「澪」
「はい」
「盾とスプレーは分かったけどね」
リュシアはそこで言葉を切り、澪を上から下まで見た。
厚手のジャケットに手袋。安全ゴーグルをつけ、首元にはホイッスル。左手には昨日見せた透明な盾がある。
「それ、全部つけて市場を歩くのかい?」
「安全装備ですから」
「安全なのは分かるよ。目立つって言ってるんだよ」
澪は自分の格好を見下ろした。
「……透明なんですけど」
「盾が透明でも、持ってる澪は消えないだろ」
「それはそうですけど」
「その目につけてるのも、ずっと必要なのかい?」
「ゴーグルです。目を守ります」
「何から?」
聞かれて、澪は黙った。
「……何か飛んできた時に」
「必要になったらつけな」
「間に合います?」
「市場を歩いてる間ずっとその顔でいるよりはいいよ」
リュシアは首元も指した。
「笛もしまいな。鳴らす時に出せばいい」
澪はホイッスルをジャケットの内側へ入れ、ゴーグルも外した。
熊撃退スプレーはリュックの中だ。昨日、リュシアに見せたあとから表には出していない。
残った透明盾を抱え直す。
「これは?」
「持ってたいのかい?」
「昨日のことがあるので」
「なら持ってな。ただ、倉庫にいる間まで抱えてなくていいだろ」
「それもそうですね」
澪は透明盾を木箱の脇へ立てかけた。
「高かったんですけどね……」
「危ない目に遭えば使えるよ」
「元を取りたくない買い物ですね」
「なら使わずに帰りな」
リュシアは笑い、澪のリュックへ目を向けた。
「ほら。今度は商売だよ」
「はい」
澪はいつもの布を取り出した。
木箱の上へ広げようとすると、その端をリュシアにつままれた。
「それもいらないよ」
「布ですか?」
「表で店を広げるのは、もうやめな」
澪の手が止まった。
「……露店、やめるんですか?」
「やめる」
「始めたばかりなんですけど」
「知ってるよ」
「早い……」
「商売をやめるわけじゃないだろ」
リュシアは手鏡を1つ取り、木箱へ置いた。
「澪は品を持ってくる。私は売る。それでいくよ」
「私は売らないんですか?」
「売りたいのかい?」
返事に詰まった。
手鏡を覗いた女性たちが騒いだ時は楽しかったし、爪切りを初めて見た商人の顔も覚えている。
ただ、値段を聞かれるたびに困った。
金を渡されても困った。
昨日は、その金を持ったまま後をつけられた。
「……少しは楽しかったです」
「じゃあ、たまには客をこっちへ連れてくるよ」
「いいんですか?」
「私が大丈夫だと思った相手だけね」
リュシアが倉庫の外を見た。
「表に珍しい品を並べてたら、買わない奴まで寄ってくる。澪が金を受け取るところだって見える」
「昨日の人たちも?」
「どこから見てたかは知らないよ。でも、もうわざわざ見せる必要はないね」
「なるほど……」
「ここなら私が相手を選べる。支払いも中で済む。澪は仕入れに専念しな」
「リュシアの仕事、増えません?」
「その分、私も儲けるよ」
「よかった」
「何がだい?」
「全部、親切でやられたら申し訳ないので」
「商人に向かって変な心配するんじゃないよ」
澪は布を畳んだ。
「では、押入商会の露店は閉店です」
「閉店じゃないって言ってるだろ」
「でも、これ片づけますよ」
「布1枚じゃないか」
「店です」
「はいはい。早くしまいな」
リュシアが手を振った。
澪は畳んだ布をリュックへ戻した。
◇ ◇ ◇
リュシアは棚から木札を何枚か持ってきた。
澪には、そこに書かれた文字がまだ読めない。
「鏡が2つ。針が3つ。ムシメガネが1つ。爪切りが3つ」
「虫眼鏡です」
「まだやるのかい?」
「リュシアが直せば終わります」
「ムシメガネ」
「……はい」
商品を出していると、リュシアが澪のメモ帳へ目を落とした。
「ちょっと待ちな」
「はい?」
「この値段、何だい?」
「自分なりに考えてきました」
「安いね」
「でも、ゲンダイでは安く買える物なので」
「それは澪が買う時の値段だろ?」
リュシアは爪切りを1つ取った。
「これは銀貨2枚で買うよ」
「2枚?」
「高いと思った?」
「はい」
ぱちん。
爪切りが鳴る。
「便利だけど、爪なら小刀でも切れる。代わりがあるからこのくらい。私が客へ出すなら銀貨3枚か4枚だね」
澪はメモ帳の数字を書き直した。
次にリュシアが手鏡を取る。
「鏡は銀貨5枚」
「上がりましたね」
「こっちは代わりが少ないからね」
自分の顔を映し、少し角度を変える。
「ここまできれいに映る鏡は、そうそうないよ。売るなら銀貨8枚から。相手によっては小金貨1枚」
澪のペンが止まった。
「小金貨……」
「髪結いなら仕事に使えるし、貴族の侍女ならもっと出すかもしれないね」
「これ、ゲンダイでは――」
「言わなくていい」
「まだ最後まで言ってません」
「顔に書いてあるよ」
小金貨5枚を売った時の入金額が、一瞬だけ頭をよぎった。
手鏡を見る目が変わったらしい。
「ほら。またその顔」
「直すの難しいです」
「商人なんだから練習しな」
裁縫針は袋ごと明るい方へ向けた。
「針は銀貨3枚。仕立て屋がまとめて買うなら少し下げる」
「まとめて買うと安くするんですか?」
「何度も来て、数を買う相手ならね」
リュシアは針を戻し、虫眼鏡を取った。
こちらは手にした途端、扱いが少し慎重になる。
「ムシメガネは小金貨1枚」
「早い」
「何が?」
「迷わなかったので」
「欲しいって言ってる客がいるからね」
リュシアは古い銀貨をレンズ越しに覗いた。
「私が売るなら小金貨1枚と銀貨5枚から。相手によっては小金貨2枚」
「私の心臓には高いです」
「澪の心臓は値札じゃないよ」
「百円ショップの虫眼鏡ですよ?」
「薬草屋なら葉の傷を見る。宝石を扱う奴なら欠けを見る。硬貨の刻印だって見える」
リュシアは銀貨を裏返した。
「同じことができる道具を、私は知らないね」
「でも、私が買う時は安いんですよ」
「それは覚えときな」
「覚えてていいんですか?」
「当たり前だろ。澪がいくらで仕入れたか分からなくなったら、損してても分からないじゃないか」
「ああ……」
「ただ、こっちで売る値段まで同じにするなって言ってるんだよ」
澪はメモ帳へ数字を書いた。
「難しいですね」
「慣れな」
「短い」
「長く言っても同じだよ」
リュシアは糸切りばさみと髪留めも手元へ寄せた。
「こっちは急がなくていい。似た物が市場にあるからね」
メモ帳と鉛筆は一緒に使わせる。
小さなステンレス皿は、まず使い道を聞いてから相手を探すことになった。
全部に高い値がつくわけではないらしい。
その方が澪には少し安心できた。
◇ ◇ ◇
「鏡、2つ」
リュシアが木札を指した。
澪が渡すと、傷がないか確かめてから布へ包む。
「針は3つ。ムシメガネは1つ」
「はいはい」
「返事が雑になったね」
「原因は分かってます」
爪切りを3つ出す。
リュシアはそのうち1つを手に取り、
ぱちん。
と鳴らした。
「これ、旅人が面白がるんだよね」
「爪を切る道具なのに?」
「ちゃんと切れるのもいいけど、この音が気に入った奴がいてね」
もう一度鳴らす。
ぱちん。
「ゲンダイなら誰も気にしませんよ」
「こっちで気に入る奴がいるなら、それでいいじゃないか」
爪切りも木札の横へ置かれた。
「もう注文になってるんですね」
「前に買った奴が、ほかへ見せるからね。欲しがるのが出れば話が来る」
「私、何もしてない」
「持ってきただろ」
「それだけです」
「それが澪の仕事になるんだよ」
リュシアは棚の下から小袋を3つ出した。
「これが今日持ってきた分」
1つ目。
「前に売った分の追加」
2つ目。
「こっちが次の分。ムシメガネ、多めに頼むよ」
3つ目を受け取って、澪が手を止めた。
「これ、前払いですか?」
「そうだよ」
「いいんです?」
「澪がゲンダイで仕入れるのに金が要るんだろ?」
「要りますけど」
「なら使いな」
澪は袋を開けず、そのままリュックへ入れた。
リュシアが見ていた。
「今日は数えないんだね」
「金を持ってる顔をするなって言ったの、リュシアですよ」
「少しは覚えたじゃないか」
「少しなんですか?」
「全部覚えたと思う方が危ないよ」
そう言いながら、リュシアはもう別の木札を取っている。
「次はこれにも見せるよ」
「読めません」
「知ってる」
「最近、それで済ませますね」
「宝石を扱ってる商人だよ。ムシメガネを試したいってさ」
「宝石商?」
「そんなところだね」
「面倒な人ですか?」
「値段には細かいよ」
澪はリュシアを見た。
「リュシアも細かいですよね」
「だから商人やってるんだろ?」
何も気にしていなかった。
◇ ◇ ◇
取引が終わり、澪が透明盾を持ち上げたところで、リュシアが倉庫の外へ顔を出した。
「トト!」
少し離れたところから、少年が走ってきた。
「なに、リュシア姉ちゃん」
「澪を送ってきな」
トトは澪を見上げた。
「澪姉ちゃん?」
「そう。あっちの通りまででいいよ」
リュシアが押入れへ続く路地の方を指す。
「分かった」
返事が早い。
「ちょっと待ちな」
走り出しかけたトトの襟元を、リュシアがつかんだ。
「走らなくていい」
「走ってない」
「今、走ろうとしただろ」
「ちょっとだけ」
「それを走るっていうんだよ」
トトは不満そうな顔をした。
リュシアは手を離し、今度はきちんと顔を見て言った。
「いいかい。変なのがいたら、澪と一緒に大声で叫びな」
「うん」
「それから戻って、私を呼びに来な。自分で何とかしようとするんじゃないよ」
「俺だって――」
「呼びに来な」
「……分かった」
「本当に?」
「分かったって」
トトが頬を膨らませた。
澪はそのやり取りを見ながら、少し申し訳なくなる。
「私1人でも大丈夫ですよ」
「昨日、それで危なかっただろ」
即座に返された。
「はい」
「トトならこの辺の道も顔も知ってる。澪1人よりはいいよ」
「俺、道知ってる」
トトが胸を張った。
「それと、澪姉ちゃんが危なかったら俺が叫ぶ」
「そこは頼もしいです」
「大きい声出せるよ」
「知ってるよ」
リュシアが先に答えた。
「だから頼んでるんだろ。ほら、行ってきな」
「うん」
トトが先に歩き出した。
◇ ◇ ◇
「澪姉ちゃん、こっち」
トトは市場の表に近い道を選んだ。
「昨日、こっちじゃなかった」
「はい。近道したら危なかったので」
「リュシア姉ちゃん怒ってた」
「やっぱり?」
「うん」
「私の前ではそんなに怒ってなかったんですけど」
「怒ってたよ」
子どもには分かるらしい。
赤い日除けの店を曲がり、香草の匂いが強い一角を抜ける。
澪が昨日通った細い路地よりずっと人が多かった。
「トトはいつもこの辺を歩いてるんですか?」
「うん」
「迷わない?」
「迷わないよ」
即答だった。
澪は少し羨ましくなった。
「ゲンダイなら地図アプリがあるんですけどね」
「チズアプリ?」
「今いる場所と、行きたい場所までの道を教えてくれるんです」
「すごい」
トトが足を止めて振り返った。
「それ持ってる?」
「ゲンダイには」
「見たい」
「持ってきてません」
「なんで?」
「なくしたら、私が泣くので」
「じゃあ駄目だ」
判断が早かった。
「トトもそう思います?」
「なくして泣くなら持ってこない方がいいよ」
「正論……」
少し歩くと、使われていない古い井戸が見えてきた。
トトがそこを指した。
「あれ曲がる」
「覚えました」
「井戸なくなったら?」
「……困ります」
「じゃあ、あっちの大きい屋根も覚えといて」
言われた方を見ると、少し離れた建物の屋根が周りより高い。
「なるほど」
「リュシア姉ちゃんが、1個だけ覚えるなって言ってた」
「私にも言ってました」
「澪姉ちゃん、迷うの?」
「ゲンダイではあまり迷いません」
「こっちでは?」
「これから頑張ります」
トトが笑った。
押入れへ続く通りが見えてきた。
澪には見慣れた路地だ。
「あそこまでで大丈夫です」
「ほんと?」
「はい。ここからなら分かります」
トトは少し先を見て、周囲も見た。
リュシアに言われたからだろう。
「変なのいないね」
「いませんね」
「じゃあ俺、戻る」
「送ってくれてありがとう」
「うん」
トトは数歩走り、途中で振り返った。
「澪姉ちゃん!」
「はい?」
「危なかったら大きい声だよ!」
「分かりました」
今度こそ、トトは市場の方へ駆けていった。
「走らなくていいって言われてたのに……」
もう見えなくなっている。
澪は少し笑い、透明盾を抱え直した。
◇ ◇ ◇
石畳から畳へ戻る。
襖を閉めると、市場の音が遠くなった。
澪は透明盾を壁際へ立て、リュックをミニテーブルの横へ下ろした。
中から3つの小袋を出す。
今日の分。
前に売った分。
次の仕入れ分。
混ぜる前に、押入商会の帳簿を開いた。
今日持っていった品と、受け取った硬貨を書いていく。
販売方法のところで少し考え、
『リュシアへ卸し』
と書いた。
その下へ何か書こうとして、やめる。
帳簿にリュシアから言われた注意事項まで書く必要はない。
帳簿を閉じると、畳んだ露店の布がリュックの底から出てきた。
澪はしばらく眺め、それを商品を置いている箱の下へしまった。
捨てるほど邪魔ではない。
もう一度リュックへ手を入れると、前払いでもらった小袋に指が触れた。
「虫眼鏡、多め……」
財布を取り出す。
そこで止まった。
「……多めって何個?」
5個なのか、10個なのか。
聞いていない。
財布を持ったまま、閉じた押入れを見る。
「トト、まだ戻ってないかな……」
さすがに聞きに戻るほどではなかった。