ヴァルディス侯爵家の応接室は、いつ来ても空気が軽くない。
天井が高い。窓が大きい。敷かれている絨毯は足音を吸う。磨かれた机の上には、花ではなく、紙の束と小さな革袋が置かれていた。澪はその革袋の重みを見ただけで、なんとなく事情を察した。
お金の話だ。
アルベルト・ヴァルディスは、机の向こうで手を組んでいた。若いのに、こういう時の顔は侯爵家の人間そのものになる。洪水対応、復旧支援、薬草畑の立て直し、それにオリハルコン疑惑の剣型試料の買い取りと王家献上準備。大きな家は大きな家で、動けばお金が減る。
けれど、困っているから安売りをしたい、という顔ではなかった。
「侯爵家の名で売れる、新しい装飾品が欲しい」
「新しい装飾品」
澪は膝の上で手を組んだ。
「安く数を売る品ではない。高く売っても、侯爵家の格が落ちない品だ」
「難易度が上がってます」
横に座っていたリュシアが、腕を組んだまま笑った。
「安く売るなら市場でやればいい。侯爵家の名前を使うなら、数を絞って値を守るんだよ」
値を守る。
澪はその言葉を頭の中で反芻した。フリマアプリの再生品でも、安くすればよいわけではないと学んだばかりだ。だが侯爵家ブランドとなると、さらに重い。売れるだけでは駄目で、売った後に侯爵家の名前が軽く見えてもいけない。
エレナは隣の椅子で、話が始まるのを待ちきれないように足を少し揺らしていた。赤毛をきれいにまとめ、今日は少年服ではなく、令嬢らしい服を着ている。ただし目は完全に市場で珍しいものを見つけた時の目だった。
澪は自分の国で、小さくて軽くて、季節ごとに変えられて、貴族女性の手元で目立つものを思い浮かべた。
宝石。
髪飾り。
扇子。
香水瓶。
いや、もっと小さいもの。
小さくて、写真映えして、茶会や舞踏会で話題になり、服ほど大がかりではなく、宝石ほど素材費が重くないもの。
「爪、ですかね」
部屋の空気が、少し止まった。
「爪?」
アルベルトが聞き返した。
リュシアが片眉を上げる。
「爪を売るのかい」
「あたしの国には、爪に貼る飾りがあります。自分の爪を染めるんじゃなくて、薄い飾り爪を作って、必要な時だけつけるんです」
エレナが椅子から少し身を乗り出した。
「爪を、着替えるの?」
「そうです。手元だけドレスアップします」
エレナの目が、一瞬で輝いた。
澪は、その反応を見て思った。
これは刺さる。
リュシアも同じことを思ったらしい。商人の目になっている。アルベルトはまだ慎重だが、小さな商品で貴族女性の目を引ける可能性を考え始めた顔だった。
澪は持ってきた小箱を机の上に置いた。
小箱の蓋を開けると、薄い飾り爪が整列していた。
透明なもの。淡いピンク。薄い琥珀。先端だけ色が変わるもの。小さな飾りがついたもの。現代側で用意したネイルチップの見本だ。あわせて、色剤と定着剤の初期サンプルも小瓶に入れて持ってきている。
エレナは、息を呑むように覗き込んだ。
「これ、全部の指につけるの?」
「はい。基本は10本分です」
「足は?」
「今回は手だけにしましょう」
リュシアがすぐ横から口を挟んだ。
「姫様、まず手で様子を見るんだよ」
「だって、足も爪はあるわ」
「ありますけど、最初から広げると大変です」
澪は慌てて言った。足まで広げると、靴、歩き方、汚れ、外れやすさまで考えなければならない。今は手だけで十分だ。
エレナは少し不満そうだったが、すぐに透明なチップをつまもうとして、澪に止められた。
「先に手を洗ってからにしましょう。あと、これは見本なので、割らないでください」
「そんなに弱いの?」
「薄いので。あと、小さいです」
エレナは両手を引っ込めた。けれど視線は小箱に釘付けだった。
アルベルトは、小さなネイルチップを1つ、澪の許可を得て手に取った。指先に乗せ、光にかざす。
「軽いな」
「軽くないと爪に負担がかかります」
「だが、手元では目立つ」
「はい。茶会でカップを持つ時、扇子を持つ時、挨拶する時に見えます」
リュシアが小さく頷いた。
「服を仕立て直すより軽い。宝石を買うより入り口が低い。でも、侯爵家の箱に入れて、数を絞れば高くできる」
澪はすぐに手を上げた。
「ただし、あたしが作り続ける商品にはしません」
アルベルトの視線が澪へ向いた。
「なぜだ」
「あたしがいないと作れない商品は、侯爵家ブランドとして続きません」
セルマが、箱の中のチップを見ながら頷いた。今日のセルマは、すでに錬金術師の顔をしている。
「その通りね。澪ひとりが作れる品は珍品よ。侯爵家の商品にするなら、こちらの職人が作れなければならない」
リュシアが机に肘をつく。
「澪は売り方と形を作る。作るのは領の職人。そういうことだね」
「はい。あたしは見本と、最初の色剤と定着剤のサンプルを出します。でも続ける分は、この領の中で作れるようにした方がいいです」
アルベルトは、ネイルチップを小箱へ戻した。
「では、素材から決める必要がある」
「はい。軽くて、薄くできて、割れにくくて、爪に乗せても負担が少ないものです」
セルマが立ち上がった。
「素材置き場へ行きましょう。爪にするなら、まず爪材を探すところからね」
セルマ工房の奥には、素材置き場がある。
薬草、鉱石、樹脂、貝殻、骨、角、用途不明の乾いた塊。澪から見ると、実験室と倉庫と骨董市が混ざったような場所だった。
セルマは棚からいくつかの素材を取り出した。
蹄片。
角の薄片。
骨片。
貝殻。
薄く削れる樹脂状素材。
澪はそれらを作業台に並べ、現代のネイルチップを横に置いた。大きさを比べる。厚みを見る。指先に乗る重さを想像する。
まず蹄片を鑑定する。
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爪材候補
素材:蹄片
加工可否:可
特徴:薄く削れる、軽い、やや反りあり
注意:臭い処理、表面磨き、割れ防止
適性:高
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「蹄、適性高いです」
エレナが少し顔をしかめた。
「蹄を爪にするの?」
「素材としてです。ちゃんと処理します。見た目も匂いも、そのままでは使いません」
「匂うの?」
「今のままなら、少し」
エレナは椅子ごと半歩下がった。
リュシアが笑う。
「姫様、商品になる頃には姫様の鼻に届かないようにするよ」
次に骨片を鑑定する。
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爪材候補
素材:骨片
加工可否:条件付き可
特徴:硬い、白色、薄くすると割れやすい
注意:厚み管理、縁割れ
適性:中
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「骨は硬いけど、薄くすると割れやすいです。白い色はきれいですが、扱いが難しそう」
貝殻を鑑定する。
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爪材候補
素材:貝殻
加工可否:可
特徴:光沢あり、薄片化可、割れやすい
注意:欠け、重ね加工
適性:装飾向き
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「貝殻は、爪材本体より装飾向きかもしれません。光沢はきれいです」
セルマは素材を手に取り、指先で曲がりを確かめた。
「ただ削るだけでは無理ね」
「無理ですか」
「薄く、軽く、同じ反りで、割れない。しかも10枚そろえる。錬金術師側に整形の訓練がいるわ」
アルベルトがすぐに判断した。
「錬金術師を集める」
セルマは頷く。
「私が見る。澪は見本と基準を出して」
「基準……」
澪は小箱のネイルチップを見た。
厚み。
反り。
左右差。
縁の丸さ。
爪につけた時の痛くなさ。
それを、異世界の錬金術師に伝える必要がある。
プロデュースだけ、と思ったのに、急に講習会の先生みたいになってきた。
「爪の先生……」
「何か言ったかい」
リュシアが聞いた。
「いえ。まだ逃げてません」
「逃げる気はあったんだね」
侯爵家の呼びかけで、錬金術師たちがセルマ工房に集められた。
人数は多くない。だが、全員が素材の変化や固化に慣れている職人寄りの錬金術師だった。机の上には、現代のネイルチップの見本、蹄片、角、骨片、貝殻、樹脂状素材が並んでいる。
澪は見本のチップを1枚、白い紙の上に置いた。
「目指すのは、これくらいの薄さです。爪に乗せるので、軽くて、縁が痛くなくて、反りが合うことが大事です」
錬金術師の1人が蹄片を持ち、眉を寄せた。
「この薄さまで均一にするのですか」
「はい」
「割れます」
セルマがすぐ言った。
「割らずに薄くするの。爪に乗せるのだから」
最初の試作は、見事に失敗した。
厚すぎる。
反りが強すぎて、爪に乗せると端が浮く。
薄くしすぎて、机に置いた瞬間に割れる。
縁が鋭くて、指に当てると痛い。
10枚の大きさがばらばら。
表面が曇って、色を乗せてもきれいに見えない。
澪は1枚ずつ鑑定しながら、駄目な理由を言語化していった。
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試作爪材
形状:爪型未満
厚み:過多
反り:強すぎ
縁:鋭利
装着感:痛みあり
推奨:厚み低下、反り緩和、縁丸め
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「ここ、縁が痛いです。あと、反りが合ってません」
錬金術師が肩を落とす。
「小さすぎる……」
リュシアが横から言った。
「小さいから高く売れるんだよ」
「高く売れる物は、だいたい面倒なのね」
別の錬金術師が呟いた。
セルマが、試作の割れた爪材を手に取り、光にかざした。
「澪の収納整形は、完成形を強く持ってから形を変える。錬金術でも、ただ薄くするのではなく、どこを残してどこを逃がすかを決めないと割れるわ」
「逃がす?」
錬金術師が聞く。
「厚みを均一に見せ