市場の石畳は、朝からすでに焼けていた。
まだ昼前だというのに、通りを歩く人々の足取りは重い。屋台の布屋根は日差しを遮っているはずなのに、下へ入ると熱がこもっていて、鍋の湯気と炭の匂いと人の汗が混じり、空気そのものが煮詰まった汁のようになっていた。
リュシアの屋台の横では、子どもたちが木箱に腰掛け、ペットボトルを両手で持っていた。中には、いつもの補水飲料が入っている。ひとりが飲み、フタを閉め、隣の子がうちわで自分の顔を扇ぐ。もう、その動きは珍しいものではなく、暑い日の決まりごとのようになっていた。
澪はそれを見て、少しだけ胸を撫で下ろした。
倒れる子はいない。少なくとも、水を飲むことは覚えている。
けれど、暑い。
とにかく暑い。
補水飲料の木箱は、屋台の調理場に近すぎた。子どもたちの休憩場所も、客が並ぶ場所も、鍋の熱気を受ける場所とほとんど変わらない。日陰はあるが、風の通り道に荷物が積まれている。水場へ行く動線には、空の籠と布袋が置かれていて、通るたびに誰かが足を止めていた。
澪は屋台の周りを1周してから、額の汗を手の甲で拭った。
「倒れる人は出ていないけど、屋台の周りが全部暑いですね」
リュシアは焼き台の横で手拭いを首に掛け、笑うでもなく肩をすくめた。
「暑い日は、屋台も客も煮えるよ」
「煮えない屋台にしましょう」
「料理じゃなくて屋台を?」
「はい。今日は屋台の方です」
リュシアは少し目を細めた。
その顔は、面倒な話が始まると分かっている顔だった。ただし、面倒でも儲かるかもしれない話なら聞く顔でもあった。
「じゃあ、日陰に入ろう。澪が暑さで倒れたら、屋台どころじゃない」
「それは困ります」
「こっちも困るよ。便利な押し入れが倒れる」
「人間として心配してください」
「半分はしてる」
「半分」
澪はその返事に抗議しようとして、暑さで諦めた。
屋台裏の日陰に、薄い木板が立てかけられた。
リュシアの手伝い衆が持ってきたものだ。澪はそこへ炭の欠片で、屋台の位置、通り、井戸へ向かう道、客が並ぶ場所を描いていく。線はまっすぐではないが、場所の関係は分かる。家具工房で黒板を使った時と同じように、澪は考えを目に見える形へ落としていった。
リュシアがその横から覗き込む。
「家具工房みたいになってきたね」
「黒板は便利です」
「澪は何でも黒板に書くね」
「書かないと、誰がどこで何をするか分からなくなるんです」
澪は板に、調理場、客の並ぶ場所、補水飲料置き場、日陰休憩場所、うちわ置き場、ミスト場所、水場への動線、冷やすものの管理場所、切り分け台、皮と種の回収箱、と順番に書いていった。
文字を読める者ばかりではないので、横に簡単な絵も描く。甕は丸。切り分け台は四角。うちわは扇形。スイカは縞模様をつけた丸。
トトなら分かるだろうか。
そう思ったところで、後ろから元気な声がした。
「今日は冷たい赤い果物、ある?」
振り返ると、トトがうちわを片手に立っていた。リュシアの屋台まわりの子どもたちに混ざって、すっかり休憩場所の一部になっている。前より少し日に焼けた顔で、汗をかきながらも目だけは元気だった。
「スイカですね。あります」
「やった」
トトが両手を上げる。
そのさらに後ろで、人の流れが少し割れた。
エレナ・ヴァルディスが、護衛を伴って市場の通りから入ってきた。薄い夏向きの外出着を着ているが、見るからに暑そうだった。けれど本人は暑さに負けているというより、暑いからこそ面白いものを見に来た顔をしている。
護衛はその半歩後ろに立ち、人混みと屋台と焼き台を同時に見ていた。視線が忙しい。火、鍋、包丁、子ども、客、屋台の狭さ。全部を警戒している。
「ここで、夏の屋台を作り替えるのか?」
エレナが木板を見て、目を輝かせた。
リュシアが軽く頭を下げる。
「姫様が来るには暑い場所ですよ」
「暑いから見に来ただけだ」
澪は思わず言った。
「理由が強い」
護衛が一歩近づいた。
「姫様、火の近くには寄りすぎませんよう」
「分かっている」
エレナは返事をしたが、視線はもう焼き台の向こうの大きな甕へ向いている。
リュシアがぼそりと言った。
「分かってる顔じゃないね」
護衛は聞こえたはずだが、否定しなかった。
澪は木板の横に立ち、さっそく本題に入った。
「冷えたスイカを配るなら、置き場が問題なんです。あたしの国なら冷蔵庫なんですけど……こっちで、冷やしたまま置く方法ってありますか」
リュシアは少し考えるまでもなく答えた。
「冷蔵庫ってのは分からないけど、冷やすだけならあるよ」
「あります?」
「井戸水だね。大きな甕に井戸水を張って、丸のまま沈める。上から濡れ布をかけて、日陰に置く。切るのは売る直前」
澪は、木板に大きく「大甕」と書き足した。
「水冷……」
「大店なら地下蔵もある。貴族家なら氷室を持ってるところもあるよ。ただ、市場の屋台で氷を使うのは高い」
「氷はあるんですね」
「あるにはある。でも屋台で使うもんじゃないね。高いし、溶けるし、運ぶのも面倒だ」
エレナが、そこで少し顎に指を当てた。
「侯爵家なら氷は出せる。だが、屋台で毎日使うものではないな。客を招く部屋か、病人のためならともかく、市場で毎日となると無駄が多い」
リュシアが感心したように笑う。
「さすが姫様、分かってる」
エレナは少し得意そうな顔をした。
護衛はその後ろで、当然です、と言いたげな顔をしていたが、エレナが得意げに屋台の奥へ一歩出た瞬間、すぐ同じだけ近づいた。
「じゃあ、屋台では井戸水と大甕と濡れ布」
澪が確認すると、リュシアは頷いた。
「切る直前まで丸のまま。切ったら長く置かない。昼前に売り切る」
「残った切り身は?」
「出さない。悪くなったら、客も店も損をする」
「正しい」
澪は大きく頷いた。
クーラーボックスを持ち込めば、冷たさは保てる。保冷剤もある。けれど、それは澪が来る日にしか成立しない。澪がいない日に真似して、ぬるくなった切り身を出したら危ない。
屋台は、澪の収納で回してはいけない。
リュシアの屋台は、リュシアの手で回らなければならない。
澪は、収納からクーラーボックスを出した。
白と青の箱が日陰に置かれると、トトがすぐに近づいた。エレナも、明らかに興味を持っている。護衛が、ほんの少し肩に力を入れた。
「これは、あたしの国のクーラーボックスです。冷たいものを入れておく箱です」
リュシアは箱を叩いて、蓋の厚みを見た。
「冷やし箱だね」
「名前が早い」
トトが蓋に手をかける。
「開けていい?」
「開けっぱなし禁止です」
エレナも少し身を乗り出した。
「少しだけならよいだろう」
「姫様もです」
「姫様」
護衛が短く呼ぶ。
「見ない。少ししか」
「見てます」
澪が言うと、エレナは少し不満そうに口を結んだ。
リュシアはそのやり取りを横目で見ながら、蓋を閉じたまま言った。
「ただ、澪が来る日にしか冷えないなら、屋台の仕組みにはならないよ」
「ですよね……」
「井戸水、大甕、濡れ布、日陰。こっちで毎日できる形にする。冷やし箱は澪がいる日の助けだね」
「正しい商人……」
「商人は、毎日開けるから商人なんだよ。たまに奇跡が来る店は、商売じゃなくて見世物だ」
澪はその言葉を、木板の端に小さく書きそうになって、やめた。
今日の板は、屋台改善用である。
格言帳ではない。
大甕は、手伝い衆が2人がかりで運んできた。
井戸水を張ると、甕の内側が濡れて黒く光る。リュシアが丸のままのスイカをそこへ沈めると、水面が大きく揺れた。上から濡れ布をかけ、日陰に置く。布の端から水がぽたりと落ちた。
澪は木板へ、次々に書き込む。
大甕置き場。
井戸水交換担当。
濡れ布担当。
日陰位置。
切り分け台。
手洗い用水。
皮と種の回収箱。
子どもの休憩場所。
昼前売り切り。
残った切り身は出さない。
「切ったスイカを置きっぱなしにしない」
「丸のまま冷やして、切ったらすぐ出す」
リュシアが同じ意味を、屋台の言葉に直して確認する。
「皮と種の回収箱も要ります」
澪が言うと、トトが手を上げた。
「種、植えたら生える?」
「試験栽培なら、別に分けましょう。食べる場所には撒かないでください」
エレナも目を輝かせた。
「庭に植えたらどうなる」
護衛が即座に言った。
「庭師が驚きます」
リュシアが笑う。
「姫様、食べる場所で畑を始めるんじゃないですよ」
「分かっている。食べる場所ではしない」
エレナの言い方は、食べる場所以外ならやる、という響きだった。
澪は、試験栽培用の種を別袋に分ける、と板の隅に書いた。
たぶん、これは後で誰かが本当にやる。
次は、屋台の外側だった。
手伝い衆が日よけ布を張り直す。布の端を柱に結び、客が並ぶ場所へ影が落ちるように角度を変える。荷物の山をひとつどかすと、通りから風が抜ける道ができた。打ち水用の桶を置き、朝と昼前に水を撒く場所を決める。
澪は収納から少量の清潔な水を出し、細かな霧にして日陰へ散らした。
トトがすぐに手を伸ばす。
「もう一回!」
「水を使うので、やりすぎません」
エレナも手の甲に霧を受けて、目を丸くした。
「これ、客間の庭でも使えるのではないか」
護衛がすぐ横へ来る。
「姫様、まず屋台の方を」
リュシアが商人の顔になる。
「姫様、それは高い方の使い道ですね」
「やっぱり売る方に考えましたね」
澪が言うと、リュシアは悪びれない。
「暑いんだから、涼しいものは売れるよ。ただ、屋台ではミストだけでは駄目だね」
「ミストだけでは涼しくなりません。日陰と風と一緒に使います」
「水をまいて、布で日を切って、風を通す。そこに細かい水だね」
「そうです」
リュシアは木板の端を指で叩いた。
「収納持ち候補には、水運びとミストの練習をさせるよ」
「人材育成になってる……」
「暑さ対策は、人を動かさないと続かないからね」
リュシアは簡単に言ったが、そこが大事だった。
うちわも、補水飲料も、ミストも、勝手には動かない。誰かが置き、配り、声をかけ、片付ける。屋台を夏に強くするというのは、物を置くことではなく、人の動きを変えることだった。
澪は次に、体の中から冷やすものの話をした。
冷たい飲み物は大事だ。補水飲料は続ける。けれど、暑い日の昼に、それだけでは足りない人もいる。反対に、冷たい水ばかり飲むと腹を冷やしすぎる人もいる。
「冷たい飲み物だけだと、お腹を冷やしすぎるかもしれません。少し塩の入った、冷えた薄いスープなら、汗をかいた人にも出しやすいです」
リュシアはすぐに言った。
「飲み物と飯の間だね」
トトが首を傾げる。
「飲むご飯?」
「だいたい近いです」
エレナは少し意外そうだった。
「冷たいスープを屋台で出すのか?」
「暑い日用です。野菜とか豆とか、少し薬草を入れてもいいかもしれません。薬にしすぎないで、軽い食事です」
「薬にしすぎない、というのは?」
「薬っぽい味になると、子どもが逃げます」
トトが真顔で頷いた。
「苦いのは逃げる」
「証言が出ました」
リュシアは腕を組んだ。
「暑い日に売れるよ。熱い汁はきついけど、冷えた汁なら入る」
「ただし、作り置きしすぎない。昼前に売り切る」
「屋台は残すと損、悪くなるともっと損だ」
澪は小さく頷いた。
冷製スープは、補水飲料とは別だ。水分補給のための飲み物ではなく、暑い日の休憩食。少量。塩分。野菜。豆。薬草はほんの少し。壺ごと井戸水や石蔵で冷やす。
ここまでは、リュシア側だけでも回せる。
問題は、そこへ何を合わせるかだった。
澪は収納から、白い細い束を取り出した。
そうめんの束を見たリュシアが、まず眉を上げた。
「細いね」
トトが覗き込む。
「糸?」
「これは、あたしの国の細い麺です。暑い日に、冷やして食べます」
「麺を冷やすのかい」
リュシアが聞く。
エレナも不思議そうに言った。
「麺は温かいものではないのか?」
「冷やします。で、冷えたスープとか、つゆにつけます」
トトがすぐに聞いた。
「汁に入れるんじゃなくて?」
「つけます」
リュシアも同じところで止まった。
「汁に入れるんじゃなくて、つける?」
「つけます」
護衛まで、ぽつりと復唱した。
「……麺を、汁につける」
「護衛さんまで復唱しないでください」
護衛は少しだけ視線を逸らした。
トトがさらに聞く。
「なんで?」
リュシアがトトの頭を軽く押さえた。
「食べてから聞きな」
子どもたちが集まり、そうめんの束をじっと見る。細い。白い。乾いている。屋台で見慣れた麺とは、明らかに違う。
「麺を水で冷やすの?」
「はい。茹でて、水で締めます」
リュシアが言った。
「締めるって、麺を縛るわけじゃないんだね」
「違います」
「澪の国の料理言葉は、たまに物騒だね」
「そうですか?」
澪は首を傾げながら、鍋の準備に入った。
屋台裏の調理場で湯が沸くと、熱気が一気に上がった。
それだけで、調理場と休憩場所を分ける必要があることが全員に伝わった。日よけ布の下にいるとまだましだが、鍋の横は暑い。澪はそうめんを湯へ入れ、細い麺が白く揺れるのを箸でほぐした。
トトと子どもたちは、少し離れた場所から覗き込んでいる。
エレナも興味を隠せず近づこうとし、護衛がさりげなく横へ移動して距離を測った。火と鍋と姫様の距離を、目でずっと測っている。
「茹でたら水で冷やします。ぬるいままだとおいしくないです」
澪は茹で上がった麺をざるへ上げ、用意した水へさらした。白い麺が水の中で揺れ、熱が抜ける。手で軽く洗うようにして締めると、麺の表面がきゅっとした。
「冷たい麺、変」
トトが言う。
「だが、きれいだ」
エレナが小さく言った。
リュシアは麺の細さをじっと見ている。
「この細い麺を、麦で作るなら職人がいるね」
「最初は短く切った細麺でもいいと思います」
「麺職人に聞くよ」
その返事が早い。
澪は、また新しい仕事が増えた気がしたが、今回は黙っておいた。
そうめんは見本だ。
継続供給はしない。
ここでリュシアが現地の細い麦麺へ置き換えると言った時点で、話は正しい方向へ進んでいる。
冷えた薄味スープは、小さな壺で用意した。
井戸水で冷やした壺から、小鉢へ少しずつ注ぐ。野菜の甘みと塩気がある。豆のとろみがわずかに残り、薬草は香り程度で、苦くならないように抑えた。
澪はそうめんを少量ずつ取り、冷えたスープの小鉢へつけて食べてみせた。
「こうです。全部入れっぱなしにしないで、食べる分だけつけます」
トトが真似をした。
そして、麺を落とした。
「あ」
「ゆっくりでいいです」
エレナは上品に食べようとして、逆に麺の端を持て余していた。護衛が無表情で、なぜか一度でうまく食べる。エレナがそれを見て、少し悔しそうな顔をした。
「慣れているのか?」
「初めてでございます」
「初めてでそれなのか?」
護衛は何も言わず、小鉢を置いた。
トトは2回目で成功した。冷たい麺とスープを口に入れ、目を丸くする。
「もう一回」
「ゆっくり食べてください。お腹が冷えます」
リュシアは小鉢を持ったまま、少し黙った。
商人の顔になっている。
「これは、飲み物と飯の間だね」
「夏の軽食です」
エレナも、ようやく麺を口に運んだ。冷えたスープを含んだ細い麺が、暑さで重くなっていた喉をすっと通る。驚いたように目が開いた。
「屋台で食べるものなのに、涼しいのだな」
護衛が小さく身を乗り出す。
「姫様、汁が袖に」
「分かっている」
リュシアが笑った。
「姫様、それが売り文句になりますよ」
「姫様を売り文句にしないでください」
澪がすぐに言うと、リュシアは悪びれない。
「少量で出す。昼だけ。暑い日に売る。これはいけるよ」
「そうめんは見本です。次からは現地の細い麦麺で」
「分かってる。澪が来ないと出せない飯にはしない」
澪はその言葉を聞いて、安心した。
今日の目的は、珍しい食べ物を見せることではない。
リュシアの屋台が、暑い日に自分で回せるメニューを持つことだった。
食べ終わったあと、木板の前に全員が戻った。
リュシアは腕を組み、澪は炭を持つ。トトは皮と種の回収箱の横に立ち、エレナは日よけ布の下から屋台全体を見ている。護衛は、そのエレナと火元の間に自然に立っていた。
澪は板へまとめていく。
補水飲料は継続。休憩時に必ず飲む。
打ち水は朝と昼前。
日よけ布は客の列と休憩場所へ。
風通しのため、荷物をどかす。
うちわは休憩場所へ。
ミストは収納持ち候補が練習。多用禁止。
スイカは丸のまま大甕。切る直前。昼前売り切り。
皮と種は回収箱。
冷製スープは少量。壺ごと冷やす。
冷製麺は現地細麦麺で試作。
熱い調理場と涼む場所を分ける。
最後に、澪は少し大きく書いた。
澪が来ない日でも回す。
「一番大事なのは、あたしが来ない日でも回ることです」
リュシアは頷いた。
「そこは分かってる。澪が来る日は助かる。でも商売は、澪の顔色を見て開けるもんじゃない」
「言い方」
「正しいだろう?」
「正しいです」
トトが回収箱を少し持ち上げた。
「皮と種の箱、こっちがいい」
「理由は?」
「食べるところの横だと、みんな入れる」
リュシアがすぐに頷く。
「いいね。現場の意見だ」
エレナは日よけ布の端を見上げた。
「日陰の席、もう少し布を広げた方が見た目も涼しい」
リュシアが目を向ける。
「貴族の目から見ても、そこは大事ですか」
「暑そうな席には座りたくないものだ」
護衛が短く付け加えた。
「火元と客席の間は、もう少し空けた方がよろしいかと」
澪はその言葉をすぐに板へ書いた。
「安全動線ですね。書きます」
リュシアが護衛を見る。
「護衛さんも、いい目をしてるじゃないか」
「姫様が近づきそうな危険を見るのが仕事です」
エレナは少しだけ不満そうにしたが、否定はしなかった。
昼過ぎ、リュシアは試験営業を始めた。
客の並ぶ場所は、日よけ布の影にずらした。補水飲料の木箱は、調理場から離れた休憩場所へ移した。大甕には丸ごとのスイカが沈み、濡れ布がかけられている。切り分け台の横には手洗い用の水と、皮と種の回収箱が置かれた。
トトは回収箱の係になっていた。
「皮と種はこっち!」
小さな声なのに、妙に通る。
子どもたちはスイカを食べ終えると、皮と種を箱へ入れる。ひとりが種を手の中に隠そうとしたが、トトが目ざとく見つけた。
「畑にする種は、別!」
「えー」
「別!」
リュシアは冷製スープを小鉢で出した。客が最初は不思議そうに見たが、暑さに負けて一口飲むと、表情が変わった。
「熱い汁より、こっちがいい」
別の客は、細麺を冷たい汁につけながら首を傾げた。
「麺をつけるのは変だが、食いやすい」
リュシアは笑って言った。
「変でも売れればいいんだよ」
澪は横でメモを取る。
「食べ方の説明札、作りましょう」
エレナは日陰の端に座り、小鉢を両手で持っていた。護衛が近くに立ち、人の流れを見ている。
「屋台で食べるのは、思ったより楽しいのだな」
エレナが言うと、護衛がすぐに低い声で注意した。
「姫様、お声が少し」
リュシアも笑いながら釘を刺す。
「姫様、楽しい顔をしすぎると目立ちますよ」
「もう遅い気がする」
エレナはそう言いながら、もう一口、冷たい麺をつけた。
澪はその様子を見て、少しだけ笑った。
夏仕様の屋台は、まだ完璧ではない。
細麺は改良が必要だ。スープの濃さも、もう少し調整した方がいい。日よけ布の位置も、客が増えたら足りなくなるかもしれない。ミストは使いすぎないようにする必要がある。水場への動線も、昼の混雑ではもう一度見直すことになる。
でも、動いている。
ただの案ではなく、屋台が変わっている。
夕方になると、市場の熱も少しずつ引き始めた。
手伝い衆が大甕の井戸水を替え、濡れ布を広げて干す。スイカの皮と種は分けられ、種の一部は試験栽培用の小袋へ入れられた。冷製スープの壺は空になっている。澪が持ち込んだそうめんの見本も、きれいになくなった。
木板には、明日の改善点が増えていた。
日よけ布、もう1枚。
回収箱の位置、少し前。
冷製スープ、塩を少し調整。
麺、短めも試す。
火元と客席、さらに離す。
澪は木板の最後に、もう一度大きく書いた。
澪がいない日でも回す。
その横に、リュシアが炭を取って、少し小さく書き足した。
売れるなら、もっと回す。
「商人の追記が強い」
澪が言うと、リュシアは平然としていた。
「売れる仕組みは、回さないともったいないだろう」
トトは皮と種の回収箱を抱え、誇らしそうに胸を張っている。
「明日もこれやる」
「明日も暑ければね」
「暑いよ」
トトは断言した。
エレナは日よけ布の下で、名残惜しそうに空になった小鉢を見ていた。護衛はその背後で、次に来る時の安全な立ち位置をすでに探しているようだった。
「次は、最初から客として来る」
エレナが言う。
リュシアはすかさず返した。
「姫様、身分を隠す練習からですね」
護衛が小さくため息をついた。
日陰では、子どもたちがうちわを動かしながら、最後の冷たい麦麺を分け合っている。大甕の中では、明日の分のスイカが丸のまま井戸水に沈んでいた。
暑い市場の屋台は、少しだけ、夏に強くなっていた。