押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

5 / 17
第5話 押入商会、露店をやめる

 安全装備というものは、畳の上に並べているだけなら、かなり頼もしく見えた。

 

 透明なポリカーボネートの盾、耐切創手袋、安全ゴーグル、ホイッスル、熊撃退スプレー、水を入れた液体噴霧器、小型ライト、袋に入れたマチェット。篠原澪は江古田の六畳間でそれらを順番に見下ろし、腕を組んだ。見た目だけなら、昨日までの自分よりは確実に強そうだった。

 

 問題は、それを自分が身につけた場合である。

 

 澪は厚手の作業用ジャケットを着て、手袋をはめ、安全ゴーグルをつけ、首からホイッスルを下げた。さらに小型の透明盾を左手に持ち、リュックを背負って鏡の前に立つ。鏡の中には、二十歳の女子大生がいるはずだった。少なくとも戸籍上はそうである。

 

 けれど、鏡に映った姿は、どう見ても商人ではなかった。

 

「商人……ではないですね」

 

 澪は角度を変えてみた。ゴーグルのせいで目元が妙に厳重になっている。透明盾は前を見えるようにしてくれるが、持っている本人の怪しさまでは消してくれない。ホイッスルは首元で、なぜか体育の先生感を主張している。リュックと噴霧器は肩の上で場所を取り合い、作業用ジャケットは部屋着の上に着ると急に工事現場へ向かう人のように見えた。

 

 冒険者でもない。

 

 しばらく鏡の中の自分を見つめたあと、澪は結論を出した。

 

「防災訓練に遅刻した人だ、これ」

 

 言ってから少し落ち込んだ。笑える格好ではある。けれど、ふざけているわけではなかった。前回、異世界市場の路地で男二人に後をつけられた時の感覚は、まだ体の奥に残っている。背後の足音、角を曲がってもついてくる気配、ポーチとリュックを見る視線、足が動かなくなった自分。思い出すだけで、喉の奥が冷える。

 

 だから、装備は必要だった。

 

 ただし、全部持っていくのは無理だった。透明盾は小型のものだけにする。噴霧器の水は少量にし、熊スプレーは外ポケットに入れたうえで布で覆う。ホイッスルとライトは服の内側へ入れ、マチェットは作業用として袋に包み、リュックの奥にしまう。澪はひとつずつ確認しながら、押入商会の帳簿を開いた。

 

 今日の欄には、まず「本日装備」と書く。続けて「目立ちすぎない範囲で携行」と書いたところで、ペン先が止まった。

 

「目立ちすぎない範囲って、透明盾を持った時点で終わってない?」

 

 気づいてしまったが、もう行くしかない。澪は帳簿を閉じ、押入れの前に立った。深呼吸をしてから、声に出して自分に言い聞かせる。

 

「今日は、絶対に一人で細い道を歩かない」

 

 声に出すと、少しだけ効く気がした。効いてほしい。澪は襖を開ける。石畳の路地があり、乾いた風と、市場のざわめきと、焼いた肉と香草と革の匂いが六畳間へ流れ込んできた。

 

 澪は畳から異世界へ足を踏み出した。

 

 押入れから市場裏の倉庫までは、前より慎重に進んだ。表通りに近い道を選び、人の声が聞こえる道を選び、荷車の音がする道を選ぶ。澪は心の中で、その道を「安全ルート」と呼ぶことにした。名前をつけると安心する。実際にはただの石畳の道なのだが、少なくとも何も考えずに歩くよりはましだった。

 

 市場裏の倉庫では、リュシアがいつもの木箱に腰かけていた。赤茶色の布を頭に巻き、今日も足をぶらぶらさせている。澪を見つけると、最初は明るく手を振った。しかし、その手は途中で止まった。

 

 リュシアは澪を上から下まで見た。

 

 透明盾を見て、ゴーグルを見て、厚手の手袋を見て、首元のホイッスルを見た。さらにリュックと、外側に固定された布で覆った謎の筒へ視線を移す。その目は、可愛い商人娘のものではなく、完全に危険を数える商人のものだった。

 

「ミオ、その板、目立つわ」

 

 澪は固まった。

 

「死なないために買ったんです」

 

「それは分かるけど、すごく目立つわ」

 

「透明なのに?」

 

「透明だから余計に目立つのよ。前が見える板を持って歩く女の子なんて、市場にはいないもの」

 

 澪は左手の盾を見た。確かに、透明であることと目立たないことは別だった。透明でも、板は板である。しかも、持っている本人が完全に不慣れな顔をしている。

 

 リュシアは木箱から降り、澪の周りを一周した。表情はやわらかいが、視線は厳しい。品定めではない。市場でどう見えるか、どこが危ないかを数えている目だった。

 

「その目の前につけるものは?」

 

「ゴーグルです。目を守ります」

 

「顔が変わるわ。目立つ」

 

「この笛は、何に使うの?」

 

「大きな音を出して、助けを呼ぶためです」

 

「なら、鳴らす時だけ出して。首から下げて歩くと、何かするつもりの人に見えるわ」

 

 澪は首元のホイッスルを握った。自分でも少し体育の先生みたいだと思っていたので、反論が弱い。

 

 リュシアは次に、腰の外側へ固定された筒を指さした。

 

「これは?」

 

 熊撃退スプレー、と言っても分からないだろう。澪は少し考えた。

 

「最後の手段です」

 

「何をするもの?」

 

「危ない相手を、近づけないためのものです」

 

 リュシアの目が細くなった。

 

「なら、なおさら見せない方がいいわ」

 

「どうしてですか」

 

「最後の手段を、最初から見せて歩く人はいないもの。見せた時点で、相手も警戒する。周りも見る。あなたも緊張する」

 

 澪は何も言えなかった。

 

 リュシアは現代の防犯用品を知っているわけではない。ポリカーボネートの盾も、熊撃退スプレーも、ゴーグルも知らない。知っているのは、市場の見え方だった。

 

 珍しいものを持った、慣れていない、怖がっている、若い女。

 

 それがどう見えるか。

 

 リュシアはそこを見ている。

 

「ミオ。道具を持つのはいいわ。でも、道具を見せて歩くのとは違う」

 

「はい」

 

「荷物を持っています。珍しいものを持っています。怖がっています。慣れていません。そういう人は見られる」

 

 澪の肩が少し落ちた。

 

「私、安全になったつもりでした」

 

「安全になるための道具を買ったのね」

 

「はい」

 

「次は、安全になる使い方を覚えるの」

 

 リュシアはそう言って、少し笑った。責めているわけではない。教えているのだ。それが分かったので、澪はさらに落ち込んだ。素直に聞くしかないからである。

 

「盾、倉庫に置いていってもいいですか」

 

「もちろん」

 

「せっかく買ったのに」

 

「使わないで済む道具が一番いい道具よ」

 

 澪は透明盾を壁際に立てかけた。今は使わない。それが少し悔しくて、でも正しいのだと分かった。薄暗い倉庫の中では、透明盾が壁際で妙な存在感を放っている。透明なのに、存在感だけは透明ではなかった。

 

 リュシアは倉庫の扉を閉め、木箱を二つ並べて簡単な作業台にした。それから澪に向き直る。

 

「ミオ、もう市場の端で布を敷いて売るのはやめましょう」

 

 澪は、少しだけ言葉を失った。

 

「露店をやめる、ということですか」

 

「そう」

 

「私、露店を始めた記憶もあまりないのに、もう閉店するんですか」

 

「閉店じゃないわ。卸売に昇格よ」

 

「昇格なんですか」

 

「たぶん」

 

「たぶんで慰めないでください」

 

 リュシアは悪びれずに笑った。

 

 澪は少し落ち込んだ。市場で小さな布を広げ、品物を並べた時、怖かったけれど、少しだけ店を持ったような気分にもなっていた。自分の持ってきたものを誰かが覗き込み、驚く。手鏡に目を丸くする女性、爪切りの音に驚く商人、虫眼鏡を覗いて顔つきが変わったリュシア。あの瞬間は、少し楽しかった。

 

 でも、危なかった。

 

 手鏡は無料化粧直し台になりかけた。爪切りは見せびらかされた。虫眼鏡は専門職の興味を引いた。その場で金貨を受け取れば、見ている者はいる。楽しいからといって続けていい形ではなかった。

 

 リュシアは澪の顔を見て、少し声を柔らかくした。

 

「ミオ、あなたは売り子じゃないわ。仕入れ元よ」

 

「仕入れ元」

 

「あなたは珍しい品を持ってくる人。市場で声を張って売る人じゃない。客を選んで、私の倉庫で見せる。その方が安全だし、高く売れる」

 

 澪は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

 

 仕入れ元。

 

 つまり、澪は市場で客の前に出すぎない。リュシアが市場側の窓口になる。澪は商品を持ち込み、リュシアへ納品し、リュシアが売る。少し寂しい。でも、理屈は分かる。

 

「商品はここで確認する。客は私が選ぶ。支払いもここで済ませる。ミオは細い路地を一人で歩かない。金貨は市場の表で出さない」

 

 リュシアは指を折りながら、一つずつ確認した。澪はそのたびに「はい」と答える。最後にリュシアが「盾は必要な時だけ」と言った時だけ、澪の声は少し小さくなった。

 

 リュシアは目ざとい。

 

「盾、気に入ってるの?」

 

「気に入ってるわけではないです。買ったので、少しは活躍してほしいというか」

 

「商人としては、活躍しない方が得よ」

 

 澪は言い返せなかった。活躍する盾とは、危ない場面で使われる盾である。つまり、活躍しない方がいい。理屈では分かる。気持ちは少しついてこない。高かったのだ、盾。

 

 リュシアは倉庫の棚から薄い木札を何枚か出した。木札には異世界の文字が書かれている。澪には読めない。模様に見える。リュシアはそれを一枚ずつ木箱の上に並べた。

 

「髪結いから手鏡二つ。仕立て屋から針三つ。薬草屋からムシメガネ一つ。旅人向けに爪切り三つ」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネ」

 

「もう訂正する気力が減ってきました」

 

 リュシアは楽しそうに笑ったあと、澪のメモ帳を覗き込んだ。そして、すぐに眉を寄せる。

 

「ミオ、それは安すぎるわ」

 

「でも、私の国では安いものなので」

 

「それはミオの国の話でしょう」

 

 リュシアは木箱の上に銅貨を一枚置いた。

 

「銅貨一枚で、屋台の串が一本」

 

 次に五枚を並べる。

 

「銅貨五枚で、簡単な食事」

 

 さらに銀貨を一枚出す。

 

「銀貨一枚なら、庶民が一日で使う食費くらい」

 

 最後に、小さな金貨を指でつまむ。

 

「小金貨一枚は、気軽に出すお金じゃないわ」

 

 澪はそれを見て、少し青くなった。百円ショップで買ったものが、異世界では生活費単位で動く。頭では分かっていたつもりだったが、銅貨と銀貨を並べられると、急に現実味が増した。

 

 リュシアは爪切りを一つ持ち上げた。

 

「これは珍しい。でも、爪は小刀でも切れる。だから高すぎると売れない。旅人や職人向けで、あなたから私への値段は銀貨二枚。私は銀貨三枚から四枚で売る」

 

 澪はメモ帳へ書いた。爪切り、卸値銀貨二枚、販売銀貨三枚から四枚。文字にすると、百円ショップの爪切りが急に真面目な商材になる。落ち着かない。

 

 次に、リュシアは手鏡を持った。

 

「これは強いわ。顔が歪まない鏡は少ない。髪結いなら仕事に使えるし、女の人なら欲しがる。でも割れるし、客を選ぶ。あなたから私は銀貨五枚。私は銀貨八枚以上、相手によっては小金貨一枚」

 

「小金貨」

 

「貴族の侍女や腕のいい髪結いなら出すわ」

 

 澪の手が少し震えた。百円ショップの手鏡が、小金貨。心臓に悪い。

 

 次に裁縫針。

 

「針は地味。でも仕立て屋は分かる。まっすぐで細い針は仕事が早くなる。これは銀貨三枚。まとめ買いなら少し下げる」

 

 澪は黙って書いた。

 

 そして、リュシアは虫眼鏡を持った。表情が少し変わる。

 

「ムシメガネは別」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネは別」

 

 澪は訂正を諦めた。

 

「薬草屋が葉の傷を見る。宝石を見る人が石の欠けを見る。商人が硬貨の刻印を見る。細工師が傷を見る。代わりがない」

 

 澪は嫌な予感がした。

 

「いくらですか」

 

「あなたから私は小金貨一枚。私は小金貨一枚と銀貨五枚から、小金貨二枚で売る」

 

 澪は完全に固まった。

 

 百円ショップの虫眼鏡が、小金貨一枚。頭の中で、現代日本の白い棚と、異世界の薄暗い倉庫が正面衝突した。

 

「リュシア」

 

「なに?」

 

「私の心臓には高いです」

 

「ミオの心臓で値段を決めないで」

 

 リュシアは可愛い顔で、かなり厳しいことを言った。

 

「商売で大事なのは、あなたがいくらで手に入れたかじゃないわ。ここで代わりがあるかどうかよ」

 

 澪はメモ帳の端に、小さく書いた。

 

 百円ショップ価格を忘れる。

 

 少し考えて、さらに小さく書き足す。

 

 でも、忘れすぎない。

 

 忘れすぎると、たぶん人として何かを失う。それも怖かった。

 

 価格表は、思ったより本格的になった。澪はメモ帳に、リュシアの言葉をひとつずつ書き写していく。爪切りは卸値銀貨二枚で、販売銀貨三枚から四枚。手鏡は卸値銀貨五枚で、販売は銀貨八枚以上、相手によっては小金貨。裁縫針セットは卸値銀貨三枚で、販売銀貨五枚。虫眼鏡は卸値小金貨一枚で、販売は小金貨一枚と銀貨五枚から小金貨二枚。糸切りばさみ、髪留め、メモ帳と鉛筆、ステンレス小皿についても、リュシアは客層と希少性を見ながら値段を決めていく。

 

 書き終えた澪は、メモ帳を見て頭を抱えた。

 

「全部、百円ショップの商品なのに……」

 

 リュシアは首を横に振った。

 

「全部、ミオの国の値段で考えたら駄目」

 

「でも、原価が頭から消えないです」

 

「消さなくていいわ。ミオが損をしないためには必要でしょう。でも、こちらで売る値段を決める時は、希少性を見るの」

 

「希少性」

 

「そう。代わりがあるものは高くしすぎない。代わりがないものは安くしない。客を選ぶものは数を絞る。見せるだけで人が集まるものは、表で見せない」

 

 澪は日本語でメモした。リュシアは読めない。けれど、澪が真剣に書いているのを見て、満足そうにうなずいた。

 

 原価は私のため。

 

 希少性はこっちの値段のため。

 

 見せるだけで人が集まるものは表で見せない。

 

「これで少し商売らしくなったわね」

 

「少しですか」

 

「まだ少し」

 

「道のりが長い」

 

「長い方が儲かるわ」

 

 リュシアはさらっと言った。

 

 澪はメモ帳を見下ろした。価格表、卸値、販売額、希少性、原価、百円ショップ、異世界。言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 

「異世界より、商売の方が怖いです」

 

「慣れるわ」

 

「慣れたくない気もします」

 

「商人でしょう?」

 

 澪は返事に困った。私は商人なのか。少なくとも今、メモ帳に価格表を書いている。それはもう、かなり商人寄りの行為だった。

 

 

 

 

 

 新しいルールで、最初の取引をした。

 

 前のように市場の端で布を広げるのではない。倉庫の奥で、リュシアの木札に合わせて、澪が商品をひとつずつ出す。手鏡二つ、裁縫針三セット、虫眼鏡一つ、爪切り三つ。リュシアは商品を確認し、木札の横に置いていった。

 

 手鏡は布で包み直す。裁縫針は袋が破れていないか確かめる。虫眼鏡はレンズを光にかざして見る。爪切りは一度だけ開閉した。

 

 ぱちん、と小さな音が倉庫に響く。

 

 リュシアは満足そうにうなずいた。

 

「この音、旅人たちが面白がるのよ」

 

「爪を切る道具なのに、音で売れてる」

 

「音も価値よ」

 

 澪はまたメモしそうになった。音も価値。商売の世界は、思ったより広い。

 

 リュシアは代金を三つの小袋に分けて渡した。

 

「これは今日の分。これは前の追加分。これは次の仕入れの前払い。ムシメガネを多めに」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネ」

 

「もういいです」

 

 澪は小袋を受け取り、すぐリュックの内側へしまった。前より動きが早い。少し慣れた。だからこそ、自分で自分に言い聞かせる。

 

「慣れても、雑にしない」

 

 リュシアがそれを聞いて、少し笑った。

 

「いい言葉ね」

 

「自分用です」

 

「商人は、自分を叱れる方が長生きするわ」

 

「長生き基準なんですね」

 

「大事よ」

 

 リュシアは新しい木札を一枚、澪に見せた。読めない。やはり模様だ。

 

「宝石を見る人が、ムシメガネを試したいって」

 

「宝石商ですか」

 

「ええ。少し慎重にした方がいい相手ね」

 

「怖いですか」

 

「お金を持っている人は、だいたい少し怖いわ」

 

「その理論だと、リュシアも怖いです」

 

 リュシアはにこっと笑った。

 

「私は可愛いから大丈夫」

 

「自分で言った」

 

「本当のことは、だいたい少し怖いのよ」

 

 澪は笑いそうになった。リュシアは可愛い。そして、怖い。たぶん、それが商人なのだ。

 

 取引が終わると、リュシアは倉庫の外へ出た。

 

「今日はこっち」

 

 いつもより少し遠回りの道だった。表通りに近く、人が多い。荷車も多い。騒がしいが、その分、視線が分散する。前回のような細い路地ではない。

 

 澪は歩きながら、道を覚えようとした。右に果物屋、左に革袋の店、赤い布の日除け、壊れた井戸、香草の匂いが強い角。そこを曲がると、押入れの路地に近い。リュシアは一つずつ教えてくれる。

 

「迷ったら、香草屋の角まで戻る」

 

「はい」

 

「赤い布の屋台は目印になるけど、夕方には布をしまうから頼りすぎない」

 

「はい」

 

「井戸は壊れてるけど、修理屋が来たら直るかもしれない。目印は変わるものよ」

 

「目印、変わるんですね」

 

「市場だから」

 

 澪は少し困った。地図アプリが恋しい。

 

「私の国には、地図が勝手に動いて現在地を教えてくれる道具があります」

 

 リュシアは真顔になった。

 

「それは危ない魔道具ね」

 

「便利です」

 

「便利すぎるものは、奪われるわ」

 

 澪はスマホを異世界に持ち込んでいない自分を、少しだけ褒めた。たぶん正解だった。

 

 リュシアは押入れに近い路地の手前で止まった。

 

「この先は、ミオの道ね」

 

「はい」

 

「一人で歩くのは短く。荷物は見せない。後ろを気にしすぎない。気にしないふりをして、耳で聞く」

 

「難しいです」

 

「慣れるわ。慣れても油断しないで」

 

 澪はうなずいた。

 

「リュシア、ありがとうございます」

 

 リュシアは少し照れたように肩をすくめた。

 

「大事な仕入れ元だから」

 

「そこは友達だから、とかではないんですね」

 

「まだそこまで安くないわ」

 

 澪は少し笑った。友達ではない。でも、ただの取引相手でもなくなってきている。その距離が、今の澪にはちょうどよかった。

 

 江古田の部屋へ戻ると、空気が急に静かになった。

 

 畳、ちゃぶ台、ギター、彫金工具、押入商会の帳簿。六畳間はいつも通り狭い。けれど市場のざわめきの後だと、その狭さが少しありがたかった。

 

 澪はリュックを下ろし、小袋を一つずつ出した。金貨と銀貨を確認する。大きな袋へまとめない。リュシアに言われた通り、小分けのまま管理する。帳簿を開き、今日の売上を書き込んでいった。

 

 仕入れ品、数量、リュシア経由、前払い、受取硬貨、備考。項目を埋めるたびに、商売が少しずつ形を持っていく気がした。楽しい、と思いかけたところで、備考欄の内容が急に重くなる。

 

 販売方法は、リュシア経由の卸売。

 

 露店販売は、中止。

 

 価格基準は、希少性。

 

 安全対策は、一人で細い路地を歩かない。

 

 そして最後に、澪は少し迷ってから書いた。

 

 盾は目立つ。

 

 その文字を見て、澪は少し悲しくなった。押入れの横に立てかけた透明盾を見る。買ったばかりなのに、今日は一度も使わなかった。少しだけ、もったいない気がする。でも、リュシアの言葉を思い出す。使わないで済む道具が一番いい道具。

 

 澪は帳簿の最初のページを開き、新しい項目を書いた。

 

 押入商会の基本方針。

 

 売る場所を選ぶ。客を選ぶ。道を選ぶ。帰り道を先に決める。価格は原価ではなく希少性で決める。目立つ盾は、必要な時だけ。レシートはなくさない。

 

 書き終えて、澪はペンを置いた。

 

 商売は、思ったより地味だった。異世界へ行っても、やることは価格表、納品、支払い管理、安全な帰り道、帳簿、レシート。剣も魔法もない。勇者の称号もない。あるのは百円ショップのレシートと、リュシアの木札と、澪の読みにくい帳簿だけだ。

 

 けれど、澪にはその方が向いているのかもしれない。

 

 透明盾をもう一度見る。勇者の盾ではない。伝説の防具でもない。今日、一度も使われなかったハンズの小型シールドだ。少しだけ、もったいない。でも、使わずに済んだ道具こそ、いちばん仕事をしたのかもしれない。

 

 澪は帳簿を閉じた。

 

 押入商会は、露店をやめた。その代わり、少しだけ商売らしくなった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。