ではない。

 

 

 

「……いたしかたないのう」

 

 弥兵衛は速度を落とした。

 

 女も、ほんの僅かに速度を緩めた。

 

 獲物の動きが鈍ったことを、見逃さなかったらしい。

 

 《身体硬化》を保ったまま、弥兵衛は右手を開いた。

 

 魔力を奪う《魔力吸収》を、右に。

 

 左手にも力を集めた。

 

 こちらは《生命力吸収》。

 

 相手は触れれば食らおうとする。

 

 それを承知で、正面へ踏み込んだ。

 

「さあ、参るぞ!」

 

 女の腹が開いた。

 

 六つの肉の縁が外へ反り返り、触手が扇のように広がる。

 

 真ん中には、底の見えない暗がりがある。

 

 そこへ老人が走り込んでくるのを待っているようだった。

 

 弥兵衛は最後の一歩で膝を沈めた。

 

 飛び込むと見せかけ、消える。

 

 《縮地》。

 

 女の背後へ回る。

 

 振り返る時間は与えなかった。

 

 右の掌を肩甲骨の下へ、左を背の中央へ押し当てる。

 

 冷たい。

 

 衣越しに触れた感触は、人の背中とも獣の皮とも違った。

 

 水気を含んだ木の表面のように、ぬめっていて硬い。

 

 次の瞬間、二つの技能が通った。

 

 右の掌へ、強い魔力が流れ込む。

 

 あまりに濃く、一瞬で腕の内側が熱くなった。

 

 左からは別のものが来た。

 

 血の温もりとも違う、生き物が身体を動かす力そのもののような感触だった。

 

 女がのけぞる。

 

 開いていた腹の端が小刻みに震え、伸びかけた触手が地面を打った。

 

 背中の皮膚が盛り上がり、凹み、何かが中を走り回っている。

 

 女は初めて声を出した。

 

 女の喉からとは思えない、乾いた金属を擦るような音だった。

 

「効くか!」

 

 弥兵衛はすぐ手を離すつもりだった。

 

 だが、右手の掌が一瞬、離れなかった。

 

 掌の下で、女の背が柔らかく盛り上がっていた。

 

 衣の皺ごと右の指を包み、呑み込もうとしている。

 

 弥兵衛は左手を離し、肩を引いて右手も力ずくで剥がした。

 

 その時、脇の下から触手が回った。

 

 右手首へ巻きつく。

 

 弥兵衛は掴まれた腕を捻った。

 

 触手は離れない。

 

 触手が女の身体の前へ、弥兵衛の腕を引いた。

 

 反射的に左足を踏ん張ったが、相手の引く力が上回った。

 

 腹の裂け目に、右手が入った。

 

 湿ったものが手首へ触れる。

 

 次いで、硬い輪が閉じた。

 

 硬化した手首へその縁が食い込み、骨を噛み砕いた。

 

 弥兵衛は肘を引いた。

 

「ぬうっ!」

 

 引き戻した腕に、右手がない。

 

 手首から先を、食われていた。

 

 掌へ通じていた感触が、唐突に途切れた。

 

 遅れて腕の奥から、鋭い痛みが駆け上がる。

 

 女の腹が脈打った。

 

 その中へ消えたものが、何であったかを確かめる暇もない。

 

 次の触手が胸へ来た。

 

 弥兵衛は《縮地》で左へ抜ける。

 

 手首の断ち口を庇い、右腕を胸へ引きつけた。

 

 そこへ三本目の触手が迫った。

 

 弥兵衛は腰を落とし、右肩を木の陰へ隠してやり過ごした。

 

 幹の表面がえぐれ、木屑が頬へ散った。

 

「これは、少々……参ったのう!」

 

 痛みはある。

 

 だが、痛みで足を止めれば、残る身体まで食われる。

 

 

 

 《縮地》。

 

 倒木の向こうへ。

 

 着地した瞬間、また《縮地》。

 

 今度は岩の右へ。

 

 女は腹を開いたまま、触手を木に絡めて身体を引き寄せてきた。

 

 走るよりなお速い。

 

 地面を踏む音が消えたと思えば、上から枝が折れた。

 

 老人は顔を上げた。

 

 女が枝の下を滑るように抜け、空中から触手を振り下ろす。

 

 弥兵衛は斜め後ろへ退き、左腕で触手を外へ弾いた。

 

 硬化した腕は裂けなかったが、肩まで押され、草鞋が苔を滑った。

 

 次の一本を躱し、足元の根に乗って角度を変えた。

 

 右の手首の先が、熱くなってきた。

 

 傷口を見ている暇はなかったが、何かが動いているのは分かる。

 

 《超再生》。

 

 久しぶりに、この力に世話になるらしい。

 

 骨の先が伸び、続いて肉が形を取り始めた。

 

 皮膚の下で細い筋が寄り集まり、掌になるべき部分が膨らんでいく。

 

 痛む。

 

 しかも、かゆい。

 

 それでも、逃げる足を止めるわけにはいかない。

 

 弥兵衛は左の幹へ跳び、女がそれを追って向きを変えた瞬間、右へ《縮地》を使った。

 

 枝が二本折れて落ちる。

 

 背後の地面に触手が突き刺さった。

 

 左のふくらはぎが張り、息が喉の奥へ引っかかった。

 

 まだか。

 

 右の手首へ眼をやる。

 

 指らしいものが五本、短く突き出している。

 

「……五つある。よし」

 

 そんなものを数えている場合ではなかった。

 

 女の触手が追ってきた。

 

 弥兵衛は《縮地》で逃れ、低く垂れた枝をくぐった。

 

 枝の向こうへ出た時、右の指先が動いた。

 

 握る。

 

 まだ揃わない。

 

 開く。

 

 小指が遅れて伸びた。

 

 もう一度、握る。

 

 今度は五本とも掌へ収まった。

 

 弥兵衛は大きく息を吐いた。

 

「よし。戻ったな」

 

 追ってきた女が、木の向こうで立ち止まった。

 

 腹は閉じかけていたが、一本だけ、触手が垂れたまま引き込まれない。

 

 顔は先ほどと同じ、妙に静かな女のままだった。

 

 触手を収めようとする間にも、腹の縁の肉が細かく痙攣している。

 

 吸い取った力は、まだ戻っておらぬらしい。

 

 ならば、まだ斬れる。

 

 弥兵衛は前へ出ず、森の地面を見渡した。

 

 木々の間に、細い空き地がある。

 

 向こうへ下がれば大きな岩。

 

 こちら側には、低い根株が二つ。

 

 根は地面へ深く張り、足を取られる場所も見えた。

 

 そこなら、刀を振れる。

 

 女が再び腹を開き始めた。

 

 弥兵衛は腰を落とした。

 

 すでに刀は《収納》の中だ。

 

 刀を持たずに、居合の構えを取る。

 

 左の手が、空の腰に添えられた。

 

 右手は柄のあるはずのところへ伸びる。

 

「さて。これを使うのも、久しぶりじゃ」

 

 誰に聞かせるともなく言う。

 

 若い頃から、斬れぬ相手に出会うたびに工夫をした。

 

 刀を変え、間合いを変え、技を磨いた。

 

 それでも届かぬものには、旅の途中で得た力を借りた。

 

 今回は、真壁に直してもらった刀がある。

 

 手を加えられた鋼の重みも、刃の走り方も、すでに身体に馴染んでいた。

 

 《収納》の内で、鞘に納まった刀身へ《火》をまとわせる。

 

 柄や鞘へ熱を移さぬよう、炎を刃の縁へ細く沿わせた。

 

 女の腹が、開き切る。

 

 触手が広がった。

 

 また針を放つつもりか、それとも身体ごと引き寄せるつもりか。

 

 どちらにせよ、相手はこちらを食らうために近づいてくる。

 

 弥兵衛は呼吸を整えた。

 

 それまで木々の間へ逃げ道を探していた眼が、今は女の腹の縁と、首の下へ置かれている。

 

 触手は速い。

 

 だが、伸びる前には、必ず女の身体の中で動く。

 

 その起こりを見逃すまいとした。

 

 

 

 女が前へ倒れ込むように走り出した。

 

 腹の六つの縁が開き、触手が同時に前へ伸びる。

 

 弥兵衛は動かない。

 

 一本、二本。

 

 伸びたものが、行く手を塞ぐ。

 

 その先端が、間合いへ入った。

 

 弥兵衛の左手に、鞘の重みが生じた。

 

 《収納》から戻した刀を、左手が腰の位置で支える。

 

 右手の指が柄を捉えた。

 

 炎の揺らめきが、鞘口の僅かな隙間から漏れる。

 

 女の触手が、さらに伸びる。

 

 今度は弥兵衛が踏み込んだ。

 

 刀が、鞘を離れた。

 

 刃にまとわりついていた炎が、風を受けて一瞬長く伸びる。

 

 最初の一本を断った感触が、右の掌へ返った。

 

 左から迫る二本目を、返す刃で払った。

 

 その勢いで切先を上げ、頭上から落ちる太い一本へ斬り上げる。

 

 弥兵衛は踏み込んだ足を半歩ずらした。

 

 肩へ回りかけた細い触手が、外套の残りを掠める。

 

 腰を返し、背へ抜けかけた触手を断った。

 

 燃える切断片が地面へ落ちた。

 

 女の腹の中で、残った触手が引きつろうとする。

 

 だが、もう遅い。

 

 弥兵衛は刃を返し、開いた腹の縁に沿って走らせた。

 

 最後に伸びた触手まで断ち切ると、女の身体が一瞬、無防備になった。

 

 そこへ、踏み込む。

 

 老人の右手は、すでに次の斬撃へ移っていた。

 

 首の付け根に、刃が入る。

 

 炎をまとった刀が、横へ抜けた。

 

 女の頭が、肩から離れた。

 

 胴体は二歩ほど前へ進んだ。

 

 足が土を掻き、膝が折れる。

 

 六つに開いていた腹は半ばまで閉じかけ、そこで動きを止めた。

 

 弥兵衛は女の身体から距離を取った。

 

 まだ近づかない。

 

 一本でも触手が動くなら、すぐに斬れる場所で刀を構えた。

 

 燃え残った枝から、焦げた匂いが上がっていた。

 

 女の胴体は、倒れたまま動かない。

 

「……終わったかの」

 

 その言葉を口にした時、妙な音がした。

 

 羽虫が、耳のすぐそばを飛ぶような音だった。

 

 だが、近くに虫はいない。

 

 地面へ落ちた女の首から、何かが伸びていた。

 

 耳の後ろの皮膚が盛り上がり、左右へ薄い骨が突き出す。

 

 その間に透き通った膜が張り、葉に似た形を作った。

 

 羽だった。

 

「……何じゃと?」

 

 弥兵衛は反射的に刀を上げた。

 

 女の首は、顔をこちらへ向けたまま浮き上がった。

 

 切られたはずの首の下には、血の滴りすら見えない。

 

 代わりに、細く動くものが束になってぶら下がっていた。

 

 羽が二度、三度と震える。

 

 首は一気に高く上がり、頭上の枝の隙間へ飛び込んだ。

 

 弥兵衛が追おうと踏み出した時には、首はもう葉の向こうへ隠れていた。

 

 《分離飛翔》。

 

 さきほどの《鑑定》の文字が頭へ戻ってきた。

 

「……そういうことか」

 

 飛ぶのは首だけだったのだ。

 

 それでも、あれが逃げ延びて何をするかは分からぬ。

 

 弥兵衛は《魔力感知》を頼りに、上を見た。

 

 羽音は間もなく聞こえなくなったが、僅かな魔力の揺れが、木々の向こうへ移っていく。

 

 飛んだ先は、森の中心。

 

 先ほど見つけた、風景の揺らぐ場所だった。

 

 地面へ視線を戻す。

 

 首を失った胴体が、苔の上に倒れている。

 

 斬り落とされた触手はところどころ焦げ、まだ小さく身をよじっていた。

 

 

 

 弥兵衛はそれらが動かなくなるまで離れて待ち、刀の炎を消した。

 

 握り直した柄が、掌へ馴染んだ。

 

「やれやれ。危うく刀を握れぬ身体になるところじゃった」

 

 左手で支えていた鞘へ刀を納め、腰へ戻そうとした。

 

 腐食した紐が、指の間で切れた。

 

 外套は裂け、着物の袖も半ば失われ、草鞋も片方の紐がちぎれかけている。

 

 女の胴体を見下ろす。

 

「お主のおかげで、着る物が足りぬわい」

 

 言ってから、返事がないのを承知で小さく息を吐いた。

 

 仕方なく、刀を《収納》へ戻す。

 

 予備の衣を取り出し、傷んだ布を脱ぎ替えた。

 

 足元の紐も結び直し、歩けることを確かめる。

 

 そこまで済ませて、ようやく森の静けさが戻っていることに気づいた。

 

 百を超える魔物を斬ってきた道では、一度たりとも感じなかった種類の疲れが、腕の奥に残っていた。

 

 弥兵衛は少しの間、その場に立っていた。

 

 門番。

 

 ならば、あれが守っていたものは何じゃ。

 

 女の首が消えた方向を、もう一度見上げる。

 

 木々の隙間に、あの揺らぎはまだ残っていた。

 

「迷宮の入口か。それとも、まだ先があるのかのう」

 

 弥兵衛は西を向いた。

 

 行く先は変わらない。

 

 ただ、今しがた逃げていった首を、見なかったことにはできぬ。

 

 足元の落ち葉を一枚踏み、老人は森の中心へ、ゆっくり歩き出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。