城壁が見えたとき、弥兵衛はちょうど腹を空かせていた。
森を抜けてから幾つかの村を通り、街道を西へ歩いてきた。朝は川沿いの宿場で粥を食べたが、昼には早いと思って先を急いだのがよくなかった。道が緩やかな丘を越えたところで、遠くに王都の城壁が現れたのである。
「ほう。あれが王都か」
白っぽい城壁が、丘の先を横切っていた。見張りの塔が幾つも突き出し、その向こうには石造りの大きな屋根が重なっている。門へ続く街道は荷車の轍で黒ずみ、通る人の数も、これまでの村とは比べものにならなかった。
荷を積んだ馬車が、きしきしと音を立てて追い越していく。御者の隣に座った若い男が、弥兵衛の腰を見て目を留めた。
「じいさん、ずいぶん立派な刀だな」
「うむ。長いつき合いじゃ」
「王都で売るのか?」
「いやいや。これを売ってしもうたら、わしの飯の種がなくなる」
男は笑い、馬車は埃を残して先へ行った。
弥兵衛は刀の柄を軽く押さえた。
真壁に手を入れてもらった刀は、あの森でもよく働いた。炎をまとわせて振り抜いた感触が、まだ掌に残っている。ただし、いつまでも思い返して気持ちのよい戦いではなかった。
右手を開き、握る。
親指も、人差し指も、昔からそこにあったように動く。手首を回しても痛みはない。《超再生》というものは、まことにありがたい。
それでも、あの女の腹が閉じたときの音だけは、耳の奥から消えてくれなかった。
「……まったく、食い意地の張った女じゃった」
しかも、首を落としてなお飛んで逃げた。
森の中心で見た景色の揺らぎは、その後も消えなかった。飛び去った首を追って近くまで戻ってみたが、木々の間にあるのは薄く波打つような空気ばかりで、入口と呼べる穴も階段も見つからなかった。
無理に踏み込む気にはなれなかった。あれほどのものが門番を務めておるのなら、門の向こうにはそれなりのものが待っているのだろう。
ヴァルトには知らせねばならぬ。
そう考えながら歩くうち、城門の列へ行き当たった。
門前には馬車のための道と、人の通る道が分かれていた。荷車は一台ずつ止まり、御者が門番へ何かを見せている。歩く者の列はそれより短い。
弥兵衛は素直に後ろへ並んだ。
前の男が大きな布袋を下ろすと、袋の口から乾いた草がはみ出した。男は何度も袋の紐を結び直している。後ろに立つ老人が、背負い荷ひとつ持っていないのが気になるらしく、ときおり肩越しに振り返った。
「お爺さん、荷物は?」
「あるぞ」
「どこに?」
「見えぬ所じゃ」
男は何か言おうとして、弥兵衛の空いた両手を見たまま口を閉じた。
やがて順番が来た。
「旅人か?」
城門の兵士は、弥兵衛の刀と草鞋をひと目見て尋ねた。鎧の肩には乾いた泥が付き、横の台には書類らしい板が置かれている。
「うむ。東から来た。弥兵衛という」
「王都へは何をしに?」
「魔石やら魔物の皮やらを売りたくてのう。それと、旨いものでも食おうかと思うておる」
「商売か。それなら商業ギルドだな。買い手も紹介してもらえる」
「ほう。ちょうどよい。知り合いから、そこのギルド長へ文を預かっておるのじゃ」
「紹介状か。それなら話が早い」
兵士は門の内側を指さした。
「この道を真っ直ぐ進んで、大きな噴水のある広場を左だ。荷車が多いから、通りを横切るときは気をつけてくれ」
「かたじけない」
弥兵衛は一礼し、城門の下をくぐった。
石の天井に足音が反響する。途中まではひんやりしていたが、門の向こうへ抜けた途端、焼いた肉と人いきれの匂いが混じった。
「……よい匂いじゃ」
通りの向こうで肉を焼く店があった。脂の落ちる音まで聞こえる。
立ち寄りたい。
しかし、ここで腹いっぱい食ってしまうと、ギルドへ着いたころには昼寝がしたくなるに違いない。弥兵衛は店の位置を覚え、後ろ髪を引かれながら先へ進んだ。
王都の通りは、歩いているだけでも面白かった。
馬の蹄が石を打つ音。籠を積んだ小さな荷車が曲がり角で止まり、後ろから来た商人が声を上げる。軒先に吊るした布を、風がぱたぱたと鳴らしている。
大きな噴水の広場には、腰を下ろしてパンを食べる男がいた。その向こうを子どもたちが駆け抜け、母親らしい女が叱る。
弥兵衛は兵士に言われたとおり左へ折れた。
しばらく進むと、荷車が何台も停まる石造りの建物が現れた。入口の上には商人たちの印らしい紋章が掛かっている。大きな扉は開け放され、人と荷が絶えず出入りしていた。
「ここかのう」
近くの男に尋ねると、そうだと言う。
弥兵衛は礼を述べ、建物へ入った。
中は外より涼しかった。
奥まで長い広間に受付の卓が並び、その前に客がいる。革の袋を抱えた若者、羊毛を指でつまんで見せる女、二人がかりで木箱を運ぶ男たち。どの者も、何かを売るか買うかしに来た顔をしていた。
こちらは手ぶらである。
弥兵衛は少し考え、近くの列の最後尾へ並んだ。
やがて若い職員が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご用件をどうぞ」
「魔石を売りたいのじゃが、こちらでよいかの」
「魔石ですね。品物と数量をお教えください」
「品物は何種類かある。数は……」
弥兵衛は顎を撫でた。
「さて、数えておらなんだのう」
「おおよそでも構いません。一袋ほどでしょうか」
「袋には入らぬものもある」
職員の筆先が止まった。
「それでは、まず品物を拝見できますか」
「もちろんじゃ」
弥兵衛は《収納》から、掌に載る程度の魔石を一つ取り出した。
卓へ載せると、職員が身を乗り出した。透明な部分と濁った部分があり、光にかざすと奥へ青みが見える。
「……少々、お待ちいただけますか。担当を呼びますので」
「うむ」
職員が席を立ちかけたところで、弥兵衛は思い出した。
「おお、そうじゃった」
腰の辺りに手を伸ばし、封書を一通取り出す。長い旅の間、《収納》へしまっていたので、封の端にも傷みはない。
「リュシア殿という商人から、グスタフ・ハーゲン殿へ渡してくれと言われておった。そちらを先に頼めるかの」
「……グスタフ・ハーゲン様に?」
職員は封の宛名を読み、魔石と封書を見比べた。
「リュシア商会からのご紹介ですね。少々お待ちください」
「うむ。慌てんでよいぞ」
職員は封書を預かり、奥へ消えた。
弥兵衛は広間の壁際へ寄った。待つ間も、出入りする荷を眺めていると退屈しない。真壁が造る建物のような目新しさはないが、この場所には国じゅうの品が集まってくるらしい。
ほどなく別の職員がやってきた。
「弥兵衛様。ギルド長がお会いになるそうです。こちらへどうぞ」
「おお。わざわざすまぬのう」
階段を上り、廊下の奥の部屋へ通された。
扉の向こうには、大きな卓と幾つもの書棚があった。窓から差す日が、紙の積まれた机の一角を照らしている。
その机の向こうで、年配の男が封書を折り畳んでいた。
「弥兵衛殿かね」
「うむ。お主がグスタフ殿か」
「そうじゃ。リュシアからの文を読ませてもろうた。ずいぶん遠くから来たそうじゃのう」
グスタフ・ハーゲンは、向かいの椅子を示した。
弥兵衛は腰の刀が当たらぬよう椅子を引き、静かに座った。
「東から西へ歩いておるだけじゃ。寄り道も多いでな、なかなか先へ進まぬ」
「寄り道ができる旅なら結構なことじゃ。まずは飲み物でもどうかね」
「ありがたい。今日は少々、喉が渇いておる」
グスタフが職員へ声を掛け、茶が二人分運ばれてきた。
弥兵衛はひと口含み、先日ヴァルトの家で飲んだ茶を思い出した。味は違うが、こちらも悪くない。
「リュシアは、魔石と角と皮を持っておると書いてきた。しかも、値段の約束はしておらぬそうじゃ」
「うむ。安く売るのは惜しいと言われてな。王都なら買い手が見つかるやもしれぬ、と」
「まったく、あの娘らしい。自分で買えぬからといって、適当な値をつけて厄介払いはせぬ」
グスタフは少し笑った。
「わしも値をつける前に品物を見たい。よいかね」
「もちろんじゃ。何から出そうか」
「まずは小さいものでよい。机が壊れぬ程度にな」
「ほっほ。それは大事じゃのう」
弥兵衛は先ほどの魔石を取り出し、卓へ置いた。
グスタフはすぐに手を伸ばさず、窓の光の当たる向きを変えさせた。それから指先で魔石をゆっくり回す。
「魔力の通りがよい。表面の傷も少ないのう。どの魔物のものじゃ?」
「たしか、大きな狼じゃった」
「大きな、では分からん。ダイアウルフかね」
「それじゃ、それじゃ。あの名じゃった」
グスタフは小さく息を吐き、戸口の職員へ目をやった。
「素材を扱う者を呼んでくれ。魔石の等級を見てもらおう」
「承知しました」
職員が出ていくと、グスタフは弥兵衛へ顔を戻した。
「こうした品は、見た目がよくても使い道で値が変わる。魔力の質を欲しがる者もおれば、大きさを重んじる者もおる。まだ買い取りを約束したわけではないぞ」
「承知しておる。作った刀を見もせず、値段だけ言われても困るのと同じじゃな」
「刀を打つのかね」
「昔からの道楽じゃ。もっとも、刀を打たぬ日が続くと手が落ち着かぬ」
「道楽でその刀を持ち歩いておるのなら、ずいぶん熱心じゃ」
グスタフの目が、弥兵衛の腰へ向いた。
「自分で打ったものじゃよ。先日、真壁殿に少し手を入れてもろうたがの」
「……真壁?」
グスタフが顔を上げた。
「真壁久忠のことかね」
「おお。お主も知っておるのか」
「知っておるとも。あの御仁とは、何度も商いの話をしておる」
「そうじゃったか。世間は広いようで狭いものじゃのう」
「いや、真壁殿を知っておる者が多すぎるのじゃよ」
グスタフは茶を口へ運んだ。どこか苦笑に似た顔つきだった。
弥兵衛は、真壁なら王都でも何か面白いものを造っておるのだろうと思ったが、その話を始めれば日が暮れそうなので、今は魔石へ目を戻した。
やがて素材を扱う年配の職員が来た。
小さな木箱に布を敷き、魔石を載せる。光にかざし、道具で傷の具合を調べ、グスタフへ短く結果を伝えた。
「悪くない。買い手はつくだろう。ただし、今すぐ使う職人がいなければ値は伸びん」
「では、これはどうじゃ」
弥兵衛は別の魔石を出した。
最初より一回り大きい。職員は受け取り、今度は二人で調べた。
「こちらは……どこで採られたものですか」
「森じゃ」
「どこの森でしょう」
「マールヴェインという所じゃ。ヴァルト殿の家があってのう」
グスタフの指が止まった。
「待たれよ。今、マールヴェインと言ったかね」
「うむ。あそこを抜けてきた」
「……道を?」
「いや。道は途中でなくなったでな。あとは木の間を歩いた」
グスタフはしばらく弥兵衛を見ていた。
「どれほどの魔物に会うた?」
「多い所で次から次へと出てきおった。斬ったものなら、百は超えておると思うぞ」
年配の職員が、手にしていた道具をそっと机へ戻した。
「百……頭、ですか?」
「うむ。もっとも、数えるのをやめてしもうたのでな。正しくは分からぬ」
「それは、誰と一緒に?」
「一人じゃよ」
グスタフは茶碗を机へ置いた。
「弥兵衛殿。わしは売り物の話をしておったのじゃが」
「わしも売り物の話をしておるぞ。斬った魔物から取ったものじゃからのう」
「そうではない。……いや、そうではあるのじゃが」
グスタフが言葉を探すうち、弥兵衛は魔石を布へ戻した。
「皮も見てもらうか?」
「ちょっと待たれよ。皮はどれほどある?」
「大きいのもある。部屋へ出すには、少々狭いかもしれぬ」
「では、出さんでよい」
「遠慮せずともよいぞ」
「遠慮ではない。机と床を守っておる」
弥兵衛は声を上げて笑った。
「なるほど。物を大切にする商人じゃ」
「商人でなくとも家は壊したくなかろう」
グスタフまでつられて笑いかけたが、すぐに表情を戻した。
「それで、本当に一人で森を抜けたのかね」
「そうじゃ。途中でヴァルト殿にも会うた。茶が旨かったぞ」
「森で茶を?」
「家があるのじゃ。しかも二階建てでな」
グスタフは額を押さえた。森に二階建ての家を建てる者も、そこへ茶を飲みに寄る者も、どちらも自分の知人らしい。
グスタフは卓の魔石を見て、それから弥兵衛の刀を見た。
「……リュシアめ。どこまで知って紹介してきたのじゃ」
弥兵衛は、その言葉に悪いところが見つからなかったので、笑って頷いた。
職員が部屋を出て、査定のために別の場所へ品物を運ぶ用意を始めた。
グスタフは弥兵衛を留め、もう少し詳しく聞いた。上位魔物の種類、通った道、どこで数が増えたのか。
弥兵衛は覚えている範囲で答えた。入口に近い所でも普通の魔物ではなかったこと、奥ほど身体の大きなものが増えたこと、道と呼べるものは途中からなくなったこと。
「森の中心には、もっと妙なものがおったぞ」
「妙なもの?」
「女の姿をしておった。じゃが、人ではない」
グスタフは聞き返さず、弥兵衛の顔を見ていた。
「腹が六つに開いてのう。中から触手が出てくる。触手の先からは、針まで飛ばしてきおった」
「……それで?」
「《鑑定》には、エルドリッチと出た。迷宮の門番、とも書いてあった」
グスタフが背筋を伸ばした。
「迷宮?」
「うむ。地下にあるのかもしれぬ。入口は見つからなんだが、そういう表示じゃった」
「その女はどうなった」
「首を斬り落とした」
「それなら……」
「ところが、その首に羽が生えて、飛んでいきおった」
グスタフは何も言わなかった。
窓の外から、荷車の通る音がした。
「……飛んだのかね。首が」
「そうじゃ。わしも初めて見た」
「初めて見るのが当然じゃと思うがのう」
グスタフは深く息を吐き、茶碗を脇へ寄せた。
「弥兵衛殿。わしは魔物の買い手を探せるが、迷宮のことまで見極める目は持っておらぬ。その話は、真壁殿たちへ知らせた方がよい」
「うむ。ヴァルト殿にも、何か分かれば知らせると約束しておった。王都へ着いたことも、文にして届けるつもりじゃ」
「それなら、宛先を書いて持ってこられよ。商館へ届ける便はある。向こうでヴァルト殿に渡してもらえるよう、頼むことはできる」
「かたじけない。助かるわい」
グスタフは頷いたが、すぐにもう一度弥兵衛の顔を見た。
「それほどの相手とやり合うて、怪我はなかったのかね」
「右手を食われた」
「……何じゃと?」
「今はこのとおりじゃ」
弥兵衛は右手を開いてみせた。指は五本とも揃っている。
「《超再生》で戻った。心配はいらぬ」
「心配はいらぬと言われても、聞いた方はそうはいかんぞ」
「それは、すまぬ」
弥兵衛は素直に頭を下げた。
グスタフはしばらく老人の顔を見ていたが、やがて諦めたように笑った。
「……真壁殿の知り合いには、こういう御仁もおるのか」
「向こうも、なかなか変わった御仁じゃろう」
「そこは否定せぬ」
今度は二人とも笑った。
素材の職員が戻ってくる頃には、空いていた茶碗もすっかり冷めていた。
持ち込まれた魔石のうち幾つかは、通常の取引で買い取り先をつけられる。角や皮の中には、欲しがる職人を探した方が値を付けやすいものもある。
グスタフは現物を指しながら話した。
「これは今日の相場で売れる。こちらは急いで売らぬ方がよい。全部同じ値段にするのは、もったいないぞ」
「ふむ。剣の鋼にも、値のつくものとつかぬものがあるでな」
「そうじゃ。相手が欲しいときに、欲しい品を出すのが商いじゃよ」
「よく分かった。では、売れる分だけ頼もうか」
弥兵衛はその場で売却するものを選び、代金を受け取った。残りは《収納》へ戻す。
値段を聞くことより、何に使われる品なのかを教えてもらう方が、弥兵衛には面白かった。魔石ひとつでも、職人が灯りに使うのか、魔道具へ組み込むのかで、欲しがる形が違うという。
受け取った貨幣を《収納》へ送ると、グスタフが目を細めた。
「荷車を引いて来た形跡がないと思うたら、それほどの《収納》を持っておるのじゃな」
「荷車など要らんぞ。歩く方が気楽じゃ」
「そちらには要らんでも、こちらはそうはいかん。魔物を出すには場所が要る」
「そういえば、魔石ばかり見てもろうたのう。魔物そのものもあるのじゃが」
「そのもの?」
「斬ったまま《収納》に入れておる。皮も角も、まだ付いておるぞ」
グスタフは少し考え、椅子の背から身体を離した。
「……何頭ほどじゃ」
「さて。多いでな。一度に出すと数えやすいかのう」
弥兵衛の手が卓の脇へ伸びた。
「待った!」
グスタフが思わず声を上げた。
弥兵衛はぴたりと手を止める。
「ここでは出さんでくれ。ギルドの荷捌き場でも、並べ方を考えねばならぬ量じゃろう」
「ならば、外でよいかの」
「明日、場所を用意する。大きなものを出しても構わぬ所じゃ。担当者も呼んでおく」
「おお、それならありがたい」
「ただし、全部出す前に一声かけてもらいたい」
「うむ。心得た」
グスタフは、ようやく少し安心した顔になった。
弥兵衛はそこで、窓の外がだいぶ傾いていることに気づいた。昼飯の時間はとうに過ぎている。
「ところで、グスタフ殿」
「何かね」
「何処か良い宿はないかのう」
「宿か。どのような所がよい?」
「飯が旨くて、酒が飲めて、湯に浸かれる所がよい。できれば、寝床も柔らかいとありがたいのう」
「注文が多いのう」
「年寄りの楽しみじゃ。そこは譲れぬ」
グスタフは声を立てて笑った。
「二つ通りを入った所に、商人がよく使う宿がある。料理もよいし、湯の用意もある。ただし安宿ではないぞ」
「それは結構。金は使うためにあるものじゃ」
「その割には、魔石を安売りせなんだな」
「斬った相手に申し訳が立たぬからのう」
「それを聞いた魔物が喜ぶとは思えぬがね」
弥兵衛も笑った。
グスタフは机へ紙を引き寄せ、宿の主人へ短い紹介の文を書いた。
「これを渡すとよい。部屋が空いておれば、話が早いじゃろう」
「リュシア殿からお主へ、お主から宿へ。文を持って歩けば、知らぬ土地でも知り合いが増えるのう」
「商人はそれで飯を食うておるのじゃよ」
グスタフは紙を折り、弥兵衛へ渡した。
「明日は昼前に来てくれ。荷捌き場とは別に、場所を探しておく」
「頼んだぞ。広い方がよい」
「……どれほど広く要るのじゃ」
「出してみねば分からぬのう」
グスタフの眉間へ、また皺が寄った。
弥兵衛は礼を述べ、部屋を出た。
廊下へ出ても、しばらくグスタフの声が聞こえていた。職員を呼び、明日使える広い場所について尋ねているらしい。
弥兵衛は階段を下りながら、やはり商いは大変じゃのうと思った。
自分は魔物を斬って《収納》へ入れるだけだが、売る方は、置く場所から考えねばならぬのだから。
宿は教えられた通りの場所にあった。
大通りから少し離れた石畳の道に面し、入口には磨いた木の看板が下がっている。扉の前で水を撒いていた若い男が、弥兵衛を見ると桶を脇へ寄せた。
「お泊まりですか」
「うむ。グスタフ殿に教わって来た」
弥兵衛は渡された文を差し出した。
帳場にいた主人がそれを読み、すぐに宿泊できる部屋があると教えてくれた。湯を使いたいと言うと、ちょうど準備ができているらしい。
「先にお風呂へ入られますか。それとも、お食事になさいますか」
「風呂を頼む。飯はその後でよい」
主人は頷き、宿の奥へ案内した。
廊下を進むと、木の乾いた匂いに湯気が混じってきた。奥には脱衣のための小部屋があり、その先で湯が静かに揺れている。
弥兵衛は帯を解き、衣を畳んだ。
森で傷めた衣服は、先日すでに着替えていた。いま身につけているものは無事だが、草鞋の紐には旅の土が染みている。
身体を洗い、湯へ足を入れる。
「おお……」
湯が膝を越え、腰へ届く。
肩まで浸かると、息が勝手に漏れた。
「ああ。生き返るわい」
森の水場では手足を洗うことはできたが、こうして身体を湯へ沈めるのは久しぶりだった。湯気で天井の木目が滲み、外からは桶を置く小さな音がする。
弥兵衛は右腕を湯の外へ出した。
掌を開く。
五本の指を折り、また伸ばす。
手の甲には新しい傷ひとつない。
あの女の腹の内側に引きずり込まれ、骨を噛み砕かれたときの感触を思い出した。
斬り合っている最中は痛みを後回しにできる。だが、湯の中でじっとしていると、あの瞬間だけが妙にはっきり戻ってくる。
「……長く生きたつもりじゃが、まだ知らぬものがおる」
握った指に力を込めた。
掌は元どおりじゃ。
失ったものがすべて戻るわけではない、と弥兵衛はよく知っている。
湯の表面へ視線を落とした。波が静まるまで、しばらくそのままでいた。
やがて、浴槽の縁へ腕を載せる。
「さて。ここで長湯をしておっても、あの女は戻って来まい」
いつまでも考えていても始まらぬ。
弥兵衛は湯から上がり、用意された布で身体を拭いた。着替えて部屋へ戻る頃には、空腹が一段と強くなっていた。
主人が案内してくれた部屋は、通りを見下ろせる二階の一室だった。柔らかそうな寝台に、明るい木の卓。窓の下では馬車が一台止まり、荷を降ろす男たちが声を掛け合っている。
弥兵衛は窓を閉めた。
外の音が少し遠のく。
懐から出す代わりに《収納》を開き、紙と筆記具を取り出した。旅に出てから、訪ねた町の名や道を少しずつ書き留めるために持っていたものだ。
卓の前に座る。
「ヴァルト殿には、伝えると約束したでな」
便りを出す先は分かっている。押入商会を通せば、森の中に住むあの男にも届くだろう。
書き出しを考え、弥兵衛は筆を動かした。
ヴァルト殿
先日は旨い茶を馳走になった。
約束した森の話を知らせようと思う。
お主の家を出て西へ歩き、森の中心に辿り着いた。途中で斬った上位魔物は、百頭を超えておる。これほどまでに数が多いのは、やはり妙じゃ。
じゃが、それ以上に妙なものを見た。
森の中心に、人の女の姿をしたものがおった。《鑑定》には「エルドリッチ(迷宮の門番)」と出た。分類は異形魔物、生存期間は百年以上とある。
腹が六つに開き、中から幾本もの触手が伸びてきおった。触手の針には腐食する力がある。足も尋常でなく速い。あれと出会うたら、迂闊に近寄ってはならぬ。
わしも右手を食われてしもうた。もっとも、《超再生》で元どおりになったので、心配には及ばぬ。
《魔力吸収》と《生命力吸収》は効いたが、手強い相手であった。最後は首を落としたところ、その首に羽が生え、森の中心にある揺らぎの方へ飛んでいきおった。
倒したとは言い切れぬ。入口らしきものも見つけておらぬが、迷宮の門番という《鑑定》が出た以上、あの森の下には何かがあると考えるのがよかろう。
真壁殿にも、ぜひ知らせてくだされ。
わしは無事に王都へ着いた。リュシア殿に紹介してもろうた商業ギルドのグスタフ殿に会うたところじゃ。しばらく王都におるつもりなので、用があればギルドへ便りを寄越されよ。
では、お主も達者で。
弥兵衛
書き終えると、弥兵衛は筆を置いた。
もう一度、最初から読む。
右手を食われたことは、少々驚かせるやもしれぬ。
だが、同じ森に住む者へ知らせる手紙である。あれほどの危険を、自分の都合で軽く書いてしまうわけにもいかない。
弥兵衛は紙を折り、封へ入れた。
「明日、グスタフ殿に頼むとしよう」
封を《収納》へ納め、宿の主人から聞いた夕飯の場所を思い出した。
食堂は一階にあるらしい。今の時刻なら、ちょうど温かいものが出る頃だろう。
戸を開けて廊下へ出ると、階下から肉の焼ける匂いが上がってきた。
「おお。これは、期待できそうじゃ」
食堂では、商人たちが幾つかの卓を囲んでいた。旅の話、荷の遅れ、どこの町で何が売れたか。誰もが忙しそうに喋っている。
弥兵衛は空いていた席へ腰を下ろし、宿の者に勧められた肉料理と酒を頼んだ。
運ばれてきた皿には、よく焼けた肉と野菜が盛られている。湯気の向こうに香草の香りが立っていた。
一切れ口へ運ぶ。
「……うむ。これは旨い」
酒も悪くない。
森で手首を食われたことも、首だけで飛ぶ魔物を見たことも、今夜の料理の味を落としはしなかった。
ただ、ひとつだけ気になることがある。
明日、グスタフはどれほど広い場所を用意してくれるのだろう。
弥兵衛は酒を飲み、少し考えた。
「……あの大きな熊は、最後に出すとしようかの」
何しろ、商いの邪魔をしては申し訳ない。
老人はもう一切れ、肉を口へ運んだ。
また西へ歩き出すのは、王都での用事を済ませてからでよい。今夜は旨い飯があり、寝床もある。これ以上の贅沢を望むこともあるまい。