卓の端に置いた羽毛が、ふわりと浮いた。
澪は思わず手を伸ばしたが、指先が届く前に白い一枚は窓際へ流れていった。
開けておいた窓から風が入ったのである。
「また逃げました」
「三枚目です。澪さん、もう窓を閉めません?」
理央はそう言いながら、机の下へしゃがみ込んでいた。
拾おうとした羽が、今度は理央の鼻先をかすめる。
くしゃみをひとつすると、床に落ちていた別の羽まで舞い上がった。
「……四枚目」
「ごめんなさい」
押入商会の作業室には、先日作った毛布地の見本が広げられていた。
掌で押すと柔らかく沈み、離せばゆっくり膨らみを取り戻す。
羊毛で作った服地と並べれば、同じ糸と布でも、狙っているものがまるで違うと分かった。
澪は逃げた羽を《収納》で回収し、窓を閉めた。
「風に飛ぶのは困りますけど、軽いのは助かりますね」
「まとまれば、ですけど。今の一枚なんか、手で捕まえる方が大変です」
理央は膝についていた羽をつまみ、皿へ戻す。
毛布地の見本に手を当てた澪は、以前、孤児院で見た寝台を思い出していた。
子どもたちの食事は、もう十分に用意できている。
それでも、掛ける布が薄い寝台はあったし、寒い季節が来る前に揃えてやりたいものは多い。
北で買った羊毛は残してある。
あれはあれで大切な原料だ。
ただ、王国じゅうの孤児院へ行き渡らせるには、ほかの道も要る。
「これがもっと集まれば、毛布を増やせるんですよね」
「はい。羽そのものを詰めるんじゃなくて、ケラチンを取り出して繊維に組み直す。こっちの縮れを残して……」
理央が見本の表面を指で起こしたとき、廊下を急ぐ足音が聞こえた。
戸口から顔を出した商会の職員が、息を整えて言った。
「澪さん、理央さん。王都の商業ギルドから知らせです」
「羽毛の件ですか?」
「はい。先ほど王都から戻った真壁さんが、ギルドから預かってきたそうで。それが……倉庫を空けてほしいそうです」
理央の手が止まった。
「空けるって、羽毛を取りに来てほしいという意味ですよね?」
「そうです。今朝も荷が増えたそうで、もう別の品物が置けないとか」
澪は机の上の皿を見た。
ほんの数枚の羽毛で、さっきまで二人が右往左往していたのである。
「どのくらい、あるんでしょう」
「文には、できるだけ早く、と」
「……理央ちゃん」
「行きましょう。今なら、ほかの仕事を動かさずに済みます」
理央はもう立ち上がり、見本布を丁寧に畳んでいた。
澪が笑うと、職員はほっとした様子で肩の力を抜いた。
「荷車の手配は……」
「必要ありません」
二人の返事が重なった。
職員は慣れたものらしく、「そうでしたね」と頷いた。
以前なら不思議そうに聞き返していた言葉である。
「王都側には、受け取りに向かうと伝えてください。集めてくださった人たちへの支払いも、いつもどおりお願いします」
「承知しました」
戸が閉まると、理央が毛布地を持ち上げた。
「見本、持って行きません? 羽を集めてくれた方たちにも、触ってもらいたいです」
「そうですね。それから、倉庫の方にもお礼を言わないと」
「袋を抱えている方に、『よく集めましたね』だけじゃ足りませんよ」
「確かに。倉庫を空ける方を先にしましょう」
澪は肩掛け鞄を取り、理央が手を差し出すのを待った。
王都へ移ると、最初に聞こえたのは車輪の音だった。
澪が《転移》で選んだのは、以前訪れて登録していた、人通りを避けられる場所である。
理央とともに狭い石壁の間へ降り立つと、通りの向こうから荷車が石畳を叩く音が響いてきた。
少し歩いて大通りへ出る。
開店の支度をする店先に、布がぱん、と張られた。
パンを載せた籠を運ぶ男が二人の横をすり抜け、向こうの露店では野菜を選ぶ女が店主と値を言い合っている。
馬の鼻息、湯気の立つ鍋、焼けた麦の香り。
その上から誰かが「道を空けてくれ」と声を張った。
「王都は朝から賑やかですね」
「朝だからじゃないですか。市場に荷が入ってくる時間ですし」
理央は行き交う荷車の幌を見比べていた。
革を積んだ車、樽を縛った車、長い木箱をいくつも重ねた車。
荷を見れば、運んできた土地や商人の苦労が少しは想像できる。
けれど今日は、そのどれでもないものを取りに来た。
「羽毛って、どんなふうに積んでくるんでしょうね」
「袋でしょうけど……風が強い日だと大変そうです」
「馬車が走った後、王都じゅうが白くなったら面白いですけど」
「面白くない人も多いと思いますよ。お掃除する方とか」
「ですよね」
通りの角にある焼き菓子の店から甘い匂いがした。
理央が一度そちらを見たのを、澪は見逃さなかった。
「帰りに寄りましょうか」
「まだ何も言ってませんよ」
「目が言っていました」
理央は小さく笑い、歩調を早めた。
商業ギルドの建物が見えてくると、その前の荷車の列がいつもより長いことに気づいた。
横手の入口へ回ろうとする車が二台、互いに道を譲っている。
どちらの荷台にも、膨らみきった麻袋が山積みだった。
後ろの車の御者が、荷の上へ伸ばした手を引っ込めた。
袋の縫い目から、白い羽が一本出ていたのである。
「……あれですかね」
「たぶん、あれですね」
理央が笑いを堪えた。
「澪さん。倉庫がいっぱいって、ちょっと大げさに言ってるのかと思ってました」
「私もです」
荷車を降りてきた男の肩には、短い羽がくっついていた。
本人は気づいていない。
二人は顔を見合わせ、ギルドの扉をくぐった。
受付の女は、澪と理央を見るなり立ち上がった。
「お待ちしておりました。お二人とも、こちらへどうぞ」
案内された廊下は建物の奥へ続き、途中で幾つもの扉に分かれている。
開いた戸から紙をめくる音、硬貨を数える音、取引をまとめる商人たちの声が漏れた。
やがて廊下の先の空気が変わった。
湿った藁と、乾いた埃と、少し動物めいた匂い。
澪は足を緩めた。
「もう、羽毛の匂いがしますね」
「この先です。なるべく乾かして運ぶよう頼んでいるのですが、届く物が全部そうとは限りませんので」
女は苦笑した。
その髪には、白く小さな羽が一枚ついていた。
澪がそっと指さすと、女は慣れた手つきで摘み取った。
「今日は、これで五枚目です」
「数えているんですか」
「数えていられるうちは、よかったんです」
重い扉が開いた。
澪は、思わず足を止めた。
麻袋が並んでいた。
まず正面に、背丈を越すほど積まれた袋の壁がある。
左の棚も袋で埋まり、右の通路は人ひとりが横向きで歩けるくらいしか残っていない。
天井の梁には吊り下げた荷札が揺れ、その下で荷運びの男が袋を抱えたまま行き場を探していた。
「こっちへ置けるか!」
「置けません! そこは昨日まで通路だったんです!」
「昨日まではな!」
奥から聞こえた声に、理央の肩が揺れた。
別の男が二人掛かりで袋を持ち上げようとして、ひとりがくしゃみをした。
袋がぐらりと傾き、縫い目から小さな羽が飛び出す。
「また出たぞ!」
「出たのは羽だろ! 袋を落とすな!」
澪は口元を押さえた。
「……あの、すごく忙しそうですね」
「ご覧のとおりです」
案内役は平然と答えたが、目の下にはうっすら影があった。
「この奥にも、もう一部屋あります」
「まだあるんですか!?」
「はい。もう一部屋だけ、と申し上げたかったのですが、昨日から別の荷蔵も借りました」
理央は壁際の袋を見上げた。
「全部、羽毛?」
「ほとんどがそうです。鶏を処理する店や、集荷を引き受けてくださった商人の荷です。毛皮と混ざらぬようにしたら、今度は羽毛だけであふれました」
「ありがとうございます。こんなに集めていただいて」
澪が頭を下げると、近くの男が袋を抱えたまま振り返った。
「いや、礼を言うのはこっちですよ。昨日からずっと、いつ持ってってくれるのかって話してたんで」
「そこは喜んでいただけてます?」
「大喜びです! ……置く場所ができれば、もっと大喜びです!」
とうとう澪も笑ってしまった。
男が袋を持ち直すと、後ろから別の男が通路を空けてくれと声を上げた。
「理央ちゃん。先に通路を空けましょう」
「はい。さっそく片付けます」
理央が《収納》を開こうとすると、奥から年配の職員が近づいてきた。
腕まくりをした袖に綿毛がつき、手には何枚もの荷札を挟んでいる。
「押入商会のお二人ですな。いや、よく来てくださった」
「お世話になっています。すぐに引き取れますので」
「助かります。じゃが、少し待ってくだされ。ここにはまだ、水の残った荷も交じっています」
職員は、壁から離して置いてある袋を指さした。
「あれは今朝届いたものです。処理場を出たばかりで、乾いておりません。ほかと一緒にしてしまうと、匂いも移る」
理央は袋の口を覗いた。
白い羽の間に、濡れて貼りついた茶色の羽軸がある。
袋の底は重く、指で押すとひやりとした。
「本当だ。まだ水が残っていますね」
「仕分けてから送りたいのですが、場所が足りんのです」
「水分はこちらで分けられます。今ある分は、まとめて拝見しますね」
澪が答えると、職員はほっとした顔になった。
「よかった。干そうにも、広げる床が残っておらんのです」
「毛布の原料は、こちらでまとめて引き受けます。先に、その床を取り戻しましょう」
「毛布……」
職員は周囲の袋を見渡した。
「これが、毛布になるんですかね」
「はい。羽から成分を取り出して、糸にするんです。見本も持ってきましたから、後で触ってみてください」
「全部を?」
「水分や汚れは分けますけど、羽軸も使えますよ」
「でしょうなあ。これを全部毛布にしたら、王都の人間がみな寝台の中へ埋まってしまう」
理央が噴き出した。
「そんなにできたら嬉しいですけど、まだそこまでは集まってません」
「そうですか。よかったような、残念なような」
職員は笑い、手にした荷札を二人へ見せた。
袋ごとに運び込まれた土地や店の名がついている。
食肉処理場から出た羽を集めたものもあれば、商人がいくつもの小さな店を回ってまとめたものもあった。
澪は札の束を受け取り、最初の袋へ手を触れた。
《鑑定》の表示が現れる。
袋の中には水気や汚れも混じっていたが、羽から取り出す成分は使える。
「理央ちゃん、こちらの袋も大丈夫です。順に受け取りましょう」
「はい。水分を分けながら入れていきます」
理央が手をかざした。
袋がひとつ、すっと消えた。
「……おお」
男たちの手が止まる。
続いて二つ、三つ。
理央が袋に触れていくと、壁の一角に空きが生まれた。
地面の石畳が、久しぶりに陽の光を受ける。
「ほら、床だ!」
「床は昨日もあっただろう!」
「見えなかったんだよ!」
倉庫じゅうに笑い声が広がった。
そこからの仕事は早かった。
澪が荷を見て、理央が《収納》へ送る。
職員たちは並んだ荷を順に示し、通路の向こうへ移っていった。
最初の壁が消えると、奥にもう一つ壁が現れた。
「……まだありますね」
「こちらが昨日の分です」
「昨日の分?」
理央は思わず聞き返した。
「今なくなったの、何日分ですか?」
「今朝の到着分ですよ」
理央は、ああ、と声を漏らした。
澪は横を向いた。
笑うといけない気がしたが、理央と目が合ってしまった。
「……羽毛、元気ですね」
「元気なのは運んでくる人ですよ」
理央の返しに、二人ともとうとう笑った。
奥の袋は前の列より大きかった。
乾燥させた軽い羽が詰まっているらしく、持ち上げた職員が「これなら一人で運べる」と言い、肩へ担いだ途端に横幅のせいで棚にぶつかった。
「重くないけど、通れない!」
「向きを変えてください!」
「どっちに!」
「薄い方です!」
「袋に薄い方なんてあるか!」
「そのままで。取りますよ」
理央が肩の袋へ触れると、荷だけが《収納》へ消えた。
職員は何もない肩のあたりを撫で、しばらく空中を見ていた。
「……助かりました。次も、担ぐ前にお願いします」
「それが一番楽ですね」
理央が笑うと、男も空いた肩を回して笑った。
棚の奥にあった扉が見えた。
扉の木目には、袋に擦れた新しい傷がついている。
足元に落ちていた羽を澪が回収すると、ようやく取っ手に手が届いた。
「こちら、開きましたね」
職員の一人が、しみじみと言った。
「開けられなくなっていたんですか?」
「いえ、開けると向こうの袋に当たるもので」
「……向こうにも?」
職員は、申し訳なさそうに頷いた。
「向こうは、羽毛を扱う前は道具を置いていた部屋です」
理央が小声で尋ねた。
「澪さん、何か聞こえません?」
耳を澄ますと、扉の反対側から、ぼふ、ぼふ、と妙な音がしていた。
扉を押してもらうと、隙間からふわふわした羽の塊が出てきた。
細かい羽を入れた袋が、倒れて扉へ寄りかかっているらしい。
「……雪崩ですか」
「羽崩れですね」
理央が言った。
「新しい言葉ですね、それ」
澪は笑いながら、扉を塞いでいた袋ごと《収納》へ収めた。
中へ入ると、天窓から細い日差しが落ちていた。
空気に浮く羽の一本一本が光り、まるで春の綿毛が迷い込んだようだった。
ただし、春の野原とは匂いが違った。
乾いた藁に、羽軸の粉、古い木箱の匂いが重なる。
窓の下には湿ったものを遠ざけて置いた場所があり、そこだけ色の違う布で覆われていた。
「こんなにあると、倉庫の方たちは休む暇もなかったでしょう」
「運んできた人間も驚いておりましたよ。捨てていた物に値段がつくと聞いて、最初は冗談だと思った者もいたそうです」
年配の職員が話しながら、荷札を指で揃えた。
「買い取ると言われても、何に使うか分からんと不安なものです。ところが一度売れた店が、隣の店にも話したようで。今度は集めてくれる商人まで現れました」
「……ありがたいですね」
「こちらも商いですから。集まった分には、ちゃんと代金を払ってもらえますしな」
職員は笑って言った。
「ただ、どうか一つだけ」
「何でしょう?」
「これからも、適当な頃合いに取りに来てくだされ。今朝、倉庫番が『羽毛のために自分が外で寝る日も近い』と言いましてな」
「それは大変です!」
「大丈夫ですよ。次からは溜まりすぎる前に来ましょう」
理央がそう言いながら、最後の大きな袋を《収納》へ送った。
床が、見えた。
外から小さな歓声が上がる。
澪は天窓を見上げた。
埃を含んだ光の筋はまだそこにあったが、袋の山がなくなると部屋は見違えるほど広く感じられた。
「……こんなに広かったんですね」
「ええ」
職員は空になった部屋を眺め、しばらくしてから言った。
「わしも、久しぶりに見ました」
澪は鞄から毛布地を出し、職員へ端を差し出した。
「集めていただいた羽で、これを作るんです」
職員は布を指で摘み、押し、それからもう一度、空いた床を見た。
「……さっきまで邪魔だと言うておった物が、これになるのか」
「はい。毛布にして、孤児院にも届けます」
職員は布を離すと、自分の袖についた羽を摘み取った。
「これは、まだ買ってもらえますかな」
「もちろんです」
澪が受け取ると、男は笑って、もう片方の袖も払った。
倉庫の入口には、また新しい荷車が着いていた。
太い綱で縛った袋を見て、理央が足を止める。
「あれも羽毛ですよね」
「そうですね」
荷を降ろそうとしていた御者が、二人を見て尋ねた。
「お嬢さんたち、どこへ運べばいい?」
「そのままで大丈夫ですよ」
「いや、倉庫へ入れるんだろ?」
「はい。でも、持って行くのは私たちなので」
理央が手をかざすと、荷台の袋が消えた。
綱だけが、ばさりと落ちる。
御者は手綱を握ったまま、固まった。
「……荷が」
「お預かりしました」
「……ああ。そうなのか」
男は一度、空になった荷台を見てから、もう一度澪と理央を見た。
「荷を降ろしに来たのに、降ろす仕事がなくなっちまったな」
「楽になったんじゃないですか?」
「いや、急に暇になると、何していいか分からん」
澪が笑った。
「では、次の荷を運んできてください。お待ちしています」
「そりゃ困る。休む暇がない」
文句を言いながらも、男は嬉しそうに笑っていた。
倉庫の戸を閉める頃には、澪の袖にも理央の髪にも、白い羽が数枚ついていた。
理央が取ろうとすると、澪が先に気づいて手を伸ばす。
澪の肩にも同じものがあるので、今度は理央が取る。
「なんだか、お互いに羽を拾い合ってますね」
「これで毛布一枚分になれば、楽なんですけど」
「さすがに足りません」
理央は指先に乗った羽を見て、それから《収納》の中を思い浮かべた。
湿っていた羽も、水分を分ければ乾いた羽と同じように扱えた。
羽軸の多い袋からも、繊維に使う成分は取り出せる。
「帰ったら、毛布にするところまで進められますね」
「はい。これだけ集めていただいたんですから」
澪は空になった倉庫を振り返った。
「グスタフさんにも、引き取りが済んだとお伝えしましょう」
「きっと、ほっとしますね」
商業ギルド長の執務室へ向かう途中、理央は廊下に並ぶ品物の見本を見つけ、何度か足を止めた。
厚い革の帯、色の濃い染布、飾り彫りのある木箱。
商人や職人が交わす声の中には、知っている土地の名もあった。
「羽毛も、売ってくれた人たちに毛布を見てもらいたいですね」
「そうですね。何に変わるのか、分かると嬉しいと思います」
その言葉を交わしているうちに、執務室の前へ着いた。
扉が開くと、グスタフ・ハーゲンが机の向こうから顔を上げた。
「おお、来たかね。どうじゃ、羽毛の山は」
「全部、引き取りました」
澪が答える。
グスタフは目を瞬かせた。
「全部かね?」
「はい。今朝届いた分も、昨日の分も。隣の荷蔵に置いてあった物もです」
「隣まで行ったのか。……いや、そうであろうな。あれを残して帰るわけにはいくまい」
理央が笑いながら言った。
「途中で新しい荷車が着いたので、そちらも持ってきました」
「荷車ごと?」
「羽毛だけです!」
「それならよい」
「グスタフさん、本気で聞きました?」
「昨日から、少しばかり驚くことが続いておってな」
グスタフはそう言って、机の上へ視線を落とした。
理央が首を傾げたが、グスタフは話を戻した。
「これで次の荷が入る。倉庫番が喜ぶじゃろう」
「はい。床が見えたって喜んでいました」
「……床が見えた?」
「ええ」
グスタフは眉間を押さえた。
「わしのギルドは、床を見ただけで喜ぶほど狭かったかのう」
「羽毛が多かっただけですよ」
「それは分かっておる」
澪は笑いながら、鞄から畳んだ布を取り出した。
「今日は、これも持ってきたんです」
卓へ広げると、毛布地が柔らかな起伏を作った。
「この見本、倉庫の方たちにも触っていただきました」
「前に持ってきた生地じゃな。どうじゃった?」
「羽がこれになるのかって、驚いていました」
グスタフは布を摘み、指の間で押した。
離すと元の厚みに戻る。
「あの時は、この短い布と羽が一本じゃった。今度は、倉庫からあふれるほどか」
「これで、見本よりずっと長く織れます」
「今度は毛布を積む場所が要るわけじゃな」
理央が笑った。
「毛布なら、あの袋の山よりは小さくまとまりますよ」
「なるほど。倉庫にとっては厄介者、そちらにとっては宝の山か」
「倉庫の方には、なるべく厄介者にならないようにします」
澪が答えると、グスタフは声を立てて笑った。
「それが一番ありがたい。だが、わしがもっと嬉しいのは、羽を売る側も金を得られることじゃよ」
彼は机にあった書類を一枚抜いた。
「食肉を扱う店から、今まで捨てておった羽を集めて売れると聞いてな。喜んだ者が隣の町へ話を広めた。それを運ぶ商人にも仕事ができた。思ったより早く集まり始めたのは、そのせいじゃ」
「新しく配る鶏は、まだこれからですもんね」
理央の言葉に、グスタフが頷く。
「うむ。今はもともと各地で処理しておった鶏から出るものが中心じゃ。王国じゅうに鶏舎が増えれば、さらに話は変わるじゃろうが」
「その前に、回収の人が寝る場所をなくさないようにしないとですね」
グスタフは笑いを収め、真顔で言った。
「そこだけは、ぜひ頼むぞ」
その後、羽毛を集めてくれた店や商人への代金と、ギルドの手数料について話した。
「今日の分は、全部お願いします。集めてくれた方への代金も、前のお約束どおりで」
「うむ。回収と運賃、ギルドの手数料も、決めたとおりじゃ」
「また荷がまとまったら、知らせてください」
「次は、倉庫番に追い立てられる前に知らせよう」
「グスタフさん、元からお仕事いっぱいですよね」
理央が言うと、グスタフは目を細めた。
「そうじゃよ。最近は、真壁殿たちが持ってくる話も大きいでな。北の羊毛の次は鶏の羽と来た。今度は何を集めるつもりじゃ?」
「今のところ、羽毛をしっかり集めたいです」
「そうか。それを聞いて安心した」
「えっ、どうしてですか?」
「これ以上、倉庫の壁を押すような話が来たら困る」
澪は笑いながら布を畳んだ。
仕事の話がひと区切りつくと、グスタフは窓の外を見た。
陽は高くなり、石畳の上に落ちる庇の影が短くなっている。
「おお、そろそろ昼前じゃな」
「何かご予定ですか?」
「あるとも。そろそろ、もう一人来る約束じゃ」
「すみません、長居してしまいました」
「そういう意味ではないよ。お主らも知っておるかもしれぬ御仁でな」
グスタフは楽しそうに笑った。
「ちょっと妙な話をする爺さんじゃ」
「グスタフさんがそれを言うんですか?」
理央は、口にしてからしまったという顔をした。
グスタフがゆっくり振り返る。
「……何じゃと?」
「いえ! 何でもないです!」
澪は慌てて鞄を持った。
笑うと理央がかわいそうなので、口元を引き締める。
そのとき、扉が叩かれた。
「ギルド長。昨日のお客様がいらっしゃいました。広場の用意も整っております」
「うむ、ちょうどよい。通してくれ」
廊下から聞こえたのは、聞き覚えのある、ゆったりとした声だった。
「ほっほ。待たせてしもうたかのう」
澪の手が止まった。
理央が同時に扉へ振り返る。
現れたのは、紺の着物に刀を差した老人だった。
真っ直ぐな背中と、白い髭。
年を取ってなお、足運びが妙に静かである。
「……弥兵衛さん?」
「おお?」
老人がこちらを見る。
「澪さんに、理央ちゃんではないか。こんな所で会うとはのう!」
「本当に弥兵衛さんだ!」
理央の声が弾んだ。
澪も椅子から立ち、老人を迎えた。
「王都までいらしたんですね。お元気そうでよかったです」
「うむ。おかげさまでな。二人は何をしに?」
「羽毛を取りに来たんです」
「羽毛とな」
「鶏の羽です。毛布を作るので、倉庫いっぱいに集まったのを持って帰るところです」
「ほう。あの鶏が、毛布にまでなるか。真壁殿たちは相変わらず面白いことを考えるのう」
グスタフは二人を交互に見た。
「……何じゃ。知り合いどころではなかったか」
「はい。ヴァルディスでお会いしたんです。弥兵衛さん、すごい剣士なんですよ」
「それは、昨日からよく分かっておる」
グスタフの声が少し低くなった。
澪は、その調子に気づいて老人の顔を見直した。
「何か、あったんですか?」
「いや、ちと森でな」
弥兵衛は右手を上げた。
節くれ立った指は五本とも揃い、肌にも傷が見えない。
「妙な魔物に出会うて、これを食われた」
理央の笑顔が止まった。
「……今、何て言いました?」
「手を食われたのじゃ」
「手を!?」
澪も思わず声を上げた。
弥兵衛は、何でもないことのように掌を開いて見せる。
「ほれ。もう元に戻っておる」
「戻ったって……」
理央が弥兵衛の手を見つめる。
指が曲がり、また伸びる。
見たところ、本当に何も起きていないようだった。
「《超再生》のおかげじゃ。ありがたいものよ」
「わしも昨日、ここで話が分からなくなった。右手を食われた話を、右手を振りながらするのじゃからな」
「あるからのう」
「そういう話ではない!」
グスタフと理央の声が重なった。
弥兵衛は少し驚いたように二人を見て、それから困った顔で笑う。
「わしも、食われた時は驚いたぞ」
澪は老人の右手から顔へ眼を戻した。
「無事でよかったです。それで、どんな魔物だったんですか」
「それを、ヴァルト殿へ知らせようと思うておる」
弥兵衛は《収納》から封を一通取り出した。
「ちょうどよい。これを渡してもらえぬかのう」
澪は両手で受け取った。
封にはヴァルトの名が書かれていた。
弥兵衛が昨夜、宿で書いたものらしい。
「私が届けます。ヴァルトさんへ直接渡しますね」
「ありがたい。あの森の奥には、迂闊に近づかぬ方がよいものがおった。真壁殿にも伝えていただきたい」
「わかりました」
澪は封を《収納》へ納めた。
理央はまだ弥兵衛の右手を見ていた。
「戻る時は、痛くないんですか?」
「痛い。じゃが、痒いのにも参ったのう」
「……詳しいお話は、ご飯の後でお願いします」
「それはいかん。飯は大事じゃ」
グスタフが、やっと笑った。
「ようやく、わしにも分かる話になったのう」
昼前の陽が、商業ギルドの裏手に落ちていた。
案内されたのは、大通りからは見えない塀の内側だった。
普段は荷車を置く場所らしく、片隅に太い車輪や長い木材が積まれている。
今日のために中央を空けたらしく、地面には掃き寄せた砂の筋が残っていた。
すでに何人もの職員が待っていた。
荷を扱う者のほかに、皮や角を見分ける職人らしい男もいる。
端には布を広げた台と、水の入った桶が用意されていた。
「ずいぶん準備されたんですね」
「昨日の話を聞いたら、こうもなる。何しろ、わしは弥兵衛殿の荷を一度も見ておらぬからな」
「魔石は見てもらうたぞ」
「魔石と魔物の身体は、話が違う」
「そういうものか」
「そういうものじゃ!」
弥兵衛は面白そうに笑った。
理央は広場を見回していた。
普段なら荷車を何台も並べられそうな広さだ。
そこに、森で斬った魔物を出すという。
「弥兵衛さん、本当に百頭以上倒したんですか?」
「うむ。途中から数えるのが面倒になってのう」
「面倒って……普通、途中で逃げません?」
「わしも逃げたぞ。あの女からはのう」
「逃げた相手がいたんですか!」
「おったとも。なかなか足の速い女でな」
あの森に、弥兵衛が逃げるほどのものがいる。
ヴァルトの家が森の中にあることを思い出すと、胸の辺りが落ち着かなくなった。
「弥兵衛さん。そのお話、ヴァルトさんには早めに届けます」
「うむ。頼むぞ」
老人は頷き、それ以上は軽口を続けなかった。
その顔を見て、澪も少しだけ息を吐いた。
そんな二人の様子とは別に、理央は広場の端へ立っている職人を見ていた。
「澪さん、あの人たち、これから出てくる物が何なのか知らないんですよね」
「そうかもしれません」
「私たちは知ってるつもりですけど、実物を見てないですし」
そう言う理央の目には、不安より興味の方が強かった。
鍛冶場で見た弥兵衛の刀。
その刀で何を斬ってきたのか。
魔物の素材が、どんな形で商売に使えるのか。
澪は苦笑した。
「理央ちゃん、顔が楽しそうですよ」
「澪さんも、ちょっと気になるでしょう?」
「……はい。ちょっとだけ」
グスタフが皆を端へ下がらせ、弥兵衛の方を向いた。
「では、一頭ずつ頼む。小さい方からじゃぞ」
「心得た。大きいものは、最後にしようと思うておる」
弥兵衛は広場の中央へ進み、人も荷もない場所へ手を向けた。
澪と理央も、職人たちのそばへ下がる。
「まずは、狼あたりからじゃな」
石畳の上へ靄が広がった。
黒い毛に覆われた背が現れ、投げ出された脚と、長い尾が続く。
横たわった大狼だった。
胴の長さだけで、さっきまで男たちが担いでいた羽毛の袋を越えている。
開いた口から突き出した牙は、理央の指よりも長かった。
職人の一人が膝をつき、首の辺りを覗き込む。
「ダイアウルフか。これを一太刀で……」
弥兵衛は職人の隣へしゃがみ、傷の位置を指で示した。
「ここの皮は傷めてしもうたが、背の方は使えると思うぞ」
職人は返事の代わりに、背を覆う毛へ両手を差し入れた。
グスタフが狼の爪から尾まで眼を走らせ、弥兵衛へ顔を戻す。
「……これが、小さい方かね」
「うむ。まずは、場所を取らぬものからじゃ」
理央が小さく呟いた。
「羽毛の回収に来たはずなのに……」
「今日は、大きなおまけがつきましたね」
澪は答えながら、広場に残った場所を見た。
グスタフが、広場の奥へ続く大きな扉を指した。
「あちらも空けておいてくれ。荷車は、表へ回すように」
職員が駆けていくと、グスタフはもう一度、大狼を見下ろした。
「弥兵衛殿。熊は、どれほど大きいのじゃ」
「比べてみるかの?」
「並べんでよい!」